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opening(10/08/07)
第一話 幻想、現想(10/08/21)
第二話 優秀、不断(10/08/28)
第三話 以上、異常(10/09/18)
第四話 領収、終了(10/10/02)
第五話 痛い、遺体(10/10/16)
第六話 狂理、来裏(10/11/06)
第七話 狂鬼、覧負(10/11/20)
第八話 理解、乖離(10/12/11)
第九話 切る、悠(10/12/23)
終の話 生死潰し(10/12/26)
第1-20章(11/02/26)
第1-21章(11/03/06)
第1-22章(11/03/06)
オマケ話 -晩夏のバカンス-(11/02/06)





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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved







-第六話 狂理、来裏(クルリ、クルリ)-




人は慣れる生き物だと、どっかで聞いた気がする。
どんなに大変な仕事だってそれが当たり前になれば、よほど度を越してない限り日常の一コマに変わっていくし、どんなに幸せな生活を送っていたってずっとそれが続けば腐敗と怠惰に取って代わるし、やがて不幸だと感じるようになるかもしれない。そしてまた逆も然り、だ。不幸だとか思い込んでいても次第に不幸さを感じなくなるかもしれないし、まあ、幸福だと感じるかどうかは人それぞれだろうけど、気持ちの持ちようによっては、生きていけるのであれば悪くない程度には思えるようになるだろう。

「えー、なので先程も言ったように、等温変化の場合は内部エネルギーの変化が0なのでdQ=-dWとなり、外から受け取った熱量は全て外部への仕事となります」

かと言って僕が現状を幸せだと思っているかと問われれば、しつこいくらいに僕は首を横に振るだろうし、さっき述べたみたいに考えることができても幸せだと思えないのなら、僕には幸せになろうだなんて気持ちが乏しいのかもしれない。幸せなんてなろうと思ってなれるもんじゃなくて、でもなろうという意志がなければ幸せなんてなれない。そういった意味じゃ幸せ=成功という図式も当たらずとも遠からずと言えるか。成功するには努力がやっぱり必要条件だし。

「そして最後に同じように熱力学第一法則からdU=dQ+dWの式において、断熱変化の場合には外部との熱の授受がないのでdQ=0と考えることができるのでdU=dWとなり、内部エネルギーの変化分が全て外部への仕事に変換されることになり、グラフにしますと、このように一つの閉じたサイクルができあがります」

でもまあ僕自身も段々現状を悪くないんじゃないか、という程度には思えてきているのも事実で。
あの狂った世界にどっぷり浸かり放しだとしても、繰り返しになるけど、やっぱりそれもまた日常になれば慣れてしまうだろうし、まして僕は死ねないのだから肉体的には死ななくても時間が僕を殺してしまうかもしれない。それを回避できるという意味では、こうしてココで退屈な教授の妙に甲高い声を聞きながらノートを黒く染めていくのも悪くはないのだろう。

「結局は元の状態に戻ってくることになりますので、サイクル全体でdU=0となり、受け取った熱と放出した熱の差が外部への仕事量と言える事になりますね」

人がごった返す大きな講義室の一角で、他の人と同じようにふぁ、とあくびを漏らした。決して寝不足なんかじゃなくて、かけがえが無いと言えばそう言えるのかもしれない退屈で平和な日常の一コマとして。

まあ、なんだ、つまるところは。
僕は日常に戻ってきた。


教授が黒板に描くサイクルの図の様に、今、僕が立っているのは今までと同じ場所。だけど、場所は同じでもこの世界に起こる出来事はおしなべて不可逆な変化であって、実際僕の生活は百八十度、とはいかなくても多少の変化を受けた。
すでに正式に僕がS.T.E.A.Rに所属するようになって二週間が経つ。とは言っても大したことは無い。形だけの面接を受けて書類の上に僕の名前が加わっただけだ。
最初は正直言うと大学も辞めないといけないといけないのだろうか、と不安だったけど、こちらから尋ねる前に榊課長の方からOKが出た。「学生を無理やり社会人にするつもりは無い」とはその榊課長の弁で、聞いたその時はあまりの意外さに驚いて、寛大さに感謝の言葉を述べたりもしたけれど、後々になって考えてみればいくつか理由は思いつく。
他の人はどうだか知らないけど、当たり前ながら僕にも親がいて、授業料を払ってる。S.T.E.A.Rが「秘密組織」の形を取っている以上、学校を辞めさせると親に連絡が入るだろうし、そこからトラブルに繋がり兼ねない。無論トラブルの火種が上がればコッカケンリョクの名の下に潰してしまうのは眼に見える未来ではある。まあ、どちらかと言えば、「組織に属して管理できている」という事実の方が大事なんだろうけど。
そんなわけで僕はまだもう少しはモラトリアムの時間を享受できそうだ。実際、S.T.E.A.Rの仕事はバイトみたいな感覚で、基本土日と、人手不足此処に極まれり!みたいな時しか呼び出されてない。昼夜は問われないんだけどさ。
仕事も実際大したことはしてない。最初みたいに戦闘に参加するわけでもなく、七海さんの隣で分析の仕事を手伝ったり、後処理を手伝ったりと至って平和な仕事ばっかりだ。後は書類作成くらい。
もちろん分析班の車外では戦闘は起こってて、確実に人ひとりが死んではいるわけで。そういったことを考えれば完全に安全というわけじゃないだろうし、戦闘員不足の非常時には真っ先に駆り出される筆頭格だろう、僕は。
それでも心のどこかでその非日常を楽しんでる僕がいるのも事実。不謹慎ながらちょっとしたスリルを糧に日常を生きていると言ってもいい。変化自体はどうやっても抗い様が無くて、ならそれを受け入れてしまえばいい。変化そのものは怖くとも、一度流されてしまえば後は楽だ。
ともかく、あれだけ忌避して、最低な世界呼ばわりしたくせに僕はこの現実をそれなりに楽しめる様にまでになってしまっていた。僕の事だ、おおかた、また死にそうな眼にあったり、誰かが目の前で死んだりしたら天に唾吐きかけて世界を呪うんだろう。我ながら現金なものだ。もっとも、人生なんてそんな事の繰り返しなのかもしれないけど。

