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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved





 久遠トモキはひどく陰鬱な気分で項垂れた。
辺りは暗い。日射しはどこにも無く、照明のようなものもない。広がるのは足元さえも満足に見ることが叶わない漆黒の闇だけで、その中に自分が立ち竦んでいるだけでとても不安な気持ちになってくる。どこか、どこか明るい場所を探して落ち着きたくはあるが体は全身がその場に縫い付けられたかの様に動かない。声を発して不安を紛らわす事も両耳を手で塞いでこれから押し寄せてくるであろう陰惨な音に抵抗することもできない。トモキに許されている事は唯一つ、その鳶色の瞳を一点に固定して瞬きをする事だけだ。
沈んだ気持ちになりながらもトモキは落ち着いていた。否、落ち着いていたと言うよりは諦観だ。すでにこの夢を見るのも何日目だろうか。初めて見た時は訳が分からずパニックに陥りかけていたが今ではもうすっかりと慣れてしまった。どうせ自分には何も出来ない、と投げやりな気分になる。これは夢であり、夢はいつか覚める。それまでただひたすらに耐えればいいのだから。
暗く静寂だけの時が過ぎ、これまでの経験からそろそろか、と抵抗できないことに半ば諦めを含んだ吐息を肺から吐き出したのと同時にそれらはやってきた。
初めは点の様であった。暗闇の中の視点でぽっかりとできた光。最初にこの夢を見た時はそれが希望に見えた。不安で押し潰されそうになっていたトモキの眼には救いに思え、しかしすぐ後にはその認識が過ちであると思い知らされた。
遠く離れた点が何なのかトモキに見えなかった。だが少しずつそれが近づいてくることで大きくなり、光源に何があるのか分かるようになる。
忙しく動く腕と脚。踊り狂っているようにも見えれば、戦いに躍動する英雄のようにも見える。激しく腕を振り回し、丸太の様に太い脚が地面を蹴って駆け抜けていく。それが具体的に何であるかよく見えず、いつもはここで夢から覚めていた。覚めた後は夢を見ていたという感覚だけが残り、夢の中身が何だったかは掌から零れ落ちる雫の様に敢え無く霧散していた。
しかし今日は様子が異なっていた。トモキが眼を凝らしても夢は覚めず、光の正体も明らかになる程度に近づいてきた。光そのものも強くなり、姿は大きくなる。これまでにない事態にトモキは強く不安を覚えた。何かに拘束された体は動かないが、心根が恐怖で震えている、そんな気がした。やがてトモキは自分の考えが間違いであることを知った。
光と共に躍り出てきたのは獣であった。トモキも知る獣――虎や獅子をはじめ、熊や鷲、鷹など多くの肉食獣で、しかしながらそれらの姿はトモキの知る姿とは各所で異なっていた。羽を広げた虎、発達した下半身を持つ鳥たち。その姿もさることながらそれらのサイズが明らかに異なっている。虎や熊の顔の時点でトモキの体躯と並び、羽を閉じた鷲でさえその全高はトモキの立ち姿を凌駕する。気がつけば眼前に迫っていたその姿を認め、トモキは戦慄し、悲鳴を上げそうになった。
逃げ出そうにも体はその場から動けない。獣たちは銘々に争い、互いを傷つけあっていたがトモキの姿を見つけた途端に急にその動きを止める。そして示し合わせたかの如く一斉にトモキに対して襲いかかってきた。
虎が開けた口には鋭い牙が光っている。獣たち以外の場所はどうしようもない黒で覆われており、それだけに白い牙が目立って威圧感を醸し恐怖をそそる。同時に鷹が尖った毒々しい黄色で彩られた嘴を突き出してトモキの眼を抉り出そうと上空から襲い掛かる。トモキは息を呑み、悲鳴を上げることさえ叶わない。ただ襲い来る惨事に身を固くし、凶暴な嘴からしてみれば何とも頼りない瞼の薄皮で些細な抵抗を試みるばかりだった。
だが恐るべき衝撃がトモキに降り掛かることは無かった。
獣たちの生暖かい吐息が掛かる程に近くに居て、いくつかの獣はトモキの頭を噛み砕こうと分厚い顎を常の位置よりも大きく下げていた。後はその巨大な口を閉じるだけでトモキの頭蓋は微塵となり、彼らの栄養となるはずだった。しかしその口は閉じられる事は無く、代わりに一人の男がその顎を片手で支えていた。
次の瞬間、虎の獣の頭蓋がトモキの視界から消え去った。その様にしかトモキには見えなかった。だが次の瞬間にはかつて頭部が存在していたところから生暖かい血液が吹き出してトモキと、突如現れたその男を頭から濡らしていく。匂いも無い、しかしぬめり気だけは確かにある液体が顔を真赤に染める。
男が横一文字に手を振るい、それに合わせて次々と頭部が跳ね飛ばされていく。縦に振り下ろせば獣たちの体は真っ二つに割れ、無手のはずのその腕はあたかも鋭い刃の様に容易く異形のものたちを弑していった。
血が噴き出し、砕かれた頭蓋の骨が飛び散り、脳漿が飛沫となって体を汚す。トモキなど容易く屠れるはずの獣たちが為す術もなく切り裂かれ、貫かれ、そして倒れていく。一面黒の床に赤い獣の血が流れ、そこで初めてトモキはむせ返る匂いが自身の肺腑を満たしている事に気づいた。
吐き気がこみ上げ強くえづく。キリキリと胃がきつく締め付けられ、いつの間にかトモキは膝を突いて胃の中身を吐き出していた。何度も何度も嘔吐し、口元と床に突いた掌を容赦なく汚す。獣の血と吐瀉物が混ざり合って、床のパレットが得体の知れない色へと変貌していく。
吐く物も無く、やがて収まり掛けたトモキだったが、それでももう一度大きくこみ上げてくるものに耐え切れず、それを吐き出した。それを見てトモキは目を見開いた。
吐き出したものは自らの血であった。獣の血と吐血が完全に入り混じり、全てを真赤に変える。
襲う戦慄。真赤に染まった自分の掌を震えながら見つめる。と、視界の端に男の脚が踏み入ってくる。血溜まりを踏みしめ、自分の脚が汚れることも厭わずにトモキの目の前に立つ。トモキはゆっくりとその男を見上げた。
全身を赤く染め上げた男の姿。ダラリと下げた腕の指先からは斬り裂いた獣の血が溜りに流れ落ちて音を立てている。そして、その顔を見た。
その顔は、自分の顔だった。
今度こそトモキは悲鳴を上げた。



「――っ! はぁ、はぁ、はぁ……」

 ベッドの上でトモキは跳ね起きた。息は荒く、眼は胡乱で焦点が合わさらない。収まらない呼吸の中、トモキは慌てた様に顔を動かして自身の居場所を確認する。遮光性の高いカーテンの裾からは微かに曙光が漏れ、頻度の高い呼吸音の合間には雀がじゃれあう声が聴こえる。その声を聞き、トモキはようやく落ち着きを取り戻した。
ベッド脇のデジタル時計を見遣る。時刻は午前六時手前を示している。更に奥に視線を動かせば木製の焦茶色をした学習机がいつもと変わらない静寂さで佇み、白い壁紙に映えている。トモキは前屈みになって大きくため息を吐いた。

(なんだ、今の夢は……)

 獣の様な生物の夢はこれまでに幾度か見てきた。特にここ数日は毎日の様にトモキはうなされ、しかしそれでも遠巻きで眺めている程度で、その正体も判別が困難であった。そのまま朝を迎えてトモキを悩ませては居たが、時間が経つと霧散して記憶の端に追いやられるのが常だ。それが今晩に限って明瞭で、しかも――
 トモキは頭を振った。これ以上思い出したくも無いし、思い出しても何にもならない。再びため息を吐くと、右手を額に当てた。そこでヌルリとした感触を覚えた。

