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第2-13〜epilogue(11/11/06)









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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved






-5-





「何をしてるんですか?」

路地に足を踏み入れ、アンジェは静かに男に問うた。
突然の侵入者に、男達は二人とも驚きの表情を浮かべるが犯人の方がいち早く立ち直り、被害者の後ろに回る様にして立ち会う。

「何だテメェは!?」
「その人を放してあげてください」
「それはできねえ相談だな。嬢ちゃんが来なきゃもう少しでコイツも放してやったんだが。
……女子供を殺すのは好きじゃねえが、クソッ、見られちまったなら仕方ねえ」

左腕でがっちりと被害者の男の喉を固定し、男は銃を若者の頭からアンジェへと向けた。
だがアンジェは怯んだ様子もなく、再び男に向かって冷静に口を開く。

「もう一度言います。その人を放してあげてください」
「お、俺の事は、いいから、は、早く逃げるんだ……」
「お前は黙ってろ。
悪いな、嬢ちゃん。運が無かったと思って諦めてくれ」

一度、ゴリッと若者の頭に銃を押し付けて黙らせると至近距離のアンジェに照準を当てた。男の視界に映る十時のカーソルがアンジェの頭を捉え、ロックを完了して緑から赤へと変わる。

「じゃあな」

パァン。
軽い銃声が響く。男の銃が跳ね上がると同時にもう一度銃声。放たれた弾丸がアパートの壁に当たって小さく埃が舞う。
男の表情が驚愕に染まる。

「アンジェ!」

拳銃を構えたハルが叫ぶ。その声を待っていたかのようにアンジェは男に向かって走り出した。
慌てて男はアンジェに向かって構えるが、再び銃声が響き、今度は男の腕全体が後ろに弾き飛ばされた。
バランスを崩し、男はたたらを踏んだ。それに合わせてアンジェは体当たりをする。
犯人と被害者の男の間に隙が生まれ、アンジェは若者の腕を力一杯引き寄せた。

「こっちへ!」
「くそったれっ!逃がすかよ!!」

三度男は発砲しようとする。が、再度それもハルによって防がれる。
立ち塞がるハル。その隙にアンジェは若者の手を引いてその場を離れる。
男はアンジェを諦め、左手にコンバットナイフを持ってハルに斬りかかった。
とっさにバックステップをしてハルはそれを避ける。突き出された腕にハルの肘が上から叩き込まれ、男の腕が文字通り折れる。そして今度はハルの顔が驚きに染まった。
折れた腕から小型の銃がハルの顔をうかがっていた。驚いて動きの一瞬止まったハルの様子を見て男の表情が喜悦に歪む。
狙い通りのハルの動きに、小さく笑みを浮かべたまま男は発砲した。
素早く正確に狙い澄まされた弾丸が吐き出され、ハルの眼前に迫る。

――瞬間、ハルの瞳孔が収束した。
そして世界が停止する。
コマ送りの世界。鉛玉に刻まれた旋状溝の一つ一つがハルの眼に捉えられる。
全てが緩慢な世界で、ハルだけが唯一その拘束を受けない。
左脚を軸に体を反転。銃弾が耳に風切音だけを残して通り過ぎる。
踏みしめられた、地面に埋め込まれたレンガが砕け、風が建物の窓ガラスを揺らし、激しく土煙を上げた。
ブーツの底の焼け焦げた匂いが立ち籠める。全てが治まった時、ハルの右手は男のこめかみへと突き付けられていた。
誰もが呆気にとられていた。ハルの姿がかき消えたかと思った時にはすでにハルは男の後ろに回り、腕をひねり上げ、そして全てが終わっていた。
男は全てを悟り、自らの状態を自覚した瞬間に止め処ない冷や汗がシャツを濡らした。

