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第一話 街と酔っ払いとかしまし娘
第ニ話 ロスト・チャイルド
第三話 存在
第四話 デーモン&デーモン
第五話 妄想空想夢の跡
第六話 ほっぷ・すてっぷ・ほっぷ
第七話 とぅー・びー・うぃず・ゆー
第八話 スタートライン
第九話 いちについて
第十話 よーい・どん









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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved







−6 ほっぷ・すてっぷ・ほっぷ−




悲しくて悲しくて悲しくて。
寂しくて寂しくて寂しくて。
苦しくて苦しくて苦しくて。
ヒサトは声を上げて泣いた。レジナレフに縋り付き、唯一つ残った温もりに抱かれて叫んだ。
親を失った、友人を無くしてしまった、そして自身の半身を取り上げられた喪失感、苦しみ。胸の内で荒れ狂っていたものを全て吐き出すように慟哭した。
――何故、何故、何故!
悲しみを吐き出してしまった後に襲ってくるのは激しい怒り。一方的に強制的に奪い去られた事に対する、自身を焼き尽くす様な熱。衝動に駆られてヒサトは縋り付いたレジナレフの腕を強く、強く、潰してしまわんばかりに握り締める。
今のヒサトの身体能力は人間のそれを遥かに超える。怒りに身を任せたヒサトの力は容易く人間の腕など握りつぶしてしまえる。だがレジナレフは表情一つ変えず、優しくヒサトの背を叩いた。
それは懐かしい記憶。ずっと昔に、今よりずっと幼かったヒサトがレジナレフにしてもらった事。母親のヒヨリと距離があった時に今と同じ様にレジナレフに抱きしめられ、泣き喚くヒサトの背をポン、ポン、と安心させるように叩いてくれていた。
その時の記憶が蘇り、ヒサトの腕から力が抜けていく。怒りが消えていく。悲しみが溶けていく。寂しさだけは僅かに残ったけれども。

「……もう、大丈夫だよ」

そう言ってヒサトはレジナレフから離れた。顔は涙と鼻水に濡れ、それでもレジナレフにぎこちなく笑ってみせた。レジナレフは「そう?」と首を少し傾げ、そして濡れた自身のブラウスを見て苦笑した。

「もう、ブラウスがスケスケじゃない!? どうしてくれんの!?」
「ゴメン」
「こんなんで街を歩いたら……ああ! 男たちに卑猥な視線で犯されて……」
「だったら普段からスカートくらい履いて外出ようね?」

酔っ払うとスカート無しで出歩く事の多いレジナレフにヒサトは苦笑で返す。それが分かっているのか、レジナレフ自身も「タハハ……」と笑って誤魔化した。

「それで、改めて聞くわよ? ヒサトはどうしたいの?」
「え?」
「街を私と一緒に出ていくも良し。この街に残るも良し。不可能だと思えてもいいから、ヒサトの正直な気持ちを聞かせなさい」
「……僕は……」

眼を閉じてヒサトは自身を振り返る。正直な、気持ち。レジナレフの言葉を頭の中で反芻し、自分が何をしたいか、どうしたいのか。
街を出るしか無い。ヒサトの頭の中にはそれしか選択肢が無かったが、だがしかし、もし自分が望んだ事が叶うのならば。
シイナの顔が浮かぶ。シイナの声が耳の中で反響する。シイナと積み上げてきた多くの様々な記憶が瞬く間に過ぎっていく。それと同時にヒサトの胸が何かに掴まれたかの様にギュッと縮み、痛み、呼吸が苦しくなる。しかしヒサトはそれを堪えて、自分の想いを探る。
何故、苦しいのか。何故、痛いのか。何故、こんなにも悲しいのか。
ずっと一緒に居たから? ならば何故ヒヨリの時はこんな気持ちにならなかったのか。何故今はこんなにも辛いのか。
思い浮かぶのは、シイナの色んな顔だ。喜んだ顔、怒った顔、泣き顔に声を上げて笑う顔。その全てを誰よりもヒサトは見てきて、今も鮮やかに思い出すことができる。

(ボクらは何も変わらないさ)

昨日、たった一日前にシイナが呟いた言葉が過る。その言葉をヒサトは信じて、なのにそれを裏切ってしまった。もう、戻れない。

(ああ、そうか――)