「――っ!」

手にベットリと付いたのはただの汗。魘されている間に掻いただけの冷や汗であった。だがトモキは手に付着する、夢で見た獣たちの真っ赤な鮮血を幻視した。

「う……」

 口元を抑えてトモキはベッドから駆け下りた。ドアを押し開け、足早に洗面台へと駆けこむと激しく嘔吐した。

「がは、げほっ……」

   すでに昨夜の食事は消化され、吐き出すのは黄色い胃液ばかり。それでもなおトモキの胃は拗じられたかの様に絞り上げられて無理やり消化液を吐き出させる。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 冷たい汗が噴き出して薄青い半袖のシャツが背中に張り付く。気分の悪さは続き、しかしいつまでもこうして居るわけにもいくまいとトモキは顔を上げた。そしてそこで鏡に映る自らの顔を見た。

「ひっ――!」

 その途端にトモキは腰を抜かして倒れこむ。板張りの床に尻を強かに打ち、背中も白い壁紙が貼られた壁に打ち付けるがその痛みもトモキには気にする余裕が無かった。
一瞬だけ映った鏡の中の自分。その顔は頭部から流れる血に塗れて真赤に染まっていた。まるで先ほど見た夢の中の自分の様で、トモキは慌てて顔を両手で拭い去った。しかし改めて見た自分の掌のどこにも血は付いておらず、何度顔を拭って頭に触れようとも変化は無い。そして恐る恐る鏡を覗きこんでみるが、そこにあったのはいつもと変わらない、自信なさげな自らの顔だった。

「見間違いか……」

 考えてみれば当たり前のことだ。思い返してみてもベッドから落ちたりだとか机の角で頭を打ち付けた形跡も無い。昨晩だって何か怪我をしたわけでも無く、であるなら血が流れ出るはずがない。まして、夢の出来事が現実の世界を侵食したかのように具現化するはずもない。安堵のため息を吐き、しかしながら気分は優れない。頭は重く、体は気怠い。

「また今日が始まったのか……」

 いつも起きる時間よりまだ三十分程早い。かといってまたベッドに戻って眠る気持ちにもなれない。眠れるとも思えない。階下に意識を向ければ、すでに起きているだろう母の朝の準備の物音が聞こえてくる。

(僕も準備するか……)

 鏡に映る自分の顔は暗い。それを夢見のせいだと自分に言い聞かせ、気分を変えるべく蛇口から流れ落ちる冷たい水をトモキは顔に叩きつけ、寝ぐせの目立つ黒髪を蛇口の下へ押し込んむ。流れ落ちる冷水が頭を冷やしていくが、気分はやはり晴れなかった。
気分と同じく重い体を動かして着替える。入学して一年以上が経ち、初めは服に着られている感のあった魔技高の制服も、今は手慣れた様子で身につけていく。鞄の中を覗き込み、必要な教科書類が入っていることを確認すると、トモキは机の上に置かれていたスケッチブックを教科書の上に乗せた。着替え終え、鞄を肩に担ぐと部屋の壁に立て掛けてあった一口ひとふりの剣を手にした。魔技高の特任コースに入学する時に全員に支給される剣で、しかしトモキのそれは貰い物だった。かつての在校生から譲り受けた、と彼の両親は話していたが、その話を裏付けるように鞘や柄には一瞥では分からない程度の微細な傷が多く付いていた。
 数秒その剣を掲げる形でトモキはじっと見ていたが、やがて剣を腰に挿し、階下へと向かっていった。

「おう、トモキ。おはよう」
「あら、もう起きたの? おはよう。今日って早く行くんだったっけ?」

 一階に降りたトモキを出迎えたのは父・ケンジと母であるアカリの声だった。薄いピンク色のエプロンを身につけて朝食の準備を進めていたアカリは、トモキの着替えた姿を見て近くにある時計を見るが、自分が時間を間違えていないことを確かめる。
ダイニングの椅子に荷物を置き、トモキはその隣に腰掛ける。

「おはよう。いいや、ただちょっと早く眼が覚めただけだよ。でもせっかくだから早く行こうとは思ってるけど」
「そう? ならちょっと待ってて。もう少しでご飯できるから。お父さんと一緒に……そうだ、先にお味噌汁から飲んでて」

 そう伝えながらアカリは一層忙しなく動き回る。微かに染めた茶色の髪を振り回して、だがどこか楽しそうに朝食を作っていく。すでに四十を越える齢のはずだがトモキから見てもまだ若々しく、ともすれば幼くも見える。対照的に父親であるケンジはトモキの対面に座り、ワイシャツ姿で新聞を広げている。黒縁の細い眼鏡を掛けて細かな文字を追っているが、アカリと同年齢にも関わらず頭部には白髪が目立っていた。

「はい、召し上がれ。もう少しでご飯も炊きあがるからね」

 先に出来上がった味噌汁をケンジとトモキの前に置くとアカリは炊飯が完了するまでの時間を活用して食器を洗い始める。

「それじゃ俺も先に頂くとするかな」

 ケンジは読んでいた新聞を折り畳むと、箸筒から自分の分とトモキの箸を取り出してトモキに渡す。そしてトモキに対して目配せをすると二人で声を揃えた。

「頂きます」

 それは昔からの習慣で、丁寧に両手を合わせて挨拶をし、ケンジは最初の一口を飲み込むとホッと息を吐いた。しかしいつもならばケンジと同じように味噌汁に口を付けるトモキの手が動かない。

「どうした? 吸わないのか?」
「え……ああ、うん。ゴメン、何でもないよ」

 ケンジが心配気な声を掛けたところでトモキは我に返った。慌てて茶碗を手に取って湯気の上がる味噌汁を口元に持っていく。だが口を付けるも碗を中々傾けることができない。
アカリの手から渡された時、トモキの眼には味噌汁の中身が真っ赤な血の様に見えていた。無論それは見間違いでしか無く、今のトモキには単なるいつもの味噌汁でしかないのだがどうしても夢の光景が脳裏にちらついてしまう。それでも勇気を振り絞って飲み干していく。具を箸で掻き込み、熱い汁が臓腑へと流れ落ちて、ようやくそこで一息吐けた気がした。
だがそんなトモキを、炊き上がったご飯を置きながらアカリが心配そうに覗きこむ。

「……どうしたの、トモキ? 具合でも悪いの?」
「え? いや、そんな事は…ないけど、どうして?」
「だって顔色が悪いわよ? 真っ青になってる」
「……ちょっと変な夢を見ただけだよ。それで眼も覚めちゃってさ。大したこと無いよ」
「ならいいんだけど……」
「なあ、トモキ」

 ケンジが手にしていた茶碗と箸を置き、テーブルに肘を突いてトモキに向き合う。

「学校ではうまくやっていけてるか? お前が自分から問題を起こすとも思えないが、大人しくて我慢する癖があるし、優しいから迷惑掛けるのを気にして誰にも相談できない、なんて事になってないか?」
「なんだよ、急に」
「いや、こんな事お前に言うべきじゃないんだろうけど、魔技高専は特殊な場所だからな。お前の性格とは合わないことが多いだろうし、俺たち大人の都合で入学させてしまったから気にしてるんだ。お前が本当は普通の高校に入学したがってたのも知ってるし」
「大丈夫だよ」

 トモキは即答してみせた。

「確かに少し上手くいかない時もあるけど、そんなの何処だってあるからさ。仮に僕が行きたかった高校に入学してたとしても起こり得る問題だしね。父さんたちが気にする事は無いし、心配すること無いよ」
「そう言ってくれるのは有難いけどな、せめて心配くらいはさせてくれよ。俺たちはお前の親なんだからな」
「分かってるよ。父さんたちの気持ちは、さ。感謝してる。でも大丈夫だから。
 っと、ゴメン、今日はやっぱり朝ご飯はやめとく。もう学校に行くね。父さんも仕事頑張って」
「ああ、ありがとうな。気をつけて行けよ」

 本当はトモキも話したい事があった。二人が気兼ねなく相談してほしいと本心から願っている事は気づいてもいたし、例えば恋の話や進路の話であればすんなりと相談できた、と思う。
しかし、トモキは今抱えている悩みを気軽に話す気にはなれなかった。言えば必ず両親に不安と心配を掛けてしまうから口にすることは憚られた。心配をさせてくれ、とケンジはトモキに言ってくれたが、だからといってトモキが心配させたいかと言えば逆であり、そんな両親だからこそ余計に心配する話題は避けたかった。だからこそ強引に話を断ち切った。これ以上優しい言葉を掛けられれば、胸の裡を晒してしまいそうだったから。
鞄を肩に掛けて黒い頑丈なブーツに近いフォルムの靴の紐を結んでいく。手早く結び、アカリが追いかけて来るのを背後から感じながら、だがトモキは敢えて無視して玄関から飛び出していった。背後からの「気をつけて!」という母の声に後ろ手で応えながら。
そんなトモキを見送ったアカリは腰に手を当てて「もうっ……」と一人憤慨してみせる。トモキの姿が小さくなり、角を曲がって見えなくなるまで見送り、すると大きくため息を吐いて肩を落とした。