「……今のはブーストか?」
「ああ」
「まったく……戦場でアンタみたいのと出会わなくて良かったぜ。命がいくらあっても足りやしねえ」
「なら相当運が良かったんだね。アタシなんてただ使えるってレベルだよ。もっと凄い奴は幾らでも居る」
「そりゃおっかねえ。
いや本当に支援部隊で良かったぜ」

短い会話が終わり、銃声を聞きつけたギルツェントの職員が駆けつける音が聞こえる。
どうやら男は強盗の常習犯らしく、特に事情を説明する必要もなく職員達は男の首元に何かをかざした。
その瞬間、小さくバチッと火花が散り、男の体から力が抜けて崩れ落ちる。

「ご協力に感謝します。報奨金の方を……」
「いいよ、別に。そのおっさんの財布貰っとくから」

左手で財布を小さく上に放りながら、ハルは右手で職員達をシッシッと追い払う。
職員達もそれに特に気を悪くした風もなく、もしくは面倒を避けようと思ったか、軽く礼をすると男を抱えて去って行った。
彼らが離れていくのを見送るとハルは別の財布を取り出し、壁にもたれかかっている男に向かって放り投げた。

「それ、アンタのだろ?」
「あ、ああ。
ありがとう。助かったよ。
……アンタ、ノイマンだったんだな」
「……それが何か?」

声は、冷たい。
男を見るハルの眼は細く、その視線は先程の犯人を射抜くよりも更に鋭い。ともすれば、今にも男をひねり潰してしまいそうなほどに。
警戒の色では無く、ただ不機嫌でどうしようも無い苛立ちが見て取れる。

「あ、いや……何でもないよ。
うん、何でもない。ホント、助かった」

その様が男を気押し、それ以上の言葉を封じる。
無言のまま投げ渡された自身の財布を拾って立ち上がり、何処か逃げるように彼は去って行った。
アンジェは満面の笑みを浮かべて手を振り、その後ろ姿を見送る。その後ろでハルは小さく息を吐き出し、表情を緩めた。
だがまたすぐに表情を引き締め、アンジェに向かって早足で近づく。

「あ、ハル。ありが……」

パシッ
アンジェはハルに声を掛けようとするがハルの右手が左頬を叩いた。熱を持ってうずく頬。アンジェは左手をそっと自身のそれに当てると、呆然としてハルを見上げた。
見上げたハルの顔は怒っていた。そしてどこか泣きそうだった。アンジェはうろたえながらも言葉を探し、だが口からは何も出てこない。
迷い子の様に宙をさまようアンジェの腕を掴み、ハルは強引に引きずる様にしてその場を後にした。





-6-





降りしきる雨が窓ガラスを叩く。
つい数分前から降り出した雨はすぐにその雨足を加速させ、町を濡らしていった。空は黒く、日が暮れるのと相まってあっという間に暗闇へと染まっていく。それに伴って通りに備え付けられた街灯が灯りを灯していき、次第に家々の窓からも光がこぼれ始めた。

現場から離れた後、二人はそのまま近くの宿に入っていった。その間ハルは無言で一言も話さない。明らかに何かに怒っていて、アンジェが呼びかけても返事をしない。宿に着いてもハルは口を開く事は無く、事務的にフロントで二人分を前金で払うとまたアンジェを引きずる様にして部屋へと向かった。
部屋のドアを開けるとそこは何の変哲のない部屋で、狭い部屋に二人分のベッドと小さなチェストがある。チェストの上にはフロントに連絡する為の電話があるだけで、安宿らしい簡素な部屋だった。
部屋に入ってようやくハルはアンジェの腕を放した。そして乱暴に体をベッドの上に投げ出し、右手の甲を額に当てて灯りの点いていない天井を見上げる。
静まり返った室内。窓ガラスで弾ける雨と、二人の小さな呼吸音が聞こえる。