慣れた、と言えば大学生活もそうでS.T.E.A.Rもそう。そして、あの忌々しかった結界に対する違和感にも慣れてしまった。今でも夜中に眼を覚ますことはたまにあるけど、気持ちの悪さは特に感じない。繊細だと思っていた僕の神経が案外図太かったのか、それとも感覚が麻痺していってるのか。いや、感覚が改変されていってるのかもしれない。なにせ、あの二回死んだ日から急速に鈍感になっていってるのだから。もっとも、寝不足が解消されたのだから理由なんてどうでもいいんだけど。どうせ元々狂った感性の持ち主なんだ。今更おかしなところが一つ二つ増えたところで、周囲に知られないのなら別に構わないさ、と心の中だけで誰にも悟られずうそぶく。

忘れてしまうだろう退屈の大切さを大きなアクビと一緒に噛み締める。午後ももうすぐ三時を迎えるところだ。何人かは早く終わらないか、とばかりに腕時計をチラチラと見始め、あるグループはノートの端を使って隣と会話してる。きっとこの後の相談でもしているのだろう。やりたい事があるのはいい事だ。
で、僕のノートはといえば、たまにミミズがのたくった様な文字が見える。寝不足は治っても退屈な授業は眠いものだ。

いい加減僕のまぶたも重くなってきて、視界がだんだんと狭くなってきていたその時、おそらくは大部分の学生が待ち望んでいたであろう音が鳴り響いた。

「はい、それじゃあ今日はここまでで。ちょっとキリが悪いので、今回はレポートは無しです」

途端に騒がしくなる教室。あちこちでざわめきが広がり始め、それまで眠っていた連中もキョロキョロと辺りを見回して現実を確認すると、急々と帰り支度を始める。教授も義務を果たした、と言わんばかりにそそくさと部屋を出ていった。
僕もノートを閉じて分厚いハードカバーの教科書をカバンにしまう。そしてカバンから眼を離さないままに隣の人物に話しかけた。

「んで、です。なんでいるんですか、ここに?」
「そんなの決まってるじゃないっ」
「あー、ハイハイ。要するに暇だったんですね」

大学なんてところは講義を受けるだけなら誰だってできる。それこそ爺さんだろうが会社員だろうが、極端に言えば赤ちゃんだってできる。泣かなければ、だけど。
言い過ぎを覚悟で言えば、大学生は、国立なら三百万近く払って大卒資格を買ってるみたいなものだ。全部の授業を一切眠らず受講して、四年間家でも真面目に勉強する人間は少ない。もちろん本気で勉強したい人間もそれなりにいるだろうけど、それは少数派だろうと思うのは僕の偏見だろうか。
だからそんな単位も貰えない講義を、真面目に自分の休みを潰してまで来る人間は宝くじの高額当選者なみにレアキャラであって、件の隣の人がそうかというと――

「たまたま街を歩いてたら鏡クンの大学があってさ、大学の授業ってどんなのかちょっと気になったから来てみたのさ。
でも結構つまんないもんだね。外に人もあんまいないしさ。建物もボロっちいし。テレビで見るような、もっとキャッキャウフフなキャンパスライフ光景を期待してたのに」
「工学部のキャンパスに何を期待してるんだ、アンタは」

男ばかりの世界をなめんな。暇に飽かして女の子とイチャイチャするのなんて幻想なんだよ、と心の中でだけ吠えてみる。口にするとナントカの遠吠えになってしまいそうだから。

「でも鏡クンって結構頭いいんだね。アタシャ全然理解できなかったよ。ちょっと見直したかも」
「今日のところは高校時代の内容と被ってるんですけどね……」

それはそうとして。
見慣れない水城さんに気づいたのか、他の人たちがチラチラとコッチを伺いながら通り過ぎていく。少し耳をすませば「あの娘、誰?」なんて会話が聞こえてきそうだ。まあ、気持ちは分かる。水城さんが可愛いのは確かだからね。遠くから愛でる分には文句は出ないだろうし。
鼻からため息を混じりの空気を吐き出し、講義室の出口に体を向ける。変に注目を浴びるのは好ましくない、と感じるのはいつものコト。とりあえず知り合いが少ない場所にでも移動しよう。

「うぃーっす、鏡ちーん!」

と思ったところでコイツ。
大学に入学して二ヶ月も経てば、ほとんど関わりが無い学生でもクラスメートがどんな人間かはおおよそ分かってくる。この正祐にしても授業によく遅刻する人物としてすでに有名であって、加えて社交的な正確だから男女問わず知り合いは多い。しかも完全に髪を金色に染めてるから容姿的にも目立つことこの上ない。そんな人物が声を上げれば自然と周囲の注意を集めてしまうわけで。
ビシビシと注目の視線が肌に伝わる。何をしたわけでもないのに、意味もなく心臓が小さく跳ねる。
相変わらず慣れないな。小さく自分のアガリ症というか、心の準備ができてない時の小心さにため息をついて、それをごまかす為に更に大げさにため息を吐いてみせる。

