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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved




――1.
 ギシリ、という金属音が鼓膜を揺らして私は眼を覚ました。
 予想外に重いまぶたを開けたら眩い光が瞳を焼くかと思えばそんな事は無くて、薄暗いだけの敷き詰められた石畳がすぐに眼に入ってくる。暗闇に慣れる時間が必要な程にも明るくなくて、かと言って全くの暗闇というわけでも無い。例えるならば真暗にして寝ていたら夜中に眼が覚めた時だろうか。眼を開けた途端に部屋に置かれた家財道具の薄ぼんやりした輪郭が把握できるくらいには、今いる場所は明るい。
 寝起きの上手く開かないまぶたに懸命に力を込め、光源を探す。少しずつ眼を移動させるとたぶんこの部屋の入口だろう、壁が途切れたその向こう側から明々とした光が漏れ入ってきていた。
だけどもどうにもまぶたが開かない。それに、何だか肌寒い。今更ながらに自己主張を始めた皮膚に負けて、まずまぶたに刺激を与え、それから両腕を擦るために腕を動かそうとして、腕に走った鋭い痛みに体を強張らせた。
そしてガシャ、という金属音。腕は何かに妨げられて動かせなかった。
何だろう、と気怠く首を動かして腕を見れば、腕輪が両腕にはめられていた。そこから伸びる金属の鎖。鈍色のそれは腕の動きを拘束して壁へと繋がれていた。そこで私はやっと、自分がこの牢屋で拘束されていることを思い出した。
牢屋に入れられる前と入れられた後の両方で受けた腕の傷。今、見えているのは腕だけども傷は腕だけじゃなくて、多分体の至る所にあるだろう。けれど、下半身は元々感覚が無いし、鎖で拘束されている以上動かせる箇所は腕くらいしか無いから擦れて痛みを思い出すのはやっぱり腕だけだ。
 鈍さと鋭さの混じる痛みで俄にクリアになる思考。けれどもそれは、ここに入れられる前に比べるとかなり鈍い。当たり前だ。ここ数日、まともに水さえ飲んでいないのだから。

「……お腹空いたな」

 誤魔化し紛れのつぶやき声は我ながら驚くほどに掠れてた。水分を失ってひりつく喉の痛みに咽て咳き込んでしまい、鉄臭い香りが鼻孔を通り過ぎた。つぶやきの返事は何も返ってこなくて、寒々とした響きだけが残った。
今は昼だろうか、それとも夜だろうか。疑問に思うけれど、こんな牢屋に時計なんて立派な物は皆無。明かり取りの窓でさえ存在せず、そもそも設備と言えるものがこの腕を壁に繋いでおくための拘束具のみという何とも有難すぎて涙が出そうな有様だ。昼夜の感覚なんてとっくの昔に無くして、ここに入ってから幾日が経過したのかもさっぱりだ。牢の持ち主は私を生かしておきたいのかそれとも殺してしまいたいのかハッキリさせてもらいたい。まあ、苦しませて殺そうというのが目的なら現状も間違いでは無いのだけれど。
ボンヤリとして牢屋の中を見渡していると、私以外のもう一人の住人の姿が眼に入った。
彼の事を「一人」と表現してしまっていいのかは分からない。コウリと名乗った、私を助けようとして失敗してしまった彼は今、虎の様に黄色い体毛に覆われた体を冷たい石畳の上に横たえてる。上半身から一転して茶色い、細くともたくましさを感じさせるカモシカの様な四肢には私と同じように足輪がはめられて壁に拘束されてる。首には何か紋様が刻み込まれた首輪がはめられ、今は身動ぎ一つしない。寝ているのかそれとも力尽きて息絶えて居るのか。
その姿を見ていて、私は一人の少女を思い出した。

