Top

第一話 街と酔っ払いとかしまし娘
第ニ話 ロスト・チャイルド
第三話 存在
第四話 デーモン&デーモン
第五話 妄想空想夢の跡
第六話 ほっぷ・すてっぷ・ほっぷ
第七話 とぅー・びー・うぃず・ゆー
第八話 スタートライン
第九話 いちについて
第十話 よーい・どん









現在の閲覧者数:

(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved






−10 よーい・どん−




 アパートの駐車場に乱暴に車を停めると、木村はドアを開けて降りた。その顔にはありありと不満が浮かんでおり、頻繁に舌打ちをしながら勢い良くドアを閉める。バン、と大きな音が夜の住宅街に響いた。
ドアの鍵を掛けようと思考で信号を車に送る。だがロックの掛かる音はしない。眉根を寄せて何度も思考を走らせるがすでに購入して五年になる車はうんともすんとも反応しなかった。
苛立ちから眉間に深いシワが寄り、諦めた木村はアナログチックに鍵を鍵穴に差し込んで回した。だが手入れも何もしていなかった鍵はやや錆び付いていてとても堅い。数回試みて、果たして頑なに回ろうとしない自分の鍵を穴から引き抜くと苛立ちも顕わにアスファルトにそれを叩きつける。そして序とばかりに自分の車のドアを右脚で蹴りつけると鍵を掛けないままアパートの方へ向かった。
――どいつもこいつも俺をバカにしやがって
 木村の脳裏に先ほどの教授の発言が思い浮かぶ。そして鞄の中から自分の書いた論文の紙束を取り出すとごみ集積所に放り捨てた。
その論文は大学院に通う木村が書き上げた自信作だった。情報工学が抱えているポテンシャルを拡げ得るこれまでにない理論。研究室に所属して六年。練りに練ったその論文を学会に発表して名声を得る、そうでなくてもこの世界には「木村」という優秀な人間が居ると知らしめるチャンスでもあった。だがその理論は木村の所属する教授の理論に真っ向から反する物でもあった。
学会に投稿する前に教授から指図されて書きなおさせられた結果、学会の予備審査で弾かれて発表する機会を木村は失った。書きなおすつもりなど無かったが、卒業を盾に取られて渋々書きなおした結果がこれだ。

「何が『残念だったね、まあ、まだ機会はあるから頑張り給え』だ、あのクソジジイ……」

 腹立たしさに任せて教授を殴り飛ばしてしまったから、恐らくもうあの研究室には顔を出せまい。殴った瞬間は幾分スッキリしたが、時間が経てばまた怒りが込みあげてきてどうにもならない。当たり散らそうにも周りには何も無く、怒りを誤魔化すために伸びてしまったボサボサの長い髪を掻きむしる。

「昔から皆寄ってたかって俺の脚を引っ張りやがって……」

 愚痴りながら木村は2階建てアパートの階段を登る。中学では無能な同級生にイジメられて学校に行けなかった。高校に入ってもクラスメイトに嫌われ、孤独な日々を送った。その度に木村の性格は歪み、他者を排除し、常に斜に構えて周囲と相容れなくなっていった。悪いのは全て周りで、自分の力を妬んだ無能な奴らが脚を引っ張っているのだ。次第に木村はそう考えるようになった。
優秀な大学に行けばそれも無くなるかと思えば、また同じ事の繰り返し。全くもって詰まらない。何より詰まらないのは、そう言った人間が作り上げた社会の中で自分もまた生きて行かなければならないこと。それが木村には腹立たしい。
カン、カン、と鉄製の階段を踏み鳴らし、部屋の前に辿りついてドアの鍵を開ける。オートロックを思考制御で外そうとし、今度はキチンと開く音がして木村はドアノブに手をかけた。

「こんばんは」

 声を掛けられて木村は不機嫌な顔を声の主に向けた。そして立っていた男をマジマジと不躾に見る。

「なんだよ」
「いえ、ちょっと尋ねたいことがあって」

応えながらヒサトは帽子を脱ぎ、警戒させない様に人の良さげな笑みを浮かべた。ヒサトの後ろにはエレナが眠そうにアクビをしている。服装は、ヒサトはいつものパーカーとジーンズ、エレナは黄色がかったロングTシャツに髪の色に近い紅いパンツ姿。あたかも近所の若者、といった風情だ。これもまた余計な警戒心を煽らないためだ。
逃げられない様にヒサトは慎重に立ち位置を変える。木村が犯人であることはほぼ確定しているから急襲して捕まえてもいいのだが、ヒサトは木村が何故事件を起こしたのか確認したかった。理由次第では、魔術を知ったものとして教会に掛けあってもいいとヒサトは考えていた。どうやって魔術を知ったかを教会側も知りたいだろうし、魔術の拡散を防ぐためには無碍にはしないだろうとの打算もあった。
エレナもまた立ち位置を変えたのを確認すると、ヒサトは単刀直入に質問を口にする。

「どうして、事件を起こしたんですか?」
「……んだよ、アンタ。急にやってきて何言ってんだ?」
「とぼける必要はありません。僕らはもう知っていますから」その言葉に木村は舌打ちし、警戒を顕わにしたのを見てヒサトは慌てて付け加える。「あっと、言っておきますと僕らは警察では無いので安心してください」
「なら何の用だよ? 言っとくが俺は金は持ってねえから脅したって無駄だぞ」
「別に脅す気はありません。僕はただ、木村さんが事件を起こしたその理由を知りたいんです」

 名前を呼ばれた事で木村はヒサトが本当に全てを知っているのだと確信した。姿勢を変えるフリをしてポケットに手を突っ込み、ジリ、と後ろに下がる。

「何でお前に話さなきゃならないんだよ」
「理由によっては、アナタを庇えるかもしれないからです」
「は?」
「木村っちは魔術を使えるッスよね?」エレナがヒサトの後ろから口を開く。「本来魔術は誰でも使っていいモンじゃ無いんスよ。しかも公になんて使われるとウチら魔術を管理する側としてはヒジョーに困るんスね? けどそんな事は知らなかったんスよね? だから今回のは多目に見て警告だけッス。でも警察とかにバレるともっと困るんス。それはわかるッスよね? なんで木村っちをウチらで囲おうって腹なんスよ。魔術を使えるって事はそれなりに才能があるわけッスからね。才能ある人材はウェルカムッス」

 朗らかに笑いながらエレナは言う。自分たちは才能ある人間を求めている。そう主張し、ヒサトも促す。

「だから話してくれませんか?」
「……話さなかったらどうなる? もしくは、理由がお前らの御眼鏡に適わなかった場合は?」

 木村のその問いかけに、ヒサトは笑みを深くして口を開かなかった。

「そうかよ……なら教えてやるよっ!!」

 木村は叫ぶと同時にポケットの中で指を動かした。
途端に、ヒサトの体から力が抜けた。頭の中を揺さぶられる様な衝撃。物理的な衝撃が加わったわけではないのに体全体が揺れる。
違う、揺れているのはヒサト自身だ。視界がぶれ、音も自身の声もノイズの様な雑音に遮られて聞こえない。二重にも三重にも視界の中の木村の姿がぼやける。それでもヒサトには木村が逃げ出したのが分かった。

「逃さないッスよ!」

 崩れ落ちたヒサトを他所にエレナは紅い髪をなびかせて木村に迫る。距離は僅かに一足。近接戦闘が得意でないエレナでも一般人よりはずっと戦闘能力は高い。木村を取り押さえるのに不足は無いはずだった。
だがエレナが取り付くより早く木村はポケットの中に入っていた物を放り投げた。それは小さな黒い塊だ。角張って無機質なそれは、木村の手を離れて宙を舞った。