「それじゃ行きましょうか、水城さん」
「それはいいけどさ……いいの?」
「ああ、アイツはいいんです。放置プレイマニアなんで、無視されると喜ぶんです」
「ふーん、課長と真逆のドMなんだねっ」
「誰がだよっ!」
「違うのか?」
「違うの?」

最初は冗談だったんだけど、どうも最近ホントにそうなんじゃないか、と思ってた。そうか、違うのか。
なんか妙に残念な気持ちになりつつもそれに蓋をして、盛大にうなだれてる正祐に目配せして外に出る。
外は相変わらずの陽気で、日差しは本格的に夏が近づいてきていることを感じさせる。だけど日光があまり得意じゃない僕にとっては好ましくない。
この後に訪れる真夏を思って陰鬱になる。まあ、正祐あたりは本気で楽しみにしてそうだけど。夏だ、海だ、水着だ!みたいなノリで。

「どったの、鏡ちん。あんまりため息ばっかりついてると幸せが逃げちゃうよ?」
「ため息が多いのは仕様なんで気にしないでください。あとアンタもその呼び方をすんな」
「えー? 別にいいじゃない。可愛いと思うよ?」
「嫌なものは嫌なんです。人が嫌がる事をしちゃいけませんって教わりませんでした?」
「それを鏡ちんが言うかなぁ……」
「分かりました。なら課長に水城さんがそう言ってた、と伝えておきますね」
「ゴメンなさい」

頭が膝につかんばかりに水城さんの腰が折れた。むしろ心が折れたというべきか?まあ、気持ちは分かるけど。課長なら逆に喜んで水城さんをイジメに走りそうだ。天邪鬼っぽいし、あの人。

「楽しそうな会話をしてるところ悪いんだけどよ、鏡ちん」
「なんだ? あとお前もその呼び方を止めろって」
「お? おお、分かった。
それでよ、鏡ちん。一つ質問があるんだが」
「分かってねえよ」

こいつは……
とは言え、ここで意地を張ってても話が進まないのでこの場は諦める。この点で言えば、僕の方が心が折れそうなのは僕だけの秘密。

「この可愛いお嬢様はどちら様でござましょうか?」
「なんで急に敬語なんだよ」
「お嬢さん、お名前を拝聴させていただいてもよろしいでしょうか?」
「人の話を聞けよ。てか、質問振るだけ振って自分で聞くのかよ」
「水城悠だよっ。チョウチョも逃げ出す、うら若き乙女なのさっ!よっろしくぅ!!」

また自分で言ってやがる。しかも僕にした時と微妙に変えてるし。
ぶい、と自分でのたまりながらピースサインを高々と掲げた。二十歳、そろそろ自重しろ。
「悠ちゃんか。いい名前だね。俺は君原正祐。そろそろ油の乗り始める、将来性豊かな色男さっ! ヨロシクぅ!!」

なんだこの似た者同志は。「イェーイ!」とか言いながら拳でハイタッチ。あれか、これがいわゆる類友ってやつか。二人揃って自重しやがれ。

「なんだか鏡クンの友達って面白い人がおおそうだねっ」
「まだ一人しか出会ってませんけど」
「コイツ人見知りだからさ、友達少ねえの。だから心が琵琶湖なみに広い俺がこの性根ネクラ野郎と友達をしてあげてんのよ」
「そっか、微妙に狭い心の持ち主なんだねっ」
「お前に貸したノート、没収な」
「言葉の選択肢を間違えた!?」
「お前の常識が非常識だっただけだ」

ああもう、メンドくせぇ。
このままカオスな空間に居続けるのも、それはそれで別に悪くもないのかもしれないけど、いい加減疲れてきた。外に出てすぐ話してたから、すでに周りに誰もいないし。

「それで、お前はお前で今度はどんな用だ? ああ、ノートなら気にしなくていいよ。コピー代+アルファさえくれるならコピーして持って行ってやるけど」
「うっし、買った」
「即答かよ」

まあ別に良いけど。お値段は良心的で留めといてあげるか。

「で、話はそれだけ?」
「それだけっちゃそれだけだけどよ。その反応はちっと寂しくねえか?」
「いつものコトだと思うけど?」
「ま、確かにな。でもよ、別に用らしい用は無くても話しても良いと思わねえか? 鏡ちんがいたから話した。ただそれだけじゃねえか。
お前は友達と話すのにも理由が必要か?」

まったく、この男は……不意打ちで良い事を言ってくれる。今、僕の周りの世界にどれだけ打算に満ちた考えが溢れているのかは分からなくて、どこまで言葉を言葉通りに信じていいか分からない。街頭で演説する政治家、テレビの向こうでキャラ作りに必死のお笑い芸人やアイドル、常に距離感を探り合うクラスメート。そして僕。
だけども、こうしてストレートに言葉を与えてくれる存在は貴重で、逆にそれゆえ申し訳なく、そしてありがたい。コイツはいい意味でバカだから、今の言葉だって恐らく正祐に取っては何の考えも無しに出たんだろう。それがどれだけ僕を助けてくれているのか知らずに。
笑顔をバレないように咬み殺す。本当に感謝し切れない。恥ずかしいから口には出せないけど。

