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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved






 心地良い揺れの中でトモキは揺蕩っていた。
 眼を閉じたままその揺れを自覚し、ゆっくりと瞼を開ければ星一つ無い夜空が見える。吸い込まれそうな、だがトモキを照らすための微かな光も無い漆黒に、漠然とした不安も覚える。何処か、自分が無くなってしまいそうで。
 ぼんやりと空を眺めたトモキだったが、ギィ、と言う音がしてそちらを見た。薄い木の板が前後に動いていた。形から察するにそれがオールだと当たりを付け、そして自分が船の上に居ることに今更ながらトモキは気づいた。しかしオールを漕ぐ人物は見当たらない。勝手に木板が水面を掻いてトモキを何処かへと誘っていた。
 何処へ、僕は行くのだろう。一定のリズムを刻む音色にトモキは眠気を覚えた。思考の海の中では様々な疑問が浮かんでくるが、それらを考えるのがひどく億劫だった。何処へ行くのか気にはなるが、それもきっと寝て目覚めた時には理解るはず。それだけ結論付けて、トモキは眼を閉じた。
 そうして船は進む。黙々と、悠々と。だが、不意に音が聞こえた。獣が獲物を威嚇する時の様な唸りだ。同時に波も高くなり、船縁に衝突した白波が横になったトモキの顔を濡らす。明らかな異変に、トモキは眼を開けて船縁を掴み、恐る恐る水面を覗きこんだ。すると気泡が一つ、深層から水面に顔を出して弾けた。それが二つ、三つと増えていき、終いには激しく泡立ち始めた。
 何だろうか、と水面に映る自らの首を傾げた時だった。
 穏やかだった水面を何かが突き破った。あっという間に視界の中が緑一色で埋まる。よくよく見ればそれは鱗の様だった。滴り落ちる雫が船縁で弾けてトモキの顔を濡らし、その向こう側に隙間なく並べられた鱗は、しかしながらその一つ一つがトモキの掌と同じ程度に大きかった。
 唖然として口を開けたままトモキは少しずつ顔を上へ向けていく。顔をほぼ真上に向ける程に見上げ、トモキは目の前の生物の正体を知った。
 それは龍だった。巨大な蛇を思わせる長い体躯を黒い空高くまで持ち上げ、遥か高みから矮小なトモキを鋭く射抜く。その龍とトモキは眼を合わせてしまった。それだけの行為で、トモキは咎められているかの様な錯覚を覚え、射竦められた。
 龍は無言だ。トモキを声を発することができない。龍はトモキから眼を離し、何かに伺いを立てているかの如く空を仰いだ。
 何だ? 何が起こる?
 と思ったその時。
 龍は巨大な口でトモキを飲み込んだ。



「……っ!!」

 トモキは体を震わせて眼を覚ました。眼を見開き、額からは汗が流れ落ちていた。全身が汗を掻いているおり、なのに体の真芯は寒く、もう一度トモキは体を震わせた。遠くからは蜩の様な虫の鳴き声が聞こえていた。
 トモキは地面に倒れていた。黒い土が一面に敷き詰められ、普段嗅いでいるアスファルトやコンクリートとは異なる薫りが燻る。ただ硬いだけでない黒土に手を突いてトモキは立ち上がった。周りには誰も居ない。ここは何処かの森の様で、見える範囲は全て広葉樹ばかりだ。一本一本が太く長い樹齢を感じさせ、大きく広がった枝葉は空を覆い隠して陽光は乏しいばかり。立ち上がる際に突いた掌には焦茶の土が付いていて、視点を地面から遠方へ動かせば何処までも隆起した木の根と林立する木々だけが見えて、森の終わりは分からなかった。湿った空気と汗ばむ程度の高い気温、それと噎せ返る様な土の、自然の匂いがそこにあった。
 トモキは呆然として未だ事態を飲み込めていなかった。立ち尽くし、時が経つのも忘れて動けずに視線だけを彷徨わせる。風が吹き、生暖かい空気がトモキの頬を撫でた。一人のトモキにはそれすらも何か恐ろしい物の前兆の様に思えてひどく心細い。トモキは意識せず自分の右腕を撫でた。ここは一体何処で、どうして自分はこんな見覚えの無い場所に居るのだろうか。何故、自分は独りなのか。

