Top

第0章(09/11/03)
第1-1〜1-2章(11/02/12)
第1-3〜1-4章(11/02/12)
第1-5〜1-6章(11/02/12)
第1-7〜1-8章(11/02/26)
第1-9〜1-11章(11/02/26)
第1-12〜1-13章(11/02/26)
第1-14〜1-15章(11/02/26)
第1-16〜1-17章(11/02/26)
第1-18章(11/02/26)
第1-19章(11/02/26)
第1-20章(11/02/26)
第1-21章(11/03/06)
第1-22章(11/03/06)
第2-1〜2-2章(11/03/06)
第2-3章(11/04/24)
第2-4〜2-5章(11/05/15)
第2-6章(11/06/12)
第2-7〜2-8章(11/07/21)
第2-9章(11/08/01)
第2-10章(11/08/29)
第2-11〜2-12章(11/09/14)
第2-13〜epilogue(11/11/06)









現在の閲覧者数:

(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved






-10-




少し後ろにいるテティの手を引っ張り、アンジェは鉄格子に挟まれた通路を走る。鉄格子の奥からは囚人たちの叫びが絶え間なく響き、上階からの、恐らくは戦闘による銃声などと打ち消しあう。それでもこぼれ落ちた声はアンジェの耳に入り、逃げる脚の動きを鈍らせる。助けられるものなら助けたい。だが、自分にはその手段が無い。

(ゴメンナサイ……)

走りぬけながら、心の中でアンジェは何度も謝罪の言葉を口にした。
手段が無いわけでは無いのかもしれない。自分が本気を出せば、鉄格子を歪ませたり、扉を外したりするくらいはできるかもしれない。でもそれには時間を要し、せっかくハルが敵を引き受けてくれたのに、逃げることができなくなる可能性がある。自分が逃げ遅れて傷つくのは特に構わない、とアンジェは思う。痛いのは嫌だけれども、他の人が傷ついてしまうよりはよっぽど良い。

(社会の害になる人間が死んだからって何か問題があるんですか?)
(犯罪者でも……人は人だから)

脳裏を走る、リーナの言葉。それをアンジェは否定したし、今後も否定し続けるだろう。だが、今の自分はどうか。掌から伝わるテティの温もりと、逃げるな、と怨嗟の声を四方からぶつけてくる囚人たち。どちらを救うかと問われてる今の状況の中で、アンジェはテティを選んだ。ならばリーナとアンジェの違いは何処にあるというのか。明確に意識しているかどうかの違いしか無く、本質的に同じではないか。逃げる脚こそ止めないものの、頭を巡る思考に囚われて、そしてそれを振り払う様にアンジェは腕に力を込めてしまった。

「……痛いよ、アンジェお姉ちゃん」

テティの声にアンジェはふと我に返る。離してしまわない程度に握る力を緩めて、「ゴメン」と謝る。テティは何事か言いたそうにアンジェを見上げるが、アンジェは笑顔を浮かべて取り繕うとテティから視線を逸らして、正面のドアを開けた。思考を重く引きずったままに。
ドアを開けると螺旋状の階段がずっと上の方まで続いていた。部屋の中にいた時よりも一層大きく声が聞こえ、石造りの壁に反響して三六〇度から二人に届く。階段の上部で戦闘があっているのか、石の破片が時折降り注ぐ。

「行くよ? お姉ちゃんの手を握ってちゃんと付いて来てね」

テティに告げて、階段を駆け昇り始める。昇る速度はテティに合わせて、変わらない石壁を見続ける。グルグルと周り続けるその景色はまるで自分の思考の様。抜け出せないループに囚われて、こうして上へと登りながらも同じ考えを繰り返している。

「アンジェお姉ちゃんは間違ってないよ」

わずかに下から声が届く。

「お姉ちゃんが感じたことはきっと当たり前の事だよ。人間でもロバーでもさ、知ってる人と知らない人のどっちかしか選べないんだったら知ってる人を選ぶの。それは自然な事で、太陽が東から昇るのや、昼が夜に変わるのと同じくらい当然の事なんだよ。ましてや、犯罪者にまで悩んじゃうアンジェは優しすぎるの」

