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第一話 街と酔っ払いとかしまし娘
第ニ話 ロスト・チャイルド
第三話 存在
第四話 デーモン&デーモン
第五話 妄想空想夢の跡
第六話 ほっぷ・すてっぷ・ほっぷ
第七話 とぅー・びー・うぃず・ゆー
第八話 スタートライン
第九話 いちについて
第十話 よーい・どん









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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved






−5 妄想空想夢の跡−





――熱い
熱狂しさにヒサトは眼を覚ました。そこには何も無い。右を見ても左を見ても、街も人も木も建物も何一つ無かった。
例えるならば白い箱の中。けれども壁らしきものも無いし、床の感触はあるけれども視界で捉える限りはまるで自分が空を歩いているかのように錯覚してしまう。それほどに真っ白。白だけ、白一色、白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白――
思考の中さえ白で埋め尽くされる。恥辱にさらされ侵食され陵辱される。
――まるで僕みたい
くらくらする頭蓋の暴力をそのままにヒサトは歩き出す。理由は無い。ただ何となくそうしようと思っただけだ。強迫も強制もない。もし誰かが立ち止まれ、と指示をしたならばヒサトは間違いなくその場に躊躇いも疑いもなく立ち止まっただろう。
一歩、また一歩とヒサトは脚を前に踏み出していく。時折サイドステップ、時折バックステップ、時折スキップ。ただ歩くだけの退屈しのぎに色んな動きを混ぜていく。
ふと背後に気配を感じて振り向く。そこには父親がいた。ヒサトよりもずっと背が高くて、強面をヒサトに向けてくる。ガッチリとした体格で、じっとヒサトを見つめてくる。だが睨んでいるという風では無く、真摯にヒサトを見ようと試みてくれている視線だ。
背後で父親が見守ってくれている。それだけでヒサトは前を向く力強さを得た気がした。
しばらく白い部屋を歩く。ペタペタと足音はしないが、前に進んでいる気がした。
ふと気になって後ろを振り向いた。そこには誰もいなかった。ただ遠くに何か黒い点が見えた気がした。
どこに行ったのだろう。一瞬脚を止めたヒサトだったがまた前へ歩き始めた。
テクテクといささか覚束ない足取りでヒサトは脚を進める。するとまた後ろに誰かがいる気がしてヒサトは振り返った。
そこには母親のヒヨリがいた。見慣れた、童顔の人好きのする笑顔をヒサトに向けてくれる。愛情を向けてくれる。それだけでなんだかホッとした。
背中越しに伝わる不思議な安堵感にヒサトはまた脚を前に進めた。少しだけ歩いて、ヒサトはまた後ろを振り向いた。そこにヒヨリの姿は無かった。
どこに行ったのだろう。キョロキョロと辺りを見回してもヒヨリはいない。少し前に見た黒い点が大きくなっている気がした。
フワフワとした足取りでヒサトは歩き始めた。しばらく進み、今度は斜め後ろに誰かの存在を感じて、そっちを見た。レジ姉がいた。
ヒサトが子供の頃から変わらない少女のような体躯で、右手に持った酒瓶をブンブンとヒサトに向かって振り、年中飲んでる赤ら顔で満面の笑みをヒサトに向ける。その笑顔を見ると呆れるのと同時に心強さを感じた。
そばをレジ姉が歩いてくれている。その事実だけでヒサトはまだヒサトは歩ける気がした。
重くともしっかりした足取りで歩いていたヒサトだったが、不意に腕を引っ張る感触に振り向いた。そしてヒサトは立ちすくんだ。
目の前は真っ黒だった。巨大な壁の様に黒い何かが大きくなっていた。
足元を見る。自分の腕を掴んでいたのはレジナレフだ。黒い穴にはまり、だんだんと沈んでいっていて、それに抗おうとレジナレフはヒサトの腕を必死に掴んでいた。ヒサトはレジナレフを引き上げようと一生懸命に腕に力を込めた。そして見た。
レジナレフがはまりこんでいたのはヒサトのつけた足跡だ。足跡から黒い何かが染み出し、穴となり、白い床を侵食していく。それは壁の様な黒いものも同じだった。ずっと自分がつけてきた足跡から広がった得体の知れない黒い染みがヒサトの世界を犯していく。
体が半分以上飲み込まれたレジナレフの体に異変が起こった。色白だった腕が真黒に染まり、首を伝い、綺麗な金髪をも黒く変わっていく。その黒さは掴んでいるヒサトの腕にまで伝っていった。
細菌の様にヒサトの体を犯していく。
ヒサトは恐怖した。レジ姉の腕を振り払った。振り払われたレジナレフは手を伸ばし、恨むような視線を残して黒い穴の中に消えていった。
ヒサトは走り出した。ズブズブとした、まるで沼の中の様な足元を必死で走った。
背後からは黒い何かが追ってくる。自分のつけた足跡からすぐに黒い何かが追いかけてくる。
ついにヒサトの脚を黒い染みが捕まえた。バランスを崩したヒサトをこれ幸いとばかりに周囲から追いついた染みが染め上げていく。熱が、熱が外と内からヒサトを焼いていく。染みは炎だ。黒い炎だ。それがヒサトの体を溶かしていく。
あまりの熱さに苦しむヒサトの視界は、正面に誰かの姿を捉えた。ショートカットの女性だ。
――助けてくれ、助けてくれ!
崩れ落ちる体でヒサトはもがき叫び、焼き爛れた腕で助けを求めた。薄れゆく世界の中でヒサトは泣き叫び、その女性は振り返り、そして――



