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epilogue 









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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved







 人が、歩いている。
夜の街はどこまでも華やかで、鮮やかに彩られたネオンを掲げた高級店が足元の人を照らし、所狭しと並べられた街灯が、次々と車の走り抜ける大通りを眩く際立たせる。
歩道を歩く人の数は数え切れない。
時はすでに夕刻を過ぎ、夜の帳が降りきってすでに深夜に差し掛かろうとしている。しかし週末を迎えた今夜は時を刻む毎に人の数は増えて、ピークを迎えた今は真っ直ぐ歩くのもままならない程の混み具合となっている。歩く人々の小さな会話さえもその数によってけたたましく、けれども誰もが自分の世界に埋没して周囲の喧騒に気づかない。人々は夜を忘れた明るい街で刹那の享楽を謳歌する。
彼は、歩いていた。
多くの中に埋没し、誰とすれ違おうとも振り返らず、誰と行き違っても振り返られない。誰も気に留めず、誰にも気に留められずに彼は歩いていた。
彼は異質だ。高級そうな衣服に身を包んだきらびやかな人混みの中でただ一人彼は黒いパーカーに身を包み、フードを頭から被って濃紺のジーンズを履いている。場にそぐわない浮いた格好で、しかし彼は確かに集団に埋没していた。客観的に観察する第三者が居れば、その事実が一際彼の異質さを際立たせている事に気づくはず。しかし観測者はどこにも居ない。
胸が高鳴る。彼の心中は、今確かに興奮の中にあった。一歩踏み出す度に心臓は大きく強く血液を全身に押し出し、フードの端から時折覗くギラついた彼の眼は頻繁にすれ違う人を観察し、ターゲットを絶えず見繕っている。
今晩の獲物は誰にするか。正気を失った彼は新たな被害者の候補を探す。行き交う人が彼の眼を見れば、速やかに目を逸らして足早に彼の傍から離れるはずだ。
だが類まれな実力を持つ彼の魔術は、彼が今ここに居ることを周囲に悟らせない。彼の周囲十数メートルには、彼のテリトリーに侵入した人物の認識を狂わせる魔術が張り巡らされていて、だからこそ誰もが安心して彼のテリトリーに侵入し、彼もまた安心して美味しそう・・・・・な獲物を見繕うことができている。

「……ちっ」

 しかし今晩は彼の望む状況には無かった。濃い赤みの唇を醜く歪ませて舌打ちをし、周りをはばかる事無くキョロキョロと視線を動かす彼の眼には、明らかな失望の色が浮かんでいた。

――どいつもこいつも不味そうだ。

 一人の清楚な女性とすれ違いざまに内心でそう吐き捨て、一度立ち止まりかけた足を前に動かす。そしてまた物色を始める。
歩きながら舌なめずりし、幾度と無く獲物を探して、時折子犬の様に鼻を鳴らして何かに引き寄せられるかの様に男女問わず近寄っていくが、すぐに舌打ちして離れていく。
何度かそれを繰り返したところで彼は深くため息を吐いた。

――ろくな奴がいない。今晩は諦めるか……

 状況に失望。再び舌打ちをし、適当な獲物で現在の昂ぶりを抑えることに彼は決めた。それでも見繕うならできるだけ美味い人間がいい。せめて不味くない程度には。
彼は選ぶハードルを大きく下げて周囲に眼を配り始めた。
その時。

「っ!?」

 彼の眼が見開いた。驚愕の余り声を発することを忘れ、呼吸の仕方を見失う。
フードの奥から覗く切れ長の眼が有り得ないものを見たかのように一箇所を捉えて離さない。
事実、彼にとってあり得なかった。
彼の眼が捉えているのは一人の女性。しかし彼女は今、意識不明の状態であり、病院で治療を受けているはずだ。
そう、四之宮・ユズホ・・・・・・・がここに居るはずがないのだ。
彼が聞いた情報では、ドッペルゲンガーを失っての衰弱死は免れそうだが、まだ延命治療の域を出ていないはず。情報の魔法使いである紅葉・イチハの協力を少しは得られたみたいだが、それでもなお完全回復への見通しは立ってはいない。少なくとも、まだこうして外を元気に出歩ける程に回復はしていないのは間違いない。
ならば今自分が見ている奴は誰だ。誰何を自らに問いかけてみるも、彼の知り得る情報の中にその答えは無く、しかし彼はすぐにそんな事が些事に過ぎないと思い直した。

