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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved






NEON GENESIS EVANGELION 
after story





THE BEAUTIFUL WORLD








「〜〜〜〜〜!!」

レイは声にならない叫び声を上げた。
決して悲しみや痛みによるものではない。喜びの、だ。それも今生の、とも言えるほどの。
自分の目が信じられず、もう一度手紙を読み直す。
間違いない。何度見ても同じだ。

「よし!」

レイは小さくガッツポーズを作った。
シンジといささか時代遅れとも言える文通を始めて約二ヶ月。
たまにしか降らなかった雪も、もうさして珍しくもなくなっている。

レイは前回送った手紙で、思い切ってシンジをデートに誘ってみた。
恋心を抱きながらも決して恋人になれなかった二ヶ月。
レイにとって、この友達以上恋人未満の時間は決して悪いものではなかったが ―――手紙でしか話した事がない関係を友達というかは疑問が残るが――― それでもそれ以上の関係になりたいと思うのは当たり前か。
ともかくも、レイはより親密な関係を夢見てシンジに手紙を書いた。
だが今までは二日で、遅くとも五日あれば返事が来ていたのに、今回は十日かかった。
やっぱりダメなのだろうか……
不安ばかりがレイの心を満たしていたが、ついさっき届いたシンジからの手紙にはOKの文字が。
遅れた理由は不明だが、大方出したつもりで忘れていたのだろう。
シンジならそういうことは多そうだ。
学年も違うので、直接会う機会はそう無いが、この二ヶ月のやり取りでシンジの性格をそのくらいは知る事が出来た、とレイは自負している。

「どうしたの?そんなにはしゃいで。」

レイの声が大きかったからか、キッチンで夕飯の準備をしていたユイが部屋へ入ってきた。
最近では珍しい事だが、今日は仕事が早々に終わり、久々に料理の腕をふるっていた。

「い、いや、何でも無い。」

平静を装うレイだが、ユイは娘の様子から事態を正確に読み取った。

「ははあ。ようやく恋が実ったのね。…いえ、もう一歩ってところかしら?」

ユイの言葉に赤くなるレイ。いかにも分かりやすい。

「いつデートするの?」
「…明日。」
「なら今晩は豪勢にいきましょうか。」

言いながらユイはキッチンへ戻る。
ユイがいなくなった事でレイはホッと一息つく。
まだまだ若し、それ以上に見かけも若くて自慢の母ではあるが、こういう事に口を出されるのは恥ずかしい。
それでも応援してくれるのは嬉しいが。

「さて、と……」

明日は何を着ていこうか。
この間買ってもらった服はまだ着てなかったっけ?
活動的な服の方がシンジは好みだろうか?それとも大人し目にスカートの方がいいだろうか?
ううん、芦ノ湖の遊覧船に乗るだけだし、やっぱりスカートだろうか。
明日の事にレイは思いを巡らす。
夕日に照らされながら、二人は山々を眺める。
山端に沈み行く太陽の淡い光を浴びながらやがて二人は……

「うふふふふ……」

怪しい笑い声を上げながらレイはベタな妄想を膨らませた。 もはや、自分が完全に危ない人化してるのすら気づいていない。
更に展開を見せる妄想。もう止まらない。
シーンはいつの間にかホテルの一室へと変わり、二人の姿が重なり合う。
だが、お子様お断りな展開に差し掛かったところで別の景色が浮かび上がった。



暗闇の中で微かに差し込む月明かり。
肌を撫でるヒヤリとした感覚と蒸し返す熱気。何という矛盾。
何かの建物の中だろうか、その中で誰かが泣いている。
いや、笑った。目に涙を浮かべながら。
これは……綾波センパイ……?

唐突に変わる場面。
レイを空を飛んでいた。
飛んでいたのとは違うのかもしれない。だがそうなのかもしれない。
自分の境界が曖昧で、どこまでも広がる感覚。
次いで何かを両の掌で包み込む。

瞬間、何かが聞こえた。



「はっ!!」

我に返るレイ。
何かを思い出していたような気がするが、すでに記憶は霧散していた。
もはや何を頭の中で見てたのか、何も残らない。
ぞっとするような冷たさを感じていた。それすらも無い。全てが消えていた。
うたかたの夢のように。

(何だったんだろ……?)