「――splendida」
「しまっ……!」
 木村の呟きと同時に塊がまばゆい光を発した。それはまるで太陽の様にエレナの眼を一瞬で焼き、エレナは視力を奪われた。白のみがエレナの世界となり、焼け付く痛みにエレナは膝を突いた。
徐々に戻ってくるヒサトの平衡感覚。その耳は階段を駆け下りる足音を捉えた。次いで人為的に取り付けられた、電気自動車の擬似エンジン音。

「……エレナさん、大丈夫ですか?」
「あんまり大丈夫じゃないッス……」

 「ちょっと待つッス」とヒサトに告げ、目元に手を当てて呪文を唱える。淡くエレナの手元が光り、しばしそのままの体勢を維持すると眼をしばたたかせ、軽く擦って立ち上がった。

「油断したッス。まさか触媒魔術を使える程の実力があるとは思わなかったッスね。やっぱ木村っちは才能あるッス。こんな状況じゃなかったらガチでスカウトしたいくらいッス」
「エレナさん」
「わかってるッスよ。今の木村っちじゃどうせ連れて帰ってもすぐ問題起こしてアンドリューさんにぶちのめされて終わりッス。それより逃げちゃったッスけど、どうするんスか?」
「手は打ってありますから」

 そう言うとヒサトはTelOnを起動させる。スピーカーのスイッチをオンにしてエレナにも聞こえるよう操作し、程なく関西弁が聞こえ始める。

「も…もし……ヒ…サトか? なん……ノイズが…どいな」
「ミサキさん? 聞こえますか?」
「ちょ……待っと……うし、これで何とか聞こえるやろ。あーあー、もしもし、どうや? 聞こえるか?」
「もしもし、ちゃんと聞こえてますよ。そっちはどうですか?」
「こっちも上等や。で、ウチに電話して来たっちゅうことはしくりおったな、自分?」
「察してくれた通りです。逃げられました。なんか急に頭がクラクラして目が回ったみたいになって……」
「ははぁん、ちゅうことは電磁ノイズを発生させよったな。TelOnの通りが悪かったんはそんせいか。L.I.N.C.Sを使うために人間の脳みそも多少機械化されとるからな。ノイズ使うて足止めしよったか。でもそういう時ん為にエレナはんが居ったんちゃうん?」
「いやー、ハハハ……自分も油断して逃がしてしまったッス」

 スピーカーの奥から深々としたため息が聞こえてくる。ミサキの呆れをヒサトは聞き流して用件を口にしようとした。が、ミサキの方から先に声を発する。

「ま、自分らだけやとそないなこともあるやろ思っとったからな。コッチはちゃんと準備はできとるで。んで、さっき自分らのおるアパートから一台車が物凄いスピードで出て行きおったけど、それで間違いないな?」
「はい。ナビの方、宜しくお願いしますね」
「任しとき。ウチはしつこいからな。眼をつけたら何処までも追ってくからヒサトもちゃんと追いかけや?」

 言葉と同時にヒサトのVisi上に、ミサキから送られてきた地図データが表示される。それを確認するとヒサトはエレナと共に頷き合い、二人は揃って屋根の上へと消えていった。




◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 教会の一室でレジナレフはソファに座って瞑目していた。小さな体を尊大にソファに沈め、何かを思案するかのように頬杖をついており、時折まぶたを開けては閉じる仕草を続けている。
 レジナレフがいる部屋は暗い。地下に位置するこの部屋には窓は無く、しかし明かりが無いわけでは無いのだが、この部屋に軟禁されて以来レジナレフはほとんどソファから腰を上げること無く一日を過ごしていた。

「愛しい彼の事が心配かい?」

 静かに座っていたレジナレフに不意に声が掛けられる。閉じていた眼を開け、潤いに掛けた眼差しを声の主に向けた。

「レディの部屋にノックも無しに入ってくるなんて、全くなってないわね」
「それは失礼。我が家ゆえに配慮に欠けていた様だ。謝罪するよ、リトル・レディ?」

 レジナレフの体を揶揄しながら部屋の明かりを点けるとクルツは書棚に手に持っていた本を片付け、そのままレジナレフの正面にあるソファに腰を下ろした。

「ついさっき連絡が入ったよ。どうやら彼は今回のロボット事件の犯人を見つけたらしい」
「そう。さすが、と言ったところかしら? やればできる子だとは思ってたけど、予想通りやってくれたわね」

 そっけない口調で、だが口元に誇らしげに笑みを浮かべてまるで母親が我が子を自慢する様にレジナレフはヒサトを褒めた。

「おや、心配じゃ無いのかい?」
「心配なんてする必要ないわ。だってヒサトだもの。今のヒサトなら不安な要素なんて何処にもないし、私はただ黙って待っていれば良いだけよ」
「……彼の事を調べさせてもらったけどね、まあそれなりに優秀だとは思うしV.Eヴェイキャント・イグジスタントだから使えなくはないだろうけど、君が言う程の人間だとは思えないんだけど?」
「そりゃアンタの眼が節穴なだけよ」
「むしろ君が盲目的すぎるだけな気がするよ」

 いくら言われても誇らしげに胸を張ったままのレジナレフにクルツは肩を竦めた。だが、レジナレフは急にまた元の考えこむように口元を隠すと、横目でチラリと正面のクルツを見た。そして尋ねる。

「……一つ聞かせて」
「何かな、急に?」
「どうしてヒサトに今回の課題を与えたの?」
「何を言うかと思えば。新しい人間を組織に入れるのに課題を与えるのは当然じゃないかい? 長く人と共に暮らしてきた君ならそんな事は当然知ってるものだと思っていたよ」
「いちいち人の神経逆撫でする言い方はしなくていいわ。その程度でコッチが冷静さを失うんだと思っているんだったら、見くびらないでほしいわね」
「そいつは失礼。では、どうして君はその考えに至ったのか教えてくれないかな?」
「ヒサトの価値なら、課題なんて与える必要ないもの」

 その答えに嘆息し、呆れた様子でクルツは異議を口にしようとする。が、レジナレフは手を挙げてそれを制した。

「勘違いしないで。今のヒサトが優秀なのは譲らないけど、別にそこを議論したいわけじゃないの。ヒサトがヒサトである限りアンタがヒサトを手放すとは思えない」
「……続けて」
「聖痕持ちはアンタたち聖堂教義会の人間にとっては何を犠牲にしてでも手元に置いておきたいはず。それこそどれだけ犠牲を出そうがね。けれど同時に聖痕持ちは非常に存在が不安定だわ。昨日まで元気だった人間が突然前触れもなく死んでしまう程に。あるいは心臓発作で、あるいは事故で、あるいは事件に巻き込まれて。あれはもう呪いの領域と言っていいわ。それに対する対処はただ一つ。強い魔力を持つ人間が傍にいること。それこそが存在の因果を狂わせる唯一の方法。でもそれだけじゃ足りない。聖痕持ち小岩井シイナアレ・・が降りてくる瞬間を逃さないように常に監視しておく必要がある。それら全ての条件を満たすのにヒサトほど都合の良い人間はいないもの」
「……やれやれ、流石は悠久の時を生きた人物といったところだね。素晴らしい知識と推察力だ」
「お褒めに預かり光栄ね。でもだからこそヒサトに課題を化した意味が分からない」
「単なる気まぐれだよ。ただ単に彼を保護しても面白く無いからね」
「レオンハルト・クルツ。アンタは一見どうでもいい無駄な要素を好む傾向があるけど、その実、本当に無駄なことはしない人間だわ。だから今回の事も必ず何か意味があるはずよ」
「全く……そこまで僕の事を見抜かれると言葉も出ないね。いやはや、お見事だよ」
「それで、何が狙い? 何を企んでるのかしら? 悪いことは言わないから今すぐ教えなさい」
「それをずっと考えていたのかい? ご苦労なことだけど、申し訳ないが教える訳にはいかないな。君が情報を漏らすとは思わないけど何処で誰に伝わるか分からないからね。ま、それだけ重要な意味があると思ってもらって結構だよ。ああ、安心していいよ。少なくともヒサトに害を及ぼす様な事ではないから」