アンジェの心の内を性格に見透かし、テティは諭すようにアンジェに向かって語り掛ける。優しく微笑み、見つめるその瞳に宿るのは慈愛。階段の上段にいるとはいえ、見下ろした先のテティの姿は変わらず小さい。なのに、その姿はアンジェよりもずっと大人びて見えて、その言葉はそっとアンジェを包み込む。
いつの間にか脚を止めてアンジェはテティを見つめていた。テティは優しく口元を綻ばせていたが、ニッと横に大きく唇を広げて笑うと、また普段と同じ快活そうな様子でアンジェを追い越して手を引っ張る。

「ほら、もうすぐ外だよ? 早く逃げよ?」

手を引きながらテティは階段を駆け上る。敵はすでに中に入り込んで、各々のフロアを制圧しているのだろうか、どこまで昇っても階段にはその姿が見えない。代わりに戦いの声だけが階下から立ち昇る。アンジェは引っ張られる手に戸惑いを感じながらも、気持ちが落ち着いていくのを自覚していた。どこかにあった、テティを守らなければいけないという年長者としての頑ななプライドが程良く溶けていく。
誰かを守らなければ、という気持ちは、思えば初めてだった。誰でも守らなければ、という強迫はあれども、特定の誰かを守ろうという想いはこれまで無かった。昔の記憶がない以上、これが本当に初めてかは分からないけれど、今のアンジェにとっては確かに初めてで、だからこそ気負っていた部分があったのかもしれない、とテティの後ろを走りながら思った。
やがて螺旋状の階段が終わり、真っ直ぐな階段に変わる。石段を踏みしめ、正面に浮かぶ一枚のドア。半開きのそこから暗い階段に光が差し込んでいる。二人とも戦闘に巻き込まれずに外へと脱出できた。ドアノブに手をかけるテティを見ながらアンジェは密かに胸をなで下ろして、ドアから一歩を踏み出した。

閃光が二人を焼いた。
アンジェは衝撃で弾き飛ばされて階段を転げ落ち、全身を強かに打ちつけながら踊り場に到達した所でようやく止まった。何とか起き上がるも頭を打ったのか、視界が揺れる。何が起こったのか分からないまま、アンジェは胡乱な思考でドアがあった場所を見上げた。次第にアンジェの思考が平静を取り戻し始め、そこでアンジェは気づいた。

「テティちゃん……?」

先ほどまで感じていた、そして未だに掌に残る柔らかい温もり。だが今は、アンジェの手にテティの手は無い。
体が、震える。過る不安に歯がカチカチと音を立て、それでもアンジェは「そんな訳ない」と浮かぶ想像を頑なに否定する。
違う、違う。何かの間違いだ。
階段を一歩踏みしめる度に否定する。何度も、何度も。
それでも震えは止まらない。階下からの戦いの熱と背筋が凍るような冷たさ。相反するのに、アンジェの体には汗が吹き出していた。

階段を登り切っても、そこにドアは無い。そしてテティの姿も。
「この先にテティがいるはず」そう言い聞かせて、アンジェは部屋へと脚を踏み入れた。

そこは地獄だった。
立ち込める黒煙。むせるような息苦しさ。部屋を仕切っていた壁はすでに無く、そこら中に散らばる人の姿。散乱した書類がチリチリと音を立てて燃え、崩れた外壁からは埋め込まれた鉄骨が姿を現している。
生の香りは無く、死の匂いがアンジェを包み込み、まとわりつく。屋根は無く、惨事の狼煙を場違いに晴れ渡った空へと誘っていた。
アンジェは無言で瓦礫の山と化した建物を呆然と見ていた。理解が、現実に追いつかない。足元が覚束無い。ただ夢遊病者の如く歩くだけ。

「ん? まだ生き残りがいたのか?」

耳に入ってきた声にアンジェは振り向いた。生き残りがいる。そんな期待を抱いて、しかしそれはすぐに裏切られる。
彼女は一人立っていた。燃え盛る火炎の中でマントをはためかせ、身につけた手甲、衣服の類に一切の汚れを見せずに。

