夜半にトモキは独り、寝苦しさに眼を覚ました。剣を抱き締めたまま、膝を抱え込む様に体全体を丸めていたが、姿勢を変えて凝り固まった体をぎこちなく動かして起き上がる。欠伸をしながら眠たげな瞼を擦り、静まり返った辺りを見渡した。
記憶にある最後まで傍にいたアルフォンスやニコラウスの姿は無い。すでに皆眠り込んでいるのか、周囲で行われていた騒ぎは鳴りを潜めて周囲は暗く、焚き火も既に消されていて、残るは宴の後の物寂しさだけだ。どうやら途中で眠り込んでしまったらしい、とアルフォンスとの楽し気な記憶を思い起こして彼の姿を探すが、近くには居なかった。まさか夢だったのか、とトモキは一瞬不安を覚えるが、すぐにアルコールの残る頭を小さく振って否定する。
「そんなはずはないか……」
酒臭い息が何よりの証拠。自分は酒を飲まないし、何よりアルフォンスとのやり取りがそんな儚いものだったとは思いたくない。風に吹かれても記憶が消えてしまわないよう、トモキはアルフォンスの言葉を口に出してみた。
「明日は明日の風が吹く、か……」
アルコールが多少抜けた今、何をそんな呑気な、という気持ちが無くも無い。正直に言えば、所詮他人事だろうと拗ねる様な気持ちもある。けれども下を向いていても仕方ない、起きてしまった事をクヨクヨしていても何も変わらない、と考えられる程にトモキの気持ちのベクトルを前向きにしてくれたのもアルフォンスだ。いきなり斬り掛かろうとした負い目があるとはいえ、どうしてあそこまで自分に構ってくれたのだろうか。単なる酒の勢いか、人が良いのか、それとも何か狙いがあるのか。
「あんまり疑いたくは無いなぁ……」
出会いに思う所はあれども、一緒に酒を飲んでみるとその気質は付き合い易く、わざわざ謝罪に自前の酒を持って現れる様な人間だ。面倒見の良さは身に沁みて分かったし、それが打算に裏打ちされた行動とは思いたくなかった。そんな心根を疑う様な考えを持ちたくなど無かった。
ふぅ、と溜息の様な吐息を出して肺の中を入れ替える。そして疑義を想した事を内心で詫び、その後で感謝の言葉を述べる。
火の気が消えた木々の隙間を風が吹き抜けた。小声の御礼は流されて消失する。夜半のせいか、体の芯から冷やす様な冷たい風だ。酒で火照ったせいでトモキの体は汗ばんでいて、それが風で冷やされ体を震わせた。
「トイレ……」
体が冷えたせいで尿意を覚え、トモキは草木の間を掻き分けて奥へと入り込む。付近に誰も居らず、また獣の類も居ない事を確認して小便を済ませ、しかし今度は眼が冴えてしまった。体の疲労はまだ取れてはいないが、精神的な閊えが無くなったお陰で体も幾分楽になった。ニコラウスによって食事や水分を摂取できた事も大きい。平時に比べれば万全とは口が裂けても言えないが、無理に体を休める程では無い。
そう判断したトモキは辺りを散歩する事にした。夜目は効く方であるし、この世界に来てゆっくりと景色を楽しむ事もしていない。空を見上げれば三日月が仄かに地上を照らしていて、無数に散らばる星々は幻想的にも思えた。普段トモキは風景画はあまり描くことはしないが、ふと、たまには夜景を描くのも悪くないと感じた。
散歩の前に寝所に戻ってニコラウスに貰った紙と鉛筆を探した。だが寝る前に描いていた画用紙は見つからず、代わりにスケッチブックが置かれていた。メモも一緒に置かれており、そこにはニコラウスのものと思われる字で「スケッチブックを差し上げます。これで素晴らしい絵をたくさん描いてください。トモキさんが寝てらしたので、勝手ながらお描きになっていた絵は預からせて頂きます」と書かれていた。
「拙い絵だけど、気に入って貰えたのなら嬉しいな」
他者に認められる。親を除けば、それはトモキにとって数少ない経験だ。小声で呟きながら顔を綻ばせ、トモキはスケッチブックを抱えて描きたいと思える風景を探し始めた。
少し歩いて街道の方へと出る。山の中は死んだ様に静かで、日本に居た時の常に光が灯っている状況しか知らないトモキからすれば、静寂に閉ざされた夜はとても新鮮だった。
「そういえば、夜は誰かが巡回してそうなものだけど……」
この世界が元の世界と比べてどの程度安全なのかは分からないが、行商人の旅に護衛を付ける程だ。森の中の魔物といい、決して平和な世界では無いと思うのだが、実際はどうなのだろうか。思案しながら再び歩き始めたが、すぐにその疑問は解決した。
馬車の近くに辿り着いたトモキは、そのすぐ側に淡く光る石の様なもの、そしてその石を中心として描かれた小さな魔法陣を見つけ、眼を見張った。
「結界魔術? こっちにも似たようなものがあるんだ。だから見回りしなくても大丈夫なのか」
トモキは、元の世界で最近ニュースになった新しい魔素技術の記事を思い出した。とある企業がセキュリティ用品として開発したもので、夜間に現れた魔獣が建物に侵入しようとしても弱い魔獣ならば近寄れなくなる効果を謳っていた。コストが未だ課題ではあるが、将来的には各家庭でも購入できるレベルまで安価になり、家屋の被害を軽減できる様になるだろう、とその記事では締めくくっていた。
「……なるほど、へぇ、魔法陣はこういう構成になってるんだ」
近寄って魔法陣を覗きこみ、トモキは感嘆する。描かれた文字や記号の細部は違えども、配置や図の重ね方などはトモキの知るものと類似しており、正確な理論は分からずとも既存の知識の応用で、媒体となる宝石類さえあればトモキにも作成可能に思えた。
「そういえば、スレイプニィールもあったよな」
スレイプニィール。それは内燃機関を用いた自動車に取って代わった低空飛行式自動車の名前だ。トモキの物心付いた頃にはすでにほとんどの自動車がスレイプニィールになっており、従来の内燃機関自動車は一部のマニアが乗るだけとなっていた。
トモキはニコラウスの馬車を上から下へと順に見下ろしていく。荷馬車を引く前面の、トラックで言えば運転席に当たる部分だけがスレイプニィールになっており、荷台は木製の車輪が使われている。運転席――馬車らしく御者台と呼ぶべきか――にしてもボディは木材で作られており特別な加工が施された様子も無く、少々強い衝撃が加われば容易く壊れてしまいそうだ。自分の中の最新技術と、中世時代の様な魔技を使わない古い技術が混同してある事にトモキは違和感を覚えた。だがそれを考えても栓のない事、と頭を振った。
「特定の分野だけ発展したのかな?」
そんな疑問を口にしながらもその事から興味を失い、代わりに結界魔術の魔法陣をスケッチブックに書き写していく。正確に写すには細すぎて骨が折れるので、略式記号に補足説明を付け加える形で書き込み、後で自分でも試してみようと思いながらトモキは描くべき景色を探して歩き始めた。
夜空の月は尚も優しくトモキを照らす。その隣には薄い雲が伸びてきており、月明かりが陰りだす。その様子をのんびりと眺め、馬車の荷台を通り掛かった時、近くで物音がした。
「誰か……居るんですか?」
全身に緊張が走り、気弱なトモキの顔に恐怖の色が貼り付いていく。声を掛けてみるも返答は無い。聞き間違いだったのか、とも思うが、もしかしたらアルフォンスが言っていた盗賊が現れたのかもしれない。あるいは荷馬車を狙った泥棒か。
結界魔術があるのに、とも思ったが、そもそもそれはトモキの見立てであり、実際に結界魔術かどうかは不明だ。それに、もしくは腹を空かした魔獣の類が餌を求めて近寄ってきた可能性だってある。トモキは物音の正体を確かめるべく、恐る恐るといった体で辺りを巡っていく。馬車の下なども覗きこんでみたが、何もなく、誰も居ない。その時、もう一度微かな物音を聞いた。
「馬車の……中?」
移動中の雑談にニコラウスに荷物を聞いていたが、トモキの記憶では生物の類は無かったはずで、だとすれば賊が荷台に入り込んでいるのだろうか。
ニコラウスには返しきれない恩がある。念の為に中を調べてみようか、とも思うが、勝手に人の荷物を見ることに罪悪感もある。
「もしかしたら護衛の人が寝てるだけかもしれないし。いや、でも万が一泥棒だったらどうしよう? でもなぁ……」
思考が右へ左へと揺れ動く。合わせて視線も左右をウロウロし、それでもトモキは意を決した。
(もし間違ってても黙ってればバレないよね?)