 アルカイックスマイルを浮かべ、なおも言い募ろうとするレジナレフを無視して本棚に向かった。新たな本を取り出し、左手に持ってドアへと向かう。

「少々長居し過ぎたみたいだ。そろそろアンドリューがうるさそうだから執務に戻ることにしよう」
「どうせあの男に普段から仕事丸投げしてるくせに」
「心外だね。こう見えても忙しいんだが」

 不満そうな表情を取り繕って見せるがすぐにまた笑みをクルツは浮かべてみせる。
――ホント、食えない男
 常に笑みをたたえて内心を悟らせない。クルツとは対照的に苦々しく顔をしかめ、レジナレフは口には出さず吐き捨てた。
ならばもう用は無い。レジナレフはクルツから視線を外し、クルツもまた自室に戻る為にドアノブを握る。だが、ドアは開かない。

「……レギンレイヴ」
「何よ?」
「こちらからもひとつ聞いていいかい?」

 レジナレフは応えない。だがそれを肯定と都合よく解釈し、クルツは尋ねる。

「悪魔『レギンレイヴ』は上永ヒサトを喰ったとアンドリューは言っていた。それは本当かい?」
「そうよ」

 レジナレフは即答した。

「嘘だね」

 だがクルツはそう断じた。

「ヒサトと間近で接したが、彼の魔術的なポテンシャルはずば抜けて高い。恐らくここに所属している我々の誰よりも、だ。未熟ゆえに表立って現れていないが、彼の底が見えない。それこそ人間の範疇に収まるものではないと言えるだろうね」
「そんなことよく分かるわね」
「元々私は感知系の魔術に長けているからね。彼と話をした時にコッソリと術式を展開させてもらったよ」
「いやらしい男ね。アンタが嫌われ者の理由がよく分かるわ」
「お褒めに預かり光栄だね。話を戻そう。そんな彼を君が喰ったとすればとっくの昔に往時の力を取り戻しているはずだ。それも神々が存在していた時代の力を、だ。なのに今の君はどうだ? 我々と対峙した時よりも弱体化し、未だそんな童女の姿でしか顕現できていない」

 いつの間にかクルツの口元から笑みは消え、二人の視線が交差する。
視線を受け止めながらレジナレフは思案する。口元を覆い隠し、黙考。

「答えろ、レギンレイヴ。いったい何があった?」

 だが先延ばしも、虚偽も許さないとクルツはレジナレフに回答を迫る。レジナレフは一度瞑目。そして「条件がある」とクルツに告げた。

「条件?」
「ええ、そうよ。条件はひとつ。何があったとしてもヒサトを庇護下から切り捨てないと約束しなさい」
「……つまり、それだけの話と言うわけか」

 今度はクルツが悩む。秀麗な眉を寄せ、難しい顔をしてメリット・デメリットを考察する。
 クルツは今のところヒサトを放り出すつもりは無かった。V・Eであることと記憶を消されたとはいえ聖痕持ちである小岩井シイナとの縁を考えると、例え上永ヒサト自身が無能であったとしても手元に置いておくメリットは十分ある。だが問題は上永ヒサトがクルツが考える以上に有能過ぎる場合だ。それも戦闘力のみにおいて優秀な場合。今はヒサトはシイナと一緒に過ごす事を餌にこちらの思惑通りに・・・・・・・・・動いてくれている。しかし彼がクルツの思惑を打ち破る程の、クルツが御する事ができない程の力を持っていた時。確かにヒサトのポテンシャルは素晴らしいが、それでも特別警戒すべき程ではない。が、それでも万一があってはならない。クルツの目的の妨げになるかもしれない、そんな存在を身の内に取り込むのは憚られる。目的の為には、危険な要素は何が何でも取り除かなければならないのだから。

「それで、どうするの?」

 立場が変わった。レジナレフが今度はクルツに答えを迫る。
しかし、とクルツは考えを変える。現在のクルツに手駒が少ないのも、実力がある人間が少ないのも事実。この教会に赴任して大分人間の入れ替えを行ったが、未だに実力者と勘違いしているリカルドの様な人間もいる。無能者なのでクルツの邪魔にはなっていないが、代わりにアンドリューやエレナと言った実行者の妨げにも少なからずなっている。もし、ヒサトが実力を示せるのであれば、その実力を手放すのは惜しい。
要は自分が飼い犬を飼い慣らせるか否か。全てはそこにかかっている。手駒を御する事ができずしてどうして神へ反逆できようか・・・・・・・・・。ならば何も悩むことは無い。

「……分かった。約束しよう」
「それはレオンハルト・クルツ、神では無くアンタ自身にそれを誓えるかしら?」

 その問いにクルツは僅かに口ごもる。だがすぐにレジナレフに向かって頷いてみせた。

「誓おう、神々の残せし者であるレギンレイヴ。他ならぬ私自身に誓うよ」
「なら契約成立ね」

 レジナレフは笑みを浮かべて立ち上がる。「私はヒサトを喰ってない」クルツに告げ、クルツもやはり、と得心した表情を浮かべた。
だが、次の瞬間にクルツは表情を強張らせた。

「私は喰われたのよ」



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「次はどっちッスか!?」
「あのマンションを超えて、その後は十時の方向です!」
「いや、木村が今走っとる道は途中で行き止まりや。自分らの場所からやと一時の方向やな」

 ヒサトとエレナは住宅の上を軽やかに駆けて木村を追いかける。細い路地を無視して、Visi上に表示されている木村の位置を示すマーカーを目指して走る。時折TelOnからミサキが指示を飛ばして適切な方向へ修正し、そのおかげか純粋に走る速度は車に及ばないが着実に木村との距離を詰めていっていた。

「距離はあとどれくらいッスか?」
「ミサキさん」
「二百メートルっちゅうとこやけど自分らと木村の速度を考えると……あと十分くらいで追いつけると思うけど」
「思うけど?」
「木村が向かっとる方向には高速があんねん。高速に乗られたらいくら自分らでも厳しいやろ?」
「少なくとも自分は無理ッス」
「木村の動きを誘導できませんか? 例えば車をハッキングしてしまうとか」
「無茶言うで、自分。向こうがオートクルーズで走らしとるんやったら何とかなったかもしれへんけど、本人が運転しとるんは今すぐっちゅうんは無理や」
「時間があればいけるんスか……」

 無茶苦茶ッスね、とエレナの唖然とした声が聞こえるがその無茶を実現しなければ逃げられてしまう。そうなればヒサトの目的は達せられない。だが木村がこの街に戻って事件を起こさないのであれば教会側としてはそれでもいいのかもしれない、とも思う。シイナを傷つけかけた木村を逃がすのは業腹だが、少なくともシイナを危険から遠ざける事は達成できている。

「しゃあない。上手くいくかどうか分からんけど、信号をいじってみるで。木村が信号を守るとも思えへんけど、少しは足止めできるかもしれへん」
「お願いします」

 任しとき、との声を残してミサキとのTelOnが途切れる。ともかく今は木村を追いかけるだけ、とばかりにヒサトはまた一つ家の屋根を蹴って宙を舞う。

「追いつけるッスかね?」
「ミサキさんを信じるしかないです」

 そう言いながら僅かに速度を落とし、ヒサトはエレナと横並びになる。そして前を向いたままエレナに尋ねる。

「こんな事をエレナさんに聞くのも何ですが……」
「何ッスか?」
「どこまで結果を残せば僕は合格だと思いますか?」

 愚かな問いだ、と尋ねてすぐにヒサトは自らに落胆した。そんなものエレナが知るはずも無く、尋ねたところでどうにもならない。心象を悪くするだけだ。クルツは期限を設けないとヒサトに告げたが、こうやって自らの価値を示す機会が後どれだけ存在するか。しかもそれまでシイナに会える機会は先延ばし。それに耐えられるのか。

