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第一話 夢を、願う(12/06/09)
第二話 石とボール(12/07/08)
第三話 其は誰がために剣を握る(12/07/21)
第四話 世界はあまねく世知辛く(12/08/26)
第五話 纏い惑い迷い(12/09/30)
第六話 人(12/09/30)
第七話 コウセン(12/10/21)
第八話 今を生きる夢(12/10/21)
第九話 嘘つき(12/11/10)
第十話 迷い人は夢で生きる(12/11/10)









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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved






-2 石とボール-




グラウンドに静かな緊張が立ち込める。
睨み合うのは二人。十メートル少々の距離を置いて、燦々と太陽が照りつける中で時を待つ。周囲の人間は二人の対決を固唾を飲んで見守っていた。
その内の七人はいつでも動き出せる様に腰を落として動きを待っていた。時間はもう無い。これが最後の攻撃だ。
グラウンドの中央にあるマウンド上で、ピッチャーがグローブの中のボールを掴んだ。野球のボールよりも二回りほど大きいソフトボールで、しかも山なり投球限定。素人でもそれなりに野球で遊んだことがある奴ならば打つのは難しくない。ましてバッターは同じ野球部の矢部だ。レギュラーじゃないにしろ、ウインドミルを封じられた自分では抑え切れないだろう。
だが抑えなければ。二死満塁。点差は一点。撃たれれば俺らの負け。逆にこいつを抑えれば、俺達の勝ちだ。外野に飛ばさせなければ、アイツが何とかしてくれる。
炎天下で待ちぼうけにされているクラスメートの非難の視線に気づかずに溝口佑樹は一人自身が置かれたシチュエーションに酔っていた。
あるいはそれも佑樹の作戦か。
ようやくボールをグローブから離し、手を後ろに引き、そしてフワリとしたボールが放たれた。暑さで粘った空気を泳ぐようにゆっくりとバッターの手元に届いていく。
矢部がバットを小さくテイクバックする。何百回と振ってきたスイングは、この場においても練習通りシャープに振りぬかれた。
だが佑樹の焦らし戦法が功を奏したか、それとも暑さにやられたか。本来狙うべきタイミングより早くバットは前へと進み始め、気づいた時には遅く、泳ぐ体勢で已む無くスイングを強行した。
それでもやはり野球部。体勢を崩し、芯を外しながらもバットはボールを捉えて佑樹の脇を鋭く通り過ぎていった。
攻める側は沸き、守る側は表情が固まる。しかしその中でも佑樹だけは満足気に笑みを浮かべていた。大丈夫、そこにはアイツが居る。
二遊間を抜けていく打球。無人のグラウンドをボールが転がる。だがそこを走り抜ける影がある。
セカンドベースの後ろでボールをランニングキャッチ。勢いを殺すこと無く、逆にその勢いを利用して体を回転させるとそのまま一塁へとオーバースローで送球した。矢のような送球は正確に一塁手のグラブへ吸い込まれ、審判は右腕を青天に上げた。
歓声と悲鳴が同時にグラウンドに響いた。それに呼応したかのように授業の終了を告げるチャイムが鳴った。

「おーし。勝ったチームは帰って昼休みに入っていいぞー。負けた方は片づけな。アタシは先に戻ってるから鍵を後で返しに来いよ。あ、もし片づけもれがあったらお前ら全員放課後にグラウンド整備だかんな」

体育教師の無慈悲な宣告と同時に負けた攻撃側は一斉にうなだれて地面に膝を突いた。一方で勝った佑樹たちは、最後にファインプレーを見せた選手――希を中心にハイタッチをかわす。
ぞろぞろとクラスメートが引き上げる中、佑樹に気づいた希がクラスメートの輪から離れて佑樹に近づき、佑樹はニッとわざとらしいほど大きく歯を見せて笑った。そしてどちらともなく手を挙げると、同時に互いの手を叩き合った。
パァン。軽い破裂音が響いた。

「とりあえず、飯行くか」



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「やっぱりさ、希は野球をやるべきだって!」

昼休み、ほとんどの生徒が押し寄せた学食は騒がしい。誰もが退屈な授業の合間の休息時間を楽しんでいて、椅子を引く音やら注文する声やら会話する声やら、もはや何の音から分からないほどに騒音でごった返した中、佑樹は一際大きい声で正面に座る希にそう主張した。