自身の行動にそう言い訳をして荷馬車後部の取っ手に手を掛けた。ただし、もし本当に中で誰かが寝ていても起こしてしまわないよう、そっと力を込めていく。
「あ、あれ?」
だが取っ手は固く、ガタガタと微かな音を立てて細かく上下するだけだった。鍵が掛かっているのか、それとも滑りが悪く固くなっているだけなのか。トモキは悩みながらももう少しだけ力を込めてみた。
すると。
「あっ!」
トモキは思わず声を発してしまっていた。トモキ自身は少しだけ力を込めたつもりだったが木製の取っては根本から折れ、小さな欠片を地面に散らしながらトモキの手の中に残った。
呆然と取っ手と扉を見るトモキ。血の気が引いていき、朝になって何と言い訳をしようと思考が空回りしていく。恩を返すつもりがとんでもない事をしてしまった。いや、取っ手自体が老朽化していたんだ。僕のせいじゃない。だけど壊したのは事実だ。謝れば許してくれるだろうか。
頭を抱えるトモキだったが、その横で扉がゆっくりと開いていく。仄かな月明かりが荷馬車の中を照らしていった。
「――え?」
そしてトモキは言葉を失った。
月光の届かない荷台の中で輝く二つの光。鬼火の様に揺々と漂い、時折不定期に消えてはまた現れる。一対のそれが現れると、続いてもう一対、また一対と鬼火は増えていく。それらはトモキを捉えて離さず、頼りなさ気に彷徨う。
「――っ!」
トモキは悲鳴を上げそうになった。だがかろうじて留まる。否、留まったのでは無く声を発する事を喉が拒絶していた。
トモキの眼が暗闇に慣れる。荷台の中が露わになる。荷馬車の中に荷物は少なかった。箱の類はほとんど無く、薄汚れた、臭気の漂う毛布が幾つも転がっていた。
そしてトモキは、鬼火の正体を見た。
「こ…ども……?」
果たして、暗闇で彷徨っていたのは子供達の眼差しの昏い輝きだった。猫の眼の様に薄く光を発し、よく注視してみればどの子も齢十に届こうかという様な小さな少年少女だ。そして共通しているのは頭上や顔の横に髪を突き破るようにして深い毛に覆われた耳が在る事。
「獣人の、子供……」
トモキが呻くように言葉を漏らすと、子供たちは一層荷台の奥の方に移動して互いを守る様に身を寄せた。
その眼に宿るのは恐怖だ。理不尽に怯え、理不尽に抗う術を持たない無力な子供の姿だ。トモキが呆然として動けないでいる中、どの子供もトモキから片時も眼を離そうとはしなかった。そしてトモキもまたその少年達から眼を逸らすことが出来なかった。
「――見てしまいましたね」
そして背後から悪意が降り下りた。
振掛けられた声に振り向き、しかし振り向き切るよりも早くトモキの体に衝撃が走る。
体の正面を左肩から袈裟に斬られ、トモキは斬撃の衝撃で弾き飛ばされる。荷馬車の扉を破壊しながら地面を転がり、夜空に砂埃を巻き上げていく。脇に抱えていたスケッチブックが落ち、何も描かれていない白紙のページが空を仰ぐ。
トモキは土の上に横たわり、衝撃音が森の梢の隙間に消えていく。ニコラウスはその様を見て満足そうに頷き、剣を振り下ろしたまま残心を取る隣の男に拍手した。
「やれやれ。折角助けてあげたというのに、不還の森に投げ出された事と言い、全く運の無いお方だ。しかし厳重に鍵は掛けておいたはずなんですが、まさか扉ごと壊れてしまうとは。まあ、この馬車もかなり年季が入ってますからね。そろそろ馬車も更新の時期ということなのでしょう」
「この餓鬼はどうしますか、ニコラウスさん」
アルフォンスと同じ意匠の鎧を纏った男はようやく残心を解き、首だけを振り返ってニコラウスに尋ねた。ニコラウスは「そうですねぇ」と弛んだ顎の肉を撫で付けながら笑った。
「『迷人』ですし、お金になると思ったんですがね。かつての迷人達の知識は我々よりも遥かに発達したものでしたし、出来れば仲良くして商売の種でも授けて頂きたかったのですが、こうなっては已むを得ません。トモキさんには申し訳ありませんが、当人の実力には不相応な剣だけでも頂いて死んで頂きましょう。何せあの
一応確認しますが、まだ殺してはいませんね?」
「ええ、致命傷ではありますが、即死にはならないよう斬り付けたつもりですよ」
「そうですか。ならば――」
「ニコ…ラウスさん……っ!」
話の途中で割って入る声。ニコラウスと男は立ち上がったトモキの姿を認めて眼を丸くした。
「確かに致命傷を与えたと思ったんだが……ニコラウスさん、どうやら剣だけでなくあの服も中々の物らしい」
そう言った男の言葉通り、トモキの命を救ったのは魔技高の制服であった。
魔技高では、特に特任コースの生徒に関しては夜間の街中パトロールが課せられている。特異点から現れた魔物とパトロール中に遭遇することもあり、そのまま戦闘となることも決して珍しくない。そういった場合に備えて、支給される制服には高い魔術防御性と防刃性が施されていた。今もトモキの制服には斜めに長く表面に切り傷はあるものの、その下に編み込まれた特殊な繊維のお陰で体には傷一つ無い。ただし、打撃の衝撃までは防ぐ事が出来ないため、重い鈍痛にトモキは歯を食い縛って我慢している状態ではあった。
「そのようですね。序です。こうなれば身ぐるみ全部頂いていきましょう。あまりがめついのは私の趣味ではありませんが、珍しい物ともなれば話は別ですしね。それに身ぐるみの剥がされた死体があれば、例え近くの街から兵が駆けつけたとしてもここらを根城にしている盗賊の仕業と勘違いしてくれるでしょうし」
「ニコラウスさんっ! どうしてこんな……! それにあの馬車の中の子供たちは何なんですかっ!?」
「人の事よりもご自身の心配を再優先にするべきだと思いますが、育ちが宜しいんでしょうね」
非難の声の篭ったトモキの叫びに、しかしニコラウスは悪びれる様子もなく嘯く。
対照的にトモキは混乱の極みにあった。
全てが分からない。
何もかもが分からない。
どうして自分は斬り付けられたのか、自分を斬り付けた男と親切なニコラウスがにこやかに並んで会話しているのか。ニコラウスが何を言っているのか、言葉として理解は出来てもその意味するところが理解できない。
ニコラウスは自分に手を差し伸べてくれた。そのままアルフォンスに斬り捨てさせる事も出来たはずだと言うのに馬車に乗せてくれて食事まで与えてくれた。その事にトモキは深く心から感謝していた。何としても恩に報いなければ、と考えていた。なのに今度は自分を殺そうと、にこやかな笑顔の奥で、柔和な印象を与える丸い眼鏡の奥の眼で冷徹な眼差しを向けてくる。相反する行動に、トモキは理解と感情が及ばない。
あの馬車の子供達は一体誰だ。そんな言葉を頭の中で形にしたところでその実、トモキは分かっていた。ただ、感情が拒否していた。
(そんなはずはない、ニコラウスさんがそんな事をするはずがない……そうだ、きっとあの子供達は何かの理由で行き場を失った子供で、ニコラウスさんは保護しているだけなんだ。だけどその為には法を犯す必要があって、僕に見られちゃいけなかったから、だから僕を……)
「自分の都合の良い様に真実に蓋をして、新たな事実を作り出す、というやり方は感心しませんなぁ」
トモキの内心を見透かした様にニコラウスはにこやかで醜悪に嗤い、細めた瞼の奥から冷たくトモキを射抜く。
「まあ、これまで散々黒を白にしてきた私がどの口でそんな事を言うのか、というのは自分でもありますがね。
それは兎も角として、何も知らずに死ぬ、というのは無念でしょう。先程も申しましたが私はトモキさんの事を好ましいとは思っておりますので、まずは二つ目のご質問からお答えしましょう」
ニコラウスが話す中、隣の男が手を上へと挙げる。すると、それを合図として数人の男達が藪の中から姿を現す。トモキの左右に二人、背後に二人。トモキを囲む様に配置されたどの男も剣を剥き出しにし、口端を歪めて激しく動揺しているトモキを面白そうに嗤った。
「あの獣人の子供達は奴隷候補です。実は私、非合法に奴隷商も営んでおりまして。獣人の子供、特に猫科や犬科に属する獣人は貴族の方々に評判が宜しくて高く売れるのですよ。ですがアテナ王国内の子供連れの獣人達は皆辺境へと隠れてしまったり、ベネディスクや近隣の獣人国家へと逃亡したりしてしまいましてね。なので今回、ベネディスク獣皇国へと
調達。まるで人を物であるかの様な言い草に、トモキは何かが沸きだつのを感じた。
「ニコラウスさん、貴方という人はっ……!!」
「そういきり立たないでください。一つ目の質問の答えはトモキさん、貴方の考えてらっしゃる通りです。アテナ王国内で獣人を奴隷するのは暗黙の了解とはいえ流石に重罪ですので。ベネディスクからしてみれば八つ裂きにしても足りないでしょうからね。事が露見してしまう前にトモキさんを始末してしまおうと、まあそう言った訳ですよ」
ニコラウスの言葉を聞きながら、トモキは自分の感情が大きく震えるのを感じ取った。音は耳に入れども、遥か遠くから投げ掛けられているかの様に聞こえる。全身から力が抜け、鼻の奥がツンとしてくる。
(裏切、られた……?)