「いや、もう十分に合格レベルには達してると思うッスよ? というか、実際に木村の事を伝えた時にはクルツさんも合格の太鼓判を押してたッスからね?」

 だがヒサトの悩みを嘲笑うかの様な答えが返ってきた。

「え? そ、そうなんですか?」
「本当ッスよ? けど何だかんだでウチも実力社会ッスからね。後々の事を考えるなら合格点以上は取っとくに越したことは無いと思うッス」
「じゃあやっぱり木村を逃がさない方が良い……ですよね?」
「魔術の秘匿とか考えるとそうッスね。他所で使われると面倒ですし、ウチにもトバッチリ来るんで出来ればウチのシマでケリは付けたいとこッス。木村っちがこっちの指示に従わない場合は殺してしまっても構わないとも言われてるんで、最悪ウチらが後日処分するッスけどね。でもヒサトんも実力キチンと示した方が後でちょっかい出された時にクルツさんも庇ってくれると思うんでここで始末つけた方が得策ッスよ」

 処分、という言葉にヒサトはまだ慣れない。耳にする度に胸が詰まる様な感じがするがこういう世界に脚を踏み入れてしまったのだと言い聞かせる。自分がこの先生きていくには仕方ない事なのだとヒサトは自分を納得させた。
 その時、突如轟音がヒサトたちの行先から轟いた。それと同時にミサキの弾んだ声がスピーカーから溢れ出す。

「やりおったでアイツ! 信号無視って事故りおった!」
「こっちでも確認しました!」

 空を翔けるヒサトの眼下にトラックの側面に衝突して停止した白い車が見える。そこから変形したドアを押し開けて木村が降りてくる。頭を打ち付けたか額から血を流し、トラックの運転手の制止を振り切って走って逃走する。この状況にも関わらず木村の手には鞄が抱えられている。

「あの鞄に何が入ってるんスかね?」
「よっぽど大事な物が入ってるんでしょう!」

 瞬く間に木村との距離を二人は詰める。頭を抑え、シャツを赤く汚し、覚束ない足取りのまま木村は逃げる。だが目の前は袋小路。逃げ場を失った木村は観念し、ヒサトとエレナに向き直った。

「クソがッ……」

 割れた眼鏡越しに木村は眼を見開いて音を絞り出す。頭からは血が流れ続け、抑える手は真っ赤に染まる。
木村は鞄からノートを取り出す。血に濡れた手でページをめくり、たどたどしい口調で呪文を唱え始める。

「lux……」
「させないッスよ」

 木村の手元から光が輝き始めた瞬間、木村に聞こえない様に予め呪文を唱えていたエレナが木村の呪文を相殺する。
 大きく舌打ちし、ふらつく脚を無理やりに動かしてその場を移動して再度呪文を口にする。
「Protulero flamme……」
「無駄ッスよ」

 炎が木村の足元に灯り、ヒサトとエレナに向かって地面を高速で這って行く。が、それもエレナによって障壁が展開され、何も起こらなかった様にかき消される。

「Protulero……」

 しかし木村は諦めない。円を描くように動きながら再度炎を発生させる。今度は先程より遥かに大きく、エレナたちを優に飲み込む程度に巨大。それでもエレナは涼しい顔でその炎をかき消してしまう。

「凄い……」
「こんなモン屁でも無いッスよ」

 ヒサトは称賛をエレナに向かって口にするが、エレナは涼しい顔をして、どこかつまらなさそうに木村の方を見るだけだ。
 尚も木村は同じ事を繰り返す。経験の浅い木村は他の魔術を知らないのか、先ほどから炎を生み出すだけだ。その度に炎は巨大になり、夜空を照らしていくが結末は全て同じ。
エレナの表情は変わらない。木村は「クソが……」と呟きながら呪文を唱える。その足取りは更に覚束なくなり、自身の炎で照らされる木村の顔色はひどく青ざめていく。

「エレナさん」

 ヒサトの呼び声にもエレナは応えない。木村は呪文を唱えるのを辞めない。
おかしい。効果が無いにも関わらず行動を変えない木村にヒサトは違和感を覚えた。思考を放棄したような行動。それはH.U.S.H.にハッキングを仕掛けられる程に優秀な木村の行動とは思えない。追い詰められて、もしくは傷を負ったせいで頭が回っていないのか、それとも何か狙いがあるのか。

「エレナさん、何かおかし……」

 感じた違和感をエレナに伝えようとした時、木村が動きをようやく止めた。
木村は見るからに満身創痍。だがそれ以上に様子が異常。汗をびっしりとかき、口はだらしなく半開き。血走った眼はひどく虚ろ。眼がヒサトたちを捉えているが、見えているかそれさえ怪しい。

「あー、やっと切れたッスね」
「何がですか?」
「魔力ッスよ。生命力って言い換えてもいいかもしれないッス。魔術はこの世の摂理をねじ曲げる術。魔力を代償にして世界に新たな法則を作り出して術を行使するんで、当然使い過ぎればああいう風に体はボロボロになるッス。効率を高めるためにウチらは変換式の開発に苦心するんスけど、簡単な術とは言え初心者でこれだけ魔術を使えるって事はやっぱり相当木村っちは優秀ッスね」

 言葉では感心した風だが口調は淡々で無感動。ため息混じりの息を吐き出し、木村を捕えようとエレナは近寄っていく。

「……クソだ」

 故郷も荒く木村は呪詛を吐く。

「世界はクソだ。無価値だ。いつだって俺を認めない。脚を引っ張るだけ引っ張りやがって何も俺に与えやしない」

 激しく咳き込み、地面に吐瀉する。それでも言葉は止まらない。

「……俺から何もかもを奪いやがる世界、に価値は無いくせにつまらねぇままに在り続けて何が世の中オモしれえのかワカンネエよクソがいつ、だってお、れの努力を無価値にしやがりホロびてしまえばいいのにいなくなれよミンナいなくナッチまえばオレは……」

 言葉の並びは滅裂で意味を汲み取るのも困難に。だが木村の言葉とともに地面に光が点っていく。

「な、何が……?」
「こいつは……」
「クソがクソがクソが、クソが、クソがクソがクソがクソがクソがクソがクソがクソがクソが……」

 単調な言葉のリピート。木村が発した魔術の残滓を光が辿り、やがてそれは一つの意味を為す。

「マズイっすよ、これは……」

 ヒサトは咄嗟に木村に飛びかかる。エレナの口調から本格的にマズイことが起こるのだと悟り、木村の口を塞ごうと数メートルを一瞬で詰めた。
 だが遅かった。

「……mundi Claudatur cum infernus世界は業火で終末を迎える!!」
 光り輝く六芒星。シンプルにしてその実複雑に描かれた魔法陣が眩いばかりに鮮やかな閃光を天に向かって解き放つ。

「くぅっ!!」

 光と共に吹き荒れる熱風。腕を交差して風を防ぐヒサトとエレナの髪をチリチリと焼いていく。風の圧力に耐え切れずジリジリと後退するエレナ。近くでガラスが割れ落ち、打ち捨てられていたゴミが路地の向こうへ消えていった。
 やがて風は収まり、一瞬の静寂。不気味に静まり返った辺りに際立つ圧倒的存在感。

「……こいつは……とんでもなくやばいッスよ」

 そこに立つ何かを見上げたエレナの声が震える。
感じる、そこにある、何か。自らとは明らかに違う別格の存在に未だ顔を上げていないヒサトもまた全身が震えた。恐る恐る顔を覆っていた腕を退け、見開いた眼でヒサトはそれを目撃する。
そして戦慄した。
 見上げる程に巨大な体躯。遥か古代の恐竜を思わせる重厚な肉体と凶暴な爪。口元には鋭い牙が除き、頭上には生物の頂点を象徴するかの如く王冠にも似た鶏冠。その名も――