「しっかしまあ、なんだ。俺も安心したぜ」
「? 何にだよ?」
「今だからか言うけどよ、お前の事を本気で心配してたんだぜ。いつまで経っても女っ気が全くないしよ、そもそも女の子に興味があるのかも怪しかったしな」
「鏡クンっていつでもどこか素っ気無いよね、確かに」
「いつまでも何も、まだお前と出会って二ヶ月しか経ってないんだけどな」
「だーかーら、そんなレベルの話をしてんじゃねえよ。だいたい、毎日を下半身だけで生きてるような俺らの年齢からすりゃ、街中を歩いてるだけでも無意識に女の子チェックしたりとか、『お、あの娘可愛いな』とか『ああ、あんなオネーサマに踏まれたい』とか『ちっちゃい子にお兄ちゃんって呼ばれたい』とか色々あるだろうがっ!!」
「うん、分かった。とりあえず警察に自主しようか」
「正祐クンは変態さんなんだねっ」
「ほっとけっ!
ともかくも、だ。自称とは言え、お前の友人と自負してる俺としてはそんなお前が心配だったって訳だよ」
「あー、中身はともかくとして心配かけたのは申し訳ないと思うけどさ、それがどう安心に繋がるんだよ?」
「いや、だって彼女ができたんだろ?」

何を言ってるんだろうか、この男は。
流れ的に僕にできた、という事なんだろうけど、話が見えない。
つい首を傾げ、隣の水城さんを見ると興味津々な様子だ。へえー、と言わんばかりに僕を見上げていた。

「誰が?」
「鏡ちんが」
「誰と?」
「おいおい、とぼけんなよ。悠ちゃんとに決まってんだろ?」

瞬間、顔を見合わせる僕と水城さん。きょとん、とした表情を浮かべていたけど、時間と共に意味が水城さんの頭に浸透していったのか、徐々に顔が赤く、それこそリンゴのようになんて使い古された表現がぴったりはまるくらい変化していくのが分かった。

「あ、あはあはあはははははははははははっ! やだなぁ、もう、正祐クンは!」
「えっと、とりあえず訂正させてもらうけど、僕と水城さんはそういう関係じゃないから。バイト先でお世話にはなってるだけだし、将来的にはそういう関係になれたら嬉しくないわけじゃないけど、今現在は全くそんな事実はないから」

そう告げてやると正祐の奴はこれ見よがしに深々とため息をついた。そして僕の首根っこを捕まえると水城さんから離れていく。

「お前なあ……察してやれよ」
「何をだよ?」
「興味のネエお前にとっちゃその程度なのかもしれねえけどな、悠ちゃんは本気だぜ?」
「そうか?」
「ああ。悠ちゃんはウチの学生じゃねえんだろ?」
「そうだけど、よく分かったな」
「当たり前だ。俺を誰だと思ってるんだ? ウチの女の子は大体チェック済みに決まってんだろ?
んで、だ。どこの生徒だかは知らねえけどな、わざわざウチの大学にまでお前に会いに来てるんだ。好きじゃなきゃ誰がそんな、もの好きな事するかよ」

水城さんならホントに暇だったから来たんじゃないか、と思わないでもないけど。
もしホントに水城さんが僕なんかの事を好きになってくれてるなら、それは嬉しいけど、その可能性は低いだろうと思う。
この前の事件の日、僕の手を振り払った水城さんの表情が頭に浮かぶ。あの行動自体はもう別に何とも思ってないし、水城さんの人となりを考えれば何か理由があったんだろう。
例えば、対人恐怖症とか。
普段のキャラを考えれば何を、と思うかもしれないけど、人なんて誰でも一つくらいは予想外のバックグラウンドを抱えてるものだ。表面的な情報では理解しえない何かを。ましてやあんなマトモじゃない組織に所属してるんだし、彼女も何か事情を抱えてるのは確実だ。
まあ、嫌われてるとは思わないけど、僕に触られるのをアレだけ嫌がってた人が僕に対して恋愛感情を抱けるとは思えない。

「というわけで、だ」

パッと僕の首から手を離して、正祐は水城さんの方へ戻っていく。結構強い力で締められてた首の骨を鳴らしながら、僕も元の場所に戻る。

「んじゃ、悠ちゃん。俺はちーっと用事があるんで失礼するよ」
「え? ああ、うん。そっか、もう少しお話したかったけどしょうがないよねっ」
「大丈夫だって。悠ちゃんがまた鏡ちんに会いに来れば、どうせ俺ももれなく付いてくるから」
「なんだ、また女の子とデートか?」
「おうよっ! 年上のオネエさんなんだけどな、見た目小学生並みに背がちっさくて可愛いのよ、これが。そのくせ気が強くてな!」
「……まあ、頑張れよ」
「お前の方こそな。ちゃんと悠ちゃんをエスコートしろよ」
「と言われてもなぁ……」

経験が無いから、例えエスコートするにしてもどんなトコに行けばいいのか分からんし。

「つーことで、そろそろ退散するわ。人の恋路を邪魔しちゃぁいけねえもんな」

そんな事を言いつつHAHAHA、なんてエセアメリカンな笑い声を残して正祐はどっかへ行ってしまった。そして取り残される僕と水城さん。閑散とした昼下がりのキャンパスにポツンと男女二人きり。次の授業の始まりを教えてくれるチャイムが鳴り響く。はてさて、どうしたものか。
隣を見れば水城さんはまた顔を赤く染めてるし。てか、水城さんって結構ウブだったのな。
僕の視線に気づいてコッチを見上げる。

「えっと……」

なんて言いながら恥ずかしそうに視線を逸らす水城さん。
確認だけど、水城さんは可愛い。僕なんかにはもったいないくらいに。キャラとしてはそれこそ数えきれないくらいにクセはあるけど、まあ許容範囲内。お世話になってるし、僕自身としても悪い感情はほとんど持ってない。
そんな彼女が恥ずかしそうにしてるのはどこか新鮮で、なんだか僕も調子が狂う。

