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第一話 夢を、願う(12/06/09)
第二話 石とボール(12/07/08)
第三話 其は誰がために剣を握る(12/07/21)
第四話 世界はあまねく世知辛く(12/08/26)
第五話 纏い惑い迷い(12/09/30)
第六話 人(12/09/30)
第七話 コウセン(12/10/21)
第八話 今を生きる夢(12/10/21)
第九話 嘘つき(12/11/10)
第十話 迷い人は夢で生きる(12/11/10)









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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved






-1 夢を願う-


――空が落ちてきた。

直前に見た光景のことを、誰にともなくノゾミはそう表現した。もちろんそんなはずは無く、「空」という名前の誰かが落ちてきたわけでもない。今も自分の頭上には「底抜けに」と例えるのがまさに正解、と断言できるような青空が広がっている。ノゾミの足の裏は地に着いているし、瑞々しく長い草は風に揺らされてふくらはぎをくすぐる。
それでも確かに空が落ちてきた。その事にノゾミは疑問を抱いていない。いや、もしかすると空が落ちてきたのでは無くて空に吸い込まれたのかもしれない。地面ごと空に吸い込まれて、自分が空だと思っていたモノのその上にはまた空があって……と真面目に考察をしようとしたが、空を見上げたところでそのバカバカしさに気づいて止めた。見慣れた青空の上には何も無くて、強いて挙げるならば宇宙空間が広がって、その先に様々な星々が点在しているのはノゾミの知る世界の常識だ。

――だけど

ノゾミは「底抜けに」広がる青空を見渡して思った。

――ここはどこなんだろうな

周囲には何も無い。どこまで行っても背のやや高い草原が広がっていて、建物はおろか木々さえ存在しない。空を再度見上げてもそこには青しか無く、遠くに霞んで見えるような山々も無い。三六○度、どの方向を向いても景色は同じだった。
とりあえず、歩くか。そう思って脚を踏み出しかけるが、左脚を上げたところで止まり、また元の位置に戻る。この場にいても何か状況が変わるとも思えないし、何か行動を起こすべきだとノゾミも理解しているが、こうも周りの景色が変わらないとどの方向に向かって歩き出すべきか、その判断にも困った。ここがどのような場所かは分からないが、無駄な体力は使いたくない。
どうすべきか。ノゾミが栗毛色の髪をかきむしった時、一際強い風が吹いた。強い、とはいってもこれまでのそよ風と比較してのもので、実際はノゾミの髪をややはためかせる程度のものでしか無い。だが急だった事もあってノゾミは手を目元にやって風を防ぐ。
と、何かがノゾミの視界を横切った。
ノゾミは慌てて手を除けて横切った何かを探す。が、周囲には先ほどと同じで草原が広がるばかり。どこかに隠れる場所も無い。

「幻、か?」

状況を考えればそうとしか思えない。だが口ではそう言いつつも、確かに何かがいた、とノゾミは確信していた。なぜならば、一瞬だけだったがその姿は脳に焼け付いた様にはっきりと残っていたから。
姿は女性だった。体は小柄。おそらくは幼稚園児程度しか無かったのではないだろうか。一瞬見えた顔立ちも体相応に幼かった様に思う。銀色の髪は長く、かかとくらいにまで届いている。その髪をなびかせながら、彼女は笑いながら流し目でノゾミの方を見ていた。
しかし解せない事が一つ。彼女の頭は、立っているノゾミと同じ位置にあった。
ノゾミの背は決して高い方では無いが、かといって低いわけでも無い。残念ながら一七〇センチには届かないが、世間様の男性と同程度だと考えている。つまり、消えていった彼女は「浮いていた」事になる。

「となると、幽霊かなんかか?」

姿が掻き消えてしまったことからそう考えるのが妥当かもしれないが、こんな真昼間から? それもまた変な話だ。
どうにも不思議な事が続いてまた頭をかきむしり、頭を悩ませる。

「まあ、考えてもどうしようもねーよな」

これも何かの縁、とノゾミは先程の少女が消えていった方向へ脚を踏み出した。



歩きながらノゾミは考える。ここは何処だ、と。そして、そもそもどうして自分はこんな場所にいるのか、と。
気がついた場所から歩き始めてもうずいぶんと経つが、景色は一向に変わらない。地平線は果てしなく、足元から伸びる草原はどこまでも青い。景色を楽しみながらノゾミは、疑問とともにここに来る前の事を思い出そうとした。