ヒサトは眼を覚ました。
視界に入るのは薄汚れたコンクリートの壁。湿った空気が淀んで凝結し、ポタリポタリと雫を垂らしている。そばからはサラサラとした水音が聞こえる。
時刻は、昼間だろうか。ヒサトが首をわずかに傾けた先からは陽光が眩いばかりに差し込んできている。その割に辺りは暗く、季節を思えば幾許か涼しくともすれば肌寒い程だ。
背中からはヒンヤリとした感触。体にはカッターシャツとジャージが掛けられていて、傍らには茶色の財布。そこで初めてヒサトは自身の上半身が裸であることに気づいた。

「ここは……?」
「南区の河川トンネルよ」

聞き慣れた幼い声が聞こえ、そちらを振り向くと見慣れた隣に住む姉がいた。

「レジ姉」
「まずは服を着なさいな。いくらなんでもそんな格好じゃ風邪引くわよ?」

そう言ってレジナレフは手に持ったスキットルの蓋を取り外し、グイッと勢い良く中の日本酒を喉に流し込んだ。
相変わらずだな、とレジ姉を見て若干呆れるとともに安心感がこみ上げ、そしてどうして自分は裸なんだろう、と続けて疑問をレジナレフにぶつけようとした。
途端に蘇る記憶。ロボットが部屋に飛び込んできて、自分を追いかけて殺そうとして、レジナレフとミサキのおかげで助かったと思ったその矢先。よく分からない連中に出くわして、レジ姉と敵が戦い始めて、そして――

「あんまりムリに思い出さないほうがいいわよ」

その声に遮られた。とは言え、すでに大体の部分は思い出している。肝心な最後のところは思い出せていないが、今こうしてレジナレフと二人でいるということは――

「助かったの?」
「まあ、そういう事になるわね。奴らを撒くのはそれなりに大変だったけど」
「そっか、良かった」

レジ姉が傷つくのを見るのはゴメンだ。そう内心でつぶやいてヒサトは掛けられていたシャツとジャージを着ていく。

「そういえばこの服はどうしたの?」
「ああ、それね。財布はヒサトの部屋にちょっと忍び込んで、ね。服は家にあったのを取ってきたのよ。ほら、ちょっと前にヒサトが家で寝ちゃった時に置いていったのがあったじゃない? さすがに上半身裸の男の子を私みたいな可愛らしい女の子が担いで移動するには恥ずかしいものがあるじゃない。淑女の嗜みとして……何よ、その目?」
「いや、何でもないよ」

