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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved






「キュウケツシュ……? 怪人……」
「そうじゃ。古くから人と獣人双方から虐げられてきた、最も古き亜人種の一つじゃ」

 鍋を片付けながら、トモキの方を見ずにセツは神妙に告げた。囲炉裏から離れたせいかトモキから見える横顔は、つい先程まで差していた赤みは消えて再び青白い顔色に戻っている。平静さを装っている訳では無く、どちらかと言えば歴史を語る歴史家の様な印象だ。
 怪人、とトモキは口の中で繰り返した。言葉は聞き慣れないが、何処か頭に引っかかっていたが、不意に何処で聞いたか思い出した。
 獣人の里へシオを送って追い返されたあの時、三人の冒険者の一人が口にしていた様な気がする。怪人を目的としていたような口ぶりだった。怪人種を見つけると何らかの報酬を得られるのだろうか。トモキは、元の世界の珍獣やUMAの様なものを想像した。

「どちらも迷人であるお主には聞き慣れぬ言葉かもしれぬな」
「そこまで分かっているんですか……」
「なんでも、とは言わぬが、妾はこの山の中の事なら大抵は知ることが出来ての。『妾が』と言うよりは吸血種――お主にはヴァンパイアといった方が良いかの? ――全般に言える事じゃが」

 ヴァンパイア、とセツが口にしたことでトモキの中で「キュウケツシュ」と「吸血種」が結びついた。僅かに眼を見開き、再び警戒度を強めて剣を鞘から引き抜く。

「忙しい奴じゃの。もうちっと落ち着いて話を聞けんのか」
「吸血鬼と聞いて落ち着いて居られませんね。少なくとも僕の中では危険な存在です」
「吸血『鬼』では無く吸血『種』なんじゃが……まあそこは良いか。お主の様に妾達は血を吸う危険な存在として誤った認識された事が数を少なくした原因じゃ。確かに血は妾達にとって美味なものではあるし、血を吸う事で魔術の力を底上げ出来るという点はあるが、それにしても必要なものでは無い。多量に血を吸えば良いと言うわけでも無く、殺せるほど血を吸うわけでも無いからの。じゃが無知というのは残酷であり残忍さの根因でもある。もっとも、それは吸血種に限らず怪人全体に言えることじゃがの。お主は怪人について何を知っておる?」

 問われてトモキは首を横に振った。怪人という言葉も殆ど聞いた事が無く、その生体や容姿など何一つ知らない。トモキの知る唯一の存在が目の前の少女なのだから。

「怪人については何も知りません。ただ吸血鬼は人の血を啜り、種として人よりも遥かに強大な力を持つ残忍な存在として語られる事が多いです。あくまで僕の居た世界では、ですが」
「ならばまずは怪人から語るとするかの」

 汚れた床を拭き上げて立ち上がったセツは鍋を両手で抱えて部屋から出て行く。土間に消え、部屋に一人取り残されたトモキはセツの後を視線で追う。だがセツは中々戻らず、まさか逃げたのでは、という考えが頭を過った。慌てて立ち上がりかけたトモキだったが、その時土間の引き戸が開かれてキョトンとしたセツが立っていた。

「……本当に忙しい子じゃ。これでも飲め」

 差し出されたのはミルクだろうか。カップの中には白い液体が注がれて湯気が昇っている。強引にトモキに渡し、先に一人囲炉裏端に座って中身を啜る。カップを手にトモキもバツが悪そうにしていたが、不機嫌そうな顔をそのままにセツの対面に座り直した。

「この世界にはどれだけの知能種が居るか知っておるか?」
「知能種……えっと、人と獣人、鳥人でしょうか。後は……魔族?」
「ふむ。魔族に関してはもしかすると知能がある存在も居るかもしれんがまだ誰も確認できておらんでな。なので除外するが、他に妖精種が居る」
「妖精種、ですか……?」
「そう。妖精種。基本的に人の手に乗るほどの小さなサイズで悪戯を好む種族が一般的じゃ。古来より認識されてきたのは今言った様な容姿の者が代表じゃが、他にも筋骨隆々の身に木材や鉄加工などの技術に優れた部族ノーム、水辺に住む部族アクアリムスらが有名かの。お主の住んでおった場所にはそのような者は居らんかったか?」
「僕の居た世界には妖精種は居ませんでした。空想の存在とされていましたし、後は獣人や鳥人は居ました。ただ、呼び方は『魔物』だったり『異形生命体』とか呼ばれていましたけれど」
「所変わればなんとやらじゃが、随分と違うもんじゃのう」セツは感心の声を上げながらに口元を両手で撫でた。「お主の居た場所の事も色々と聞きたいところじゃが、それは置いておくとしよう。
 怪人とは今述べた様な知能種とは一般に別種として扱われておる。何故か分かるか?」
「……獣人と人、双方から虐げられてきたから、でしょうか?」
「半分正解、というところかの」