(誰かを好きになったことがないから分からないけどさ……)

完全に狂ってしまってるんだろう、今の僕は。でもきっとそれは今までの僕とは違って、肯定的に捉える事ができて。
――まあ、なんだろう
僕も一度水城さんから視線を外して、何となく明後日の方を見る。ポリポリ、と指先で頬を掻いてみる。

「とりあえず、何処か行きますか」

――こういうのも、悪くない




◇◆◇◆◇◆◇◆





「すいません、こんな所で」

言いながら僕はハンバーガーとポテト、そしてジュースの乗ったトレイをテーブルに置いて椅子に座る。大学生にもなっておやつの時間も無いけど、学校近くのマックにはそれなりに人が入っていて、楽しそうにおしゃべりに興じてる。

「別にいいよー。アタシもジャンクなフード好きだし」

もしゃもしゃ、とポテトを頬張って頬をリスみたく膨らませて返事をする水城さん。そしてズズーっと音を立ててジュースを飲み干す。

「行儀悪いですよ」
「いいんだよっ。こういうのは本人が一番美味しいと思える食べ方をするのがベストなのさっ」

まあ、それもそうか。
包み紙を外して僕もハンバーガーにかぶりつく。テーブル越しに彼女は指についた塩をチュパチュパと舐めてた。

「それで、どうしましょうか、この後?」
「そうだねぇ……鏡クンはどっか行きたいところある?」
「僕は別に欲しいものは無いですし、水城さんに付き合いますよ」
「うーん、どうしようか……アタシも特に無いしなぁ。趣味も無いし。
ま、別に無理にどっか行かなくても良いと思うよっ。ここでダベるのもアタシ的には有りだし」
「水城さんがそれで良いなら構いませんけど……」

これが僕じゃなかったらどこか遊びに行ける所の一つでも提案するんだろうけど、残念ながら僕は僕でしか無く僕に僕ができる以上の事はできないわけで、ココはありがたく安いマックで時間を潰させてもらおう。
とは言うものの、僕はあまり会話のネタというものを持っていない。基本話しかけられなければ一日中口を開かずに過ごしてしまうような人間で、ファッションにも興味は無いし、僕が抱えてるネタといえば政治ネタか経済ネタ、それかスポーツネタという、女の子と話をするには至って不向きなネタしか無い。というか、自分で考えて少し悲しくなってきた。今更自分を「普通」だと形容する気は海に浮かぶプランクトン並みに無いけれど、もう少しマシだと思ってたのに。

「鏡クン、あのさ……」

無い頭で話題を必死で探していると、ありがたい事に水城さんの方から話を振ってきてくれた。が、不幸にも僕の携帯が同時に鳴ってくれやがりました。
開くとディスプレイには見慣れた番号。一瞬迷ったけど、後からかけ直すのも面倒なので水城さんに謝って通話ボタンを押した。

「もしもし?」
「あ、鏡? 今、大丈夫?」
「大丈夫だけど、友達と一緒にいるから手短にお願いね――母さん」

話しかけながら、思う。母さんに対して、死んでくれなだろうか、と。
僕にとってその考えは珍しいことじゃなくて、ふと母さんの事を思い出せばそう考えてしまう。
それはとても罪深い事で、許されない事で、非人間的で、異常な事だと分かってはいるけど、そんな考えが頭から離れない。
決して嫌いじゃない。むしろ大好きだ。マザコンだと言われてもおかしくないくらいに。

「あ、そう? 分かったわ。いや、今から荷物送ろうと思ってるんだけど、明日届くから大丈夫かなーって思って電話した次第です、ハイ。午前中部屋にいるの?」
「あー、まあ今のところ特に用事は無いけど確約はできないよ。多分大丈夫だと思うけど」
「オッケー。なら明日の朝九時着で送ります。えーっと、米とインスタントの味噌汁と、お茶と、あ、あと缶詰が入ってるからね」
「うん、分かった。ありがと」

僕がそこそこに優秀な学生でやってこれたのは確実に母さんのおかげで、それと同時に今の僕という人間を創り上げてしまった。
無邪気さを捨てた幼少時代。苦労してる母さんの後ろ姿を見て育ち、母さんを喜ばせるためにいい子でやってきた。だけどそうやって生きるのに限界を感じ始めて、そして生きる目標を失ってしまった。他人の視線に怯えるだけの死にたがりになってしまった。
死にたい。だけども母さんを悲しませたくは無い。自殺なんてしたら、母さんはきっと悔やむだろう。自分を責めるだろう。もしかしたらあとを追って自分も自殺なんて事をしかねない。それくらいに僕が愛されてる自覚はある。
だから僕は緩慢で急速な死を願った。母さんを悲しませるのは変わらないけど、自殺することに比べれば、自己を責めるという点で遥かにマシであって、そして僕のエゴとのギリギリの妥協点。

「どーいたしまして。
一人暮らしはどう? もう慣れた?」

そんな僕の内心を知らずに母さんは楽しそうに話しかけてくる。僕は申し訳なさを押し隠し、ひたすらバレないように平静を装う。

「さすがにね。二ヶ月も過ごせばボロ屋も都だよ」
「うん。だけど気をつけなさいよ。特に火の元周りは。それにそっちは大分より都会だから、犯罪も多いんだからね。常に警戒しておく事。いい?」
「ああ、うん。大丈夫――大丈夫だよ、母さん。
それじゃ、友達待たせてるからさ」

