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第一話 夢を、願う(12/06/09)
第二話 石とボール(12/07/08)
第三話 其は誰がために剣を握る(12/07/21)
第四話 世界はあまねく世知辛く(12/08/26)
第五話 纏い惑い迷い(12/09/30)
第六話 人(12/09/30)
第七話 コウセン(12/10/21)
第八話 今を生きる夢(12/10/21)
第九話 嘘つき(12/11/10)
第十話 迷い人は夢で生きる(12/11/10)









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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved





-10 迷い人は夢で生きる-


何かが違う。
教室に入った希はそう感じた。
教室の中を見回しても何も特に変わった事は無い。下駄箱から廊下を通って来たがいつもと同じ風景。まばらに生徒が登校してきて、時折すれ違ったクラスメートと挨拶を交わす。そこに日々の暮らしと変化は見当たらない。
――気のせいだろう。
そう結論づけていつも通りに席に座る。登校する生徒が増えてにわかに騒がしくなり、違和感は埋没する。

「はーい授業始めるよー。みんな席に着いてー」

やがて教師がやってきて授業が始まり、希は授業に集中する。頭の上で鎮座するアルルにも慣れた。邪魔といえば邪魔だがもう気にはならない。だが違和感は残る。希はノートから顔を上げ、もう何度目かになるが教室を見渡した。
英語教師が教科書を片手に英文の一節を開始している。その教師はかつて自クラスを担当していた関教諭ではない。彼はまだ入院したままだ。
視線を移す。佑樹が机に突っ伏して熟睡している。普段から授業中に堂々と寝てる奴だが、今日は特に深い眠りの様に希には思えた。不真面目な奴だが時間には意外にもしっかりしている佑樹だが、今日は珍しく遅刻してきた。朝から元気なのがデフォルト設定なのだが、教室に入ってきた時から眠そうで、席に着くなりそのまま眠っている。
二列前の机は二つ並んで空席だ。いけ好かない長田もどうやら入院しているらしいというのは件の佑樹の言だが、希たちクラスメートには教師から特に説明も無かった。ただ急病だ、という話だけだ。だが前日の様子からして何か前兆のようなものがあったかというと希は首を捻らざるを得ない。が、元気だった子供が突然倒れる、というのも珍しいにしろ無い話では無い。
関と長田は前日までと同じ。だがもう一人いるはずのクラスメートの姿が無い。
青葉修二。長田にいじめられていた青葉も今日は欠席だった。
――偶々、だろうか。
風邪でも引いたのかもしれない。まあだれでも偶には風邪ぐらい引くだろう。だから青葉が欠席しているのも特に気に留める必要は無いのかもしれない。
けれど。
希は制服のポケットに入っている鏡を握った。異世界にいる時しか持っていなかったアスラからもらった鏡。それが今日に限って制服のポケットに何故か入っていた。これに何かしら意味を見出そうとするのは考え過ぎだろうか。
鏡と居なくなる知り合い。関連性はどこにも無いはずなのに――

「まさか、ね……」

小さく頭を振って授業に再度集中する。それでも希は理解のできない漠然とした不安から解放される事は無かった。



午前の授業が終了する鐘が鳴り、昼休みの始まりを告げる。それまで椅子に座って教師の声を聞いていた生徒たちは緊張から解放されて歓喜の声を上げ、めいめいに一時間の休憩を楽しむために席を立ち始める。
希もまた彼らと同じ様に席を離れる。いつもならばまっすぐに食堂に向かうのだが、希は足を佑樹の方へと向ける。

「佑樹、今日はどうしたんだ? 珍しく遅刻もしてきたし、授業中もいつもより爆睡してなかったか?」
「ん……? ああ、希か……」

机に突っ伏していた佑樹が眠たげな眼を希に向ける。もう昼か、とぼやきながら頭を掻き、大きくあくびと伸びをした。

「寝たのが朝だったかんな。ちょっちばかし仮眠は取ったけど、やっぱ眠いわ」
「朝ぁ? 朝まで何やってたんだよ?」
「んー……人助けかな?」
「人助け? 何だ、道端に倒れてた妊婦さんを助けてましたって奴か?」

冗談だと思って笑い飛ばす希だが、佑樹は曖昧な笑いを浮かべるだけだ。

「……本当なのか?」
「まーな。ま、人助けとはちょっち違うかもしれねーけど」

そこで一度話を区切る。頭を掻いて佑樹は少しだけ悩んでいる素振りを見せ、だが「ま、いいか」と呟いて話を続ける。

「昨日伊吹先輩に絡んでた女の子たちがいただろ? ちっとばかし気になって後を追いかけてみたんだよ」
「何だよ、ナンパかよ?」
「ちげーよ! まあ、結果的にはナンパしたけどな」
「結局したのかよ」
「話を聞くためだったんだよ! これはお前のためでもあるんだからな。ま、好奇心がメインだったのは否定しねーけどよ」
「僕のため?」
「単なるお節介だと思ってくれて構わねーぜ? 話を戻すとよ、伊吹先輩がガッコでもハブられてんのはお前も知ってるよな? んで昨日のウチの生徒じゃない奴らにも絡まれてる。そりゃ伊吹先輩はおどおどしてるし、声もちいせーし、正直いじめられやすいタイプだとは思うけどよ、ちっとばかしイジメられすぎじゃねーかなって思ったわけだ。町中で見知らぬ奴に絡まれるっつーシチュエーションも、男ならともかく女からっていうのは、伊吹先輩から何か手を出さなきゃ有り得なくはねーだろうけど、伊吹先輩のイメージからすっと考えにくいしな」
「それで、お前は何で伊吹さんがイジメられてるかが気になった、と」

佑樹はうなずいてみせる。

「昨日の彼女たちも伊吹先輩の事を知ってるぽかったしな。尋ねてみたら前の学校で同じクラスだったんだと。まあそんな訳で彼女らに色々と話を聞いてたんだけどな……」

そこまで話して急に佑樹の歯切れが悪くなる。似合わない悩むような難しい顔をして口を噤む。

「そんなに言い辛い事なのか?」
「そうだな……まあ言うなら彼女の父親が原因っぽい事が分かったくらいだ。もう亡くなってるけどな」
「そっか……ここは感謝するべきか?」

希にしてみれば歩の事が特別気に掛かっていたわけでは無い。他人の事に自ら脚を踏み込んでいく程自分に余裕があるわけでは無いし、だが歩の置かれていた環境を好ましいとも思っていなかった。精々が手の届くなら少し手を差し伸べてもいいか、と思う程度。他者が当たり前に持ち合わせている程度の優しさだ。
しかし。
異世界でのアユムが頭を過る。「歩」では無く「アユム」の方を好ましいと思っている。それは恋愛感情ではなく同類を身近に感じる卑近な感情だ。キチンと言葉として聞いた訳ではないが、どこか自分に親しい(ちかしい)ものをノゾミは感じ取っていた。
「アユム」を知りたい。だが「ノゾミ」を形作るのが「希」であるなら、「アユム」を作り上げたのも「歩」だ。その為には「歩」についても情報を得られるのはありがたい。
同時に彼女本人がいないところで彼女自身の事を調べる。その事がひどく後ろめたい。

「いや、別にいいぜ。俺がやってることは褒められる事じゃねーし、俺が勝手にやってる事だしな」

佑樹もそんな希の気持ちを察してか、そう言って手をヒラヒラと振る。

「で、伊吹さんの事は分かったけどさ、それが何で朝まで起きてた理由になるんだ? まさかお前、話聞くために朝まで一緒にいたとか言わないだろうな?」

話を聞くなんて事を口実にナンパした女の子とイチャイチャしてしまいには――
思い浮かんだ光景がどうにも真実味を帯びていて、思わず顔を引きつらせてしまう。

「……何だよ、その顔は?」
「別に?」
「まあいい。まあ確かに朝まで一緒にいた事はいたぜ」
「マジかよ!?」
「病院にな」

予期せぬ言葉に希の言葉が止まる。佑樹は顔を前に向けて希の方を見ない。

「一通り一緒に遊んで仲良くなってさっきの話を聞いたんだけどな。そしたら途中で急に倒れたんだよ」
「たお、れた?」
「ああ。それまで元気に遊んでたのに、だぜ? しかも三人ほぼ同時にだぞ? 有り得ねーよな? ほっとくわけにいかねーから慌てて救急車呼んで病院まで連れてってさ。お陰で警察には疑われるし、今にも死にそうな三人を置いて帰るのにも気が引けて、朝までほぼ徹夜だ」