狐に化かされたような気分だが、思い出せないものは仕方ない。
大した事ではなかったのだろう、ととりあえずの折り合いをつける。
そしてレイは、再び頭を明日のデートに切り替えた。

その後、一時間ほど服選びに悩んだレイは、夕食を終え、風呂に入り終えると早々に床に就いた。
シンジとの楽しいデートが夢に出るよう祈りながら。





芦ノ湖の乗船場の周りはそれなりに賑わっていた。
休日でもあるし、観光スポットやデートの定番でもあるのだが、流石に冬である所為か、特別人が多いわけでもない。
加えて空は曇天。
山から吹き降ろしてくる風は、船に乗って浴びるには厚着をするにしても少々寒すぎた。
汽笛が響く。
出航の時間になり、人だかりはあっという間に消えて人の姿は見えなくなった。
そんな中、一人だけがベンチに腰掛けていた。
吐く息は白く染まり、時折暖めようと手に息を吹きかけている。
シンジは待っていた。ただ、時が来るのを。

汽笛が再び鳴り響き、遊覧船が徐々に小さくなる。
それをシンジはベンチに座ったままぼんやりと眺めていた。
辺りに人影は全く無く、冷たい風がシンジの頬を撫でた。
静まり返った湖畔。
誰もいないはずだが、静寂を切り裂いて小さな足音が耳に届く。
微かな音は次第に大きくなり、やがてシンジの背後で止まった。

「来ないわよ、ファーストは。」

温度の無い、抑揚に欠けた声が聞こえた。
シンジは応えない。黙って湖を眺め続ける。

「何があったかは分かってるんでしょ?」
「分かってるよ。」

アスカの問いに間髪入れずシンジは答えた。
ベンチから立ち上がり、湖の元まで歩いていく。
湖面を覗き込めば、昔より成長した自分の顔が浮かび上がる。
何の変哲も無い、ただの水。
だがシンジの目には赤く染まって見えた。

「なら早く行きなさいよ。」
「どうして?」
「どうしてって……」

振り返らずシンジは答えた。
視線は湖を見つめたまま離さない。
シンジの言葉は疑問の形を取っているが、そこには硬質な響きがあった。
アスカもシンジらしくない口調に言葉が続かない。

「僕はね、アスカ。」

振り返り、シンジは言葉を紡ぐ。

「今日の綾波とのデートが終わったら、もう会わないつもりだったんだ。」
「……」
「ずっと綾波を見てきた。綾波がどんな風に生きていくか気になったし、多分、僕も好きだったんだと思う。
今となってはよく分からないけど。
だから付き合ってみようと思った。
ううん、付き合うって表現はちょっと違うかな?とりあえず、これまでより近くで綾波を見たかったのかもしれない。
僕の気持ちはどうなのか、それを確かめるためにも。
けど、やっぱりそうじゃなかったみたいだ。」

言いながらシンジはアスカの方へ歩いていく。
アスカは真っ直ぐにシンジを見つめ、二人の視線が交差する。
アスカの目の前にシンジの姿が広がり、そして、その横を通り過ぎた。

「僕を好きでいてくれるのは嬉しいけどね。
でも僕がこんな気持ちじゃきっと失礼だと思うから。」
「アンタ、変わったわね。」
「これだけ長く生きていればね。変わりもするよ。」

肩をすくめておどけた仕草をシンジはした。
昔はそんな格好をする事すら思いつかなかっただろう。
確かにシンジは変わった。

「でもそうやってすぐ逃げ出そうとするところは変わってないわ。」
「逃げるって何から?」
「現実からよ。どうしようもない、この現実から。」
「そうだね……
でもこうなる事は分かってたんだ。そしてこれからどうなるかも。
辛い事から逃げ出して何が悪いの?
避けられる事を避けて何が悪いの?
僕が綾波にかけてしまった魔法はもう終わる。
魔法は十二時を回って解けるんだ。
思いがけずかけてしまった魔法だけど、僕にとってはそれだけなんだよ、きっと。魔女も解けた後のケアはしなかった。」
「カッコつけてんじゃないわよ!!」