裸の、というより大の男を見た目少女のレジナレフが軽々と担いで移動する方が違和感があると思ったがそれには触れない。恥ずかしそうに身を捩るアル中おばさんの不興を敢えて買う趣味は無い。

「ちゃんとツッコミいれてくれないとコッチが恥ずかしいじゃない」
「ツッコミ待ちかよ!?」
「恥ずかしがる様な歳じゃないだろ!って」
「そっち!?」

見た目少女が昼間から酒を飲むなとかそもそも淑女らしくないとか冷静に考えればどこからツッコめばいいのか分からないくらいにツッコミどころが満載だったが、ヒサトはツッコミ役を諦めた。深々と嘆息し、服を着終えたところで立ち上がるとヒサトはレジナレフの元へ行き、足元に座り込む。そしてもう一度ため息を吐くと黒の野球帽が被せられた。

「帽子。顔見えないほうがいいでしょ?」
「え? ああ、うん、そうだね」
「それで、これからどうすんのよ?」

問われてヒサトは口ごもる。一晩で、一瞬で何もかもを失った。唐突に、何の準備も心構えもなく無くしてしまった。そうしてヒサトに残ったのは何も無い。
元々、ヒサトには人生の目標といったものが存在しなかった。漫然と日常を謳歌し、親の庇護の元でヌクヌクと特にこれといった不自由なく、同時に夢も希望も無く過ごしてきた。幼き日に持っていた曖昧な将来の夢は質量を持った現実に簡単に押し潰され塗り潰され、これから高校を適当に卒業して、大学に進学して遊んで、それなりの会社に就職して、結婚して、年老いて死んでいく。そのビジョンはぼやけているが、少なくとも過ぎし日々の胡乱な夢よりは圧倒的に現実味があった。そしてヒサト自身それを是とし、周囲も無意識に当然のものとしていた。

「どうしようかな……」

だから今のヒサトには何も残らなかった。やりたいこともやるべきことも見つからない。何より、今の、この暴力的な現実に抗ってすべき事が何も頭には浮かばなかった。

「もう、戻れないんだよね」
「少なくとも昨日までの生活はムリでしょうね」
「学校にも行けないんだよね」
「ミサキの話が本当ならね」
「昨夜の事は……夢じゃないんだよね?」
「この上なく事実」

打てば響くようなペースでヒサトの問いかけに淡々と応えるレジナレフ。ヒサトは壁にもたれてかかっていた背を起こしかけたが、再び力なく壁に背中を預ける。頭に不恰好に乗った帽子を掴み、顔を覆い隠す。

「どう、しよっかな……?」

同じセリフをもう一度繰り返してみる。レジナレフから返事は返ってこなかった。
だから今度はヒサトから問うてみた。

「レジ姉は、どうするの?」
「私? 私はそうねぇ……この街を出ることになるかな?」
「街を……出る?」
「そ。元々私は流れモンだしね。思いがけず長居になっちゃったけど、この街に縁があったわけじゃないし、逃げて逃げてその結果偶然にも辿りつけただけなわけだし。それでもヒサトに会えたのは幸運だったと心底思うけどね」
「そっか、そう、だよね……レジ姉は八年前に……」
「うん。もう九年になるのかなぁ……アイツら聖礼教義士団、特にあのアンドリュー筋トレオタクにはこっ酷くやられちゃってさ、神の眷属だなんてプライドはもうボッロボロ。恥ずかしげも無く逃げて逃げて必死で逃げて、でももう駄目だって時にこの街に辿り着いたの」

歯をニッと見せてはにかみながらレジナレフは頭を掻いた。そしてその恥ずかしさを誤魔化すようにもう一度スキットルの酒を流し込む。

「ホント、逃げてる間は大変だったけどね、この街に来てからはやっとのんびりできたかなぁって感じかな?」
「九年なんてレジ姉にとってはあっという間だろ? どのくらいレジ姉が生きてるのか知んないけどさ」
「まね。おっと、ここで年齢を聞くのはNGだぞぉ?」
「二千年以上生きてる人が何をイマサラ」
「そりゃそっか。ま、それは置いといて。うん、ここでの暮らしは楽しかったなぁ……特にヒサトの成長を見て過ごすのはすっごい楽しかった! 初めて会った時は――」
「――僕を『喰った』んでしょ?」