「……どうしてあんな事をしたんだ?」

沈黙を破ったのはハルだった。ベッドに身を投げ出したままアンジェに問いかける。アンジェは初めて見るハルの様子に戸惑いを隠せない。
一緒に旅をすると言って握手をした時、ハルは笑ってた。ドーナツをもらいに勝手にいなくなった時も、怒りながらもどこか笑ってた気がする。
なのに何故怒っているのか。どうして自分が怒られているのか。
それが分からず、バツの悪さを感じながら視線を部屋から窓の外へ、そしてまた部屋の中へとさまよわせる。それでもアンジェは寝転ぶハルの姿を見て質問に答えた。

「あんな事って……さっきの事を言ってるんですか?」
「そうだ。
どうして犯人の前に出て行った?」
「そんなの当たり前です。じゃないとあの人が困るじゃないですか」
「そんな事は分かってる。アタシはどうしてノコノコと出て行ったんだって聞いてるんだ」

ベッドから体を起こし、肘を膝の上に置いて前かがみになる。顔は伏せられたままでその眼はアンジェを捉えてはいない。

「相手は武器を持ってた。それに対してお前は丸腰。隠れて隙をうかがう事さえしなくて堂々と……
あまりに危険だと思わなかったのか?」
「それはそうですけど……」
「そもそも事件が起こったのならギルツェントに通報すれば良かったんだ。それが一番安全で一番問題の無い方法だ。面倒もないしな」
「でもそれだとあの人がもっと傷ついたかもしれませんし、お金も取られて犯人にも逃げられてましたよ」
「ならアタシに言えば良かった。少なくともあの状況よりはベターだった。
なのにお前は何も考えずに一人で勝手に出ていって……
分かってるのか? 一歩間違えばお前は死んでたんだぞ? お前だけじゃない。もしかしたら殴られた男も、アタシだって死んでたかもしれない」
「でも、でも誰も傷つかなかったじゃないですか」
「結果論で話すな。今回は運が良かっただけだ。
いや……違うな。はっきり言ってやる。
アンジェ、お前が考えなしに行動したおかげで状況は悪化したんだよ」
「そんな……」

アンジェにとってその言葉は衝撃だった。
アンジェにしてみれば最善の行動をとったつもりだった。一刻も早く男の人を助ける為に動き、そして目的は達せられた。それで満足だった。過程に疑問は一切無く、全てが順調だった。
だがそれは否定された。更に尚もハルはアンジェを責め立てる。

「お前がのこのこ出ていった事で犯人とアタシは無意味に・・・・銃撃戦をしないといけなかった。
無事だったのは単にアタシがノイマンだったからに過ぎないんだよ」
「……」

そこまで言ってハルは一度頭を振った。ポタリと汗がベッドに染みを作る。
自身の胸元を抑え、ギュッと服にしわが寄るほど強く握った。

「悪い、言い過ぎだな……」

深く息を吐き出してハルは謝る。アンジェは深く落ち込んでいてハルの方を見る事が出来ずにいた。
ハルは重い体を引きずるようにしてアンジェの後ろに回る。アンジェは少しだけ後ろを見るが、すぐに眼を逸らして冷たい床を見つめた。
不意にハルの腕がアンジェの首元に回される。次いで背中越しに伝わる体温。抱き締められて、頭越しにハルの優しい声が聞こえた。

「お前にしてみれば良い事をしたんだもんな。それについては褒めてやらないと、な」

そう言ってハルはアンジェの頭を撫でる。昼間みたいな乱暴なものでは無くて、ゆっくりと、優しく繰り返し撫でてやる。

「でも良く考えてみてくれ。自分の行動がどういう結果を引き起こすのか。今はお前はひとりじゃないんだから。な?」
「はい……」

小さな返事を聞きながらハルは汚れたマントを脱ぎ棄ててシャツ姿になる。そして部屋の奥にあるシャワー室へと向かって行った。

「さて、アンジェを抱き締めて元気も出てきたところだし、アタシはちょっとシャワー浴びてくるよ」

自分に背中を向けるハルに、アンジェは少しだけ笑顔を浮かべて笑った。

「あはは。そんなに私の抱き心地良かったですか?」
「そんなの当たり前じゃないか。それを取ったらお前から何も残らねーよ」
「ひどっ! 私はぬいぐるみですか!」
「ぬいぐるみっていうよりマスコットだな」