言いながら大きくあくびを一度。寝不足な状況に文句を垂れながらも、言葉ほど不満がある訳では無さそう。

「しっかし、最近周りでこういう事多いよな」
「そうか?」
「だって関の野郎に長田も二人ほぼ同時に、だぜ? 二人とも夜に倒れたらしいし」
「ふーん」
「ま、関は自業自得だけどな。昨日の彼女たちもそうだけど、長田も不幸中の幸いだな。真夜中で一人で寝てる時とかに倒れたらそんままお陀仏だっただろうし」

何気ない佑樹の話。だが突如希の表情が強張った。
過るある考え。まさか、と希は頭を横に大きく振り、そしてその予想が馬鹿げた話である事を確信すべく佑樹に尋ねた。

「……なあ、その女の子たちが倒れたのって何時くらいだ?」
「あ? そうだなぁ……ちゃんと覚えてねーけど、確か十時くらいだったか? ああ、そういえば長田もそれくらいに倒れたって話だったな」

ヒュッ、と奇妙な呼吸音が聞こえ、希は自分の呼吸が一瞬停止したような錯覚を覚えた。
ゲートとロング。異世界で自分たちが倒した敵と、吸血鬼に殺された学生。吸血鬼は学園の教師で、ロングはその生徒。二人とも異世界で死に、そしてその翌日に関と長田は倒れた。
単なる偶然か。希はそう思い込もうと自分に言い聞かせる。だが頭は勝手に考えをその先に進めてしまう。
昨日の女子生徒三人組。長田たちと同じ様に夜十時頃に倒れた。夜十時は希たちがメンダスィアンへと向かった時間。そしてあの世界ではどれだけ時間が経とうとも現実では時計の針は進まない。
昨日倒したエルフィーたちは何人だったか? 一人? 親玉とも言える存在は一人だった。だけどその他の小さなエルフィーたちは? たくさん? 数えきれないくらい? しかし最初に倒したのは何人?
何より、吸血鬼もエルフィーたちも共通しているのは明確に「人型」だったということ。
息が詰まる。体から熱が引き、足元がグラつく。自分たちが、殺そうとした? その事実に希の思考は侵され、犯される。視界がグルグルと回って、自分自身がどこまでも落ちていっているように思えた。

「みんな同じ時間に倒れるとか、ぜってえ何かあるよな? 俺はどっかの頭イカれた奴が毒物か何か使って仕組んだんだと思うぜ」
「ハハ……そんなマンガみたいな事……」

かろうじて言葉を返せたのは僥倖か。乾いた声で笑ってみせ、顔にも無理やり笑顔を貼り付ける。

「いーや! ぜってぇ何か裏があるって! じゃなきゃ偶然ってか? ソッチの方が有り得ねーよ」

犯人は、僕だ。口に出してしまえばどれだけ楽になるか。自分の想像はすでに事実であると確信し、ともすれば勝手に口から飛び出してきそうなその言葉を希はかろうじて飲み込む。
口にしたところで誰が信じようというのか。証拠も何もなく、そもそも異世界の存在さえ一笑されて頭の中身を疑われるのがオチだ。
しかし、だ。希は考える。それは、裏返せば自分が疑われる事は間違いなく無いし絶対に捕まらない事を示している。誰にも証明できないし、誰にも存在を理解されない。仮に現在の状態を狙ってやったとしても完全犯罪の成立だ。疑うこと無く自分の身柄は安心だ。希は人知れず胸を撫で下ろした。
そして希は愕然とした。自分の思考に唖然とした。誰かを自分が傷つけたとして、その事実は変わらない。なのに良心の呵責はそこには無く、浮かんでくるのは自らの保身を約束させる証左を探す思考のみ。
自分はこんなにも醜悪だったのか。他者を傷つけた事実よりも自らの在り方が自分を傷つけ、その事が更に希を切りつける。

「希? どうした?」

佑樹の声が意識を引きずり上げ、顔を上げるといつの間にか食堂に到着していた。訝しげな視線を送ってくる佑樹に「何でもない」と作り笑いを返して、知らずに立ち止まっていた脚を動かす。
自分の在り方がひどく間違っているのは今更だ。感謝の気持ちを忘れ、在り方を強制するこの世界から逃げ出したいと思っている時点でダメな人間だ。だからそれは今は忘れよう、と棚上げし、食堂の券売機に並びながら異世界とこの世界の繋がりに再度希は思考を巡らせる。
繋がっている世界と世界。明らかな登場人物としてこの世界の人間が異世界へと放り込まれている。しかも自分たちの周りの人間が。その事に希は今、気がついた。
だが。

(もしも――)

もっと早くにその事に気がついている人間がいるならば。
自分と同じ事を考えている奴がいるならば。あの世界で誰を傷つけようと咎められる事が無いとわかっている人がいるならば。

(まさか――)

嬉々として敵を切り刻むアユムの姿が浮かぶ。ある意味誰よりもあの世界を楽しんでいた彼女。「斬る」行為に喜びを覚えていた彼女。

「……いや、違うか」

関も長田も、学年の違う歩との面識はほとんど無いだろう。自分の仮説が正しいとして、人型のモンスターがこの世界の人間だとするならば、明確な害意を以て二人を傷つけたとするならば歩が自覚していると考えるのは少し無理がある。
いくつもの仮定の元の推論だ。まだピースは足りない。

「分かんないな……」
「何がだ?」
「気にしないでくれ。コッチの話だから」
「そうか? ま、色々と考えるのは結構だけどよ、早く食わねーと麺が伸びっぞ?」

佑樹に言われて手元を見てみると、なるほど、確かにラーメンのスープが少しすでに減っている。

(後でアユムに相談してみるか)

ひとまずこの場はそう結論づけて、希は割り箸を割ると豚骨ラーメンに箸を伸ばす。

「うん、やっぱウマいな」
「お前ホントにラーメン好きなのな」
「僕の血液は豚骨スープでできてるからな」
「お前はどこの博多人だよ」

他愛の無い会話を交わしながらラーメンを胃に流しこむ。瞬く間にどんぶりの中は空になり、いつも通りに手を合わせて食堂のおばさんに感謝したその時。
何かがズレた。
希は唐突に襲ってきた強烈に不快な感覚に顔を上げ――

「え――」

そして言葉を失った。
雑多に言葉が行き交っていた食堂の中を占めるのは静寂。一瞬にして空気が変わるその異常。佑樹と言葉を交わしてから顔を上げるまでほんの数秒。それだけの時間で周囲から音が消えた。
だが希が言葉を失った原因は更なる異常。

「佑樹……?」

佑樹は動かない。定食のカツを箸で掴み、口に運ぼうとした姿勢のまま切り取られた絵の様に固まっていた。
佑樹だけでは無い。食堂にいる誰もが、トレーを抱えた下級生が、談笑しながらうどんを啜る女子生徒が、単語帳片手にご飯を食べる先輩が姿勢一つ変えずに止まっている。その様子はまるで、時間が止まってしまったかの様で。

「時間が止まって……!」

希は立ち上がる。反動で座っていた席が倒れ、だが重力に逆らって斜めのまま停止している。立ち上がった希はそんな異常を気に留めずに食堂を飛び出した。
異常は食堂だけでは無かった。廊下を歩く生徒、グラウンドでサッカーボールを持って移動する男子生徒、生徒と話す教師。全員が静止したままだ。
それらを横目で見ながら廊下を走りぬけ、階段を駆け登る。普段は希の頭の上にいるアルルも今はその隣に並んで飛行している。

「伊吹さん!」
「希くん……!」

二階へ辿り着き、希は不安な面持ちでうろうろとさまよう歩を見つけた。足元にはまとわりつくようにネコのユンが寄り添っている。歩は希の姿を認めると駆け寄ってくると、大きく安堵の息を吐き出した。

「あの、急に皆が動かなくなって……その……!」
「落ち着いてください。こっちも同じです。よく分かりませんが、まるで……」

まるで異世界に来てしまったかの様。希はその言葉を飲み込む。
そんな事があるわけが無い。いつものあのビルに行ったわけでも無く、ましてや自分や歩だけでなく学校ごと移転だなんてそんな事があるはずがない。
否定を頭の中で繰り返し、希は歩の手を取った。

「とりあえず、ここから出てみましょう。何か分かるかも……」
「何かって何が……」
「分かりません。でも少なくともココにいるよりは情報が手に入るかもしれませんし……一通り校舎を回って、自分たちより他に動ける人がいないか探して……」