「下から逃げてきたのか。幼いが、こんな所に居るということは、報告にあったギルトに傭われた護衛か」

やれやれ、と肩を竦めながら彼女はアンジェに向き直り、歩み寄ってくる。長い赤毛を揺らし、分厚く頑丈なブーツで床を踏みしめ、死体の上を平坦な道を歩くかのように平然と歩く。火炎の熱を受けて、白い頬はやや紅潮している。それとも地獄に興奮しているのか。
その姿を認めた瞬間、アンジェの脳裏に次々と景色が浮かび上がる。笑いかけてきた門兵の笑顔、仕事を真面目に進めていた職員たち、屈託の無い笑顔を浮かべるテティ、姉の様に諭すテティ、暖かく手を引いてくれたテティ。そして――
いつか見た、全てが崩壊した青空。

「あああああああぁっ!!」

気づけばアンジェは吠えていた。固く、熱い床を蹴ると同時にアンジェの姿が掻き消える。と同時に彼女の前にアンジェの姿が現れる。
振りかぶられた左腕がきしみ、金属の腕が彼女の顔へと吸い込まれる。
だがアンジェの腕は宙を掻いた。
彼女はただ首をわずかにずらすだけでアンジェのパンチを避け、涼しい顔でほう、と小さく感嘆の声を上げた。
だがアンジェは止まらない。続いて左足を軸にして右腕を腹部へと突き立てようとする。が、彼女は今度は体全体を回転させ、またしてもアンジェの腕は空を切る。

「ラスティングか。速さは中々だな」

次々に繰り出されるアンジェの攻撃を事も無く避けながら賞賛の声を掛ける。

「だが」

何度目か分からない程突き出されたアンジェの腕。彼女自身が評したように決して遅くは無い。それをあっさりと掴むとそのままアンジェの脚を払って、背負投げの様に軽々とアンジェを投げ飛ばした。

「動きが荒い。そして単調」

瓦礫の山へと向かっていくアンジェ。しかし、ぶつかる直前に体勢を整えて着地。
右腕を真っ直ぐに突き出す。二の腕が裂け、そこから現れる銃。

「なっ!?」

そこで初めて彼女は驚きの声を上げた。完全に虚を突き、動きが一瞬だけ停止する。そしてアンジェはその隙を見逃さない。すかさずアンジェの右腕から頭部めがけてゴム弾が弾き出された。
射出速度、位置とも十分。相手がラスティング使いであってもかわすのは不可能。例え、相手がハルであったとしても。
なのに――
彼女は笑う、嘲う。こんなのは危機では無いと、些事で取るに足らない出来事だと口元を嬉しそうに浮かべた。
直後、弾が爆ぜた。爆発音と共に跡形も無く消滅し、後には虚空のみが残る。今度は逆にアンジェが驚きに染まる。それでもアンジェは止まらない。なおも続けて銃を撃ち、彼女に向かっていくつもの弾が飛び出していく。
不意をついた先ほどの攻撃であればともかく、銃といえども彼女の脅威には成り得ない。容易く避けることも可能だ。
だが彼女はそうしなかった。口元に浮かべた笑みを更に深くすると、その場から一歩だに動かずして弾は全て爆ぜ消えた。
アンジェは悔し気に顔をしかめる。遣る瀬無い怒りをぶつけるべく、彼女を睨みつける。
そして二人の視線が交差する。瞬間、アンジェの背筋に何かが走る。それが何かを認識する前にその場から飛び退いた。
同時、アンジェがしゃがんでいた場所が爆発した。ゴム弾が爆ぜるのとは比べものにならないほどの爆発。付近の瓦礫が吹き飛び、その爆風は近くの壁ごとアンジェを弾き飛ばした。
爆音が収まり、立ち込めた煙もまた徐々に収まっていく。建家の崩壊が進み、完全な廃墟と化した部屋の中心に彼女は立っていた。