「……ミーナは無事かなぁ……」

 決して他人様の心配をできる様な状況では無いと客観的には分かってるのだけど、どうしてもずいぶんとお世話になった彼女の事を思い出してしまう。危機感が足りないと言うか何と言うか。そも、私は今のこの、拘束され飲まず喰わずで何日も過ごしている状況にあまり絶望していないのだからしょうがないのだけど。
希望があるわけでもない。どこかのお話よろしく白馬の王子様が誰かが助けてくれるだなんて妄想染みた期待を抱いているわけでもない。所詮、自らを助けるのは自分しか無いのだから。
それじゃあ何故私はこの状況でも落ち着いていられるのか、と問われれば明確な答えは持っていない。そんなもの、記憶を失っている私には問うだけ無駄だ。だけど、敢えて答えるならばこういう事だろう。
きっと、私は今よりも絶望的な状況を知っている。それは感覚的なものだ。そしてその状況を知って今なおこうして生きているという事は、そんな状況を切り抜けてきたという事だ。更に言えば、私はこの状況を切り抜ける手段を持っている。今はそれを忘れているけれども、きっと必要な時に思い出せる。この確信の出処が一体何処なのかは皆無ではあるけれど。
深々と私はため息を吐いた。絶望はしていない。けれど、今の状況に当然ながら満足しているわけでも諦めているわけでも無い。私の感性はマゾっ気に犯されていないし、不当と感じるくらいには全うで、奴の体を八つ裂きにするくらいでは足りない位には全身は怒りで沸騰している。
私は、私を縛るモノが心底大嫌いだ。殺してしまいたいくらいに憎くて、きっと然るべき時がくれば奴には産まれた事さえ後悔するくらいに私を縛りつけた事を後悔させてやるだろう。けれども、その時はまだだ。だから私は眼を閉じて待つ。じっと牙を研いで食らいつく時を待つのだ。




◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




 捕まって牢屋に入れられる前にこの世界で私が眼を覚ました、つまりは今の記憶が始まったのはもう一月くらい前になるだろうか。まぶたを焼く眩い光に不快感を覚えて眼を開け、体を起こすとそこはどこかの家の中。木造の家でさして広くはなく、立て付けも悪いのか隙間風が入り込んで甲高い音を奏でてた。風が吹く度にギシギシと家中がきしんでて、けれども家の中は清潔で家具も小奇麗に掃除されてた。真新しいシーツは触り心地が良くて、布団も暖かい。この部屋の持ち主の性格が表れてるみたいだ。
そして私は思う。

「ここは……何処?」

 部屋自体に全く見覚えは無いし、何故こんな場所に居るのかも記憶に無い。頭を掻きながら一体昨夜に自分は何をしていたのだろうと、それすら思い出せない自分に何だかバツの悪さを感じる。情けなさにため息一つ。重い頭を左右に振って眠気を払う。昨夜の記憶が無いということはここが何処にせよ、部屋の主に少なからず迷惑を掛けただろうし、自省もせねばなるまい。まずは昨夜に何をしていたか、そこから思い出すことをしよう。
結論から言おう。それは失敗した。
私は何一つ思い出せなかった。昨夜の事は愚か、いつ自分が生まれ、どこで過ごし、これまでどうやって生きてきたか、自分の足跡について一切が分からなかった。恥ずかしながら私はこの段に至ってようやく自分が記憶喪失であると悟ったのだ。
 にも関わらず私には一切の不安は無かった。喪失感も不安感も無く、それどころか安心感さえあった。
 思うに、記憶を失うという事はアイデンティティの喪失と同一の意味を持つ。小難しい話をするならばアイデンティティは自己の同一性だ。自らは他人とは異なっていて、自分は自分であると信じる事だ。
 そしてその立脚点となるのは経験。生きていく中で自分は他者とは異なるのだと気づいていく。価値観の違い、学習能力の異なり、運動能力の差、得手不得手の相違、果ては家庭環境の違い。様々な能力の違いが私は私でしか無いと知らしめてくれる。だが記憶を失ってしまえばその根本にして最大の立脚点を喪失してしまうのだと私は――記憶喪失にも関わらず――考えている。
それはつまり私――柏木ミサトがアイデンティティを失っていない事を意味している。
私は私であり私でしか無い。確信とも言える感覚を私はまだ明確に持っている。この状況でも安心感を抱ける事が私の神経の図太さを表しているのか、それとも記憶を失う前の自分がとんでもない状況に置かれていたのかは私が知るところでは無いが。
ただ一つ、記憶が無いことに思い至った時に胸を刺すような寂寥感が過りはしていた。