 出来の悪い生徒を褒めるベテラン教師の様にセツは鷹揚に頷いた。微妙な返答にトモキは顔をしかめ、手にしていたカップを口元に運ぶ。熱さに混じる香りが香ばしい。

「ここでいう獣人は鳥人も含まれておるが、そこは些細なところかの。妾の考える正解は、すでに怪人が見つけるのも難しい程数を減らしておる、というのが一つ。もう一つは、怪人は多種族と比べて一つ、もしくは二つ大きく秀でた能力を持っておる事にある。そしてその事が、何故怪人が人と亜人双方から危険視され、数を減らした原因にもなっておるんじゃよ」
「大きく秀でた能力……」
「妾が知る限り、怪人というのは三種」ミルクを飲み、右手を三本立てた。「一つは巨人種。五メートルを超す長身と生まれつき強靭な肉体を持つ種じゃ。直接見たことは無いが、巨大な肉体と同じくらいの棍棒や斧を振り回し、固い皮膚は生半可な剣では傷一つ付ける事は出来んと言われておる。しかしながらその性格は温厚で、昔は人や亜人と共に生活しておったとも言われておるな」

 セツは指を一本折った。

「二つ目は黒翼種。黒い髪と翼を持つ飛行種じゃな。身体的な特徴としては鳥人と似通っておるが、鳥人と違いある特殊な力を持っていた」
「特殊な力?」
「彼らは時を操ったんじゃ」
「時を……操る……」
「そうじゃ。一時的に時を止め、または時の流れを遅く、時には速めながら人の世間に混じり、その黒い特徴を活かして暗殺などを請け負っておったと聞いた事があるの」
「時を止めるなんて……そんな事が出来たんですか?」
「さあの」お座なりの返事をしてミルクを口にした。「妾も親から聞いただけじゃからの。そしてその親も祖父から聞いただけの口伝じゃ。じゃからどこまで本当の話かは知らぬ。時を止めるなぞ大嘘、もしくは大げさに伝わっただけで恐ろしく俊敏性に優れておっただけなのかもしれん。ま、暗殺などを請け負っておったというのは本当かもしれんが」
「どうしてですか?」
「黒翼種だけは昔から人と亜人達双方から白い目で見られておったらしくての。それが容姿や能力から来るものか、それとも生業から来るものかは知らぬが」

 そして。セツは一度言葉を区切ると、緊張を解す様に一息吐いた。

「三種目が吸血種、つまりは妾達じゃ。人やその他の亜人達よりも長命で、寿命は長い者で数百年になる。じゃから妾などはまだまだ幼子なんじゃよ」
「普段の様子を見てるととても幼子なんて口が裂けても言えませんけどね」
「そりゃそうじゃろ。あくまで肉体的に成熟しとらんだけで、経験は人の老人並みにあるんじゃからの。人から見ればご老人の精神性じゃろうて。とは言っても精神の成長も寿命に応じてゆっくりじゃから人とは横並べはできんじゃろうが」

 コホン、と咳払いを一つして話題を元へと戻す。

「吸血種は他の怪人と比べて直接的な戦闘には向いておらぬでの。体力は人と同程度じゃし、総じて体の線も細い。どちらかと言えば知能派での。種族固有の魔術を使つこうて根を下ろした地域の情報を得て、それを分析することに優れておる」
「地域の情報を得る? 情報魔術の事ですか?」
「お主の居た場所ではそう呼ばれておるんか? まあ呼び方はどうでもいい。妾もこの山一帯に住んで久しいからの。ある程度の範囲であれば知りたいことはある程度把握できるんじゃ。フェデリコも言って居らんかったか? 山の状態や天候などについて」