「口元、米ついてるぞ」

それに対して希はまたか、と言わんばかりの表情を浮かべると佑樹の口元を冷静に指摘してラーメンのスープをズズ、とすすった。やっぱりラーメンは豚骨だな。この値段でこの味を出せるおばちゃんは天才だ。学生の懐に優しい一杯二五〇円也。大好きな味に、食通気取りで満足気にうなづくと一口分だけスープを残してどんぶりを置いて手を合わせた。

「おう、サンキュ……じゃなくてだな!」
「そのカツ食わないんか? ならもらうぞ」
「え? あ、コラ、テメー!! 何しやがる!?」
「冗談だよ。テメーなんぞの飯奪うほど腹は減ってねえよ」

ムキになんなよ、と佑樹をなだめて箸で掴んだカツ丼の最後のカツを元に戻す。そして無言で手を合わせると、自分のどんぶりを持って返却口に向かう。

「あ、おい! 待てよ、希!」

慌てて佑樹も最後のカツを口の中に押し込むと、食堂のおばちゃんに「ごっそさーん!」と声を掛けて希の後を追いかけた。
希は自動販売機でパックのコーヒー牛乳を買い、佑樹を置いたままにストローで飲みながら校舎へと入っていく。

「お前は才能あるんだからもったいないって! な? 今からでも遅くないから野球部に入れよ!」
「その話は前にも聞いて断っただろ? そう言ってくれるのは嬉しいけどさ、だいぶブランクあるし俺らもう高二だぜ? 野球は好きだけどよ、今更野球部にゃ入れないって。第一、野球部の奴らが納得するかよ」
「大丈夫だって! どうせ部員だって少ねえんだし、他の野球部の連中だってお前の実力は知ってんだし俺も説得するからさ? ブランクとかお前言ってんけど、ブランクある奴がいくら体育の授業だからってあんな動き出来るかっつーの」
「バッティングは全然だけどな」
「お前はピッチャーだから関係ねーよ。お前が投げてくれたら絶対に大会でもいいところまでいけるんだからさ!」
「そこまで高校野球は甘くないって。それに、いくら頭では納得しても気持ちが納得できるかよ。毎日練習して努力した奴が報われるべきだぜ。俺が入ってく余地なんて残ってねーよ」

希にとって野球は特別だ。物心ついた時には常に野球のボールを握ってたし、暇さえあれば壁を相手にキャッチボールをし、テレビの中継を見てはプロの選手のフォームを真似たりもしたし、シャドウピッチングも何十分も繰り返してた。
それでも希は野球をもう一度始める気は無かった。一度退いた身だし、改めて始めても今まで真面目に努力した奴に叶うとも思えないし、よしんばチームでレギュラーになれるとしても一生懸命やってきた努力を足蹴にする様な真似はしたくない。頑張ってきた奴が報われるべきだ。
希はパックの中身を吸い出してそれを握りつぶした。佑樹と話している内に校舎の三階まで登ってきていて、廊下で談笑している上級生の間を通り抜けていく。教室の中に眼を遣れば、受験生である三年生の中には昼休みにも単語帳を開いて勉強している生徒も少なくない。一心不乱に問題集と格闘している人もいる。
やっぱり必死なんだなぁ、と希は内心で呟いた。後一年もしない内に自分らもその仲間入りを否が応でもしなければならないのだ。そして一年半が過ぎればセンター試験と個別試験。希は私立を受けるつもりは無いため、滑り止めは無い。だから教師連中が口を酸っぱくして言う通り今のうちから準備をしておかなきゃならない。そう言い聞かせるも、一種独特な雰囲気を醸している最上級生の姿をいささか陰鬱な気分になりながら希は眺めた。
そうして三年生の教室を通り過ぎていき、「3―10」と書かれたプレートの教室に差し掛った時、一人の女の子に眼が止まった。
一番廊下側の後ろのドアの近くの席で、黒縁の眼鏡を掛けた彼女は一人じっと下を向いている。初めは勉強しているのかとも思ったが、机の上に参考書や教科書は出ていないし、何より下を向いたまま何かに耐えるように動かないのだ。
その様子を怪訝に思いながらも足を止めるようなことはせず、そのまま通り過ぎる。

(誰だったっけな……)