「ねえ、お父さん……やっぱりトモキ、何か隠してるわよね?」
「たぶんな」眼鏡のズレを直し、コーヒーを流し込んでその熱さに僅かに顔をしかめた。「だけどアイツももう十七だ。悩むこともあるし、傷つく事もある。俺らに言えない悩みだってあるさ」
「でもあの子が通ってるのは魔技高よ? 普通の環境とは違うんだし、あの子も普通とは違うわ。私たちならただの喧嘩で済むような諍いだって魔術師同士なら取り返しの付かない事になりかねないのよ」
「だとしても、だよ。他の道を俺たち大人が閉ざしてしまったんだ。あの子はもうそういう世界で生きていかなくちゃいけないし、生きていく術を身につけていかないといけない」
「私たちの過ちのツケをあの子に背負わせるというの?」
「そうだ。私たちが背負わせてしまったんだ。だからといって悔やんでばかりいても仕方ない。俺だってあの子には辛い思いをさせたくはないよ。だけどもう数年もすれば俺たちの手が届かない世界へ行ってしまう。時計の針は戻せない。なら俺たちは俺たちができる事をするしかないだろう?」
「…………」
「俺たちはあの子を見守ってやればいい。そしてあの子がどうしようもなく途方に暮れてしまった時にサインを見逃さずに助けてやればいいさ」
「……親っていうのは本当に難しいものね」

 アカリは椅子に座って力なくため息を吐き出した。ケンジもまた白髪の目立つ髪を掻くと、コーヒーを流し込んで息を吐く。

「本当に、苦いもんだな……」



 見送るアカリの姿が住宅に隠れて見えなくなるのを確認すると、トモキは歩く速度を緩めた。家を出ても体は尚も重く、空腹のはずの腹は未だ捻るような疼痛を訴える。足取りは鈍いが、それでも学校は家からは程近く今のトモキの脚でも五分も歩けば巨大な学舎が朝靄の中から姿を現す。
国立魔素技術高等専門学校。数十年前に生まれた魔素技術を発展させるために作られたこの高校には、全国から魔素技術を扱う才能に長けた選りすぐりのエリートが集まってくる。
今や生活になくてはならない魔素技術を工業技術として実地で身につけたい生徒は就技コースに、工学的な理論を学ぶことを欲した学生はその後の大学進学を見据えて進学コースへ入学する。それら二つのコースだけでも入学するには相当の学力が必要になるが、この高校には更にレベルの高いクラスが存在する。
それが、特任コース。一学年の生徒が六〇〇人に達するエリート達の中でも八〇人のみの在籍が許される特別なクラスであり、卒業後には国管轄の組織への就職が約束されている。だがいくら頭脳明晰であろうが、その特任コースに所属するにはある一つの才能が必須となる。
二重存在、ドッペルゲンガー。入学試験時において特殊な装置によってもう一人の自分であるドッペルゲンガーを発現させること、それさえできれば特任コースに所属することが許される。それまでの学力がどれ程低くても、素行に問題があろうとも問われない。何故ならばこの特任コースへ入学できる少年を集めること、それこそがこの学校の異議であるのだから。

(魔術師、か……)

 巨大な校舎を見上げながらトモキはひとりごちた。ドッペルゲンガーを発現させたものは魔術師と呼称され、そうではない普通の民間人とは名実ともに異なる存在となる。いかなる人間よりも強い肉体を持ち、明晰な頭脳を持ち、そして本来は戦う術である魔素技術、通常「魔術」を本来の用途そのままに使用可能となる。
彼らが戦う相手は、魔物、魔獣。「特異点」と呼ばれる不定期に突然発生する時空の穴から現れるそれらは通常兵器では効力が薄く、魔術が特に有効な攻撃手段となるため、魔術師たちは魔物と最前線で戦う兵士となる。それがこの世界の常識だ。

「別にそんなものになりたくないんだけどな……」

 そしてトモキもまたその特任コースの生徒だ。ただし、トモキには他の生徒とは大きく異る点があった。
トモキは魔術が使えない。そもそもドッペルゲンガーを発現させる装置を使われた事も無いのだ。本来であれば特任コースへの入学はできないはずで、トモキ自身もまた入学するつもりも、入学試験さえ受けるつもりは無かった。魔術師ともなれば危険の中に身を置く機会は多い。それだけに街を、人を守る仕事というのはやりがいはあるのかもしれないが、気弱な自分にそんなものが務まるとも思えない。鞄の中に入れてあるスケッチブック。どこかで平々凡々に仕事をしながら、時折好きな絵でも描きながら過ごせたらトモキは満足できるだろうと信じていた。
しかし現実はどうか。中三のある日、学校から帰ってくればどういうわけか、試験を受けていないにも関わらずすでに魔技高への入学が決定しており、自身の意思が介在する余地は無い。その事を告げてくる両親の表情は見るからに苦々しいものであったから、久遠家の誰もに取っても不本意な事態だったことはトモキにも容易に想像がついた。そしてその理由についても理解していた。

「この力のせいなんだろうな……」

 不意に蹴飛ばしてしまった小石を拾い上げる。直径二センチ程のそれを指先でつかみ、僅かに力を込める。するとそれなりに硬いはずのそれがミシミシと音を立て、豆腐を潰すかの様に容易く砕けてしまった。それを見る度にトモキは苦々しい想いに顔を歪め、それを吐息と共に吐き出さざるを得なくなる。
同じような事は身体能力強化を得意とする魔術師ならば可能だ。だがトモキの様にドッペルゲンガーを持たない者に出来る業でも無い。かといってトモキの肉体は細身で、学校の授業の中でそれなりに鍛えられてはいるが、石を砕くほどの力を得るほどにトレーニングをした覚えは無い。未だ入学の経緯は聞かされていないが、この異常性こそが魔技高に入学させられた原因だと確信していた。そしてだからこそ一年以上経つこの高校に未だ馴染めない。
 今日も一日我慢の日が始まる。そう考えるとひどく億劫になり、このまま家へと引き返してしまいたくもあるが、かといって学校をサボるというのは、通い易いようにとわざわざ仕事を辞めてまでこの町に引っ越しまでしてくれたケンジとアカリに申し訳なさ過ぎた。
あれこれと葛藤を続けるトモキだが、遅くとも歩みは止まらず、気づけば校舎の二階にある自分の教室の前まで辿り着いてしまっていた。見上げれば「2-B」というプレートが目に入る。まだいつもよりも早いせいか、廊下には生徒の姿はほとんど居らず、それでも幾人かは登校している。普段よりも静かな廊下で聞き耳を立てれば教室の中にもすでに登校しているクラスメートが居るようだった。
トモキはドアから眼を逸し、教室の後ろ側のドアに移動する。そこで立ち止まり、取っ手部に触れ、しかしそこから動かずに居る。口を真一文字に結び、眉尻を僅かに下げて大きく息を吐き出した。やがて深く息を吸い、意を決したように顔を上げると静かにドアを開けた。
開けた途端に出迎えたのは数人の女子生徒達の視線だ。ドアが空いた瞬間は驚きに眼を丸くしていたが、入ってきたのがトモキだと分かると途端に興味を失った様に元のおしゃべりに戻る。トモキは一瞬たじろいだが、すぐに気を取り直して傍にある自らの席に腰を下ろした。そしてそっと女子生徒たちの視線の先を伺う。
そこには花瓶が置かれてあった。真っ白なその中には花が一輪だけ活けられている。死者へ弔いを示すその有り様は、しかしこの場では悪意の塊だ。花瓶が置かれている、トモキから斜め前に位置する机の前には一人の女子生徒が座っていた。