「……大した頑丈さだな。流石に感心したよ」

もう一人、アンジェもまた部屋に残っていた。頭部からは血を流し、シャツも破けてその下から血がにじんでいたが、彼女を睨みつけたまま銃を向けていた。

「護衛は全員ノイマンだと聞いていたが、ロバーが混じっていたとは思わなかったよ」
「どうして……」
「あん?」
「どうしてこんな事をするんですか!? みんな、ただ働いていただけなのに……生きていただけなのに……テティちゃんまで……」
「理由ねぇ……」

涙を浮かべたアンジェに問われ、彼女は軽くため息をついた。そして呆れた風に言う。

「テティっていうのが誰かは知らないけど、殺した理由なんて一つしかないな。邪魔だったからだよ」
「邪魔……?」
「そ。邪魔だったから。こっちとしても仕事なんでね。依頼主様が地下のお仲間を始末したいっていうんで、その障害になりそうな連中をまとめて私が相手をした。戦争を起こせって言われてきたからまあ多少派手にやらかしたことはやらかしたけどな」

悪びれもせず言ってのける彼女に、アンジェは怒りを禁じ得なかった。人を殺すことに対して何の罪悪も後悔も感じていない。ここを吹き飛ばす時も、テティを消し飛ばした時も何の感情も抱かなかったのだろう。気がつけば強く奥歯を噛み締め、それでも堪え切れなかったのか、噛み切った下唇から血が零れ落ちていた。

「しかし、ロバーというのは面白いな。先の大戦でメンシェロウトをこれでもかと痛めつけ、蔑んでるのに見た目は人間に似せようとする。体を巡るオイルでさえ着色して赤くしている。唇から流れるその油も一見私たちと同じ血液にしか見えないな」
「……私たちの血も、ロバーの人たちのオイルも一緒です。生きているのに変わりありませんよ」
「まったく、模範解答だな。面白くない。
ところで、だ。お前、今自分とロバーを区別したな? ということはお前はロバーじゃないのか?」

アンジェはなおも銃を構えているにもかかわらず、彼女は涼しい顔をして疑問を口にする。それにアンジェは発砲することで応えた。

「これくらいは応えてくれてもいいんじゃないか?」

予め知っていたかのようにあっさりと避けると、彼女はアンジェの目の前を爆発させた。自身に直接来なかったせいか、アンジェはそれを予期できず爆風に弾き飛ばされる。しまった、とアンジェに焦燥が走り、慌てて起き上がろうとするがアンジェの喉元を彼女の掌が抑えつけた。

「がっ!」
「私も気が長い方じゃないんだ。わざわざ生かしてやってるのに反抗的な態度はいただけない」

冷たくアンジェを見下ろす。紅潮していた頬は今は白く、彼女の中にあった熱は完全に引いていた。
アンジェはその拘束から逃れようと銃の飛び出した右腕で彼女の腕を叩き、もがく。が、喉を締め付けるその力は強く、彼女の腕は鋼鉄のように強固。万力の如く締め付けは強くなっていく。

「私の質問に正直に答えろ。嘘やはぐらかしは無しだ。そうすれば助かるかもしれないぞ?」
「何を……」
「まず最初の質問だ。お前はロバーか、それともノイマンか?」
「わ、私は、メンシェロウトです。少なくとも生まれた時は……」
「二つ目。いつ、何処でその腕と能力を身につけた? メンシェロウトならそんなモノは持っていないはずだ」
「……覚えていません。気がついた時にはこんな体になってました。昔の記憶がありませんから」
「最後だ。
お前の名前はアンジェリーナか?」
「……近いですけど違います。私はアンジェです。アンジェリーナじゃありません」