希の交友関係は広いわけでもなく、三年に知り合いもいない。にも関わらずその彼女をどこかで見たような気がした。が、おおかた廊下ですれ違った程度だろう、とそれきり希は意識から彼女の姿を外した。

「なあ、頼むって……おい、聞いてんのかよ?」
「ん、ああ、聞いてる聞いてる。ともかく、だ。どれだけ頼まれても野球を本気でやる事はもう無いし、その考えは変わらないよ」
「もったいねぇなぁ……あれだけの才能があんのにそれをみすみすドブに捨てるなんざ、俺には考えられねーな。
 それで、俺の必死の説得も聞かずに三年の教室を覗きこんで、誰を見てたんだ? 言っちゃわりーがそのクラスには可愛い子はいねーぞ」
「別に。ただ昼休みだって言うのに一人で下向いてる暗い人がいるなって思っただけ」

佑樹は振り向いてその教室を確認し、合点がいった様子で「ああ」と声を上げた。

「あの人か。3-10の一番後ろに座ってる女子だろ? 教室の前通る時に見るけど、あの人はいっつもあんな感じだぜ? 友達らしき人と話してるのも見たことねーし、いじめられてんのかね? もしくは性格がわりーとか?」
「ふうん」

気のない返事を希は返す。いじめられてるとしたら、高三にもなって恥ずかしい事だ。善悪の判断もつかないガキじゃあるまいし、もう大人になろうという人たちが何をやってるのか。そう思ったが、そもそも大人の世界でもいじめはあるし、ならば世の中はそんな情けない世界なんだろう。性格が悪くてハブられているのなら自業自得。どちらにしろ、自分に関わりが無いならば興味は無い。人間誰だって自分の事で精一杯なのだ。自己満足のために他者に手を差し伸べられる、そんな人間が誰かを救ってやれば良い。自分にはそんな余裕は無いのだ。

「おっと」

連々と益体も無いことを考えていたせいか、希は教室から出てくる誰かに気づかなかった。二年二組の前方ドアの前で不意に右肩がぶつかり、声を出して少しよろめいた。

「あ……」

ぶつかった相手も小さく声を上げる。クラスメートの青葉だ。背丈は希よりわずかに高い程度だがぽっちゃりとした体型で、おどおどとした態度で希の顔を見るとすぐに下を向いて顔を逸らした。

(いじめられてると言えばコイツもだな……)

太っているためか運動神経も良くない。成績も悪くは無いが良くも無く、今みたいに常に何かに怯えているみたいにおどおどとしている。そのせいか、こうして休み時間には誰かにからかわれたりネタにされたりする姿を希はしばしば見かけていた。本人は嫌がる素振りを見せるもののそれを言葉にして主張することも無く、先生連中も積極的にそれを咎める事をしない。
希としては別に青葉に対して含むところは無いのでいじめる事はしないし、用があれば普通に会話もする。が、所詮その程度であり、絡んでいっても特別面白いことも無いので単なるクラスメート以上の存在では無かった。
高校生ともなれば表立って苛めるなんて事はない。仮にもこの高校は公立校としては屈指の進学校であり、咎められないストレスの吐き出し方を皆心得ている。それは希も佑樹も同じだ。そしてだからこそ余程の事がない限り他者のそれに介入することも無い。いじめられている側の心理を押し図りながらも、線引きの内側に入り込む気は無かった。

「おいおい気ぃつけろよ、青葉。コイツの黄金の右腕に何かあったらどうすんだっつーの」
「だからそれはもういいって。悪いな、青葉。俺の方が前を見てなかったわ」

苦笑いを浮かべて希は佑樹を制すると、青葉に謝る。青葉は恰幅の良い体を縮こまらせ「あ」「う」と意味の無い言葉だけを口の中で発すると、言葉にするのを諦めたのか小さく頭を下げると二人の横を通り過ぎていった。

「ンだよ、アイツ。相変わらず意味わかんねぇヤツだな」
「お前もイチャモンつけてんじゃねえよ。だいたい人の体に勝手に大層な名前つけんな。なんだよ、黄金の右腕って。聞いてるコッチが恥ずかしいわ!」
「そんだけの価値があるって俺は思ってんだよ」

やれやれ、とばかりに希は肩を竦めたがここまで言われると気分は悪くない。つい佑樹の提案にうなづいてもいいか、という気にさせられそうだった。だがそれが言葉となって口から出ていくのを何とか堪える。