絶望を救われただけに、その衝撃は計り知れない。希望はドス黒く染まり、涙が溢れてくる。折角頼れそうな人を見つけたというのに、彼は、トモキを救うどころか更なる奈落の底へと突き落とすだけの存在であった。
彼の真意は、と無理やり希望を見つけようにも、ニコラウスの眼を見たトモキは、彼が本心から言っているのだと理解できてしまった。何故ならば、彼の眼はトモキがずっと元の世界で晒されてきたものと何ら変わらないものだったから。
ニコラウスのトモキを見る眼は、最早人を見る目では無かった。喩えるならば物を、それも壊れてしまって捨てるしか無い玩具を見る目だ。それも思い入れのある物では無く、大して興味も無い貰い物をこれ幸いと処分する時の様な、そんな視線だ。
(この世界も悪いもんじゃねぇ)
アルフォンスの言葉が頭を過り、その言葉をトモキは吐き捨てた。
「何が……この世界も悪くない、だ」
結局一緒ではないか。元の世界もこの世界も。自分に大した価値を見出してもらえず、蔑まれるだけ。尊厳を、人らしさを奪われるだけでは無いか。命を他者から理不尽に否定されるのならば、何一つ変わらない。
「おや? 衝撃のあまり言葉も出ませんか。もう少し反論の一つでも投げ掛けてくると思いましたが期待外れでしたね。面白くありませんが、いいでしょう。ダグラス――殺ってしまいなさい」
隣に居た青年から壮年に差し掛かった頃合の男――ダグラスはニコラウスの指示を聞くと剣を構えて駆けた。脇構えのまま風を切って走り、瞬時にトモキに肉薄する。躊躇う事無く一足の間合いまで踏み込み、トモキの左下から胴ごと断ち切らんと振り上げた。
「くっ……!」
トモキはうめき声を上げながら辛うじて一歩下がり剣戟をかわした。それに軽くダグラスは眼を見張る。しかし油断なく直ぐ様振り下ろしの一撃をトモキ目掛けて奮った。
「っ! ……ほう、少しは剣の心得があるようだな」
剣と剣がぶつかり合う金属音の後で、ダグラスは今度こそ感嘆の声を上げた。振り下ろされたブロードソードの下ではトモキがギリギリの所で鞘から抜いた剣で受けている。落ち着いた声でダグラスはトモキを褒める。だが裏を返せば、それはまだ相当の余力がダグラスに残されているという事を意味していた。
「だが、まだ経験が足りない、なっ!」
「うぐっ!!」
剣での鍔迫り合いに応じると見せかけて適度に力を抜き、トモキのバランスを崩す。その隙を見逃さずにダグラスの重い前蹴りがトモキの腹に突き刺さった。
弾き飛ばされて回転しながら土埃をトモキは上げるが、その勢いを利用して直ぐに体勢を整えて再びダグラスと向かい合う。
「……驚いたな。どうやら剣だけでは無く反応も良いらしい。それに、細身に見えてその実、随分と体を鍛えては居るようだ」
トモキを蹴り飛ばしたブーツ越しの感触に、ダグラスはトモキに対する警戒を一段上げた。
ダグラスの纏う空気が一段変わった事をトモキは敏感に感じ取っていた。そして、それと同時にトモキを囲んでいた四人の男達も、それまでの何処かぞんざいで緊張感の乏しかった雰囲気が引き締まったものに変化した。
トモキは学校の授業で習った様に八相に剣を構え、そこから自分が剣を扱い易い様にやや水平方向に剣を傾けた。体勢を低くし、いつでも誰が飛びかかって来ても対応できるよう周囲に気を配る。だが、トモキにできる事は今はそれだけであった。
「へっ、どうしたんだよ、坊主。剣の先が震えてるぜ?」
「まさかそんな構えでやり合おうって言うんじゃないだろうな? だとしたら俺らも舐められたもんだ」
取り囲む一人がトモキの体の震えを揶揄する。それを聞いた他の者もダグラスを除いて笑い声を上げ、しかしトモキはその嘲笑に恥ずかしいと思う余裕は無かった。トモキはただ怖かった。この期に及んで、剣を奮って誰かを傷つけて仕舞うことが怖かった。
この人達は、敵だ。倒さなければならない、僕を殺そうとする敵だ。
トモキは自分に暗示を掛けるように口の中でその言葉を繰り返す。敵だ。敵敵敵敵敵敵敵敵……幾度と無く繰り返す。反芻する。
またしても自分の命を脅かす存在だ。理不尽を撒き散らし押し付けてくる悪だ。トモキの思考が次第に怒りに染まっていく。裏切りに対する絶望を憤怒に変え、手の震えが止まって抗う為の力が何処からか込み上げてくる。恐怖を新たな感情で塗り替えていく。箍が、外れてしまいそうだ。そしてそうなっても構わない。トモキは頭が熱く冷えていくのを自覚した。
互いに雰囲気が変わり、場の空気が軋み始める。空の月はいつの間にか雲に隠れて見えなくなっていた。
「おい、お前らっ! 何やってやがるっ!!」
緊張と弛緩が綱引きをしている最中、聞き覚えのある怒鳴り声が一同に響く。その途端に張り詰めかけていた空気が緩み、全員の視線が声の主に注がれる。
「何だってウチの連中がトモキに剣を向けてやがる! 何があった!?」
「アルフォンスさんっ!」
怒りを滲ませた声が鼓膜を打ち、ニコラウスは片手で顔を覆って空を仰ぐ。ダグラスは頭を掻き、残りの四人も舌打ちをしながら剣を下ろす。
「アルフォンスさんっ! 貴方も、貴方も……知ってたんですかっ!!」