言ってハルはドアを開けて、その隙間に体を滑り込ませる。

「一つ、聞いてもいいですか……?」
「何だ?」

ドアが閉まる直前、アンジェの口から疑問が零れ、ハルは閉める手を止める。

「あの時……ハルはあの人を助けてくれましたか?」

扉の閉まる音が問い掛けに答えるだけだった。








問い掛けに答えないままハルは扉を閉めた。
扉に背中を預けたまま、ズルズルと体が滑り落ちていく。

「っ…くっ……」

苦悶の表情を浮かべ、荒く息を吐き出す。

「うっ…が…はあっ……!」

額にはびっしりと汗の玉が浮かび、彼女の短い髪が濡れて張り付いていた。
更に呼吸が荒くなる。霞んだ視界に天井の電灯がやけに眩しい。
震える手をポケットに突っ込み、そこから小瓶を取り出した。全身を襲う震えを必死に抑えて口をひねる。中に入っていた錠剤が適当に掌に転がり出る。震える掌からいくつかが床に落ちるが、それに構わず錠剤を無理やり放り込んだ。

「はあっ、はあっ、はあっ……はあ…はぁ……」

錠剤を飲んでから程なくしてハルの呼吸は落ち着きを取り戻す。強張っていた全身から力が抜けて、手から瓶が転がり落ちた。
顔を上げ、虚ろな目で浴室の天井を見上げた。先程より眩しく、そして暗い。
しばらくそうして座っていたが、やがてハルは立ち上がると服を脱ぎ始めた。

熱めのお湯がハルの肌を滑り落ちる。
全身にびっしりと掻いた汗を洗い流し、数日ぶりのシャワーで身を清める。震えはもう無い。
だがハルは汚れを落とすでもなく、ひたすらにお湯を浴び続けた。髪の毛の先から止め処なく雫が落ち、複雑にうねりながら排水溝へと吸い込まれていく。
何故自分はこうも苛立つのだろう。自身へと問いかける。
アンジェが無謀な行動をしたからか。彼女が怪我をするかもしれない、死んでしまうかもしれないという不安が怒りをかき立てるのか。

(どうしてそこまで私の心配をしてくれるんですか?)
(気に入った奴の心配するのは当然だろ?)

そう、心配だ。不安だ。恐怖だ。誰かが自分の目の前から消えていく。その未来図が怖かった。彼女は自分の手を見つめる。
この手は多くの命を奪ってきた。それと同時に多くの命がここから零れ落ちてきた。いくつもの命が手の中に入っては消えていった。だけどもそれは単なる事象であり、これまで何とも思わなかった。
戦友が散っていく姿を何人も見てきた。若さゆえの無謀な行動で怪我をし、命を散らす様を幾度となく目にしてきた。
それでもアタシの心は動かなかった。
哀しかった。悔しかった。だが感傷はそこまで止まり。下半身が吹き飛ばされていようが、頭を半分失った姿であろうが、アタシ自身がぶれる事は無かった。恐怖も、逡巡も無く、アタシは自分がするべき事を遂行する。自分は「兵器」だから。だからこそ過大な感情を抱く事は無いのだと考え、そしてそうあるべきと律し、そうあってきた。そこに揺るぎは無かった。
だからきっとアンジェが撃たれていたとしてもアタシは同じだっただろう。撃った犯人を殺し、アンジェが生きていれば介抱して、もし死んでいれば埋葬してまたすぐに一人で旅立ったと思う。今までの自分ならばそうだった。
彼女には不思議な力がある。アンジェに出会ってからの自分を顧みて、ハルはそう思った。
アンジェが笑えば、何故か自分も嬉しくなるし、悲しそうにしていればコッチまで泣きそうな気になってくる。まるでアンジェの感情が自分に流れこんでくるみたいに。これまでには有り得ないほど激しく自分を揺さぶってくる。
だからこそアタシはアンジェを失うことに恐怖するのだろう。無意識のうちに。