「まあ、いいや。んじゃ次の時間英語だから、単語テストの勉強でもするから」
「相変わらずお前は真面目だな。たまにはサボってしまえばいいのによ」
「後々困るのは俺だからな。今のうちから勉強しとくに越したこたァねえよ」
「そりゃそうだけどよ、せっかく俺らは学生やってんだぜ? 世の中には楽しいこといっぱいあって、俺らの歳くらいまでしかバカできねえんだぞ? そもそも、勉強していい大学行ったからってバラ色の人生が待ってる訳じゃねえんだし、もっと人生楽しまなきゃ損だって」

呆れた様にそう佑樹は主張して、それに対して希は困ったように眉を八の字にした。

「そういうのは俺はいいや。代わりにお前が楽しんでくれ」





◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆





華やかなネオンが色とりどりに夜の街を染める。片側三車線の道路には乗用車、バス、タクシーが隙間なく敷き詰められ、高架駅の下からはおびただしい人が吐き出されて、歩道の上は人形の様に人々がそれぞれがそれぞれの動作で、しかしどこか秩序だって通り過ぎていく。
駅ビルに設置されたデジタル時計の表示は九時を回っている。それでも街行く人々の数は衰える事を知らない。仕事帰りの疲れたサラリーマンは華やかな歓楽街に消え、しかめ面したキャリアウーマンは眉間にシワを寄せて不幸の国から逃げ出すように足早に帰路に着く。時間を持て余した大学生は一軒目の飲み屋の勢いそのままに騒ぎながら二軒目の店を探しては断られ、それを意に介した風も無くまた次の店を探す。家に帰るのが嫌な女子高生は、ケバい化粧と不自然な茶色の髪を振り乱して友人同士で勝手知ったる足取りで年中どこかで行われている道路工事の脇を軽やかに駆け抜けた。

「……でさぁ、アイツの話マジ受けるんですけどー?」
「うっそぉ、マジで? マジきもーい!」
「でさでさ、気がついたらいっつも私の事見てんの。どう思う?」

めいめいに話したいことだけを話し、相手の反応など知ったことではない。大切なのは自分がそこに居ること。そんな会話を希は工事現場の中で聞いていた。

「ふぅ……」

一輪車いっぱいに積まれた土を降ろし、汚れた作業服の肩に掛かっていたタオルを掴む。黄色いヘルメットを乱暴に掴んで外すと汗を拭い、ため息をついて夜空を見上げた。
街中で見上げた空はひどく狭い。箱庭の中にいるみたいだ、と希は思う。誰かが作り上げた世界の中で自分たちは生きていて、知らずに誰かに影響を受けている。
誰かは見ず知らずの他人かもしれない。誰かは良く知った身近な人かもしれない。いずれにせよ、自分で全てを決めてきたかのように思えても、その実、誰かが敷いたレールの上で生きることを強いられているのだ。ただそれが目に見えて露骨に敷かれているか、レールの上にどっさりと土が巻かれてカモフラージュされているかの違いだ。もしくは意識して誰かにそのレールに乗ることを強制しているか、はたまたレールに乗るよう誰も意図せずに、だが無意識の意識ともいうべき意志で乗せられているかの違いかもしれない。
希は浅いため息を吐いた。それはこの世界で生きるならば当たり前のことだ。百パーセント自分の意志だけで選ぶなんてできない。そもそもの話として、誰かが敷いたレールが無ければ自分らは生きられないのだ。こうして自分が作っている道路が無ければ、まっすぐに歩くことさえ難しい。その事に皆気づいているのだろうか。

「……クソッタレ」

希は吐き捨てた。自分の思考が所詮ひがみでしか無いことは知っている。そんな事は知らなくてもいい事なのだ。知ったって人生の何の役にも立たない、むしろ楽しむためには邪魔でしか無い事なのだ。ただ、自分がその事に気づいてしまっただけの話だ。

「コラァ、藍沢ぁっ!! 何サボってやがるッ!」
「あ、す、スイマセンッ!」
「テメェが動かねぇと仕事進まねぇじゃねえか! さっさと戻って来いっ!」

高橋にどやされて、希はヘルメットを被り直すと慌てて一輪車を押して戻る。高橋は希と同じく汗を流して働く、四十前の強面の男だ。短く刈り込まれた髪と、昼間にこうして働くことも多いのだろう、作業服の袖から覗く太い腕は浅黒い。
この人は今、人生を楽しんでるんだろうか。もしくは、楽しめていたんだろうか。高橋に軽く頭を叩かれ、また土砂を運びだしながらそれが気になった。

(俺らは学生やってんだぜ? 世の中には楽しいこといっぱいあって、俺らの歳くらいまでしかバカできねえんだぞ?)