「あー……何してたんだっけ?」

だが思い出せない。高校を出て帰り道を歩いていたのは思い出せる。しかし、こんな場所に来てしまったきっかけが分からない。ただ、急速に空が近くなったのは覚えている。
そもそも自分はこんな性格だっただろうか。こんな見ず知らずの場所に放り出されて、一人でいて、落ち着いていられる人間だっただろうか。
自分は自分。それは間違いない。だから今の自分の性格はきっと以前からこうだったに違いない。違いないのだけど――
それでもノゾミは違和感を拭えなかった。もっと違う自分だったような、そんな感覚がどこかに残る。

――まあ、いいか

その疑問をノゾミは捨て置いた。自分を探求する哲学的な思考は暇つぶしには良いかもしれないが今の自分に必要なものを与えてくれるわけではない。当然この場所がどこか、何故ここにいるのかを教えてくれるわけもなく、それを知るには、記憶の欠損も手伝って情報が少ない。ともかくは、この広い草原で何かを見つけなければ。
気づけば口元に手を当てて下を向いていた顔を上げてノゾミは前を見た。
その時、また何かが横切った。それは歩き始める前に見た少女で、また目の前で消えてしまったけれど、今度こそノゾミははっきりと見た。銀髪をなびかせて、無邪気に笑う小さな姿を。

「え?」

消え去るまで少女の姿を追いかけたノゾミだったが、その先で見たものに対して思わず声を上げた。
そこにあったのは森だった。新緑が深々と生い茂り、ノゾミが首を左右に振っても壁のように木々が壁のように広がっていた。背丈の高いスギの木は陽を遮り、森の奥は薄暗く窺い知れない。
ノゾミは慌てて自分が歩いてきた方を振り返った。草が風に揺らされてざわめき、足で踏み潰された雑草が進んできた道を示している。そしてその横にもやはり森は続いていた。

――森は初めからあった? いや、そんなはずはない。確かにここは草原だったはずだ。

戸惑いながらもノゾミは記憶を掘り返す。思考に没頭して周りが見えていなかったとしても、こんな巨大な森が広がっていたなら途中で気がつくはずだ。少なくともノゾミは、どこまで行っても草原という置かれていた環境からの変化を求めて歩いていたわけで、景色が変化したのならば見落とすわけがない。

――ここは……何だ?

初めてノゾミの心に不安がよぎる。どこまで行っても変わらない草原。突如現れた広大な森。世界に対する理解が及ばず、推測も予測もできない。次に何が起きるか分からない。ノゾミは不安と共に警戒を抱いた。
近寄るべきか、否か。もう一度正面を見据える。進んでいた先には変わらず何も無い。果てが見えない。
ノゾミは顎に手を当てて思案した。しばらく考えて、やがて厳しい表情で森を見据えると今度は慎重な足取りで森へと脚を踏み出した。



外から見て思った通り森の中は暗くて、そして予想以上に暗かった。相当に暗いだろうことは想像していたが、まさか足元もおぼつかない程に見えないとは思っていなかった。昼間であるし、入る前に森を見ていた時は木々の間にそれなりに距離はあるし、まだうっすらと中が見えていたためにノゾミは大丈夫だと思って中に入っていったのだが、すぐにそれが間違いだと気付かされた。少し奥に入ったところで森は深さを増し、張り出した根がノゾミの歩みを阻む。これはマズい、と思った時にはすでに遅く、後ろを向いても陽光は見えなくなっていた。
「しくじったな……」

多少慣れた暗闇の中、足元を見て歩きながらひとりごちた。結局ノゾミは戻る事をせず前に進むことを選んだ。戻ることを選んだところでキチンと外に出られるとは限らず、例え戻ったにしてもまた元の草原を進まなければならない。それならば危険であることを認識して、新たな場所を探した方がマシだ。
だけど、とノゾミは腰に手を当てて空を仰いだ。その判断は失敗だったのではないか、点でしか見えない青空を見てそう思う。どっちに進めばいいのか、そもそもちゃんと前に進めているのか、それすらも怪しい。もしかしたらさっきからずっと同じ場所をグルグルと回っているかもしれない。そんな気持ちが湧き上がる。
一つ溜息。
どちらにしろ進むしか無い。そう思い直してまた脚を前に進ませる。そして森が現れた時の事を思い起こした。
もし、戻ったとしてもそこが同じ景色とは限らない。森が突然現れるとは常識ではとても考えられないが、仮にそれが「この場所」では有りうるのだとすると、森の入口が全然別の景色になっていることも有り得る。そして戻ってきたことに気づかなくてさまよい続ける可能性もある。ならどう動いたって同じだ。後は、運だけ。
自分を叱咤してノゾミは歩く。足取りはまだ重くは無い。ヒンヤリと涼しい森の中をただ前に進んだ。

