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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved




――6. 


 柏木ミサトは世界の英雄だった。
生まれた時から優れた人物だったかと言われれば迷わずミサトは首を横に振る。実際ミサトは凡庸な人間であったし、生まれつき下半身が不自由だった。自分の力でできる事は限られ、誰かの手を借りなければ生活は難しく、ミサトも、そして周囲の人間もそれなりに苦労する毎日だった。
事実、両親共にミサトのことを持て余していた。だがそれは不自由な体だけが原因では無い。
ミサトの髪は血の様に真っ赤だった。
不自然な、日本人では有り得ない髪色。当然両親も日本人であり、共に黒髪で、ミサトの髪だけが云わば突然変異だった。
彼らは我が子を信じられなかった。自らの腹を痛めて産んだ我が子。しかしミサトを自分の子であると理解することを感情が拒み、また周囲も口さがない噂を立てる。
ある男は言った。母親が浮気相手との間に産んだ子だと。
ある女は言った。子を取り違えたのではないか、と。
ある少年は言った。お前は本当の親に捨てられて今の親に拾われたんだと。
親を愛している少女と子を愛せない親。小さな亀裂は心ない言葉たちによって大きさを増し、ついに交差する事は無くなっていった。
自然と性格は塞ぎ込みがちになり、誰の前でもミサトは笑わなくなった。
例外は四人の幼馴染の前だけ。彼らの前でだけミサトはミサトで在り続けられた。ただのミサトで居られ、四人の幼馴染もまた同じくただの少年少女で居ることができた。
繰り返す。彼女は凡百な人間だ。幼馴染たちも普通の域を出ない少年少女だ。そうだった。
だが、世界は突如として変わった。
ミサトも突如として変わった。変わってしまった。
何の変哲も無いあの日。強いて言えば特に暑かった夏の日。四人の幼馴染とともにこれまで空想上のものと考えられてきた魔法を発見してしまった。意識せずにそれらを体得し、それと同時にミサトたちは大きく作り替えられてしまったのだった。
頭脳は世界中のどんな天才も脚元に及ばないほどに明晰に、身体能力はどんな格闘家もどんなオリンピック選手も歯牙にもかけないほどに優れた。
これまでの不可能が可能に。閉じた世界は限りなく開かれていった。
以来、原初の魔術師オリジンとして様々な魔法理論の確立や方法論の開発にわずか数年で多大な貢献をしてきた。
世界はこれまでの機械文明から魔法との融合を果たした魔素機械文明へと変化し、化石燃料に頼り切りで破滅へのカウントダウンが始まっていた終末から新たな一歩を踏み出していた。
そして彼女たちは英雄となった。
人々は、世界は彼女らを称賛した。惜しみない尊敬の言葉と羨望の眼差しを与え、感謝と歓びを伝えた。その様は確かに世界の英雄だった。
だが同時に、彼女らは既存の人々とは違った存在でもあった。魔法に対する理解は元より、身体能力、思考速度などがこれまでの人類とは比べ物にならない程に発達した、最早人間という枠組みで考えることさえ憚られる存在に変化してしまっていた。
彼は概念としての電流を自在に扱い、電力に頼った世界を支配できる力がある事を示してしまった。
彼女は概念としての熱量を自在に扱い、世界を火の海に包み込める事を示してしまった。
彼女は概念としての情報を自在に扱い、人々を自在に動かせる事を示してしまった。
彼は概念自体を自在に扱い、世界を書き換える事を示してしまった。
そして彼女は概念としての空間を自在に扱い、どんな物量も自在に操作できることを示してしまった。
新たに世界に産まれた多くの魔術師たちは所詮彼女らオリジンの理論や技術を学んだだけの、云わば劣化版魔法使いオリジンでしかない。魔法使いとしての能力全てが彼女らの脚元に及ばず、これまでの科学技術で作成した全ての兵器が彼女らの前では陳腐な物と化す。彼女らが結束すればそれだけで世界と対抗する力を持ちうる。
彼女ら一人一人が単独で世界と戦い合える力を持っていることを、世界が恐怖してしまった。
まるで、お伽話の魔王を倒した勇者が新たな魔王となるのを恐れるように、世界は彼女らを恐れた。
その瞬間、彼女らは孤独世界の敵になった。
けれども、人々は知らない。わずか齢一桁の彼女らは、魔法使いとなったその瞬間に世界の嫌われ者となっていたことを。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「世界の、敵だァ?」
「あぁ。とは言え、『元』だけどな。
 まったく、せっかくあの世でゆっくり過ごせると思ったってのに、あのヒカリバカのせいで未だにこんなクソ溜めに留まる事になっちまったな」