昼間の佑樹の言葉が希の頭をよぎった。楽しいことはあるんだろうか。確かに希がいるこの場所から見た同級生らしき学生は、程度の差はあれ、楽しそうだった。友人同士で談笑し、時には大声で笑い、汗を流し汚れながら働く希たちを一瞥だにせず過ぎ去る。自分たちの世界に夢中で、周囲に気づかない。
希も好きでこうして学校帰りに汗水流してアルバイトをしてるわけではない。必要だから働いているのだ。母親の稼ぎだけでも何とか生活はできるが、それ以上の生活が出来る訳じゃない。奨学金が打ち切られでもすれば、それだけで高校を辞めなければならないくらいにギリギリで、だからこうして働いて、成績も落ちないよう勉強もしなければならない。遊んでる余裕など無いのだ。まして、また野球なんてできるはずもない。
一輪車を横に倒し、土を降ろす。そしてまた戻って土を乗せ、土砂置き場に運んでいく。短調で面白味もなくきつい仕事を繰り返していく。
別にバカみたいな事をしたいわけじゃない。希は、自分だけの世界に居たかった。
今、こうして働いているのは母親に頼まれたわけでも無い。自分で選んだ道だ。だが道が他に用意されていたわけでもなく、道を逸れる勇気も無かった。そうして自分で選ばざるを得ない状況に置かれてしまった自分に気づき、その境遇をひどく儚み、同時に自分とは別の場所にいる同級生たちがひどく羨ましかった。
他人の柵のない場所が欲しい。そこでなら自分も楽しい人生を送れるのだろうか。希はそれを願っていた。

(そんな夢のような、都合のいいトコなんてあるはずが無い……)

夢。
そう言えば、と希は昨夜の事を思い出す。どこか知らない、不思議な場所。自分を知る人のいない、何にも縛られない場所。鬼に襲われ、必死に逃げて逃げて、大変だったが「悪くない」と思った。

「……最後どうなったんだっけ?」

洞窟の中にまで逃げ込んで、それでも鬼たちが追ってきたのは覚えているが、そこで夢から覚めたのか。それに、一緒にいたあの女の子はどうなったのだろうか。
そこまで考えて、希は自嘲とも言える笑みを口元に浮かべた。夢の中の事なのに、そんなに深く考えることないだろう。どうせもう見ることは無い夢だ。そして夢を見ても良い事なんて何もない。現実はいつだって残酷だ。

「きゃっ!」

女性の小さな悲鳴に希はハッと我に返った。足元を見れば、積まれた土の山が崩れてしまっていて、それがポールで仕切られた工事区域をはみ出し、女性の脚にまで掛かってしまっていた。
またやってしまった。内心でため息と自分に対する怨嗟を吐きながら女性に謝った。

「す、すみません! 怪我は無いですか?」
「え、あ、は、はい……大丈夫です、ちょっと土が掛かっただけなので……」

風が吹けば消えそうなくらいに小さな声で女性は応えた。実際、工事音で希の耳にはほとんど声は届かず、それでも女性の仕草から大丈夫だ、というのは伝わった。
胸を撫で下ろして希は顔を上げる。そして互いに顔を見合った時、二人して声を上げていた。
ブレザーの学生服に黒い縁の太いメガネを掛けたその姿は、今日の昼休みに三年生の教室で俯いていた先輩だった。それを認めて希はマズいことになった、と思わず舌打ちをしていた。
希の高校は進学校で、生徒のアルバイトは認めていない。生徒手帳の記述によれば、新聞配達程度は特例として認めてやるみたいだが、到底希がしているようなバイトは認められない。それが分かっていたために希は学校に無断で働いていた。面接の際も私服で生き、高校名も明かさなかったが、こういう職場はそういった経歴に頓着が無いのか、特に追求もされずにあっさりと作業員として働く事が認められていた。
ともかく、すぐにこの場を離れよう。高校の先生たちもまさか自分の生徒が工事現場で働いているなんて思わないだろうから、夜で薄暗い事もあっていざとなれば他人の空似で逃げ切れる。不自然にならないようヘルメットの位置をずらしながら、「それじゃあ」と声を掛けて一輪車を押し始めた。