誰もいない部屋でそんな何の役にも立たない自己同一性の考察なぞをしながらも、いつまでもベッドに居ても仕方ないと、私はベッドに手を突いて降りようとした。

「ふぎゃっ!?」

そしてベッドから落ちた。頭から。

「いつつ……」

 強かに打ち付けて赤くなっているだろう鼻を擦り、思わず溢れた目尻の涙を拭って今度こそ立ち上がろうとした。が、そこで私は気づいた。

「あれ?」

 脚に全く力が入らない。いや、そうじゃなかった。
感覚が、ない。日に当たった事もなさそうな真っ白な肌を手で触れれば多少は感覚はあるけれど、脚の力の入れ方も分からないしどれだけ意識しても脚はピクリとも動いてくれない。しばし時間を置いてみる。だが改善されそうな兆しは微塵も無し。皆無。これはつまりは、そういうことなのだろう。

「……ま、悩んでも仕方ないか」

 下半身不随が生まれつきなのか、それとも記憶を失った出来事に起因しているのかは今の私に知る術は無いけれど、動かせないものは仕方ない。動かせるようになる時はなるし、だとしても今は何も手段候補が浮かばないのだから、クヨクヨしてても時間と頭のリソースの無駄だ。
さてしかし、立ち上がることの出来ない現状において私はどうするべきか。現状把握の意味でも歩き回ってここの場所とかを知りたかったのだけれど。
頬を掻きながらどうしたものかと思案していたその時、ギィ、と軋ませてドアが開いた。そして奥には小柄な人影。
彼女は少女だった。小さい体いっぱいに、荷物が溢れそうな紙袋をいくつも抱えてた。きっと前もまともに見えてないに違い。しかもフラフラしてる。当人も荷物も。もしかしてこの状態で外から歩いて来たんだろうか?だとしたらそれはきっと奇跡で、けれども奇跡なんて安っぽい代物は得てして長続きせずに肝心な時に人を裏切るわけで。

「おっとっと、あ、ちょっ! これヤバいっ、おち、おち、おちる――」

 果たして、奇跡なんぞに私の予想を覆す程の気概もあるはずもなく、少女の抱えた荷物の山は少しずつバランスを傾けていって。少女もまたそのバランスを保つために自分自身のバランスを崩壊の一途へと辿らせてしまうわけで。

「にゃ、ゴメ、ムリぽ――」

 呆気無く諦めた少女は荷物を自分の体ごと床にぶちまけた。ガッチャーンとテーブルの上の物を巻き込みながら盛大に音を立てて紙袋に入ってた食材が床に散らばった。その内のリンゴの様な、それでいて何か違う気がする果物がコロコロと私の脚元へ転がってきてそれを拾い上げた。

「いっつー……にゃー、やっちゃったー……」
「はい、これ」
「にゅ? ゴメン、ありが……」

 少女の元へ這って行き、拾い上げた果物を差し出してやると少女はしかめた顔のまま受け取って、私の顔を見上げてそのまま固まった。一体どうしたと言うのだろうか。

「あーっっ!!」

 全く人の顔を見て指さして叫ぶとは一体どういう了見だろうか。自分の顔さえ忘れてしまっているから分からないが、もしかして私はそんなに面白い顔してるのだろうか。だとしたら最悪だ。私は生物学上は女であるらしいからできれば美人さんで居たかったのだが。いや、それは男女関係は無いか。
叫び声を上げたかと思ったら今度は私の腕を掴んでブンブンと思いっきり上下に振り回す。かと思えば私に抱きついてきてギュッと抱き締めてきた。