電源ボタンを押して通話を終了。背もたれに体を預けたら、自然と深いため息がこみ上げてきた。

「お母さん?」
「え? ええ、そうです。スミマセン、お待たせしちゃって」
「どんな話だったか、聞かせてもらってもいいかな? 鏡クンが嫌じゃなければ、だけどさ」
「大した話じゃないですよ。明日荷物を送るから受け取れるか、ていうのと、まあ、物騒だから気をつけなさいよ、ていう話だけです」

話しながら思わず苦笑いが出てしまう。なにせ、犯罪最先端なところでバイトしてるのだから。

「鏡クンは兄弟とかはいるの?」
「いえ、僕と母親だけです。幼い頃に離婚してるので……
父親の所在も知りませんが、まあどこかで幸せに暮らしてるのかもしれませんし、どこかで野垂れ死んでるのかもしれません。僕としては後者の方である事を命を賭けてもいいくらいに切に願ってますけど」
「黒っ!! 鏡クンが黒過ぎてダークサイドにっ!!」
「剣術に長けていればピッタリですがね」

僕は善良でも純心でも無いですが。

「水城さんのところはどうなんです、ご家族は?」
「あー、うん、アタシのところは家族いないから」
「いない?」
「うん、昔いろいろあってね、お父さんもお母さんも死んじゃったのさ」

その言葉を聞いた瞬感、ほとんど条件反射で申し訳そうな表情を浮かべたのが自分でも分かった。感情に動かされてるのではなくて、状況に動かされているという事実。そっちの方に自分で申し訳なさを感じてしまう。

「それでね、鏡クンに謝らないといけない事と話しておかないといけない事があるんだ」
「謝る事と、話したい事、ですか? じゃあ元々そのつもりで今日ココに?」
「あはは、ココに来たのはホントに暇だったからだよ。でも、いつかは話さないと、て思ってたから、ちょうどいい機会かなって」
「それは……ご家族の話ですか?」
「うん……。あ、でも別に話しづらいって訳じゃないんだよ? そういう訳じゃないんだけど、あんまり人に向かって話すことでもないから。ただ、鏡クンに勘違いされるのもなんかイヤだったから、話しておこうと思ってさっ」

勘違い、か。特に勘違いを招きそうな、水城さんに関する出来事は僕の頭の中には存在しなくて、強いてあげるならさっきの赤面とかか。「べべべ、別にアンタの事なんて好きでも何でも無いんだからねっ!」と顔を真っ赤にして叫ぶ水城さんの姿を想像してみる。どこのツンデレ少女だ。
どこか顔に出ていたのだろうか、「何を考えてるのかな、鏡クン?」と聞かれたので「別に何も?」と素っ気無く返しながら聞く態勢を整えた。

「えっとさ、この前はゴメンなさい」
「と言われても、コッチとしては謝られる理由が思い当たらないんですけど……」
「この前の事件の時さ、手を振り払っちゃったよね? ずいぶんと遅くなっちゃったけど、それを謝ろうと思って」

やっぱりか、と思った。というか、それくらいしか理由は思い当たらなかったけど。繰り返しだけど、別にもう何も思うところは無いし、それを引きずるほど子供でもない。第一、あんな表情をされて誰が責められるだろうか。

「あれはさ、鏡クンの事が嫌いだとかそういう訳じゃなくてさ、その、ね、実は他の人に触るのってダメな人でさ」
「潔癖症とか、そういった類ですか?」

わざと間違っているであろう答えを口にする。本人の口から語られる理由を、推測とはいえ、結構正解に近いだろうと確信に近いものを抱いていて、それを僕が話していいとは思わなかった。
予想した通り水城さんは首を横に振る。

「別にそういうのじゃないよ。むしろ床に落としても三秒ルール適用するし」
「でしょうね。僕もそう思ってました」
「……なんか引っかかるなぁ。鏡クンってアタシのことどういう風に見てるのかな?」
「ご想像にお任せします。僕の口からは何とも」

むむむ、と唸りながら少し睨む感じの視線を適当に受け流しつつ、続きを促す。

「むう……
なんかもったいぶったのが馬鹿みたいになってきたなぁ。
とにかく、昔ある事件に巻き込まれました。その時家族はみんな死んでアタシも死にかけました。その時の事がトラウマで人に触れません。オシマイ」
「サラッと凄い重たい話をしましたよね、今?」
「鏡クンのせいだからね。ホントはもっと重々しく話したかったのにさっ!」
「ゴメンナサイ」

プク、と頬を膨らませてふて腐れてしまった。けど、どうもこの人がやると怒っている様に見えない不思議。まあ、おかげで僕も責められてる気がしないから気が楽だけど。茶化した反省は心の中でコソッとしておく。

「鏡クンとはさ、仕事でも同じ班だし、もしかしたら無意識でまた同じような事しちゃうかもしれないから話したんだ。だから、あんまり気にしないでね?」
「大丈夫ですよ。確証はありませんでしたけど、何か理由があるだろうとは思ってましたし、ああいう職場です。たぶん、ほとんどの人が何かしらそういうトラウマ的なものを抱えてるんじゃないですか?」
「それでも、だよ。知ってるのと知らないのとじゃずいぶん違ってくると思うから」
「分かりました。覚えておきますよ」
「うん、メンドクサイだろうけど、これからも嫌がらず付き合ってくれると嬉しいなっ」
「大丈夫ですよ。僕は一度好きになったら嫌いになれない性質ですから」

空になったカップから突き出たストローをもてあそびながら、僕はそう口にした。
中々他人を、男女問わず好きになれない僕だけど、一度気に入ってしまったらもう僕はそいつを嫌いになれない。どれだけひどい事をされようと、どれだけ僕を怒らせようとも、結局は同じような付き合いを続ける事ができる。それが良い事なのかは判断がつかないけど、それが僕なら僕はそれを受け入れる。