「……どんだけ深いんだよ、この森は……」

深く息を吐きながら、ノゾミの口から苛立ちが溢れる。腕時計も持っておらず、森の中を歩いていたためか時間間隔もすっかり狂っている。疲労がいい加減ノゾミの体を襲ってきていた。
これだけ歩いても開けた場所に出られないのは、やっぱり同じような場所を動いているからなのか、それとも森が単に深いだけなのか。下を向きながら、疲労のせいでまとまらない思考を繰り返していた時、足元を何かが通り過ぎる感触がした。

「ん?」

スルリ、とノゾミの後ろから股の下を通り過ぎたのは一匹の猫だった。ノゾミのそれとは対照的に確かな足取りで軽快に進み、そして立ち止まる。そして一鳴き。

「にゃ〜」

ノゾミの方を向いて顔を洗ってもう一度鳴き、またノゾミに尻を向けて歩き始め、フッとその姿を消した。
すでにノゾミはその事に驚かない。先ほどの消えた少女と同じような存在なのかな、程度に考えている。

「精霊、みたいなモンか?」

しかし可愛かったな。猫好きなノゾミはついつい顔を綻ばせ、この場所に来て初めて笑顔を見せて顔を上げた。

「あ……」

そこに光が差し込んでいた。森の木々が途切れ、しばらく眼にしていなかった広い青空が広がっているのがノゾミの位置からも分かった。安堵と喜びの入り混じったため息が漏れる。

「やっと……」
「やっと外だよ〜!!」

二人の声が重なる。え?とまた同時に二つの声が発せられて森の中、間近で聞こえた自分以外の声に互いに相手の方を振り向いた。
ノゾミは彼女を、彼女はノゾミを。自分以外の人がいたことにノゾミは驚いたが、彼女は丸い小さな顔の中で特徴的な大ぶりの眼を真ん丸にしてノゾミを覗き込んでいた。

「や……」
「や?」
「やったぁー! 会いたかったよーっ!!」

彼女は歓声と共に両手をあげて勢い良くノゾミに飛び込んできた。うわ、と声をノゾミも上げ、突然の事にタタラを踏むがかろうじて踏みとどまった。が、次に襲ってくるのは香り、そして柔らかな感触。男性とは違う女性独特の香りが汗の匂いと混じりあって、少しだけ低い位置にある彼女の体から漂ってくる。抱きかかえる形になった両掌は半袖のシャツを着てむき出しになった彼女の肌に直接触れ、その柔らかさを感じる。受け止めた体には彼女の胸。
ノゾミはこれまで親以外の女性の体に触れる事は無かった。少なくとも記憶には無い。初めての感触はノゾミの思考を容易く蝕んだ。つまり、頭の中は真っ白である。

「もー一人でこんなとこに居てさ、周りは誰も居ないし森の中は暗いしどこ向かってんのか分かんないしさ。君がいてくれてホント良かったよぉ!」

そう言ってグリグリと全身をノゾミに押し付けてくる。ノゾミの目のすぐ下にはサラサラとして触り心地の良さそうなショートの髪の毛。前髪はヘアピンを使って上げた状態で留めてあり、シャンプーの香りが鼻をくすぐる。

――女の人って、こんなに柔らかいのか

ノゾミはフワフワした心地の中で、その髪の毛を撫でたい衝動に駆られた。誘われるように 右手が彼女の髪へと伸びていった。
ソっと彼女の腕から手を離し、肩の隣を通過。頭の脇を過ぎて髪の毛から少しだけ飛び出した、三角形の猫の耳の上を通り過ぎて――

――ネコの……ミミ?