「まさか初心者が召喚するなんて有り得ないッスよ……バジリスク小さき王を……」

 呼ばれた自らの名に反応するかの様にバジリスクは低い唸り声を上げ、暴力的なまなこで矮小な人類を見下ろした。

「マズイっすマズイっすマズイっす……! こんなの想定外も想定外ッスよ!!」
「そんな事より逃げますよっ!!」

 バジリスクを見上げて喚くエレナの手を引っ張るヒサト。
直後、バジリスクが大きく雄叫びを上げた。街全体に轟き響く怒声。牙で遮られた口内が顕になり、そして吐き出される業火。

「危ないっ!!」

 ヒサトはエレナを引き寄せ、抱き抱えて跳躍した。吐き出された火炎がアスファルトを焦がし、焦げた匂いが鼻を突く。熱がヒサトのジーンズを焼き焦がす。
ヒサトたちの傍を駆け抜けた炎は街を焼く。炎の延長線上にあった二階建ての家が一瞬で燃え上がり、その炎が隣家にも延焼して炎は巨大さを増していく。
 着地したヒサトはすぐさま再び跳躍。そしてまた火炎。ヒサトが逃げる度に街が燃え、家が焼け落ちていく。シイナと過ごした街が焼け落ちていく。

「なんなんすかなんなんすかもーっ! こんなん聞いてないッス! 契約違反で訴えてやるッス!!」
「喚いてないで何か対策の一つでも考えてくださいっ!」

 苛立ち混じりにエレナに向かって叫ぶ。街が燃えることは、それすなわちシイナとの記憶が燃え落ちる事と同義。そんな事は許されない。ヒサトは逃げながらバジリスクを睨みつけた。
そのバジリスクの眼に浮かぶのは嘲り、侮蔑。バジリスクに知能がどの程度あるのか分からないが、バジリスクは怪物らしく強烈な力を持ち、自らより遥かに無力な人間を見下している。壊すも殺すも自分次第。生殺与奪は我に有り。逃げ惑うヒサトを見てバジリスクは殺意の漏れる口元を歪め、嗤った。ヒサトにはそう見えた。
途端ヒサトの血肉が沸騰した。怒りに頭の中が焦げ上がりそうなまでに熱を持ち、気が狂いそうだ。
その怒りは街を焼かれた事か、それともヒサト自身の存在を如何様にも容易くできるという傲慢に対するものか。ただただひたすらにヒサトは狂いそうな怒りに身を焦がす。
着地と同時にエレナを降ろし、自らはバジリスクに立ち向かう。これ以上は我慢ができない。自身の内から湧き上がる魔力を腕に纏い、真紅に染まったバスタードソードを顕現させた。
辺りに吹き荒れる強烈な魔力とバジリスクの炎に優るとも劣らない圧倒的な熱量。僅かにヒサトを見下ろすバジリスクの眼の色が変わる。

「うおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

 雄叫びを上げ、ヒサトはバジリスクに斬り掛かった。脇構えから風を斬り裂き、矮小な人類らしく小回りの効く動きでバジリスクの死角に周り込み、脚を斬りつける。

「――ハアァッッ!!」

 斬り裂かれるバジリスクの表皮。ヒサトの剣が深くバジリスクを傷つけ、斬りつけられた箇所から真っ赤な血が噴き出す。バジリスクは悲鳴にも似た叫びを街に轟かせ、夜空を焦がさんばかりに天に向かってかすれた炎を吐き出す。
ヒサトは容赦なく剣を振るう。バジリスクの死角に常に居場所を構え、バジリスクの瞳が捉えるよりも速く斬りつけては離れと着実にダメージを蓄積させていく。
剣を振る。その度に傷口は焦げ、噴き出した血は一瞬にしてヒサトの体を真っ赤に染め上げる。自らの身体が汚れるのを気にも留めずヒサトは憤怒の表情で容赦なく呵責無く慈悲無くバジリスクの存在を傷つけていく。
だが――

(キリがないっ――!)

 ヒサトの苛立ちが募る。ヒサトが斬り付ければバジリスクの体に傷は付く。しかし数瞬だけ血が噴き出した後にはその身に宿る濃厚な魔力によって傷が塞がっていく。痛みに咆哮を上げているのでダメージは与えているのだが、蓄積はされていない。
顔を上げてバジリスクの巨体を仰ぎ見る。足元をチマチマと斬りつけても終わりは来ない。倒すことなど当分できそうにない。ならば狙うべきは頭か。

「ヒサトん、左っ!!」

 エレナの叫びが耳に届く。その声にハッとしてヒサトは弾かれた様に左に振り向いた。
だが異変をヒサトは認識できなかった。
とてつもない、衝撃。体全体がバラバラに砕け散ったかのような痛みに目の前が真暗になる。弾き飛ばされたヒサトの体は地面をボールの様にバウンドし、家屋の一角を破壊していった。
何が起きたのか。訳が分からないままに震える腕で体を支えて上半身を起こす。咳を一つ。真っ赤な血がおびただしく吐き出された。
ヒサトを弾き飛ばしたのは、バジリスクの尾だった。五メートルはあろうかという長さと樹齢数百年は経た巨木の様な太い尻尾。ヒサトが顔を上げて視界から外した瞬間に闇雲に振り回されたそれが圧倒的な破壊力を以てヒサトの体を吹き飛ばしていた。
ヒサトは歯を喰いしばり、剣を支えにして立ち上がる。全身を襲う痛みに視界は明滅。平衡感覚を失い、そよ風に吹かれただけでも崩れ落ちてしまいそう。
口に溜まった血をもう一度吐き出す。ペチャリ、と廃材となった柱を汚す。少しずつ傷は修復していっているが、ダメージはまだ色濃く残り、ヒサトの顔色もひどく真青のまま。そして何よりも今の一撃はヒサトの精神に強くダメージを与えていた。
濃厚な死の香り。痛みの記憶は脳裏に刻み込まれ、一瞬意識を刈り取られた事で自らの肉体の死を強く意識してしまった。
理不尽なまでの破壊力の差。これまで自分が羽虫を容易く叩き潰していたように、バジリスクの一撃は特別でもなくただそれだけで容易にヒサトを殺してしまいかねない。対して自分は弱点を探し、これらの攻撃を掻い潜って接近して攻撃を加えなくてはならない。それも一撃とは限らず、何度も何度も繰り返さなければならない。

(そんなこと……できるのか、僕に……?)

 生物としての格の差。伝説に残るかつての英雄たちは皆こんな気持ちを乗り越えていったというのだろうか。ヒサトは体が震えた。
 だが――

(負けるわけにはいかない……)

 燃え盛る火炎の中でヒサトは顔を上げる。ここで膝を折るわけにはいかない。諦めるわけにはいかない。元の生活に戻るチャンスを今自分は得ている。シイナから逃げ出してレジナレフに泣きついて喚いて、それでも諦めずにシイナの元に居ることを望んだのは自分だ。得たチャンスを半ば手の中に掴んでいるのだ。
そして――