「……まぁ誰だっていい」

 彼女が誰か、などという情報は重要ではない。大事な事は喰って・・・美味いか不味いか。それに限る。
おおかた、他人の空似という奴だ。世の中にそっくりな人間が三人は居るという話だから、たまたまユズホに似ている人間がこんなにも身近にいた。ただそれだけの話だ。
彼は口端を醜く歪ませ、迷いなく彼女の跡を追い始めた。霞んでしまった記憶の中にある彼女のドッペルゲンガーの匂い。今の彼女のそれは、記憶のそれとは似てはいるが異なってはいる。だが彼の抱く感想は同じだ。

「コイツも美味そうだなぁ……」

 呟きながら彼は、かつて四之宮・ユズホのドッペルゲンガーを喰らった時の事を思い出した。これまで食べた中で、彼女の味は最高に美味だった。味そのものの記憶は飛んでしまったが、誰のドッペルゲンガーよりも満たされた事は彼の中に鮮烈な印象として残っている。彼女のものと比べると幾分味は落ちそうだが、それでも今、彼の目の前を歩く彼女から漂ってくるドッペルゲンガーの匂いは道端を歩きまわる他の誰よりも格別に美味であることを期待させた。
さて、後はどうやって彼女を人気のない所へ誘いこむか。彼はその手段について思考を巡らせ始める。一瞬だけ今、この場で彼女を襲ってしまうかとの考えが頭を過るが、先日の様な面倒はゴメンだ、とすぐに彼はそれを放棄した。
欲望に任せたせいで起こった街中での大立ち回り。次から次へと現れる魔術師たちと、近くの住民を巻き込んだ大騒動。魔術師たちのドッペルゲンガーを心ゆくまで堪能できたという点ではとても魅力的だったが、一晩中続き、満腹にも関わらず欲望が衰えずに喰らいたくなる夜はあまりにも面倒すぎた。加えて協力者からもグチグチと小言を言われるのも癪だ。
協力者の事など正直どうでもいい。どうでもいいのだが、付近の関係ない一般人にも迷惑を掛ける事は彼の本意ではなく、騒ぎが大きくなるとやりづらくなるのは彼とて理解しており、もう二度と衝動に流されてしまうまいと固く自らに誓ったのだ。

「だがなぁ……」

 本当に衝動に抗えるのか、と問われると彼としては閉口するしか無い。理性では堪えるべきだと理解していても、衝動を抑えられるかどうか。あの晩もギリギリまで堪えていたが最後には我慢できなくなってあんな行動を取ってしまった。今はまだ先日の余韻のおかげでそれほど衝動が強くなく、したがって彼女の背中を黙って追いかけられているが、あの晩のような強烈な衝動の中で果たして今みたいに周囲に眼を向けられるか。魔術師たちとの攻防で負傷した右腕の包帯を、彼は無意識の内に撫でていた。
頭を左右に振る。思考を切り替える。
そんな事は後で考えればいい。今は、如何にしてユズホ似の女を誘導するかだ。
彼は追いかけながら誘導する手段を思案する。彼女が好みそうな、もしくは信頼している男の容姿に見えるよう精神魔術で認識を誤魔化すか、それとも思考を誘導して人気の無い場所へ連れ込むか。
様々な方法を思い描き、だがそれらの方法を実行する前にユズホに似た女性は大通りを逸れて路地へと入っていった。

――これは好都合だな

 余計な手間が省けた、と彼はニヤリと口端を釣り上げた。
特異点の発生を避けるため、大通りから路地に入ってもしばらくは人通りも多く、どの路地であっても昼間と見紛うくらいには明るい。しかし自然、人が最も多いメインストリートから離れれば離れるほど人の数は減っていき、街の灯りは減少していく。そしてある所を境とするように夜の人の数は激減。魔物との遭遇を恐れる人々は建物の中に引きこもり、犯行を目撃される確率もほとんど無くなる。
彼が女性を追尾し始めてすでに二十分近く。彼女は今まさにその地域へと脚を踏み入れようとしていた。

――そろそろ頃合だな

 心臓が高鳴る。彼はもう我慢できそうになかった。空間魔術で辺りを感知する限り人の気配は無い。加えて、今彼らがいるこの場所は、好都合にも今晩捜索班が唯一探し歩いていない空白の地域だった。その事実を以てして、彼はここを今晩の屠殺場とする決断を下した。
彼女は未だ彼の存在に気づいていない。呑気に鼻歌を歌いながら静かになった街を歩いている。
恐らくは彼女は一線を退いた魔術師。それもかなりの実力者。彼はそう彼女の事を推察した。そうでなければこんな夜の街を一人で平気で歩き回るはずがない。並の魔物が現れたとしても撃退する自信があるからこその行動だろう。
しかし、その過信が命取りになる。相手が自分よりも遥かに実力を持つもので、抵抗できないと分かった時はどんな表情を見せてくれるのだろうか。彼はフードの下で暗くほくそ笑んだ。
そして心の中でカウントダウンを始めた。