だが、それだけか?本当にそれだけか?
違う。
彼女が心配なのは確かで、失いたくなかったのは明白。でもそれでこんなにも心は乱れない。
なら、この気持ちは何だ?

お湯の蛇口を閉め、今度は水の蛇口をひねる。
冷たい水が火照った体を静めていく。頭が冷え、思考がわずかにクリアになっていく。

助けた男の声が頭の中で蘇る。

(……アンタ、ノイマンだったんだな)

途端、ハルの拳に力がこもる。思い切り振り上げ、だがそれもすぐに力無く下ろされる。
これが原因か。
シャワーの音に混じって舌打ちが響く。
助けた男の言葉。そこに嘲りと苛立ちが混じっていたのをハルは敏感に感じ取っていた。
嘲りはアウトロバーの優等性からくる蔑みの感情。苛立ちは下等とみなしているノイマンに助けられたという事実に対して。
その感情自体にはハルも慣れている。食堂のおばさんと話した通り、互いの人種に対する差別意識は根強い。それはハルも理解している。
しかし、感情は別だ。例え理解していたとしても、自身に向けられれば決して良い気持ちはしない。生まれ、自分の育った町を出てから常にさらされてきた感情。その中で受け止めて、そういうものだと自分を納得させてきた。
それでも決して認めてはいない。少なくとも人種が理由で蔑まれる謂れは無い。まして、あの男はノイマンに対する感情を感謝の言葉の中に隠していた。自分は差別なんかしませんよ、とでも言わんばかりに。それが殊更ハルにとって不愉快だった。それこそが長く続いた戦争の根本的な原因だろうに。自分に、人殺しをさせてきた原因だろうに。
うごめく暗い感情。それを自身の内に留めてしまわないよう、大きく息を吐き出す。
所詮、八つ当たりか。自嘲の笑みが床の水溜りの中に浮かぶ。

(なら…大丈夫だ)

後でアンジェに謝ろう。八つ当たりをして悪かったって。
シャワーを止め、タオルを手にとって頭から水気を拭きとっていく。全身を拭き上げ、下着を身にまとっていく。だが心は晴れない。重い感情の澱がずっしりとハルの奥底に転がり続ける。
シャツをまとって髪をドライヤーで乾かしていくと、前髪が揺れ、その奥から自身の顔が姿を現す。
ひどい表情だった。どんよりとした眼でそいつはハルを見つめていた。

(あの時……ハルはあの人を助けてくれましたか?)

洗面台の蛇口を全開にして、そこから水が勢いよく溢れだしてくる。そして頭の中でこだまするアンジェの声を振り払うかのように、その中にハルは頭を突っ込んだ。




◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




翌朝。重い気持ちのままアンジェはホテルの廊下を歩いていた。
昨晩に降っていた雨は上がり、窓からは気持ちの良い朝日が差し込んでいる。窓についた水滴を光が通り、きれいな輝きを作り出していた。
その一方でアンジェの表情は晴れない。昨夜もハルとは一度も話しておらず、今朝もアンジェが起きた時はすでにベッドの上にハルの姿は無かった。それがアンジェの心に更に重しを置く。

(どうしよう……)