 ミサトはガシガシと自分の頭を掻こうとして、気怠そうにため息を吐いた。
そして自分の両手首を見る。鎖は引き千切ったため両腕は自由にはなったが、手首についた枷は何かにつけて邪魔だ。今も自分の頭を掻くのにジャラジャラと耳障りな音を耳元でさせなければならないところだった。だから手枷をミサトはただ、見た。
それだけでミサトの手枷は砕けた。掌から肘に向かうラインで真っ二つに割れ、と石畳に向かって落下した。
カラン、と乾いた音が響いた。
ダッカスは何一つ理解できなかった。ミサトが何をして鎖を引き千切ったのか、何をして枷を割ったのか、そして歩けないはずのミサトが何故今こうして立って自分と対峙しているのか。
分かるのは一つだけ。この女は「危険」だという事。
それは単なる勘だ。根拠もなく、しかしこんな傭兵や殺し屋と言った命がいくつあっても足りない危険な仕事の中でこれまでダッカスを生かしてきた大切な直感だ。
ミサトと微妙に距離を取りながらダッカスは、頭の中まですっかりイカれて危険を察知する直感が働かなくなっている爺に向かって、警戒を表すサインを後ろ手に送りながらミサトに話しかける。

「そぉの口調が嬢ぉちゃんの本来の口調かぁい?」
「さぁてね。どうだったか。長ぇことこの喋り方なんでな、元々がどうだったかなんて忘れちまった。興味もねぇしな」
「記憶を取ぉり戻したんじゃねぇのかぁ?」
「思い出す気がねぇだけさ。たいした記憶でも無いんでな。それよりも、どうだ? キチッとこっちの言葉で喋れてるか?」

 ダッカスの影に隠れてイズールが小声で詠唱を始める。両手で作った球の中で小さな光球が生まれ始めた。
その声をミサトに聞き取られないよう、ダッカスはミサトに向かって不自然にならない程度に声を大きくして返事を返す。

「アァ。妙な訛りも無くなって、まぁるで元からコッチの人間みてぇだぜ」
「そいつぁ重畳だな。コッチに来てからの記憶を元に発声の仕方を修正してみたんだが、うまくいったみてぇだな」
「片言っぽい喋ぇり方の嬢ぉちゃんも味があって俺ぁ好きだったがぁ、今のぉ勝気っぽぉい喋ぇり方も好きだぜぇ? まあ――」

 詠唱が止み、ダッカスの背後で突如として巨大な火の玉が浮かび上がった。
――もう一回聞けるかは分かんねぇけどなぁ
 小さく呟いた直後、上半身ほどもある火球がダッカスの髪の裾を焼きながらミサトに向かって飛ぶ。
ミサトとダッカスの間の距離はおよそ十メートル弱。その距離を瞬きほどの時間で詰めていく。
そして爆ぜた。
一瞬、暗い牢屋に太陽が出現したかのように眩い光が二人の眼を焼いた。吹き荒ぶ熱風。耳を劈く轟音が狭い牢屋に反響して木霊する。
城全体を揺るがす振動がして、だがダッカスは身動ぎ一つせず立っていて、今は白煙に包まれているミサトが立っていた場所を見つめていた。

「また威力が上がったかぁ?」
「たらふく食ったからの。それより良いのか? いくらワシが熱魔法が得意では無いといっても、今の威力だと嬢ちゃんも生きておらんのではないかの?」
「構わしねぇよ。今の嬢ぉちゃんはこんくれぇでくたばる様な人間じゃぁねぇよ。まぁ、口が聞けねぇ程度には死に損なってるかもしれねぇけどな」