言いながら希は窓の外に視線を移し、そこで再度言葉を失った。固まった希を見て歩も顔を外に向け、そして同じ様に呆然と口を開けた。

「なんで、なんで……」

うわ言の様に繰り返す歩。二人の視線の先――高校の外には見慣れた町、メンダスィアンがあった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



メンダスィアンの町は、二人の記憶の中と同じメンダスィアンだった。
活発に商売人の声が通りに響き渡り、通行人たちは露天の商品を冷やかしながら賑やかに通りすぎていく。そこに変わりはない。よく知っている町と町人たちだった。
知っているはずなのに知らない。「ノゾミとアユム」では無く「希と歩」である、ただそれだけでそんな気分になる。二人は寄り添いながら恐る恐る町を歩いていく。

「希くん……」

希の腕をギュッと握り締める。歩が不安げな顔を希に向けると、希は「大丈夫」と自身の不安を押し殺して言い聞かせる。
怖い。こみ上げてくるその感情をごまかすため、無理矢理に思考を続ける。

(どうしてここに――)

自分も歩も、そして学校が転移してしまったのか。しかも他の生徒ごと。偶然か必然か。しかしそれは何故。誰かの仕業なのか。そして戻れるのか。
強引に考えようとするが、そもそも自分たちが最初にこの世界にやっていた理由も分からない。どうして自分たちはこの世界にやって来れていたのか? 何故自分たちだったのか? 何もかもが分からない。故に考えがまとまるわけは無く、それが余計に不安と焦燥を増長させる。その感情が伝わっているのか、アルルは希の頭にしがみつき、ユンも珍しく歩の肩に乗って歩の顔に体を押し付けている。

(何でだろう。何でこんなにも――)

不安なのか。「ノゾミ」としてここに居た時はこんな気持ちにはならなかった。モンスターに襲われて生命の危機を感じても恐怖も不安も無かった。元の世界に帰りたくないとさえ思っていた。それは歩も同じ。かつて二人してそう話した。
けれども脚が震える。見慣れた景色は禍々しい。周りは楽しそうなのに、自分たちは逆。町に溶け込めない、入り込めない。まるで自分たちは異物である。誰がそう言った訳ではないのに、そんな感じを否めない。

「アユム姉ちゃん! ノゾミ兄ちゃん!」

不意に背後から歩の名前が呼ばれる。その声もまた二人にとって聞き慣れたもので、少しだけホッとして振り返った。
シュウもまたいつもと変わらない。金髪碧眼、魔法使いらしい黒いローブをまとった姿は三人で行動する時のお決まりの格好だ。
しかしシュウを見ても希は奇妙な感覚を覚えた。これまで町を歩いていて感じたものと類似の感覚だ。知っているのに知らない、矛盾した感覚。まるで、例えるならば全くの他人が「シュウ」という人間の皮を被ったかのような。

「お? やっほー、シュウくん!」

隣から上がる明るい声に、思わず希は振り向いた。いくら知った顔だとしても歩がこんなにも明るく挨拶をするとは、短い付き合いとはいえ希には思えない。それは普段、学校で希が歩と顔を合わせた時の様子からも明らかだ。
そして希の隣にいたのは歩では無かった。つい先程まで制服を着ていたはずなのに、振り向いた時には紅いチュニックに空色のマント。頭の上には「アユム」の特徴とも言えるネコミミが付いており、嬉しそうにピクピクと動いていた。
希は自分の姿を見返した。自分の姿もいつの間にか黒いスーツに黒いブーツ。「ノゾミ」へと変化していた。

「アユム姉ちゃん、この前話したこの町を出ていくって話なんだけどさ」
「うにゅ。どうしたの?」
「えっとさ、俺も一緒に連れてってくれないかな?」

シュウは一度口ごもりつつも、アユムの眼を見てそう告げた。

「え? えっと……」
「お願いします! 頼むよ、アユム姉ちゃん! ノゾミ兄ちゃんも! お願いします!」

戸惑うアユムをよそに、シュウはずいっと一歩近づいてアユムの手を握ると勢い良く頭を下げる。普段使うことの無い敬語を交えて頼むシュウに、アユムは困った様に眉を八の字にして希の顔色をうかがってくる。
昨日には、シュウが頼んできたら一緒に連れて行こうと結論づけた。だからここでノゾミはうなずくだけでいい。そのはずだが、ノゾミには何故か躊躇われた。だから本来聞く気の無かった問いをシュウにぶつけてみる。

「……何で俺らと一緒に行く気になったのか、聞いてもいいか?」
「それは……だって、俺、アユム姉ちゃんとノゾミ兄ちゃんと一緒にいたいからさ。そりゃ町を出たいワケじゃないぜ? でも姉ちゃんたちと離れたくねーし、それに一度くらい他の町を見てみるのもいいかなって思ってさ。あ、もちろんノーランにもちゃんと許可は取ったぜ?」

だからいいだろ?そう言いながら真剣な眼でシュウは二人を見つめた。
その眼を見てノゾミは違和感の原因を悟った。
そこにはゾッとするような昏さがあった。外国人らしい碧眼であったはずの瞳は、よくよく見ると日本人の如く黒眼になっていた。そしてその眼を見た途端にノゾミの背に怖気が走った。
アユムを見る眼は熱っぽく、なのにそこには縋るような不安。希望を映している様でその実絶望を映している様な二律背反。ノゾミには、「希」を含めてその人の内面を読み取れるほどの人生経験など無い。しかしそのノゾミをして感じ取れる程の何かがシュウの瞳にはあった。

「お前は……」

だから問いが思いがけず口をついて出てくる。

「お前は……誰だ?」

我ながら妙な問いだ。そう思うが出てしまった言葉は取り消せない。シュウの様子を具に観察するが、案の定シュウもアユムもキョトンとしてノゾミの方を見返してきた。

「何を言ってるのかな、ノゾミくん?」
「そうだよ。冗談キツイぜ、ノゾミ兄ちゃん」

何を言ってるんだか、とばかりに二人して肩を竦めて笑い声を上げる。ノゾミも「そうだよな」と言って笑い飛ばしてしまいたかった。実際、ノゾミはそうしたかった。しかしノゾミの表情は険しく警戒したまま硬直してしまったかの様に動かない。

「ノゾミ、くん?」
「もう一度聞くぞ。お前は、誰だ?」

笑い声が消える。それと同時に、三人だけが隔絶されてしまったみたいに周囲の音が消えた気がした。
ノゾミの中では最早、目の前のシュウはノゾミが知るシュウとは違うと確定されていた。根拠も何も無い、単なる直感にしか過ぎない。しかし違和感はすでに明確な差異となってノゾミの中に根を下ろしていた。

「えっと、どうしてノゾミくんがそう思ったのかは分かんないけど、私には何処をどう見てもシュウくんにしか見えないんだけどな?」
「誰かが偽装してるのかもしれない。……この前のエルフィーの様に」

小声で耳打ちするアユムにそう告げると、アユムもハッとしてシュウを振り返った。
ノゾミとシュウ。二人の静かなにらみ合いが続く。
そしてそれを打ち破ったのは、風切り音でさえかき消してしまえそうな程小さなシュウのつぶやきだった。

「……違う」
「シュウくん?」
「お前は、ノゾミ兄ちゃんじゃない」

途端にノゾミの体に衝撃が走る。車にはねられた様に大きく弾き飛ばされ、数メートルに渡って地面を転がって砂埃が舞う。
転がり終えた時、ノゾミの姿はまた元の学生服へと戻っていてアルルの姿も消え去った。それを認めたシュウは「やっぱり」と、自分の勘が正しかったと言わんばかりに嬉しそうに笑う。

「ノゾミくん!」
「やっぱりそうだ。お前はノゾミ兄ちゃんじゃない!」

アユムは弾き飛ばされて転がったままの希に駆け寄ろうとする。が、それを阻む腕がアユムの行く手を遮る。

「近づいちゃダメだよ、姉ちゃん。見てみなよ。コイツは卑怯にもノゾミ兄ちゃんに化けて近づいてきたモンスターだ。ノゾミ兄ちゃんじゃないんだ!
 おい、お前! ノゾミ兄ちゃんを何処にやったんだ!?」

