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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved






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そこは暗かった。
前後左右どちらを向いても黒しか見えず、どこまで行ってもやはり黒しか視界には入らない。自分が何処に向かって歩いているのかも分からないのに、足の裏の感覚だけは鋭敏。素足の指に、一歩踏みしめる度に泥のような何かが食い込んで生暖かい感触を与えてくれる。同時に体から熱を奪い去り、芯から凍えていく。
足に力を込める。泥を蹴り、だがぬめったそれは表面が滑るだけ。体は遅々として前に進まない。行為はただ徒労となって疲労が体に溜まっていく。
苛立つ。ひどく苛立つ。
じっとりと額に汗が浮かび、一度ぬぐえば足元の泥の様に多大な粘力で指にまとわりつく。
何故、どうして俺はこんな所にいるのだ。
疑問が男の頭に浮かび、明確な答えが出る前にタバコの煙の様に消えていく。消えれば再び同じ問いを、言葉がわずかに変わってまた男の頭を占め続ける。
どれだけ歩いたか。分からない、分からない。歩き続け、だが前に進んでいるのか後ろに退がっているのか。
やがて彼は膝をついた。両腕と両足がズブズブと音を立てて泥の中に沈んでいく。そしてそれに抗わない。
もう、いい。
ひどく疲れた声で、彼は誰とはなしに呟いた。
腕も足も重い。まるで何十キロもの重りを吊るされている様。眠るように少しずつまぶたも降りていく。

「パパ」

その声に彼は顔を上げる。ずいぶんと昔に聞いた、懐かしい声に。
顔を上げた先は光り輝いていた。光の中には子供。小学生に到達するかしないかくらいの、小さな女の子が立っていて、彼の方を見つめていた。

「パパ」

女の子はもう一度彼をそう呼んだ。その事に気づき、ようやく彼は目の前の女の子が自分の娘である事を知った。

「アナタ」

別の声と共に、女の子の隣にもう一人女性が現れる。女の子よりずっと大きい身長と、その落ち着いた声色。少女の母親であり、そして彼の妻だった。

「パパ」
「アナタ」

交互に彼に向かって呼びかける。涙がこみ上げてきて、眼に差し込む光が陽炎の様に歪む。
――ああ、そうだった

この子の為に、自分は走っていたのだ。彼女の無念を晴らす為に自分は自らを壊したのだ。それを思い出し、涙を拭って彼は泥の中で立ち上がった。

「パパ」
「アナタ」

彼女たちは呼びかけ、彼に向かって手を差し出す。
彼と比べて細く、小さな手。そして優しい温もりと柔らかさを持った手。彼はその手を取ろうと腕を伸ばす。
伸ばした。
精一杯伸ばした。
一所懸命に伸ばした。
だがどれだけ手を伸ばしても届かず、光と闇の境界線を越える事ができない。彼女たちと自分の間に細く長く広がった境目をまたぐことができない。

ああ、どうして彼女たちに触れることができないのか。
――どうして、彼女たちの顔が思い出せないのだろうか




男は眼を覚ました。そのまましばらく天井を見上げ、眼を見開いたままでいた。
何故俺はここにいるのだろうか。ぼんやりとして曖昧な記憶が刹那の間に具体化されていき、、記憶の最後にたどり着い時、今自分が生きていることを知った。
深く息を吐いて右腕で額を拭う。夢と同じ汗が同じ感覚で指にこびりついた。

「起きたか」

突如かけられた声に、男はハッとして振り向く。左隣のベッドにはハルが片膝を立てて座り、男に薄ら笑いを向けていた。

「ここは……」

どこ、と尋ねようとして体を起こすが、不意に走った痛みに言葉が途切れる。

「なるべく動かない方がいい。骨は折れてないみたいだけど、強か全身を打ちつけてるみたいだ。
生身のメンシェロウトを投げつけるなんてまったく、アイツも意外と無茶する」