 ダッカスの言葉にイズールは肩を竦めた。
今はこうして傭兵稼業に身をやつしているが、イズールはこれでも元は王国一と歌われた魔術師団長だ。得意は記憶操作や幻影などの精神魔法だが、一芸だけでトップを張れるほど魔術師団はボンクラ揃いでは無い。原初魔法とも呼ばれる五大魔法は魔術師団の平均以上は使えるし、王国を追われてからも絶えず人を食らい続けてきた。齢三桁に達した今、喰らった人間と亜人の数はパンの数を越え、魔法の威力はまだ若かった当時を遥かに凌駕している。いかに召喚されたミサトといえど無事では済まないはずだ。
イズールはスキットルの蓋を外し、ダッカスに向かって不機嫌に鼻を鳴らすと真赤な血を煽った。
だが――

「やれやれ、話してる途中でいきなりとは、随分と礼儀を知らねぇみてぇだな」

 声に続いて煙が晴れていく。
呆れた口調。そこには苦痛の色は無く、爆発の直前と何ら変わらない。
やがて煙が完全に晴れた。
牢屋の壁は完全に崩れ、壁の奥にあった城の基礎部分には火球と同じサイズの穴が開いていて暗闇が顔を覗かせており、火球の威力を物語っている。
しかし、ミサトは左手を腰に当ててただ立っていた。殴られた傷跡以外はそこには無く、ボロボロになっていた服も火球で焼けた痕さえ無い。盛大に舞い上がったはずの埃さえも被っておらず、ダッカスと話していたその時の姿のままだ。

「おっと、わりぃ、コウリを守るの忘れちまった。大丈夫か?」

 ミサトから見て左側、少し離れた位置で鎖に繋がれているコウリに声を掛ける。爆風で舞い上げられた埃を被って白い毛並みがうっすらと汚れていたが、コウリは力なく首を少しだけもたげ、低く喉を鳴らして応えた。

「……おぉい、キチッと狙えよぉ」

異常。何たる異常。
口ではイズールを責めながらも、ダッカスはイズールの狙いがミサトを外していなかったのを確信していた。
確かにイズールの魔法はミサトに当たっていた。火球の火線上にミサトは居て、不意を打った攻撃にミサトは反応できていなかった。勿論威力も申し分ない。普通なら跡形も残らない様な威力で、勘ではミサトは死なないだろうと感じていたにも関わらずダッカスは驚嘆を禁じえなかった。知らず、胸中で同じ言葉を繰り返す。
何故だ。何故、無事で居る?

「Γοδσυ……」

イズールはダッカスの言葉に応えず、もう一度詠唱を口にする。
熱風に晒されて熱気を帯びた空気が詠唱とともに冷えていく。呪文とともに吐き出される吐息が白くなっていき、空気中に小さな雨粒が生まれ始めた。