アスカは自分より頭一つ大きく成長したシンジの胸ぐらを掴み、息が掛かるほどに引き寄せた。
唇が触れそうなほどに近く、そして遠くに。
全てを射抜くほどに鋭い視線をシンジに向けると、シンジは目を逸らした。

「行きなさい、今すぐ…レイのところに。
行って、逃げずに自分がやった事の結果を見てきなさい。」





雨が、降り始めた。
雪では無く、雨。雨と言うよりはみぞれ、と言った方が良いかもしれない。
ぽつぽつ、と降り始めたそれは次第に強さを増し、いつしか土砂降りに変わっていった。
真冬の冷たい雨に打たれながら、暗い夜道をシンジは歩いた。
重い足を引きずり、濡れた服が更にその重みを増す。
やや長く伸びた前髪はシンジの表情を消し、その先端から止め処なく雫を垂らし続けた。

不意に足が止まる。
濡れた顔を上げ、シンジは前髪に隠された瞳から力なく建物を見上げた。
第三新東京市立病院。
地上十階はあろうかという大きな病院。
再び足を引きずる様にして歩き始め、病院のドアをくぐる。
診察時間は終わり、面会時間もまもなく終わろうという時間故か、それとも天候故か、待合室に人の姿はまばら。
そこにぴしゃ、ぴしゃ、とシンジの濡れた足音が響く。
部屋番号はアスカから聞かされた。だから受付を通さず、シンジは階段を上った。
一つ、また一つ、とゆっくり上っていく。
踊り場を四つほど上ったところで、階段から離れて廊下へと体を向ける。

「あら?」

声を聞いた瞬間、シンジの体が固まった。
幼い頃に聞いた、そしてそれから二十年は聞いていない、ずっと心のどこかで渇望していた、声。
かすかに残る記憶の中と変わらない優しい響きに涙が出そうになる。
でもシンジは泣かなかった。泣いてはいけないと思った。自分から本来、自分が居るはずの立場を放棄したのだから。

「どちら様……ああ!貴方ね?レイの彼氏さんは。」

一人で納得するとユイは、ちょっと待ってて、とシンジに伝えると病室内へと入っていった。
そしてすぐに一枚のタオルを持ってシンジの元へ小走りに駆け寄った。

「ありがとう、あの子のお見舞いに来てくれたのね。」

彼氏、と信じて疑わないユイはシンジの頭にタオルを掛けて濡れた頭を拭いてやる。
幼い頃から求めていた存在が目の前にある。
ぬくもりが、そこにはある。
手を伸ばせば確実に感じれる暖かさ。
そして、最も会いたくなかった存在。
レイと違って、もう会わないと決めていた。
会ってしまえば、もう忘れられなくなる。そして会ってしまった。
抱きしめたかった。母さん、と呼びたかった。
だがそうしてしまえば、もう自分は生きていけなくなる。 死ぬ事も出来ずにこれから悠久の時を生きるのに、再び失ってしまうのは耐えられない。
故にレイに全てを譲った。いや、押しつけた。
自分には必要のないモノ。
だからシンジは、母、と呼ばずに、代わりの言葉を口にする。

「あの…レイさんは……」
「どうしたんだ、ユイ?」

シンジの言葉を遮る様に、ゲンドウが病室から顔を出す。
シンジの記憶にあったあご髭はそこにはない。
鋭く、冷たかった視線も消え、訝しげな視線こそシンジに向けられているが、その奥には優しい色が見て取れた。
無意識の内にシンジの掌が握っては開かれる。