ヒサトの言葉に、楽しげに思い出を語りかけていたレジナレフの口が止まる。ヒサトはレジナレフの姿を見上げない。

「……うん、そう。私はこの街に来てヒサトを『喰った』の」
「アンドリューさんがそう言ってた……
 ねえ、レジ姉。『喰った』って……どういう意味なの?」
「そうね……やっぱ説明しないといけないかっ」

観念したようにレジナレフは河川トンネルの薄汚れた天井を見上げ、次いで足元のヒサトを見遣った。

「アンドリューにやられて逃げてきたけど、私にはもう力が残っていなかった……自分の存在を維持するだけの魔力さえ使いきってしまってたの」
「魔力で存在を維持するって?」
「そのままの意味よ。魔力が無ければ私は存在ができない。人間が動物や野菜を食べて肉体を形作るように私も食物を摂取して肉体を作るけれど、姿形を維持するためには魔力を使うわ」
「魔力が無かったら?」
「消える。例えるなら蒸発していく水かしら? ドライアイスの方が解りやすいかしらね? スウッと、まるで初めから存在しなかったかのように肉体そのものが消えていくの。もっとも私のように神性の高い存在は、普段は大気中に漂う魔力を吸収できるし、戦闘で使う魔力とは別に存在を維持するための魔力をプールしてるからそんな事態には陥らないけどね。だけど、あの時はそれすら困難な程に力を失ってた。すぐに、直接的に魔力を得られる手段を欲していたの」
「それが、僕?」
「そう」

悲しげにレジナレフはうつむくヒサトを見て、視線を外す。

「ヒサトが私を見つけてくれて、私は今はもういない、私を生み出したっきり見たことも無いに感謝したわ。半分消え掛かっていたから普通の人に私の姿は見えないし、逃げるのに人払いの呪を施してたから見つけようもない。そんな状態の私を見つけ出してくれたんだもの」
「そうだったんだ……まだ夜も早いのに、何で誰もいないんだろって不思議だった」
「ふふっ。普通の生活をしていたヒサトは気づいて無かったでしょうけど、ヒサトは魔力が飛び抜けて高かったのよ。もしその魔力を全て取り込むことができたら、存在の維持すら危うかった私を回復させてもう一度戦場に立つこと許すくらいに。だからこそ私が見えたし、呪の効果も効かなかったの」
「そんなに? なんだか実感が無いなぁ……」
「そりゃそうよ。人間としての生活に必要ないもの。それこそ聖礼教義士団みたいな事を生業にしてなきゃね」
「それで……レジ姉は僕の魔力を取り込んだ? それが『喰った』って事?」

ヒサトの問いにレジナレフは首肯し、スキットルを傾ける。ホゥ、という容姿に似つかわしくない色っぽい吐息を吐き出した。

「半分は当たり、かしらね……魔力を取り込むだけなら血を吸ったりするだけでも事足りる。もちろん『喰う』ことで魔力を取り込むことができるわ。でも、『喰う』ということはイコール存在を奪う事でもあるの」
「存在を奪う……」
「言葉通り存在を奪って乗っ取ってしまうの。それまでの人生そのものを途中から私の存在で上書きしてしまったり、人格そのものを乗っ取ってしまったりあるいは……今のヒサトみたいに存在したという事実を掻き消してしまう。それが『喰う』という事よ。ま、ご覧の通りヒサトはキチンと存在してるし、『喰う』事は失敗しちゃったんだけどね」
ハハハ、と頭を掻きながらレジナレフは笑うがヒサトが特に反応を示さずにいる事に気づくとバツが悪そうに口を噤んだ。

「……今更だけど、本当に申し訳なく思うわ。ヒサトを『喰おう』としたことも、それを今まで黙ってた事も。恥ずかしいことだけどあの時は余裕が無くて……いえ、言い訳よね。私は許されない事をしたわ。取り返しのつかない事をした。取り返しのつかない結果になりかねない事をした。それはどう言い繕っても言い逃れできない事実。どれだけ罵って、殴ろうが蹴ろうが、それこそ私の存在を消してしまっても構わない。ヒサトにはその権利がある」
「そんな事はしないよ」