階段を降りながらアンジェは悩む。
一晩ずっとベッドの中で考えていた。自分の取った行動。それが引き起こした事実。
間違った事をしたとは思ってない。人は争ってはいけないし、争いは止めなければならない。傷つくのを見るのは嫌だし、誰だって痛いのは嫌だから。だから止める。自分の奥底から湧き上がるその感情はきっと正しくて、そして倫理的にも正しい。
だけどハルの言う通り、取った行動は間違っていたのかもしれない。もし、自分が原因で争いが起きたら。そんな事はあってはならないし、今後も起こしてはダメだ。だから反省しないといけない。だから学習しないといけない。悪い事をしたなら謝る。それは分かっている。
しかし問題はどうやって謝るか。それがアンジェは分からなかった。
もちろん今まで謝った事は何度もある。だが、謝った相手とその後も行動を共にする事はほとんど無かった。彼女は記憶にある限り常に一人で行動し、謝る相手は全て行きずりの縁でしかなかった。そこに許されたかどうかは関係ない。アンジェとしては許してくれた、と信じたいがその確信は乏しい。
だからアンジェは不安だった。まだ一日しかハルとは付き合いが無いが、出会った当初のイメージとはかけ離れている程に彼女は相当に怒っていた。最後には自分の行動を認めてくれて、抱き締めてくれたが、本当に怒りはそれで治まっていたのか。その怒りが一晩で解けてるのか。謝って許してくれるのか。まだ自分と一緒に居てくれるのか。アンジェはそれが怖かった。

グー。
階段を降り切ったところで、アンジェの気持ちを読まずにアンジェの腹が警告の声を上げた。
決めた。とりあえず朝ごはんを食べてからまた考えよう。
問題を先送りしている事はこの際考えないでおく。
足取り軽く鼻唄を唄い、アンジェは食堂のドアを勢いよく開けた。

時計は朝の八時を指している。ビュッフェスタイルの食堂では壁に沿って様々な食事が並べられている。安いホテルなのでやや汚れた雰囲気だが、今のアンジェには気にならない。

「……むふ」

よだれで口の中を満たしながら目の前の食事を品定め。左手はすでに皿に伸びていて、器用に腕まで使い三枚の皿を載せている。
右手だけでこれまた器用にパン、チーズ、ハムにベーコン、スクランブルエッグと定番の料理を載せていく。当然それぞれの皿に山盛りで。後ろに並んでいる人が目を丸くしているのも気にしない。
四枚目の皿を台に置いて同じ様に山盛りにサラダを盛ったところで、アンジェは空いたテーブルを探して歩き回る。早く食べたくて仕方がないとばかりに、頻繁に皿とテーブルの間を視線が行き来する。朝だからか少しのパンとミルクしか食べていない人も居れば、アンジェに及ばないまでもそれなりの量を平らげている人も居る。
と、その中で一際周囲の注目を集めているテーブルを見つけた。
四人掛けの丸テーブル。そこ一杯に広げられた皿の数々。いくつかはすでに重ねられている。なのに座って食べているのは一人。

「お?おーい、アンジェ。こっちだ」

そのテーブルの主からお呼びが掛かる。それと共に一斉に周りの視線がアンジェに向けられた。
その視線にアンジェはたじろいで、危うく皿を落としそうになって慌ててバランスを取る。
正直、アンジェとしては心の準備が出来ていなかった。そもそも食事の後にまたハルへの対応を考えようとしていたのに、こんな所で出くわすとは思っていなかった。
ハルの顔を見てみる。ゆっくりとした動作で、絶えず食事を口に運ぶその表情には昨日の怒りの様子は見て取れない。

「どうした?早くこっち来いよ」

ハルに促され、また周囲の視線も落ち着かないので仕方なくアンジェはハルと同じテーブルに着く。ハルは右手のフォークを口元に運びながら、左で空いた皿を片していく。
山盛りの皿を置き終わってアンジェも席に着くが、どうにも落ち着かない。あれほど楽しみだった朝食も手をつける気になれない。
正面のハルは、アンジェが席に着いても気にすることなく変わらず皿の上の料理を平らげていく。どれだけ食べても表情は何一つ変わらない。
アンジェはしばらく考えていたが、やがて意を決して声を張り上げた。