通り過ぎた手をバックさせてミミの上へ。ピクピクと動いている。短い毛で全体が覆われていて、軽く指先で触ってみると暖かい。触れた瞬間に思った以上の力でミミが動いて指先から離れていった。そこでノゾミは我に返った。
自分を取り戻した瞬間にノゾミの頭は冷静さを取り戻して、落ち着いた頭の中でムクムクと疑問が首をもたげる。
まず一つ。人間の耳はこんな所には無い。よくできた作り物かもしれないが、急に森が現れる世界だ。こういった生物も居るかもしれない、ということで脇に置いておく。
二つ目。この女の子は誰だ?「会いたかった」と言って抱きついてくるのだから知り合いの可能性が高い。だが抱きついてくる前の顔を思い出して記憶を探ってみるも該当する人物はおらず、ましてネコミミの人間そのものを見たことが無く、加えてこの世界に来る前の記憶も曖昧。疑問の答えなど到底出てきそうにない。
ならば直接聞くしか無い。そう結論づけてノゾミは彼女の肩を掴むとゆっくりと自分から引き剥がした。温もりと心地よさが離れていく惜しさには封をしておく。

「あー……えっと、その、こんな事聞いて何なんだけど……」
「うにゅ?」
「俺と君は知り合いなのか? 俺が忘れているだけだったら申し訳ないんだけど」
「えっ!? そんな!!」

ノゾミがそう告げると彼女は驚愕の表情を浮かべてノゾミを見た。その表情を見てノゾミは「やはり知り合いだったか」と申し訳なさがこみ上げ、頭を下げようとした。

「いんや? 全然初対面だよ?」

泥濘んだ地面に足が滑って木に景気よく頭をぶつけた。ゴイン、と静かな森に音が虚しく響いた。

「何やってんの? 一人コント? 全く面白くないんだけど?」
「……気にしないでくれ。それよりも、だけど、知り合いじゃないなら今の思わせぶりな表情は何だったんだよ?」
「なんとなく」

ノリでやってみた、と有難くも無いコメントが返ってきてノゾミは痛む頭を抱えた。

「それなら君は全然見ず知らずの俺に抱きついてきたわけか」
「いやー、だってさ、ずっとこんな暗い森の中に居てさ、右も左も分かんない所を一人ぼっちで歩いて心細かったところに他の人が現れたんだよ? そりゃあ人肌恋しくもなって抱きつきたくもなるわけですよ、旦那」
「誰が旦那だ。そりゃ気持ちは分かんなくはないけどな……」

実際ノゾミも相当不安だった。いつ抜けるかも分からない森の中で一人。森が途切れて光が見えた時は一気に心が軽くなった気がした。すぐ隣に誰か居ようものならその喜びを分かち合いたくもなろうものだ。
大きく歯を見せて悪びれた様子もなく笑う彼女を見てため息を一つ。

「とりあえず森を出ようか」彼女に提案して一歩前に出る。「森が広がるかもしんないし」

その言葉に少し彼女は怪訝な顔をしたものの黙ってうなずき、ノゾミの横に立って並んで歩き始めた。

「ねえねえ、名前教えてよ。私はアユム、よろしくねー」
「アユム、ね。もし良かったら名字も教えて欲しいんだけど」
「んー……それなんだけどね、思い出せないんだよね」
「思い出せない?」
「うにゅ。自分でも変だって思うんだけどさー、思い出そうとしてもモヤっとしてて出てこないんよ」

言われてノゾミも自分の名字を思い出そうとしてみる。だが、アユムが言った通り頭の中がボンヤリとして出てこない。確かに知っているんだけど、思い出せない。勉強して覚えたはずの単語が思い出せない、そんな感覚。

「確かに思い出せないな……」
「でしょでしょ!? 良かったー、私だけじゃなくて。自分の頭が病気かなんかでどうにかなっちゃったかと思ったよ」
「なら俺も名前だけ言っとくよ。俺はノゾミ。女みたいな名前だけど気にすんな」
「それ言ったら私の名前だって男みたいだし。気にしないよ。てか名字思い出せないくらいなんだからそんな些細な事気にする必要なし!」
「それもそうだな。ところで、何でこんな森の中にいたんだ?」