ヒサトはそう言うと、顔を覆い隠していた帽子を掴んで立ち上がった。そしてレジナレフの隣に立ち、手の中の帽子を被り直す。

「レジ姉がやったことは、本来なら許されない事かもしれない。ううん、きっと許されない事だよ」
「そうよ、だから……」
「でも僕は許すよ」

そう話す口調は、なんでもない事、例えばケンカの相手と仲直りするかのようで。
そして訥々と語りだす。

「レジ姉は僕と遊んでくれた。僕を鍛えてくれた。僕を叱ってくれた。泣いた時は慰めてくれて、寂しい時は隣にいてくれて、楽しい時は一緒に笑ってくれた。レジ姉が言ったみたいに僕はキチンとこうして生きてるし、誤ちを認めて謝ってくれた。だから許すよ」
「ヒサト……」
「何より――」

目深に被った帽子の鍔を上げ、ヒサトは悲しげに笑ってみせた。

「レジ姉は僕の事を覚えててくれたから」
「……」
「僕を、昔の僕をひっくるめて覚えてるのはレジ姉しかいないんだ。僕を分かってくれてるのはレジ姉しかいないんだ。僕はレジ姉を失いたくないんだよ……」

レジナレフにそう告げ、ヒサトは目元を隠す様に再び帽子を目深に被った。

「ヒサ――」
「それで、レジ姉はいつ街を出るの?」

名を呼びかけたレジナレフを遮るようにしてヒサトは尋ねる。それに少し戸惑いながらも、レジナレフは応えた。

「え、ええっと、そうね……今日中、できるだけ早い内に出ようと思ってたんだけど」
「なら、僕もレジ姉と一緒に行ってもいいかな?」
「え?」
「ほら、僕もいつあのロボットたちに襲われるか分からないしさ。かと言って僕には一人で生活するためのお金も力も知恵も手段も無いし。だから、レジ姉の旅、で良いのかな? それに同行させて欲しいんだ」
「それは……構わないどころかこっちから提案しようと思ってたけど……いいの?」
「嫌だったらこんな事言わないよ。どっちにしろ僕に選択肢は多くないから。なら僕はレジ姉と一緒にいる道を選ぶよ」

その表情は帽子で見えなかった。




◇◆◇◆◇◆◇◆




聖礼教義士団奴らは目立つのを嫌うから昼間は動かない。街を出るなら今よ」というレジナレフの言葉に従い、ヒサトはすぐに動き始めた。
が、すぐにトンネルを出ていったわけではなく、まずミサキとコンタクトを取ろうと試みた。昨夜は会話中に不自然に途切れてしまったため(レジナレフによると聖礼教義士団の張った「結界」による影響とのことだった)、まずはこちらの安否を伝える事、そしてミサキの方に類が及んでいないか、またレジナレフの持つ聖礼教義士団の情報をより詳細に伝える事を目論んでの試みだ。
しかしヒサトがVisiをオンにし、TelOnでリダイヤルをしても繋がらない。通常、TelOnで相手方が不在の場合は不通音が流れるのだが、そうではなくただメッセージがVisi上に流れるだけだ。「ご相手の方のアカウントは存在しないか、すでに削除されています」

「捨てアカウントだったのかな……」

ミサキの立場であれば、いくつもそういったものを持っていてもおかしくはないだろうし、ヒサトを手助けしたものの、ミサキ自身ヒサトたちに深入りするつもりは無かった。もしくは不自然に通話が途切れたのを受けてヒサトたちが厄介事に巻き込まれたと判断し、身の安全を確保するために痕跡を消した。ヒサトはそう推測した。そして、その推測が正しいならば、自分たちだけでミサキを探し出すのは不可能に近いだろう。
ヒサトはミサキと連絡を取るのを諦め、レジナレフと共にトンネルを後にした。