「良かったー! やっと眼を覚ましてくれたんだ! このまま眼を覚まさないかと心配になったけど……良かった……」

 突然抱きつかれて耳元で叫ばれたせいで耳がキーン、となる。つい引き剥がそうかと思ったけれど、後半になるに従って段々と涙声になっていったからそれも出来ない。どうやらずいぶんと心配してくれたらしい。そのことに思い至った瞬間、私もどうしてだか涙が零れそうになった。
どうしてだろうか。心配してくれるなんて、それはもちろん有難い事では有るのだけれど、涙が溢れる程の事なのだろうか。私の戸惑いを他所にどんどんと胸が締め付けられたように痛くなって、私の腕は自然と彼女の背中に回って抱きしめ返していた。記憶の無い私だけど、きっとそれが正解だと思ったから。
彼女の泣き声が耳に届き、吐息が鎖骨をくすぐる。彼女の体温が私を祝福してくれている。なぜだかそんな詩めいたフレーズが浮かび、そして無性にそのことを信じたかった。
彼女の温もりが私に「ここに居ていいんだ」と言ってくれてるように思えた。私が居ることを認めてくれているように思えた。それが私は嬉しいんだと、思えて、その思考もまた嬉しかった。だから、私はしばらく彼女にさせるがままにさせておこうと決めた。
泣き止まない彼女をあやす様に背中をポンポンと叩き、頭を撫でてあげる。茶色い髪は触り心地が良くてしばらくの間撫で続けてたけれど、不意にその時何か頭から突き出したものが手に触れた。それと同時に泣いていた耳元の少女の口から「ふにゃっ!?」なんて声を聞いた。
――なに、コレ?
 彼女の頭でよく見えないけど、髪の毛とは違った毛に覆われた突起物。程々に柔らかくて体温くらいに暖かい。何だろう、ずっと触ってたくなるなこの感触。
ふにふにふにふに。ふにふにふにふにとね。
触る度に泣いてたはずの彼女が「あひんっ!?」とか「ふにっ!?」とか声を上げて悶えて、段々と肩に掛かる息が荒くなって身を捩り出す。
けれどそんなの関係ない。私は私の欲望に忠実に生きるのだ!

「ふっ、ふにゃあああっっ!!」

と思ったけど、さすがに限界が来たらしい。彼女は叫びながら飛び退いて荒い息を吐きながら涙目でコッチを睨んでくる。けれど潤んだ眼で見つめられてもそれは何か私の心をくすぐってくるだけで、嗜虐心をそそられると言うか何と言いますか。 けれども、離れた彼女の頭が眼に入って、そして今更ながらに彼女と私の間に隔たる異変に、浮かれた気持ちは冷めていった。

「み、耳は触っちゃダメだにょ……」

 ピクピクと触り心地の良かった猫耳を動かし、何やら抗議の声らしきものをあげている彼女。けれども私にとってはあまりの衝撃に言葉を失ってしまった。
彼女の話す言語が、全く理解できなかったのだから。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 自分の意志で動かすことの出来る猫耳なんて代物も衝撃だったけれど、言葉が通じないのは私にとってもっと衝撃だ。いや、記憶の無い身ながら、もちろん猫耳が現実に存在しているのは十分過ぎるほどの衝撃ではあるのだけれど。
記憶は無けれど知識はある。私がどんな生き方をしていたのかは相変わらず分からないことは最早クドいくらいに述べているが、知識は膨大にして多岐に渡っていた。政治経済に社会学果ては工学にまで及んでいるが、言語についても様々なものが頭の中を渦巻いていた。主として話す日本語(この事から私自身は日本人だと考えられる)に世界の公用語とも言えた英語にドイツ語、スペイン語、完全では無いがスワヒリ語やラテン語まで覚えている様だ。
そんな感じで多くの言葉が知識として眠っていて、先程から必死にそれらを引っ張りだして照合しているわけだけれど、彼女の話す言葉はそのどれとも系統が違い発音が違う。類似の言語も無く、音だけは聞き取れるのだけれど当然ながら意味として認識されることは無い。つまりは私にとって全くの未知の言葉であるわけだ。
未知の言語に加えて猫耳。目の前の彼女はパッと見は可愛らしい人間にしか見えない。猫耳と小刻みに揺れる尻尾。だが私の知識の中の猫の様に瞳が縦長で有るわけでもヒゲが鼻の横から伸びているわけでもない。耳と尻尾の存在に眼をつぶれば完全に私の中の定義に沿った人間である。
さてさて、そうなるとこれはどういうことだろうか。
言語も違う。私の知らない種族。どこまでも私の中の知識と一致はせずチグハグな世界。何よりも私の中の何かが囁く。声高に主張するのだ。ここは私の知る世界ではないのだと。私を取り巻いていた世界とは違うのだと。
エベレットの多世界解釈などに興味は無かったけれど、主観をどれだけ排除したとしてもこれはまあ認めざるを得ないだろう。
ここは異世界なのだろう。少なくとも私自身の認識としてそう思っておくべきだ。でなければ何かの際にトンデモナイ過ちを犯してしまいかねない。
それはともかくとして、私はどうやってこれから生きていくか。言葉も分からない。自分で動くこともできない。何と素晴らしき八方塞がり。ならば手段はもう一つしか無い。
そうして猫人の彼女に飼われる日々が始まった。