それを聞いて男は布団をはがして自分の体を見てみると、綺麗に包帯が巻かれていた。腕の包帯はかなり雑に巻かれていたが。
視線を腕からハルに移し、それを受けてハルは顔を後ろに立っていたアンジェに向ける。アンジェは恥ずかしそうに身を縮こませた。
アンジェは上目遣いにそっと男を見るが、男はそれ以上特に気にするわけでもなく、痛みに顔をしかめながらも体を起こした。

「ダメですよ!まだ寝てないと」
「いや、大丈夫だ」

制止するアンジェを振りきって男は立ち上がる。感謝する、と礼を述べながらそこで男は初めて間近でアンジェの顔を見た。
困った人。そう言うかのように眉尻を下げて笑うアンジェ。一瞬だけ記憶の中の彼の妻や娘の姿と重なり、それを振り払うかのように頭を一度振った。

「どのくらい俺は寝ていた?」
「爆発があったのが昨日だよ」
「そうか」

短く返事をし、ベッド脇のチェストの上に掛けられていた肌着を着てシャツを羽織る。二人のどちらかが洗濯したのか、シワはよっているものの、汚れていたはずの黒いシャツは綺麗になっていた。

「何処に行くつもりだ?」
「そこまで教える義理は無い」
「こっちとしてはお礼くらいはしてほしいと思ってるんだけど?」
「なら金をやる。治療費と迷惑料だ」

そう言って男はズボンのポケットからクシャクシャの札束を取り出して、ハルに放り投げた。ハルはそれを受け取り、だが横を通りすぎようとする男の腕をつかんで掌に金を押し付ける。

「何の真似だ?」
「金は要らない。こっちは素人だからな。金をもらうほど立派な事はしちゃいないよ。
それよりまだ礼を言うべき相手が残ってるだろ?」

怪我をさせた張本人だけど、とハルは残る一つのベッドで寝ているオルレアを見た。
オルレアは休止モードに移行しているのか、ハルの声に反応せず眠っていて、掛布団の上には汚れたコートが乗せられている。
布団から出ている顔には幾つもの細かい傷が刻まれ、足の部分は布団が不自然な形で膨らんでいた。

「なるほど。確かに道理だな」
「というわけでコイツが眼を覚ますまではここにいる気はないか?」
「礼を言いたいのは山々だが、こちらも急いでいるのでな。悪いがそちらから伝えてくれ。 アブドラが心から感謝している、と」
「アブドラね。それがアンタの名前か。
ところで、だ。アンタの抱えてた物……あれはアンタの物と考えていいのか?」

アブドラを見ながら、ハルは親指でベッド脇のチェストを指差した。見るからに頑丈そうな箱が天板の上に鎮座し、部屋の灯りを反射していた。

「オルレアが持って帰ったは良いけど、どうにも扱いに困ってね。何とか安全に処分したいんだけど、アンタの物ならアンタに返すのが道理なんだけど」
「もしそうだと言ったらどうする? 俺をギルトにつき出すか?」
「証拠は無いからな。たまたまアンタが爆弾を見つけて、慌てて持ち出したって可能性もあるし、下手な事はできないさ。特にアタシらみたいなのはこの街では、ね」
「ふん、メンシェロウトが怪しいとあれば奴らも喜び勇んで捕まえに来るだろうな」

クックック、と肩を震わせてアブドラは低く笑う。褐色の顔に横に裂けた口を張り付かせ、嘲る様にその声を次第に大きくさせていく。
静かに、激しく笑う。矛盾を内包した嘲笑は、室内に異様な雰囲気を作り出す。アンジェは気圧されて一歩引き下がり、ハルは黙って真剣な表情でその様子を見ていた。
ひとしきり愉快気に笑った後にピタリと声が止まって、だがわずかに表情は緩めたままハルに向かって口を開く。

「だが残念ながら犯人は俺だ。いや、犯人の一人が俺と言った方が正確か」

アブドラが淡々と告白し、ハルはわずかに顔を伏せて深いため息をついた。

「やっぱりそうか……」
「それで、どうするんだ?」

アブドラが尋ねるが、ハルは一段と表情を険しくするもののそれ以上口を開かない。何かを迷うように口元で左手を遊ばせていた。
何も言ってこないハルに興味を無くしたのか、アブドラは失礼する、とハルの脇を抜けてドアの方へと進んでいく。が、アンジェがその行く手を遮った。
両腕を広げ、アンジェにしては珍しく厳しい表情を浮かべて、頭ひとつ大きいアブドラの顔を見上げる。