馬乗りのまま彼女はしばし黙考した。質問にどんな意味があったのか、アンジェには分からないが今すべき事は彼女の手から脱すること。アンジェは思考を巡らせるが、すぐに妙案が出てくるわけではない。手段は浮かぶものの、そのどれもが思案の中で失敗する。アンジェは敵である彼女の結論を待つことにした。
生か死か。アンジェの命は今彼女の判断に握られている。目を閉じて考えてみれば、ここまでの危機は記憶にある中では初めてかもしれない。
記憶がないままに旅をして多くの人と出会った。戦火がまだ収まっていない時は毎日の様に人の死の話を耳にした。直接戦火に巻き込まれた事は無かったが、それでも誰かの夫が亡くなった、あの人の息子が死んだ、と言った噂は途切れない。中途から始まった記憶は常に死と共にいた。誰かの悲しみと共にあった。
ハルと出会ってからも多くの人と出会った。戦争は終わって、だけども今度は自分が争いに巻き込まれるようになった。目の前で誰かが死に、絶望し、救えなかったことに怒り、悲しんだ。闘争がきっかけで人生を狂わせた人がいた。狂って狂って、そして、死んだ。
たくさん見てきた死が今、自分の目の前にある。今自分の喉に手を掛けている。吐息がアンジェの頬に触れている。だが、不思議と怖くは無かった。
アンジェは目を閉じて彼女の手の温もりを感じていたが、不意にその力が緩む。アンジェが眼を開けると、馬乗りになっていた彼女が立ち上がり、アンジェに向かって手を差し伸べた。

「アンジェリーナ、いや、アンジェ。私と一緒に来い。君にはその資格がある」
「え……?」

上半身を起こし、アンジェはその手を見つめる。何を言っているのだろうか、この人は。アンジェは訝しみ、説明を求めるように彼女の顔を見上げた。

「ある方が酒飲み話に昔私に話してくれた。自分には家族がいると。同じ施設で育った女の子で、いつも自分と一緒に過ごしていた妹がいる、とな」
家族がいる。その言葉はアンジェの内をかき乱した。言葉だけがグルグルと頭の中を回り、言葉が言葉としての意味を成さない。思考が白濁し、全てを洗い流してしまう。

「……信じられません。何の根拠があってそんな事を。だいたい、私には姉妹なんていませんでした」

かろうじて絞りでたのは否定の声だった。容易く、信じられるはずがない。途中の記憶はないと言っても、昔の記憶が全くないわけでは無い。遠い過去、まだ自分が遙かに幼かった昔の幸せな記憶は残っている。父がいて、母がいた。友達もいた。だがそこに姉の姿など無かった。

「それは当然だろう。あの方と君に血の繋がりは無いのだから。ただあの方が君のことを妹の様に可愛がっていたというだけだ」
「それでも、信じられませんし、アナタたちの仲間になるなんてイヤです」
「君と同じく、手足を改造されているとしてもか?」

その言葉に、アンジェは伏せ気味だった顔を上げた。彼女の放った言葉を頭の中で反芻し、無意識の内に硬い金属でできた仮初の腕を撫でていた。

「あの方もメンシェロウトだったと仰っていた。何がきっかけでノイマンとしての能力を身につけたかは話していただけなかったが、君と同じでメンシェロウトでありながら手足に武装を備え、ノイマンとしての力を以て我々の上に立っている。
記憶が無いと言ったな? もしかすると君の失われた時間を与えてくれるかもしれんぞ? なに、可愛い妹の言葉であれば、この通り苛烈な方ではあるが暴力的な行動を控えてくれるかもしれないな」