私を拾った彼女の名前はミーナと言うらしい。苗字は知らない。彼女は自分の事をミーナとしか告げなかったし、私も彼女の苗字を知る術を知らない。だがそれで十分だと思う。私は彼女しか知らないし、ミーナという名はイコール私の知る彼女なのだから。
どういう経緯で彼女が私を拾ったのかは知らないが、彼女はとても甲斐甲斐しく私の介護をしてくれた。私が歩けないと知った彼女は最初ひどくショックを受けたらしく、真ん丸とクリクリした眼から涙が溢れだし、ヘニョと猫耳がヘタレて愛らしい顔を少しだけ歪めたが、何も言わずに黙って私をベッドに戻し、そして抱きしめてくれた。
何を思って接しているかは知る由もないが、それからというもの、彼女は暇さえあれば毎日私に話し掛け、抱きしめたり撫で回したり頬を擦りつけてきたりと忙しい。どうにもその態度はペットに接するものの様に思えるが、幸せそうに顔を寄せてくるミーナを見ているとそれを嫌がるのもどうにも憚られた。まあ、可愛いから私的にも問題は無い。むさい男に飼われると思えば天地の差である。
そうこうしてミーナのお世話になり始めて十日程が経った。
その間私は変わらずベッドの上で日がな一日を過ごす毎日。気分は老後のお婆さんだ。家の中には本の類があるわけでもなく、ベッドから窓の外が覗けるわけでもない。退屈だが動けない以上仕方ないことで、ミーナにこれ以上迷惑を掛けるわけにもいかない。今はおとなしくジッとしておくしか無いだろう。
だが私もただ日々を過ごしていた訳ではない。
たった十日だが、ミーナが毎日話しかけてくれるおかげか、彼女の話す言葉も凡その意味が分かるようになった。私の中に眠る知識の量からも予想がついていたが、この頭脳は中々に優秀な様だ。
そして言葉が理解できるようになって分かった事。

「ハイ、コレ。ヨリモカ草のスープ。それとハジギリ草とバジエラの炒めもの。どれも少し苦いけどすっごい体に良いんだよ? まだ胃腸が弱ってるみたいだから早く元気になってね」

 どうやらミーナは薬草に詳しいらしい。日々出てくる料理は採取した薬草を調理してるらしく、肉はあまり出てこない。

「本当はもっと栄養価が高い物を食べさせてあげたいんだけど……ゴメンネ」

 それというのも家計はあまり芳しくはないらしいからだ。それは家の様子からも何となく分かっていたが、たまに愚痴混じりに話してくる内容をまとめると、採取した薬草やハーブを村で販売しているようなので(ここが町ではなく村というのを知ったのも数日前だ)、しかし売上はイマイチの様だ。毎日陽が昇る頃から採取に出かけて夕方近くまで粘っているみたいだけれども、ほとんどが売れ残っている。その売れ残りが日々の食卓と言うわけだ。元々一人でもいっぱいいっぱいだったのが私みたいな穀潰しが加わったのだから尚更だろう。非常に申し訳ない。だが謝るミーナに私は頭を横に振るしかできない。
彼女は薬草以外にも販売していて、弓が得意であるらしい彼女は近くの森で仕留めた野生動物を販売している。日々の報告では猟果は上々のようだが食卓に登る事は無い。売れてはいるみたいだが、それはどうなってるんだろう。私の居た世界では狩猟や採集はレアだったが、こちらの世界ではどうなんだろうか。動物の肉などは十分な利益を上げられそうなのだが。疑問が浮かぶが、うまく話せる様になったら聞いてみようか。
そんな事を考えていたある日、その答えはドアの向こう側からやってきた。