「どいてくれないか」
「どきません」
「体ならさっきも言った通り問題ない」
「それでも、です」
「……すまない」

短く謝罪の言葉を口にし、力ずくでアンジェをどかそうと肩に手を掛ける。しかしその瞬間、アブドラの体は宙に浮いて元居たベッドの上へと戻された。急に変化した視界に戸惑い、一瞬だけ呆然としたが、いつの間にか立ち上がっていたハルの姿を捉えると小さく舌打ちした。

「お前……ノイマンか。しかも身体系パワータイプ」
「やっぱ悪いけど力ずくでもアンタをここから出すわけには行かないな。
アンタも手ぶらで出ていくわけにはいかないだろ?」

ハルはマントの中に手を突っ込み、ポケットから何かを取り出す。それを見た途端、比較的穏やかだったアブドラの顔が一変して怒りに満ちた。

「貴様……!」
「失礼ながら勝手に中を見させてもらったよ。年季が入った物みたいだけど、随分と大切にしてるみたいだな」
「さっさとコッチに寄こせ」
「分かってるよ。別にアンタの大切なモンを奪うつもりなんて無いさ」

右手から釣り下げられたロケット。それを大事そうにハルは掌に仕舞うと、アブドラから差し出された手に丁寧に返した。
アブドラがロケットの蓋をまるで壊れ物を扱うかの様にそっと外す。そこにはずっと変わらない笑顔を浮かべている女性と、その女性に抱えられて首に抱きついている四、五歳程の女の子が幸せそうに笑っている姿があった。その写真をアブドラは、本物の二人にする様にして指で撫でる。

「アンタの奥さんと子供か?」
「そうだった。今はもういない」
「……戦争で亡くしたのか」
「違う」

ハルは最もありそうな理由を挙げるが、アブドラは即座にそれを否定した。グッと奥歯を噛みしめて眉にしわを寄せ、アブドラはこみ上げる怒りを堪える。だがそれでも抑えきれない感情が粘度を持った空気越しにアンジェとハルの二人にも伝わる。

「……理由を聞いてもいいか?」
「他人に聴かせる話など無い」
「なら」

一度口を開き、だがためらいがちにアンジェは言葉を続けた。

「どうしてそんなに泣きそうな顔をしてるんですか?」

聞いて、ハルは怪訝な顔をした。怒りは感じれども、泣きそうな、という表現は目の前の男の表情には相応しくない。しかめ面に噛み締めて音を立てる歯。憤怒、といった方が正確だろうか。少なくとも涙をこらえているようには見えない。
一方で、アブドラの内心は驚きに染まっていた。家族を失った原因に対して怒りはこみ上げる。だが亡くした妻と娘を思い出して、その思い出と失った時の悲しみが心の奥深くから蘇ってもきた。涙がこぼれそうになる。その時の表情が、彼は怒りと同質だった。そしてそれに気づいてくれたのは、今まで亡き妻しかいなかった。
アブドラはその驚きをごまかすかのように一度天井を仰ぎ、自身の内に溜まってきた悲しみを言葉と共に外へと吐き出した。

「つまらん話だ」

軽く息を吐き出し、アンジェの顔を見る。アンジェの顔が、幼き娘の顔とだぶった。

「イルークという国を知っているか?」 「名前だけは、な。東の方の、確かミットオーステンと呼ばれる地域にあって、メンシェロウトの国だったが、今はアウトロバーに半分占領されていたはずだ。
そこの出身なのか?」
「そうだ。砂漠地帯が多くて緑化に成功した都心部か、点々とあるオアシスを中心とした小さな町に国民の大部分が住んでいて、その西の端にある町とも言えない町に俺の生家があった」