「誰だ、貴様。」
「ゲンドウさん!」
「誰かは知らんが、レイは今眠っている。だから帰れ!」

かつて、同じ口から聞いた言葉が再び紡がれる。
だが以前とは違い、それを聞いたシンジはどこかで喜びを感じていた。

「…分かりました。」
「あ…えっと……」
「綾波です。…碇さん。
また……来ます……」

深々と頭を下げると、シンジはユイとゲンドウに背を向けた。
背中越しにユイがゲンドウに向かって文句を言っているのを聞きながら、シンジは廊下を曲がる。
シンジは振り向かなかった。





家に帰り、シンジは熱いシャワーを浴びた。
冷えた体が温まり、気分もいくらか落ち着いてきた。
だが、どれだけ体を濡らしても、どれだけ体を温めても頭は冴えない。

浴室から出て、自分の部屋に向かう。
途中、奥の部屋に目を向ける。
暗いリビングに部屋から光が漏れていた。

部屋に入ると、シンジは木製の机に向かった。
肘を突き、頭を抱える。
自分は何をすべきなのか。



僕はただ欲しかっただけだった。
ただ願っただけだった。
あの紅い海の中で、綾波の膝の上で、当たり前の日常を。
エヴァも使徒も無い、父さんと母さんに囲まれた、どこにでもありふれた生活。
アスカが隣に住んでて、学校に行けばトウジとケンスケがいて笑いあって。
もしかしたら綾波が転校してきたり、ミサトさんが先生だったりするかもしれない。
でも、それは叶わなかった。叶うわけないと思っていたし、期待なんてしてなかった。
なのに、ある日、それが突然叶ってしまった。
特別意識なんてしてなくて、アスカと別々に生きてて、十年ぶりくらいに紅い海のほとりを眺めながら、 ふと昔そんな事を考えてたな、なんて思って。
そうしたら急に世界が色を取り戻し始めた。
ビルが生えて、家が生まれ、人が歩き、車が走る。
街に人が溢れ、空に太陽が輝いて、騒がしいほどの雑踏が僕の耳に響き始めた。

嬉しかった。そんな気持ちを持ったのは久しぶりだった。
絶望も希望も無いあの世界でずっと過ごしてたからか、感情なんていつの間にか忘れてたのかもしれない。
嬉しかった。
でも、僕は気付いていた。
この世界が偽りのものであると、いつしか消えてしまう、儚い夢なのだと。
だから壊したかった。消えてしまうと分かっている夢なんて見たくもないから。
もし、この世界を作り出したのが僕のくだらない願いだとしたら、それもきっと可能だと思った。
それと同時に、もう少し、もう少しだけこの世界を見ていたかった。目に焼き付けたかった。

どちらとも結論が出せないまま、僕はいつの間にか公園に来ていた。
晴れ渡った、熱い太陽。それがうざったい。
日陰のベンチを探して、僕は腰を下ろした。
少しは涼しい風が通り抜ける。
子供の声が聞こえ、僕の目の前をはしゃぎながら駆け抜けた。
顔を上げ、それを見送ったところで、僕は目を見開いた。
心臓が大きく跳ねたのが自分でも分かる。
通常ならあり得ない、蒼い髪の女の子。その子が笑顔で母親に何かを見せていた。
無邪気な笑顔に、母さんは微笑んで応えてて、やがてその子の手を引いて何処かへ行ってしまった。
きっと家へ帰ったんだろう。
僕の居た場所。その場所に彼女が居る。
そして、僕の隣には気付かないうちにアスカが立っていた。
何も言わずに、ただ黙って。
きっと彼女も気付いているんだろう。この歪な世界に。そしてこの世界の終りに。
それでもアスカはあの子を見続けていた。小さくなるその影を。
そして僕に聞いた。「どうするの?」と。
短い時間でもいい。楽しい時間を、僕が送れなかった時間を彼女が過ごせるのなら。
僕は、まだ小さな彼女を見守る事を決めた。