そしてトモキもまた怒りを滲ませてアルフォンスに向かって怒鳴った。彼もまたトモキに優しくしてくれた一人であり、励ましてくれた人物だ。しかし尊敬の念を抱き始めていた矢先にニコラウスに裏切られた。理不尽がまたトモキを襲った。そしてそれはアルフォンスもまた同じだったのかと強く問い質したかった。想像するだけでこみ上げてくる怒りをそのままにトモキはアルフォンスに想いを投げ掛けた。せめて、せめてアルフォンスだけは違っていて欲しいと願って。
「ちょ、ちょっと待て! お前は何の話をしてるんだ!?」
感情をぶつけられたアルフォンスは強く困惑した。数時間前まで話していた時には大人しく、酒を飲ませても強く感情を露わにすることが無かったトモキが今、激しい怒りを漲らせている。その豹変と明らかに異常な場の空気に、アルフォンスも状況を把握できなかった。
「馬車の中を見てくださいっ!」
言われるがままにアルフォンスは扉の開いた荷馬車の中を覗き込み、言葉を失った。
「何だ、この獣人の子供達は……」
「こんな……子供を攫って奴隷にするなんて恥ずかしく無いんですかっ!!」
「し、知らねぇっ! 俺は知らなかったんだっ!」
トモキの糾弾にアルフォンスは慌てて首を横に振り、ニコラウス達へと躙り寄る。
「どういうことだ、おっさん! 俺は聞いてねぇぞっ!」
「最初に申し上げたではありませんか。『荷物』を運ぶので護衛をお願いします、と」
「何処が荷物だっ! 誘拐した人間の子供じゃねえか!」
「人間ではありませんよ。『亜人』です。荷物で間違って無いじゃないですか?」
何を言っているのです? とニコラウスは心底理解らないといった様子で不思議そうに首を傾げた。
噛み合わない。いや、腐ってる――
本心からニコラウスがそう言っていると悟ったアルフォンスはニコラウスとの会話を諦め、部下であるはずのダグラス達へと矛先を向けた。
「お前らもだっ! 最初から
「アルフォンス坊ちゃん……」
「応えろよ、ダグラス!」
ダグラスの胸ぐらを掴み上げ、鬼の形相でアルフォンスは詰め寄った。ダグラスはアルフォンスの顔から眼を背け、バツの悪そうに眉間に皺を寄せた。アルフォンスの問いには無言を貫いて答えようとせず、その態度が増々アルフォンスの苛立ちを増長する。
「俺らの
激昂し、しかしその揺れ動く瞳の奥には不信、悲哀……様々な感情が渦巻く。怒りの奥に裏切られた悲しみが貼り付き、声色からも滲み出るアルフォンスの激情はトモキにも伝わり、胸で燃え上がった怒りを鎮めるには十分だった。
アルフォンスは、何も知らない。トモキは彼は加担していなかったと悟った。そして今、本心から仲間達に怒り、悲しんでいる。裏切りに胸の内が引き裂かれている。伝わってきた悲しみにトモキの胸も冷え、同時に、その想いは、如何なる事情があってかは知らないが、少なくとも間近に居るダグラスにも伝わったものと、トモキは思った。
ダグラスはふぅ、と一息吐き出し、「坊ちゃん」と呼びかけながらアルフォンスの肩に左手を置く。
――そして、右手の中の剣でアルフォンスの腹を貫いた。
「が、ふっ……」
衝撃がアルフォンスの全身を襲う。最初に異物感。次に熱。灼熱と剣腹部分の金属からの冷熱が綯交ぜになる。そして最後になってようやく痛みを脳が知覚した。
熱い血液が剣を伝っていき、雫となって零れ落ちていく。一つ、二つ。命が少しずつ削げ落ちていく。斬り裂かれた臓腑が血を吐き出し、込み上げてくる吐き気を堪え切れず、アルフォンスの口からもまた溢れ落ちていく。
「アルフォンスさんっ!!」
「もうね、うんざりなんですよ。ボスにも、そして坊ちゃんにも」
「なに、を……」
もう一度溜息を吐き、ウンザリしたように吐き捨てるダグラス。頭半分ほど高い位置からアルフォンスを見下し、対照的にアルフォンスは小さく震えながら眼を見開いてダグラスを見上げた。
「『汝、弱者から搾取するなかれ。人種、種族に眼を囚われるなかれ』。立派な理念です。感情を抜きにして見れば素晴らしい。人とは斯く在るべきと教えているようだ。何処かの聖書にも是非一文載せて欲しいと思います」
そこまで話してダグラスはアルフォンスに突き刺した剣を無理矢理に捻る。
「が…あっ……!」
「そして同時に思います。
――お前らは何て反吐の出るような世界で生きてきたんだろう、とね」
苦悶に声を発することも出来ないでいるアルフォンスの耳元に向かって囁くように、ダグラスは昏い瞳で吐き捨てた。殴るような勢いでアルフォンスの胸を突き飛ばし、その勢いで剣を引き抜く。傷跡から真っ赤な血が流れ、支えを失ったアルフォンスはそのまま仰向けに倒れた。
「幸せな事に坊ちゃんらは奪われなかったんでしょう。
「何が、だよ……っ!」
「俺らは奪われてきた」
光を失った宵闇の様な眼に憎悪が灯った。
「親を目の前で殺された。母が目の前で犯され殺された。友が食い殺された。幼馴染の首が跳ね飛ばされた。大切なモノが全て一瞬で奴らに壊された。俺だけじゃない。大人しく街中で暮らすでもなく、街を、国を守る兵士になるでもない冒険者や傭兵の多くは亜人達に大切な何かを奪われてきた連中です。魔物に対峙し、時に死の危機に瀕しながらも自らを鍛えあげるのはこの手で、この剣でアイツ等にも同じ思いを、奪われる者の絶望を味わわせる為だ。その為にこうして剣を握ってるんですよ。なのにボスも坊ちゃんもそんな俺らに対してご大層な理念を守らせようってしている。堪んないですよ」