「街を……見てもいいかな?」

もう二度とこの街に戻ってこないかもしれない。それを思うと途端に郷愁に似た感情が湧き上がりレジナレフに提案した。ヒサトの気持ちを理解したレジナレフは頷き、並んで街の中心へと歩いていった。
街中には疲れ知らずの警らロボットが歩き回り、トラブルが起こらないよう、起きた時は迅速に対処できるよう休みなく街を巡回する。聖礼教義士団と同じくスイーパーも表立って行動する組織ではなく、またヒサト自身L.I.N.C.Sの隠れた機能を知らなかったという事は、情報は一般には出回っていないということだ。だからこうした人ごみの中で彼らが事を起こすとは考えづらかったが、どうしても警戒してしまう。レジナレフに付き従いながらも周囲をキョロキョロと見回して歩き、その姿が逆に挙動不審だがヒサトは気づかない。逆にレジナレフはこういった状況に慣れているからか自然に歩いていて、ヒサトを見て苦笑していた。
平日の昼間だというのに、繁華街は休日と変わらず人が溢れていた。忙しなく人ごみをかき分けて進む人、全身を流行りもので固めた主婦、一つでも多く物を売ろうと声を張り上げる店員。夕方になれば学生服に身を包んだ高校生が加わり、休日になれば彼ら彼女らはおしゃれに変身してこの中を歩いていくのだろう。
顔を上げたヒサトの目に不意に、遠くに高くそびえる塔が見えた。太陽エネルギー発電施設だ。地上から遥か高くまで伸び、雲に突き刺さったそれはヒサトを見下ろし、堂々たる一本柱を地上に根を張り、自分たちの生活を支配している。それは変わらない。
そう、変わらない。
昨日もあった街が今日も、そして明日も在り続けるように、街を歩く人々は明日も来週も来月も来年も同じように街を歩いていく。それはきっと普遍の事実で、不変なのだ。発電施設は今日も明日も街を支配し、その中で人は生きていく。その中にヒサトの居場所は無い。
寂寥だ。孤独だ。ヒサトは胸の奥を掴まれたかのような錯覚を覚え、歯を食い縛ってそれに耐える。顔を伏せ、腹に力を込め、ヒサトは自力で喪失感に耐えた。だがヒサトの左手はレジナレフの右手を強く掴んでいて、ヒサトはその事に気づかない。レジナレフは何も言わずに、黙ってヒサトのしたいようにさせていた。
ヒサトは街中をさまよう。ぼんやりとした眼差しで霧中を歩く。適当に道を曲がり、人ごみを避け、気づけばヒサトの足は通学路へと向かっていた。

「止まって、ヒサト」

一歩後ろを歩くレジナレフの声にヒサトは我に返った。顔を上げてひさしの奥から見える景色は住宅街。『夢見通り』にあるスーパーはすでに通り過ぎていて、コンビニ兼酒屋の吉田さんの家の駐車場はいつも通りガラガラだ。
しかし人通りの少ない常と違い、今日は道端に人だかりができていた。

「昨夜のやつか……」

人だかりの向こうには赤色灯を光らせたパトロールカーが止まっている。更にその奥には住み慣れた自宅があり、壊れて大きくなった玄関が制服姿の警官たちを飲み込んでいる。

「……またえらく派手にやったわね」
「文句はロボットに言ってよ」

人だかりを少しかき分け、しかしやや距離をおいて現場を見ると、グチャグチャの玄関にはべっとりとした血のりが散らばっていた。警官の遺体はすでに処置されたらしく、チョークで描かれた人形だけが残されていた。
その光景にヒサトは顔をしかめ、傍らに視線を移した。小さな庭がある縁側にはヒヨリが腰掛けており、その表情は遠目にもひどく憔悴しているようだった。刑事たちに囲まれ、事情聴取に応えているようだが、当然ながら声はヒサトには聞こえない。ヒサトとヒヨリは互いに確認できる位置にいるが、ヒヨリはヒサトの存在に気づく様子も無かった。