 セツに尋ねられ、トモキはシエナ村でチラ、と耳にしたフェデリコの話を思い出した。セツの話として伝えられていたそれは、今後雨が降るだとか、そういった話だったろうか。

「山の地盤の状態とか天候の予測もそうじゃし、他にも薬の材料の群生地も分かる。村に住んどる者なら誰が何処に居るかくらいは把握する事が出来るの」
「……質問していいですか?」
「ん? なんじゃ? いいぞ、この際じゃ。出来る限りお主の質問には答えよう」

 さあ、とばかりに促してくるセツだが、トモキはカラカラに乾きかけていた喉を湿らせる様にカップを傾けた。
 セツの説明には驚くところばかりであり、トモキが知らぬ事ばかりでもあった。元来、トモキは知識欲は強い。怪人種について初めて詳しく話を聞け、ここまでの話は興味深いものであったし、セツが正体を語ってくれたおかげで幾分セツに対する警戒と緊張を緩める事も出来た。相手の事を知らない、ということがトモキにとっては一番堪えるのだから。それでもまだ油断は出来ない。
 更に。
 セツが使えるのが情報魔術であれば、これを確認しておかなければならない。トモキは頭の中に散らばる情報魔術系統の記述をまとめながらカップの中を飲み干した。

「セツが出来るのは――情報を得る・・事だけですか?」

 途端、笑みも浮かんでいたセツの表情が一変し、眉間に深い皺を刻む。

「……どうしてお主はそうも勘が良いのかのう」
「じゃあやっぱり……」

 セツは軽く息を吐きながら小さく首肯した。

「左様じゃ。情報を得るだけでなく、望めば情報の改変まで出来る。やりたくなんぞないが、物の強度を変えたり人の見ているものを変えたり……或いは血を吸った相手の記憶の改竄や言いなりにすることも出来るかもしれん」

 苦渋の表情でそう告げると大きく息を吸って、深々と溜息を吐いた。

「言っておくが、妾は記憶の改竄などしたことは無いからの。それに魔術を悪事にも使った事は無い。情報の改竄は薬の効能を整えたり、何か災害が起こりそうな時に被害が小さくなるよう壊れやすい箇所を作ってやったりする程度じゃ」
「だけど昔はそうではなかった。違いますか?」
「……否定は出来んじゃろうな。人にも善人と悪人が居るように吸血種にも自分の能力を悪用する輩は居たじゃろう。それでも大部分は誰かを害する様な事も無かったろうし、人や亜人と協力しながら静かに生活しておったはずじゃ。
 じゃが……やはり持つ力が強力過ぎたんじゃろうか。或いは結局は種族の違いという事に落ち着くのかもしれんな。きっかけは分からぬが、人も亜人……主に獣人と鳥人じゃな、いずれもが妾ら怪人種を排斥に動いていった。元々怪人種は繁殖力が乏しい故に絶対数も多種族に比べて少なかった。怪人は『世界の敵』として認識され、迫害され、その数を増々減らしていったのじゃ」
「……」

 やはり苦難の歴史を語るのは心苦しいのだろう。セツは何かに耐える様に顔を強ばらせ、乾いた瞳で囲炉裏の火を見た。彼女はその赤い瞳で何を見ているのだろうか。トモキはやや俯き気味のセツの顔を覗きこんだ。

「そうして怪人は歴史の表舞台から姿を消したのじゃが……」
「まだ他にも?」

 久方ぶりにセツはトモキの顔を見上げ、ゆっくり頷いた。

「怪人種の肉体は様々な素材として優秀であるという噂が立ってな。例えば強靭な肉体を持つ巨人種は戦士の防具などに、黒翼種は軽い割に丈夫で付与魔術との親和性が高いため魔術師のローブなどの素材として、そして吸血種はポーションなどの所謂、薬の素材として重宝するとされたんじゃ。その為、こうした山の中などに隠れて静かに暮らしておった残された者も冒険者などから捜索され、見つけ出されては殺され、遺体から素材として骨から皮膚まで何もかもが『物』として剥ぎ取られていった。妾はそう聞いておる」
「まさか。……冗談ですよね?」

