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第一話 街と酔っ払いとかしまし娘
第ニ話 ロスト・チャイルド
第三話 存在
第四話 デーモン&デーモン
第五話 妄想空想夢の跡
第六話 ほっぷ・すてっぷ・ほっぷ
第七話 とぅー・びー・うぃず・ゆー
第八話 スタートライン
第九話 いちについて
第十話 よーい・どん









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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved







−8 スタートライン−




「シイナ……」

 半ば無意識にヒサトの口からその名がこぼれ落ちた。ヒサトの瞳はシイナを捉えて離さない。普段良く見る制服姿では無く、女子高生らしいお洒落した装い。白いブラウスに黒いカジュアルネクタイを締め、薄手のジャケットを羽織っている。下は黒いホットパンツと白黒ボーダー柄のニーソックスでパンツとソックスの間からシイナの白い肌が覗いていた。
彼女が好む白と黒を基調にした私服姿はヒサトにとって新鮮で、つい見とれてしまった。そういえば最近は休日に一緒に出かけることも少なくなり、こんな風に私服姿を見る機会も無かった、と今更に気づく。それと同時に、彼女がこんなにも――可愛くなっているとようやく気づいた。
ヒサトとシイナは二人で一人。常日頃から共に過ごしていれば互いの容姿になど注意は払わなくなる。日々の変化はとても緩やかで、その微々たる変化も一日の内に見慣れていく。数日の変化でもそれはまた然り。
それなのに今のヒサトにはまるで別人の様にシイナが見えていた。何故今の今まで気づかなかったのか、それが不思議なくらいに彼女の姿が愛おしかった。

「ん? どうしてボクの名前を知ってるのかな? ボクの記憶力は残念ながら残念なほどでしかないと自覚はしてるんだけど、どっかで会ったことあったのかな?」

 ズレた帽子の位置を直しつつ首を傾げ、シイナはヒサトの顔を覗き込もうとする。彼女の顔が近づき、囚われそうになる。しかし彼女の言葉にヒサトは自らの失策に遅まきながら気づく。
今のシイナはヒサトを知らない。より正確に言うならばヒサトに関する記憶を消された後、ヒサトとシイナはすでに出会っている。しかしそれは互いに望む形ではなく、シイナからしてみれば不審極まりない形で。

「おっと、よくよく見てみれば……もしかして君は昨日のストーカー君じゃないかい?」

――まずい。
 ヒサトは焦りに爪を噛んだ。昨日の出会い方を鑑みればシイナにとってヒサトは不審人物だ。なにせ見知らぬ誰かが突然声を掛けてきて、突然走り去っていったのだから。
シイナが自分の事を忘れている事は知っていたはずなのに、どうしてあんな事をしてしまったのか。戻れるなら昨日に戻ってやり直したい。もしくは走りだす前に殴り飛ばしてやりたかった。
タイムトラベラーでは無いヒサトには無論そんな事ができるはずもない。ヒサトは顔を逸らしながら自身の帽子を目深に被り直し、足早に立ち去ろうとした。

「……スイマセン、怪我もないみたいなので失礼します。ぶつかってスミマセンでした」

 もう一度だけ謝罪を口にし、踵を返してシイナに背を向ける。走り去ろうと第一歩目を踏み出し、しかしそれは適わない。
グッと後ろに袖を引っ張る力。それが誰がもたらしているかなど考えるまでもない。ややこしい話になる前にヒサトは振り解こうとし、だがそれができない。パーカーの袖を掴んだシイナの力はしっかりしたものだが、ヒサトからしてみれば大した事では無い。少し力を入れて腕を振ればすぐ、だ。それなのに、ヒサトは腕に力を込める事ができなかった。彼女の腕を解いてしまいたく無かった。

「あの! ……さ、その、ちょっと話したいんだけど、ダメ、かな?」

小首を可愛らしく傾げての誘惑に抗う術を、今のヒサトは持っていない。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




 ヒサトは緊張していた。
 国道沿いにある、午前中から営業している喫茶店に半ば強引に連れ込まれて十分。ヒサトは窓の外を見たまま一言も発していない。時折シイナの方を見て、向き合うシイナと眼があった途端に再び顔を背けるという行為を繰り返したのは何度か。すでに数えるのも馬鹿らしい。
一方でヒサトの返事も聞かずに喫茶店へとやってきたシイナだが、シイナもまた注文以外に一言も発していない。じっとヒサトの方を向き、瞬き以外にヒサトの姿を視界から外すこと無くただ座り続けるだけだ。ヒサトと違って緊張している様子は見て取れない。たまに難しそうな顔を浮かべるが、特に何かアクションを起こすわけでも無く、静かに無言の時間が流れるだけだ。

「オ待タセシマシタ」

 傍目には解りづらい温度差のある空間を、女性の声が遮る。車の通りが多くなってきた窓側から店内に顔を向けると、声質で予想した通り、喫茶店の制服に身を包んだウェイトレスが立っていた。

「ゴ注文ノカフェオレ、ト、ホットコーヒー、デス」

 金色の髪をツインテールにまとめた女性が注文の品をテーブルに並べていく。細い手足に日本人とは違う真白い肌。昔のフランス人形の様に整った顔を柔らかく綻ばせ、ヒサトとシイナ二人に向かって愛想を浮かべる。その可愛らしさにヒサトは一瞬眼を奪われるが、その感情もすぐに冷める。
彼女は人形だ。接客業などでしか認められていない、人間そっくりに作りこまれた給仕ロボットで、なるほど、ヒサトは初めて間近で見たが男が好みそうな容姿をしている。彼女が人間だったら、と残念に思う男は数多いだろうが、マンガやアニメであるように本気で惚れる男が現れないように、との配慮で作られた声はひどい合成音声だ。女性であることは分かるが、町中を歩く警らロボットよりも更に機械的で、言葉も途切れ途切れで聞き取りづらい。それでもこういったドールに恋心を本気で覚えてしまう人がいるらしい、とどこかで聞いた話を思い出し、そして興味を失ったヒサトはテーブルに視線を落とした。