「火の次は氷、か。詠唱時間も短いし、さすがは元魔術師団長ってトコだな」

 雨粒は氷粒に。氷粒は氷塊に。イズールの周囲の魔素密度が急速に高まり、塊はそのサイズを増していく。数えるのも愚かしいほどに夥しいほどのそれがミサトとダッカスの間の空間を埋め尽くしていく。
氷塊は杭の様に先端が尖るように形状を変えていく。その鋭い切っ先をミサトに向けて威嚇する。
それを見てミサトは笑う。楽しそうに口元を歪め、不敵にイズールの魔法を嗤った。
自身の魔法を笑われてイズールは気色ばんだ。
――バカにしおって
 好々爺然として一見人の良さそうなイズールだが、その実、その余裕は自身が他者よりも圧倒的に優れているという自負と見下しによるものだ。自分は頂点に立つもので、他者は自分に支配されるもの。直接的に上に立つことは好まないが、精神的安定を図るため、イズールは周りを見下す。一芸では劣るところがあっても総合力で自分に魔法で敵うものは王国は勿論、大陸を探しても見つかりまいとイズールは思っていた。
眼にものを見せてくれる。フードの奥でイズールはシワだらけの眼でバカにしたように笑みを浮かべるミサトを睨み、そして一斉に氷の杭アイスバンカーを解き放った。
――まだだ
 ダッカスは高速で飛来していく氷杭を見つめながら、小さく呟いた。
 ダッカスは現実主義者プラグマティストだ。イズールと同じ元軍人だが、戦場で後方からの大規模火力で攻撃する魔術師と異なり、自身の身体能力を多少底上げする以外の魔法が使えないダッカスは常に最前線に身を置いていた。生来の身体能力の高さと相まって白兵戦に才を発揮し、人を殺すことに置いてはイズールと同様に確かに強者側の人間だ。
だが自身を最強だと思うほど自惚れてはいない。戦場には確かに自分より遥かな高みにいる人間がいて、特に狼や熊などの亜人は、亜人であるというだけで能力は自分と並び得る。実際に幾度と無く自分の死に目と顔を付き合わせ、口付けをされながら、だがその度に生き延びてきた。
自らと相手の実力差を適切に見極め、現実を見つめ、危機を乗り越える為にその場における適切な策を行使して、そして結果を得てきた。こと、生き延びる事に関してはそれなりの自負がある。
そんなダッカスから見てミサトは紛れもなく脅威だ。何もせずに枷を砕いた事も火球による攻撃で無傷なのもダッカスの警戒心を煽る。だが何よりミサトの実力を感じさせるのは、全身から漂う自然な態度。今も夥しい数の氷塊が迫っているというのに余裕の態度を崩していない。
先ほどの火球による攻撃も確かに当たったはずだった。が、現実にミサトは無傷で立っている。何故無事なのか、その方法までは分からないが召喚者であれば恐らく何らかの魔法を使ったのだろうと想像する。これまでダッカスが戦ってきた相手の中にも障壁を出して攻撃を防いだ奴も居たのだから。
――殺るならば、魔法が当たる直前だ
 魔法を連続で行使できない。これは少しでも魔術をかじった事がある人間ならば常識だ。必ず行使と行使の間にはインターバルが存在する。インターバルが短いことも優秀な魔術師の条件と言えるが、それでも数秒のラグは必定だ。
 すでにダッカスはミサトを生かそうなどと考えていない。これは最早生きるか死ぬかの戦いだ。捕えようとすれば、殺られるのはこちらだ。コイツは、そういう相手だ。
 ミサトに向かって氷杭が迫る。それは氷と言う名の殺意の塊だ。視界に入る一面から迫るそれをミサトは見つめ、小さく声を発した。

「無駄だよ」

 声と同時に砕けた。一本一本が棍棒ほどもあるそれらが一斉に空中で四散した。細かく砕けたそれは魔素の保護を失い、一瞬で四散。世界のあるべき姿とのギャップに耐えられず消失。またしても防がれたことに驚愕するイズールとダッカス、それとミサトの間に煙幕の様に真っ白な粒子の膜が形成された。
――今だ
 ここがチャンス。脚が不自由なはずのミサトがどうやって立っているのか知らないが、まだ満足に動けないはずだ。それは、鎖が切れた直後にキチンと受け身を取れなかった事が示している。
ダッカスの脚の筋肉が膨れ上がる。一瞬で込められ蓄えられたエネルギーが解き放たれる。
両手には無骨なナイフ。それを構えてダッカスは白い膜で見えないはずのミサトに向かって跳躍――できなかった。

「なっ……」
「甘ぇよ。甘ぇ。甘すぎるぜ、ダッカス」

 一瞬でミサトの前を覆っていた氷粒子の膜が散っていく。ミサトは変わらず無傷で、笑みを浮かべていた。だがその笑みは侮蔑に染まっている。
そしてダッカスは動けなかった。脚は地面に貼り付いたまま。腕も首も何かで拘束されているかの様に一ミリも動かすことができない。どれだけ力を込め、どれだけ強く動かそうとしても何もできない。