「ふん、相変わらずみすぼらしい家だな」

 不遜にもそんな事を吐き捨てながら入ってきたのは男、と言っていいものか悩ましい人物だった。ノックも無しに勝手にドアを開け入り、グルリとあまり広くない部屋を見回した。
私は言葉を失った。それは別に勝手に家に入り込まれたからじゃない。いや、それもまた十分に驚きに値することでは私の常識の仲だとあるのだけれど、それ以上に驚愕の事実が目の前にあった。
鍛えているのかそれとも生まれつきなのか、二メートルに達そうかという長身と見るからに強固な肉体。その全身は灰掛かった深い体毛に覆われている。そして口は言葉を発する度に鋭い牙が除き、指には何物も切り裂いてしまいそうな爪。頭の上には注意深く音を拾う三角の耳。
狼だ。狼が二足歩行して言葉を話してる。そして他の付き従っている二人もまた、これは犬だろうか?同じく毛並みの良い体毛と鋭い牙をひけらかして狼の言葉に笑っていた。
私は目覚めてミーナとしか接していない。だからミーナの様にほぼ人間と同じ容姿を持つ、けれども動物の特徴を持つ人間がこの世界では普通なのだと勝手に思っていた。けれども、もしかしてこの世界ではこちらの様に動物の姿の生物が普通なのだろうか?
一瞬まさか、と思って自分の腕や脚を見遣る。頭に手を遣る。だが私は体毛に覆われている事もなく、耳は顔の横に付いている。頭には真赤な私の自慢の髪の毛があるだけだ。良かった。
しかしそうなると、私の知る人類はどうなのだろう。存在しているのだろうか?

「そうだな……あのチェストでも持っていくか。おい」
「はい」

 男はそう言うと控えていた犬の獣人に顎で指示すると、犬の獣人はベッド脇に置かれたチェストに向かっていった。
そのチェストは、確かミーナの手作りだと言っていた。手先が器用だからか、ミーナは何でも自分で作る。家にある家具のほとんどは手作りだと少し前に自慢げに無い胸を張って教えてくれた。その中でもチェストはとても素人が作ったとは思えないくらい立派な出来だ。ミーナの性格が現れているように丁寧に作られたそれは、普段から磨きこまれて艶を放ってる。

「待って、ゴート! お願い待って!!」

 チェストに犬が近づく中、私は事情が見えずどうしたものかと戸惑っていたところで、ドアがもう一度勢い良く開いた。
ミーナだ。どうやらミーナの知り合いらしい。声を聞いて少しホッと胸を撫で下ろした。けれど、その気持ちも彼女の顔を見た途端に吹き飛んだ。
ミーナの恰好はひどいものだった。頭から水を被ったみたいにずぶ濡れで、茶掛かった髪から水が滴り落ちて、着ている服は泥だらけ。口元は切れて垂れてる紅い血が出来た痣を隠してた。