「ねえねえ、高橋っていつまで学校に来続けると思う?」
「案外しぶといよね、あの子も。いい加減自分がどう思われてんのか理解ってるだろうにさ、顔の面が厚いというか図太いというか」
「私だったらもうとっくに学校辞めてるね。いつまで経っても落ちこぼれなんだからさっさと辞めちゃえばいいのに」

高橋、と呼ばれた生徒はじっと下を向き、身動ぎしない。よくよく見れば微かに震えており、近くにいるトモキからしか分からない程の感情を発露させていた。しかしトモキはすぐに眼を逸らした。
度を越えたイジメだ。トモキ自身そう思うし、見ていて不快になる。だがトモキにはどうしようもないのだ、と自分に言い聞かせて耳を閉ざす。
魔技高、特にこのコースは実力主義の面が濃く現れる。魔物との戦いを前提としているためか座学よりも実践面が重視され、いかに理論面の成績が良くても戦闘訓練や魔術訓練の成績が悪ければ留年や、場合によって退学もあり得る。入学者全員にドッペルゲンガーが発現し、魔術を使えると言っても個性がある。そしてその個性は全員が実践面側に現れるはずもなく、従って得手不得手で序列が時と共に形成されてくる。それは、当事者たる生徒だけでなく、大部分がこの学校の卒業生である教師にも当てはまっていた。そもそも、この学校の教師は所謂世間一般的な「教師」というよりも「訓練官」と言い換えた方が適切だ。人格形成などは二の次であり、世間的にはともかくも内実としては如何に優秀な「戦闘魔術師」を輩出するか。それが一番の目標となっていた。
だから空気が醸成される。優秀な者は成績下位の者を見下し、嘲り、侮る。それが当たり前であり、また侮辱された者も反発しようにも返り討ちに遭うのが目に見えている。強い者が偉く、弱い者が悪い。それがここの常識であった。
そしてトモキもまた弱者であった。魔術が使えず、座学こそ優秀ではあるが飾りとしか見なされず、身体能力こそ優れているが生来の気弱さでまともに戦う事ができない。故にクラスの序列としては、今まさにイジメられている高橋ヨウコのすぐ上でしかなく、彼女に向けられている矛先がいつ自分に向けられるのか。それに怯え、なるべく受ける被害を少なくする為に腐心するのがトモキの日常でもあった。

(怖い……)

 情けないと思う。不満があるのならば声を発すれば良く、不快なら彼女を庇えば良い。颯爽と彼女と虐めているクラスメートたちの間に立ちはだかってやれば良いのだ。それはトモキ自身も分かっているし、動こうと思ったことも一度や二度では無い。だがどうしてもトモキは動くことができなかった。
どうしてこうも簡単に人を貶めることができるのか。トモキにはそれがどうしても理解できない。人であるから好悪の感情を抱くのは当然だと思う。嫌いで相容れない人が現れるのは避けられず、であるならば関わらなければ良い。敢えて悪意を向けて、それで何が得られるというのだろうか。
もっとも、そんな疑問をぶつけたところで何の解決にもならないことをトモキは自覚している。いくら正論や常識論をぶつけたところでここでは意味を持たない。誰も聞く耳を持たないし、逆に彼らの中に気に入らない奴だという共通認識を植え付けるだけの結果にしかならないのだ。感情に理屈をぶつけても碌な結果にならない。それこそがこの一年でトモキが学んだ成果であった。

「んー、何か臭えなぁ。いつもよりも臭いんだけどよ、何でだと思う?」
「そりゃ決まってんだろ。下等な奴が朝早くから二人揃ってるからに決まってんじゃん」

 背後から聞こえた声にトモキは身を強ばらせた。
 それはよく聞く声だ。毎日暇さえあればトモキに絡んできて馬鹿にし、時には暴力を振るってくるクラスメート。ただ声が聞こえただけだというのに早鐘を打つ。
 頼む、コッチに来ないでくれ。青ざめた顔を伏せ、一心にそれだけを願う。だが声は近づいてきて、やがてはすぐ頭上で鼻で笑う声が聞こえた。

「コイツといい高橋といいよぉ、さっさと消えてくれりゃいいのになぁ。クラスの空気が臭くて臭くてたまんねぇんだよ。なぁ、久遠。聞こえてんだろ? 無視してんじゃねぇよっ!」

 トモキの目の前に拳が振り下ろされ、机が砕ける音が響く。木製の天板を貫いた拳が引き抜かれると共に木片が散らばり、円形の痕が机に残った。

「あーあ、どうすんだよショウちゃん。備品の机壊しちまってさ」
「は、別にこんな奴の机がどうなろうが関係ねーよ。どうせ一日中黙って俯いてるだけなんだからよ。おら、さっさとどっか消えろよ久遠。テメェが居るとこっちの気分が悪くなんだよ」

 ショウ、と呼ばれた大柄の男はトモキの胸ぐらを掴むとそのまま片手でトモキを吊り上げる。そして乱暴に突き飛ばし、その勢いでトモキは座っていた椅子を押し倒しながら自身も倒れて背中を床に打ち付ける。倒れこんだトモキは一瞬走った痛みと恐怖に表情を強ばらせ、眉尻を下げて怯えた顔で目の前の男を見上げた。

「あ? 何ガンつけてんだよ」
「い、いや、そんなつもりは……」
「んじゃその手はなんだよ?」

 指摘され、トモキは自らの左手に眼を落とした。固く強く握られた拳が、そこにあった。

「久遠のくせに、よっ! 生意気なんだよっ!」

 振り抜かれた脚に蹴飛ばされ、トモキは床を転がる。壁際に追いやられ、それでも暴力は止まず腹を蹴り上げられ、背中を踏み抜かれ、頭を踏み潰される。トモキは亀の様に体を丸め、ひたすらに身を守る。動かず、両手で頭を守り、相手の気が済むのをただ待つ。その最中でトモキは声を聞いた。
 それは嘲笑の声だ。弱者であるトモキを嘲笑う悪意の塊だ。誰一人トモキを助けようともせず、ショウと一緒になって甚振り罵声を浴びせる。愉快で仕方ないといった様子で笑い声を上げる生徒。クスクスと隠しもしない忍び笑いを続ける女子生徒。今この場にいる誰もが敵で、誰もが暴力者であった。

(どうして……)

 どうして、自分がこんな眼に合わなければならないのか。痛みに上げる悲鳴に混じってトモキの中に怒りが湧き上がる。自分が何をした? 自分が彼らに何をしたというのだ? 彼らに手を上げたか? 彼女らに罵声を浴びせたか? 答えは否。自分はただ静かに時を過ごせればいいだけで、それすらも気に入らないのならば喜んでこの場から自分は歩き去ろう。だというのに、周りの大人たちはそれすらも許してくれない。
 縮こまった身体に隠れてトモキの拳が一段と強く握りこまれる。ここで声を荒げ、突き飛ばし、暴れまわる。感情の赴くままに動けたら――そんな想いが心中で暴れ狂うが、トモキはギュッと強く眼を閉じて口を閉じた。

「この剣だってどうせ使わねぇんだ。要らねぇだろ?」

 秋山ショウは蹴飛ばすのを止め、トモキの腰に挿された剣に手を伸ばす。先ほど自分を掴み上げた手が剣へと近づいているのに気づいたトモキは、反射的にショウの手を掴みに動いた。