「そうだ、神代君はっ……!」

 思い出せる記憶を思い起こしていき、トモキは愕然として共に居たはずの級友の名前を口にした。学内で発生した特異点から溢れる魔獣に立ち向かい、ユウヤは孔から現れた何かに捕まって取り込まれた。そして自分もまたユウヤと同じく特異点の中へ取り込まれたのだった。トモキはその時の、脳裏にまざまざと刻まれた鮮烈な記憶の奔流の中に居た。

「う……ぇ……」

 同時にトモキは意識を失う直前の情景を思い出し、木の根で隆起した土の上に膝を突いた。魔物の触手だと思っていた苛烈な何か。しかしそれに絡み取られたトモキにはそれが触手では無いと知った。
 あれは、人の手だ。トモキは思った。間違いなく人の手だ。トモキを拐うその手はとても柔らかくて暖かかった。口元に残る感触と記憶が気持ち悪く吐き気を覚え、口元を自分の手で抑えた。
 しかし人の手であるはずが無い。人の手が特異点から出てくるはずも、あんな風に長く伸びるはずもない。生徒の頭をあんなに簡単に破壊など出来るはずがない。ならば、あの手は一体何だったのだろうか。
 トモキはあの時の感触を消し去るかの様に乱暴に口元を拭い立ち上がる。

「特異点の中なら、ここは……」

 別の次元の世界だと言うのだろうか。特異点から這い出る様々な魔獣達が生きる世界だと言うのだろうか。ここに、ユウヤも居るのだろうか。

「きっと、神代君も近くに居るはず」

 ユウヤも孔に取り込まれて、そこから間を置かずして自分も取り込まれた。ならユウヤもすぐ傍に居るに違いない。もしかしたら、先程までの自分と同じ様にまだ気を失ったままなのかもしれない。そうなら、早く見つけ出してあげないと。
 それは孤独感からくる想いだ。見ず知らずの場所に独り投げ出されて、トモキは寄る辺が欲しかった。何をするべきか明確な指針が立てられず、それをユウヤに頼ろうと思った。何でも熟せる神代ユウヤならば自分を引っ張っていってくれると意識せずにそう考えたのだ。同時に、ただ独りきりであるという現実にトモキが耐えきれそうになくて心が支えを求めていた。

「馬鹿か、僕は……」

 己の心の中を薄ぼんやりと悟ったトモキは自らを罵った。孔に取り込まれる直前に自分は彼に何と言ったか。もう自分の事を放っておいてくれと、そう言ったのでは無かったのか。自分に眼を掛けてくれている相手に、そんな酷い事を言い放ったのでは無かったのか。状況が変わった、と言えばそれまでだが、体感として然程時が経ってない今、そんな考えを平然と出来る自らの愚かさに対する嫌悪が湧き上がった。
 代わりに何か支えになるものを求めてトモキの手が彷徨う。トモキが求めたのは常に傍に置いていた剣だ。魔技高への入学が決まった日、知人からの貰い物だ、と言って父であるケンジから渡された一振りの魔技高生用の剣。渡された直後から不思議な暖かさを感じ取って以来、寝る時を除いて片時も離さず大切にしてきたそれを手に取るためにトモキは自分の腰の辺りに手を伸ばした。だが、それは今そこには無かった。

「え、嘘……」

 それに気づいたトモキはひどく狼狽えた。剣はまさしくトモキの支えだった。魔技高で送る辛い毎日の中で、その剣を独り振るっている時は心が落ち着いた。触れているだけで荒れ狂う心中を穏やかにさせることができた。その大切な剣が、無い。
 そういえば、と思い出す。確か、孔に取り込まれていた時に剣を自分は手にしていた。孔の中で意識を失った時に手放してしまったのかもしれない。だとすれば。

「何処、何処にいったんだ……」

 近くに落ちているはず。否、近くに転がっていて欲しい。一層込み上げてくる心細さに、トモキは願った。
 果たして、それは希望通りトモキの直ぐ側に突き刺さっていた。大事な剣を探して近くを歩き回り始めた直後にガサガサと葉擦れの音をトモキの耳が捉え、振り向けば暗い森の中で一際輝いて見える一振が土に真っ直ぐ突き刺さっていた。恐らくは木の上の方に引っかかっていて、それが風か何かに因って揺らされて落ちてきたのだろう。兎も角、トモキは自身の幸運に感謝した。