「ふふ、ありがと、鏡クン」

お礼を言われるなんてとんでもない。むしろ僕の方こそこんな僕に付き合ってくれてありがとう。
そう言いたくて、でも真面目な気持ちでありがとうと言うのが気恥ずかしくて、何故だか苦笑いが浮かんでくる。代わりにどういたしまして、と言おうとして僕は視線を水城さんへと戻す。
そこに、水城さんの笑った顔があった。
普段の、年中笑ってそうな幼い笑顔じゃなくて、年相応、もしくはずっと大人びた、心底嬉しそうな顔。
それを僕は不覚にも「可愛い」と思ってしまった。

「おっと」

また鳴り出した携帯が僕を現実に引き戻す。また母さんか、と思ったけど、今度の番号は最近頭のメモリに追加された番号だった。

「鏡ちんか? 私だ」
「課長までですか……そんなにみんな僕をそう呼びたいんですか?」
「ふざけた事を言ってくれる。お前がそう呼ばれるのが嫌いだから、わざわざそう呼んでやってるんだ」

テメエがふざけてんじゃねえか。
とは口が裂けても言えない。言い返そうもんなら、どんな反撃が返ってくるか分かったもんじゃないし。

「どんな反撃がお望みだ? ん? 今なら特典で悠も一緒に抉ってやるのも吝かではないぞ」
「人の心を読まないでください。別に僕も水城さんも課長には何も抉ってほしくないですから。
それで、要件は何ですか? 仕事ですか?」
「当然だ。私がプライベートでお前に電話を掛けると思うか?……ああ、それはそれで面白そうだな。今度試してみるか。朝四時くらいに」

もう切っていいだろうか。相手が水城さんや正祐なら問答無用でとっくの昔に、最初の一文字を発した段階で切ってしまっているかもしれないけど、一応仕事の話らしいし、切るに切れないのは地味にストレスが溜まる。

「忙しいんじゃないんですか?」
「はてさて、忙しいからこそこうしてストレスを発散しているところなんだが、まあいい。
二十分以内にオフィスに来い。一分遅刻するごとに給料一割カットだからな。ああ、長話をしてしまったから後十八分だな。同じ事を一言一句違わずにお前の目の前にいるだろう悠にも話して連れて来いよ」

最後の最後になって要件を一方的に捲し立てると、返事も待たずに電話は切れた。耳元にはツーツー、と電子音だけが残ってる。

「仕事?」
「みたいです。水城さんも一緒に来いって」

話しながらも僕は立ち上がってテーブルの上を急いで片付ける。飲みかけのジュースを一息で飲み干すと、水城さんの分もまとめてゴミ箱に放り捨てる。

「……ずいぶん急いでるけど、そんなに緊急の仕事?」
「仕事が緊急というより、僕らの生活が緊急です」
「具体的には?」
「十分遅刻したら給料カットで餓死が決定します」






◇◆◇◆◇◆◇◆





「ココは……」
「事件の現場だ。いい加減お前にも見せておこうと思ってな」

合法非合法問わずありとあらゆる手段を用いて、何とか給料カットだけは免れた僕たちは、そのまた十分後には別の場所にいた。
課長の運転する車から降りると、大通りから少し引っ込んだ通りにある、どこにでもありそうな極普通の家が出迎えてくれた。家自体は極普通。強いて他との違いを上げれば純和風チックな作りだということくらいか。
だけど今、目の前にあるものは相変わらずの異常。物々しい雰囲気で周囲の立ち入りは封鎖されていた。
その空気に慣れきれなくて、口の中が乾く。呼吸で口を開く度に粘つく唇がひどく不快だ。

「犯人がこの中にいる……わけじゃないですよね?」
「それはないんじゃないかな?」

犯人はすでにいない。いるのなら結界が張られてるだろうし、何より空気が違ってる。能力者を捕まえる時も張り詰めた緊張感がずっしりと感じられるけど、ココはそれとはちょっと違う。自分が生きるか死ぬか、そんなギリギリの緊張ではなくて、何か現場全体がやるせないというべきか、怒りと悲しみがい入り混じったみたいな、そんな感覚。

「いないな。奴はとっくに処分済みだ」

初めて会った時みたいな冷たい口調で課長が質問に答えてくれた。でもその口調にもどこか激しさが混じってるように聞こえる。
課長に付き従う形で門扉のあった所を通り抜ける。グシャグシャに変形した茶色の門扉が傍らに打ち捨てられていた。

「何があったんですか?」

口に出してしまったけど、そんな事は決まりきっている。理性を吹き飛ばした能力者が事件を起こして暴れた。ただそれだけの事だ。今更驚くようなことじゃない。そう、驚くことじゃない。それは新参の僕にしても当たり前の事で、他の人に取ってはたぶん見慣れた程にありふれた光景のはずだ。なのに、空気は相変わらず妙に重い。

「……まったく、いつ見ても慣れない光景だ」

家の中に入り、すれ違った警察官がそんな事を漏らした。
中は外以上にひどい有様だった。嵐が家の中を通り抜けていったかのような惨状。ドアというドアが壊され、家具という家具が蹂躙され、部屋という部屋が破壊されつくされてる。廃屋、という表現がそのままピッタリと当てはまるくらいで、とても人が住んでいる場所とは思えない。
靴のまま家に上がり、踏みしめる靴の下でバリバリと音が鳴る。床に開いた穴の向こうには真っ暗な世界が続いていた。