上半身だけ起こしたノゾミに敵意を顕わにするシュウ。モンスター呼ばわりされた希は一瞬呆けた表情を浮かべるが、シュウの問い掛けには応えずに痛む体に鞭打って何とか立ち上がりシュウを睨み返す。
互いが互いを偽物と定義。その狭間でアユムは困惑し、戸惑い、思い悩む。
アユムには分からない。なぜこうなってしまっているのか、理解ができない。どちらを見ても見知った顔であり、この世界での味方であるはずだ。ノゾミはノゾミでシュウはシュウ。そうとしか思えない。
希の方を見る。すっかり元の世界の格好に戻ってしまい、倒れた際に擦り切ったのだろう。手の甲や肘からは血が滲み、アルルはオロオロとして不安げに希の周りをグルグルと回っている。
対してシュウは、というと親の敵でも見るかのように険しい視線を希に向けている。希から守る様にしてアユムの左腕を掴み、庇うように一歩前に出る。初めて出会った時のテンパった様子は無くて、戦う者としてはその背中に頼もしさも覚えるが、この状況ではそれを素直に喜ぶ事さえできない。

「ノゾミ兄ちゃんは何処だ!? さっさと言えよ!」

シュウは悲痛に叫び、小声で呪文を詠唱する。風が巻き起こって旋風となり、希に襲いかかる。攻撃の意志に気づいた希は詠唱が終わる一瞬前にその場を飛び退くが、如何せん今は「希」だ。一般人以上の身体能力は持ち得ず、また防御する手段も持たない。

「希くん!!」

風は希の体を容易く切り裂く。腕にも脚にも幾つもの切創ができて血を流す。幸いなのはシュウにまだ殺意が無いことか。シュウの考えるノゾミの居場所を聞き出すため、意図的に弱めた魔法で希を傷つけていく。

「シュウくん止めて!」
「どうしてだよ! アイツは敵なんだぜ!? 早く、早くノゾミ兄ちゃんの場所を聞き出さないと……早く兄ちゃんを助け出さないと……!」

止めるアユムに、シュウは心底理解できないと戸惑う。アユムから見て、シュウは最早目の前の存在をノゾミだと認めていない事は明白に思えた。攻撃に躊躇いもなければ、今抱いている焦りも本物だ。

「お前こそ……何なんだよ……! シュウを、シュウを何処にやった……?」

そしてそれは希にしても同じ。ここに至って希もまた目の前の存在を、「ノゾミが知るシュウ」とは別人だと明確に認識していた。それと同時に、この場所がメンダスィアンとは違う場所だとも確信していた。
魔法を町中で使えば誰しもが騒ぎ出すはず。なのに周囲の人たちは三人を認識していないかの様に平然といつもの空気を保って一瞥だにしない。
ならばここはいつもの異世界とは違う。ここに来た経緯がいつもと異なる事と合わさって、似て非なる場所だ。
時間が無い。アユムは焦る。どちらもアユムにとっては大事な存在だ。この一ヶ月、三人で仲良くやってきたのにどうしてこんなことになっているのか。何が本当で何が嘘か分からない以上、悩んでも仕方ないのは理解している。けれども自分の選択が間違っていたら、もう取り返しがつかない。それは恐怖だ。しかし早くどちらかを選ばなければならない。でなければ、どちらも失ってしまう。
ならば。
ならば、選ぶのは、例え間違っていたとしても少しでも後悔の少ない方だ。肩に乗ったユンを一撫ですると、アユムは動いた。

「アユム姉ちゃん?」

シュウの声を聞きながら、アユムはそっとシュウの腕を握った。シュウはアユムを守ろうとしてくれている。それは事実。だから感謝しなければならない。

「ありがとね、シュウくん」

そして言わなければならない。目の前の存在が本物だとしても偽物だとしても自身の選択が相手の期待を裏切るのだから。

「そして、ゴメンね?」

アユムの腕を掴んでる指を一本一本丁寧に外していく。顔は上げない。シュウが今どんな表情を浮かべているか、アユムには容易に想像がついて、そしてそれを見てしまったら決意が揺らいでしまうだろうから。
最初は強ばって硬かった指は力が抜けて段々と外しやすくなっていく。たったそれだけの事で、アユムはシュウの感情を知ってしまって、それでも揺らぎそうな心を叱咤して外す。
全ての指を外し終え、一歩シュウから距離を置いてそこでやっとアユムはシュウを見た。

「姉ちゃん……」

シュウはアユムに呼びかける。だがアユムは振り返らない。

「大丈夫、ノゾミくん?」
「え? ええ、はい。大丈夫です」

代わりに希の右隣に並び、寄り添うようにして支える。そして右手には剣の柄を握り、刃を発現させてシュウに向かって構えた。

「何だよ……アユム姉ちゃんも俺から離れていくのかよ……」
「シュウくん……」
「何でだよ……何で皆……皆いなくなっちゃうんだよ。何で俺をイジメるんだよ……」

シュウはうつむいて体を震わせる。絞りだすようにして言葉を吐き出し、カチカチと歯が音を立てる。小刻みに震える手で頭をかき抱き、悲痛に叫ぶ。

「俺が何をしたんだよ……? そんな嫌われる事をしたのかよ……? 何で、何で……」
「そんな! 嫌ってなんか無いよ。シュウくんの事は好きだよ?」
「嘘だ!! じゃあ何で俺じゃなくてそいつの方を信じるんだよ!?」
「それは……」

一瞬アユムは口ごもった。それを見たシュウは落胆の色を一層濃くして、泣きそう顔で自分を嗤う。

「ほら、答えられない。どうせ口だけなんだ。みんな嘘ばっかりだ。俺の事がみんな嫌いで一緒にいたくないから騙すんだ」

独白めいた言葉が口から出るに従い、世界の様子が変わる。周囲を歩いていた人の姿が消え、地響きの様な音が何処からか聞こえ始める。

「何で……何で、何で! 何で! 何でだよ!! 何でみんな俺を嫌うんだ! 何でみんな俺を見捨てるんだよ!」

シュウが叫び、地面が揺れる。地響きは地鳴りへと変わっていく。
メンダスィアンの町は業火に包まれる。空は紅と濃紺が入り交じって不気味な色合いに。町も森も山も自然の姿が消えて、全てが小学生が塗りたくった様な、絵の具をそのままぶちまけた様な、そんな人工物めいたものへと瞬く間に変わっていく。

「こんな世界なんて要らない! 僕に優しくない世界なんて要らない! みんな……みんないなくなっちゃえよぉぉっ!!」

そして世界は崩壊を始めた。
山が崩れる。森が燃える。町を行く人々は溶ける様に液体へと変化して入り混じり、黒いタールが地面に広がっていった。

「うわっ!」
「な、何だよこれ!!」
「みんな嫌いっ! みんな嫌いだっ!! お前もどっか行っちゃえよっ!!」

シュウが叫ぶと同時に希とアユムを突風が襲う。体全体が浮き上がる程の激しい風。アユムは腰を落として地面に這いつくばって何とか堪える。だが今の希にはアユムほどの身体能力は無い。一瞬だけ堪えるも、次の瞬間には容易く弄ばれる様にして宙を舞い、一メートル程度の高さから落下して強く背中を打ち付けた。

「がはっ!」
「ノゾミくんっ!!」

風が止むと同時に希に駆け寄り、慌てて抱き起こす。だが背中を強打した希は呼吸が上手くいかず、ヒュウヒュウと乾いた呼吸音だけが返ってくる。

「大丈夫!? しっかりして!!」
「だ、だいじょう……」
「やっぱり俺よりもソッチの方がいいんだね……」

ゆらり、とまるで幽鬼の様にシュウは二人を見下ろす。その眼は、ただ二人がいるという事実以外に何も映していない。無感動に無感情に見下し、右腕を空に掲げた。

「くぅっ!」

慌てて希を抱え上げるとアユムはその場を飛び去る。直後、閃光が紅い空を白く染め上げ、轟音と衝撃が二人がいた地面を抉り取る。
次々と稲妻が二人目掛けて降り注ぎ、それらをアユムは希を抱いたまま避けていく。その光景がアユムの選択を如実に表しているようで、その事がシュウの心を抉り取っていった。
繰り返される鬼ごっこ。魔力を多大に消費しているはずのシュウだが、攻撃に終わりは見えない。止むことのない逃走に、逆にアユムの体力だけがいたずらに削られていく。