「何だってぇんだ、これは……」
「脳無しのテメェの考えなんてのはお見通しなんだよ」

 ミサトは自分の左腕に刺さったダッカスのナイフを抜き取った。抜いた傷口から一筋紅い血が流れ落ちたが、ミサトは気にする風も無く左腕を動かして感触を確かめる。
抜き取ったナイフを右手で弄んでいたが、ミサトは不意にそれを宙に放り投げた。
クルクルと回って宙を上がっていくナイフが壁に取り付けられている松明の灯りに反射した。
やがてナイフがピタリと空中で静止した。切っ先をダッカスに向けて。
ナイフには何も付いておらず、ミサトも触れていない。だが宙に浮いたまま、確かに静止していた。
そしてダッカスに向かって放たれた。

「がっ……!?」

 ナイフはダッカスの左腕に突き刺さる。その位置はミサトに刺さっていた箇所と寸分違わず同じで、そしてダッカスがミサトに刺した時と同じく血はほとんど流れない。一度刺さったナイフは誰も触れていないにも関わらずそのままゆっくりと差し込まれ、ダッカスに苦痛だけを与える。

「あがっ、が……」
「お返しだ。やられたらやり返す主義なんでな。そして――」

 突如としてナイフの刺さったダッカスの左腕が痙攣した様に小刻みに震え出した。肘を支点にして振動。いや、捻れ始めた。掌が何度もひっくり返る。その振れ幅は時間とともに大きくなっていく。
自らの意思に反して奇妙な動きを見せる腕にダッカスは戦慄した。捻れる度に頭の中を貫かれるような激痛が走り、声にならない悲鳴を上げる。
そして腕が千切れ飛んだ。

「ぎゃあああああああああああっ!!」
「ひ、ひいいいいいいいいぃぃぃっ!!」
「言ったことは必ず実行する事にしてんだ。言ったろ? テメェは必ず殺す、腕をねじ切って殺すってな。ああ、そういやあん時は日本語で喋ってたんだっけな? なら分かるはずもねぇか。ま、いいさ。どっちにしろ実行するんだからな」

 千切れた腕から血が吹き出し、腕が血を撒き散らしながらイズールの前に落ちた。傍に居たイズールが腰を抜かして尻餅を突く。
――何だコイツは。この悪魔は、何だ?

「どうしたんだよ、イズール。お前の大好きな人の肉だぞ? さあ食えよ、イズール」

 ゆっくりと一歩を踏み出したミサトを、イズールは怯えた眼で見上げた。
ボロを纏った小柄な少女。なのにイズールの魔法は何一つ通じていない。傷さえ付けられていない。何の力も持たない様な彼女に見下されるその事実。イズールのプライドはズタズタに斬り裂かれていた。そしてここに至って初めて、目の前の少女がバケモノだと認識した。

「な、何なのだお主は……」
「言ったろ? 俺は『魔王』だって。別にそんなもんやる気はねえんだけど、こちとら一度世界に対して喧嘩売った身だからな。なら魔王って名乗るのが妥当ってもんだろ?」

不可視の拘束から解放されたダッカスが叫びながら床に転がる。ミサトの髪の様に真赤な血が撒き散らされ、飛んだ飛沫がミサトの顔を少し汚した。

「人殺しが腕千切られたくらいでピーピー喚くんじゃねぇよ」

 呆れた様にそう言うと、ミサトの体が消えた。否、イズールからは消えた様に見えた。
直後にイズールの全身を覆う衝撃。腰を抜かした体勢のまま弾き飛ばされ、その後背中から何かに叩きつけられる。
一瞬だけ意識を喪失。空白の時間を経て意識を取り戻す。円形の牢屋の中心付近に居たはずの自分が壁を背にしていることを知り、そこでようやくイズールは転がっていたダッカスごとミサトに蹴り飛ばされた事に気づいた。

「ぐ、おおおぉ……」

 呻きながらもダッカスは腕を抑えて手早く止血して立ち上がる。それを見てミサトはへえ、と感嘆の響きを含んだ声を上げた。

「さすが。立ち直りが早いな」
「クソッタレがぁ!!」

 ダッカスは残った右手で上着の中から小さなナイフを取り出して叫びながらミサトに投げつける。だがナイフはミサトに当たる直前に急に向きを変えると、そのまま背後の石壁にぶつかって落ちた。