「ソレデハ、ゴユックリ、オクツロギ、クダサイ」

 ペコリ、と擬音が付きそうなお辞儀をして給仕ロボットは去っていった。
 ヒサトは何を注文したか覚えていなかったが、どうやらコーヒーを頼んだらしい。何を思ってこんな苦い物を頼んだのか。ほとんど飲んだことの無い、見慣れない黒い液体をヒサトは忌々し気に睨みつける。対照的に甘そうなマーブル模様のカフェオレがシイナの正面に置かれ、積み重なった氷が「カラン」と涼しげな音を立てた。
罪のないコーヒーを親の敵の様に睨んでいても仕方ない。恐る恐る湯気の上がるコーヒーを口に含んだ。

「さて、こうして二人で恋人よろしく喫茶店で向き合っているわけだけど」
「ブフッ!?」

 そして噴き出した。

「こ、恋人!?」
「冗談だよ。たとえボクが男心を容易く弄ぶような悪女だったとしても、見ず知らずのストーカー君に恋焦がれる乙女へジョブチェンジするわけないじゃないか」

 両手でカフェオレグラスを持ったままいけしゃあしゃあとシイナは言い放つ。
「だよね……」とヒサトはガックシと肩を落とし、そしてそれきり会話が途切れた。
 気まずい空気が流れる。実際その気まずさを覚えているのはヒサトだけで、シイナはまた先程までと同じ様にヒサトを見るだけだ。その視線が何故だかヒサトを責めている様に思えて、ヒサトは会話の糸口を探すべく頭を必死に働かせる。
しかしヒサト自身が不思議に思える程に何も話題が浮かんでこない。ずっとシイナと一緒に過ごしてきてシイナのことはよく知っているはずだ。ともすれば、シイナがヒサトの事をヒサト以上に知っている様に、ヒサトもシイナの事を本人以上に知っている。にもかかわらず話題の一つさえ口から出てきそうに無かった。

「きょ、今日は剣道部の練習は無いんだね?」

 結局出てきたのはそんな当たり障りの無い質問だった。部活が休みなことはさっき学校で確認してきた。だから返ってくる答えは当然分かりきっている。

「今日は創立記念日だからね。ボクたち生徒も嬉しいけど先生たちもきっと両手を上げて大喜びしてるだろうね。何せド平日にボクらみたいな生意気なガキンチョの相手をしなくていいんだからさ。全く以て有り得ないだろうけど、少なくともボクが教師なんて職業を選んだらそう思うだろうね」
「そ、そうかな? 僕はそんな事ないと思うけど……学校は嫌いなの?」
「別に。嫌いじゃないよ。特に好きでもないけどね」

 真っ直ぐにヒサトを見るシイナのその言葉に、ヒサトは軽い衝撃を受けていた。シイナの剣道の腕は、レジ姉にずっと習っていただけあってとても優秀だ。剣道部でも図抜けていて、チームが地区大会で勝てるか勝てないか、というレベルにあって一年の時から全国大会で上位に入賞している。変なところもあるが性格もさっぱりしていて悪く無いから先輩や顧問の覚えも良いし、明るいからか友達も多い。勉強だって、剣道ほど図抜けていないにしろ学年で上から数えた方が早いくらいだ。
そしてヒサトはそんなシイナを密かに誇りに思っていた。共に育った彼女が輝いているのを見るのは、幾ばくかの劣等感とそれ以上の満足感をヒサトにもたらしていた。だから自分よりも楽しい毎日を送っているんだろうとヒサトは、根拠も何も無く漠然と思っていた。

「それよりもどうして君はボクの部活動の事を知ってるんだい? やっぱり君はアレか、ストーカー君だったのかな? いや、本当はさっきのはあてずっぽうというか適当に言っただけだったんだけどね。おかしいとは思ったんだけど、まあしょうがないかな? これでもボクは自分の容姿には自信があるからね。だから君を責めるなんて真似はしたりしないよ」 「いや、ストーカーじゃないよ。昨日の事といい、その、まあ、信じられないだろうけど」
「ふーん? それじゃボクの名前を知ってたり部活を知ってたりする君は何なのさ? ボクは申し訳ないけど君の事を知らないよ?」
「えっと、その……僕も同じ高校の生徒だから。それにシイ……小岩井さんは有名人だし!」
「そかな?」
「そうだよ。一年から剣道部で全国大会に行ってたし、何度も全校集会で表彰されてたから多分ウチの高校の生徒ならみんな知ってるよ。
 そ、それよりさ、学校が好きじゃないんだね。小岩井、さんは凄い人だし、てっきり毎日が楽しいんだと思ってた」
「それなりに楽しいことは楽しいけどさ、まあそれだけじゃないんだよ。もちろんボクだってちゃんと努力はしてるけど、努力が報われるかどうかなんて運の部分も強いし。ボクは運良く報われた方だけど、一度高い所に立っちゃうと今度は降りるのが怖くなるんだよ? みんなすっごい期待してくれるからさ。周りの期待なんて関係ない!って思えれば良いんだろうけど、中々そんな気持ちにはなれないし」

 そうため息混じりに言いながらシイナは自分の右腕の肩近くを左手で掴んだ。それを見てヒサトはハッとした。
それはシイナの癖だった。さっぱりとした性格で、時折剛気とも言える程に男らしさをシイナは発揮するが、それはある時期を境にして現れたものだ。何がきっかけで変わったのかはヒサトも知らないが、幼い頃はヒサトの後ろから出てこない様な、そんな奥手な子供だった。
常にピッタリとヒサトに寄り添い、他の子供たちとはあまり交わらない。いつもぬいぐるみを片手にうつむいてばかりいた。極度の人見知りで、ヒサトと両親以外がいると黙りこくってしまう、そんな子供だった。そして見知らぬ人がいたり、ヒサトが傍からいなくなると決まって右腕を左手で掴んでいた。その仕草は外敵から身を守るため。自分を傷つけるかもしれない相手から距離を置く為に、不安に駆られて無意識にやっていた昔からの癖だ。