シンジがレイの病室を訪れて、一週間が経った。
シンジはあの日以来病院へは行っていない。
アスカとは顔を一緒に住んでいる以上毎日顔を合わせるのだが、何も言ってこない。
ただいつもと同じ様に食事をして、シンジは学校へ、アスカは家で読書をして過ごす。
そこに変化は無く、同じ日常を繰り返すだけ。
だが、シンジはその日、再びレイの病室へ向かった。
終わり行く日常。それまでの日々の中で少しでも前に進むために。


「あ、センパイ。」

笑顔を浮かべてレイはシンジを迎え入れた。
昼間だから二人は仕事に行っているのだろう。病室にユイとゲンドウの姿は無い。
レイに勧められて、シンジは壁に立てかけてあった椅子に腰を下ろす。
そしてレイの顔を真っ直ぐに見つめる。
顔色も悪くなく、見た目には問題ないようだ。
だが、シンジは気付いていた。もう、レイの魂が希薄である事に。
元々レイの魂は人のそれより弱かった。
公園でシンジがレイを見つけた時もすでに力は無く、後どれだけもつか分からない状態だった。
折を見てはシンジが誤魔化してきたが、それももう限界。
もう長くないのが見て取れた。

「……この前はゴメンなさい。」
「えっ?」
「折角センパイが付き合ってくれるはずだったのに……」

申し訳無さそうに頭を下げるレイ。
シンジは慌ててレイの頭を上げさせる。

「気にしないでよ。……また元気になったら行こう?」
「そうですね……」

微笑むレイだが、その顔に元気は無い。

「どうしたの?」
「その…次があるのかなぁって……」

ドキ、と心臓が波打つ。
表情に出そうになるが、それを何とか堪えて逆に明るく笑い飛ばそうとした。

「何それ?ここから見える葉っぱが、て話なの?」
「そういうわけじゃないんですけど……」

苦笑いを浮かべながら窓の外を見る。
眼下に広がる第三新東京市の街並み。綺麗に区画され、真冬だというのに常緑樹が街中に緑を振りまいていた。 それをレイはふと綺麗だ、と思った。

「何て言うか、何となくそう思うんです。」
「……」

シンジは何も言わない。何も言えなかった。
無機質な真っ白な病室に沈黙の帳が降り、気まずい雰囲気が立ち込める。

「ご、ごめんなさい!お見舞いに来てくれた人に言う事じゃないですよね?」
「いや…
入院なんてあんまりしたこと無いでしょ?だからきっとナーバスになってるんだよ。」

雰囲気を明るくしようと、シンジは殊更明るく話す。
そうですね、とレイも笑いかけ、再び窓の外に視線を移した。
つい数秒前と変わらない世界。だがレイには更に美しく映った。

「センパイは…この世界が好きですか?」
「突然な質問だね。どうして?」
「これも何となくです。 ここから見える景色は人に作られたものばっかりですけど、何だか不意にキレイだ、 なんて思ったんでセンパイの方はどうかな、と思って。」
「僕は……どうだろう?よく分かんないや。」

シンジは明言を避けた。
正直、この歪な世界がシンジは好きでは無かった。好きになれなかった。
だがそれを口にしてしまうとレイの事まで否定してしまうようで、口には出来ない。

「なら好きになってください。」

そう言って、レイは微笑んだ。シンジがわざと濁したのに気づいたから。 だからそうすべきだと感じたから。

「あちこちに人の手が入ってますけど、そこでもちゃんと何かが生きていると思いますから。 きっといつまでも同じ景色なんて無いですから。」
「分かったよ。努力してみるよ。」

微笑み返しながら、シンジは戸惑った。
自分の心を見透かされ、落ち着かない。
だが、揺らぐ心を受け止める。抑え込まずに、柔らかく。
ズキリと何かが痛むが、それも構わなかった。
了承の意を伝えると、それじゃ、とシンジは立ち上がった。
レイは不安そうな顔をしてシンジを見上げるが、それを見てシンジは笑いかける。