――三

鼓動の昂りは留まるところを知らない。全身が沸き立つ様な興奮に包まれ始めている。

――二

 ゆったりとした服装の下で、彼の手足で血管が浮かび上がり負荷の掛かった筋骨が悲鳴を上げ始める。

―― 一

 彼を中心として夥しい密度の魔素が励起。場の空気が急速に変わる。その事に気づいた彼女が慌てて振り向き、そこで初めて彼の存在を認識した。

――だが、もう遅い

 ゼロ。彼の口がその単語を形作った時、彼女の瞳は彼の姿で埋め尽くされていた。

「――、――っ!!」

 言葉にならない叫びが夜空に響き渡った。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 ――その前夜



「そんな馬鹿なっ!!」

 電話を切った途端、僕は思わず拳を机に叩きつけた。
寮全体に響き渡るんじゃないかってくらいに大きな音と共に居室備え付けのスチール製の机が拳の形にへこんで、机の上に広がっていた、僕が真黒になるまで書き込んだ何枚ものメモにグシャリとシワが寄った。
左手に握った携帯がミシミシと音を立てて、けれども僕はそれが壊れてしまって構わないとさえ思った。今スバルから聞かされた話が、そうすることで全て無かったことになるのであればいいのに。メモリと一緒に僕の記憶も消去されてくれるのなら、それはどんなに良かっただろうか。

「……ヒカリ?」

けれども、一度聞いてしまったらもう無かったことにはできない。見過ごすことはできない。なぜならそれは、僕らがずっと追い求めていた犯人事実なのだから。否定してしまえば、誰かの役に立つ事をずっと渇望してここまで来た僕自身を、他ならぬ僕が否定してしまう事になってしまうのだから。
けれども……やっぱり辛い。知ってしまった真実は何よりも重くて、その事を否定したくてしたくて堪らない。否定したところで何一つ変わらないと理解ってはいるのだけれども。
どうしようもなくって、僕はもう一度机に拳を叩きつけた。けれども今度のそれは力無くって、醜く歪んだ文字を更に歪ませるだけだ。頭を机に擦りつけて、僕の全身から力が抜け落ちてしまって、最後には僕は床に膝を突いてしまう。
そして僕は逃げ出した。

「ヒカリ!」

部屋のドアを開けっ放しにし、寮の玄関を駆け抜けて夜の町に飛び出した。飛び出した瞬間に聞こえたユキの声も聞こえないフリをして、耳を塞ぎ、息をするのも忘れて、ただひたすらに僕は全力で誰もいない町の中を走り回った。
頭の中を空っぽにしたくて、けれどもさっきから頭の中には同じことばかりがグルグルと回り続けてる。
なぜ。どうして。そのフレーズばかりが酸素を失った脳を支配し続けて、そこからどこへも抜け出せない。
けれども体は正直だ。呼吸も走るペースも無視してがむしゃらに走り続けた僕の肺はひたすらに酸素だけを求めて、歪む視界は足元を疎かにして、もつれた脚はたたらを踏むことさえ許してくれず、僕は盛大に転んだ。

「はあっ、はあっ、はあっ!!」

 一旦口を開けば、体は貪欲に酸素を取り込んで二酸化炭素を空に解き放っていく。僕の体に溜まって行き先を失っていた熱量は、息と一緒に澄んだ夜空に消えていった。霞んだ視線が焦点を取り戻してクリアになると、雲ひとつ無い星空が広がっていた。町の灯りのせいで余程明るい星じゃない限り見えないはずだけれど、なぜだか今晩はたくさんの星たちが僕を見下ろしていた。曇り無い空が曇りだらけの僕を嘲笑っているように思えて、僕は寝転んだまま拳を地面に打ち付けた。
けど、心は何一つ晴れなかった。


どれくらい道端に寝転んで空を眺めていたんだろう。気がつけば星空は雲に覆われていて、星は何一つ見えなくなっていた。
まるで、僕の心の中を表しているようで。
僕の中で荒れ狂っていた熱はすでに失われて、だけどもだからといって胸の内は晴れない。それでも背中越しに伝わってくるアスファルトの冷たさは僕を落ち着けるには十分だったらしい。
ため息を吐いて上体を起こし、そこで気だるさを感じながら立ち上がる。それからどこへともなく僕は歩き始めた。
歩きながら僕の頭の中を駆け巡るのは相も変わらず思い至った犯人についてだ。
アイツが犯人である確実な証拠は、実のところ何一つ無い。全てが情況証拠に過ぎなくて、けれどもそれらを統合して考えるとアイツが犯人であるとしか思えない。それしか僕は導き出せない。
もちろん僕の頭がボンクラで、単に僕の勘違いで犯人は別にいるのかもしれない。その可能性はあるし、何より今僕はその可能性にすがりつきたかった。僕の解が間違いであってほしい。でも電話口で確認した、スバルが辿り着いた答えも僕と同じで、そしてアイツが犯人じゃないという解を導き出す事は、どう考えても難しかった。