「……もう、大丈夫だから下ろしてください」
「ダメだよ! 今のノゾミくんがアレを食らったら……きゃっ!!」

一瞬だけアユムの反応が遅れ、落雷の衝撃に二人は弾き飛ばされる。直撃こそしなかったものの、二人して地面に転がり、アユムのズボンの裾には黒く焦げた跡が残っていた。

「うぅ……」
「伊吹さん!!」

体力の回復した希がいち早く起き上がり、駆け寄ろうとした時、足元で何かが煌めいた。
それは鏡だった。かつてアスラに手渡された小さな鏡。意味も分からずにポケットに入れていたそれが周囲の業火に反射していた。
シュウがゆっくりと近づいてくる。その足音に希はそれどころじゃない、と一瞥だけしてアユムの元に向かおうとした希だったが、鏡に映ったその影に脚を止めた。

「……青葉?」

ポツリと漏れでたその名前に足音が止まる。

「青葉……修二……」
鏡面に映っていたのはクラスメイトの青葉だった。小太りで気弱そうな表情の青葉修二だ。希がいつも教室で見かけるように制服を着ていて、鏡の中でその姿が揺らいでいる。 希は急いで鏡を拾い上げた。鏡には冴えない、傷だらけの自分の顔が映っていてそこに異変は無い。だが希の位置から鏡が落ちていた場所を通して映しだされるべきは、絶望に染まったシュウでなければならない。
鏡を希は恐る恐るシュウの方へと向けた。少しずつ自分の顔が端に寄っていって、崩れた世界が映り出す。
そして映しだされたのは、やはり修二だった。
鏡の中にいる修二の表情が驚きに歪む。それと同時にシュウの顔も同じく歪む。口を半開きにして呆然と眼を見開き、ただ立ち尽くす。

「青葉、だったのか……?」
「え?」
「ち、がう……」
「僕らとずっとこの世界で一緒にいたのは、青葉だったんだな……」
「違う……」
「えっと……状況が良く分かんないんだけど、どういう事? 知り合いなの?」

脚を引きずりながら寄ってきたアユムに、希は鏡を見せる。

「……これが、シュウくん?」
「違う」
「そうです。青葉なんです。青葉・修二。僕のクラスメイトです」
「違う」
「僕がこの世界で『ノゾミ』であるように、伊吹さんが『アユム』であるように、シュウは修二だったんだ」
「違う!」

シュウは絶叫した。耳を塞ぎ、喚き散らす。嗚咽混じりの叫び声。髪を振り乱し、頭を抱えて泣き叫ぶ。

「違う! 違う違う違う!! 俺はアイツじゃない! アイツなんかとは違う! あんな暗くて情けない奴とは違う! 俺は何でもできるんだ! あんな奴と一緒にすんな!」
「青葉……!」
「その名前で呼ぶなああああァァァっ!!」

血走った眼でシュウは咆哮した。付近に暴風が吹き荒れ、ユラユラとした魔力がシュウの全身から立ち上る。それらはシュウの周囲を旋回し、濃い魔力の壁がシュウの姿をぼやかしていった。

「うわあああああっ!!」
「な、何? 何が起こんの?」
「分かりません! けど、気をつけて……!?」

巻き上がる砂埃に眼を伏せながら二人は緊張した面持ちで様子を伺っていたが、壁の向こうにある影に異変が起きた。
シュウを取り巻く壁が次第に薄くなる。それに従い、ぼんやりとしたシルエットが「二つ」ハッキリとした形を帯び始めた。

「……え?」

その声を上げたのは誰だったか。もしくは全員か。
壁が消え、現れたのはシュウだった。一人はこれまでノゾミたちが一緒に過ごしてきたシュウだ。眩いばかりの金髪でローブ姿の見慣れていたシュウの姿だ。
そしてもう一人。希が毎日見ている学生服。黒髪のボサボサ頭でぽっちゃりとした修二がそこにはいた。

「あ、あれ……? なんで……?」
「青葉ぁっ! 後ろっ!!」

自身の姿に愕然とし、呆けたまま学生服の自分を見つめる修二。そこに希の鋭い警告の声。
修二の背後に立つシュウが嗤う。背丈が小さいはずのシュウが修二を見下し、愉悦に顔を歪ませて口を開いた。
高速で呪文が紡がれ、右手には氷の剣が握られた。

「オマエ、モウイラナイ」

それは裏切りの言葉だった。自らが創りあげてきた「シュウ」というキャラクター。ファンタジーな世界での新しい自分として創造した存在が独立し、そしてその存在からも修二は「不要」と判断された。
修二の眼から涙が零れた。全身が冷たくなり、呼吸が止まった気がした。
心が砕かれた。感覚として修二は理解した。
剣が振り上げられ、鋭い刃が周囲の炎に反射しているのを修二は眺めた。避けようという気も無かった。恐怖も最早無かった。単純に、何となくここで自分は終わるんだと思った。
剣が振り下ろされた。
だがその直前、突然横殴りの衝撃が修二を襲い、誰かに覆い被される様にして地面に転がった。

「っつ……大丈夫か、青葉?」
「あ、藍沢くん? 何で……」
「そんな事より早く立って……!」
「邪魔シナイデヨ。……オ前モイラナイナ」

機械の様な聞き取りずらい声でシュウはそう言い放ち、再度剣を振り上げた。そして今度は逃さない、とばかりに周囲に炎の槍と氷の槍が展開された。邪魔はさせないと一部はアユムに向けられ、残りは全て希と修二に。そこにもう逃げ場は無い。
絶望的な状況。希は何か手段は無いかと思考を巡らせる。だがアルルもいなくて、状況を打破できる手段などすぐに浮かぶはずもない。

「ソレジャアサヨナラ」

最後通告が告げられる。冷たい汗が希の頬を伝っていき、希は顔を背けて眼を閉じた。
だが衝撃は何時まで経ってもこない。恐る恐る眼を開けると、そこには光の輪の様な物で全身を拘束されているシュウの姿があった。

「やれやれ、どうにか間に合った様ですね」

聞き覚えのある飄々とした口調。これが絶望が希望に変わる瞬間か、と希は期待を込めて頭上を見上げた。
そこにいるのは全身を黒いローブで覆った変人。そして、恐らくはこの場でもっとも頼りになる魔法使い――

「どうも皆様、ご無沙汰しています。遅れてしまいましたが、せっかくなので私も勝手に混ざらせて頂きますね?」

空中に幾つもの魔法陣を展開させたアスラが浮かんでいた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



この世界には辛いことしか無い。
青葉・修二にとってそれは絶対の真実だった。そしてこれからもそれは真実で在り続ける。修二は日々そう考えて過ごしていた。
鈍臭い子供。そう言われ続けて何年が経ったか。何度耳にしたか。学校で運動する機会がある度にうんざりしながら修二は日々黙ってその言葉に耐えていた。
人には得手不得手が存在する。だから修二が運動が苦手である事は仕方の無い一面を持つ。それでも努力して人並みの運動能力を得るまでにはなれる。修二が負けず嫌いならば、そうであったかもしれない。周囲が努力を応援してくれるならば、例えば苦手なりに必死でやっているのを拍手を以て褒め称えてくれたのならば、修二も頑張れたのかもしれない。
しかし不幸にもそうではなかった。特別負けず嫌いでも無く、体育を頑張っても周囲からは一人取り残されている修二を見てため息を漏らすばかり。
どうせ笑われるのならば、無駄な努力をする必要なんてないじゃないか。幼い修二は自信を無くし、運動を頑張ることを止めた。
勉強ならば。次に修二は学問に努力の方向を定めた。そして修二は人並みよりも賢い子供だった。テストで良い点を取り、先生に褒められ、親に褒められ、友だちから勉強を教える事を請われた。しかし図抜けて頭が言い訳では無く、常に上には誰かがいた。最初は褒めていた教師も親も修二が良い点数を取る事に慣れ、褒める事を止めて代わりに「頑張れ、お前ならもっと上を狙えるから」という定型文だけを返すようになった。修二は何故勉強を続けるのか、理由が分からなくなった。
容姿が優れているわけでもなく、特別優れた何かを持っているわけでもない。自分に自信を持てない修二は、常に自分が周囲に笑われている、そんな気持ちを払うことができない。
故に他人との接触を拒む。運動を嫌った体は脂肪を蓄えて肥満体になり、他人との接触を極力避けるからコミュニケーション能力が培われる事も無い。常に自信無さげでオドオドとした態度は周囲を苛立たせ、時に両親さえ腹を立てて厳しく叱責した。
会話さえ満足にできない。修二の存在がイジメの対象になるのは明白だった。体育の授業ではこっそりと笑われ、挙動不審な態度しか取ることのできない臆病で弱気な性格は、周囲の恰好のストレス発散場になる。その事がますます修二を孤立させていく。一層他人との触れ合いを拒み、一人だけの場所を望んだ。