「大丈夫だよ」
「え?」

 ヒサトは静かにそう言った。

「僕はシイナを傷つけたりしない。たとえ誰かに傷つけられそうになっても僕が守る。正直、周囲の期待には応えて欲しいけど、周りに流される事なんてする必要は無い。疲れたら休めばいいし、飽きたら他の事をすればいい。他人に縛られる事なんて無いし、そんなので小岩井シイナという存在が決まるわけじゃない。誰に失望されようとも僕は失望しない。周りが勝手に失望しても、それで存在の価値を決めさせなんてしない。そんな奴らはクソクラエだ。それこそシイナが気にしてやるほどの価値なんてないよ。だからシイナはシイナらしくあればいい」
 それはヒサトの魂心の願いだ。他者に勝手に奪われた上永ヒサトという存在。自分を自分ではない誰かに規定された者の静かな叫びだ。
シイナは誰が何と言おうと小岩井シイナだ。彼女に対する憧れはある。ヒサトの自慢だ。ヒサトの想いも一人よがりの勝手な願いだ。だけども彼女がこの願いを拒絶しても構わない。
この言葉は誓いだ。もし、彼女がその立場に疲れ、押し付けられた価値を投げ出してしまってもヒサトはシイナを見捨てない。シイナを見損なわない。シイナがシイナで在る限りヒサトはシイナの半身で在り続け、彼女がヒサトを必要としなくならない限り離れてやらない。だから、シイナが不安に思うことは、ない。
真剣な面持ちでシイナを見つめてくるヒサトの言葉をシイナは呆然と聞いていた。だが、不意に小さく噴き出した。その仕草にヒサトは口を少し尖らせて不満を顕にした。

「ああ、ゴメンよ。別に君の事をバカにしたわけじゃないんだ。急に熱っぽく語り出したから呆気に取られちゃってさ。それにまた突然名前でボクの事を呼び始めるし」
「え、あっ! そ、そのゴメン!」
「いや、良いんだ」

 苦笑しながら、シイナは初めてカフェオレに口をつけた。ストローを伝って水っぽくなった茶色い液が昇っていく。その味に少し眉をしかめ、クルクルとグラスの中をかき混ぜて氷が小さな音を立てる。一頻り混ぜ、再びストローで吸い込み、本来の甘い味わいにシイナは表情を綻ばせた。

「親しい人は基本的にボクを下の名前で呼ぶからね。それに、あまり名字で呼ばれるのは好きじゃないんだ。ボクでは無い誰か別の人を呼んでるみたいだからさ。それに、さっきの言葉を聞いて少し元気が出たよ。ボクはボクらしく、か……そうだね、そうだよね。周りを気にして生きるのは仕方の無い事かもしれないけど、ボクがボクであることを忘れちゃいけないよね!」

 自分に言い聞かせるみたいに繰り返しヒサトの言葉を口ずさむ。発している最中は集中していたから気づかなかったが、こうやって自分の話を目の前で繰り返されると恥ずかしい。しかも熱く語って。シイナの声を聞く度に顔に熱が集まっていくのをヒサトは自覚して、頭から水を被りたくなった。

「しかし、君は不思議な人だね」
「うん?」
「ココの所、何だかずっと落ち着かなくてイライラしてたんだ。何て言っていいか分かんないけど、何かが足りない気がしてさ。うーん、君なら分かってくれるかなぁ……何か、毎日やってたことが急に無くなってしまったような、大切な何かを、忘れちゃいけない何かを忘れてしまったようなそんな感覚。それが何なのか分からなくて、家に居ても落ち着かなくて、街に出れば何か分かるかと思ってさ」

 衝撃と、歓喜。ヒサトの心が躍る。
シイナはヒサトを忘れていなかった。名前も容姿も忘れてしまっているけど、二人で過ごした記憶はまだ残っていた。ヒサトが存在している証は確かに残っていた。他の誰もが忘れていても、彼女だけはヒサトを欠片でも覚えていてくれた。ついさっきの羞恥とは違う、別種の熱が鼻に集まり、ヒサトはシイナに気づかれない様に鼻を啜った。

「そ、それでこんな朝早くから街にいたんだ?」
「そうさ。でもそれは正解だったみたいだね。うん、やっぱり直感は信じてみるもんだ。偶然にもストーカー君と出会って、君と話してると完璧じゃないけど、少しだけ空いてた穴が埋まったみたいな感じ? だから君にさっきの言葉と、急なボクのお願いに付き合ってくれたお礼を言わせてくれないかな?」

 ありがとう。見慣れているはずなのに懐かしささえ覚えるシイナの笑顔に、ヒサトは堪えられない。ヒサトは窓の方に顔を向け、涙目を見られないようシイナから背けた。だがそれは無駄な努力だったのだろう。ヒサトからは見えないが、シイナが苦笑いを浮かべている様子が感じ取れ、ヒサトはいよいよ顔を背ける以外の選択肢をとれなくなった。

「おかわりはいるかい?」
「……お願いします」

 男の意地で泣き顔をバレない様にするヒサトに返せる言葉は、涙声のそれだけだった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