ノゾミの質問にアユムは難しい顔をして考えると、ポリポリと頬を掻いて「分かんない」と告げた。

「気がついたら森の中にいたんだよねー。それまで学校の帰り道を歩いてたはずなんだけど……そういうそっちは? 何でこんなトコにいたの?」
「こっちも似たようなモン。突然空が近づいてきたかと思ったら、気がついたら一人でこの世界にいた。ま、俺がいたのは森じゃなくて草原だったけど」
「そうなんだ? 私の場合なんて言うか、風景が加速する感じ? 自分は立ち止まってんのに周りだけメッチャクチャ速く通り過ぎてるの。もう線でしか見えなくってさ、そんで止まったと思ったら森の中だった。ノゾミのトコはどんな場所だった?」
「何も無かった。どっこまで行っても草ばっかり。前見ようが後ろ見ようが右も左も三六〇度どこ見ても草原だけ。かと思ったら突然森が生えた」
「……ゴメン、最後だけ意味分かんない」
「俺も同意。言ってて自分でも意味分かんないし。でも、本当に突然草原に森が出てきたんだよ。俺の頭がイカれてなきゃそれは間違いない」
「えっと……マジで?」
「マジで。んで、どこ行けばいいか分からん草原あるよりはいいか、と思って森に入って迷子になってたらアユムに会った、というわけだ」
「なにそれ。じゃあ私たちってそんな意味分かんない気持ち悪いトコにいるってこと?」
「というか、この世界そのものがイミフだよ。どこまで行っても草原とか、森が生えるとか俺の常識じゃありえん」
「あ、だからさっき変なこと言ってたのね。森が広がるとか」
「そういう事。とりあえず今はココは『なんでもアリ』な場所だと思っておくことにしてる」

そう話している内に森の出口に二人は到着した。外からは暗い森の中に眩い光が差し込んでいて、ノゾミは眩しさに眼を細める。そして二人は森の外へと踏み出した。
ノゾミは言葉を失った。だがそれは決して悪い意味ではなく、目の前に広がる景色に心を奪われていた。
足元は再び草原。しかし、すぐ目の前では湖水が空から降り注ぐ陽光を力強く反射していた。更に奥には、林と低い山々。木々からは鳥のさえずりが聞こえてくる、生命の存在があった。緑々とした自然が、そこにはあった。

「うわぁ……」

アユムも感嘆の声を上げて豊かな自然に眼を奪われる。胸を張って肺の中いっぱいに空気を吸い込む。ノゾミは揺れた胸に眼を奪われ、慌ててアユムから眼を逸らした。

「んー……空気が美味い! ノゾミがあんなこと言うから森の外がどんな不気味な場所かと思ったけど、いい場所じゃん! で、ところでさ」
「なに?」
「そのカッコ。ノゾミって野球部か何か?」

言われてノゾミは初めて自分の格好を見た。足元は白いソックスにスパイクを履いていて、上下は真白なユニフォーム。どこをどう見ても野球をしに行く姿だった。
対するアユムの姿を見てみる。薄いレモン色のシャツにデニムのホットパンツを履いている。そこから伸びる脚は白と黒の縞模様のニーソックスで覆われて、足はヒールの低いサンダルを履いている。ノゾミもアユムも、こんな自然の中を歩くにはかなり不自然な格好だった。

「んー、まあ、そんなもの」

アユムの質問にノゾミは言葉を濁した。代わりにずっと気になってた事を口にする。

「そっちこそ、そのネコミミは何さ? 新しいファッション?」
「ネコミミ?」

アユムは自分の耳があるだろう場所に手をやる。が、その位置には薄い茶色の髪があるだけで、髪をかき分けてもその下には何も無かった。途端にアユムの血の気がサアっと引き、表情が固まる。そしてゆっくりと手を頭の上へと持ってくる。あった。

「にゅ!?」

自分の耳を揉む。手の感触が伝わる。触れた瞬間に反射的に身を縮めてしまう。そこには確かに自分の耳がある。

「耳が……頭にある……」
「まあ、頭にあるのは当たり前だけどな」

プルプルと震えながら振り返り、涙目でアユムはノゾミに何かを訴えるが、ノゾミはそれを無視した。
そんな眼で見られても、俺にどうしろと言うんだ。よっぽどそう言ってやりたかったが、涙目の女性に向かって実際に口にする勇気はノゾミには無かった。

「う〜……意識したら急に違和感がハンパないよ……」
「俺は別に良いと思うけどな。本物のネコみたいで可愛いじゃん」

そう言ってアユムの頭に手を遣り、ぷにぷにと肉厚のネコミミを揉みしだく。ぷにぷにぷにぷに。指の動きは止まらない。

「あのさ……そろそろいい?」
「え? ああ、悪い」

撫でられると気持ちが悪いのか、アユムは身を縮こまらせ小刻みに耳を震わせて上目遣いでノゾミに訴える。今度はどうすれば良いかは分かる。名残惜しそうにノゾミは手を話した。

「うう……なんか耳が気持ち悪い……」
「それで、これからどうする? 森を抜けたはいいけど、何か案はあるか?」
「どうしようかな? ……ねえ、変な事を言うけど怒らないでね?」