ヒサトは嫌なのだ。もうシイナの顔を見れないのが嫌なのだ。ヒサトの準備した食事を美味しそうに食べるシイナを見たいのだ。用もないのに楽しそうにVisiを使ってヒサトに話しかけてくるあの顔を見たいのだ。いつまでも見たいのだ。シイナの隣にヒサトがいない、そんな日常をヒサトは受け入れられない。

「僕は――シイナが好きなんだ」

近過ぎて気づけなかった感情。いや、気づかないふりをしていた感情か。不器用にもシイナはヒサトに対してアプローチをしてくれていた。中には胸を見せようとしたりと露骨なアプローチもあった。恥ずかしがりながら、冗談めかしながら親愛の情を示していた。
なのにヒサトはそれを見ないふりをしていた。彼女なりの冗談であると決め付け、明確に口にしないのを良い事に応えるようとしなかった。それは関係が変わってしまうことへの恐怖からだろうか。それともまだまだシイナとの関係を変えるのが早いと感じたからか。

「気づくのが遅かったけれど、シイナが好きだ」

いずれにしろ関係の変化をためらい、そして失ってしまった。シイナはきっと、いや絶対にもうヒサトに抱いた恋心を忘れてしまった。なのにヒサトはシイナに対する恋心を自覚した。なんて、皮肉なんだろう、とヒサトは小さく自嘲した。
今更だ。ヒサトは下唇を噛み締める。だが自覚してしまえばもう耐えられない。シイナに会ってしまえばこの恋心を無かった事にはできない。冷たかった胸の内には熱がこもり、ドキドキという心臓の鼓動がその気持ちを肯定する。失った関係を取り戻せと主張する。

「シイナが忘れてしまっても、僕は忘れていないんだ。忘れられないんだ。僕のこれまでの人生にはシイナがいるのが当たり前だったんだ。ずっと一緒に遊んで怒られて笑って……シイナが傍に居ないなんてもう無理だよ。シイナが忘れてるからって僕の方から離れるなんて無理だ。僕は……シイナの傍にいたい」
「それが答え?」
「うん。僕はこの街に居て、シイナと一緒に過ごしたい。例えシイナが忘れてたって構わない。時間は掛かるだろうけど、やり直せないわけじゃないから」
「きっと、きっと辛いことよ、それは。分かってるの?」

レジナレフの質問にヒサトは首肯する。

「分かってる。たぶん、シイナに他人を見る目で見つめられる度に泣きそうな気分になると思う。途中で逃げ出したくなるんじゃないかって予想してる。でもダメなんだ。やっぱりシイナが傍にいてくれないと、そっちの方が辛いんだ」
「ヒサトの事情にシイナを巻き込むかもしれなくても?」
「それは……」

ヒサトは窮した。ヒサトが置かれている今の状況を考えれば、もしシイナの傍にいたら彼女に危険が迫るかもしれない。それだけではなく、隣に住んでいるヒヨリにもまた迷惑を掛ける可能性がある。
あの夜、ヒサトはスイーパーに襲われた。ヒサトはかろうじて生き残ったが、たまたま巡回していた警官が殺された。ヒヨリには恐らく怪我は無かっただろうが、家は破壊されヒヨリの心に傷を残しただろうし、一歩間違えば死んでいたかもしれない。そんな危険な状況にシイナを巻き込むのか。

「その時は、僕が守る」
「守れるの? ヒサトが? あのロボットにも殺されかけてたのに?」
「あれはっ……まだ僕にあんな力があるなんて」
「思ってもみなかったから何もできなかった? 笑わせないでよ、ヒサト。想定外だから、なんて言い訳が通用すると思ってるの? だとしたら無駄な努力は辞めなさい。さっさと私と一緒にこの街を出ていった方がいいわ。その方が大好きなシイナの為よ」

ヒサトの宣言をレジナレフは鼻で笑ってみせ、ヒサトも反論できない。
ヒサトは無力だ。人並み外れた力を手に入れたとて、その力がどの程度かも把握できていない。スイーパーのロボットから逃げるくらいはできるだろうが、シイナが、ヒヨリが巻き込まれた時に助けられるのか。もし、そこに聖礼教義士団まで加わったら?
悔し気に歯噛みするヒサトを厳しい目で見つめていたレジナレフだったが、ふっ、と表情を緩めた。