「なんで……?」

だが、修二にとって家でさえも安住の場所では無かった。ハッキリものを言わない修二に母親は苛立ち、しかし母親は専業主婦であって毎日家の中にいる。それは苦痛であった。修二にとって、家族でさえ自分を苦しめるものでしか無かった。
家にいても学校にいても苦痛。ならば広く、一人になれる場所がありそうな学校に行く。そこで亀の様に丸くなって、周囲と切り離されて生活すればいい。そう考えて修二は毎日学校へ通い、それゆえに誰も修二の問題に気付けない。同じ苦痛が毎日繰り返されていく。
誰も自分を救ってはくれない。先生も、クラスメイトも、親も、誰もが自分を救ってくれはしない。修二がそう結論づけるのは難しいことでもおかしいことでも無かった。
――どうして僕は生まれてきたのだろう?
修二の中で疑問が芽生える。
――どうして僕はこの世界にいるのだろう?
テレビを見て妬む。頭も良くなく、運動ができるわけでもない。ただ見た目が麗しいだけでちやほやされるタレントたちを。
クラスメイトたちを見て落胆する。自分と同い年なのに、運動も勉強も人並み以上にこなしてしまうのに、取り残されてしまっている自分の不甲斐なさを。

「なんで……?」

なぜ自分は愛されないのか。なぜ自分だけ周囲から取り残されてるのか。なぜ、世界は自分にこんなにも厳しくあたるのか。なぜ苦しまなければならないのか。
世界に自分の居場所なんてない。修二はやがて、空想の中に楽しみを見出した。
いくつもの溢れる空想の世界。そこでは主人公やその仲間たちが剣や魔法を駆使して敵を打ち倒していく。傷つき、苦しみながらも様々な苦難を乗り越えていく。時に絶望に襲われながらも周囲の助けを得て、やがて物語はハッピーエンドへ。そこには、修二が求めて止まない希望が満ち溢れていた。
――こんな世界なんて、いらない。
誰も助けてくれない世界なんて、いらない。辛いことしか無い世界なんていらない。残酷でしか無い世界なんて、いらない。
――なら、自分で世界を創ればいいじゃないか。
修二は創作行為に没頭した。本で売られている様な様々な優しい世界。修二は自らが望む世界を作る事を、文字という媒体で作成する事を知った。
それは代償行為だ。世界への幼い反逆だ。物語の整合性なんて二の次で、ただしリアルなファンタジーを。修二はただ自分が望むだけの世界を創り上げる。メンダスィアンという虚構を。

「なんでだよっ……!」

始めは単なる自己満足だった。自分が創造し、自分が楽しめればいい。それだけの気持ちだったが、やがて内向きの願望は外へと向かう。
誰かに認めて欲しかった、誰かに賞賛されたかった。
初めて作った物語ゆえに拙いのは分かっていたが、それでも他の人に自分の世界を修二は知って欲しかった。
だがそれは単なる願望に過ぎなかった。
ネット上に公開されたそれが得たのは、ただの嘲笑だけだった。ありきたりなストーリーに、技法の拙さが上乗せされて酷評だけを得て、またしても修二は否定された。
――もう、だめだ。
修二は諦めた。この世界を諦めた。所詮自分に手を差し伸べてくれるモノなど何もない。なけなしの希望も失って、世界で一人であること、それが確たる真実となりかけていた。

「なんで僕を助けるんだよっ……!」

だから修二は信じられない。希が身を呈して自分を守ってくれた、その事実が信じられない。

「何でって……」
「みんな僕が嫌いなんだろっ!? 僕なんかいなくてもいいと思ってるんだろっ!? なのに、何でっ……!」
「別に修二君を助けたいと思ってるわけじゃないよ?」
「え……?」

修二の問いに応えたのはアユムだった。アスラによって拘束されているシュウを横目に見ながら二人を抱えると、跳躍。拘束から逃れようともがくシュウから距離を置いた所に二人を降ろす。

「脚は大丈夫なんですか?」
「うーん、正直大丈夫じゃないかな? かなり痛いし、片足一本で飛び回るのはかなりきついし。たぶん、さっきみたいにシュウくんに魔法を連発されたらヤバイかな? ユンもやられちゃったし……」

肩に乗るユンを希は見る。ユンもアユムと同じ様に右脚がただれていて、見ているだけでも痛々しい。

「それよりもさ……別に私にとっては修二君がどうなろうと構わないよ。ノゾミくんにとってはクラスメイトで助けたいと思ってるかもだけど、私は修二君なんてどうでもいい。修二君よりもシュウくんの方を助けたいよ」
「伊吹さんっ……」
「ノゾミくんは黙ってて。私はさ、修二君を助けるつもりなんて無い。でも私はこんな所で死にたくなんてないの。例え相手がシュウくんであっても殺されてなんかやらないし、生きる為なら世界だって相手にしても構わない。何だってやる。修二君を助けることで自分が生き残れるんなら、私は修二君が助かるために(・・・・・・・)手を差し伸べだってするよ」
「僕はっ!」

希は少しだけ声を張り上げ、修二に向かって言葉を絞りだす。

「僕は、青葉を助けたいと思ったから助けたんだ。ちゃんとした理由なんて無いし、ただ助けたいと、助けなきゃとだけ思ったから……いや、違う」

すぅ、と希は息を吸い込んだ。体の節々が痛み、だけど少しだけ思考がクリアになって気持ちが落ち着いた。錯覚かもしれなかったが、希はそう思い込んで、それでいい、と言い聞かせた。

「僕は少しだけ後悔してたんだ。青葉がイジメられてるのを見てて、それでも何も言わなかった、何も行動を起こさなかった事を後悔してたんだ。不愉快に感じながらも僕は見て見ぬふりをしていた。僕にはそれを止める勇気もなかったし、自分の事だけで精一杯だったから。そう言い訳して何も行動を起こそうとしなかった。
 青葉は世界が嫌いなんだろ? 世界を壊してしまいたいんだろ? 青葉がどうしてそこまで追い詰められているのか、それを理解できるなんて言えない。けれど、その一端を僕が背負っている事くらいは何となく理解できる。青葉が何を求めてるのかも、何となくに過ぎないけど分かる気がする。
 でも僕はこれからもきっと変わらないと思う。現実で青葉がイジメられていてもまた同じように見ようとしないままに過ごしていく。だから贖罪なんだ。今僕が青葉を助けたのも、今僕が追い詰められているからで、僕が救われるための贖罪でしかないんだ。僕が僕を救うために青葉に手を差し伸べてるだけの卑怯な行為だ。僕が青葉を助けたなんて、そんな事思わないでよ」

きっとここで嘘でも「青葉を失いたくなかったから」とでも言えば正解なんだろう、と希は思う。そういえばきっと青葉は喜んでくれるだろう。けれど、そんなでまかせを口になんてしたくなかった。ありきたりな美辞麗句は、後になればなるほどますます青葉を苦しめる事になるのがわかってしまったから。

「なら……なら、僕はどうすればいいんだよっ……! 僕はどうすれば苦しまなくて済むんだっ! どうすれば……」
「『助けて』たった一言、そう言えば良いんですよ」

血反吐に塗れた修二の苦しみ。それに応えたのは、シュウを拘束していたアスラだった。

「アスラ……シュウは大丈夫なのか?」
「ええ、何とかしばらくはあのまま拘束できると思います。それよりも、青葉修二君、でしたっけ? 君がすべき事はたった一つです。一言『助けてください』って周囲の人に言えば良かったんですよ」
「そんな……そんな事を言って何が変わるって言うんだよ!?」
「もちろんそれだけで全てが上手くいくなんて事はありません。そんなにあの世界は優しくも無いし、綺麗事が通じる世界でもありません。でも、何かが変わるんです。助けてくれ、と言われても全く無視して手を貸さない人間。もちろんそんな人も世の中には五万といます。けれど、目の前に明らかに差し出された手を黙って見過ごせない人間も五万といるんです。声高に叫ぶ必要なんて無い。周囲に喚き散らす必要も無い。小さく一言、誰かにだけ聞こえる声で助けを求めれば良かったんですよ。そうすれば、君の周りにも手を掴んでくれる人はいたはずです」
「う、嘘だ……嘘だ、嘘だ。そんなの嘘だ」
「嘘じゃありませんよ。ほら、理由はどうあれ、今君の前にも手を取ってくれた人がいるじゃないですか」