「でも、あの子達にはそんなの関係ないじゃないですかっ!!」
気づけばトモキはダグラスに向かって叫んでいた。
トモキの裡に宿るのは同情と反発だ。相反する感情が激しくトモキの胸を焼いていた。
ダグラスの言葉に共感できてしまう。何故ならばトモキもまた奪われる立場の人間であるのだから。理不尽に貶められ、侮辱され、人の尊厳を無いものとして扱われた。まるで喋る塵芥であるかの様に見なされ、助けは来ず、助けも求められず、希望は無かった。周り全てが敵であった。そして彼らを殺してしまいたいと、全てをぶち壊してしまいたいと、それ程憎んでいるのだと森の中で自覚してしまった。
「トモキ、と言ったか。事実としてはお前の言った通りだろう。あの獣人の子供達は一切与り知らぬ事だろう。だが、そんな口が利けるのも所詮お前も大切な物を奪われた経験が無いからだ」
「それでもっ!!」
トモキとて理解している。ダグラス達の絶望と自分の喪失が同等のモノでないことくらい、簡単に理解できている。父も母も壮健であるトモキと彼らでは、抱いている想いは似て非なるものだ。いや、似てもすらいないだろう。
だからこそ反発できる。ダグラス達程絶望していないからこそ、それが間違っていると判断できる。熱さを微熱に留め、昏さが手を拱いている深淵の縁に留まり、トモキの中で育まれてきた倫理観が憎悪を抑えこむことができる。
「それでも……僕はあなた達の行いを認める事は出来ません。子供達が連れ去られるのを見逃せる様な、見て見ぬふりをする様な、そんな人間にはなりたくない」
ダグラス達の行いは、彼らと同じ様な人間を増やすのと同義だ。彼らが亜人達に大切なモノを奪われて憎悪に身を焦がしている様に、亜人達もまた人間に対して憎しみの火炎を滾らせる事になるだろう。それは悪夢だ。終わらない連鎖が連綿と続き、どちらかが、もしくはどちらも居なくなるまで争いが続く。いや、もうすでにその連鎖は連綿と続いてしまっているのだろう。
だからといって、それを続けて良いわけが無い。
「僕は……奪われる痛みを知ってる。だから、その痛みを他人に強いろうとは思えない」
「だとしてどうする? 俺達を止めるか?」
「……止めます」
「本気だとしたら狂気の沙汰だな。戦うだけの力も、覚悟も無いというのに」
嘲笑と憐憫の篭ったダグラスの言葉にトモキは反論しなかった。それは冷静に自身を顧みて反論するだけの材料を持たなかったというのもあるし、そもそも反論するつもりも無かった。
人を傷つけるのも傷つけられるのも怖い。それはトモキの偽らざる本心だ。誰かを救おうだなんて、そんな思いを実現出来るだけの実力もないし思い上がりも甚だしいと我ながら思う。ここで見ぬふりをして離れれば、自分は無事に逃げ出せる。そう思う。
けれども、それが出来なかった。してはならないと思った。ここで見て見ぬふりをすれば、それは自分をこの世界に突き落とした
アルフォンスが傷つき、子供達の心にも新たな傷が刻まれようとしている。幼い彼らから全てが奪われそうになっている。自身の身に置き換え、その結末を想像する。そうした時、トモキ一人でここを逃げるという選択肢は消えていた。
「本気の様だな。
ニコラウスさん、改めてお尋ねしますが――殺しても構いませんね」
「ええ、勿論。私も今改めて考えました。直感ですがトモキさん、貴方をここで生かしておいては後々マズい事態になる。そんな気がしますから」
ダグラスが剣を構え、トモキも右手に持っていた剣を正眼で構える。手の震えはすでに止まっている。それを見てダグラスは先程の様に飛び込んでくるでも無く、ジッとトモキを観察して機会を伺う。それは周囲の男達も同様で、トモキを茶化す事も無く一人の敵として見定めていた。
重苦しい空気が張り詰める。誰が、いつ動き出すか。トモキは恐怖を抑えこんで油断なく三六〇度の空気に気を配る。一同の額に、頬に、緊張の汗が流れ始めた。
その時だ。
「ガキぃっ! 何やってやがる!!」
トモキの後ろに居た一人が突然怒鳴り声を張り上げた。全員が声の主に振り返り、そして指差す方へ注意を向ける。
そこでは荷馬車の中に居た一人の少年が、男達の眼を盗んで逃げ出そうとしている所であった。誰しもの注意が荷馬車と少年達から離れてトモキとアルフォンスに注がれていた。それはこの場での唯一とも言って良いチャンスであった。
しかし少年は運が悪かった。荷馬車から降りる際に手を掛けた扉は、最初にトモキが斬り飛ばされた際の衝撃で歪み、微かに触れただけで静寂な辺りに響くだけの音を立ててしまった。
気づかれた年端もいかない少年は走り出した。すぐに最も近い男の一人が追い掛け始める。
均衡が、崩れた。
意識が自分から離れたその一瞬をトモキは逃さなかった。
地面を蹴り、抉られた土が激しく巻き上がる。脇構えのまま、衝動に動かされるままに身を低くして、風となって駆け抜ける。
「隙を突いたつもりかぁっっっ!!」
だが視界の端に油断なくトモキの姿を収めていたダグラスは直ぐに反応を示す。
構えた剣を水平に薙ぎ、迫り来るトモキの首を狩らんとタイミングを合わせて振り抜いていく。
(怖い……! だけどっ!!)