「……っ」

 そこまで考えて涙が出そうになって、僕は慌てて空を見上げた。涙を流すのが恥ずかしいわけじゃない。そもそも、今僕の回りには僕以外誰も居ない。ただ、理由は分からないけれども、僕には現状を嘆いて涙を流すような、そんな資格なんてない。そう思えた。

「あ……」

アテも無く歩き続け、気づけば僕は寮の入り口に立っていた。かなりの威力の魔術でなければ壊れない特殊な建材で建てられた六階建ての建物。時間はすでに深夜だからどの部屋にも灯りは点いていなくて、廊下の常夜灯だけが建物の全体像をぼんやりと夜空に映し出している。曖昧な、けれども確かな存在感を持ったそいつも星空と一緒に僕を見下ろしていた。

「……はぁ」

 このまままだ外を歩き回る気にもなれず、僕は部屋に戻ることにした。
暗い廊下を一人歩く。出て行く時には、そして走り回っている時は余裕が無かったけれど、こうして誰も居ない場所を歩くのはひどく心細い。いや、どうだろうか。心細いのは周りに誰も居ないからだろうか。それとも、アイツに裏切られてしまったと僕が思っているからだろうか。
僕は独り。世界に独り。僕一人が世界に取り残されてしまった様な、そんな錯覚が錯覚とは思えなくて身が竦んでしまう。体が冷えて寒気を覚える。
ああ、寒い。寒い。僕は一人だ。どこまで行っても僕は一人で、せっかく温もりを手に入れたとしてもそいつはすぐに取り上げられてしまう。
寒い、寒い、寂しい、寂しい寂しいサミシイサミシイサミシイサミシイ――

「くっ、あっ……!」

 廊下の壁に頭を打ち付けて思考を強制遮断。気を抜けばまた支配されそうな思考に理性を割りこませて、僕は大きく深呼吸して気を落ち着ける。
今日はもう寝てしまおう。これ以上考えていてもロクな事が無い。
そう自分に言い聞かせて僕は辿り着いた自分の部屋の扉を開けて体を滑り込ませた。
けれども――

「待っていたわ」

 君代・ヤヨイが待っていた。

「夜中に走り回って、少しは気分が晴れたかしら?」

 夜はまだ終わりそうにない。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「……何で君代さんが居るのかな?」

 僕は平静を装って尋ねてみるけれど、彼女からの返答は無い。いつものように鉄面皮に無表情を貼り付けて、じっと僕を見るばかりだ。
いや、違った。彼女は僕を見つめて、そしてすぐ後にある僕の机の上を眺めてた。
正確には、僕の書き散らしたメモを。
僕は靴を脱ぎ捨てて机に駆け寄って、彼女と机の間に体を割りこませた。一瞥しただけじゃわからないだろうけれど、これは関係ない人に見せていいものじゃない。
勝手に他人を部屋の中に入れたユキを恨みがましく睨むけれど、彼女は僕の肩の上によじ登ると僕には振り向かず君代さんを警戒する様に見ていた。

「……用がないなら出てってくれるかな? 僕はこれから寝るから、何か用があるんならまた明日にしてくれよ。第一、こんな夜中に男の部屋に勝手に入るなんてプライバシーの侵害だよ」

 思うままにいかない苛立ちと、メモを見られた事を誤魔化すのに頭がいっぱいでつい物言いも刺々しくなってしまった。しかも男の部屋に入ったからプライバシー侵害だなんて、そうじゃないだろ。勝手に部屋に入った事を咎めたいのか、それとも男の部屋に女の子が入った事を咎めたいのかいったいどっちなんだ、僕は。
散らかった机の上の整理して乱暴に机の引き出しに紙を突っ込む。その時にクシャリと紙が挟まったけれどお構いなしだ。そして話は終わり、という意図を込めてそそくさと布団の中に潜り込んだ。

「ヒカリの言う通りにゃ。なにがしたいのかは知らにゃいけど、用があるにゃら出なおしてくるのにゃ」

 耳元でユキがそう言い放つ。僕は君代さんに背を向けてるから彼女の様子はうかがい知れないけれど、足音もしないからきっと彼女はまだそこに立っているんだろう。
そんな彼女に焦れたのか、ユキが低い唸り声を上げて威嚇し始める。さすがに飛びかかるような事はしないだろうけれど、スバルやタマキじゃないから引っ掻いて怪我をさせるのも問題だ。とは言っても、彼女は確かコウジの攻撃を受け止めた子だ。ユキが怪我を負わせられるとは思わないけれども。