「大丈夫だよ。また明日も来るから。」
「あ、ありがとうございます!」

張り裂けんばかりの笑顔を作るレイ。
シンジは遠くを見るように目を細め、そして呟いた。

「もう、逃げないから……」



それからシンジは毎日レイの病室に通った。
レイも毎日笑顔でシンジを出迎え、時にユイと一緒に見舞い、時にゲンドウと気まずいながらもゆっくりと時間を過ごす。
シンジにとって、そしてレイにとってもかけがえのない時間。
だが時間は確実に終わりに近づいていた。
初めは元気な時と変わらなかった顔色も徐々に血の気を失い、白かった肌も少しずつ青白く、生気が消えていった。
シンジとの会話も日に日に少なくなり、ベッドから起き上がる事も無くなっていった。
当然ながら医者にも原因は分からない。
身体的には一切の問題は無く、健康体そのもの。
しかし、確実にレイは衰弱していった。

最初は楽観視していたユイとゲンドウも、弱っていくレイを何とか助けようとあちこちを走り回っていた。
名医が居ると聞けば強引に呼び寄せ、祈祷からお祈り、霊能者、考えられるあらゆる手段を試した。
疲れ果て、見た目にも疲労の色が日を増すごとに濃くなっていく。
動き回る二人とは他所に、シンジはずっとレイのそばに居た。
毎日、一時も離れる事なく、ベッドのそばに座っていた。

「ねえ…センパイ……」

弱々しい声で、レイは脇にいるシンジに話し掛ける。
横になったまま、すでにレイは自力で起き上がる事さえ出来ない。
シンジは顔をレイのそばまで近づけた。

「何?」
「私とセンパイって…恋人同士って考えていいのかなぁ……?」
「うん…勿論だよ。」

わずかに頬を動かし、レイは笑顔を浮かべた。

「でもゴメンなさい…恋人らしい事…全く出来なかったね……」
「これからいくらでも作れるよ…
そうだ、もうすぐ春だから、お花見に行こう。二人で。」

笑顔を作ってシンジは提案した。
だがレイはベッドに寝たまま小さく頭を振った。

「ううん……多分出来そうに無いから……」

その一言に、シンジは情けなく顔を歪めた。
だがその顔を見て、レイはもう一度小さく頭を横に揺らす。ただし今度は笑顔を浮かべて。

「ねえ、センパイ……少しは世界が好きになってくれました?」
「好きになったって言う所なんだろうけど、どうかな……
まだ好きにはなれないけど、でも、前よりは好きになれたような気がする……」
「よかった……少し前進ですね……」

レイが微笑んで、シンジもそうだね、と微笑み返す。
窓の外には雪が舞い降りていた。

そうだ、とレイはベッドから備え付けのチェストに手を伸ばした。
頼りなく細い腕を懸命に伸ばすが、引き出しの取っ手に手は届かない。
シンジは立ち上がって引き出しを開け、中の封筒を取り出してレイに渡す。
しかし、レイは再び頭を横に振った。

「それはセンパイにあげるの……」
「僕に?」
「うん…文通途切れちゃったから……
でも後で読んでくださいね。恥ずかしいから……」

そう言うと、シンジに向かって小さく手招きする。
そして何かを呟く。
だが声が小さすぎて、シンジはよく聞き取れず、顔をレイの口元へ近づける。
そして不意に感じるやわらかい感触。
視線をレイに向けると、レイは笑っていた。

「えへへ…センパイにキスしちゃった……」

シーツで顔を半分隠してはいるが、わずかにはみ出した頬は朱色に染まっていた。
シンジも頬を同じ様に赤くしているが、おずおずと手をレイの方に伸ばす。
軽い背中に手を回して、ゆっくりとレイの体をベッドから起こした。
そしてレイの頬に手を当てると、シンジはレイに唇を重ねた。

長い長いキス。
レイの方もシンジの背中に手を回し、力一杯シンジを抱きしめた。
震える手でシンジの甘い体温を感じ、存在を確かめる様抱きしめる。
閉じられた双眸から零れ落ちる涙。
一滴のそれは、やがて止め処なく流れ落ちた。