「そこら辺にしとけよ、お前ら」

 だが別の場所から発せられた声にトモキは動きを止めた。
 途端に止む暴力。室内の視線はたった一箇所へと集約されて、トモキもまた頑なになった体を解いて顔を上げた。

「ンだよ、またテメェかよ、神代。関係ねぇヤツは黙ってろよ」
「そういうわけにもいかない。朝から学校に来て早々に気分の悪いものを見せられ続けるのは堪らないからな」

 神代ユウヤはショウの恫喝染みた声色に動じる素振りも見せず教室へと入っていく。
 魔技高の特任コースにおいて神代ユウヤは特別であった。それは生徒のみならず教師にとっても、だ。座学は言うに及ばず戦闘能力、魔素技術の扱い、魔術の実力どれを取っても二年生にもかかわらず学内で常に上位五傑に名を連ねる。努力を惜しまず、教えを請う者を邪険にする事なく根気強く指導する面倒見の良さ。加えて整った容姿。幾分寡黙で近寄り難い雰囲気を醸す事が多く、正義感が強い為に間違った事があれば即座に声を上げる。公平に接する性格から学内の女子生徒の人気を集めるだけでなく男子生徒からも一目置かれる存在だった。
 ユウヤはやや栗毛掛かった前髪を掻きあげ、小さく呆れた様に溜息を吐きながら自分の席に鞄を掛けると、整った顔立ちを苛立ちに染めて教室中を睨みつけた。鋭い視線を方々に飛ばし、それまでユウヤに熱の篭った眼差しを向けていた女子生徒も場都合が悪そうに顔を逸らした。その姿を見て、今度はあからさまに溜息を吐いて見せると彼女は怯えて体を震わせた。
 ユウヤはショウの元へ歩いて行く。一八〇センチを越える長身と日常的な鍛錬された引き締まった肉体でショウの前に立ち塞がり、冷たく見下ろす。
 見下されたショウは一瞬たじろぎ、だがすぐに気を取り直してユウヤを見上げながら睨みつける。

「ならテメェが出て行けよ」
「嫌だね。そもそも学校は学ぶ為の場所であって誰かを貶める場所じゃない。出て行くならそっちが出て行けばいい」

 それに。そこで一度言葉を区切り、ユウヤは床に座り込んだままのトモキを一瞥してショウに向き直る。

「仮にもクラスメートがイジメられているのを見て見捨てられるほど性根は腐っちゃいない。それでもまだコイツを虐げるというのならここからは俺が相手をしてやるよ」

 さて、どうする。ユウヤはショウに問い掛け、半身になって言葉だけでなく態度でも本気で実力行使も辞さないことを示してみせる。それと同時に緊張感が場に走り、ショウと共に囃し立ててトモキを蹴飛ばしていたショウの取り巻きの一人が狼狽えてショウを止めに入る。

「ショウちゃん、神代に喧嘩売るのはヤベェって。そろそろ先公たちもやってくるし、ここは退こうぜ……」
「……ちっ」

 舌打ちを一つ。ショウはユウヤから視線を逸し、ユウヤを押し退けて教室から出て行く。だが苛立ちが収まらないからか、すれ違い様にトモキに唾を吐き掛けて、それを見たユウヤが眉を逆立てるが、わざわざこれ以上騒動を続けるのも本意では無い為、それ以上言葉を重ねる事は無かった。
 教室からショウが居なくなり、ユウヤもまた緊張を解いた事で教室の空気が弛緩する。誰もが肩から力を抜き、その中でユウヤはトモキを抱え起こしながら「大丈夫か」と声を掛けた。

「……うん、大丈夫。その、ゴメン。僕のせいで変な事に巻き込んじゃって……」
「気にするな。俺がやりたくてやった事だ。久遠が悪いんじゃない」
「でも、これで神代君が眼を付けられちゃったんなら……」
「今更だ。元から秋山達にはよく思われていないからな。もし何か仕掛けてきたとしても俺ならどうとでも出来る。それくらいはお前も知っているだろ?」

 ユウヤの実力とショウたちを比べれば、迂闊にユウヤに手を出せない事は明らかだった。単なる魔術や戦闘術の順位だけを見れば両者に然程差は無いが、実際の実力には大きな隔たりがあり、また方や学内でも信用が厚く女子生徒のファンが多く、方や嫌われ者。トモキが周囲にどう思われていようが倫理的には虐めを行うショウよりユウヤが正しく、表立ってユウヤを傷つけようと画策したところで周囲の賛同は得られない。だからトモキもユウヤの言葉に反論を続ける事が出来ず、頷く事しか出来なかった。

「そもそもだ、久遠。お前は人の心配よりも自分の事を考えろ。虐められる方にも非があるとは言わないが、お前はお前でもっとできる事があるはずだ。あいつらは久遠よりも実際に腕が立つかもしれないけどな、だからといってお前がやられっ放しでいる必要は無いんだぞ? 暴力に対して暴力で抗うのは俺だって好きじゃないが、ここは魔技高だ。実力がある奴が偉くて弱者は下等。そんな価値観が蔓延ってる様な場所だ。あんな奴を一発殴り飛ばしたくらいで特段扱いが変わるような場所でもないし、そういう気概を見せれば周りもお前を見る目が少しは変わるはずだ」
「それが出来ればいいんだけど……」
「アイツらだけじゃない。周りの人間だって皆お前を侮ってる。その原因を解ってるか?」
「……僕が弱いからでしょ?」
「そうだ。久遠が優しい性格だっていうのは理解る。人と争うのが嫌いなのもお前の戦闘訓練の様子を見てれば理解る。けどここに居る以上それじゃダメなんだよ。好き嫌いだけで逃げてれば結局苦労するのはお前自身の今を見れば理解るだろう? 魔術だってそうだ。全く使えないが、努力はしたか? 使えない原因を探ったか? 先生や俺達級友に教えを請うたりしたか? 苦手を克服する為にお前が出来る事は全てやったのか? そうじゃないだろ」
「……努力じゃどうにもならない事だってあるんだよ」
「そんな事は無い。俺だって入学した時はまともに魔術を使えなかった。学校の授業だって付いて行くのがやっとだったし、総合成績は下から数えた方が早かった。だが、自分で言うのもなんだが俺なりに頑張ってきたつもりだ。寝る間も惜しんで基礎理論を勉強して、暇さえあれば魔術の練習を重ねてきた。その結果が今だ。お前だって才能があると認められたからこの場に居るわけだろう? その才能を磨かずに居て、虐められるのが嫌だというのはお前の怠慢以外何者でも無い」

 厳しい言葉を連ねるユウヤだが、それを耳にしながらトモキは内心で重く溜息を吐いていた。
 神代ユウヤは独善的すぎる嫌いがあった。ユウヤが努力の人であることはトモキから見ても疑いようは無い。幾度か放課後にもユウヤが残って訓練する様を目撃していたし、何度か腕や脚に傷を負って登校してきた事もある。努力を重ねて今の地位に上り詰めていった事にはトモキを賞賛の念を禁じ得ない。
 しかし彼は同じだけの努力を他者にも求めた。今日だけで無く、これまでも事ある度にトモキに対しても努力の大切さを説いていた。そして努力さえすれば何でも実現できるのだと固く信じている節があり、また己の正義感を他者へ強要する事もある。無論、トモキとて努力の価値は分かるし、ユウヤの正義感、即ち強者は弱者を守るべきであり、人を貶める事は如何なる事情があろうとも許されるべきでは無いという考えはトモキも強く共感するところだ。だが、どう足掻こうとも出来ないものは出来ない。いくら努力を重ねようともどうにもならないものもあるのだと、トモキもまたこれまでの人生の中で強く思い知らされていた。

「えっと、もうすぐ授業始まるから手を洗ってくる。迷惑かけてゴメン」
「あ、おい! まだ話は……」

 だからトモキは半ば強引に話を切ってその場を離れる事を選んだ。ユウヤの説教は有難いが、同時にトモキにとってはひどく耳障りであった。このまま耳を傾け続けていればきっと取り返しの付かない感情を抱いてしまう。
 後ろから掛けられる声をトモキは意図的に無視して教室を出た。すでに始業時間も近くなっており、廊下には先ほどトモキが登校した時よりも遥かに人が溢れている。その中をトモキは顔を伏せてすり抜けていった。

「なんだよ、アイツ。神代が折角親身になってやってんのに」
「ホント。神代君が可哀想」

 ここに、自分の味方は居ない。教室から聞こえてくる声から自分を守る様にトモキは背中を丸めて歩いた。



 手を洗うという口実でユウヤから離れたトモキだったが、手を洗った後も教室に戻る気は起きなかった。ユウヤと顔を合わせ辛いというのもあったし、先ほどのクラスの自分を見る眼を思い出すと、どうしてもあの場所に再び脚を踏み入れる勇気をすぐには持てない。とりあえず一度心を落ち着ける場所をトモキは欲していた。
 他の生徒の流れに逆らいながら人通りの少ない場所へと脚を運ぶ。巨大な学校故にどこに行っても誰かしらが居るものだが、幸いにもトモキはそんな場所を知っていた。
 普段授業が行われる教室棟の隣にある、実験や音楽の授業が行われる特別教室棟。朝であればそちらの教室を使う人は少ないだろうとの予想だったが、その予想通りに人影は疎らだった。その中でも特に人が居ない一階の階段横にある倉庫。その扉の前にトモキは座って膝を抱えた。