「とまあ、普通だったらこう言うところなんだけどね」
「え?」
「最初に言ったじゃない? 不可能だって思ってもいいから正直な気持ちを教えてって。だからヒサトは今言った様な事は気にする必要は無いわ」
「で、でも! 確かにレジ姉が言った事は事実だし、僕には……」
「そこは心配しないでも大丈夫よ。ヒサトならあのロボットたちに遅れを取る事なんて無いだろうし」

そう言ってレジナレフはヒサトに手を見せる様に指示し、そして眼を閉じさせた。ヒサトは素直にそれに従い、レジナレフに向かって手を差し出して瞼を閉じる。

「昔を思い出して。私とシイナと一緒に三人で木刀を握った時を。その時の感触を」

記憶と共にヒサトは思い浮かべる。小学校時代にシイナと一緒にレジナレフと剣術の稽古をした時の事を。その時に握った木刀の重さを。

「思い浮かべなさい。ヒサトの好きな剣を。刀でも良いわ。今、ヒサトの手の中にはそれが握られている」

ヒサトの頭に真っ先に浮かんだのはレジナレフの剣だ。昨夜、鮮やかにロボットたちを切り裂いていった両刃の長剣。それは驚くほど明確にヒサトの頭の中で思い描かれた。
途端に感じる重量感。それと同時に何かが少し体から喪失した。

「これは……」
「上手くいったみたいね」

ヒサトの手に握られていたのはレジナレフの物と同じ大きなバスタードソード。刀身はきらびやかに反射してヒサトの驚く顔を映し出していた。

「体の調子はどう? どこか異常は無い?」
「い、いや、別に無いよ。一瞬体が重くなった気がしたけど」
「それは魔力を使ったせいね。ヒサトの中の魔力でその剣を作り出してるから仕方ないわ。剣を作るには結構な魔力を使うはずなんだけど、ま、そこはヒサトは気にする程度じゃないわね」
「え?」
「その剣ならロボット相手でも簡単に切り裂けるし、例え聖礼教義士団の魔法陣が施された剣であっても打ち負ける事は無いわ」
「でも僕にはレジ姉ほどの剣の腕も無いし、それに剣の練習だって小学校以来やってないし……」
「あら? 私は簡単に忘れる程の指導をしたつもりは無いわよ? それに……」

言葉の続きをレジナレフは噤んだ。

「レジ姉?」
「あ、ええ。それとは別に大きな問題があるでしょ?」
「大きな、問題?」
「そ。ヒサト、貴方どうやってこの街に居座るつもり?」
「そ、そりゃあ……」
「ミサキの言葉を借りればもうヒサトは『存在しない』人間。当然戸籍も何も残っちゃないわよ? 家も借りられなきゃ学校にも行けないし、住所不定だから当然働く事もできないわよ?」
「あ……」
「おまけに状況としては日常的にスイーパーに狙われる毎日。そんな状況でこの街に定住なんてできないし」
「う……」

レジナレフの言葉にヒサトはうつむくばかりだ。レジナレフが指摘する事に対してヒサトには何のアイデアも無く、そもそも考えてもいない。
しかめっ面を浮かべて頭を捻ろうとするヒサトだが、レジナレフはそんなヒサトを見て苦笑する。

「私が正直に言えって言ったんだからそんな顔しなくてもいいわよ。どうにかする方法にアテがあるんだから」

途端、ヒサトは顔を上げて表情を綻ばせ、食いつくようにしてレジナレフの顔を覗きこんだ。レジナレフもそんなヒサトの顔を見つめ、

「……チュッ」

キスをした。
瞬間、ヒサトはレジナレフの傍から飛び退き、顔を真っ赤にして口をパクパクさせた。

「なっ、なっ、なにをっ……!」
「いや、ヒサトの顔が近かったからつい。いいじゃない、いっつもしてたんだし」
「いつもほっぺたじゃないかっ……!」
「ま、それはそれとして」