魔技高の戦闘訓練でもトモキは負けてばかりであった。それはトモキが剣を誰かに向かって振るう事ができないからでもあるが、それ以上に相手の振るう剣の恐怖に負けて眼を瞑ってしまうことが大きな要因だ。
(眼を閉じるなっ! 前を見続けるんだっ!)
猛烈な勢いで迫りくる、自身の命を奪うための武器。しかしトモキの見開かれた眼には止まって見えていた。
(もっと……低くっ!)
姿勢を更に前傾。地を這う鷹の様に地面擦々まで体を倒し、後ろ髪をダグラスの剣が斬り裂いていった。
「何とっ!!」
ダグラスには脇目も振らず走り抜けた。腹から夥しく血を流していくアルフォンスを横目に見て、だが苦痛に藻掻いているアルフォンスは、疾走するトモキに向かって親指を立てた。
(ゴメンなさい、アルフォンスさん……っ!!)
怪我の具合を考えればまずはアルフォンスを助け出すべきかもしれない。しかしトモキは謝罪を心の中で叫んで一目散に少年に肉薄する男に向かった。
「この餓鬼ィッ! やっと捕まえ……」
「その手で触るなぁァァァッッッ!!」
男はその声に振り返る。だが、その時にはすでにトモキの肩が男の腹にめり込んでいた。
悶絶と苦痛の叫びを残しながら体当たりで弾き飛ばされ、地面を滑り転がりながら畑の中へと男は消えていく。その様子をトモキは肩で大きく息をしながら見送った。
「大丈夫?」
その場に座り込んでいた少年に手を伸ばす。犬の獣人らしい少年は白金の髪の間から覗く耳を真っ直ぐに立て、気弱そうな垂れ目を見開いてトモキを見上げる。しかし状況が把握出来ていないのか、あるいは人間であるトモキに警戒しているのか、伸ばされた手を取ることは無かった。瞳は不安で揺れ動き、トモキが覗きこもうとすれば然りげ無く眼を逸らした。それが彼の受けてきた状況を示している様で、トモキは辛かった。だがそんな感傷に浸る間もない。少年はトモキの後ろを指差した。
「舐めるな小僧ぉぉぉぉっっっ」
雄叫びを上げ、トモキの後を追ってきたダグラスの渾身の一撃がトモキ目掛けて振り下ろされる。一撃、二撃、三撃。一閃一閃が鋭く風を斬り裂き、右から左からトモキを切り刻まんと襲い掛かる。全てが疾く、そして重い。
それをトモキは必死になって受け止める。勢いに押され、後退しながらも冷静に剣筋を見極めて受け、その度に剣と剣がぶつかり合い、甲高い金属音を奏でる。
「ダグラスッ、加勢する!」
残りの二人も加わり、三人で連携を取りながらトモキに斬りかかる。流石にトモキも全てを捌き切れず、時折腕を掠り、髪先を掠める様な極限の対応が続きながらも少年から離れる様にして逃げていく。
「何をしているのですかっ!! さっさと殺してしまいなさいっ!!」
外で見ているしかないニコラウスが苛立った様に怒鳴りつける。ダグラス達はその言い様に苛立った様に舌打ちしながらも、トモキに対する攻勢を止めはしない。
「くっ……!」
避けきれなかったダグラスの剣先がトモキの頬を斬り裂いた。左頬に真一文字に傷が刻まれ、真赤な鮮血が夜空を彩る。
「オラァッッッ!」
剣戟の最中、トモキの意識が一瞬痛みに気を取られた瞬間を狙ってダグラスが回し蹴りを頭目掛けて奮われた。
ゴツッ。トモキは、頭蓋から鈍い音がしたのを聞いた。目の前が刹那に暗転。気づけば視界はタイヤの様に転げ回り、トモキの体は背中から馬車に強かに打ち付けられた。
大きく揺れる荷馬車。それと同時に馬車から幾つかの影が飛び出した。
犬の獣人の少年が二人、猫の獣人の少女が一人。このタイミングを好機と捉えたか、脱兎の如く、獣人らしい身のこなしで一目散に森の中へと駆けていく。しかし、まだ馬車の中では怯えた様に縮こまった少年少女が震えながらトモキを見ていた。
「早、く……逃げろっ……!」
揺れる視界の中でトモキは咄嗟に叫んだ。
それは怒鳴り声にも近かった。トモキに余裕は無く、直ぐ目の前には追撃を仕掛けるダグラス達が迫り来ていた。優しく促すには時間的にも心理的にも無理だ。らしくない言い方だ、と呟きながらトモキは右腕でダグラスの剣戟を受け止める。
「早くっ!! 早く逃げるんだっ!!」
「こ、こら! 待ちなさいっ!」
必死なトモキの防御に急かされて残りの少女たちも馬車から降りる。一番年長らしい少女が残りの少年の手を引き、その少年が年下の少女の手を引く。
ニコラウスが焦った様に制止の声を上げるが、当然その指示を聞くはずも無い。三人で一緒になって、最初に逃げた少年達とは別の方向へと走って行く。遠ざかるトモキの背中。年長の少女は黙って走りながら振り向き、その背中を見つめるも下唇を噛み締めて夜の山へと消えていく。
「は、早く追い掛けなさいっ! 逃げられたらどれ程の損失になると思ってるのですかっ! せめて料金分の仕事はしなさい!」
「好き勝手言ってくれるっ!」
ニコラウスの怒鳴り声に悪態を吐きながらも更にダグラスの速度は増す。小声で詠唱して身体能力を強化。薄くダグラスの全身が光に包まれ、胸元に小さな魔法陣が刻まれる。より一層ダグラスの剣が疾く、そして重くなる。
「ク……!!」
だがトモキも歯を食い縛った。頬に、手に細かい傷が増えていく。しかしそれでもトモキは屈しない。ダグラスを相手に防御一辺倒だが、決して一歩も退かずに逃げた少年達への追撃を留める。
「ここは俺一人でいい! お前らは逃げたガキ共を追い掛けろっ!」
ダグラスがトモキに対する攻撃の手を緩めずに残り二人に対して怒鳴りつける。それを受けて二人は剣戟の嵐から離れて先ほど逃げた少女達の方へと向かい始める。
させるか。トモキはダグラスから距離を取り、追いかけ始めた二人を更に追い掛けようとした。しかし――
「あ、れ……?」