修二は顔を上げた。そこには少しだけ口を綻ばせているアユムと、気恥ずかしそうに顔を背ける希がいた。

「二人共完全な善意では無いですけどね。それでも君が手を貸して欲しいと頼んだら、彼らは手を握り返してくれるはずです」

アスラの言葉に誘われる様に、震える手を修二は差し出した。
怖い。再度拒絶されるのでは無いか。アスラの言葉が全て嘘なのでは無いか。そんな考えが修二の裡をジワリと侵食する。手を下ろしてしまいたい衝動に駆られ、息が出来ないほどに胸が詰まる。
それでも修二は手を前に伸ばした。眼を力いっぱいつぶって、震えるままに腕を伸ばした。

「僕を……僕を助けて下さい……!!」

修二の心を如実に表している腕。その手を、二人は力強く握った。
手のひらごしに伝わる温もり。

(なんて……熱いんだろう……)

こんなにも人は暖かかったのか。こんなにも自分は冷え切っていたのか。
熱で溶けていく。凍りついていた何かが溶けていく。
知らず、修二の両目から暖かい涙が次々と零れ落ちていった。

「さて、青葉君の問題がとりあえずは解決したわけですが、まずい状況は変わってません」

そんな三人の様子を暖かい目で見守っていたアスラだが、表情を険しいものへと変えてそう切り出した。

「ハッキリ言いましょう。恐らくはこのままだと我々ごとこの世界は崩壊します」

その言葉に、三人とも息を飲む。

「……それはやっぱり修二君が望んだから?」
「で、でも青葉はもうそんな事願って無いんじゃないですか!?」
「そうですね……実はもう青葉君がどのように思っているかは関係ないんです」
「え?」

アスラは唸り声を上げながら縛り上げる輪状の拘束の中でもがくシュウを見る。捉えられた獣の様に吠え、その形相はすでに正気とは思えない。

「ここにいる青葉君とシュウくんはすでに別の存在となっているんですよ。元は一つだったのですが、この世界で時を過ごし独立した存在と世界で認められてしまってるんです。
 この世界は青葉君の生み出した世界で彼はその世界に産み落とされたキャラクターにしか過ぎないはずでした。ですが、青葉君よりもこの世界に遥かに適合している彼が世界に及ぼす影響は最早、青葉君を凌駕してしまっています。更に悪いことに、彼にはもはや負の感情しか残っていません。世界の崩壊を免れないでしょう」
「解決方法は無いんですか?」
「限界阻止点はすでに超えてしまっています。世界の崩壊を止める手段は残ってないでしょうね」
「そ、そんな……ぼ、僕、僕のせいで……」

ショックを受け、青葉は足元から崩れ落ちる。それを希が支え、アスラは安心させる様に少し口元に笑みを浮かべた。

「気にする事はありません。世界は色んな人が創造し、そして時間が経てば消えていきます。忘れ去られて消えていく世界、存在を否定されて消えていく世界。この世界もそんな世界の一つです。崩壊するのが他よりも少し早かっただけですよ。まあ、この世界にアナタ達が入り込んでしまったのは少々イレギュラーではありますが。それに……」 「それに? 何?」
「アナタ達を元の、アナタ達が本来居るべき世界に戻すことはできます。ただ、時間との競争になりますが」
「私たちが無事に戻れる方法があるわけね。ならいいよ。それだけ分かればじゅーぶん」
「それで、その方法は?」

問いかける希に、アスラは少しだけ言いにくそうに口ごもった。

「それは、シュウくんを殺してしまうことです」
「……他に方法は?」
「ありません」

アスラのその言葉に、三人は押し黙った。
覚悟は、していた。何となく、その方法しか無いのだろうな、と声を聞く前に理解していた。
知ってしまえば数ある世界の一つ。そしてシュウはその中の創作されたキャラクター。だが、希にしてみれば「弟分」であり、アユムにしてみれば「可愛い歳下の友達」。そして修二にしてみれば自身の分身だ。耐え切れなかった濁を押し付けたもう一人の自分だ。殺してしまいたくなんて、無い。

「……どうすればいいんですか?」

だが修二は真っ先に尋ねた。

「どうすれば、僕がシュウを殺すことができますか?」

これは自分の責任だ。自分が逃げて逃げて逃げ惑った結果だ。責任を周囲にだけ押し付けた証左だ。だから、せめて最後くらいは、との思いを込めてアスラのフードに隠れた顔を見つめた。

「残念ながら、青葉君にはその力はありません。アナタが自分に与えた力は、全てシュウくんに持っていかれてしまってますから」

だが現実は残酷だ。その手段を修二は持ち得ず、非情なアスラの言葉にまたしても打ちひしがれるが、膝を突くことはせず、代わりに黙って下唇を噛み締め耐えた。

「ノゾミくんも力を今は失ってるから……私の剣で斬っちゃえばいいのかな?」
「いえ、それでも無理でしょう。今、この場所はシュウくんの魔力で満ちています。剣で斬り裂いたところですぐに傷は修復してしまいますし、いくら斬ったとしても彼を殺してしまうことはできません。殺すなら一瞬で全てを消し去るくらいの威力が必要になります」
「なら、アスラはどうなんですか? アスラも凄い魔法使いなんでしょう? 魔法の事はよく分かんないですけど、シュウが言ってました。魔法でそんな事はできないんですか?」
「私には……残念ながらできないんです」

申し訳ないです、と謝罪を口にするアスラに希もアユムも沈黙で応える。何か手段は無いのか、と希は顎に手を当てて眉間にシワを寄せる。だがすぐにアスラが再度口を開いた。

「むむ……となるとやっぱりノゾミくんの武器みたいなのしか方法がないのかなぁ……」
「ですが、青葉君にならできるでしょう」
「え?」
「でも今さっき青葉にはできないって……」
「ええ、青葉君には直接シュウくんをどうこうできる力はありません。でも……」

アスラの言葉が不意に途切れた。そして希たちの背後から一際大きい咆哮が轟いた。
シュウが叫ぶ。眼を真紅に染め、両目から血が涙のように流れ落ちて頬を染める。体を拘束していた輪がメキメキと音を立てて今にも引き千切られそうになっていた。魔法も封じる効果もある拘束が溶けそうなせいか、消えていたはずの魔法の槍や氷の槍が現れては消え現れては消えて、と繰り返す。
アスラは複雑な魔法陣を展開し、シュウに対する拘束を強める。拘束は再度シュウの体を締め上げ、しかしそれも僅かな間の事であり輪ゴムの様に収縮と伸張の均衡状態を続けはじめた。

「油断していました……! まさかこれほどまでに力があったとは……のんびりと話をしている場合ではありませんでしたね」
「アスラ! さっきの続きを教えて! 修二君には何とかできるって事!?」
「そうです! いいですか、青葉君、よく聞いてください! 青葉君がこの世界を創ったという話はしましたね!?」
「は、はい!」
「シュウくんに及ぼす程の力は残ってませんが、世界にはまだ干渉できるんです! 今、世界そのものがシュウくんの味方となっています。それを何とかしてしまえば……!」
「そ、それってど、どうすれば……」
「願ってください!」

口元を汗が流れ、声を荒げながらアスラは話続けた。

「この世界では何よりも『想い』の強さが力を左右します! 彼の、シュウくんの絶望を凌駕する程の強い願いがあれば……しまっ……!」

破裂音が世界に響いた。シュウの拘束が外れ、封印されていた魔力がシュウの体へと戻ってくる。瞬間、シュウの口から呪が説かれて魔法の槍たちが顕現して地上に降り注いだ。

「ぐっ!!」
「アスラァっ!!」
「危ない!!」

槍の一本がアスラの肩を貫き、修二と、アスラに気を取られた希をアユムが押し倒す形で槍から庇う。

「あああぁっ!」

そして別の一本はアユムの太腿を貫いた。苦悶の声を上げ、アユムは震えながら炎で焼けた脚を抑えてうずくまった。

「伊吹さんっ!!」
「藍沢君! 危ないっ!!」

修二の声にハッとして希は後ろを振り返った。そこには、新たな魔法を唱えるシュウの姿。
果たして、シュウの指先から稲妻が放たれた。

「ノゾミくんっ!!」
「藍沢君っ!!」

真っ直ぐに希に伸びていく光。腰を突いていた希は、咄嗟に両腕で顔を覆う。それしか行動は取れなかった。
ガラスが割れる音がした。耳障りな程につんざく音がした。

「か、鏡が……!」

雷魔法は希が手に持っていた鏡に当たり、辺りに一瞬の煌めきを撒き散らして、鏡面は砕け散り空にばら撒かれた。
鏡の中には宝石が隠されていた。それは、かつてノゾミとアユムが敵を倒した時に集めたものと同種のモノ。碧色の宝石が鏡の額から転げ落ち、しかし地面に落ちずにそのまま空へと昇っていった。
そしてノゾミのポケットに入っていた他の宝石も同じ様に空へと舞い上がっていく。意思を持った様に五つの宝石は一箇所に集まり、やがて五角形を形作って空中で光を放つ。