「あなたは……」

 不意に彼女の低くハスキーな声が発せられた。

「あなたは、ここで逃げてはいけない。あなたが信じたくないとしても、目を逸らせばもっと悲しい結末にしかならない」
「君はっ!」

 僕は布団から跳ね起きた。今、彼女は何を言った? 彼女の言葉は何を意味している?
そんなの、決まってる。

「君代さんは……知っているのか?」
「ええ」

 彼女は短い返事と共に、僕の問いに頷いてみせた。

「アンタは……何を知ってるのにゃ?」
「全てを」君代さんは言った。「この一連の事件の全て。事の起こりからあなた達が知っていることは全て私は知っているわ」
「嘘だっ! そんなはずは無いっ! そんな……」
「嘘じゃないわ」
「ならどうやって……!」
「見てたもの、全部。最初の事件で人が襲われるところも、犯人が魔術師と戦うところも全て」

その言葉に僕は愕然とした。声を失って酸素を求める金魚見たくパクパクと無様に口を動かす。そしてカラカラの喉からやっとの事で言葉を絞り出した。

「どうして……知っているのなら、見てたのならどうして……止めてくれなかったんだ」
「それが最善だったから」
「ふざけるなっ!!」

 ドン、と室内に何かを叩きつける音が響いて、気づけば僕はベッドから立ち上がって彼女の胸ぐらを掴み、壁に叩きつけていた。
女性に対しての所業じゃないことは十分解ってる。けど、そんなの関係ない。
彼女は痛みを覚えたはずなのに微塵も表情を変えることはなくて、普通なら感じ入るはずの罪悪も後ろめたさも黒い瞳に現れてはこなかった。

「人が……人が死んでるんだぞ……! それも一人や二人じゃないっ! 何人も何人もだっ! ユズホさんだって死にかけたんだ! それなのにっ、それなのにどうして君は今が最善だって言えるんだっ!」
「紫藤・ヒカリ君」

 彼女は息が吹きかかりそうな距離で僕の名前を呼んだ。僕が彼女の瞳を覗きこむように彼女も僕の瞳を捉えて離さない。
君代さんの身長は僕より頭半分くらい小さい。だから彼女は僕の顔を見上げる。だというのに、僕は彼女から見下されているようなそんな感覚を覚えた。

「あなたは、百人の命と一万人の命、どっちを選ぶのかしら?」
「何を急に……」
「答えて」

 端的な問い。そんな問いかけに僕は応える義務は無くて、そもそも僕の質問に彼女は応えていない。だから僕はそれを無視しても咎められる謂れは無い。
なのに、僕は彼女に飲まれていた。

「そんなの……選べるわけがないじゃないか」

 どっちも人の命だ。容易く失われていいものでもなく、容易くじゃなくても失ってはダメだ。失っては二度と取り返しのつかないもので、最も人を悲しませる忌むべきもの。それが死だ。どちらかを選ぶなんてそんな土俵に乗せるべきものじゃない。

  「そう。あなたの言う通り選べるわけがない。けれど選ばなくてはならなかった。だから私は一万人の命を選んだ。それだけの話よ。そちらが『最善』だと判断したの」
「だからこれまでの事件を見逃してきたって言うのかよっ! だいたい何で事件を見逃すことが一万人を助けることに繋がるんだ!?」
「それは言えない。けれども、ここで私が犯人を捕まえていたらもっと最悪の未来が待っていた。だから私は彼を止めなかった」
「そんなので納得なんて……」

 できるはずがない。彼女が、理解できない。どうして彼女はそんなに平然としていられるのか。誰一人納得出来ない理由で何人もの命を失わせておいて、彼女は何も感じないのか。僕には理解できない。

――いったい彼女は、「何」だ? 
 僕は恐怖を覚えて立ちすくんだ。彼女の胸元のシャツを掴んだまま、僕は何もできなかった。何も言えず、何も反論できずにそのままだった。何を言えば僕が納得できる言葉を引き出せるのか、それが分からない。

「傍から黙って聞いていればにゃ、ずいぶんと色々と知ってるみたいにゃんだけど、まるでこれから起きることを全部見てきたみたいにゃ口ぶりにゃね」
「ユキ……」
「……」
「未来は限りなく不確定であり不安定。ちょっとした境界条件と初期条件の違いが時に全然違う結果をもたらすはず。イチハでさえ未来を予測する事はできても所詮推測に過ぎないにゃ。にもかかわらずアンタはそれを確定的に語って、異なる未来が来ることをちっとも疑っちゃいない。まったく、いい加減わちきたちにも教えてほしいものにゃ。アンタが何者にゃのかを。
――ねえ、魔法使い様?」