「や…だ……よ……」

離れた乾いた唇から溢れ出る想い。

「これで…最後だなんて…やだよ……
もっと…もっと…センパイと話して…笑って…ケンカして……」
「レイちゃん……」
「遊園地に行ったり…一緒に買い物したり……一緒に泣いて…笑って…怒って……
これからもずっと一緒に過ごしていきたいのに……!!」
「レイ!」
「もっとセンパイを好きになって…センパイも私の事を好きになって……楽しい時間を過ごして、もっとセンパイに好きになって もらって……今みたいにキスをして……もっと、もっといっぱいキスをして…… 二人でケンカしても、何年か経ってあの時は大変だったって…でもおかげでもっと好きになれたって……」
「……!!」
「どうして…!どうしてもう終わっちゃうの!?これから楽しい事いっぱいあるのに!! ずっとセンパイとの時間が続いていくと思ってたのに!!どうして!?」

泣き叫ぶレイを、シンジは渾身の力で抱きしめる。
じっと目を閉じて、レイの叫びを聞いていた。

「う…ああ…わああああああああああっ!!」

レイは泣き続けた。
その叫び声がシンジの心を締め付ける。
レイの泣き声の一つ一つがシンジに突き刺さり、抉り、貫いていった。
それでもシンジはただ抱きしめた。
一言も発する事なく、ただ、抱きしめた。
それしか出来なかった。




病室に戻ってきたユイにレイを頼んで病室を後にした。
泣き叫び疲れたのか、レイはユイの腕の中で眠りについている。 そこには先ほどの悲しみの色は無く、穏やかな寝顔を浮かべていた。
家に帰り着き、暗くなった室内で机のライトだけを点け、シンジはコートのポケットから手紙を取り出した。
切れかけたライトからの細々とした光。
それに照らされながら、シンジはレイからの手紙を読んだ。

―――えっと、お久しぶりですね。

いつ書いたのだろうか、今日のレイの様子とは結びつかないほど明るい感じで手紙は始まっていた。
返事を待たせてしまったことへのお詫び。そしてこれまでの手紙のやり取りを振り返る。

―――ずっとセンパイからの返事、楽しみに待ってました。
とか言いつつ実は結構緊張してたりして。

てへ、と照れくさそうに舌を出すレイの姿が見て取れた。
シンジの記憶とすっかり変わってしまったレイ。
それが良かったのか、それとも悪かったのか、そんな想いがシンジの中で駆け巡る。
苦しめられる胸。治まらぬ震えがシンジを揺さぶった。

―――そういえば最初の時、ものすっごく恥ずかしかったんですよ。

楽しそうに踊る文字を見ながら、シンジは去年の冬を思い出していた。
初めて積もった雪。真白に染まった景色の中で彩られた朱に染まった頬。
コロコロと変わる表情を見るのが楽しくて、そして切なくて。

―――話は変わりますけど、もうすぐ春が来ますね。
そうだ、今度もまた山の方へ行きませんか?きっと桜がきれいだと思いますよ。

そして夏には海へ、秋には再び山へ。
生きた証を、足跡を刻む様に、これからの予定を語る。
だがその文字は震えていて、時には、にじんで。

―――もう一度来た冬には、また二人で笑いあって。
あんな時もあった、こんな時もあったなんて言いながら笑いあって……

シンジの頭に先ほどのレイの慟哭が鳴り響く。
離れたくないと、泣き叫ぶレイの声が止め処なくシンジの心に響きわたる。
歪な文字をシンジは丹念に読み進めた。
絶対に一文字も読み洩らさないと、目を擦り、小さな雫で手を濡らしながら、シンジはずっと読み続けた。