「良かった……!」

 刺さった剣を引き抜くと、安堵の溜息を吐きながらそっと刃を撫でて汚れを払う。外に置かれていたせいで僅かに埃が付いてはいるが、刃の欠けや歪み等は見られない。それどころか、誰かが磨いてくれたかの如くこれまでよりも輝いている気がした。

「そんな訳は無いか」

 自分の為に誰かが何かをしてくれる。そんな事は有り得ないとトモキは断じた。こんな馬鹿げた考えが浮かぶのもきっと周りに誰も居ないせいだ、と切り捨て、腰に携えた鞘にしまおうと剣を持ち直した。
 それと同時に、足音がした。

「神代君っ!?」

 微音ではあったが何かを踏みしめる音に、トモキは喜色を多分に声に含ませて音の方へ振り返った。剣が見つかったことでトモキは少しだけ余裕を取り戻し、だがゆとりが出来たが故に一層独りである事を強く感じるようになり、孤独が辛くなっていた。只管に、不安だった。
 だから「ユウヤが居る」というその兆しを感じただけで、今のトモキの中からはユウヤと顔を合わせる気まずさは消え去っていた。自らに対する嫌悪感は残っていたが、それ以上に誰かと会話がしたいという欲求が強まっていて、それどころか孔に取り込まれる前には頑なだった気持ちも、今ならば素直に謝罪の言葉を口に出来る、そんな気がしていた。

「神代君、何処に居る!? 聞こえてたら返事をして!」

 普段なら恥ずかしくて出せない様な大声でトモキはユウヤの名前を呼び続けた。だが声は木立を吹き抜ける風と共に何処かへと消え去って、反響すら無い。だというのにトモキの耳には自分のものとは別の足音を確かに捉えていた。
 どうして声を返してくれないのか、と些か不満にも思ったがすぐに声が出せない状況なのかもしれない、と思い直す。自分は地面に倒れていただけだったが、もしかしたら何処か木の上や岩の上に落ちてしまって喉を痛めたりしているのかもしれない。あるいは体調を崩して声を張れないのかもしれない。幾つか理由が浮かび、対して自分は特に怪我や病気の兆候は無い。だから自分がユウヤを見つけてあげなければ、と柄にも無く使命感にも似た、だが異なる何かを抱いた。
 だからトモキは気づけなかった。普段は臆病な性格故に慎重に物事に当たるが、焦燥と「あのユウヤを助ける事が出来るかもしれない」という優越と幾分歪んだ愉悦が入り混じった状態では足音の質まで見抜けなかった。
 明らかに人では無い足音に。ここが、これまで過ごしてきた場所とは異なるという事実を失念して。

「あ……」

 果たして、警戒もせずに木陰から無防備に身を乗り出したトモキは言葉を失した。
 そこに居たのは巨大な生き物だった。全身を暗い茶色の体毛に覆われ、肉厚の体を不機嫌そうに揺らしていた。