トモキの膝が落ちる。振り下ろされたダグラスの剣はかろうじて受け止めたものの、その場に踏ん張りきれずに押し込まれ始めた。
「ガス欠……! こんな時にっ……!」
ニコラウスに拾われるまでトモキの体力は限界に近かった。食事を恵まれ、睡眠をとって多少の回復は図れたが前回には程遠い。ただでさえ大量の栄養を必要とする体だ。この刹那の肉体的にも精神的にも緊張と疲労を強いられる攻防を長時間続けられる程の体力はまだ取り戻せていなかった。
動きたくても動けない。ままならない肉体。普段は力が強すぎて足を引っ張る肉体が、今度は肝心な場面で裏切る。臍を噛むトモキに対して、ダグラスはほくそ笑んだ。
「手間取ったが、今度こそ終わりだ小僧っっ!」
一気に方を付けようと、自らのギアを一段高く上げようとダグラスは気合の雄叫びを上げた。トモキは受けきれなくなってきた剣の重さと悔しさに表情を歪ませる。
だが。
「なっ!」
ダグラスに飛び掛かる影があった。
それは少年だった。先ほどトモキが助けた犬の獣人。その彼がダグラスの腕に掴みかかり、小さな口を目いっぱいに広げて犬歯を突き立てていた。
「この……離れろっ!!」
ダグラスは腕を振るい、少年を振り払おうとする。だがしっかりと噛み付いた少年は離れずに必死に喰らいついていた。
「離れろっつってるだろうがっ!!」
「ギャン!」
剣を持たない逆の手で少年を殴り飛ばし、少年は悲鳴を上げて地面を転がっていく。
「あんたって人はぁっ!」
「犬っころの餓鬼を一匹殴っただけで何を熱り立ってる!!」
それを見てトモキは怒りを露わにして、力を振り絞ってダグラスに斬り掛かった。その一撃はダグラスの腕を深く斬り裂いた。
しかし致命傷には及ばず、またトモキの反撃もそれだけであった。
血を撒き散らしながらダグラスはトモキを蹴り飛ばす。砂埃が舞い上がり、馬車にぶつかって止まったところに更にダグラスが躍りかかった。
だが。
「させるかよぉぉっ!!」
響き渡る怒声。攻防は続けながら、トモキは横目で声の主を探す。
果たして、アルフォンスは立っていた。歯を食い縛って痛みに耐え、大きく見開いた目尻には僅かに涙が溜まっている。刺された腹部からは絶え間なく血が流れ、しかしアルフォンスは仁王立ちにてしっかりと地に足を踏ん張っていた。
「アルフォンスさん!」
「我、願う! 父よ、母なる大地の精霊よ!」
アルフォンスは手を大きく伸ばして天に掲げた。胸当ての下の、宵闇の中でも分かるほどに赤く染めたシャツを露わにし、しかし彼は叫ぶ。
「この身に宿る怒りに応えて我が前に立ち塞がりし敵に汝らの鉄槌を与えん!」
それは魂の叫びだ。怒声とも悲鳴とも取れるアルフォンスの声を聞き、ダグラスの剣に耐えながら思った。怒り、悲しみ、そして嘆き。果たして目尻に湛えられた涙は痛みか、それとも――。
掲げたアルフォンスの手の上に光が浮かび上がる。複雑な幾何学文様を湛え、辺りに光をまき散らしながら回転している。涙を浮かべた眼で、アルフォンスはニヤリと口端を歪めて笑ってみせた。
「まさかっ!!」
「『アース・バースト』ォォォッッッ!!」
そして叩きつける様にしてその両手を地面に振り下ろした。
次の瞬間、大地が光を放った。
振り下ろしたアルフォンスの手を中心として地面に魔法陣が移動した。魔法陣から瞬く間に光が地面をまるで雷の様に不規則な模様を描きながらトモキに襲い掛かるダグラスの方へと伸びていった。
「くぉぉっ!?」
ダグラスは瞬時の判断でトモキから離れた。形振り構わず身を投げ出して無様とも言える体勢で地面を転がった。
そして地面が爆ぜた。アルフォンスの手元を始点として次から次へと、あたかも地雷が爆発したかのように地面が迫り上がり、一直線上に土砂を撒き散らす。トモキの目の前を通り過ぎた爆発は爆風と土砂の雨をトモキに浴びせていく。
ダグラスは高速で進むその魔術をかろうじて避けた。だが、子供を追い掛けてアルフォンスに背を向けていた残りの二人はそうもいかない。アルフォンスの叫び声は耳に届いていたが、魔術に対して造詣も深くない二人は反応が遅れ、迫り上がった地面によって大きく空へ弾き飛ばされ、そして消えていく。
再び夜の静寂に包まれる辺り。トモキが眼を開けて腕をどけるとすぐそこには、深さ数メートルの溝が数十メートルの長さに渡って刻まれていた。
「へへ……どうだ、やってやったぜ」
アルフォンスは満足気にそう漏らし、息を切らしながらも笑ってみせる。
「……やってくれましたね、坊ちゃん。まさか魔術まで使える様になっているとは思いませんでした」
「へ、皆には内緒でずっと訓練してたからな。俺のとっておきだ。それとダグラス。二度と俺を『坊ちゃん』なんて呼ぶんじゃねぇ。反吐が出るぜ」
そう言い捨てると、アルフォンスはダグラスから目線を外さずにトモキに向かって声を張り上げる。
「トモキ、お前はそこに居るもう一人のガキを連れて逃げろ」
言われてトモキは急いで少年の姿を探す。「何処に」と周囲を見回せば一人、口元を血で汚した少年が何処か放心したようにトモキ達を見ていた。
「早くその子を捕まえるのです! せめて一人だけでも確保しなさい!」
ニコラウスが叫び、トモキよりも先にダグラスが動いた。
「させっかよぉ!」
だがアルフォンスがダグラスに向かって斬りかかる。怪我を感じさせない鋭い踏み込みで一瞬で肉薄し、ダグラスもすぐに剣を合わせて鍔競り合いになる。
「ここは任せて早くしろ、トモキ!」
「で、でも、アルフォンスさんの体が……」