ヒサトの抗議の受け流し、レジナレフはピンッと人差し指を立てる。

「一番の問題は、私たちには何の後ろ盾も無いって事。ヒサトがこの街に居続けるためにも『存在している』って証を作る必要があるの。そうすればヒサトは堂々とシイナの傍にいれるし、無駄にシイナやヒヨリさんたちを巻き込む心配もなくなるわ」
「そりゃそうだけど、どうやって? 国に『存在しない』ってされたのに……まさか偽造するとか!?」
「偽造、になるのかしらね……そこはどういうやり方になるかは相手次第だけど。ミサキだったら簡単に偽造できそうだけど、まだ信頼できるか分かんないし、危ない橋を渡ってはくれないでしょうね」
「それじゃどうやって……?」
「フッフー。お誂え向きの連中がいるのよ。ま、上手くいくかは保証できないんだけどさ」

口元を笑みで歪めながらヒサトにそう告げると、クルリ、と踵を返してトンネルの外へ向かう。

「んじゃ早速行くとしますか?」
「いきなり? どこ行くのさ?」
「まあまあ、ついて来なさいな」

イタズラな笑みを浮かべて歩き出すレジナレフに、ヒサトは肩を竦めて付いて行くしかなかった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




「ここは……」

ヒサトは脚を止めて眼前の建物を見上げた。
行き先を告げずに街を歩いていくレジナレフに付き従って進むこと約四十分。ヒサトのかつての家がある住宅街から高校を挟んで反対側にある高層マンション街に二人は立っていた。
街の人口の半数を占めようかというマンション街はいずれも高級な作りになっており、実際にマンションの住人は高所得者層だ。また見渡す限りに何十棟と建っており、道行く婦人もヒサトの知り合いのおばさん連中とは身なりからして違う。マンション同様見るからに高級そうな衣服に身を包んでいて、歩く所作にもどことなく品がある。
そのせいか道端にも多くの警らロボットが配置され、五分に一度はそれとすれ違う。それだけでなく、近頃多発しているロボット暴走事件を警戒してか人間の警察官も多く、立ち尽くすレジナレフとヒサトに向かって訝しげな視線を向けて通り過ぎていく。
この街に長く住むヒサトだが、この区域には縁が無い。元々この区画にはマンションとコンビニくらいしか無いが、学校から見てもヒサトの家とは反対側に位置し、また周囲の友人にもこの区域に住んでいる者はいなかったからここに来るための用が無かったとも言える。
しかし、それ以上にヒサトはここに脚を踏み入れるのに気後れしていた。それが高級地が放つ独特の雰囲気に依るものなのか、それとも他に何か原因があるのかは分からない。だが事実、この場所に脚を踏み入れてから落ち着かなく、用も無いのに何度もキョロキョロと周囲を見渡していた。

「フッフー。さぁて、ここは何の建物でしょうか?」

そんな場所にヒサトを連れてきたレジナレフだが、無論マンションに用が有ったわけではなく、またマンションの住人に用が有るわけでもない。立ち並ぶマンションとマンションの間に在る、高級地には些かそぐわない建物。ゴシック調に特有の黒みがかった壁に繊細な装飾は、明るい色が多いマンションの中にあって非常に目立つはずだが、どうにも埋没しているようにヒサトには思えた。

「何って、教会でしょ? ここにさっき言ってた『アテ』があるってこと?」
「そ。ま、すぐに分かるわ」

レジナレフは口元には笑みを、だが視線は鋭く正面の入り口を見据える。一度鼻から息を吐き出すと「ヨシ!」と小さく呟いて入り口の取っ手を掴み、一息に引き開けた。
銃口な扉を開けた途端、中からはヒンヤリとした空気が一気に流れ出る。
そこは外界から隔絶された別世界のようであった。外見とは裏腹に全体的に白を基調とした内装。屋内の採光用に設置された高い位置にある窓にはステンドグラスが嵌めこまれ、外から入ってくる光を浄化するかの様に淡く穏やかに室内を照らしだす。
正面に鎮座するのは荘厳さを全面に押し出したデザインのかの神の姿。偶像の彼は、彼に向かって祈りを捧げる信者にだけ優しさを返す。それを受けて敬虔な彼らは、パイプオルガンと聖歌隊の歌う賛美歌の調を胸により一層の深い祈りを投げ返していた。
賛美歌と重厚なオルガンの音は入り口に立つヒサトたちにも届く。何人にも安らぎと穏やかさを。心を揺さぶるのに逆に気持ちは落ち着いていく。不思議な感覚に囚われて全てがどうでもよくなっていく。居場所を失った事も、シイナやヒヨリに忘れされた事も、そして自分の存在が消された事も、何もかもが些事である。そうだ、全ては些細な事だ。嫌な事は忘れ、また一歩を踏み出すのだ。神の示す道標に従えば何も――