記憶を探る様に眼を閉じ、アブドラは静かに話し始める。
その口調は故郷を懐かしむ様で、口元が少しだけ緩んでいた。

「個人の商店ばかりが並んで、住人はそうしたたまにやって来る旅人を相手にした店で働いているか、農業や畜産業をして生計を立てていたよ。
何もない、本当に小さな町だったが俺はそこを愛していた。誰も町の発展など望んでなくて、ゆったりと時間の流れる穏やかな町だ。若い時はそんな気質に嫌気が差したりもしたが、結婚し、子供も生まれて町の良さが分かりだすと、今度は俺が町を守っていくんだと意気込んでいた。
妻と子供と三人で死ぬまでこの町と共に生きていく。それだけで良かった。幸せだった」
「良い奥さんだったんだな……」
「ああ、俺には勿体無いほどのな」

写真に視線を落とし、彼は亡き妻に向かって微笑んだ。優しく、微笑む。優しすぎて、アンジェにはとてもアブドラが犯人だと思えない程に。

「彼女も同じ町の生まれで、幼馴染と言えるかもしれない。優しくて、少し抜けているところもあったが俺は彼女の笑顔が好きだった。
共に学び、共に遊び、共に成長して、当たり前の様に俺たちは結ばれた。俺が始めた隣の国との交易も上手くいき、眼に入れても痛くないほどの娘も生まれ、町の皆からの人望もあった。全てが順調だった。
だが戦争がイルークにも近づいてきて歯車がずれ始めた。
隣国で戦火が激しくなり俺たちの町にも流れ込んできたのだ。|機械人形《アウトロバー《 》たちが」

だがロバーに話が及び、表情が一変する。感情は削げ落ち、無表情、そして眉間にシワがより始める。

「戦争難民か……珍しくない話だな」
「珍しくない、か……確かにそうだ。その通りだろう。
だから俺たちは彼らを受け入れた。直接戦争とは縁の無い生活をしていた俺たちには余裕があった。困っている彼らを見逃すことはできない、と町の皆も彼らに住居を提供し、食事を提供し、仕事を分け合って彼らが自分たちで生きていける様に最大限の配慮をしたよ」
「しかし何事にも限界はあるもんだ。結果としてそれは破綻した」
「そうだ。噂を聞いたのかは知らないが、奴らは次から次へと入り込んできて、次第に我が物顔で町を闊歩し始めた。元々が小さな町で、町の人たちも特別な力を持たないただの人間だ。仕事をさせればすぐに覚え、我々より早く、上手く物を作ることができる。町の仕事は徐々に彼らに奪われていったが、それでも俺たちは構わなかった。彼らを助けることができた。それで俺たちは満足だったのだ。
だがそれに伴って町は荒れ始めた。奴らは俺たちを見下し、暴力を振るうようになっていき、町の雰囲気は次第に奴らを排除する方向へと傾いていった。それは俺が好きだった町とは全く異なる、荒んだ町だった。
それが嫌で、俺は彼らを説き伏せたよ。難民となった奴らの心情を慮り、受け入れた当初の気持ちを思い出してもらい、我慢を強いてそれを彼らも受け入れてくれた。
同時にアウトロバー側の代表とも話し合い、自制を促し、町で暴行を働く奴を見つければ何度も止めに入って取りなしたのだ。
そしてその結果がどうなったか、お前たちには分かるか?」

顔を上げてアブドラはハルの顔を見て、次いでアンジェへと移す。二人とも無言で険しい表情を浮かべ、だがアブドラの口調から大体の予想はつき、その為に口を開くことができなかった。