グズグズと鼻を鳴らしている間、ヒサトはずっと窓の外を眺めていた。昼に近づき、通りには人と車の影が目に見えて増えていっていた。滲んでいた視界は少しずつ落ち着きを取り戻し、鼻の通りも元に戻り始めるとともにヒサトの思考も正常を取り戻す。
――やっぱりどう見ても変なやつだよな……
 自身の行動を省みて力なく肩を落とす。会ったと思えば逃げ出し、向きあえば突然泣き出す。泣き顔は見せなかっただけでどう考えてもバレバレだ。気を遣ってかシイナは話しかけてきたりはしなかったが、それが逆にヒサトの恥ずかしさを増長させている。
とは言え自分が恋する相手だ。恥ずかしくても顔は見たくなる。気持ちが落ち着いてくれば余計に。
ふう、と大きく息を吐き出し、また「もうすぐ注文したコーヒーが届くだろう」と顔をシイナの方向に戻そうとした。
その時、一台の車がヒサトの眼に留まった。片側三車線の車道の、ヒサトたちがいる喫茶店とは反対側にその白い車は止まっていた。四人乗りのセダンタイプだ。無人らしく車内に誰もいなかったが、車越しに誰かが歩いてくる姿が見えた。黒縁の細いメガネを掛けており、黒い髪だが男性にしては結構長い。車と同じ白い長袖のシャツを来ていて、注意深く左右を見回して車が来ていない事を確認すると自身の車に乗り込んで去っていった。
一連の所作におかしな所は無い。にもかかわらず、ヒサトはその男性の事が気に掛かった。強化された視力から見えたその容姿から判断するに特に知り合いだというわけではない。だが見覚えはある気がした。

「どうかしたかい?」

 ヒサトが落ち着いたのを見計らっていたシイナが声を掛けた。ヒサトは目元の雫を指で擦って拭き取り、「何でも無い」と笑ってみせた。

「それにしては随分と注意して見てた様だったけど? また新しいストーカー先でも見つけたのかな?」
「それはもう勘弁してよ……」

 面白そうにからかうシイナにヒサトは幾分大仰に天を仰いだ。その様を見てシイナはまた楽しそうに笑う。

「大したことないよ。たまたま見かけた車に見たことある人が乗ってたから目についただけだよ」
「知り合いかい?」
「いや、たぶんそこまで知ってる人じゃない。見たことはあるんだけど、ちゃんと思い出せないし」

 ヒサトの回答に「そうかい」と短く相槌を打つと、シイナは少し顔をしかめグリグリと自分のこめかみの辺りを揉みほぐす。

「眼が疲れてるの?」
「いや、何だか急に偏頭痛がしてきて……うん、もう大丈夫だよ」

何度か瞬きをしてグラスに残っていたカフェオレを飲み干した。そして空になって氷だけになったそれをテーブルの端に置くと、最初に注文を持って来た女性型の給仕ロボットが現れた。手には追加注文の品を持っていて、優しい作り物の微笑みを浮かべてテーブルに並べると、飲み干したカップとグラスをトレーに乗せていく。
――だが、その動きがおかしい。

「ゴチュ、ウ、モンノ、シシシナヲオモ、チチ、イタシ、ママシタ」
「……何だかコッチの方も調子悪そうだね」

 ヒサトの言葉通り給仕ロボットはぎこちなく、それこそ機械音が聞こえてきそうな程に不自然な動きでコーヒーをテーブルに並べていた。音声以外は人間と間違うほどに自然だった動きはそこには無い。歯車が途中で引っかかっている様にグラスを運ぶ動作が何度も途中停止していた。

「ココココチチチララノ、グラグラグラススヲヲオサササゲゲ……」
「……コレは……いよいよヤバそうだね。見たところまだ新しい風に見えるんだけど、それはボクだけなのかな?」
「いや、コッチもそう見えるけど……」

 なんだろうか、この違和感。不気味とも言えるロボットの声。故障してるから違和感を覚えるのは当たり前だ、と言われればそうかもしれないが、それ以上に何か得体の知れない気味の悪さをヒサトはヒシヒシと感じる。
 それはなまじ魔術という新しい物を知ってしまったからかもしれない。これまでとは異なる技術体系を知り、それでいて魔術についてはまだ無知に等しく何ができて何ができないのか、その線引がヒサトにはできていない。

「すいませーん! 何かロボットが故障してるみたいなんですけどーっ!」

 シイナが誰もいないカウンターの奥に向かって声を掛ける。奥からはメガネを掛けた、壮年に差し掛かろうというマスターが姿を現し、ロボットの動きを認めるとメガネの位置を直しながら「おやおや」と呑気に声を上げた。
ヒサトと感じている空気が違う。周りの客も、マスターも、シイナも単なる故障と考えている。その中でヒサトだけが違うものを感じていた。人の枠組みを外れているからか、それとも半端な知識に依る杞憂か、分からない。杞憂ならばいいのだが――

「え?」

――ガガガガガガガアガガガガガアアガガガ
 店内にいたロボットたちが一斉に異音を奏でる。不協和音。甲高い金属音に混じって合成音声が悲鳴を上げ、機械的に口を開閉する様はまるで人間たちを嘲っている様。

「な、何さ……?」

 全ての給仕が体を震えさせる。前後左右に狂った様に振動し、手にあったトレーやグラスの類を床に落としていく。ガシャン、とグラスが割れて床に飲み物が広がっていく。

「これは……」

 ヒサトが今起こっている現象に思い至る。
ここ最近世間を賑わせている事件。数日前、シイナと別れる前の食事で話した話題。そして、シイナが最も恐れていた事態。
――ギギギ
 柔らかい笑顔を浮かべていた給仕が、ヒサトを見て嘲笑した。

「暴走だっ!!」

 ヒサトは叫ぶと同時に椅子から身を投げ出した。遅れて女性型給仕ロボがかいな振り下ろす。金属でできた豪腕が唸り、ヒサトが座っていた椅子を粉微塵に砕き、乱暴に木製のテーブルをひっくり返した。