「……スイマセン、何かあったんですか?」

ヒサトは人集りの先頭にいた女性に声を掛けた。その中年の女性はヒサトも良く見知った人で、昔から近所に住んでいる。ヒサトも昔から何かとお世話になっているし、昨日も道端ですれ違って挨拶を交わしたばかりだ。
ヒサトは帽子のひさしを少し上げて顔を見せて尋ねた。

「何でもロボットが暴れたらしいわよ。ほら、最近ニュースになってるじゃない! 突然ロボットが暴れてるって! 幸いな事にヒヨリちゃんに怪我は無かったみたいだけど、たまたま駆けつけたお巡りさんが亡くなったらしいわよ……旦那さんも出張でいないっていうのに、一人で大丈夫かしらねぇ……」

ヒサトの顔を見ながら女性は話すが、見知っているはずのヒサトに気づく様子は無く、単なる通りすがりとしか認識していない。ヒサトはそれを確信すると、なおもしゃべり続ける女性の顔が現場の方へ向いた隙にそっとその場を離れた。

「そうそう! そういえば若い男の人を警察が探してるって……あら? どこ行ったのかしら?」

女性が振り向いた時、ヒサトの姿はすでに無く、ヒサトは人集りから離れた民家の壁にもたれかかっていた。

「もう、いいの?」
「うん、いいんだ」

レジナレフの問い掛けに明るく頷いて見せるとヒサトは「もう、いいんだ」ともう一度だけ繰り返し、帽子を被り直す。そしてレジナレフを促すと、かつての自分の家に背を向けて繁華街の方に歩き出した。そのまま振り向かなかった。
かつての自宅を離れたヒサトとレジナレフは高校の前に立った。日はまだ高いがすでに授業は終わり、グラウンドでは部活生が汗を流しているがその数は少ない。そういえば今日からテスト期間だったな、とヒサトは今週の予定を思い出した。テスト前一週間は基本的に授業は午後一コマまでで、部活も大半が休みとなる。試合が近い部活のみ練習が認められており、今グラウンドを占有しているサッカー部は来週テストが終わるとすぐに試合だ。
ヒサトは、校内には脚を踏み入れず、校門の所から学び舎を見上げた。校門からまっすぐ行った場所にある玄関、そこから視線を上に向けていくと昔からあるという大きなアナログ時計があり、淋しげにヒサトを見下ろしている。
――もうここにも来れないのか
熱心な学生では無く、特別楽しい日々だったかと問われればヒサトは首を横に振る。特に仲の良い友人がいたかと言えばそうではない。何となく通い何となく授業を受け何となく笑っていた。そんなつまらなかった高校生活だがこうしていざ失ってみると途端に物悲しくなってくる。
大切な物は失って初めてその価値が分かる、と言うが僕にとっても昨日までの日々は大切なモノだったのだろうか。ヒサトはそんな事を思いながら顔を伏せ、訝しげな部活生の視線を背に歩き出す。
レジナレフはその後姿を見ながら歩く。小さなレジナレフよりすっかり大きくなったヒサト。思い出の中のヒサトはずっと小さく、しかしいつの間にか自分を追い越してしまった。なのに、レジナレフの眼には幼い時のヒサトと今のヒサトがダブって見えた。

「っと。どうしたの、ヒサト?」

前を歩いていたヒサトが立ち止まる。レジナレフが声を掛けるが、ヒサトは呆然と前を見据えて動かない。何事かとヒサトの肩を叩こうとした時、ヒサトが突然駆け出した。

「あっ! ちょっと!」

レジナレフの制止に耳を貸さず、全力で走り続けるヒサト。息を切らし、被っていた帽子を落とし、それでも彼は走りを緩める事は無い。
前を行く彼女との距離が瞬く間に縮まる。昔から知っている後ろ姿。艶やかなショートカットの黒髪。竹刀袋を斜めに背負って友人と談笑する彼女に向かってヒサトは名前を叫んだ。

「シイナぁっ!!」

突如として呼ばれた形のシイナと、シイナと談笑していた友人は会話を止めて振り返る。その顔を見てヒサトの胸に暖かいものがこみ上げてくる。

(良かった……やっぱりシイナだ)