 魔法使い。
その言葉を理解した瞬間、僕は眼を見開いた。ユキの方に向けていた顔を正面の君代さんへ戻してその顔を見遣る。

「……」

 彼女の顔色に変化は無い。黒く濁った瞳でさっきから僕を見つめたままだ。

「ふん、ダンマリかにゃ」
「私が何者であるか、それは紫藤君の決断には関係ないもの」
「腹を割って話さない相手の言葉を聞き入れるとでも思ってるのかにゃ? アンタの意に反した行動を取ったらそっちも困るんじゃにゃくて?」
「その時はその時。また別の手段でやり直すだけ」
「……」
「……」

 僕を境にしてユキと君代さんが見つめ合う。無言のままユキは値踏するように睨みつけて、君代さんはただ見ているだけだ。そこにどんな感情さえも存在してない。そんな風に僕には思えた。
いや、違う。君代さんの眼には何も映っていないんじゃない。彼女の眼を見て僕は気づいた。
彼女は何も映していない。ただの光学的な情報として僕とユキの姿が投影されているけれども、そこに物理的な意味以上のものは何も無い。でも、敢えて意味付けをするならば、諦観。
そうだ、諦めだ。僕はその眼を知っている。そんな眼をしてしまった人を、僕は覚えている、はず。
ぼんやりと浮かび上がる情景。けれども曖昧な輪郭ばかりが思い出せて、それが誰であったか明確にはなってくれない。
ただ、思い出そうとするとひどく泣きたくなった。

「……ふぅ」

 僕がそっちに意識を持って行かれていたその時、後ろでユキが根負けした様にため息を吐いた。

「まあいいにゃ。今回はこれ以上の追求は止めといてやるにゃ」
「感謝する」
「勘違いしないでほしいにゃ。あくまで『今は』にゃ」

 ふん、と鼻息を荒くして念を押しつつ、ユキは歩き始めた。僕の足元を通り過ぎ、椅子を上手く使って机によじ登る。そしてそのまま君代さんの肩に飛び乗ると「さて」と言って僕と対峙した。

「この女の言う通り決断の時にゃ、ヒカリ。辛い真実と向き合うか、それとも何も気づかなかった事にして逃げ出すか。ああ、君代・ヤヨイが魔法使いだっていうのはわちきが保証するから気にしなくていいにゃ」
「ユキ、もしかしてお前も……」
「予め知ってたのか、なんて言うのは無しにゃよ。知らなくてもヒカリの反応を見てれば嫌でも気づくにゃ」

 残念な真実だったにゃ。ため息混じりにそれだけ漏らして、ユキもまた僕に迫ってくる。僕に答えを求めるその眼差しに耐え切れず、僕は顔を伏せた。

「決断って言ったって……もう答えは決まってるじゃないか……!」

 いくら何でも犯人を見逃すなんて選択肢は無い。それが僕の知っている人であっても、罪は罪だ。無かったことにはできないし、知人である以上彼に罪を償わせてあげないといけない。それが、彼と共に過ごしたものの責任だと思う。そんな事は解ってる。理解ってるんだ。
けれど。

「怖いんだ……」

 失うのが怖い。誰かが僕の傍から居なくなるのが怖い。想像するのさえ辛い。また、僕の傍から居なくなってしまうその事実が、ひどく怖い。
頭の中で皆の声が反響する。裏切り者。友達を売った薄情者。声だけだったそれは、いつの間にか明確な姿形を作り上げていた。ぼやけてた輪郭も、モザイクが掛かっていた顔立ちも今ははっきりと形作っていて、その容姿を僕は認めた。
彼は僕だった。

――所詮お前は独りで生きていく運命なんだよ

 幼い声で僕の顔をしたソイツは僕に言い放つ。無邪気な残酷さを装って僕を嘲った。そして僕は、その通りだ、と思った。
誰も僕の周りには残らない。どれだけ頑張ってみても、いつかはみんな消えていく。蜃気楼だったみたいに、僕の前から掻き消して・・・・・しまうんだ。
僕らのグループも同じだ。こんな事があってもみんな今までと同じように笑って過ごせていけるのか。きっと最初はまたこれまで変わらない毎日を装っていて、でもどこかぎこちなくて、やがて少しずつ少しずつ、砂時計の砂みたいに気づかない速度で壊れていく。
それは妄執だ。単なる想像だ。だけれども、起こり得る未来の姿でもある。
もし、崩壊してしまったら、みんなバラバラになってしまったら。僕が、本当に独りになってしまったら。
その時僕は、まだ生きていられるんだろうか。
そんな目に遭うくらいなら、大切なモノを失ってしまうなら、全てに目を閉じて、耳を塞いで今と同じように、これまでと変わらない日常を維持してしまえば。そうだ、これ以上アイツが罪を重ねないように、僕が注意して傍に居るならアイツだって――