「うわっ!?」
「シイナ、逃げろっ!!」

 かろうじて床に転がりながらヒサトは叫ぶ。だがヒサトの眼に飛び込んできたのは、転がったテーブルに押し倒されて床に倒れたシイナの姿。怪我は無いようだが、奇妙な動きで暴れるロボットが視線は彼女を捉えていた。
それを見た途端、ヒサトの心は沸騰した。抑えきれない怒りが胸を焼き、その衝動に駆られるがままに力を解き放つ。
力任せの暴力。ロボットがヒサトに向かって行った愚行と同じ様に右腕を振りぬく。ロボットとの違いは一つ。圧倒的な速度の違い。
愛らしい笑顔でカタカタ笑うロボットの顔面を拳が捉え、殴られた彼女は口の中からオイルと金属片をまき散らしながら店内を飛んでいく。百キロ以上もある体が宙を舞い、壁に叩きつけられて手足の表皮が剥がれ落ちる。脚が不自然な方向を向いたまま横たわり、しかし倒れたままガタガタと床の上で無様に溺れ続けていた。

「シイナっ! 大丈夫っ!?」
「あ、ああ、うん……大丈夫。君は?」
「コッチも大じょ……危ないっ!」

 シイナを助け起こしたヒサトだが、すぐに別の男性型ロボットが背後から迫ってきているのに気づく。抱き起こしたシイナを抱え、横飛に、椅子をなぎ倒しながら転がり、今しがた二人がいた位置を鉄の腕が通過していく。テーブル上のカップやグラスが舞い、割れた破片がヒサトたちを襲い、ヒサトはシイナを庇うように覆い隠した。
二人を襲ったロボットは、今度は二人の姿を視認できないのか、でたらめな方向に腕を振り回し続けている。それを横目に見ていると、胸の下から「ヒッ!」と怯えた声がした。
 シイナの視線をヒサトは追いかける。そこには黒のベストとスラックスを着込んだマスターが血を流して倒れていた。眼を見開き、虚ろな瞳で宙を睨んでいて体は微動だにしない。
彼女の視界を隠すため、ヒサトはシイナの頭を自分の胸に押し付ける。マスターの隣にはカウンターに座っていた男性の姿もある。頭から血を流し、だが意識は在るようで小さなうめき声を上げていた。そして目標を見失ったロボットは、今度はその男性に目標を定めたようでぎこちない動きであちこちに体をぶつけながら迫っていく。

「……ここに居て、このまま視線を動かさないで。それから救急車を」

 シイナに声を掛け、頷くのを確認するとその返事も聞かずにヒサトはその場を離れた。一足飛びにロボットの背後に近づき、今度は冷静にロボットの首をつかむ。

「つああぁっ!!」

 掛け声一閃。腕に力を込め、片腕でロボットを吊り上げるとヒサトは頭から床に叩きつけた。
鈍い、音。破壊音。鈍痛。
壊れた床板と砕けた頭のパーツが飛び散り、弾けた金属片がヒサトの頬をかすめて一筋の傷をつけた。ロボットは動かない。壁際で狂ったままに床の上で溺れている女性ロボットと対照的に、完全に壊れてしまったのか、頭の無いロボットはピクリともしなかった。
 店内のロボットをひとまず活動停止させたヒサトはふぅ、とため息をついて一息ついた時、悲壮なシイナの声が耳を打った。

「ダメだ……! TelOnがどこにもつながらないよ……!」

先程から何度も掛け直しているのだろう。シイナはTelOnを立ち上げるための補助ボタンが埋め込まれている耳たぶを頻繁に触っている。その度にシイナの顔に焦りが濃くなり、チラチラと死んだように動かない店主を見ていた。
ヒサトもまたTelOnを起動させた。ソフトは問題なく起動する。思考操作でダイヤルボタンを視界に表示させ、救急ボタンをプッシュしていく。だが、通じない。コール音さえ聞こえず、つまりは発信さえできていない。

「ここから一旦出よう、シイナ」
「で、でも……このおじさんが……」
「落ち着いて。ここからじゃTelOnを発信できていないし、もしかしたら店の外に行けば通じる様になるかもしれないから」

 幾分恐慌状態に陥っている節があるシイナを、ヒサトは意識して平静な声を発して宥めた。顔には困った様な笑顔。その顔を見た瞬間、シイナの頭の中を何かの映像が一瞬で駆け巡っていく。
それは瞬く間の映像だ。たくさんの画がデタラメに次から次から流れていき、その一枚一枚をきちんと確認することさえできない。分かったのは、一人の少年と少女がどの画にも映っていた事。
そして次の瞬間、シイナはフワリと体が宙に浮き、そこで我に返った。

「それじゃ行くよ」
 
気づけばシイナの目の前には、間近に在るヒサトの顔。そして自分の体勢は横になっていて、ようやくシイナは自分がヒサトに抱え上げられていることに気づいた。
自分の状態を自覚し、シイナは羞恥に顔を染める。しかしヒサトはそれに気づかず、半分壊れた店の扉を開けて外に出た。

「……っ!!」

 店を出て通りへと踏み出したヒサトは言葉を失った。ヒサトの腕の中にいるシイナもまた羞恥の感情を忘れ、呆然と街の様子を眺めるだけだ。
異常な光景だった。街の通りにはロボットが溢れていた。街にいるロボットが溢れていた。街を守るための警らロボット。客をもてなす給仕ロボット。工事現場で働く労働ロボット。乗客を乗せて運ぶロボットドライバー。警らロボ以外は、容姿は人間と変わらない。どこにこんなにロボットがいたんだ、という驚愕と自分たちがロボットたちに囲まれて生活していたという衝撃。
彼らはめいめいに統率も無く街で暴れていた。狂ったように人を傷つけ、狂ったように街を破壊し、狂ったように狂った声と機械音を街に響かせていく。傷ついて倒れた人を踏みつけて街を闊歩する。