「あら?」

 しかしミサトは間の抜けた声を上げた。ナイフを投げたダッカスの姿はすでに牢屋の中には無く、かろうじて捉えたのは牢屋から逃げ出したダッカスの後ろ足だけだ。

「逃げられちまったか……ダメだな、どうにも感覚が鈍ってやがる」

 嘆息一つ。自身に呆れるがそれだけ。腰に手を当て、そのままダッカスを見送った。

「く、くくく……」

 そんなミサトの耳に届く声。壁に眼を遣れば、壁にもたれたまま顔を俯かせて低く笑うイズールの姿。

「ワシの、このワシの魔法が何一つ通じんじゃと……? バカな? あり得ぬ。そんな、そんな事はあり得ぬ。あり得ぬのじゃ……」
「世の中は広ぇんだぜ、爺さん。井の中の蛙、とはよく言ったもんだ。どんだけアンタがすげぇ魔法使いだったかは知んねぇけどよ、上には上がいるもんだ」
「黙れ小娘がっ!!」

 いきり立ったイズールはミサトに向かって怒鳴りつけ、フードから試験管の様な形の容器を取り出す。中に入っていた緑色の液体を一気に飲み干し、叩きつけるようにして地面に投げつけた。ガラス製のそれが刹那的な音を立てて割れる。途端、場の空気が変質した。
地下牢故に肌寒い程に冷えていた空気の温度が変わる。冷気が生温い感じへと変化し、空気自体が粘性を帯びた様な奇妙な感触。そしてその現象をミサトも知っている。

「詠唱無しで魔素がここまで励起状態になる、か……さっきの試験管の中身はドーピング薬ってトコで、どうやらとんでも無い大魔法が出てきそうだな」
「く、くくっ。もう遅い、もう遅いぞい。お主はワシを怒らせたからな。ここからはワシの得意魔法で行かせてもらおう」
「訳すと『自分は本気出してませんでした、今から本気だすけど後悔しても知らんぞ』てか? 彼我の実力差も把握できねぇ小者が言いそうなセリフだな。在り来り過ぎて客が興ざめしちまうぜ?」
「抜かしておれっ!」
 
イズールは先程までの怯えた表情から一転、不敵にミサトに対して嗤った。
そして世界が切り替わった。
ミサトの体はいつの間にか家の中に居た。そしてその場所をミサトは知っている。
見覚えのある間取り、ベッドとテーブル、それとチェストという質素な家具類。チェストの上には写真立てが一つ置かれていて、老婆と少女が微笑んでいる。
ここはミーナの家だ。数日前まで過ごした我が家。ならば彼女たちがいるはずで――

「はい、召し上がれ」

 声の方を振り向けば小柄な猫と人間のハーフの少女。出来立ての温かい料理の皿を持って、耳をピクピクと動かしながら、いつの間にか座っていたミサトの眼の前に置く。

「ハルトも。はい、召し上がれ」
「おぉ、美味そうだな」

 顔を上げれば、テーブルを挟んだ向かいにはいつ現れたのかハルトの姿。尻尾を左右に振りながら嬉しそうにミーナの料理を頬張っている。口いっぱいに頬張り、幸せそうに眼を蕩けさせている。見ているとそれだけで幸せな気分になれそうだ。
平和な光景。当たり前の様にあったいつもの景色がそこにはある。