さて、どうする?ともう一度彼女はアンジェに向かって手を差し出した。強制はしない。全てが崩壊しそうな廃墟の中で黙ってアンジェを待つ。
アンジェは迷う。知らない自分を知っている誰か。その言葉は抗いがたい誘惑を携えてアンジェを誘う。
自分が何者であるか。過去を気にしていないつもりでいたが、その実、過去はアンジェを蝕んでいた。自己の正体を突き止めたいという想いは、意識の奥底で着実に膨らみ続けていた。
過去というバックグラウンドを持たない事を意識することは殆ど無い。だが、それでも時に不安に襲われるのだ。自分の居場所、自分の価値、自分の考え。十数年というまだまだ短い人生だが、それが今の自分を創り上げた。そのはずなのに創り上げてくれたはずの何かを知らない。だから自分に自信が持てない。価値観に違和感を覚える。誰かからの反論を受けて容易く考えが揺らぐ。足元が、揺らぐ。
もし自分に確かな足場があれば、救えなかった人でさえ救えるのでは無いか。飛躍したというにも飛びすぎた考えだが、そんな事さえ考えてしまう。
だからこそアンジェは迷った。彼女は敵だ、と頭が理解していても心が理解を拒む。誘う手が、心を掴む。
震える手が彼女の手に向かって伸びる。ゆっくり、ゆっくりと。そしてアンジェの手が彼女の手に触れる。
その時、互いが弾かれた様に体を引いた。
それから間を置かずして何かが二人の間を通り過ぎる。ハッとしてアンジェは振り返り、彼女はチラリと横目で通り過ぎた何かを見た。
通り過ぎたのは男だった。アンジェには見覚えは無いが、彼女は記憶の片隅にその男を留めていた。
確か、下の階で陽動を担当していたはずだったか。
それだけを思い出し、壁に突っ込んで動かなくなった男から興味を失った。すでに彼女の興味は男が飛んできた原因に向かっている。

「まったく、人の相方を勝手に勧誘してんじゃねーよ」

いつの間にか、下から聞こえていた喧騒は止んでいた。静かになった階段にカツ、カツ、とブーツが石段を叩く音がする。声の主はゆっくりと姿を現した。

「ハル!」

歓喜に彩られた声にハルはアンジェの方を一瞥し、彼女の方に向き直る。そして、楽しくて仕方ない。そう言いたげに獰猛に口元を歪めた。

「ほらよ、忘れもんだ」

乱暴に左手に抱えていた物をハルは彼女に向かって放り投げる。汚れきった床を一度バウンドし、それはアンジェと彼女の間で止まると、小さくうめき声を上げた。

「うぅ……」

果たして、それはアウトロバーの男だった。最地下の一番奥の部屋で奇襲を仕掛け、捕らえられていたユビキタスの男を殺害し、ハルと戦っていたはず。だが、今転がっている彼の姿は、現れた時の姿は微塵も残っていなかった。手足をもがれ、全身を循環しているオイルが流れ落ちている。剣は折られ、マントは破れてボロ布と化した。短い金髪は埃でくすんで灰色に染まってしまっている。

「アタシもつくづく優しいよな。敵をわざわざお仲間の所にまで連れてきてやるんだからな。感謝して欲しいものだよ」
「ふむ……それならせいぜい感謝することとしよう」

ハルの言葉に彼女はそう応えるとしゃがみ込み、転がったまま身動きできない男の顔を覗き込んでいやらしく哂った。

「気分はどうだ? 見下していたノイマンにこっぴどくやられた気分は? 加えて情けを掛けられて生かされている気分は?」

男は答えない。代わりに苦しげに、忌々し気に彼女の顔を睨みつける。それを見て、彼女はますます哂った。

「だけど私はこれでも慈悲深いんだ。お前は知らないだろうけどな。私が気になっている事に答えたら助けてやろう。なに、簡単な質問だから言葉は要らない。首を縦か横に振るだけだからな。
地下のお前の仲間の処分は終わったか?」

笑顔を浮かべて彼女は問う。男は小さく顔を縦に振った。

「そうか。それを聞いて安心したよ」

笑みを深くして、彼女は立ち上がる。何をするのか。男だけじゃなく、アンジェもハルも彼女の動きに注視した。

「じゃあゆっくり休んでくれ」

彼の頭が爆ぜた。部品とオイル、それと柔らかい何かがが辺りに撒き散らされ、顔を覆ったアンジェの腕を汚す。
アンジェが腕を下ろし、眼をそっと開けると男だった「モノ」が転がっているだけだった。
カチカチとアンジェの歯が音を立てる。それは恐怖によるものか、それとも怒りか。アンジェ自身も判別がつかぬまま、彼女の姿を見上げた。
なぜ、とアンジェの口が疑問を発するその前にハルが口を開いた。

「いいのか、殺してしまって。同じユビキタスの仲間だろ?」
「構わない。仲間でも無いし、同じ組織のロバーでも無いしな。精精が嫌な依頼主ってところだ」
「いや、尚更まずいだろ、それ」
「証拠は無い。戦争で戦死って事で上も納得する」