何だ?とノゾミは視線をアユムに向ける。アユムは頬を掻いた。

「たぶん、元の世界に――それが何処かは思い出せないんだけど――帰る方法を探すのが正しい選択なんだろうけどさ、その、あんまり戻りたいって思わないんだよね」

言いづらそうに口を開いて出てきた言葉は、ノゾミも感じていた事だった。森を歩いていた時も不安こそ感じ、この世界のあり方に疑問は浮かべども元いた場所に戻りたいとは思っていない。それどころか元の世界に戻れなくて、この世界に居続けてもいいと、心の何処かで思っていた。衣・食・住の全てが手に入る保証が無いこの場所に不安を感じても、不満は感じていなかった。

「だからさ、のんびりと適当にブラブラしてみない? どっかに町とか見つかるかもしんないし、それからの事はまたその時に考えるって事で」

遊びに出かけるような気軽な口調でアユムは提案した。ノゾミもそれに異論は無い。どのみちこんな場所では何もできないし、元の場所に戻りたくなったとしてもそのヒントさえ見つからないだろう。

「んじゃまずはココでしばらくのんびり……」
「どうした?」

不自然にアユムの声が途切れる。耳をピクピクと動かし、表情も緊張で固まって出てきた森の方を振り向いた。
ノゾミもまた振り向く。自分たちが出てきた場所はポッカリと穴が開いて真暗。まるで別世界へとつながってるみたいだった。
その暗闇にノゾミは眼をこらす。何も見えないし、ノゾミの眼には何の異常も感じられない。しかしアユムには見えているのか聞こえているのか――たぶん聞こえている方――、じっと森の中を凝視している。
不意にノゾミの見えてる世界に変化が訪れた。猫が森の中から飛び出してくる。森を出る前に見た猫だ。ノゾミはそう思った。薄い茶色に所々白い毛が混じった猫が森から駆け出し、ノゾミの足元を抜けてアユムの肩に飛び乗った。
もう一つ何かが飛び出してきた。最初に見た少女だ。銀色の髪をたなびかせ、ノゾミの胸辺りの高さを飛んで切羽詰まった表情でノゾミに向かってくる。そしてノゾミを急かす様にグルグルと顔の周りを飛び回った。

「何が……」

ノゾミの言葉を遮るように、森の中から音が近づく。ドン、ドン、と何かを叩いているような、何かの足音のような、そんな音。ノゾミの耳で微かに捉える程度だったその音は次第に大きくなり、ミシミシ、という音が加わる。そして奴は現れた。

「……!」

鬼だ。現れたそれを見てノゾミは固まった。森の木々を手に持った巨大な棍棒でなぎ倒しながら現れた二体の鬼。見上げなければならないほどに大きな全身の色はそれぞれ薄い空色と桜色で、眼は顔の真ん中に一つだけ。ギザギザの歯は頑丈で鋭く全てを噛み砕いてしまいそう。怒っているのか笑っているのか読み取れない表情で鬼はノゾミとアユムの二人を見下ろした。

「う、あ……」

アユムの口から怯えが溢れる。脚が震え、言葉が出ない。顔を真っ青にしてただ鬼を見るだけだ。
その怯えを感じ取ったのか、二匹の鬼は大きな口を三日月型に横に開いた。
そして手に持った棍棒を大きく振りかぶった。

「逃げるぞっ!!」

ノゾミは叫んだ。アユムの手をつかみ、引きずる様にして走り始める。
直後、轟音。振りかぶられた棍棒がアユムのいた場所を叩き潰し、地震の様な揺れが辺り一帯を襲って木々に止まっていた鳥たちが慌ただしく空へ逃げ出した。抉られた地面が吹き飛び、走りだしたノゾミたちの横を鋭く通り過ぎていった。

「な、何なの何なの!? 何なのよ、あいつらは!?」
「知るかぁっ!! とにかく走れっ!!」

叫びながらノゾミは後ろを振り返った。ゲームの中でしか見たことの無い、現実には存在し得ない鬼たちは、鈍重な足取りでノゾミたちを追いかけていた。その歩調は遅い。だが歩幅は自分たちとは比べ物にならない。全力で走っても距離は思ったように開かない。
ノゾミは走る。アユムも必死に鬼から逃げる。その少し前を、少女は泣きそうな表情で飛んで、時折ノゾミの様子を伺う様にして振り返っている。
ノゾミは湖の脇にある小さな森に駆け込んだ。アユムもまたそれに付き従って森の奥に逃げ込む。