 自らの欲の為に他人を喰らい、貶め尽くす。あまりの人の欲深さをトモキは笑い飛ばそうとした。だが、上手く笑えなかった。セツの眼が真に迫っていたから。

「冗談であったなら妾ら怪人種はここまで数を減らしはしなかったろうのぅ……」二人以外に誰も居ない部屋を見回し、セツは淋しげに漏らした。「吸血種も、もしかすれば他の地には数が居るのかもしれん。しかし妾は妾自身以外の同族を知らぬ。しかも、今申した通り怪人種は今尚、討伐・略奪の対象じゃ。故に妾の親はこの山の中にこの家を建て、人とは近過ぎず遠過ぎずの距離を保ったのじゃ。幸いにして吸血種は一見しても人と見分けはつかぬ。下手に全く距離を置くよりはある程度近しい方が疑われずに済むからの」

 ふぅ、とセツは大きく息を吐き、背を丸めた。カップを持ち上げて中身を一口含むが、すでに冷めていて口を不満げに突き出した。やれやれ、と漏らしながら立ち上がるとトモキにもお代わりを尋ね、トモキはカップを差し出した。一度土間へと消え、しばらくして二人のカップに再び暖かいミルクが注がれて戻ってくる。

「そういう訳での。お主を何処かに突き出せば妾の存在も明るみになる。正体まで明らかになるかは分からんが、こんな辺鄙な所に幼い見た目の少女が一人住んどるとなれば疑う者も出てくるやもしれん。わざわざそんなリスクを犯す気にはならん。妾の命も危ないし、村へ薬を渡すことも出来なくなる。無闇矢鱈と正体を明かしても何処からどう話が伝わるかも分からんし、中々お主にも話す機会が無かったのじゃ。どうじゃろう、許しては貰えぬじゃろうか?」

 カップ越しにセツはトモキの様子を伺う。カップと前髪の隙間から垣間見える赤い目が落ち着きなく揺れていた。
 トモキは左手は鞘を握ったまま、右手で顔を抑える様にして考え込んでいた。指間から大きい黒目が覗き、じっとセツを見つめた。

「……事情は分かりました。セツが僕を売らないと言った理由も」
「そ、そうか! では許してくれるのか!?」
「ただし――」

 嬉しそうに破顔するセツだったが、それにトモキが水を差す。

「それをそのまま鵜呑みには出来ません。僕にはセツが嘘を言っているのか本当のことを言っているのかは分かりませんし、信頼できるほどの時間を過ごしたわけでも無いですから」
「信じてはくれぬのか……」
「僕にとっては……見えるもの全てが敵ですから。基本的に人でも獣人でも信用しないって決めたんです」

 信用することはその人と近しい事を意味するから。近しければ、別れが悲しいから。裏切りが怖いから。
 トモキはこれを機にセツがトモキを遠ざけてくれることを期待していた。トモキが歩み寄ろうとしないと分かればセツも無理には引き止めまい。自分を好きになろうと、信頼しようとしてくれない相手をセツも近くに置くことを望まないだろう。

「そろそろ……」

 頃合だろうか。とりあえず村への道は確保できた。フェデリコと三人で取り決めた交易方法は反故にする事になるが、そこはフェデリコに諦めてもらおう。そもそも自分が居なければ以前と変わらぬ日常が始まるのだから。
 善は急げ――善かどうかはさておき――と、トモキは無言で立ち上がった。夜半であるが、村への道であれば魔獣達に襲われる事はあるまい。一夜を明かし、そしてまた独り、誰とも関わらない様にして南に旅をしよう。

「分かった」

 瞬きを一つしてセツが声を発した。想いが通じた、とトモキは胸を撫で下ろしたが、その確信は次の瞬間には裏切られる事となる。

「お主の性根を今更どうこう言っても始まるまい。ならば――これからの生活で妾がお主の信頼に足る人物と証明しよう」
「……は?」
「どうやら手酷く裏切られたらしいからの。まして迷人とあれば様々な艱難辛苦が襲いかかってきたのじゃろう」
「え、ちょ、ちょっと」
「やはりこのまましばらく家に滞在して思い出すが良い。人が、己を傷つけるだけの存在では無く、癒やす存在でもあるという事を」
「いや、セツ……」
「トモキ」