「つぅっ!」

走った痛みに眼を遣ると切れた指先から血がにじんで滴り、更にその先からは鋭く尖ったガラス片がこちら向けて突き出していた。

「これが能力者犯罪の現実だ」

一番奥の部屋。課長の声に、切れた指先から正面に顔を戻す。そこで僕は見た。
びっしりと敷き詰められた真っ赤な血液。壁に天井に床に机に本棚にドアに椅子に電灯にタンスに服に絨毯にべっとりと、貼りつくように粘りつくように絡みつくように血がぶちまけられていた。
急に襲いかかってくる猛烈な異臭。錆びた鉄を舐めた感触が、閉じているはずなのに口の中に満ちていく。
そして血の臭いを押しのけて圧倒的存在感を放ち続ける、部屋中に散らばった悪趣味なオブジェ。不規則に散らばる六本の腕と脚。
床の上には半分潰れてしまった男性の頭部。残った半分からこちらを見上げる眼に宿っているのは痛みに対する苦痛か、自分をこんな目に合わせたことに対する憎しみか、死んでしまう運命に対する怒りか、それともまた別の何かだろうか。
別の首はかろうじて胴体に繋がっていて、だけどその体に手足は無く、更には腹は切り開かれ、赤黒く染まった中身がはみ出してしまっていてひどく気味が悪い。叫びながら死んでいったみたいに目も口も大きく開かれて、舌が空に向かったまま硬直していた。
最後は机の上に丁寧に置かれた、髪の長い女性の頭。眼は閉じられていて穏やかな表情を浮かべている。
その表情はあまりにも穏やかで、あまりにも他の二つと対照的で、そしてあまりにも嬉しそうに見えて、そしてそれがあまりにも異常で。
ひどく、気持ち悪い。

僕は膝を突いた。必死で口元を抑え、脳裏に浮かんでくる女性の表情を全力で黒く塗り潰す。水城さんの顔が視界の端をかすめて、心配そうな表情が上書きされる。

「殺された男と、その首だけの女は恋人同士だったらしい」

タイトスカートから伸びた脚がコツ、と床を一度踏み鳴らす。

「と同時に、男に周期的に暴行を加えられていたそうだ。近所の住民の目撃情報だから確度は期待できないがな。遺体の損壊が激しくて判断はできないが、虐待に近い扱いを受けていた可能性もある」

ピク、と横の水城さんが小さく震える。

「だから……この人はこんなに穏やかなんでしょうか……? もう痛みに耐えなくて済むから……」
「さあな。そんな事は私には分からん。そもそも暴行を受けててもなお恋人関係を続けられる神経が理解不能だ」

だとしたら、犯人は女性にとって救世主か。そして男と、もう一人の女性にとっては悪魔か。
「殺された被害者の心情なんぞ知る必要なぞ無い。私たちが相手をするのはトチ狂った、イカレきったこんなセンスの欠片も感じられん惨状を作り出す能力者だ。この景色を見ておけ。そして網膜に刻みつけろ。ハタ迷惑な、もしかしたら自分も仲間入りしていたかもしれないヤツと自分は徹底的に違うんだと頭のありとあらゆる部分に叩き込んでおけ」

そう言い残して榊課長は部屋から出ていって、僕は奇妙な部屋に取り残される。
臭いも慣れた。惨殺死体にも特別な感情は湧かない。極力女性の生首を視界に入れない様にして、でもチラチラと頭の中でその顔が過る。
何を思い、何を想って、何を願って生きて、そして死んでしまったのか。恋人と別れる死は悲しかったのか、それとも解放が嬉しかったのか。満足だったのか。未練があったのか。生きたかったのか。死にたかったのか。口は開かず、動くことの無い表情からはそれらを推し量る事すらできない。
課長は能力者犯罪の様を覚えろと言った。でも僕はそっちよりも被害者の事ばかり考えてしまう。課長は課長なりに僕の事を考えてくれていて、だからこそココに連れて来てくれたのだと分かってる。分かってて、だから申し訳ないけれど、この気持ちは変わらないと思う。百度見ても百度同じ感情を抱くだろう。

眼を閉じて深呼吸。吐き気はもう治まった。立ち上がって僕も部屋から出ていこうと現場に背を向けた。

「行きましょう、水城さん」

動こうとしない水城さんに声を掛ける。だけど、水城さんは散らばる遺体の方を見続けていて返事は来ない。

「水城さん?」

もう一度呼びかけてみるけど、反応は同じく無反応。彫像の様に固まってしまって、ピクリともしない。

「水城さん!」

少し大きめの声。でも同じ。
僕は逡巡して、恐る恐る彼女の手を握った。さっき指先を切っていた事を忘れてて、水城さんの手に赤い僕の血が付いた。
瞬感、彼女の体に熱が戻る。ひんやりとした手でバッと振り払われて、そこで初めて水城さんは僕に気づいたらしかった。

「スイマセン、いくら呼んでも反応が無かったですから。
どうかしたんですか?」
「……ううん、何でも無いよ。それで、何かなっ?」
「いえ、ただ単にもう出ようかと思いまして。水城さんはどうしますか?」
「アタシも出るよ。あんまり気持ちいい所じゃないもんね」

どこか無理やり感のある笑顔を浮かべて水城さんは部屋から出ていった。それを見送って、最後に僕も部屋を出る。
指先を見ると、まだ少し血がにじんでいた。口に突っ込んでそれを舐め取る。すっかり麻痺してしまっていて、血の味は感じない。
とにかく出よう。連れて来られはしたけど、ここで僕の仕事は無さそうだ。
踏みしめたガラスが砕ける。その上に一滴だけ、僕の血が零れ落ちた。
















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