「sit necesse est libertatem(彼の者に掛かる全てを取り払え)」

レジナレフがヒサトの耳元で呪文を囁き、それと同時に光を失っていたヒサトの眼に力が戻る。意識がハッとすると同時に浅かった呼吸が通常に戻り、また汗が一気に噴き出る。

「な……にが……」
「音に魔力を乗せて彼らにとっての『邪』を払ってるのよ。普通の人間には鎮静と多少の信仰強化くらいにしか効かないけど、相性が悪い人間や悪魔に取っては洗脳に近い効果を持つわ。
 ――ここからは気を抜かないで」

ヒサトの手を引きレジナレフは教会の奥へと脚を踏み入れる。入り口とは段違いに天井が高く、空間も一気に広がる。幼い少年少女たちによる聖歌は未だに続いており、教会内にいる誰もが木製の長椅子に座り頭を垂れている。祈りを捧げている信者たちに日本人が混じっているが、ヒサトの見たところ、多くは外国人、特に旧欧米系の人だ。
世界の国々が再編され、アジア経済協力会議を始めとしていくつかの大国に世界はまとまった。が、旧国の文化が失われた訳は無く、以前として旧日本人は宗教に対する適度な無関心さを保っている。同時に旧国籍の垣根が低くなり、経済的に発展した日本には一層の外国人が流入し、外国人の人口比率が高い地区も存在する。思い返してみれば、マンション街に脚を踏み入れた後に見かけた人はレジナレフのような外見の人が多かったな、と今更ながらにヒサトは気がき、ならばこのマンション街もそういった地区の一つなのだろう、とヒサトは結論づけた。
レジナレフは信者たちが祈りを捧げている長椅子群の、一番後ろの席に腰を降ろす。ヒサトも黙ってその隣に座った。鳴り響く音楽は相変わらずヒサトにとって居心地が悪く、頭や胸がモヤモヤとして気持ちが悪い。レジナレフに言われた通り気を張っているせいか、先ほどの様に意識を持っていかれる事は無いが、頭の中ではガンガンと厳かな音楽が鳴り響いている。
永遠に続きそうな時間にヒサトの気持ちは幾分折れ曲がりそうになったが、実時間としては椅子に腰掛けて程なく聖歌は終わりを告げた。オルガンの余韻が教会内に響いているが、それに足音が混じり、ヒサトは少しだけ顔を上げた。
現れたのは神父だ。黒いキャソックに身を包み、聖書を片手に信者たちの前に歩み出る。場の空気と同様に厳かな空気を纏い、燭台の置かれた台座に聖書を静かに置き、そして開く。

「Good afternoon, everyone. Thank you for your attending and ……」

英語で神父の挨拶らしき演説が始まり、口を開く前に感じていた雰囲気とは異なり穏やかな口調で朗々と語りだす。神父の声は低く落ち着いていて、静かな教会内によく響き渡る。
英語が得意でないヒサトには、最初の挨拶以外何を言っているのか聞き取れない。だが神父が時折台座の方に視線を落としている事から、恐らくは聖書を朗読しているのだろう。周囲を見渡せば、皆、真剣な表情で神父の声を聞き入っている。
ヒサトにしてみれば宗教に興味は無いし、そもそも何を話しているのか分からない。教会の空気と周囲に取り残された感覚は居心地が悪く、眉をハの字にして情けない表情で隣のレジナレフの顔を盗み見た。
レジナレフは瞑目して顔を伏せていた。そこにはどんな表情も浮かんでおらず、ただ淡々と時が過ぎるのを待っているだけのように思える。
――そういえばレジ姉は何故ここに来たのだろう?
改めて疑問が脳裏に浮かんだ。現状を打破する。つまりはこの街にヒサトが居続けるための手段があるとレジナレフは言った。それはヒサトも分かるのだが、何故教会なのか?教会に何があるのか。いや、レジナレフは「連中」と言った。つまりは何とかしてくれる人がいるという事。昨晩の出来事から自分たちと宗教的なものとは相容れないとヒサトは思うのだが、この教会は違うのだろうか。宗教といっても種々様々で色んなものがあるだろうからレジナレフと交友がある、もしくは友好的なものも一つくらいはあるのだろう。ここもそんな場所の一つかもしれない。