 困惑するトモキを他所に一人ウンウンと納得したように頷いていたセツだが、不意に真面目な顔をしてトモキを見上げる。

「冗談では無く、お主はしばらく休むべきじゃ。体では無く、心の為に」
「……」
「妾はお主の事を知らぬ。何処からやってきてどんな想いで生きてきたのか。如何な苦難がお主を襲ったのか、何故そこまで施しを拒むのか何も知らぬ。そしてお主も信頼できぬ妾に話すことは無かろうし、そもそも思い出したくない辛い記憶なのかもしれぬ。じゃが――何時かはそれも思い出に変わる」
「――」
「言いたい事は理解る。思い出にしようとするのは難しいかもしれぬ。それでもお主は思い出にせねばならぬ。でなければ、お主は一生その記憶に囚われたままになろう。常に誰かを疑い、傷つけられる事を恐れ、独りを欲し、やがて孤独に殺される事になろう」
「……忘れる事なんて出来ません」

 顔を伏せ、トモキは呻いた。
 何度も、何度も殺されかけた。悪党に、人当たりの良さを以て騙された。謂れのない罪を押し付けられ、逃げなければならなくなった。彼の見た目に騙されて、この世界の初めての友を失った。人の業を見せつけられて人が嫌いになった。
 シオのお陰で獣人を好きになりかけた。醜い生き方をする人間と違って、彼らならば一緒に生きていけるかも、と期待を抱いた。けれども身勝手な願望は破り捨てられた。彼らもまた「人」であった。憎しみと欲望と悲しみに囚われた人語を解する獣でしか無かった。自分と同じ、存在であった。
 心臓が捻られた様に痛烈な痛みがトモキを苦しめる。去来する記憶がトモキを悲しませる。顔をクシャリと歪ませて、しかしそれでも涙が流れる事は無い。
 セツは立ち上がり、トモキの肩に手を乗せようとした。だがトモキは反射的に肩を引き、セツの右手は虚空を彷徨った。セツはかぶりを振った。

「忘れるのでは無い。思い出にするのじゃ。強烈な感情と共に思いを、願いを消化するのじゃ。十年、二十年経った後に『あんな事もあった』と苦笑いで笑い飛ばすために、の」
「そんな事、出来ませんよ……」
「今は、の。出来るはずも無かろう。それだけの傷をお主は負っておるようじゃからな。
 心の傷は眼には見えぬ。故に他人には分からぬ。時には本人にも傷の深さが分からぬ厄介なものじゃ。更に厄介なことに、その傷は切り傷や擦り傷とちごうて、ただ時が経とうとも完全には癒えぬのじゃよ。時間と共に傷は小さくなろう。じゃが原因となっておる刺を抜かぬ限り時間と共に傷はどんどんと深くなり、心と刺が癒着して引き抜く事が出来なくなる。さすればその刺は心の一部と化してお主をいつまでも苦しめ続けるじゃろう」
「だからってどうすればいいんですかっ!」

 トモキは泣き叫んだ。実際、その声は荒くはなく、縋るような口調ではあったがセツには、トモキが親を見失った幼子の様に見えた。
 ハッとトモキはそれきり口を噤んだ。感情の一部を吐露してしまった事を恥じ、眉根に深い皺を寄せている。

「誰かと同じ時を過ごせば良い。他者に付けられた傷を自ら取り除くのは容易では無いが、同じく他者であればまだ癒えるのは早かろう。誰かと話し、笑い、泣いて過ごす。新しい思い出を沢山積み上げていって、それでようやくお主の記憶は過去の『思い出』という優しいものになろう」
「……結局、セツが僕と一緒に居たいだけなんじゃないですか」
「否定はせぬよ」セツは苦笑した。「お主がここを出て行って他の誰かと心を通わせる気があるのならば妾もこれ以上言葉を重ねるのを止めよう。寂しいが、これまでも元々独りじゃ。フェデリコも居るし、このままの生活を続けていくだけじゃしな。しかしお主にその気は無かろう?」