『僕らは変わらないし居なくならない。これからも僕らの日常は変わらなく続いていくよ』

 存在を失う前にシイナに誓ったあの言葉。あれは嘘だったのか。シイナを安心させるためだけの、その場だけの出任せだったのか。

「……く、おおおおおおおぉぉぉぉぉっっ!!」

 叫び声を上げ、ヒサトは再びバジリスクに飛び掛かる。熱を持ち、陽炎を撒き散らしながら真紅の剣をバジリスクに向かって振り下ろす。
 繰り返される斬撃。体はまた赤く濡れ、一振りごとにヒサトは声なき叫びを上げる。
違う。断じて違う。絶対に違う。嘘じゃ、ない。シイナの傍に僕はずっと居る。
変わってしまった。自分は確かに変わってしまった。こんな力を持ち、こんな風に化け物と戦っている。こんなのはかつての自分では有り得なかった。
だからこそこの約束だけは違えてはいけない。シイナと居る日常は変えたくない。シイナの隣にヒサトが居て、ヒサトの隣にシイナが居る。その関係は絶対に変えてはいけないのだ。
その想いを胸に抱いてヒサトは剣を叩きつける。だが想いは届かず剣はバジリスクの硬い爪と交差し、甲高い音を立ててそれ以上の侵攻を止めてしまった。
バジリスクが振り払った短い腕がヒサトを弾き飛ばす。鋭い爪がヒサトの体を引き裂き、着ていたシャツをボロの様にズタズタに破り去っていく。
血を撒き散らし、地面を無様に転がるヒサト。引き裂かれる痛みにヒサトは悲鳴も上げられない。

「う…あ……」

 頭、腕、体。全身から真っ赤な血を滴らせて、それでもなおヒサトは立ち上がる。半ば折れた心を奮い立たせ、零れ落ちる涙を拭い、目元に紅いラインが走る。
まだ、剣は折れていない。
支えとなっている真赤な剣を見ながら自らに言い聞かせる。そしてまた走り始める。
愚直に、ただひたすらに愚直に。目に見えるただ唯一の敵を目掛けてヒサトは剣を振り被る。走る速度に最初のものは無い。ただの人間と動きはすでに変わらない。人と同じだ。街に暮らす人と同じただの人間がそこに居た。
最早バジリスクの死角に逃げる力も無い。それでもまだ剣を振る力は残っている。膝を折らない覚悟はできている。逃げ出さない意思はまだヒサトの中に強く根を張っている。
強大な敵の眼の前に立ちはだかりヒサトは剣を振り下ろす。バジリスクの爪に弾かれ、街に音が響く。
返す刀でもう一度振る。叩き潰そうとしたバジリスクの指を斬り飛ばす。
視界は暗い。苦痛と疲労でまぶたは落ちかけ、意識は朦朧。
ハッキリと目の前が見えないままに三の太刀をヒサトは振り被った。
そこで急激に明るくなる視界。光の元が何かはヒサトには分からない。

「ヒサトっ!!」

 聞こえるエレナの声。初めて自分の名前を呼んでくれたな、なんて事をヒサトは思った。
そしてヒサトは火炎に包まれた。




◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




 シイナは布団の中で突如眼を覚ました。掛け布団をどけ、上半身を起こして窓を見遣る。
それまで確かに熟睡していたはずなのに、今はハッキリと寝起きとは思えないほど眼が覚めてしまっている。元来寝付きが良く、また毎日剣道で体を動かして程よく疲れているため夜中に眼が覚めることは稀だ。トイレでも無いのにこうして起きてしまったのは何年ぶりか。妙に頭が冴えてしまっている。なのに胸の辺りがモヤモヤとして落ち着かない。胸焼けとも違う感覚で、体調不良ではないなと思いながらシイナはベッドから降りた。

「これが俗に言う胸騒ぎと言うやつなのかな?」

 独りごちながら窓際まで歩く。遮光性の高いカーテンとはいえ隙間からはまだ光は漏れていないことから時刻は深夜。日の出は遠いと予想する。
シャ、とカーテンレールを滑る音を立てて窓の外が顕になる。予想した通りまだまだ外は真暗。見えるのは向かいの家と眠らない街である繁華街方面の明かりが照らす夜空。街頭の淡い光が暗闇に慣れた瞳を少しだけ焼いた。

「ん? なんだろ、アレ?」

 ボンヤリと何気なく夜の街を眺めたシイナは声を漏らした。遠く、街の外れの方が赤く明るく輝いている。燃える様な赤。不吉さを予感させる夜空に似つかわしくなく、それでいてキレイとも思えてしまう色。

「胸騒ぎの原因はアレだったのかな?」

 恐らくは火事。あの辺りはずっと開発が行われていない古い木造住宅が並ぶ地域で治安もあまり良好とは言えない。頻発、とはいかないまでも火事もそこまで珍しくは無い。夜空の明るさを見る限りかなり大規模な火災の様だが、その内収まるだろう。
原因が分かった気がしてシイナは少し安心する。
ベッドに戻り布団をかぶる。程よい温かさがシイナの体を包み、すぐにウトウトとし始める。
良い夢を見られるといいな。
何気なくそんな事を考えながら眼を閉じ、眠りに落ちかけていく最中の胡乱な思考の中でふとシイナは思った。
――またヒサトと会えるかな



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



燃える、燃える。全てが燃える。
辺りは地獄の様に一面業火に包まれている。エレナはその様を呆然と見ていた。
炎の中心には王であるバジリスク。吐き出した火炎の残滓を僅かに口から零している。そして咆哮。竜に似たフォルムを持つそれは、敵を屠ったという高揚感からか高らかに雄叫びを上げて獰猛な牙を天に捧げる。

「ヒサト……?」

 ここ数日を共に過ごしたパートナーの名をエレナは呼んだ。だが返事は戻ってこない。当たり前だ。彼はバジリスクの吐き出した炎の中に消えていったのだから。
強敵を葬り去ったバジリスクは次いでエレナに顔を向けた。巨大な体を地響きをさせてエレナに向き直り、牙をむき出しにして嗤う。
その強烈なプレッシャーを受けてエレナは我に返る。眉間に皺を寄せてバジリスクの動きを注視しながらズボンのポケットからしわくちゃの呪符を取り出して構える。だがこの呪符で小さき王と渾名される召喚獣をどうにかできるとも思えない。

「援軍はまだッスかっ……!」

 歯噛みしながら聖礼教義士団の到着を待ちわびる。すでに事態の深刻さは連絡している。街の被害状況も、バジリスクの存在も教義士団は知っているはずですでに動き出しているはず。それこそ一分一秒も惜しいという様子で急行しているはずだ。だが目の前の怪物と一対一で相対しているエレナにしてみればその一秒でさえ待てないのだ。
いつ噛み殺されるか、いつ焼き殺されるか、いつ裂き殺されるか。人語を解さない竜は、今は気まぐれなのかそれとも警戒しているのかエレナを観察しているだけだが、その気になればエレナなど容易く殺されるだろう。いや、こうして向き合っているだけでも精神が著しくすり減っている状況だ。バジリスクが動かなくても消耗して死んでしまうだろう、とエレナは確信に近い思いを抱いた。
熱い。囲まれている炎からの熱気により額から汗が滴り落ちる。それもあっという間に蒸発していく。

「congelatio spiritus benedicat……」
「ギュルェアアアアァァッ!!」

 まずは炎から身を守ること。その為にエレナは氷系の魔術を詠唱しようとした。
しかしバジリスクはそれを察知してか大きく叫び声を上げる。
ビリビリと痺れる空気と全身。ただの一声で符に集まっていた魔力は霧散し、発しかけていた光はかき消される。声を真正面からぶつけられただけでエレナの体は硬直し、歯がカチカチと無様に音を立てた。

(ヒサトんはこんなのと向き合ってたんスか……!!)