「何度目か分からないほど奴らの居住区に足を運んだ時の事だ。『努力はしている』などという中身の無い返答に、だがそれを受け入れざるを得ない現状に頭を悩ませながらも、自分なりの解決策を探りながら帰宅していた俺に奴らは襲いかかってきた。
いきなり頭を殴られて昏倒し、気づけば何処かに連れていかれた。そこでリンチだ。殴られ、蹴り飛ばされ、気を失えばまた痛みで眼を覚まさされる。
反吐の出るような笑い声を上げて、奴らは俺の反応を楽しんでいたよ。
俺は怖かった。全身が痛み、殺されるのが怖かった。幸せが奪われるのが怖かった。だから俺は情けなくも必死で奴らにすがった。何でもするから助けてくれ、殺さないでくれ、と。だが奴らは笑って俺を見下して暴力を振るい続けたよ。
俺は奴らに尋ねた。どうしてこんな事をするのか、と。そうしたら奴らはこう応えた。
『メンシェロウトのくせに生意気だ』とな」
「……」
「……それで?」
「完全に気を失って、そのうち奴らも飽きたのか、気がつけばそこには俺一人だった。
悔しかった。ひたすらに殴られて、無力な自分が情けなかった。だが、それ以上に自分の言葉が通じていなかった、その事実が辛かったよ」
「で、でもだからって……」
「それだけじゃない。違うか?」
「え?」

ハルの言葉に、アンジェはアブドラの眼を見た。
黒に近い鳶色の眼。そこには深い澱みがあり、アンジェはそれに吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚えて、思わず体をのけぞらせた。

「扉に鍵は掛かっていなかった。外に出ると夜になっていてな、辺りは真っ暗だった。
頭はぼんやりとしていて足元も覚束無かったが、何とか俺は家へと向かった。
慰めてもらいたかった。妻の胸の中で泣いて全てを吐き出して、娘の顔を見て安心して、また明日から頑張ろうと思った。
バカなことに、まだ俺は諦めてなかったのだ。アウトロバーが相手だから言葉が足りなかったのだ、戦争が彼らを変えてしまっただけなんだ、と根拠のない希望にすがっていた。
そして明るくなった空に俺は顔を上げた。新しい朝がやってきたんだと思った」

だが――

「家は燃えていたよ」

轟々と燃え上がる帰るべき場所。目の前でそれが崩れ落ちて行く。
空へと昇る炎が揺れ、アブドラに嘲笑を向ける。燃え落ちる我が家があげるパチパチという狂った笑い声を、ただひざまずいて聞いていた。
昼間の様に明るい、町中でぽっかりと空いた空間。その中に彼の妻と娘が無残な姿で転がっていた。

「……まだ彼女の眼には涙がはっきりと残っていた。綺麗だった肌は腫れ上がって真っ赤になって、着ていたものは切り裂かれて犯された跡がはっきりと残っていた。
娘の手足は折れ曲がり、恐怖で顔をひきつらせたまま眠っていた。もう俺に笑顔を向けてくれることは二度と無い」

ガタガタとアブドラの座るベッドが揺れて音を立てる。ギリ、と歯が軋む音がアンジェに届き、手の中のロケットを力一杯握り締めてアブドラの体は小刻みに震えていた。

「……アンタがロバーを憎む理由ってのは分かった。その理由を理解できるし、憎しみの深さを理解できるとは言わない。
だけど、アンタが吹っ飛ばしたビルの中にはアンタと同じメンシェロウトだっていたはずだぜ?」
「関係ないな、そんな事は」

ゾッとするほど冷たい声がアブドラの口から吐き出される。その声色と口調、そして変わらず濁り切った瞳に、否応なくその言葉が彼にとって事実であることを思い知らされる。

「その日、燃えていたのは俺の家だけだった。そして周りには誰一人としていなかった。火を消そうとするヤツさえいなかった。
それがどういう意味か分かるか?」
「誰一人、ですか……?」
「おいおい、まさか……」
「察した通りだ。
俺が、俺たち家族が愛していた町の奴らは、俺たちを見捨てたんだよ。俺の家族が殴られ、辱められても止めもせず、火を消す努力もせずに。我が身可愛さにな」

そして、彼ら家族は死んだ。彼の妻も、娘も、彼自身も。全ての愛情は炎の中に。ごっそりと抜け落ちた、愛情があった箇所には入れ替わるように全てに対する憎悪が落ち着く。
何もかもを失い、やがて彼は町を出た。見送る者もおらずたった一人で。
その数週間後、彼の町は滅んだ。