「おい、何ぼさっとしてやがる。さっさと持ってけ」
「お願い! お願いします! 他の物は持って行って構いませんからっ! だからアレだけはっ!」

 ああ、ダメだよミーナ。そんな事を言えば結末はきっと――
狼――ゴートはミーナの言葉を聞くとニヤ、と楽しそうに口元を歪めて腕にすがりつくミーナを冷たく見下した。

「そうかそうか、そんなに大事な物か」
「そうなんです! だからあのチェストだけは……」
「なら丁度いいじゃねえか。納入金の不足分にピッタシだな」

 ミーナの顔が絶望に染まったのが私にも分かった。見開かれた眼からは零れ落ちそうな涙が揺れてる。それを見る狼の愉快そうな顔。

「全くヨォ、テメェがキチンと必要なモノを収めさえしてくれりゃ俺だってこんな事しなくていいってのに」
「税はこの前収めたじゃないですか!? この家の家賃だって、薬草を売る場所の場所代だって……」
「ああ? 言ってなかったか? 今回から料金アップしたんだよ。だからこの前貰った分じゃ到底足りねえな」
「そんなっ!? ゴートが村長になった時の取り決めには……」
「ゴタゴタうっせえなぁ。額は俺が決める。んで村長の俺が払えっつってんだから払うのが当たり前。けど払えねえんだろ? ん? だからやぁさしい俺は代わりに物で払えばいいって言ってるじゃんかよ。
 大体だな、テメェみたいな人間の血を引いた半端モンがこの村に住めるのは誰のおかげだと思ってんだ? 雨露しのげる屋根の下で生活できるのは誰のおかげだ? 言ってみろよ?」
「ご……ゴートのおかげです……」
「だろぉ? 子汚ねぇ人間の血を引いたクズがまだ五体満足で生きてられてそれだけでラッキーってモンだろォ? これは好意なんだぜ? 獣人の間でも人間の間でも生きてく価値のねェ混じりモンを生かしてやってるんだ。だからそれ相応に金も必要になる。分かるだろ?」

 そういう事か。合点がいった。彼女がゴートとかいうコイツらと違って人間の容姿に近いのも、ミーナが必死で働いても食べる物にさえ苦しいのも、全て彼女が「純血でない」から。それだけだ。
本当に、たったそれだけ。それで彼女の価値が決められ、虐げられ、搾取される。
彼女のせいでは無い。彼女は何も悪くない。なのに、人間の血が入っていれば価値を損なうのか。彼女の、ミーナとしての価値が損なわれるのか。何か彼女がコイツらに害を為したのか。眼に見えないそんなくだらない物で勝手に彼女を、値踏みしてやがるのか、コイツらは。たかが「純血ごとき」が。

「で、でも! お願いです! そのチェストは私にとって大切な物なんです。だから持って行かないで……」
「やなこった」

 一言、たった一言でゴートはミーナの想いを切り捨てた。立ち上がり、ゴート自身も私の方に、つまりはチェストの方へやってくる。犬の二人がチェストに手を掛け、抱えあげ始める。
ミーナはゴートの脚にしがみついて必死に止めようとしてる。けれど、小柄なミーナの抵抗なんて屈強なゴートにとっては羽虫のようなものだ。

「いつまでも汚ねェ手で俺に触ってんじゃねえよ!」
「ミーナ!」

 ゴートが脚を一振りする。それだけでミーナの腕はゴートから離れて、壁に叩きつけられた。あばら屋全体がギシギシと悲鳴をあげていた。
それでもミーナは這ってゴートの方へ近づく。
手作りかもしれないけど、そんなに大事なものなの?また作ればいいじゃない。ミーナの姿を見ていられなくて、眼を逸らしながらもうやめてと心の中で私は叫んだ。
犬が置かれてる物が落ちるのも気にせずチェストを抱え上げた。ベッドの方へ花瓶やら何やらが落ちてきて、私の居るベッドのシーツを濡らした。
そんな中、床に落ちた一つが私の眼に入った。
それは写真だ。写真立てに入ったその中で、二人が笑っていた。一人はたぶんミーナ。今よりずっと幼いけれど、容姿はほとんど変わってないからすぐ分かった。
そしてもう一人、人間の老婆がミーナを抱き抱えて微笑んでいた。二人の奥には、作りかけのチェストがあった。
そうか、そういう事なのね……だからそこまで必死になっているの。
 私はそれを拾おうとベッドから身を乗り出して手を伸ばす。けれど、それより先に犬の一人が脚元に転がる写真立てに気づいた。
そして、踏み砕いた。
ミーナが息を飲んだ声が聞こえた。悲鳴が、私に響いた。

「おっと、悪いな。踏んづけちまった」

 この犬っころはそう言って品の無い笑いを口元に浮かべて写真を踏み躙る。ミーナの思い出を踏み躙る。ガシャガシャとガラスの割れた音が耳障り。
体中が熱くなる。頭が、眼が、心臓が熱を持ち乾いていく。乾きを補うかのように心臓が早鐘を打って、犬っころを睨みつけた。