「あ、あの!」
「ん?」
「ゴメンナサイ!」

勢い良く頭を下げる。ハルはアンジェの突然の行動に面食らうが、合点がいってああ、と頷くと頭を上げさせた。

「いや、こっちこそ昨日は言い過ぎた。
ちょっと嫌な事があって、虫の居所が悪かったみたいだ。アタシの方こそ悪かったよ。
うん、本当に悪かった。この通りだ。スマン!」

今度はハルが勢い良く頭を下げた。
そうなると逆にアンジェが困る。自分が謝るはずだったのにハルに謝られて軽く頭の中がパニックになる。
昨夜から考えていたアレやコレやがすっ飛び、オロオロとするだけで言葉が出てこない。
それでも何とか絞り出したのは一言。

「まだ……私と一緒に居てくれますか?」

その声にハルは顔を上げた。対面のアンジェはうつむき気味で、上目遣いにハルを見つめていた。
可愛い。不安そうな表情がまたそそる。頭に浮かんだ場違いなフレーズを慌てて振り払う。それでもハルは自身の頬が熱くなるのを感じて、ついわざとらしい咳払いをしてしまう。今はシリアスな場面だ。自重しろ、自分。
ごまかすようにハルは自分の黒髪を乱暴に掻き、息を大きく吐き出した。その様は呆れた風にも見え、より一層アンジェを不安にさせる。
だがおもむろにハルはフォークでアンジェの皿からハムの山を突き刺すと、アンジェの声を無視して大量に口の中へと放り込んだ。

「ほは、はやふ食わないほおいへいくほ?」

口一杯に頬張ったままそう言うとニヤリと笑う。
その意味が分からずアンジェは、は?と疑問符を浮かべるが、ハルの言葉を反芻して理解できた途端、アンジェの顔がほころんだ。
ハルの仕草は、昨日アンジェがやって行儀が悪いと怒られたのと同じ。それに思い至ると、小さくはにかんで期待されている答えを返した。

「行儀が悪いぞぉ。ちゃんと飲み込んでからしゃべりなさい」

テーブルを挟んで互いの顔を見つめ合う。そしてどちらともなく噴き出すと今度は二人揃って朝食を再開した。

「飯を食ったらすぐに出発するからな。しっかり食っとけよ」
「分かりました。ならお言葉に甘えて……」

言うや否や、アンジェはフォークをハルの皿に突き刺した。そのままあっという間に皿の上を空っぽにしてしまった。リスみたいに両頬をパンパンに膨らませ、もきゅもきゅとしてやったり顔で口を動かす。

「あっ! てめっ!! 何勝手に人のモン取ってやがる!」
「さっきハルも私の取ったじゃないですか!」
「バカ言うな。アタシが取ったのはハム四枚だ! 今お前ベーコン六枚食っただろ!?」
「良いじゃないですか! また持ってくれば!」
「アタシが持ってきてたのは最高の焼き加減だったヤツなんだよ!」
「それを言ったら私が持ってきたのも最高品質のです!ケチケチしないでください!」
「言ったな! なら……」

今度は皿ごと引き寄せスプーンを手にスクランブルエッグを一気にハルはかき込んだ。

「あー! ならこっちだって!」
「コラっ! チーズだけはダメだ!」
「遅いですよ〜! もう貰いました〜!」
「あああっ! ならそっちをよこせっ!」
「誰がやるもんですか!」

ガチャガチャと皿とナイフとフォークがぶつかり合う音が朝の食堂に響く。
あまりの騒がしさに二人のテーブルは、ついさっきまでとは違う意味で注目されているが二人とも全く気にしない。

(これで……良いんだ)

心の中でだけ呟くと、フォーク捌きにハルは集中する。
半径五十センチの攻防戦は宿の人に怒られるまで続いた。








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