―――でもごめんなさい……
きっと…もう一緒に居られないから……

それから語られる謝罪の言葉。
一緒に居たかった。でももう居られない。居たくても居られない。
これから一緒にしたかった事、楽しみたかった事、それらが出来ない事に対する悲しみと苦しみが書き綴られていた。
ぽたり、ぽたりとシンジの目から涙が零れ落ちて手紙を濡らす。
ぐい、と力任せにシンジは目を擦る。だがいくら擦っても、いくら拭っても涙は留まる事を知らなかった。
不規則に歪んだ文字が、更に滲む。
拭いきれない程の涙がシンジの頬を流れ落ちた時、手紙はレイの願いに行き着いた。
いつか病室で話した、たった数分の会話。
そして、彼女の、最後の願い。
その時の願いだけはしっかりとした、力強い字で書かれていた。
その願いをぐっとシンジは噛み締める。
カチカチと奥歯が音を鳴らしても、力を込めて噛み締めた。
くしゃり、と手紙が音を立てる。

「う…あ……ああ……」

声を押し殺した嗚咽が零れる。
様々な思いが溢れ、言葉にならない。
字数にしてほんの十二文字の願い。それがシンジの胸に広がっていった。
それでも、とシンジは奥歯に力を込め、再びしわくちゃになった手紙に目を落とす。
その時、赤く腫れたシンジの目が大きく見開かれた。
立ち上がり様に椅子が倒れ、静かな空間に音が響く。
外套をハンガーから乱暴に引きずり下ろすと、シンジはそのまま部屋から出て行った。
机のライトもそのままに足音が遠ざかった。



―――楽しい思い出をありがとう   碇君―――






静まり返った病院内。
その一室の扉の前にシンジは立っていた。
白い吐息が暗い病院を染める。
切れる息を強引に押さえ込み、ゆっくりと扉をスライドさせる。
室内に灯りは無く、動くものも無い。
椅子にユイが座っているが、小さく寝息をたて、入ってきたシンジにも気付かない。
時間が止まった室内。
外にはしんしんと雪が降り続いていた。二人が出会った時と同じように。
シンジはレイのベッドに歩み寄る。足音を立てないよう、この時が動き出してしまわないように。
そっとレイの頬に触れた。冷え切ったその頬を何度も何度も撫でる。
暖かい雫が穏やかな寝顔に落ちる。
その小さな溜まりはレイの目元濡らした。
シンジは自分の目を拭うと、次いでレイに落ちた涙も拭う。
そして両の掌で、レイの頬を包み込む。
色を失った、モノクロの世界。
その中で生きた少女の小さな口に今日三度目の口付けを交わした。



光が、世界を包んだ。






岸に打ち寄せる波が音を立てる。
紅い海が、シンジの足元まで押し寄せ、後少しで濡らす、といったところでまた沖の方へと引き返していく。
昼も夜も無い世界。変わらない世界をシンジは岸に座って眺めていた。
シンジの後ろから足音が近づき、そしてシンジの横で止まった。

「…終わってしまったわね。」
「そうだね……」

一言ずつ会話を交わし、二人ともそのまま海の彼方を眺める。
しばらくの間、何も発せず、黙って紅い世界を見ていたが、やがてシンジはゆっくりと立ち上がる。
そして海に背を向け、歩き始める。

「これからどうすんのよ?」
「別に。これまでと変わらないよ。
でも……」

くるり、と振り向き、シンジは笑った。

「少しずつ何かを変えていこうと思う。勿論良い方に。
この世界は変わらないと思ってたし、これからも変わらないかもしれない。
でももしかしたら変わるかもしれない。
この変わらない世界が嫌いだったけど、僕が気付かなかっただけで何か新しいものが生まれているのかもしれない。
だから、僕も変わろうと思う。ここが好きになれるように。」

一旦言葉を区切ると、それで、とシンジは続けた。

「アスカはどうするの?」
「アタシ?」

アスカはシンジの横に並ぶと、更に前を歩き出す。
シンジも遅れないようにと歩調を合わせる様にして足を進めた。

「アタシも変わんないわよ。これまでと一緒。
ただし、アタシはアンタと違って変わる努力はずっとしてきたけどね。」
「それは気付かなかったよ。」
「アンタと一緒にしないで。天才は努力を周りに見せないのよ。」
「はいはい。」

浜辺から二人の姿が小さくなる。
そして完全に見えなくなった頃、水平線の向こうが白み始めていた。








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