「……やっと終わりか」

小さくレジナレフが呟き、眼を開けて顔を上げた。間もなく神父の優しげな声も途切れ、「パタン」と本を閉じる音が微かに響く。
やっと終わったか、とヒサトはそっとため息を吐いた。声が止むのと同時に心なし居心地の悪さも軽くなった気がした。そして椅子の背もたれに体を預けた。
顔を上げ、神父の顔が眼に入る。途端、ヒサトは心臓を直接掴まれた様な衝撃を受けた。一瞬椅子から飛び上がりそうになり、よく声を上げなかったと自分を褒めてやりたかった。
神父という職業にしては良すぎる体格。面長の顔に乗った小さな丸メガネ。短い銀髪に所々に刻まれた深い皺。
笑顔で信者たちに説教をするその姿は、明らかに見覚えのある顔なのに纏う雰囲気が全く異なり本当にその人本人なのかと段々信じられなくなってくる。随分と自分の顔はひきつっていることだろう。
しかし、その神父との目が合った瞬間に神父もまた顔を引きつらせた。隣を見ればレジナレフが朗らかな笑顔で小さく手を振っており、ヒサトは今度は頭を抱えて深々とため息を吐いた。
何しろ、穏やかな笑顔で説教をしていた神父というのもアンドリュー・リヒトシュタイナー昨夜殺しあった相手だったのだから。




◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




説教を終え、礼拝にきていた信者たちを解散させるとアンドリューはレジナレフとヒサトを礼拝堂の奥へと引き込んだ。奥へと連れ込む前にはまだニコニコとした笑顔を浮かべていたのは流石だが、その眼が怒りと焦りに揺れていたのは致し方ないことだろう。
信者の前では穏やかに、しかしレジナレフの手を掴むとアンドリューは強引に奥の廊下を引きずっていく。
礼拝堂の隣では事務所が併設されており、そこでは多くの関係者が住み込みで仕事をしている。アンドリューは憤怒で、一方引きずられているレジナレフはすれ違う関係者に笑顔で手を振りながら奥の部屋へと向かっていく。関係者は状況がいまいち把握できずに不思議そうな顔で手を振り返していた。
バタン、と大きな音を立てて扉が開き、そしてすぐに同じく音を立てて扉が閉じる。その途端にアンドリューはレジナレフを部屋の中へと放り捨てた。

「ふぎゃ!」
「どういうつもりだ、貴様」

ゴロゴロと転がっていくレジナレフの悲鳴を気に留めず、開口一番にアンドリューはレジナレフを問い詰める。鬼気迫るその表情にヒサトは気圧され、近づく事がはばかられている。

「もう……女の子の扱いがなってないわね」
「貴様の戯言など興味は無い! ここは貴様の様な存在が来て良い場所では無いのだぞ! 言え。何が目的だ? 何の為にここに来た? まさか今ここで昨日の続きをやろうと言うのでは無かろうな? 神の御膝下を貴様の様な悪魔の血で汚すのは耐え難いことだが、やれない事も無いのだぞ」
「まったく、せっかちな男。そんなだから未だに独り身なのよ」

転がった床から立ち上がり、スカートについた埃を払いながら軽口を叩くレジナレフ。幾分小馬鹿にした口調ではあるが、そこに軽口以上の意味は無い。レジナレフにしてみれば常に命を狙われてきた不倶戴天の敵であり、昨晩も一方的に殺されかけた相手。顔を合わせれば嫌味の一つも言いたくなるものだ。
レジナレフにとってはそれだけの事だ。だが、室内の空気が急速に変わった。

「……っ!?」

レジナレフがそれを避けれたのは僥倖か。転がる様にして飛び退き、轟音が僅かに遅れてやってくる。音の方を見ればレジナレフが立っていた壁にはアンドリューの拳が突き刺さっていた。

「貴様というやつは……!」

怒りに眼を血走らせ、アンドリューは呻くように言葉を発した。身を震わせ、堪えきれぬ怒りに歯がカチカチと鳴り響く。

「貴様というやつはァっ!」

叫びながらアンドリューはレジナレフに再び飛び掛った。昨晩よりもその動きは一際速い。襲い来る拳をレジナレフは、初撃だけはかろうじて受け流すが、間髪置かずして放たれた左フックを右頬に受けて血を吐き出しながら壁に叩きつけられ、崩れ落ちる。