「ねぇミサト、一つ聞いてもいい?」
「何?」
「私の事、好き?」

 あの夜、酔ったミーナからされた質問が繰り返される。その問いの答えは決まっている。決まりきっている。だからミサトは淀みなく返事した。

「ああ、好きだよ。大好きだ」
「ならオイラはどうだ?」

 その答えも決まりきっている。

「ハルトも私は好きだんよ?」

 奇妙に訛った言葉遣いでミサトは答える。それを聞いてミーナもハルトも二人して顔を見合わせ、楽しそうに――嗤った。

「そっかそっか。なら――」

――どうして私たちを殺したの?
 耳元で囁く様な声。ミサトの腹に小さな衝撃。下を向けばミーナの手にはナイフ。ナイフの刃はミサトの腹に深々と突き刺さっていた。

「あ、ああ……」

 ミサトの口から呻き声が零れた。ダラダラと零れ落ちていく血液。
続いて背中からも激痛。全身を稲妻の様に痛みを告げる信号が伝っていく。

「ミサトは、オイラたちを見捨てたんだ」

 振り向けばハルトがいた。だがその頭は何かに齧り取られた様に右半分が無い。崩れた脳がはみ出して、赤みかがった何かを垂れ流していた。

「ひっ……!」

 悲鳴を上げ、ミサトは飛び退いた。だがミサトは歩けない。膝から血液と共に力が抜けていく。痛みに耐え、壁に背を当てて怯えた表情で尚もナイフを振り被る二人を見上げた。

――やめろ、やめてくれ。見せないでくれ、私は最善を尽くしたんだ。私は悪くない。

 醜く表情を歪めた二人が迫る。その姿はミサトの心を深く深く抉っていく。全身に感じる痛みよりも、ミーナたちの憎しみに満ちた表情が何よりもミサトには辛かった。
ミサトはミーナとハルトに押し倒され、ミーナと頭の欠けたハルトがミサトを覗きこむ。
そしてナイフを突き立てる。ミサトに向かって突き立てる。何度も何度も執拗に、血走った眼で憎しみに染めた瞳でミサトを責め立てる。その度にミサトは口から血を吐き出し、自分の顔とミーナの体を汚していく。
 これは、罰だ。
悲鳴を上げながらミサトは思った。二人を守れなかった罰を受けているのだと。ならば二人に殺されるのも仕方ない事だ。報いは受けなければならない。恨みを晴らそうとナイフを突き立てる二人に声を出さずに謝罪した。
苦痛で意識が薄れる最中。ミサトは天井に向かって血塗れの手を伸ばした。
視界が滲む。しかしその先に現れる愛しい人の姿。

――ヒカリ

 霞む視線の先に佇むヒカリに向かって手を伸ばした。誰かに自分を救って欲しかった。苦しい現実から楽しく笑える場所へと腕を引っ張りあげて欲しかった。そして、それを成し遂げてくれるのはヒカリ以外には居ないとミサトは信じていた。
ヒカリなら分かってくれる。許してくれる。自分は頑張ったんだと、きっと認めてくれる。笑いながら頭を撫でてくれるだろう。私の味方で居てくれるはずだ。
期待を、願いを込めてミサトはヒカリに向かって微笑みかけた。
そしてヒカリはミサトに向かって――嗤い返した。

「死ね」



「あああああああああああああああああああああぁぁぁっ!!」

 ミサトは絶叫した。
叫び、叫び、叫ぶ。血の混じった濁った叫びがどこまでも届いていく。
膝から崩れ落ち、頭を掻き毟って大きく仰け反る。真赤な髪が空中に舞い、もがくミサトの腕に吹き飛ばされていく。牢屋の中が叫びで反響して幾度も木霊した。
 爽快。爽快じゃ。
その様をイズールは愉悦に顔を歪めて見下していた。

「ふぉっふぉっふぉっ! どうじゃ、己の悪夢と向き合う気持ちは!? 己の罪と向き合う気分は!?」
「ああああああああああああっっっ!! 嫌だっ! 嫌だよっ!! 助けてっ」
「何が見えるっ!? 何がお主を蝕むっ!? 苦しめっ! さあっ! さあっ! さあっ!」
「あああああああああああああああああああああっっっ!!」
「自らの作り出した幻に殺されてしまうがいいっ!! ふぉっふぉっふぉっ!」
「ああああああああああああああああああああああっっっ……なんて、な?」
「ふぉっ?」

 ミサトは膝を突いて叫んでいたが、不意に声を止めて何喰わぬ顔で立ち上がった。
膝の埃を手で払い、前髪を鬱陶しそうに払い上げる。喉の調子を確かめる様に「あーあー」と発生するとイズールに向かってニヤッと口角を上げた。

「人の脳に作用して精神的な過負荷を掛けると同時に強烈なブラシーボ効果で肉体的にも傷つける精神魔法か。別に精神魔法自体を否定するつもりはねぇけど、趣味が悪ぃな」
「お、お主には幻覚すらも効かんと言うのか?」
「いいや。今もハッキリと見えてるよ。ミーナやハルトの姿がな。それに……」