 項垂れて背を丸めたままトモキは小さく頷いた。

「どれだけ強がっても人は弱い。人だけでなく獣人も鳥人も妖精種も怪人も、じゃ。独りで生きていけるほどこの世界は優しくはない。じゃがただ試練だけを与え続けるほど厳しくもない。これまで辛かったかもしれん。しかし辛かった分だけ褒美を世界は準備してくれておる。妾はその事をトモキ、お主に知って欲しいのじゃ」

 口を閉ざし、唇を噛み締めてトモキは何かを堪えた。湧き上がる何かを必死に耐えた。強く握り締めた剣の鞘が震えてカタカタと鳴った。
 セツはもう一度トモキの肩に手を伸ばした。セツは不安だったが、今度はトモキの肩に触れる事が出来た。

「そら、今日はもう疲れたろう? お主がどちらを選ぶにしろ今晩一晩布団の中で考えれば良い」
「僕は……」
「何も言わんで良い。今はただ休めば良いのじゃ」

 押し入れから昨日までトモキが使っていた布団が取り出され、慣れた手付きで囲炉裏の傍に敷かれていく。手際よくシーツが掛けられ、セツはトモキの手を引くと肩を抑えて座らせ、そのまま寝かせる。

「疲れているところ、詰まらんお説教なんぞ聞かせて悪かったの」

 トモキは表情をセツに見られないよう、右腕で目元を隠した。一度しゃくるように息が荒く吐き出されたが、奥歯を噛み締めて堪える。

「それじゃあの。おやすみ、トモキ」
「……」
「おやすみ」
「……」
「お、や、す、み」
「……おやすみなさい」

 就寝の挨拶を繰り返すセツに根負けしてトモキもまた小声ながら挨拶を返す。セツは満足そうに微笑むと囲炉裏の周りに薄い布で出来た囲いを置いた。部屋の照度が落ち、薄暗く、しかし微かな暖かな光がぼんやりとセツの顔を照らした。

「……良い夢を見れるといいの」

 掠れた、独り言の様にセツは漏らし、調薬部屋の方へと消えた。部屋の中でトモキは独りになった。

「絆されたかい?」

 それと同時に少年がトモキの枕元に姿を現した。セツと同じ様に白い服を着て、だが対照的に炭で塗り潰したように真っ黒な長い前髪を垂らしてトモキの顔を覗き込む。

「優しい言葉を掛けてもらって満足かい? 彼女の秘密まで聞き出して、自分が欲している言葉を貰って気が済んだ? つくづく単純で弱くて――度し難い程に愚かだ」
「黙れよ……」

 侮辱されトモキは反論する。だがその口調は弱々しい。独りになっても右腕で顔を隠したままで、それ以上の少年に対して言葉を重ねることが出来なかった。
 いつもの様にムキになって食ってかからない事に張り合いが無いのか、少年は軽く嘆息して肩を竦めて立ち上がった。

「やれやれ、どうにもつまらないね。ま、このまま君がメソメソと女々しく彼女に縋り付いて同じ場所で踊り続けるのを見続けるとするよ。せいぜい刹那の楽しい夢でも見るんだね」

 セツが最後に投げ掛けた言葉を皮肉ると、少年はトモキの傍から離れていく。そしてそのままフッと、まるで煙が風に流される様にして姿を消した。
 少年が居なくなるとトモキは右腕を下ろした。呆として黒く染まった天井を見上げた。真っ黒な天井のキャンパスにアルフォンスとシオの姿が並んで浮かんだ。

(アルフォンスさん、シオ……)

 記憶の中の二人は笑っていた。アルフォンスは豪快に、シオは可愛らしく。二人共明るく笑っていた。
 どうして二人共笑っているのだろうか。幻影の中の二人の輪郭を指でそっとなぞってみる。少しだけ指先が暖かくなった様な気がして、トモキは思わず笑みを浮かべた。それと同時に二人の姿は掻き消えた。
 二人にとって、この世界は幸せだったのだろうか。果たして、自分を恨んでいないのだろうか。空の上で、二人共トモキが願っている様に笑って過ごせているのだろうか。

「……そんなの、理解るはずがない」

 トモキは寝返りをうった。今日も干していたのだろうか。布団からは何だか心地よい匂いがした。

「そんなの……理解るはずがないんだ」

 枕に顔を押し付ける。強く、強く押し付けて息を殺す。そして心の中で呟いた。
 だって、二人共もう僕の傍には居ないんだから。












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