(神代君は分かってない……)

 膝に顔を埋め、そこで沸き上がってくるのは助けてくれた級友に対する反発心だ。暴力を止めてくれたのは嬉しいが、それは何の解決にもなっていない。その場を収めたのはユウヤかもしれないが、どのみち時間が経って授業が始まれば止まる類のものだったのだ。僅かながらに時間の差異があったに過ぎない。どうせ介入するのなら、自分を取り巻く全てを解決して欲しいのに、と考えて、それが望むべくも無い願いであり、またユウヤに期待するべきものでも無いと改めてトモキは自覚した。

(浅ましいな、我ながら)

 現状は自分で招いたものなのだ。望んで入学した高校では無いにしろ、魔術が使えないにしろ立ち回り方は他にもあったはずなのだ。それを失敗してしまったから今があるのであり、そこから抜け出せずにいるのはユウヤの言った通り自分の怠慢なのかもしれない。少なくともユウヤは善意でトモキを助けてくれたのであり、そこにそれ以上の期待を押し付けるのは間違っていると感じた。

(さっきの態度は……流石に良くないよね)

 自分勝手に期待を押し付けて、それにそぐわない反応を示すと不愉快になる。追い込まれていたとはいえ、助けてくれた恩人に対する態度として適切ではない。つい先程の自分の態度を思い出して自己嫌悪に陥ったトモキは、その胸の凝りを吐息と共に吐き出した。そして気持ちも落ち着いてきたところで教室に戻ろうか、と考えていた時、

「ここに居たのか」

 頭上から降ってきた声に驚いて顔を上げ、そしてその人物の姿に重ねて驚いた。

「神代君……」
「こんなところで何やってんだよ。手を洗ってくるって言ったのに戻ってこないから心配したぞ」
「心配して、くれたんだ」
「当たり前だろ。ほら、もうすぐ授業が始まる。先生が来る前に戻るぞ」

 トモキに対してユウヤは手を差し出し、戸惑いながらもトモキは手を取る。端正な顔立ちに反して手は無骨な印象で、それがユウヤの努力の痕なのだと想像した。

「……さっきは悪かったな。きつい事を言って」
「ううん、僕の方こそゴメン。助けてくれたのにあんな態度取っちゃって」
「お前が謝る必要は無い。だけど、さっき俺が言った事は覚えておいて欲しい。お前だってやればできるはずなんだ。才能の無い俺にだってやれてるんだから」

 またその話か。ユウヤの手に触れて感じた嬉しさが急速に冷めていき、心がささくれ立つのを感じた。膨れ上がる感情を押し込めようとするも堪え切れず、トモキは視線をユウヤの顔から冷たい床へ逸らした。

「……どうしてそんなに僕に期待するのさ?」
「期待に応えられる素養があると俺が思ってるからさ。お前には俺には無い才能がある。だから……悔しいんだよ。その才能が伸ばされずにいる事が」
「買い被り過ぎだよ。僕にはそんな才能なんて無い。神代君の勘違いだよ。それか思い込みだ」
「そんな事は無い。信じられないかもしれないが俺は何となく人が才能を持っているかが理解るんだ。お前は俺が見てきた中で一番才能がある。だから諦めて欲しくないんだ。そうだ、もしお前さえ良ければ俺が魔術の練習に付き合ってもいい。お前一人じゃ使えない原因も分からないかもしれないけど、二人なら……」
「才能なんて無いって言ってるだろっ!」

 言葉を重ねてくるユウヤに対し、トモキは堪らず声を張り上げた。

「僕には才能なんて無い! だから放っといてよ!」
「そんな事は無い! 努力すれば、頑張って練習すれば……」
「努力努力うるさいんだよっ! 君が言う努力はした! 教科書に載ってる魔術も基礎理論も全部理解した! 学校にある図書も専門書も全部調べた! 先生にも聞いたけどまともに取り合ってくれない! これ以上何を努力しろって言うんだよっ!!」

 入学した以上は頑張るしか無い。始めはトモキも期待に胸を膨らませていた。トモキも男子であり、人並み外れた強さや魔術に対する憧れもあった。いつかテレビで見た魔術師たちみたいに自由に魔術を行使し、人類の守護者として人々を守る姿を夢想した事もある。
 だが現実はどうか。唯一自負のある頭脳を活かし、誰よりも深く魔術理論を原典から理解しても魔術を使える兆しも見えない。一人では行き詰まって教師に教えを請うても露骨に顔を顰めて煙たがる。「努力が足りない」「もっと精進しろ」などと適当にあしらうばかり。挙句、座学で一位になれば「生意気だ」と虐めはひどくなるばかりだった。
 仕方なく一人で練習を重ね、詠唱も誰が聞いても完璧だと頷く流麗さと舌を巻く高速詠唱を物にした。魔素の高まりは感じられ、しかしそれ以上先に進まない。後に残るのは霧散した魔素とただ一人その場に立ち尽くすばかりのトモキの姿だけだった。
 魔術が使えない。ただその一点だけで級友からは見下され、手を差し伸べてくれる友は居らず、かと言って両親の事を思えば辞める事も出来ない。故に、トモキが選んだのはただ一日下を向き、誰の気分も害さない様に黙して時が過ぎるのを待つ事だけだった。努力しても報われない虚しさだけが去来する胸中を握りしめて耐えるだけだった。

「才能が欠片でも無ければ何にもならない……!」

 だからこそ腹立たしかった。努力を誇れるユウヤの姿が、もしかしたら成れたかもしれない自分の姿がユウヤに奪われてしまった様で悔しかった。けれどもトモキが尚更に苛立たしかったのはユウヤの無理解だ。トモキとユウヤは才能も能力も違う。ユウヤも努力した。そして才能を開花させた。だがトモキとユウヤは別人なのだ。同じだけの努力をしてもユウヤと同じ能力を持ち得ず、ユウヤ以上の努力をしたところで同じ頂に立てるとは限らないのだ。ユウヤが努力が報われる達成感を得た背後で、努力が欠片も報われない空虚さに身も心も削り取られていく者が居る事をユウヤは理解できていない。だからトモキはユウヤの親切を手に取ることができなかった。

「……もう僕は頑張るのに疲れたんだ。だからゴメン。放っておいてよ……」
「待て! 俺はそんなつもりじゃ……」

 ユウヤの言葉に聞こえない振りをしてトモキは脇を通り過ぎて教室へ戻ろうとする。しかしユウヤは行かせまいとトモキの手を掴んだ。トモキはその手を力づくで振り解こうとユウヤの方を振り返った。

「いい加減に……っ!?」

 だが振り向いた瞬間、トモキは眼を見開き驚愕に固まった。視線は一瞬だけユウヤを捉え、しかしすぐにその背後に固定されて言葉を吐き出すことができない。ユウヤもトモキの表情を見て怪訝な顔をし、トモキの視線が自らの背後に固定されている事を察して後ろを振り返った。

「何だ、これは……」

 そしてユウヤも言葉を失った。
 ユウヤの肩先から見えたその先にあったのは、漆黒であった。倉庫があったはずのそこは、しかし今は巨大な真っ黒な孔があって全てを飲み込まんという迫力でジワジワと迫って来ていた。
 蠢く、何か。孔の中は真実、空虚だ。光さえ飲み込んでしまいそうなその中では何も見えないはずで、だがトモキにはそこに何かが居るような気がしてならなかった。

「特異点……」

 トモキの口から意図せずユウヤの呟きに対する答えが零れた。
 ここと、ここでは無い何処かと繋がる異次元の孔。その先がどこにあるのか研究が進められてはいるが、まだ誰も成果を挙げることができていない。一説には孔自体は次元の狭間と呼ばれる虚数空間に繋がっているだけであり、その虚数空間を介して異なる次元へと偶発的に繋がるのだと言われている。だが明らかになっている事は、その孔の中から人類を脅かす魔物が現れること、その孔の大きさに比例して強大な魔物が通れる様になること、そして日中は発生しないというのが通説であった。だからその説に従えば、決して今二人の目の前に現れた孔は特異点では無いはずだ。
 しかしならば、これは何だというのか?
 目の前の孔をただただ二人は凝視した。不気味なそれに魅入られたかの様に一歩も動けず、声を発することさえ忘れていた。圧倒されていた。人たる身では抗えない暴力的で冒涜的な魅力に囚われていた。