 化け物。脚が、腕が、内臓が、脳が、全身が戦慄を覚えて動かなくなる。殺される想像だけが思考を支配し、膝を折りたい衝動に駆られる。
そんなエレナの状態をバジリスクは正しく把握し、眼を一度微かに細め、見開いて巨体を踊らせた。

(あ――死んだッス……)

 迫り来るバジリスクを、エレナは恐怖に支配されたままどこか他人事の様に眺めるだけだった。
噛み殺すことに決めたのか、バジリスクは口を開けてエレナの頭目掛けて牙を突き刺そうとする。だが、エレナまで後数十センチというところで突如としてその動きを止めた。

「え?」

 バジリスクは齧り付こうとしたエレナから頭を上げ、後ろを振り返った。エレナも覚悟を決めて閉じていたまぶたを開き、バジリスクの脚越しにバジリスクの視線の先を見遣る。だがそこには燃え上がる炎が揺らめくだけで何も無い。
しかしバジリスクはエレナに尻尾を向けて完全に姿勢を変えた。まるでエレナの事など最早眼中に無いとばかりに。
エレナは突然のバジリスクの行動が理解できない。助かった、と安堵の気持ちはあるがそれ以上に気味が悪い。だがこれはチャンスでもある。バジリスクの注意を引かない様に、震える脚でそっと立ち位置を変える。
だがそのエレナの脚も止まる。

「な、なんスか、この感じは……」

 急速に辺りに満ち始める濃密な魔力。空気の質が変化し、エレナの全身を強く刺激する。
粘っこく空気が体にまとわり付く。そんなはずは無いのに動きづらささえ感じる。付近は炎しか無く汗が止めどなく溢れ出るほどだったにも関わらず今はひどく、寒い。
そして聞こえる、足音。
靴とアスファルトの擦過音と共に炎の中に現れるシルエット。ゆっくりとした一定のリズムで刻まれるそれはエレナたちが向ける視線の方から近づいて来ていた。

「マジッスか……」

 炎の中でヒサトは立っていた。バジリスクの火炎で燃え尽きたのか上半身には何もまとっておらず、しかしあれほど傷つけられていた傷跡はどこにも残っておらず悠然とそこに居た。
魔力の風が吹き荒び、やや長めの髪が揺れる。バジリスクとヒサトを遮っていた炎のカーテンが取り払われる。そこでエレナの眼にもハッキリとヒサトの姿が見えた。
揺れる前髪。その奥から金色に輝く瞳が鋭くバジリスクを射抜く。
立ち止まっていた脚をまた前へ進める。スニーカーが炎を踏みしめ、だが靴は燃えること無く逆にそこには何も無かったかの様にただアスファルトだけが残る。
一歩ずつバジリスクに近づく。手には真紅の剣。だがその色はこれまでよりも更に濃く深く変化している。

「グルルァァァァッ!!」

 バジリスクが吠え、再び業火をヒサトに浴びせる。ヒサトよりも遥かに巨大な炎の塊が向かっていき、しかしヒサトは避ける素振りも見せない。声を上げる事も忘れてエレナは息を飲み、そして次の瞬間には呼吸を忘れる程の衝撃を受けた。
 全てを焼き尽くす灼熱の嵐。ヒサトはそれを全身で受け止め、刹那の後には全てが消え去っていた。瞳の輝きは増し、手の中の剣はより濃く紅くなっていく。

「あの炎を、吸収した……?」

自分が吐いた炎が消え去ったのが理解できないのか、バジリスクは尚もヒサトに向かって燃え盛る火炎を吹き付ける。だが何度繰り返してもヒサトには傷一つ負わせられず、ヒサトは涼しい顔で近づいていく。
バジリスクは業を煮やしたか、短い前足の鋭い爪をヒサトに振り下ろす。それはヒサトを先だって弾き飛ばした攻撃。ヒサトを突き刺し、斬り裂かんと迫る。
だが爪はヒサトには届かない。ヒサトは無表情のまま左手一本でバジリスクの侵攻を止め、金色の瞳でバジリスクを見上げた。
ヒサトが掴んだバジリスクの爪から煙が上がる。手が触れている箇所を中心に白煙が上がり、バジリスクが悲鳴を上げる。耳障りな声を上げ、ヒサトから逃れようともがく。その声が不快だったか、ヒサトは無言で眉根を寄せ、そのまま手にしていた剣を振り下ろした。
バジリスクがヒサトから離れる。だがその体に右前脚は無く、血をまき散らしてバジリスクは後ろへ退いた。
ヒサトは手の中に残った前足を興味無さ気に一瞥し、後ろへ放り捨て、魔力で構成されたそれは地面に落ちる前に霧散した。
呻きにも聞こえるバジリスクの唸り声。どこか怯えた風にも見える王の姿を見下し、ヒサトは剣を天に掲げた。
世界が変わった。エレナは瞬間的にそう思った。
掲げた剣を軸心として巨大な炎が天に昇る。炎の色は橙色から白く、そして青く変わっていく。周囲に迸る熱量が陽炎をもたらし世界を歪める。魔力の奔流が世界を、変える。
掲げた剣をヒサトは迷うこと無く振り下ろした。刹那、エレナの視界は真白に染まった。暴風が辺りに散らばる粉塵を巻き上げ、エレナは咄嗟に両腕で顔を覆った。その最中にも膨大にして濃厚な魔力がエレナの体を襲い、蝕む。その侵食にエレナが危機感を覚えた時、荒れ狂っていた空気は穏やかに収まり、元の静寂を取り戻した。
エレナは腕をどけてそっと瞼を開いた。辺りを覆っていた炎の壁は全て消え去り、燃え盛っていた家屋も全て鎮火していた。焼け焦げた跡と鼻を突く匂いだけが残っているが、世界は平静を取り戻していた。
その中心に立っているのはヒサト。バジリスクの姿はどこにも無く、その存在感も濃密な魔力の残滓さえも残っていない。

「ヒサトんっ!!」

 ヒサトの体が力を失って崩れ落ちる。慌ててエレナが駆け寄って抱きとめ、魔術を行使してヒサトの体の異常をチェックしようと詠唱しかけるが、ヒサトの顔を見てそれを止めた。

「すぅ……すぅ……」

 穏やかな寝息を立て、心配したエレナが呆れる程に穏やかな表情を浮かべていた。それを見て安心したエレナは「はは……」と気の抜けた笑い声を上げてその場に座り込んだ。
太腿の上にヒサトの頭を乗せ、エレナは大きく息を吐き出すと力を抜いてうなだれる様に自分の頭を下げる。

「まったく……とんでもない新入りッスねぇ……」ヒサトの寝顔を眺め、手慰みにヒサトの前髪を弄りながらエレナは零す。「これは一緒に仕事するのに骨が折れるッスよ、クルツさん」
 ヒサトの髪を撫でながらエレナは、傍らに転がる物を見遣る。
真黒に焦げ果てたそのヒトガタの手の中には大事そうに抱えられたノート。遺体はボロボロで、だがノートだけは汚れは付いているものの、焼けた跡や熱による変形などは見られない。エレナはそのノートを、遺体が崩れるのも構わず手に取ってパン、と叩いて埃を払う。

「木村っちと言いヒサトんと言い、今回の仕事は想定外が多すぎッスよ。ノートには確かに召喚術についても書いて渡した・・・・・・ッスけど、まさか木村っちがバジリスクなんて化け物を召喚するとは思わなかったッス」

 愚痴る様にエレナは漏らし、ノートをシャツの内側にしまう。

「クルツさんには給料を上げてもらうッス。そしてしばらく休暇をもらって南の島で教会のお金でバカンスしてやるッスよ、絶対」

 少しずつ近づいてくる、ようやくやってきた味方増援の気配を感じながらエレナは強くそう誓った。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 その部屋に窓は無い。会議室と考えられるそこは煌々とした灯りが点いているにも関わらず暗く感じられるのは、部屋に立ち込める重苦しい雰囲気のせいだろうか。
部屋の中心を囲むように配置された長机。四方を囲む形で男たちは椅子に座っている。その傍には幾人かの立ったまま書類を手にした男。皆壮年から老年に差し掛かろうという頃合で、皆一様に白髪が多くなったり禿頭に近いを抱え頭を悩ませていた。

「……何か他に分かったことは?」
「いえ、これ以上は何も。事件自体もプッツリと途絶え、映像解析や操られたロボットたちのL.I.N.C.Sチップも解析してみましたが、事件に繋がるようなものは何も出て来ませんでした」