「これでっ……!」

森に逃げこむことで図体の大きい鬼たちの歩みは遅くなる。そう思って嬉々としてノゾミは再度鬼たちへ振り返った。

「マジかよっ……」

だが、鬼たちには関係なかった。二体の鬼は互いに棍棒を振り回し、木々を根こそぎなぎ倒し、森を並木道に作り変えながら進んでくる。

「ブルドーザーかよ!?」
「ブルドーザーは単体で人を襲ったりしないわよっ!!」

森を抜けると小高い丘が眼に飛び込んでくる。廃鉱の様なハゲ山で、木はまばら。ゴツゴツした岩が方々に転がっている。

「ハッハッハッ!」

息を切らして坂道を登る。転がる岩を飛び越し、デコボコとした、道とは言えない道をアユムと一緒に駆け上がった。

「あ、あそこっ!」

アユムが前方を指差して叫ぶ。
崖になっている細い道。大きく右に湾曲して伸びているそれの途中の山肌に人が入れそうな洞窟らしきくぼみがあった。そこであれば鬼からは逃げられる。二人は両足に力を込めた。
果たして、そこは確かに洞窟だった。高さは二メートルに満たず、横幅も二人がギリギリ入れる程度。駆け込んだ二人は思わず叫んだ。

「ドアっ!?」
「なんでンなモンがここにあるんだよっ!」

自然物の中にさも当たり前の様に存在する鋼鉄製のドアがそこにあった。壁から生えた様に岩壁に固定され、自然な不自然が二人の脚を止めた。
背後からは振動とともに足音。距離はほとんど無い。一瞬のためらいの後、ノゾミは胃を決してドアノブをひねる。

「……開いてる! 早く入れっ!」

アユムを押しこむようにして中に入れ、ノゾミ自身も急いで中に入る。震える手でかき鳴らされるカチャカチャというドアノブの音。
ドアを閉める直前にノゾミの眼に届いたもの。それは、鬼たちが恨めしそうにノゾミたちを覗きこんでいる姿だった。
鋼鉄製の扉が閉められ、内側から鍵を掛ける。その瞬間、ノゾミの脚から力が抜けた。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

壁にもたれかかると一気に全身から汗が噴き出してくる。ベットリと生暖かい汗が額を覆い、前が鬱陶し気に張り付いていた。
アユムの方を見れば、アユムもまたペタンと地面に腰を降ろし、両手をついて息を整えていた。

「な……な、に、アレ……」
「知らねえよ……あんな生物見たことねーよ」
「すっごい大きかった……色も気持ち悪いし……」
「ゲームのモンスターが現実に出てきたら、あんな感じなんだろうな……」
「てか、何で私たち襲われてんの?」
「知らん。大方、俺らが美味そうな餌に見えたんじゃないか?」
「……やっぱし食べられるのかなぁ、私たち……」
「ココにいれば大丈夫じゃないか? 何でかは分からんけど、こんな頑丈そうなドアまであるし」

そう言ってノゾミは扉を軽く叩く。コツコツ、と硬そうな音が狭い洞窟内に響いた。

「扉一枚って言うのが不安で仕方ないけど、何とかなるのかなぁ……」
「信じるしかないだろ。この狭さじゃ奴らは入ってこれないだろうし、外で音もしないから……」

ノゾミが喋ってる途中で轟音がした。ノゾミは顔をひきつらせて言葉を止め、アユムは泣きそうな顔でノゾミの顔を見た。
何かを叩きつける様な音。それに続いてゴリゴリと削り取る音。そしてまた叩く音。交互に続いていく。
ノゾミとアユムはジリジリと奥へと下がる。だがその洞窟は浅く、数メートルも進めばすぐに最奥部へと辿り着いてしまう。
洞窟が揺れ、天井部からは細かい砂や小石が落ちてくる。音は少しずつ二人の元に近づいて来ているようで、まるで恐怖を煽る様に徐々に大きくなる。
果たして、扉は破られた。
破られた、というのは正確では無い。扉は今なおノゾミたちの正面に位置している。しかし、二体の鬼はその遥か上、天井から二人を見下ろしていた。
青空の光を遮り、大きな影がノゾミとアユムを覆い隠した。

「いやぁ……」

小さな悲鳴がアユムの口から漏れてノゾミの耳にも届く。その声が鬼に届いたか、今度こそ愉快気に大きな口を歪めた。

――コイツら……楽しんでやがる……!