「あ……」

 それでもトモキは何とか音を発した。今度こそトモキは孔の中で動く何かの姿を認め、今度は恐怖に身を強ばらせた。

(これは夢の中の……)

 今朝方も見た夢。夢の中のトモキは孔の中と同じ昏きに身を置いていた。あの時、夢の世界でトモキに迫ってきたのは何だったか。思い返すまでも無く明確に象る異形の者達。血に塗れたその姿を思い出したと意識した時にはトモキはユウヤの腕を引いてその場を駈け出していた。

「久遠っ!?」

 事ここに至ってようやく我を取り戻したユウヤが突然のトモキの行動に驚きの声を上げた。何を、と問い掛けを口に仕掛け、しかし孔の異変に気づく。
 音が聞こえる。地響きの様な、遠方で鳴り響く雷鳴の様な低い唸り声。体の芯へと響くそれを聞き、どこから、と思う間もなくユウヤは音源を察した。
 孔が吠えた。
 重低音が学内へと響き、校舎の窓を震わせる。それは聞く者を竦み上がらせるに十分な声だ。ユウヤの体が強張り、トモキの脚も膝を折りそうになる。だがトモキは脚を止めなかった。
 トモキは恐怖した。それでも脚を動かすのは、それもまた恐怖だった。もうすぐ孔から何かが現れる。トモキは確信を抱いていた。そして脚を止めた先に訪れる未来についても確信していた。
 果たして、確信は現実と化した。逃げながら振り返ったトモキの眼に飛び込んだのは奇妙な動物だった。鳥の嘴を持ち、だが体は獅子で、その背には大きな翼が乗っていた。
 グリフォン。想像上の動物の名前が脳裏を過る。だがその嘴の中には鮫を思わせる鋭い刃が隙間なく並び、猛禽類の鋭い眼差しが二人を捉えて離さない。
 その奥からも新たな魔物が踊り出る。梟の頭を持つ灰色熊、翼を持った虎。この世界には在らざる化生が次から次へと孔から這い出てきていた。
 グリフォンが低く唸る。巨大な体躯を丸め、息を吸い込む。一瞬黄玉色の眼を細め、そして鋭い嘴を大きく開いた。。
 咆哮が響き渡る。途端に砕ける硝子。耳を劈く嘶きに思わず両耳を塞いで二人はその場に座り込んだ。
 頭上から砕けた破片が降り注ぐ。顔を床に押し付ける様にして硝子の雨から身を守り、それが収まるとトモキはそっと背後を伺った。そこには満足気に身を震わせるグリフォンらしき魔物が佇んでいて、その脇を孔から溢れ出して来た獣たちが次々通り過ぎて行っていた。

「……逃げなきゃ」

 悄然として魔物たちの様子を眺めていたトモキだったが、近づいてくる巨大な影が足元に差し掛かるのを見て急いで立ち上がった。早く、逃げなければ。この場から一刻も早く立ち去らなければ。
 立ち尽くすトモキを責め立てる様に衝動が脚を動かす。しかし一歩を踏み出したのはトモキだけだった。

「神代君っ!?」
「久遠は先に逃げろっ! そして先生たちを呼んで来てくれ!」

 ユウヤは一人、自身の何倍もの体躯を誇る魔物たちの前に立ち塞がる。腰に差していた剣を抜き取って正眼に構えると幾度と無く繰り返してきた呪文を詠唱し始めた。

「イェ・スペロ・インディシウム・エゴ・レスクリ……」

 淀みない詠唱を終えると共にユウヤの体に力が漲る。ユウヤは跳躍して熊に似た魔物――グスモアに瞬時に肉薄してその剣を鋭く振り抜いた。

「破ァッ!」

 気合の叫びと同時に振るわれた剣先はグスモアの首を跳ね飛ばす。鮮血が飛び散り、悍ましい叫び声を上げながら倒れ伏すグスモアを踏みつけてユウヤは続けざまに自身と同じ程度の体躯の狼達へ襲い掛かる。狼達――ディスフィンドもまたユウヤを獲物と捉え、五匹が銘々に展開してユウヤを迎え撃とうとしていた。
 ディスフィンドの特徴は群れでの行動にある。一匹一匹が優れた運動能力を持つが、群れで連携して獲物を追い詰めていく。そうなれば例え腕に覚えがある魔術師であっても退治には手を焼く。トモキは授業で習ったディスフィンドの特徴を思い出した。そしてユウヤに手を貸すべきか、と頭に過り、腰に携えた剣に手が伸びかけるが、溢れてくる獣たちを前に恐怖で柄を掴んだまま動きが止まってしまった。

「イェ・エスタス・シスト・ウント・ベルトナム……」

 だがトモキの心配を他所にユウヤは冷静にディスフィンド達の動きを観察していた。強化した身体能力を存分に使い、巧みに魔物の動きを誘導する。ディスフィンドを連携行動を掻き乱し、狭い廊下を利用して一箇所に集めるとユウヤは天井付近まで跳躍して魔物を見下ろした。

「アイシクル・ランス!!」

 叫ぶと同時に十数本もの氷の槍が突如ユウヤの前に出現した。鋭い切先をディスフィンドに向け、ディスフィンドだけでなく周囲に居た他の魔物達も串刺しにしていく。

「凄い……!」

 その様を見てトモキは羨望と感嘆を露わにした。これが学年、いや学内でも一、二を争う魔術師の実力なのか。大量の魔物を前にしても気圧されずに立ち向かい、鮮やかに魔術を行使し、剣を振り抜いて敵を屠る。その姿はかつてテレビの中で見た、かつての魔物との大規模戦争中に現れた英雄の姿と変わらなかった。人類の盾であり矛でもある尖兵の後ろ姿を体現するユウヤの姿に、トモキは溜息とともに見とれていた。
 十体を越える魔物を斬り伏せたところで、一等最初に現れたにもかかわらず咆哮のみで動く気配を見せなかったグリフォンが低い唸りとともにユウヤに向かって進み出る。ユウヤを自分が討つべき敵と見定めたのかはトモキには分からない。だが、これまでのグスモアやディスフィンドとは明らかにレベルの違う相手に、一層トモキの緊張も高まった。

「……早く、先生を呼んで来なきゃ」

 だが緊張のせいでトモキはユウヤから頼まれた事を思い出した。まだ依然として特異点は閉じる様子を見せておらず、繋がった何処かからか魔物は出て来続けている。流石にグリフォンほどの大物は現れていないが、このままユウヤ一人で防ぎ続けるのも限界が来るのは眼に見えている。そしてきっと自分では助けるどころか足手纏でしか無い。微かに込み上げてくる悔しさに歯噛みし、だがトモキは為すべき事をしようとユウヤに背を向けかけた。
 その時。

「……っ!」

 怖気が背筋を走った。それはユウヤと対峙するグリフォンから発せられたものでも無く、またそれ以外の魔物からでも無い。
 それはまだ漆黒を湛える孔の奥から発せられた。少なくともトモキはそう感じた。そしてそれに気づいたのはトモキ一人であった。
 瞬間、トモキは走り出した。しかしその方向は本来の目的である教室棟ではなかった。何をしている、と頭の隅で非難する声が聞こえるが、トモキはその声を無視した。それ以外の何かに追い立てられるかの様にトモキはユウヤに向かって走り、その勢いのままユウヤを押し倒した。

「久遠っ! お前何を……」

 ユウヤは、級友の突然の愚行を咎めようとした。だが、すぐ自分の目の前を通り過ぎた何かの存在を認めると、二の句を告げずに唖然と自身の居た空間を見つめるしかできなかった。