「あ、ひゃの!!」

ヘルメットの触り方以上に不自然な声に、つい希は女性の方を振り向いてしまった。件の先輩は、と言えば、噛んでしまったのが恥ずかしいのか、薄暗い中でも分かるくらいに顔を真赤にして昼間と同じようにうつむいた。
希は希で完全に立ち去るタイミングを逸してしまい、一輪車を抱えたままどうしたものかと途方にくれていた。

「あの……何か?」
「え? あ、その……ですね」

呼び止めた時とうって変わってか細い声で言いよどむ。だが意を決した様に大きく息を吸い込む。

「その、ちゃんと挨拶をしようと思いまして……」
「え?」
「あの、アユム、です。昨日お会いしましたよね?」






◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆






着替えを終えた希は、私服で自転車に飛び乗ると大急ぎで近くのコンビニへ向かった。錆びついた車輪がギシギシと音を立て、悲鳴に似た声を上げる。しかし希はそれを気にする事無く、むしろ逆に一層両足に力を込める。
夜十時を回り、幾分人通りは少なくなったが、その隙間を猛烈な勢いで駆け抜けてアユムを探す。

「すみません、お待たせしました」

急ブレーキを掛け、一度深呼吸をして希は息を整えるとコンビニの前で所在無さげに佇むアユムに声を掛ける。目元まで届いた長い前髪からのぞく、不安げだったその表情が少しだけ緩む。

「いえ、そんなに待ってませんから……」

そう言うとチラリ、と付近を見て、コンビニから人通りが少ない再開発地区の方向へと歩き始めた。希は自転車を降り、手で押しながらアユムの横に並ぶ。

「えーっと、歩きながらで失礼なんですけど、藍沢・希です。宜しくお願いします。あの、やっぱり昨夜のって夢じゃないって事ですよね?」
「はい……そうだと思います。あ、あの、伊吹・歩です。昨日は本当にありがとうございました」

希に名前を告げ、歩は一度立ち止まると深々と頭を下げた。だが希にはそんな心当たりは無い。

「あの、何の話ですか? よく話が見えないんですが……」
「え? あの、覚えていないんですか?」
「いえ、だからその、覚えてないも何も話自体が分かんないんですけど」
「あ、す、スイマセン! えっと、昨日の洞窟の話です。あの変な化物に扉を破られて、もうダメだって、私死んじゃうんだって思って……でもノゾ、藍沢君の」
「ノゾミ、でいいですよ」
「あ、はい。その、ノゾミくんがあの化物を倒してくれたおかげで助かったんです」
「俺が? アイツを倒したんですか?」
「ええ。だからお礼を言わないといけないと思って。覚えてないんですか?」

歩に問われて希は思い返す。昨日の世界が夢で無いことは分かったが、それでもまだ夢の様な意識が抜けない。記憶も全体的にボンヤリしていて、それこそ夢の内容を覚えているか問われている気分だ。それでも順を追って記憶を探っていき、少しずつ思い出していった。

「あー、なんか最後の最後に突然変な光に包まれたような……」
「あ、そうです。ノゾミくんが光に包まれたと思ったら真っ黒な服で現れて、手に持ってた銃で化物を吹き飛ばしたんです。すごいカッコよかったですよ。銃から光がドカンって出て敵を一発で倒して、『お前には絶対に負けない』みたいなセリフを吐いて……どうしたんですか?」
「……気にしないでください」

なんだそれ、恥ずかしすぎる。希は頭を抱えてうめいた。
希の少ない趣味としてよくマンガを読むが、特に銃が出てきて登場人物が互いに殺し合うようなバイオレンスアクションを好む。時には冷静に、時には縦横無尽に走り回って敵を蹴散らしていくその様は爽快だ。ピンチに陥っても自分の力でそれを乗り越えていく姿に憧れていた。だが歩によって語られた自分の姿は、まさに時々自分が夢想していた登場人物だった。知らず、自分の妄想を他人に見られてしまったようでとても恥ずかしい。