「レジ姉っ!!」

突然の事態に自失していたヒサトだったが、殴り飛ばされたレジナレフを見てようやく動き出した。尚も追撃を加えようとするアンドリューとレジナレフの間に割って入る。

「くぅっ……!」

拳を両手で受け止め、衝撃に腕の血管が幾つか破裂してパーカーの下に無数の内出血を作る。それでも歯を食いしばって踏ん張るが衝撃に押されて後ずさる。

「邪魔をするなっ!!」
「いやだっ!!」

魔力で強化された打撃をヒサトはガードして身を守る。一撃受ける度に激痛が走り、意識が飛びそうになる。実際、アンドリューの打撃により骨が折れているのだが、異常な回復力で瞬時に回復している。故にヒサトは気づかない。
だからと言って怒り狂うアンドリューを打破できるか。
答えは否。剣の扱いには心得があってもヒサトに格闘の、それどころかケンカの経験すらほとんどない。

「ぐぇ……!」

アンドリューの拳がヒサトの腹に突き刺さる。ヒサトの顔が激しく歪み、血の混じった吐瀉物を吐き出して床を赤く汚した。
崩れ落ちるヒサトを容赦なくアンドリューは蹴り飛ばし、ヒサトも壁に叩きつけられた。

「ヒ…サト……!」

殴られた右頬についた自らの血をレジナレフは拭いながら立ち上がり、握りしめた拳を緩める事の無いアンドリューを視界に収めた。
肩を怒らせて歩み寄るアンドリュー。その眼は赤く、逆立てていた。

「どうした? 剣を抜かないのか?」

剣を顕現させればこの場は切り抜けることができる。説教をしていたためかアンドリューは帯剣しておらず、先程は不意を突かれたが、剣さえあれば間合いの差でどうとでもできるだろう。

「……何の真似だ」

しかしレジナレフはそうしなかった。腰を折り、アンドリューに向かって頭を下げる。

「謝罪を。知らなかったとは言え、貴方の、貴方を愛した女性を侮辱するつもりは無かったの。それに、今日は争いに来た訳じゃないから」

それは推測だ。アンドリューが何故、こうまでもレジナレフたち「アンタッチャブル」を憎むのか。教義に反する存在だから、という理由も一つだがそれにしてはアンドリューは執念深すぎる。
レジナレフはこれまでアンドリューに似た人間を多く見てきた。執念深く、執拗に人ならざる存在を憎む人間を。その誰もに共通していたのは一つ。大切な、とてもとても大切な人を奪われた事。
アンドリューとて大切な家族がいたのだろう。そしてそれはレジナレフに類する何者かに奪われた。最愛の女性を奪われた。その事をレジナレフが揶揄すれば、アンドリューに我慢出来るはずもない。
だからこその真摯な謝罪。頭を垂れて、無言で相手の反応を待つ。
果たして、それは正解だった。

「……ふん」

思ってもみなかった謝罪に毒気を抜かれたか、それとも憎き相手が頭を下げた事で溜飲が下がったか。アンドリューは鼻を鳴らし、視界からレジナレフを外して纏った魔力を解放した。
それと同時に、部屋の扉が軽く二度ノックされる。完全にはまだ気持ちが落ち着かないのか、幾分硬い、不機嫌さをのぞかせる声でアンドリューは応える。それでも人前で説教する時と同じ穏やかさと丁寧さを被せていたが。

「はい、どなたですか?」

扉に近づき、ノックした人物を迎え入れようとドアノブに手を伸ばしたアンドリューだったが、彼がノブを掴む前に扉が開かれた。

「やあ。何やら楽しそうな音が聞こえてきたからお邪魔するよ。もちろん出て行けと言われても聞く気は無いけどね」

気さくな語り口と不遜な態度でアンドリューに語りかける若い男がそこにいた。
その男の名は――

「クルツ司教……」

レオンハルト・クルツ。この教会の最高責任者であり――

「久しぶりね、レオンハルト極東聖礼教義士団団長・・・・・・・・・・様?」

アンドリューと同じくかつてレジナレフと殺しあった相手でもあった。








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