「石が……」

最後に残っていた、ノゾミのポケットの丸い石。いつ手に入れたのか分からない、この世界と現実世界を繋いでいた魔法陣の描かれていた石が光り出し、宝石たちの中心へと飛んでいく。
石が宝石たちの中心に収まる。途端、宝石を頂点とする五芒星が現れて辺りは淡いキラキラとした光に包まれた。

「こ、これは……!」

光の中で展開されるいくつもの映像たち。瞬間的に再生された映像の中で幾人もの人たちの姿が描き出されていた。

「と、父さん、母さん……」

その中で数多く登場する人物は修二の父と母だった。幼い修二と一緒に楽しそうに笑う両親。修二と一緒に遊園地で遊ぶ両親。食卓でたくさん食べる修二を優しく見守る両親。その中で修二もまた笑っていた。

「あの時のおじさんだ……」
「え?」

だが映像の中で浮かべている表情が変化していく。笑顔の映像が減っていき、ほとんどの場面で登場していた修二の姿が消えていっていた。重苦しさが見て取れるほど暗い表情が増え、思い悩ませる姿を見せている。

「この前、学校に来てた。何か深刻そうな顔して職員室の場所を聞いてきたけど……」
「父さんが……」

映像の中で修二の父親は高校の職員室で、希も知っている教師や教頭、校長と話し合っていた。音声は無いが、時折声を荒げている様子も見て取れた。
そして誰もいない家の中で頭を抱える母親の姿。寂しげに昔のアルバムを眺めていた。家族以外にも幼い頃からの友人に良くしてくれていた近所のおじさんとおばさん。イジメられる修二を見て顔をしかめるかつてのクラスメイト。多くの人が修二の事を心配し、頭を悩ませていた。

「知らなかった……」

修二は呟いた。誰も味方はいないと思っていた。自分は一人で誰も助けてくれないのだと思っていた。
けれど違った。手は、差し伸べられていた。それは見えづらいのかもしれない。それでも、確かに手は近くにあって、ただ修二自身が気づくことができなかっただけだった。
修二の眼から再び涙が溢れる。修二は制服の袖で目元を強く擦った。
――まだ、終わりじゃない。僕はまだ一人じゃない。
映像が終わって光が消えていき、世界はまた崩壊の中途へと戻った。映像が始まる前と変わりは無い。ただシュウだけは、頭を抱えてもがき苦しんでいた。
それまで絶えず宙に展開されていた魔法の槍たちは存在しない。最早世界はシュウに味方はしない。

「僕が終わらせるんだ」

勇気を出して修二は一歩だけ踏み出す。
修二は願った。修二は祈った。

「この、狂わせてしまった世界を――」

希の体が変化する。光に包まれ、希はノゾミへと生まれ変わる。
同時にいなくなっていたアルルが現れ、幼子の姿から成長した女性へと瞬く間に成長した。

「僕が創った夢を――」

ノゾミの手の中に現れるのは小さな銃。それは初めてこの世界にやってきた時に手に入れた、何の変哲もない銃だ。
アルルは光を纏い、ノゾミと口づけを交わしてノゾミの中に消える。
ノゾミは銃をシュウに向かって構えた。

「壊してくれ、ノゾミィィィっ!!」

そしてノゾミは引き金を引いた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「結局さ、夢は夢だったんですよね」

放課後、高校の屋上で町を眺めながら希は呟いた。時折こうして眺める風景はいつも通りで、閑散とした学校前を時々生徒を乗せたバスが走り抜けていく。
メンダスィアンはそこには無い。一日だけ現実に現れた夢の町は、儚く消えてしまっていた。

「ノゾミくんは夢の方が好きですか?」
「……どうなんでしょうね。夢は夢のままの方が良かったのかもしれませんけど、よく分かりません。それと、敬語じゃなくていいですよ。今更ですけど」
「あ、なら私にも普通に話してください」
「敬語になってるよ」
「あっ……その、ゴメンナサイ」
「まあ、別にいいけど」

恥ずかしそうに顔を伏せる歩に小さく笑うと、希は再び柵に体を預けて町を眺める。

「あの、修二君が……学校辞めたって本当です……本当なの?」
「うん、本当だよ」

メンダスィアンが消滅した後、まもなく修二は学校を退学し、そのまま家族と一緒にこの町を離れていった。引越しのトラックが小さくなるのを見送る修二に希は翻意を促したが、修二は少しはにかんで「ありがとう」と礼を述べた。

「でも、やっぱり責任は取らないといけないと思うから」

異世界と現実世界の繋がりなんて誰も分かりはしない。そう希は伝えたが修二の意思は堅い。別れ際に修二はもう一度希に礼を述べると、家族の待つ車へと乗り込んでそのまま町を去っていった。
最後は笑顔だった。

「まあ、修二も納得というか、晴れやかそうだったし、無理に学校に通い続けるよりも良かったのかもな」
「そう、うん、そうかもね」
「でもやっぱり惜しいかな?」
「え?」
「さっきの話。あそこは大変だったけど楽しかったからさ。この世界はつまらないって思ってたけど、でもそれってきっと自分の気持ち一つなんだよな。考え方を変えるだけで見え方は変わって、面白くもつまらなくもなる。だから、楽しかった思い出を夢のままで終わらせるのは惜しいなって思って」
「あれ、夢はまだ続いてるんだよ?」

その言葉とともに歩の肩からユンがヒョイっと現れる。そして、頭の上に幼いアルルがよじ登ると希にだけ分かるような仄かな笑顔を浮かべた。

「アルル!」

希が叫ぶと、それを合図とした様にアルルは歩の頭から飛び上がり、フワフワと希の頭に飛び乗った。

「どうして……」
「分かんないけどね、昨日家に帰ったら部屋の中に二人がいたんだ」

頭上のアルルを捕まえて向き合う形になった時、一枚の紙切れがヒラヒラと空から舞い落ちてきた。

『パートナーは大切に――』
「アスラのヤツ……」
「ね? 夢は続いてるでしょ?」

そう言って笑う歩に、希は頭を掻き、そして首を横に振った。

「いや、やっぱり夢は夢だ。あの世界は夢でしかなくてここは残念だけど現実。ただ、夢の欠片が現実になった、それだけの事だよ」
「ふーん、そっかぁ……」

歩が肩の上のユンを撫でると、ユンは気持ちよさそうに伸びをして顔を歩に擦り付ける。ユンの頭で歩のメガネがずれた。ズレを直そうとメガネのフレームに手を掛け、だがその手が止まる。

「なら……私も夢の自分に近づけるように努力しないとね」

フレームを掴み、歩はメガネを取り去った。その際に髪が巻き上がり、乱れたそれを手櫛で整えた。
メンダスィアンにいる時と顔の作りは変わらない。だから希にとってもその容姿は見慣れたものだ。
けれども、現実世界で初めて見た歩の素顔。不安げで心細そうな面持ちしか見たことが無く、どこか晴れ晴れとした笑顔に希は知らず眼を奪われていた。

「どうかした?」
「い、いや……」

見惚れてました、なんて言えるはずもなく、希は恥ずかしさをごまかす様にして頬を指先で掻いた。それでも不思議そうに首を傾げる歩だが、希を助けるかの様なタイミングで下校時刻を告げるチャイムが校内に鳴り響いた。

「帰ろっか?」
「そうだな」

屋上と校内をつなぐドアに向かって希は歩き始め、歩は希の一歩後ろにつき従い、しかしすぐに希の右隣に並び歩く。
ドアに辿り着くまで、あと十メートル。歩は歩調を希に合わせる。
希の右手がドアノブに触れるまで、あと五メートル。歩は左手でスカートを握り締める。
希の脚が止まるまで、あと一メートル。歩の左手が希の右手に伸びる。
そして――







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