事も無げに言ってのける彼女だが、感情の揺らぎは見て取れない。正真正銘そう思っているのだとハルには分かった。そしてハルもそれに対して異論は無い。戦争であれば、コイツは早死するタイプ。それも周りにも疎まれて。それに、こんな奴はいなくても困りはしない。

「それよりもアンタ、爆発ブロークンを使うのか。久々に見たな」
「珍しい能力だと自負しているよ。どうする? もう一度見せてやろうか?」
「ああ。ぜひ見せてもらいたいもんだ」

恍惚の表情を浮かべ、ハルは舐めるように彼女の体を射抜く。ゆるゆると動き、いつでも対処できるよう力を抜いて彼女の反応を待つ。
彼女もそんなハルの期待を把握し、ハルに相対するが、意味あり気にいたずらな笑みを浮かべた。

「じゃあお披露目させていただこうか。アンジェ、君にはまた会うこともあるだろう。それまでにさっきの提案を考えていてくれ」

それだけ言い残し、ハルとアンジェの目の前が爆発する。顔を背け、爆風が治まった後を見ると、そこにはすでに誰もいない。跡に残るは瓦礫の山と死人のみ。

「ち……逃げられたか」

忌々しそうにハルが漏らし、彼女がいた場所を睨む。
結局、彼女が何者なのか、誰も知らないまま嵐は去っていった。ユビキタスに加えて面倒そうな組織がまた一つ明らかにはなったが、任務は半分失敗といったところ。あの女に何を言われるんだろうな、とギルトのトップの顔を浮かべ、深々とため息を吐く。

「あのぉ……もう出て行っても大丈夫ですか?」

と、背後から不安げな声が二人に届く。二人が揃って振り向き、声の主を確認するとハルは「ああ」と応える。
リーナは恐る恐る階段から部屋へと脚を踏み入れ、そして辺りの惨状に顔をしかめるとズレたメガネの位置を直す。

「リーナさん……無事でよかったです」
「アンジェさんもご無事の様で良かったです」

リーナはアンジェのそばに駆け寄り、アンジェの手を握って嬉しそうも笑った。アンジェもまた無事なリーナの姿にホッと胸をなでおろすが、すぐに表情を曇らせる。

「アンジェさん……? どうしました? どこか怪我でも……」
「いえ、そうじゃないんですけど……」
「そうだ、アンジェ。テティはどうした? ちゃんと無事に逃げ切れたか?」

その言葉がテティの胸を鋭く、深く抉る。唇を噛み締め、震えを抑えようとするが上手くいかない。ジワリ、と涙が目尻に浮かび、顔を上げられない。雫が床へと零れ落ちる。それでハルもリーナも事情を察した。

「まさか……」
「うそ、だよな? そうだろ、アンジェ?」
「ゴメンナサイ……守ってあげられませんでした」

しゃくりあげ、何とかアンジェは言葉を搾り出した。だが言葉は続かない。ハルもリーナも呆然として、涙を流すアンジェを見るしか無かった。

「……勝手に人を殺さないでくれる?」

どこかからか聞こえた、知った声。もう聞くことはできないと思っていた声。アンジェは弾かれた様に後ろを振り向いた。
崩れた瓦礫が動き出す。大きなそれを押しのけると、金色の長い髪が顕になった。

「テティちゃん!」
「テティ! 無事だったのか!」

頭を抑え、ヨロヨロと立ち上がるテティをアンジェとハルの二人で支える。アンジェの表情にも笑顔が戻り、悲しみの涙は今、喜びへと変わっていた。
ハルの胸の内にも、喜びと安堵が広がる。天を仰ぎ、涙が零れるのを我慢する。
が――

「あ?」

ハルの体が後ろに引っ張られる。それが何故なのか、理由について考える間もなくハルは意識を失った。









無料アクセス解析





前へ戻る

次へ進む








カテゴリ別オンライン小説ランキング

面白ければクリックお願いします







SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送