どうして今まで忘れていたのだろう。自分にはシイナがいるじゃないか。ずっと昔から一緒にいて、共に時間を過ごして、それこそ双子の様に全てを共有してきた半身。二日と顔を合わせない日は無く、親よりもレジ姉よりも誰よりも長く存在を共にした幼馴染。ならば、誰よりも真っ先に会いに行かなければならなかったのに――!
張り裂けそうな鼓動を抑え、ヒサトはシイナの前に立った。呼吸を整え、こみ上げてくる思いやらを全て一度飲み込み、シイナに相対する。
過る記憶。ずっと昔から共有してきたシイナとの思い出。まるで走馬灯の様に過ぎ去っていく。
L.I.N.C.Sが何だ。存在が何だ。どんなに科学が発達しようとも僕らの繋がりは誰にも絶つことなんてできない――!
彼女の体温を、存在を感じたくてヒサトは手を伸ばす。シイナの手を掴もうと左手を伸ばし、しかしシイナは体を半身にしてヒサトの腕を避ける。
ハッとしてヒサトがシイナの眼を見る。その眼は、とても冷たく恐ろしい。揺れる瞳は恐怖と冷徹さと訝しさを内包し、上永ヒサトを見ていない。小岩井シイナが今見ているのは――

「君、誰?」

見知らぬ誰かだった。





――分かっていた
走りながらヒサトは声にならない声をあげる。
――分かっていた
歯を食い縛り、弾けてしまいそうな胸の内を必死に堪える。それでも堪えきれない思いが口をついて溢れる。

「分かってたよっ! けどっ!!」

シイナの眼を見て気づいた。気づいてしまった。気づきたくなかったが気づいてしまった。
小岩井シイナの中に上永ヒサトの存在はどこにも無く、共有してきた時間さえ消失してしまっていた。慈悲も、情けも、容赦も無くもうシイナの中にヒサトはいない。
走る足元が揺らぐ。力が入らない。フラフラと蛇行し、胃から酸っぱいものがこみ上げてくる。
頭の中はグラグラと煮立っていて、でも心の内は触れれば壊れそうなくらいに凍りついていて。
自分が走っているのが地面なのか、そもそも走っているのか歩いているのか、立っているのか横たわっているのか。ぼやけた視界とぼやけた思考とぼやけた感覚。グチャグチャと頭の中がかき混ぜられて、もう何も考えられない。
それでもヒサトは走り続けた。少しでもシイナの傍から離れたくて、少しでもシイナの香りを遠ざけたくて。
少しでもシイナの瞳から逃れたくて。



デタラメに街を走り抜け、人にぶつかりながらもヒサトは逃げ続けた。
逃げて逃げて逃げて、行き着いた先は目覚めた場所。河川トンネルの壁に手を突き、荒い呼吸を吐き出す。ヒヤリとする冷たさがヒサトの手を伝ってくるが、ヒサトはそれを感じられない。
雫が滴り落ち、コンクリートの地面に染みを広げる。

「ヒサト……」

後ろから追ってきていたレジナレフがようやく追いつき、ヒサトはクシャクシャに歪ませた顔をレジナレフに向けた。
よろよろと覚束ない足取りでヒサトはレジナレフに近づく。脚を引きずる様にしてゆっくりと歩み寄り、レジナレフが着るブラウスの裾を力なく掴んだ。
途端、ヒサトの体が引き寄せられる。頭ひとつ大きいヒサトを全身で抱きかかえ、細い指でヒサトの頭を撫でていく。
優しく、優しく、何度も何度も撫でていく。
ヒサトの体が強張り、しかし両腕はレジナレフの背中に回されてレジナレフを掴んだ。

「あ…ぐ…うぅ……」

ヒサトの必死で堪えようとする嗚咽が漏れる。収まらない震えに歯がぶつかり合い、カチカチと音を立てる。
レジナレフはヒサトの耳元に口元を寄せ、小さく囁いた。

「泣いて……いいよ?」

それがきっかけだった。
ポロポロとヒサトの両目から涙が零れ始め、大きく開いた口が震える。

「あ……あ、あ、あああああああああっ!!」

街外れのトンネルに、悲しい叫びが響き渡った。









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