鬼たちの口はただ三日月型に歪むだけ。だがノゾミには笑い声が聞こえる様だった。
ギリ、とノゾミの歯が軋む。抗う術を持たない圧倒的弱者。アユムを庇うように自身の背中にやり、拳を強く握りしめてノゾミは強者である鬼を睨みつけた。
それでもノゾミに何ができるわけではない。無出であるノゾミに武器は無いしこの状況をひっくり返せる案があるわけでもない。
無力。逆らう方法を持たない、無力な子供は力ある大人に蹂躙されなければならないのか。力が無ければ従わなければならないのか。

――力が、欲しい

一人で生きていける力が欲しい。ノゾミは念じた。周りに左右されない、自分だけの力が欲しいと強く思った。
その時、少女が微笑んだ。
洞窟に入るまでノゾミの周りを飛び、洞窟に入って姿を消していた名も知らない、存在さえ儚げな少女。彼女がノゾミの目の前で微笑んだ。
両手でノゾミの頬を包み込み、優しい笑みを浮かべてノゾミに口付けた。
ノゾミは光に包まれた。陽光さえ遮る様なきらびやかな光が洞窟から空へと突き抜けていく。その中でノゾミは不思議な安心感と高揚感に支配されていた。それは遠い昔に置き忘れてきた、暖かく懐かしい気持ち。世界の全てが自分だけで構成されていたあの時の感覚。それをノゾミは味わっていた。
光の中でノゾミは構えた。右手を鬼に向かって突き出し、掌の中にも新たな光が現れる。
光が消え、半身になったノゾミの掌に握られていたモノが顕になる。
それは銃だ。黒一色に覆われ、極限まで単純化された一丁の拳銃だ。ゴツゴツとした触感が触らずとも分かるほどに明確なデザイン。
無骨なそれをノゾミは構え、そして引き金を引いた。
爆発的な光が辺りを塗り潰した。あまりの眩しさにアユムは眼を閉じ、両腕で咄嗟に顔を覆い隠す。その前でノゾミの銃からは、その口径とは明らかに異なる巨大な光の矢が天へとあっという間に貫いていった。
猛烈な風が洞窟内に吹き荒れ、アユムとノゾミの髪を大きくかきあげる。その風が治まりアユムが手をどけて天井に開いた穴を見上げると、そこには何も存在しなかった。ただ、青空がそこにあるだけだった。

「……テメーにゃ絶対に負けねえよ」

その呟きと同時にノゾミの手からは銃が光となって消え、ノゾミは力を失って膝から崩れ落ちた。

「ノゾミっ!!」

駆け寄ったアユムが倒れるノゾミを抱きかかえて名前を叫ぶ。しかし、ノゾミにそれに応える気力は無かった。ただ眠かった。
それでも何とか笑顔を作ってみせる。ちゃんと笑えているかは分からないが。
吐息を一つ。そしてノゾミは眼を閉じた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「……ハッ!」

希はベッドから飛び起きた。口からは荒い息、全身にグッショリと汗を掻いて吸ったシャツは重さを感じさせる。自分が寝ていたベッドはジットリと湿っていた。
呼吸を整えながら辺りを見ればそこは見慣れた場所。勉強机に壁にかかったブレザーの制服。枕元では目覚まし時計がカチコチと音を奏でて、開け放った窓から入ってきた風がカーテンを揺らしていた。
ベッドから降りて薄いフスマを開ける。眼を擦りながら母親の姿を探すが、どこにも居ない。

「母さん……?」

呼んでみるものの返事は無く希が台所に向かおうとした時、畳の上に置かれた茶色の丸テーブルにあった一枚の紙を見つけた。

「希へ
 起こそうとしたんだけど、とても良く眠っていたので先に仕事に行ってきます。朝ごはんは冷蔵庫の中に入れておくので食べて学校に行ってください」

母親からの書き置きを見て、希はホっと息を吐き出した。良かった。さっきまでいたのは夢の世界で、ここは自分の知る世界。見慣れた世界だ。
言い聞かせる様に自分の内で反すうし、栗毛がちな前髪を掻き上げた。

「あまりに良く寝ていたんで目覚ましは止めておきました。遅刻しない様に気をつけてください」

そこまで眼を通した希は無言のままテーブルの上に置かれた時計を見た。
八:三〇
ポツリ、と希は呟いた。

「……間違いなく遅刻だよ、母さん」









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