「ヒカリ」

 いつの間に項垂れていた僕の頭上からユキの凛とした声が降りてくる。

「人は何かを常に失いながら生きていくの。毎日少しずつ少しずつ……手で掬った水が指の隙間から漏れ落ちていくように、でも時には大きく零してしまうそんな生き物なの。変わらないものなんてどこにも無い。とても辛いことだけれど……だから誰もが必死に、少しでも零れていく量を少なくしようともがくの。
 もし、何も失わない生き方があるのであれば……それは本当に素敵で、生きるのに容易い、辛くないとても私たちに優しい世界なのでしょうけど、でも私たちには出来ない生き方なのだと思う。そんな生き方、どんな哲学者だって誰も知らないし誰も教えてくれないもの。それでも私たちは生きていかなければならない」

 けれど。

「同時に何かを得ていくことができる。
 私たちは何かを失っていくサミシイ生き物。大切なものさえ、いつかは無くしてしまう。だからこそ失った分を埋めるために他の何かを得ようとあがく。失った重さと同じだけ、新しい大切なモノを得るチャンスがある。今、ヒカリは分水嶺に立っているの。変わらない日常を求めて本当に大切なものを失うのか、それとも痛みに耐えて新しい自分を、より良い未来を得るチャンスを掴むか。誰しもに訪れる選択の時が今ヒカリに訪れてるの」

いつもとは違う口調で、ユキが優しく諭すようにして僕に語りかける。その口調はまるで、まるで母親のようであり、また姉の様でもあって。

「紫藤くん」

 君代さんの声に、僕は顔を上げた。

「あなたの感じる孤独を本当に理解できる人は、たぶんこの世界のどこにも居ない。サミシイのはとてもとても辛いこと。だから、これ以上誰にも嫌われたくない、誰からも離れていってほしくないという気持ちは理解できる。
 でもそれは世界中の全てがあなたを独りにしていることを意味しない。現にあなたは沢山の人に守られている。だからこれまで辛くても絶望せずに生きてこられた」
「……分かってるさ」
「そう、あなたは理解ってる。理解ってるはずなのに、周りから眼を背けている。見えないふりをしている」
「そんなことは……」
「でなければ、あなたはそんなにも恐怖はしないはず」
「……」
「あなたの仲間は、あなたが築いてきた信頼はそんな簡単に崩れ去るほどに弱いものなの?」
「……違う」

 違う。そんな事は無い。きっと……きっとみんな、僕を嫌ったりなんてしない。どんな事をしてもきっと、離れてなんていってくれない。僕が間違っていれば諭してくれて、僕が悩めば一緒に悩んでくれる、そんな、僕にはもったいないようないい人ばかりだ。
そこまで考えて僕は気づいた。結局は僕自身の問題なんだ。僕が彼らを信じきれていないんだ。
上辺だけの付き合いをして、本当の意味で彼らを頼らず頼られようとせず、ただ嫌われないように、それだけを祈った浅はかな関係。だというのに、スバルを始めとしてみんな僕の傍に居ようとしてくれる。僕は歩み寄ろうとしていないっていうのに。
ならば僕は彼らの元に歩み寄りたい。手を差し伸べてくれているのだからその手を取りたい。僕は、一人では居たくない。
それでも僕は怖い。信じたくても信じられない。喪失の痛みに怯えるのであれば、始めから痛みの元の傍に居なければいい。そうすれば、少なくとも究極の痛みからは逃れられるのであるのだから。
踏み出すのか、留まるのか。その二つに挟まれて僕は動けなくなった。

「――、―――、――♪」

 不意に聞こえてくる歌。穏やかなで、けれども力強い曲調。どこか心を震わせる様な、そんな魅力を持った歌声。その声に惹かれて顔を向ければ、いつの間にか君代さんの肩から降りたユキが窓の外に向かって歌い上げていた。

「……いい歌にゃ。夜は物寂しいけれど、この歌を口ずさんでると何だか勇気が出てくるにゃ。ヒカリも昔はよく歌ってたんだけれども、覚えているかにゃ?」
「……うん、覚えてるよ」

 昔から歌は下手だったからあまり歌わなかったけれど、この歌だけはよく歌ってた。おかげでこの歌だけは音も外さずにキチンと歌い上げる事ができる。全てが変わったあの日に一緒に居た誰かに教えてもらったはずだけれど、それは誰だっただろうか。よく思い出せない。でも、曲名は覚えてる。確か……