 立っていた男がそう告げると椅子に座っていた禿頭の男が握りこぶしを机に叩きつけ、怒鳴り声を上げる。

「『何も分かりません』では話にならんのだっ!! 今となっては世界はL.I.N.C.Sとロボット産業無しでは成り立たんのだ! いつ暴走するかも分からんロボットが街中に溢れている現状が続けば国も公安我々もトップの首が飛び、今度は不安から国民が暴走しかねんぞっ!」
「おや、随分と行き詰まってしまっておられるみたいですね」

 場にそぐわない若い声が会議室に響いた。怒鳴り散らす老人を嘲る色を濃く含んでいて、誰もが鼻白んで声の方に視線を向けた。
 会議室のドアを背にして立っていたのは声から推し量った通り若い男だった。全身を白いカソックに包み、椅子に座ったままの彼らを見下ろしていた。

「誰だね、君は?」

 場の中で比較的落ち着きを保っていた最年長と思われる一人が声を発する。その質問でようやく全員が状況を理解した。この宗教家然とした男を誰一人として知らないということに。
ドアが開いた様子は無かった。会議が始まって以来扉は固く閉ざされていて、外界とは切り離されている。そして会議が始まった時にはこの男はいなかった。いつからこの場に居たのか、どうやってこの部屋に入ってきたのか。 部屋に緊張が満ち、壁際に控えていた男たちがこの不審者を取り押さえようと動き始めたが、質問を発した男が手を上げてそれを制した。

「これはこれは。この国の警察機構トップの方々を前にして緊張してしまったようです。失礼を致しましたね」恭しく男は腰を折って頭を下げた。「名乗る程に大した者でもありませんが少々時間を頂きましょうか。こうしてお偉方が雁首揃えて熱心に議論を交わしている貴重なお時間をとるのは非常に心苦しいのですが」
「能書きは良い。早々に質問に答えてくれないかね?」
「これは重ね重ね失礼。ヨハネス会派極東支局日本支部にて司教の任を賜っているレオンハルト・クルツと申します。以後お見知り置きを」

 所属を名乗った途端に部屋のどこからか「宗教屋か……」とつぶやきが漏れ聞こえてきたがクルツは気にした風も無く笑みを貼り付けて顔を上げた。

「どうもウチの連中と君とはあまり相性は良くなさそうだ。大したおもてなしも出来そうにない事だし、紹介してもらって早々だが用件を教えてくれないだろうか?」
「つれないことですね。非常に残念ですが仕方ありません。ま、これからも長い付き合いになるとは思ってますけどね」
「どういう事だ?」

 発せられた疑問の声にクルツは応えず、一冊のノートを並べられた机の上に放り投げる。その無礼な態度に幾人かは額に青筋を浮かべたが、クルツは涼しい顔のままだ。

「何だね、これは?」
「今貴方がたが頭を悩ませている問題の答えですよ」

 そう告げてクルツは鋭く口元を歪めた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「おっはよー、アケミ」
「おはよう、カナメ」
「ういっす、コウタ。昨日の代表の試合、見た?」
「見た見た! あのラストパス凄くね? 凄くね?」

 朝の教室は賑やか。元気に挨拶交わす生徒に友人と楽しく談笑する生徒。かと思えば眠そうにまぶたを擦ったり、やる気の無い態度で教室に入ってくる生徒。その種類は様々だ。
その中でシイナは後者に分類される。特別やる気が無いわけでは無いが、眠いものは眠い。特に朝は苦手だ。窓際の後方席で机に頬杖を突き、大きくアクビをした。

「シイナ、おはよーっ! どうしたの、朝だっていうのに元気ないね!?」
「ん、ああ、ヨウコか。朝からキミは元気だね。まったく、ボクも朝からそのくらい元気良く生きてみたいものではあるのだけど、朝はどうにも苦手なんだ。ホント、どうして学校が朝からあるんだろうね? 昼からだったらもっとボクも元気に一日を始められるのにさ」
「あっははー! その場合は今の昼が朝に変わるだけだよっ」

 朝から快活に笑う友人にいささか疲れを感じながらシイナはため息を吐いた。
何かを忘れてしまった様な感覚。それを毎日感じ始めてどれくらいだろうか。その感覚さえも忘れされたらいいのに、頑固にも毎日ふとした瞬間にそれを覚えてしまう。特に朝はダメだ。朝はずっとその感覚が抜けず、ついイライラしてしまう。だからといってこの友人に当たるほど未熟なつもりも無かったが。

「……大丈夫? 何かシイナ、ここのところずっとイライラしてるみたいだけど……」

 だがこの友人には見ぬかれてしまっていたらしい。驚きにわずかに眼を見張ったシイナだったが、バツが悪そうに頭を掻くと何とか笑顔で取り繕って見せた。

「大丈夫だよ。ここ最近気になることが多くてさ」
「そう? でも何か相談に乗れる時は、言ってくれたら話くらいは聞くからね?」
「うん、ありがとう。持つべきものはやはり親友だね」
「んーっ! そう言われるとコッチも嬉しくなっちゃう! シイナ大好きっ!」
「暑苦しいからそういうのはノーサンキューで」

 抱きつこうとする友人を制止し、シイナは窓の外を眺めた。こうしてぼんやりしていると思い浮かぶのはあの日、一日だけ出会った少年の姿だ。街中で起こったロボット暴走事件で自分を助けてくれた同じくらいの年齢の彼。あの日遭った事件は衝撃的ではあったが、それ以上にロボットたちを倒していく姿は印象的だった。
そして彼の姿を思い出すと日々の忘れていた感覚をしばしの間忘れられる。何とも言えない安心感を感じさせてくれる。家族と一緒にいるような、そんな感覚。長年連れ添った兄弟、いや、夫婦か。

「なんてね……そんな訳ないか」
「ん? 何か言った?」
「いや、単なる独り言だよ」
「そう? あっ、そうそう! そういえば今日はビッグニュースがあるのっ! なんと! 転校生が来るらしいよ!」
「高二のこの時期に? 珍しいこともあるもんだね」
「だよねっ? どんな人なんだろ? 男子らしいけど、カッコイイ人かな?」
「さあね? もうやってくるだろうからすぐに分かるさ」

 シイナの言葉通りチャイムが鳴り響き、それを待っていたかの様に担任の女性教師が入ってくる。

「よっろこべー、みんなぁ! 今日はなんとナント何とっ! 我がクラスに転校生がやってきたぁ! し・か・も! 女子大歓喜! イケメン男子!」

 コッチも朝から元気だなぁ、と女子が黄色い歓声を上げ男子が落胆と呪詛の混じった悲喜交交溢れる教室内を眺めながらシイナはアクビをした。
とはいえクラスメートが増えるのは良い事で、短い期間だが共に時間を過ごす仲間だ。シイナとしても全く興味が無いわけでは無く、どんな人が来るのだろう、と居住まいを正し、入ってくるだろう転校生を待ちわびる。そして教室と転校生を隔てていたスライド式のドアが横にスライドしてその姿が露わになった。

「――なんてことだい」

 俄に騒がしくなる教室の中でシイナは一人頭を抑えて天井を仰いだ。
  まったく、なんてことだ。
 声に出さずそう口の中だけでつぶやいて、シイナは黒板に名前を書いている転校生を見つめた。
転校生が黒板に背を向け振り返る。彼にとっては懐かしさも覚える面々だ。誰ひとり覚えていないだろうが、ただ一人、今の彼を知っている生徒の方を見て、彼は自分の名前を発した。

「上永ヒサトです。今日からお世話になります」

 シイナに向かって微笑み、深々とお辞儀をする。そんな彼の姿を見てシイナは無意識の内に小さく言葉を発していた。

――おかえりなさい




前へ戻る

目次

次へ進む








カテゴリ別オンライン小説ランキング

面白ければクリックお願いします







SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送