 ヒカリ、と名前を口をしようとしてミサトは口を閉じた。何となく、深い意味はないけれど、口にしない方がいい。そんな気がしてミサトは頭を振った。

「まったく、チャチな幻覚見せやがって。胸糞悪ィ」
「何という事じゃ……どんな人間であっても闇を抱えており、闇を直視すれば自らに食い殺されるというのに……お主には人の心というものが無いというのか?」
「テメェがどの口でンな事抜かすんだよ。
 言ったろ? 俺は一回世界にケンカ売ってんだ。今更アレくれぇの幻覚でどうにかなっちまうような時期はとっくに通り過ぎてんだよ。
 ただ、まあ――」

 幻覚コイツは邪魔だな。
誰に聞かせるともなくそう呟くと、ミサトは一言だけ口にした。

解呪ディスペル

 たった一言、そのたった一言だけで濃密だった励起状態の魔素が霧散する。空気も元の冷ややかな牢屋のものへ戻り、皮膚に張り付くようだった空気の質も肌を刺すような鋭利さを取り戻した。
そしてミサトにだけ見えていた幻覚も消散する。

「なっ……ワシの魔法が……!? 一度発動した魔法をキャンセルできるなんぞ、そんなバカな事が……」
「知ってっか? 詠唱が必要な『魔術』ってぇのはな、存外に脆いもんなんだぜ? 膨大な『コード』のホンの一部を弄ってやるだけで作動しなくなる。まして、魔術の方法論を構築した奴らってのは性格が悪いやつばっかでな、熟練の魔術師が自信満々で魔術を使おうとしたら使えなかった時の間抜け面を拝みたいばっかりに、たった一言で発動魔術を破棄するための暗号コードを組み込ませてるんだよ」
「な、何をデタラメをっ! そんな、そんな事、どんな魔術書にだって書いてなぞおらん……」

 そこでイズールは気づく。世界中の魔術師で誰も知っていないはずの事を知っている事実。そして古来の魔法理論を構築した先人の事を、まるで知り合いの様に話す事が指し示すその意味を。
そして目の前の少女然とした女が、恐ろしい何かであるかを。

「ま、まさかっ……まさかお主はっ……!」
「おしゃべりはここまでだ」

 言葉の続きをミサトの声で遮られると同時。
イズールの舌が暴れだす。先ほどのダッカスの腕と同じように、自らの意志に反して捻れていくそれをイズールは必死で両手で抑え、自身の行く先を容易に想像してしまった恐怖に震え、言葉にならないままにミサトへ懇願する。。

「ひ、ひひゃじゃ……やめ……ぎゃあああああああああああああああああああっ!!」

 が、その声が聞こえないかの様に、ミサトはイズールの舌をあっさりと捻じり切り、切り取られたそれがペタンと床に貼り付いた。

「うごぉ…あ、アヒのヒヒャが……」
「これでもう喋れねぇし、人を喰うこともできねぇ。良かったな、イズール」

 何が良かったと言うのか。
膝を突き、口から血を垂れ流しながら切り離された自らの舌を震える手の上に大事そうにイズールは乗せる。激痛と悔しさと怒りとが入り混じった眼差しをミサトに向け、殺さんばかりに射抜くが、ミサトはニコリと笑い、イズールの体はミサトが手を動かしていないにも関わらず宙へと舞い上がっていく。

「にゃ、にゃにほ……」

 そして腹部に感じる違和感と筋肉が伸びていく感覚。ミチミチと筋が悲鳴を上げ、口とは違う痛みにイズールは眼を見開いた。
例えるならばそれは、体を左右に思い切り捻った時の感覚。張り詰めた糸がジワジワと切れていく様な恐怖。イズールがこの先の結末を予測する前に、ミサトが笑顔のまま話し掛けた。

「飯が食えねぇなら胃袋も要らねぇし、腸も要らねぇよな?」

 プツ、と何かが千切れる音がした。

「や、やめ……」
「――ハルトを食われた恨みだ。簡単に死ねると思うなよ」

 低い声でミサトは言い放つ。
イズールが反応することは二度と無かった。











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