「ま、それはそれとしまして……それから?」
「えっと、その後ノゾミくんが突然倒れて、そしたらポケットの中にあった石が光ったんです」

そう言うと歩は制服のスカートから石を取り出して希に差し出す。手のひらサイズのそれは何か道具で加工されたみたいに真円に近く、表面には何か魔方陣のような幾何学模様が白い塗料で描かれていた。そして、その石には希も見覚えがある。

「これは……」

希もポケットから同じように取り出して、互いに見せ合う。サイズの割には軽石の様に軽く重量感は感じない。よく見てみると、希の石は歩のそれとはまた違う模様が描かれていた。

「やっぱりノゾミくんも持ってたんですね? 私のとノゾミくんのが光ったと思ったら、気がついたらここに居たんです」

歩は立ち止まり、顔を空へ向けた。釣られて希も見上げるとそこは五階建てのビル。灯りは点いておらず、窓も割れ、見るからに廃ビルだ。夜だからか不気味な雰囲気を醸しており、知らず希は背筋を震わせた。

「なんか……不気味ですね」
「そうですか? あ、確かコッチです」

希が至極妥当な感想を述べるが、歩は首をかしげると暗がりを気にした風も無くビルの中に脚を踏み入れる。見上げているうちに置いて行かれる形になった希は慌てて自転車を脇に寄せて、歩の背中を追いかけた。そしてビルの中に脚を踏み入れた途端、つい希は立ち止まってしまった。
ビルの中は外から見た以上に暗かった。ほんの一メートル前を歩く歩の背中さえ薄ぼんやりとしか見えない。音もまたゾッとするほどに無く、そっと下ろしたはずの足音さえ踏み鳴らしたかの様にビル全体に響き渡った。

「確か……三階だった……?」

記憶を辿り、歩は錆びついた手すりを握りながら階段を登る。階段は軋み、希は落ち着かず辺りをキョロキョロと見回しながら進んでいき、それと同時にどうして自分は歩に付き従っているのだろう、と自問した。
夜はもう遅い。明日も朝から学校で、早く帰って今日の復習をしなくちゃいけない。こんな所で油を売っている余裕は無いのだ。確かに昨日の世界が夢でなく、現実にあるというのならば気にはなる。だが、それだけだ。本当に昨日の世界があったとしてそれでどうなるというのだろう?自分たちはここで生きていて、そこからは逃げ出せない。
そして、どうして歩はこうもこんな暗くて不気味なビルを物怖じもせず歩けるのだろう。希は疑問を抱いた。最初に話した時はオドオドとしていて、口調も他人と話すのに慣れていないみたいにたどたどしかった。学校で見た時もじっと動かず、とてもこんな場所でこんな風に過ごせる様な人には見えない。ビルの雰囲気の所為か、彼女自身に対しても希は恐怖に似た感情を抱いた。
とはいえ、と希は思い直す。歩一人を置いて帰るわけにはいかないし、何よりもどうしてだか希にはここで帰ろうと本気で思えなかった。

(まあ……もう少しだけ付き合うか)

不思議な魅力に引き寄せられ、歩は歩き、希も後ろを付いていく。

「ありました。ここです」

二人は無言で突き進み、三階の最奥部に着いたところで歩は脚を止めた。窓ガラスを失った窓からは月明かりが入り込んで足元と二人を微かに照らした。
歩が指し示したところには何も無かった。暗くてよく見えてないだけか、と希は顔を近づけるもやはり何も無い。

「……なんも無いんですけど?」
「そう、ですね……でも確かにここに戻ってきたんです。ほら、ここだけ埃が無いでしょう?」

言われてみると確かに一箇所だけ埃が無く、その下の薄汚れたフロアタイルが顔を覗かせていた。
何の気なしに希はその場所へ立ってみた。何も起こらない。
やっぱりな、と何かを期待していたらしい希はその事に気づくと薄く自嘲の笑みを浮かべた。
だが――

「……えっ?」

手に持っていた、あの不思議な模様が描かれていた石が突如光った。そしてそれに共鳴した様に歩の持っていたそれも光り出し、まるで昼間の様に急激に室内を照らし出していった。
光は膨張し、やがて希の姿を覆い隠すまでに光は強くなる。

「ノゾミくん!!」
「伊吹さん!」

咄嗟に差し出された歩の手。光りに包まれた希はその手を掴んだ。
その瞬間、二人の姿は廃ビルから消え去った。





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