「こ、これじゃ! これじゃみんな……!」
「たぶん誰かが警察に連絡してるんだろうけど……来ても助けられない」

 シイナは不安げに、しかし何かを期待する眼差しをヒサトに向ける。対してヒサトは下唇を噛み締めてシイナから眼を逸らす。
 ヒサトならばたぶんこの包囲網を抜けられる。ロボットたちの動きは緩慢で、数だけ揃っていようが逃げるのは容易い。ロボットたちの動きが読めなく、多少の傷を負うかもしれないがそれは些事だ。まだロボットたちはヒサトたちに関心を払っていないため、一気に飛び出せば簡単だろう。ヒサトは右肩で頬の傷跡を擦った。

「ど、どうしようか……?」

 ヒサトの腕の中でシイナは右腕を強く握り締める。ヒサトもそれを認める。が、動けない。
ヒサトには自信が無い。成功経験が乏しく、自分の行動に自信が持てない。
シイナを連れて逃げれるか、シイナを傷つけずに無事にここを脱せられるか。自分一人ならば多少傷つこうが構わない。が、シイナを傷つけるわけにいかない、傷つけたくない。その想いがヒサトの行動を縛り、縫い付けられたようにその場で立ち尽くす。
――どうすれば、いい?
その声にならない問いに応えるものは居ない。
しかし応える者はいなくても、助けてくれる者が来た。

「どうやら間に合ったみたいだぐぇっ!?」

 背後からの声。ヒサトは振り向きざまに蹴りを放ち、確かな感触と同時にカエルの鳴き声。ついつい本気で蹴ってしまって、声を掛けてきた女性は喫茶店のドアをぶち破って二人が出てきた所へと消えていってしまった。

「……今の、ロボットじゃなかったよね?」
「……うん」

 気まずい空気が流れ、ヒサトは冷や汗を流しながら壊れたドアの奥を見守った。今のヒサトの膂力は人間の比ではなく、蹴られた方は、ヘタをすれば大怪我で済まないかもしれない。

「いきなりひどくないっすかー!?」

 が、その心配は杞憂に終わったらしい。体の上に乗っかったドアを押し退けると、乱れたショートの紅がかった髪を手櫛で整えていく。パン、と服についた誇りを払い、むくれた顔をヒサトに向けた。ヒサトはその顔に見覚えがあった。

「まったく! 最高に幸せな惰眠を貪ってたところを叩き起こされてアンドリューさんに言われて来てみたらいきなり蹴り飛ばされるなんてとんだ歓迎ッス!」
「えっと、それじゃあアナタが?」
「そ! ヒサトんの助手兼監視役のエレナ・チェザーレッス! よろしく!」

一昨日の夜、ヒサトに眠りの魔術を掛けた女性、エレナは眠たげなまぶたをこすりながら役割を告げた。




◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆





「監視役? どういうことだい、ストーカー君?」

 エレナの発した言葉に引っかかりを覚えたシイナは訝しげに顔を歪めてヒサトを見上げた。
 ヒサトは気まずそうに明後日の方を見上げ、次いでシイナから見えないようにエレナを睨みつける。対するエレナもまた愛想笑いを浮かべ、頭をポリポリと掻く。

「いや、まあ、うん。大したことじゃないよ。気にしないでよ」
「……ストーカー君、君が良い人だろう事はボクの直感に従って信じるとしても今の言葉に誤魔化されてやれるほどの信頼関係は未だ築けていないと思うんだけど、どう思う?」

 ごもっとも。つい頷いてしまいそうになるが、ヒサトの立場としては頷く訳にはいかない。どうしたものか、と眼で助けを求めるとエレナが「仕方ない」とばかりに肩を竦めてみせ、それが微妙にヒサトにはむかついたが、助け舟を出してくれている以上任せることにした。

「ヒサトんが言った通り大したことじゃないんすけどねー。確かに自分は監視役ッスけど、別にヒサトんが何かをやらかしたわけじゃないんよ? ヒサトは今、ウチの雇用試験を受験中なんスけど、ヒサトんが不正をしないかを見とかなきゃいけないンすよー」

 別に教会に雇われるわけではないのだが、もし認められたのなら教会の元で過ごすことになるのだからあながち嘘ではない。嘘ではないのだが、正確な事を言っているわけでも無いのでどこかシイナを騙すようでヒサトは心苦しい。

「こんな街中でかい? しかも何だかボクの知ってる就職試験とはずいぶんと違うようだけど、差し支えなければ何をする場所なのか教えてもらえないかな?」
「差支えがあるからダメッス。内容は社外秘ってことになってるんで」
「そこを何とかならないかな? 面白そうならボクも将来設計の選択肢の一つに加えたいんだけど」
「んーそうッスねぇ……ま、とりあえず、ヒサトんの腕から降りる事をオススメするっすよ」

 その言葉にようやく二人とも互いの位置関係を見られていることに気づき、シイナは暴れるようにしてヒサトの腕から飛び出し、危うく落ちそうになりながらもやっと地面に脚をつける。
恥ずかしさに頬を若干染め、「コホン」と咳払いで誤魔化す。

「そこ。残念そうに自分の腕を眺めない」

 シイナのツッコミにヒサトも慌てて視線を上げる。

「それで、どうなのかな?」
「そうッスね……コッチから教えることはできないんスけど、見てる分には構わないッス」
「えっ!?」

 何気なくエレナはそうシイナに告げたが、その言葉にヒサトの方が今度は反応した。

「え、エレナさん?」
「いいんスよ。クルツ様には禁止されてないし。それよりも、いいんスか?」
「何が?」
「ロボットたち、来てるんスけど?」

 ヒサトとシイナが同時に振り向く。そこには、それまで二人に注意を払っていなかったロボットたちが、足音を立てながら近づいてきていた。ギチギチ、ギチギチと、不気味に音を立てながら全てのロボットが一斉に目標を三人に定めていた。

「たぶん、基本的に動く相手を狙ってるんだろうね」
「あ…う……」

 逃げ遅れて倒れ伏したサラリーマンにランチタイムを楽しもうとしていたOLの姿。それらを気に留めずに歩いてくるロボットたちを目の当たりにし、シイナは再び恐怖に体を強張らせる。ヒサトは、シイナを庇うように前に進み出て彼女の手を握りしめた。