「You'll never walk alone。君は独りじゃない。だから、ヒカリは怖がらなくていいにゃ。わちきもスバルたちも、絶対にヒカリを見捨てたりしないにゃ。ヒカリが流されずに正しいと思う道を進むにゃらわちきたちはヒカリを信じて一緒に進んでいく。
 だから――周りを気にせずにしたいようにしなさい」



 僕は決意した。






◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




――その二十時間後


「――、――っ!!」

 言葉にならない叫びが夜空に響き渡った。
 だが。

「引っ掛かってくれると思ったよ」

 次に彼女の口から発せられたのは嘲る様なセリフ。次いで顔面を襲う、意識を失わんばかりの衝撃。視界の中で天地がひっくり返り、擦過音を立てながら特殊アスファルトの上を彼は転がっていった。
それでも幾度か転がったところですぐに体勢を立て直すと、片膝を突いた状態で彼は己を襲った攻撃者の姿を睨みつけた。

「誰だっ……!」

 口元を流れる血を拳で拭いながら忌々し気に言葉を発する。その際に彼の顔を隠していたフードが落ち、そして向かい合った女性だった・・・人物の姿を見て彼は言葉を失った。

「んー、やっぱりスカートって動きづらいよね。激しい運動には向かないや」
「いや、お前が『スカート履かなきゃ』って言い出したんじゃないか」
「だってやっぱり女装するならまずはスカートと黒タイツじゃない?」
「言っとくけどイチハに認識阻害を掛けてもらうんなら服装とか関係ないんだからな?」
「ボクの美貌で女の子のカッコすれば誰かさんが欲情してくれる可能性が微粒子レベルで存在してたり?」
「しないから。絶対しないから」

 ユズホに似た誰かだったは、スカートの端を摘んで文句を言いながらも満更でもない様子で、その隣に並び立つ見知った男は呆れて肩を落とした。

「スバルっ…ヒカリっ……!」
「やあ、ボクとは久方ぶりになるのかな? 相変わらず元気そうで何よりだよ、犯人さん。
 いや――」

 苦笑いを浮かべるスバルとは対照的に、ヒカリは何かを押し殺すように眉間に皺を寄せて犯人の姿を見つめた。
そしてスバルは決定的な名前を口にした。

「――染矢・ユキヒロ」



夜の町。華やかなネオンが彩る。 犯人(ユキヒロ)は高鳴る鼓動のまま歩き回っていた。 徘徊と言ってもいいほどその眼に正気は無く、歩きながら人を観察。 今日の獲物を探していた。 だが中々いい獲物が見つからない。 仕方なしに妥協して適当な女を見繕って乾きを潤そうとした。 だが、その時ありえないものを見る。 彼女はユズホだった。最初は空似かと思ったが、どう見てもユズホ。 かつてドッペルゲンガーを奪ったはずの、ベッドで寝ているはずのユズホが元気に歩きまわっている。 気になり後を追いかける。 匂いは違う。だがドッペルゲンガーは強力で美味そう。 前とはどこか違う気がして本人かと疑うが、容姿が同じ。 動けないはずだし、だが美味そうなのは変わりない。 追いかける犯人。やがてユズホは人通りの少ない住宅街へ。 好都合にも捜索班が捜索している場所とは違い、絶好の機会。 我慢できずに襲いかかった時、犯人に気づいたユズホは避ける。 が、避けきれずに腕に攻撃を喰らう。 そこでユズホの擬態が解ける。イチハの魔法でスバルにユズホと認識させる魔法をかけていた。 そこに現れるヒカリ。 「やっぱり……お前だったんだな」 スバルたちが襲撃先を定めたのと同時刻。 ヒカリは激しく拳を机に叩きつけた。 (犯人がユキヒロだと分かってしまった。だが信じたくない) 獏の噂の出処をスバルに調べてもらって、出処はユキヒロのPC。 (ユキヒロは自分を止めて欲しかった?) そこからここのところのユキヒロの動向を調査。 バイトだと言っていたが、バイトは無断欠勤が続いてすでにクビになっていた。 まさかという思いが渦巻き、ヒカリは夜の町に飛び出した。 町を歩き回り、帰ってきた時、部屋の中にはヤヨイがいた。 「アナタは間違っていない」 「でも、もし違っていたら……」 「その時でも誰もアナタを見捨てはしない。もしそう思ってるんだったら、それは彼らに対する重大な裏切りだわ」 ヒカリは決意する。 「ユキヒロ……」 ヒカリがスバルに連絡。協力を求める。 →タマキが魔技総研に行く。(ミサトに協力を要請) ユキヒロ:ヒカリ、スバル 魔技総研:タマキ、リンシン、ミサト ノバルクス:コウジ、サユリ
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