「……んだ? その眼は? お前、今自分がどういう状況に置かれてるか分かってんのか?」
「さっさと消えてくれないかな? クソッタレが」

 口からは日本語。残念ながらまだコイツらを罵れる程こちらの言葉を覚えてない。
それよりも早くいなくなってくれないだろうか。目障りだ。不愉快。これ以上コイツらの顔を見ていたくない。早く消えてくれないと、××してしまいそう。ああ、眼が、熱い――

「っ!!」

 頬に衝撃。続いて背中に衝撃。息が詰まる。見えるのは天井と怯えた表情の犬っころ。そしてミーナの泣き顔。どうやら私は殴られて床に落ちた後、ミーナが庇う様に覆いかぶさってくれたのだとそこでやっと気づいた。

「おい、手を離すんじゃねえよ。大切なコイツに傷がついたらこの猫がもっと泣いちゃうじゃねえか」
「あ、ああ、悪い……」
「そこの人間。お前もミーナと同じで生かされてるんだからな。むしろ人間な以上、いつ誰に殺されてもおかしくねえんだからな? そこンとこ弁えて地面を這いつくばってろよ?」

 ゴートはそう私に向かって吐き捨て、犬っころ二人にチェストを抱えさせてやっと私の視界から消えてくれた。
そしてミーナと私の二人だけが取り残された。怒りの熱は容易く部屋の中に溶け込んでいって、頭の中はひどく冷えきっている。
なんて、声を掛ければいいのだろう。ミーナは私に覆い被さったまま動かない。まさか、さっき壁に叩きつけられた時にケガでもしたのか。頭を打ちつけて意識を失ったのかもしれない。打った直後は大丈夫でも、緊張が途切れた途端に意識を失うっていうのも無い話じゃない。
ミーナ、と名前を呼ぼうと思った。けれど、声を出すのは躊躇われた。
彼女は泣いていた。私の体に顔を押し付けて、声を噛み殺して泣いてた。耳を澄ませてかろうじて聞き取れるくらいの嗚咽が聞こえた。

「ゴメン、ホントにゴメンね、ミサト……」

 どうして彼女が謝る必要がある?ミーナは被害者だ。価値を押し付けられて搾取された弱者だ。

「私のせいで……ミサトまで巻き込んで、ゴメン」

――弱者は悪だ。
頭のなかで誰かが囁く。そう、確かに弱者は悪だ。けれど、それは私も同じだ。むしろ私の方が弱者だ。ベッドで寝ているしか出来ない出来損ないだ。ミーナが私に謝る必要は無い。ミーナは私を守ってくれた。彼女は、私にとって強者だ。
ミーナの髪に手を伸ばす。ピク、と彼女の体が強張る。私は頭を撫でる。できるだけ、私なりに優しく。

「ミーナ」

 彼女の名前を呼ぶ。すると、ミーナは恐る恐る、といった感じに顔を上げてコッチを見てくれた。

「ミーナ、謝る必要無いだよ?」

 初めて私が喋ったからか、ミーナは「にゃ!?」とキョトンとしてる。こんな状況だけど、その顔が可愛くて私も何だか和んでくる。

「ミーナは悪い、ない。ミーナは守ってくれただよ私を。だから、泣くダメ……違う、泣く必要無いだよ」

 ヘッタクソな言葉だ。けれど、それが面白かったらしくミーナがプッと吹き出して泣き顔が笑顔に変わった。

「笑う顔が良い。ミーナは笑う、私は好き」
「言葉話せたんだね、ミサト」
「覚えた。けど、まだ上手い話せない思うだよ。やっぱりおかしい?」
「上手だよ……って言いたいけど、笑っちゃったから誤魔化せないよね? 正直、少し変かな?」
「少しなら良かったです。練習するですだ」
「うん……そうだね、その方が良いと思う」
「変?」
「変」

 中途半端な状態で喋りたくは無かったけど、でも、まあ、ミーナが笑ってくれたからいいよね。良いって事にしておこう。
その日の晩御飯はいつもより質素で、チェストが消えた部屋はどこかもの寂しい。お互いの顔は痣でひどいことになってた。けれど、いつもより気持ちは軽かった気がする。
しわくちゃになった写真は食台の上に今は飾られている。





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