「ギュアアアァァァァッ!」

 叫び声を上げるグリフォン。それは敵を威嚇するものでも己を鼓舞する類のものでも無く、苦悶の叫びであった。孔から飛び出した一本の触手の様な何か。それがグリフォンの喉元を貫いてボタボタと血を垂れ流している。貫いた白い触手は、そのまま何事も無かったかの様に再び孔の中へ素早く戻っていく。
 巨体が倒れ、地響きがした。トモキとユウヤ二人の目の前に見開いたグリフォンの眼が転がり、虚ろなむくろが無感情に見上げている。喉から流れ落ちた血が床を流れていき、トモキのズボンを汚していったが、呆然としたトモキはそれに気づかない。ただ、異変を感じ取ったのだろう、遠くから聞こえてくる生徒達の騒ぐ声がどこか別世界の様に思えた。
 しかしトモキはすぐに立ち上がってユウヤを引きずるようにして再度走り出した。グリフォンを見た直後は、初めに感じた恐怖はあの魔獣に因るものだと思った。だが、それは間違いだったと、先ほどの触手を見た瞬間気づいた。
 あれは、あれは駄目だ。あれだけは誰の手にも負えない。
 何が駄目なのか、問われてもトモキは応える術を持たないが、本能としてあれに触れては駄目だと知っていて、トモキを急き立てていた感情は全てあの触手から逃れる為のものだったのだ。
 トモキの中に既に恐怖は無い。あるのは強迫だ。逃げる、唯逃げる。理屈でも本能でも無くそれらを凌駕した唯一つの感情だ。それだけに縋り付いてトモキは何処へともなく走る。そしてその感情がユウヤにも伝わったのか、または同じ考えに至ったのかユウヤもまた無言で一心不乱にトモキの後ろを追い掛けた。
 空間が揺らいだ。走り抜けたばかりの自分の背後でそれを感じ取ったトモキは振り向かずに叫ぶ。

「頭を下げてっ!」

 強い語調にユウヤは反射的に頭を下げた。トモキもまた下げ、その直後にまた先程の触手が通り過ぎて行く。触手が通過した、触れてもいないはずの窓ガラスが砕け散った。
 硝子を踏み付けながらトモキは逃げた。やがて、騒ぎを聞きつけた教師達と野次馬根性に駆られた生徒達が廊下を走って二人の方へとやってくる。中には普段、トモキを罵り暴力を振るってくる級友の姿もあったが、トモキは構わず叫んだ。

「逃げてっ! 早くっ!!」
「こっちに来るなっ! 特異点だっ!」

 トモキの叫びに眉間に皺を寄せる者が多かったが、すぐ後ろのユウヤが叫んで補足するとすぐに顔色を変える。しかし事態を甘く見ているのか、二人の主張に耳を傾ける者は少なく、逆に好戦的に顔を綻ばせると二人が逃げてきた方向へと走っていった。

「っ! 馬鹿野郎が!」

 そんな生徒を罵りながらもユウヤは立ち止まった。
 ユウヤもまた察していた。あの触手の正体が何なのか、未だ想像できないが少なくともたった一人でどうこう出来るものでは無い。ユウヤの知識の中にある魔物のどれにも当てはまらず、姿は見えずとも特A級の危険度の魔獣だろうと当たりを付けていた。でなければ、あのグリフォンがあっさりと倒されるはずが無い。
 見捨てる事が出来ず、ユウヤもまた生徒の一人を追い掛ける。だが、間に合わなかった。
 走りながら詠唱をしていた生徒だったが、その詠唱が完了する前に触手が彼の頭を貫いた。砕かれた頭蓋から脳漿が飛び散り、追いかけ始めていたユウヤの顔に張り付いて血腥い匂いが脳を揺らした。

「きゃああああああっ!!」
「くっそぉぉぉっ!!」

 見殺しにしてしまった。撒き散らされた頭蓋に近くに居た女子生徒が悲鳴を上げ、またユウヤは激昂し、生徒を貫いた触手を切り裂かんと力任せに剣を振り下ろした。

「な、に……?」

 だが剣が触れた触手は固い金属音を残し、強化したユウヤの膂力を以てしても微かな痛痒を感じた様子も無い。思いがけない事態に、ユウヤの動きが一瞬止まってしまった。

「神代君、避けてっ!!」

 トモキの声に我に返る。気づけば、新たな触手がユウヤの目の前に迫っていた。
 避け切れない。ユウヤの心臓が跳ね、死の景色が頭を埋め尽くした。その想像に追い付くかのように白い触手がユウヤの視界を埋め尽くしていく。しかし――

「うわあああぁぁぁぁっ!!」

 触手はユウヤの目の前で方向を変えた。先ほどユウヤが斬りかかった時には傷が付く様子が微塵も無かったが、眼前では今、トモキの振るった剣によってまるで紙を切り裂くかの様に容易く触手が切り裂かれていた。
 切り裂かれた触手から紅い血が滴り落ちる。それは同じ赤であっても獣たちの赤とは違うとトモキは感じた。赤みの強い魔物たちよりも深い赤。真紅と呼ぶには黒みが強く、まるで――

「悪い、助かった」

 ユウヤの言葉で思考が遮られ、トモキは顔を上げた。差し出された手を今度はトモキも掴み、すぐに二人して逃走を再開する。トモキに斬られた触手は遥か後方まで退き、前方を見遣れば先ほどの生徒が殺られた光景が衝撃的だったせいか、大多数の生徒たちはトモキ達から離れ、また駆けつけた教師と腕に覚えのある特任コース生は距離を置きながら二人の後方から押し寄せる魔獣たちに向かって魔術を放っていた。だが次から次へと押し寄せる魔獣達は黒い海の様で、形勢は明らかに不利だった。
 更に遠く、つい数瞬前に姿を消した触手がまた、高速でこちらへと向かってきているのが見えた。ともかくも考える時間が欲しい。ユウヤは唇を噛んだ。あの触手の正体は何か。どうして自分の剣はダメージを与えられなかったのか。何故トモキの剣は切り裂くことができたのか。情報と思考の時間が足りない。

「早く、早く逃げなきゃ……」

 対してトモキの思考は逃走で塗り潰されていた。触手に斬りかかった腕は激しく震え、それでもただ「逃げなければ」という強迫観念に突き動かされていた。それは病的なまでの観念だった。
 トモキの異常にユウヤもまた気が付いていた。それも急激な命の危機に晒された故に仕方ない、と冷静に考え、しかし状況は切迫していてケアを試みる余裕も、トモキに命を救われたばかりのユウヤにはない。何にせよ、早く安全な場所へ。頭上を通り過ぎて行く味方の魔術を尻目に見ながらトモキの背中を追い掛けた。
 その時だ。

「邪魔なんだよっ、愚図が!」

 二人の行く先で怒声が響いた。そして転がる一人の女子生徒。二人の前に横たわった少女を無視することも出来ず、思わず二人は走る速度を緩めてしまった。そして、それこそが分水嶺であった。
 突如として少女を含む三人の前に広がる炎の壁。明らかに人間が行使した魔術であるそれは、本来ならば三人が通り過ぎた後に、魔物達との間に築かれるはずだ。だが熱風が正面から押し寄せてトモキ達の行く手を阻んでいた。そしてトモキとユウヤは立ち上る炎の奥でほくそ笑む一人の級友の姿を捉えていた。

「秋山ショウ! お前はっ!!」
「ひゃっはっはっ! せいぜい魔獣達と戯れてくれよ、神代――いつも殺してやりてぇと思ってたんだ。まさかこんなに早くそんなタイミングが来るとは思ってなかったけどなぁ!」
「あぁきやまぁァァァァ!!」
「神代君、後ろっ!!」

 憤怒に顔を歪めたユウヤがショウを射殺さんばかりに睨んで雄叫びを上げた。そのせいですぐ背後に迫っていた触手に気づくのが遅れた。
 トモキの声に反応した時には既に遅かった。触手はすでに眼前に迫っており、だが触手はユウヤに巻きつき、そのまま孔の方へと吸い込まれていく。そしてユウヤに気を取られたトモキもまた触手に口元を掴まれ、見る見るうちに笑みを浮かべるショウの姿が遠くなっていく。孔に飲み込まれ、光を失った景色は黒一色で埋め尽くされる。だが、それよりもトモキは口元の触手の感触が気になった。
 どうして、どうして。
 トモキには触手が女性の手にしか見えなかった。












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