「……流れてきた民に滅ぼされるっていう話は歴史上珍しくない。自分を大事にするあまりに他人を見捨てるっていうのもよくある話だ。メンシェロウトにしろロバーにしろな。
だが……どちらにしても悲しい話だ」
「全ては所詮、幻想だった。ただそれだけの、つまらん話だ」

話が終り、部屋に沈黙が訪れる。アブドラは胸元のロケットを握りしめてうつむき、ハルは顔を覆う様にし、口元に皮肉げな笑みをたたえる。オルレアはベッドの上から動かない。
そうして、誰も動かないまま時間だけが過ぎていく。部屋に備え付けられている昔ながらのアナログ時計がチクタクと苛立たし気に針を鳴らした。

「それでも……」

黙り切っていたアンジェの口が動く。それに合わせてハルの顔も上がり、うつむき気味のアンジェを見上げる。体の横で握り締められた拳が震え、全身へと伝わっていってその感情に突き動かされ、アンジェは言葉を吐き出した。

「それでも! 他にやりようがあったはずです! いくら憎いからって、貴方に殺された人は貴方を苦しめている人じゃありません!! 何の為に貴方はこんな事をしてるんですか!?」
「人とは度し難い生き物だ。痛みを肌で感じなければ何も理解しようとしない」
「そんな事はありません! 言葉でだって分かってくれる人はいます! アブドラさんだってそれを信じてそれまでやってきたんじゃないんですか!?」
「だがそれでどれだけの人間が苦しみを理解できる!? 真摯に耳を傾ける!?」
「分かりません! だけど、ただ痛みに訴えかけるよりよっぽどいいです!」
「だからそれが幻想だと言うのだ!!
俺を見ろ! どれだけ言葉を紡いだ!? どれだけ対話による解決を模索した!?
だが誰もが聞きたいことだけを聞き、そうでないものには耳を塞ぎ、俺の言葉を聞く素振りさえ見せない。
だから俺は悟ったのだ!」
「何をですか!?」
「全ては痛みでしか示せないのだと! 痛みで無理矢理にでも耳を開かせ、耳元で叫ぶしかないのだとな!!」

アブドラの怒声が狭い室内に響いてそれきり音が止む。
荒い呼吸が整えられ、それと同じくアブドラの昂ぶっていた感情も落ち着きを取り戻して、アブドラは眼を閉じた。

「貴方は……貴方はこれからもずっと、こうして誰かの命を奪って生きていくんですか……?」
「変えるつもりは無い。例え殺されようとも」
「そんな……殺された人だって家族がいるはずです。家族がいなくなって悲しいのは……」
「もう、いい。止めるんだ、アンジェ」

なおも言い募ろうとするアンジェをハルの声が止める。
アンジェは今まで何も語らなかったハルに噛み付こうとするが、今度はアブドラの声がアンジェを制止した。

「アンジェ、君がどれだけ俺を説得しようとしても無駄だ。
いくら言葉を重ねても、君の言葉は軽い」
「言葉が……軽い」
「もう俺も君と話すつもりは無い。悪いが強引にでもここを出させてもらう」

そう言ってアブドラは手を口の中に押し入れる。ガキ、と何かが折れる音がして、アブドラの手の上に乗って出てきたそれを、二人の前へと落とした。
それと同時にアブドラは身を翻し、ガラス窓の向こうへと体を投げ出した。

「っ!まずいっ!!」

ハルが叫んだその瞬間、アンジェの体は後ろへと引っ張られた。床に落ちた歯が爆発して、部屋に爆煙が広がっていった。




「……くそっ、アイツも無茶をしてくれる」
「助かりました……」

部屋の外でハルに抱きかかえられ、腕の中でアンジェは呆けていたが、やがてホッと胸をなでおろした。が、そこで部屋のベッドで寝ていたオルレアを思い出して慌てて飛び降りる。