トモキはアルフォンスの体を見遣った。腹の傷からは尚も血が流れ落ち、薄暗さの中で見えるその顔は蒼白だ。激痛が今もアルフォンスを蝕み、立っているのもやっとのはず。アルフォンスの本来の実力をトモキは知らないが、ダグラスとまともに戦えるはずもない。アルフォンスの方こそ一刻も早く治療が必要なはずだ。
彼の死がトモキの頭を過り、戦慄を覚える。アルフォンスを、ニコラウスと違い、本当の恩人を喪失するかもしれない恐怖がトモキを震わせる。ならば自分も加勢して、先にダグラスを倒すべきだ。そう判断したトモキは立ち上がって剣を握り直す。
「心配すんな」それを見たアルフォンスは笑ってみせた。「さっき
アルフォンスが倒れていた血溜まりを見れば、酒を入れておく様なスキットルが一つ転がっていた。この世界には回復薬なんて物があるのか、とトモキは少し安心して、しかし尚もアルフォンスに食い下がる。
「だからって、二人で戦えば早く勝てるはずです」
「一緒に護衛に参加した奴の姿がさっきから後二人くらい見えねぇ。たぶん、ここらの警戒に当たってるはずだ。お前だって本調子じゃねえんだろ? もしそいつらが戻ってくれば一気に不利になる。それに、ダグラスを舐めちゃいけねぇ。こいつは本来は守りの名手だ。二人で掛かったって防御に徹すれば幾らでも時間を稼げる」
ダグラスは無言でアルフォンスと競り続ける。否定も肯定もしないが、それが事実だとトモキも察した。
「それにな、これは俺達の氏族『
「メンツなんてそんなもの……」
「それ以上言ってくれるなよ? お前にとっちゃどうでもいい事が、俺らにとっちゃこの上なく大事なもんなんだ。
問答してる時間が惜しい。早く、早く行ってくれ……!」
振り絞るようにしてトモキを促すと、ダグラスは鍔競りを解除し、距離を取ろうとする。しかしアルフォンスはすぐに追撃し、重く、強い意思の篭った剣閃を加えていく。それをダグラスも平然と受け止め、受け流していく。
擦れ合う剣と剣が音を上げる。悲鳴にも似たその音がトモキを非難しているように急かしている様に聞こえた。アルフォンスの心の叫びに聞こえた。
トモキは強く右手の剣を握りしめる。
「……分かりました」
俯いてトモキは体を震わせながらそれだけを絞り出した。小声故にアルフォンスには届いていないだろうが、トモキは気にならなかった。目元を拭い、目の前の溝を跳び越えてアルフォンス達に背を向ける。走りながら、すれ違い様に座り込んだままでいる少年を体ごと左腕で抱え上げ、そのまま街道を元々来ていた方向へと向かう。少年はトモキの腕の中でされるがままになっている。
逃げる途中、トモキは立ち止まり、アルフォンスに向かって大声を張り上げた。
「絶対! 絶対……死なないでください……!」
その一瞬、アルフォンスは少しだけ振り返ってトモキの方を見た。微かに微笑み、それは本当に刹那、瞬間でしか無かった。
僅かな時間で見せたアルフォンスの笑顔。それはまざまざとトモキの眼に、脳裏に焼き付いた。鮮烈な印象を残したが、それが何故かはトモキは分からなかった。理解りたくは無かった。
だからトモキは走って逃げる。体力的に辛いが、それ以上にその場に留まるのが辛かった。吐き気を堪え、涙を流し、嗚咽を漏らしながら少年と二人で街道を駆ける。
トモキの姿が見えなくなる。アルフォンスはそこで剣戟の手を休め、ダグラスから距離を取った。
「……分かりませんね。どうして昨日出会ったばかりのあの少年をそこまで気に掛けるのか」
「さあな。俺にも分かんねぇよ。てか、お前が何言ってんのかもさっぱり分からねぇな。俺はただ単にテメェのケツはテメェで拭くのに邪魔だからトモキを逃しただけだぜ?」
「本当に、格好つけるのが好きな親子だ」
「放っとけや」
「でも、そういう所が好きなんですよ。俺も、氏族の皆も」
「よせよ。野郎に好かれるなんざ気持ち悪くて構わねぇよ」
「だからこそ、尚更残念です。親子揃って進むべき道を間違えてしまったのが」
「間違ってなんざいねーよ」アルフォンスは胸を張った。「俺も、親父も、進むべき道を間違えたなんざ微塵も思ってねぇ。それだけは断言できる」
アルフォンスの腹から流れる血は止まらない。顔色は既に土気色に変わり、もはや限界を迎えているのは誰の眼にも明らかだ。それでもアルフォンスは膝を屈しない。
「ならばもうこれ以上語り合う事はない。せめてもの慈悲だ。一撃で楽にしてあげます」
「おお、かかって来いや。アルフォンス・"
アルフォンスとダグラスの二人は剣を構えて向かい合う。月を隠す曇はいつしか厚くなり、今にも雨が降り出しそうなまでに涙を湛えていた。
「いくぞぉぉぉぁぁっ!!」
どちらとも無く地面を蹴る。十メートルは離れていた距離が、一瞬でゼロへと減じた。
「あああああああああああああぁぁぁっっっ!!」
「おおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉっっっ!!」
互いに雄叫びを上げながら渾身の一撃を奮う。振り下ろした剣と振り上げた剣が交差する。
そして、鮮血が舞った。
雨が降り始める。静まり返った夜の田舎道に、激しく地面を叩く雨音がどこまでも鳴り響く。
その中で馬車が夜道を駆け抜けていく。荷馬車が数台連なっている。その最後尾の馬車の中には荷は積まれておらず、半ば以上壊れた扉がフラフラと揺れていた。
悪路の中を馬車は進んでいく。車輪が段差にぶつかり、荷馬車全体が大きく弾んだ。
その衝撃で扉が外れ落ち、泥濘んだ道の中を転がっていく。そのまま馬車は走り去って行く。その後に続くものは誰一人として居らず、いつまでも土砂降りの雨が外れ落ちた扉を濡らしていた。
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