「エレナさん」
「何ッスか?」
「この試験でエレナさんの手を借りる事は『有り』ですか?」
「言ったっしょ? 自分はヒサトんの監視役『兼助手』だって。自分の事を自由に使って使って使い潰してもらっても構わないっすよー。あ、でも使い潰す時は優しく丁寧にして欲しいっす」
「いや、別に使い潰す気は無いから」

 だがやる事は決まった。ヒサトはシイナと繋いだ方とは逆の手を握りしめた。

「なら……シイナをお願いします」
「それくらいならお安い御用ッス。自分は戦うのは苦手ッスけど、逃走・逆走・寝返りは大得意ッスから!」
「最後が不安だなぁ……」

 ともかく。
一人では両手は埋まっている。だが手の中のモノを誰かに預けられるのなら、自分ならやれるはずだ。そう、やれるはずなのだ。
――だが、本当に?
 迷い。本当に、この自分でこの局面を乗りきれるのか?人並み外れた力を手に入れただけで驕っていないか?自分の力を過信していないか?盲信していないか?まだ自分は、この力で何も成し遂げていないのに。
握りしめた拳を見る。その手は震えていた。

「そういやレギンレイヴから伝言を預かってるッスけど、聞くッスか?」
「レジ姉から……?」
「っ! ちょっと待ってくれないか! ストーカー君はレジ姉を知ってるのか!?」

 何故覚えている、とヒサトは驚きに染まったシイナの顔を見たが、すぐに当たり前の話だと気づく。存在を消されたのはヒサトだけでレジナレフは今までと変わらないのだ。失念していたがシイナにとってのレジナレフは、ヒサトにとってのレジナレフと同義。なれば、もしこのままヒサトとレジナレフがこの街から出て行くことになったら、ヒサトがシイナからレジナレフを取り上げて独占してしまうことになる。そしてもう会うことは無くなってしまうだろう。
シイナの詰問にヒサトは頷きつつも、更なる圧力が肩にのしかかるのを感じていた。体が重く、心も縛られていく。肺が詰まり、呼吸が苦しくなっていく。しかし――

「それは後で話すッス。それより伝言ですけど、イイッスか?」
「……レジ姉は何て?」
「たった一言ッス。
『もう、遠慮はいらない』だそうッス」

 瞬間、カチリ、と音がした。ヒサトはそんな気がした。
体の重さも呼吸の荒さも何もかもが取り払われた。
靄が晴れた。頭の中を覆っていたケージの鍵が開けられ、開放された脳が一気に血を求め、送られてきた血液に熱を発し、やがて思考はこれまでに無い程にクリアに。
やるべきことが分かり、やり方が分かり、答えが分かる。
例えるならば数学の問題。出された問題を知っていて、解くための数式も知っていて、解き方も分かっている。そんな問題を前にして何を不安に思うことがあるだろうか。
 ヒサトは一歩を踏み出す。

「――それじゃ、行ってきます」
「あいあい。コッチは任せるッス
 真なる月は陽を覆うcorniger luna hidis fulgebunt

 エレナがポケットから呪符を取り出し、呪文を紡ぐ。呪符に描かれた魔法陣が仄かに光りだし、エレナとシイナの姿が足の方から消えていく。自分が消えていく様にシイナは「は? え?」と慌てふためき、それをエレナが「喋ったらダメっすよ?」と宥めていく。

「あの! ストー……ヒサト!」

 シイナに名を呼ばれ、ヒサトは振り返る。消えゆく中、彼女は不安げにヒサトを見つめ、言った。

「……気をつけて。無事じゃなかったらタダじゃおかないからね?」
「大丈夫」

 シイナとの約束は破らない。口の中だけでヒサトは呟き、そしてエレナとシイナの姿が街から完全に消え失せる。
そしてヒサトもまたその場から消え去った。
次の瞬間には十メートルほど離れた通りのど真ん中に立っていた。それと同時に、ヒサトが通り過ぎた場所に立っていたロボットたちの上半身がアスファルトに滑り落ちる。横薙ぎに両断された断面から茶色い潤滑油が油圧によって空に昇り、やがて鉄臭い雨となって降り注ぐ。
ヒサトの手には剣。それは紅い紅い剣。刀身の根本から先端まで真紅に彩られ、全体からは熱が発せられて空気を歪める。
ヒサトはその剣を脇構えに構えた。昨日にレジナレフの指導の元に創りだしたバスタードソードよりも手に馴染む。それどころか懐かしささえ感じる。まるで、それこそが自分の剣であるかの様に。
その感覚はヒサトの記憶を刺激する。ずっと昔、ヒサトはこの剣を握っていた。誰よりも強く、誰よりもうまく剣を振るっていた。それは確かだ。未だ不鮮明な記憶の海で泳ぎながらもそれを確信する。
同時に確信した。容易い、容易い、容易い。この場を切り抜けるのも、ロボットたちを切り刻むのも何もかもが容易い。話すより、笑うより、呼吸するよりも容易い。
ヒサトは湧き上がる自信とともに跳躍した。近寄ってきていたロボットたちを嘲笑うが如く置き去りにし、すれ違いざまに一閃。焼き切られた人形は斬られたことにも気づかないまま空を向いて倒れ落ち、自らの発する雨に打たれて朽ちる。

「ふっ!!」

 着地ざまに鈍色の腕がヒサトを襲う。しかしそれはヒサトにとって遥かに遅い。腕の軌道をしっかりと捉え、僅かに半身を捩るだけで避け、そして両刃の剣を奮う。剣が鋼鉄に滑り込み、僅かな抵抗さえ無くヒサトは振り切った。
返す刀でもう一太刀。それだけで二体のロボットがスクラップへと変化する。それは、ヒサトがコレまでに体験したどんな作業よりも簡単だった。
やがてヒサトの足の動きが少なくなる。しかし静止はしない。次から次へと寄ってくるロボットの腕を時に半身でかわし、時に首だけで避け、時に斬り捨てる。最小の動きで場を支配し、瞬く間に道に溢れたロボットの数を削っていった。だが、まだまだ道にはロボットが溢れている。