「大丈夫だ。たぶん目くらまし用だったんだ。それほど威力は無かった」

煙が充満する中、ハルの言葉を証明するかのように、白い影が部屋の中からゆっくりと出てきた。

「ずっと起きて聞いてたんだろ?」

ハルがオルレアに問いかけ、アンジェは、えっ、とオルレアの顔を見た。
オルレアは気まずそうに顔を背け、だが小さく頷いてその質問を肯定する。

「それで、お前はどうしたい?」
「分からない……」

ポツリ、と蚊の鳴くような小さな声でそう漏らす。

「ギルトのロバーである事を考えれば助けるべきでは無かったのかもしれない……意識が無かったとしても、この街のギルトに突き出す。それが本来私がとるべき道だったんだと思う。
でも……あの写真を見たら、それができなかった」
「同情か?」
「それもある。
だが、あの男が犯人だとは信じたくなかったんだと思う……」

唇を噛みしめ、眉にシワを寄せてオルレアは悩む。
爆弾を抱えて倒れていたあの男を自分はどうするべきだったのか。
客観的な正解は知っている。そうすべきだと、そればかりは疑いようも無い。
それでも、ギルトに連れて行くことをオルレアは選べなかった。できたのは傷の手当をすることと、結論を先延ばしにする事だけ。考える時間が欲しかった。

「話を聞いて、結論は出せたか?」

オルレアはその問いかけに静かに首を横に振った。
アブドラの話は、悲しい物語だった。全てを奪われ、裏切られ、だから自分も奪うことしかできなくなった男の話だった。
途中でハルが話したように、多くはなく、だが決して珍しい話ではないのだろう。似たような話は、どこかで耳にしたことがある。それが今は自分のすぐ近くで語られただけだ。
しかし、オルレアは何を話せば良いか分からなかった。そんな男にどう接すれば良いのか知らなかった。
軽いと言われたアンジェの言葉。それ以前に、オルレアは語る言葉を持たなかった。

「でも……もっと話したいと思う」

言葉では通じないのだとあの男は言った。その是非についてはオルレアは分からない。そういう事もあるだろうとさえ思っている。
それでも話したい事があった。言葉で伝えたい事があった。
人もロバーも一通りではない。山賊の様な一方的に奪う者もいれば、ギルトの様に弱者を守る者もいる。言葉に耳を塞ぐ者もいればアンジェやハルの様な、言葉を聞いてくれる者もいるのだと教えてあげたかった。

「なら、あの野郎が次の行動を起こす前に捕まえないとな」

ハルの言葉にオルレアは、今度は大きくうなずく。
騒ぎに驚いたのか、階段の方から足音が近づいてくる。三人はそちらを振り返り、そして顔を見合わせてすぐにこの後の行動を決めていく。

「じゃあオルレアはこの場を頼む。正直に話すなりごまかすなりしてくれ。
アタシとアンジェはアブドラを探してみる。その足じゃ動けないだろ?」
「……そうだな」
「たぶん、そろそろ足の修理が終わってるだろうし、ここが片付いたらブラウンさんの所に行って、ついでにアタシの銃も受け取ってくれないか?」
「分かった。しかし、合流はどうするんだ?」
「こっちでデカイ花火でも上げてやるよ」

何をするのかは分からない。だがハルは皮肉がかった不敵な笑みを浮かべ、それを見てオルレアが了解の意を伝えると、ハルはマントのポケットから鍵を取り出してオルレアへ投げて渡す。

「バイクの鍵だ。ここの駐車場に止めてあるから使え」

オルレアがうなずき、頼んだぞ、と言うとアンジェとハルの二人は窓のふちに足を掛けて飛び出す。着地して駆け出すと、二人の姿はあっという間に小さくなっていった。
ここでも足手まといか。
その姿を少し悔しそうにオルレアは見送ったが、足音が自分のすぐ近くで止まったのに気づき振り返る。
煙の中から人影が一つ近づく。宿の人か、それともギルトがもう駆けつけたのか。事情を説明しようとオルレアは口を開きかけたが、現れた予想外の人物に思わず驚きの声を上げた。

「ずいぶんと賑やかな事になってるみてぇだな」
「シュバイクォーグさん!」

本来よりも一層白く見えた顔をニヤリと歪ませると、ブラウンは持って来た荷物を高く掲げた。

「喜べ。出張サービスだ」








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