「まったく、こんなところでのんびり遊んでる暇なんて無いのに……」

 どっから湧いて出てくるんだか。何気なくヒサトはぼやいた。だが、自らが吐き出したその言葉にヒサトは引っ掛かりを覚えた。
このロボットたちは何処から現れる?決まっている、街で働いているロボットだ。
なぜ人を襲う?それこそ暴走だろう。テレビのモニターの中でも議論されている。
どうして一斉に・・・暴走した?そんなもの、考えられる可能性は多くない。

「誰かが意図…的に……?」

 暴走させた。暴走させた。暴走させた!
人を傷つけた。街を破壊した。何より――
シイナを殺そうとした・・・・・・・・・・
ヒサトがシイナと今日この場所で出会ったのは偶然。だから、もし出会わなかったとしたら?
その疑問とともにヒサトの心が急速に冷える。凍える。そして数瞬の後に湧き上がるのは怒りだ。途方も無い、荒れ狂う怒りだ。シイナが傷つけられていたかもしれない。ヘタをすれば殺されていたかもしれない。その可能性がいかほどか。高いのか?低いのか?冷静な部分が弾きだしたその疑問を激情が切って捨てる。
――そんなものは関係が無い。
シイナを傷つけようとした、その意図が許せない。その意思が許せない。無差別だろうが何だろうが、ヒサトから大切なモノを取り上げようとしたその行動が許せない。
だからやる事は一つ。ヒサトはロボットの一体を斬り捨てながら口元を歪めた。
犯人を捕まえる。何がなんでも捕まえる。必ず、どこにいようが絶対に捕まえる。
同時に、先程から激情に静止をかけ続けていた冷静な部分もその思いを肯定する。
――その犯人を捕まえたら、クルツも認めてくれるだろう。
それはヒサトにとって天啓だった。道が見えた気がした。どこの誰とも知れない人物を自分が探し出す。目的を為すのにどれだけ時間を要するのか、どんなに困難なのか想像もできない。それでも為すべき目標も見当たらずに悩んでいるより遥かに良い。

「そこまでッス、ヒサトん」

 思考に割って入る制止の声。ヒサトは剣先を声の方に向け、そして声の主を確認すると矛先を収めた。

「エレナさん」
「もう十分ッス。後はお巡りさんに任せてトンズラするのが一番ッスよ。人払いの結界の効果もそろそろ限界ッス」

 落ち着いて耳を済ませば、パトカーのサイレン音が聞こえてきていた。辺りを見回せば惨劇の跡。全てがロボットとは言え、人の姿をしたモノが斬り倒されている光景は愉快とはお世辞にも言えない。

「……自分でやっておいて何ですけど、これ、どうしましょう?」
「あー、そこは問題無いッスよ。さすがにヒサトんにそこまで求めないんで。隠蔽工作は自分らの仕事ッスからね。もちろん犠牲者もちゃんと助けるスからシイナはそんな眼で睨まないで欲しいッス」

 もちろん記憶の改竄くらいはしますけど、とエレナは付け加える。シイナはまだ何か言いた気に辺りの惨状とエレナの顔を見比べていたが、結局何も口にする事なく押し黙った。その顔色はあまり良くない。
ヒサトはそんなシイナを一瞥し、エレナに向き直ると「お願いします」と頭を下げた。

「しっかし勘弁して欲しいッスよ……一体や二体ならともかくこんなに大量に暴走させるなんてコッチの迷惑も考えて欲しいッス」
「それなんですけどエレナさん、また質問しても良いですか?」
「なんスか?」
「エレナさんは、人探しは得意ですか?」
「う〜んと、苦手じゃないッスよ? 全くの得意分野ってわけでもないスけど。材料によるッスけどね」
「なら、探して貰いたい人がいるんです」

 詳しくは後で話します。
ヒサトは頷いたエレナにそう告げると、立ち尽くしていたシイナの手を取った。

「ヒサト?」
「家まで送るよ。そして今日の事は他の人に話しちゃダメだ。いい?」
「……うん、分かった。さっきのエレナさんだっけ? 彼女が言ってた人払いだとかヒサトの手から突然剣が現れたりとか、ヒサトの意外な強さは一体何だとか言いたい事や聞きたい事は山ほどそれこそ天にも届くバベルの塔なみにあるけど、ボク自身何が何だか良く分かってないし、そもそも喋ったらもっとヤバイ事になりそうなのは分かってるし、素直にボクの中だけで温めておくよ」
「そうしてくれると僕も助かる。
 でも、僕が強いのがそんなに意外だった?」
「意外だよ。ボクの顔を中々見ようとしないし逃げようとしてたしどう考えてもヘタレじゃないか。逆にどこに君の強さを測れる材料があったかぜひ教えてくれないかな?」

 混じり気なしの意外感を醸しながらそう告げるシイナにヒサトは若干肩を落とした。振り返ってみれば確かにそうだ。緊張してまともに顔も見ていられなかったし、突然シイナに出会って何を話せばいいかも分からずオロオロとしていた。シイナの評価も尤もだ。
そんなヒサトの自嘲を知ってか知らずか、シイナは眼を細め、どこか懐かしむ様に言った。

「でも何だろうね……何だか今のヒサトを見てると懐かしい気持ちになるよ。ずっと昔、それこそボクが小さい時、誰かヒサトみたいな人が近くにいた様な気がするんだ」
「そう、か……」

 途切れ途切れの相槌を打ち、ヒサトはシイナからそっと顔を背けた。
だが、その手はしっかりとシイナの手を握っていた。







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