「何だ、これ……?」

 遠目に見ればそれは猪獅子だ。一目で理解る、誰もが知る動物の姿に酷似していた。トモキも当然知っており、しかしそれに中々気づけなかったのはトモキの知る動物とは明らかに体躯のサイズが異なっていたからだ。
 足の一本一本がトモキの体程に太く、目の前で聳える全体は山を想像させた。太腿と変わらない高さにある顔はトモキの頭よりも尚高く、猪獅子との決定的な違いは潰れた鼻の上に伸びる角だ。黒い体色と対比して白く輝く角は巨大で凶悪なものであり、先端は鋭く尖っていてその用途は簡単に察することができる。
 山が動いた。トモキの呟きが届いたか、猪獅子はゆっくりとした動作でトモキの方に体ごと向き直ると、体格に対して小振りな眼をスッと細めて鼻息を荒くした。
 纏う雰囲気にトモキは攻撃の気配を感じた。自らの理解外の存在に唖然として剣を下ろしてしまっており、震える手で慌てて剣を構えようとする。
 だがそれよりも早く猪獅子が動いた。
 森全体に響く程の雄叫びを上げ、間近で聞いたその迫力にトモキは身を竦ませた。そんなトモキに向かって猪獅子は突進。体躯に似合わぬ鋭い速度を以て、真っ直ぐに突き進む。
 対するトモキは恐怖に身を強ばらせた。巨大な山の様な生物が自ら目掛けて猛烈な速度で襲い掛かってくる。見る見る間に視界から木々の姿が消え、猪獅子だけがトモキの眼の前にあった。すぐそこにある危機に、トモキは理解が追いついていなかった。だから反応が遅れた。
 同時に、ある感情がトモキの体を無意識に動かした。それは渇望だった。死を目の前にして生への願望がトモキを生へと突き動かし、横っ飛びに体を投げ出した。
 直後に真横を砲弾の様なものが通り抜けていく。直撃は免れた。だが完全には避けきれず、トモキの脇を掠めながら猪獅子は背後の木々を押し倒していく。それだけなのにトモキの体は呆気無く弾き飛ばされた。

「がっ、は……!!」

 大型のトラックに跳ねられたかの様な衝撃だった。猪獅子の射線上に微かに残った左の手足が魔物の体側に触れただけなのに、トモキの体は激しく回転しながら遠く飛ばされた。視界が大きく空と土の間を行き来し、全身がバラバラになるかの様な感覚が支配し、最後に極太の大木に叩きつけられてようやく止まった。折角手にした剣は衝撃で手放し、舞い上がった後でトモキの直ぐ側に突き刺さった。

「ひっ、は、はぁっ……!」

 感じたことの無い痛みが全身を苛む。教室で魔術師である秋山ショウ達に暴行を受けてもさして肉体的な苦痛を感じなかったが、今は全身がバラバラに切り刻まれたかの様にも感じられた。
 対峙する猪獅子は空腹故に目の前の獲物に執着していた。人間など矮小で恐るるに足らない存在であった。飢えを満たす為の餌であり、怯えているのを敏感に感じ取った猪獅子は確かにトモキを屠ったと確信していた。しかしそうはならなかった。触れた感触はあれども、辺りを見渡せば傷は負ったものの獲物はまだ立っていた。思い通りにならない事態に、空腹と相まって更に怒りを漲らせていた。そしてその怒りは確かにトモキに伝わっていた。

「う、うわああぁぁぁっ!」

 トモキは声を張り上げ――猪獅子に背を向けて逃げ出した。墓標の様に突き刺さった剣を走りながら抜き取り、木々の間を塗って全力を猪獅子から距離を取ることに費やした。
 恐ろしかった。全身の痛みに、トモキは初めて死を明確に意識した。特異点に取り込まれる時とは違う、取り込まれる前の魔物との戦いとも違う、痛みを伴った躙り寄る恐ろしい気配に戦慄し、逃げるという行為以外の選択肢をトモキから奪い去った。
 最初こそトモキは猪獅子から距離を取ることに成功した。だが、獲物が逃げた事に気づいた魔物はすぐさま怒りの咆哮を上げながらトモキの後を猛烈な勢いで追いかけ始めた。トモキもそれに気づき、より一層走る速度を上げた。
 間もなく、雨が降り始めた。
 魔技高の中でもトモキの脚は速い。類まれな身体能力のみで魔技高への入学が決められたのだからそれは当然とも言える。だから単純に速力だけであればトモキは逃げ切れるはずであった。しかしながらトモキと猪獅子の距離は縮まるばかりであった。  状況がトモキの逃走を許さなかった。恐怖故にただ脚を動かすだけのトモキの走るフォームはとても無様だ。加えて降り始めた雨は瞬く間に雨脚を強め、水を吸った土は泥濘んで走りづらい。森の中故に方々に木の根が張り出し、足運びを謝れば転倒しかねず、後方から押し寄せる圧力もあってトモキの体力と精神力は見る間に削られていった。
 対する猪獅子の進む道は明確だ。真っ直ぐにトモキ目掛けて走るのみ。森の中に住む獣であるから土道を走るのは慣れており、泥濘も気にしない。少しでも距離を取ろうとトモキは猪獅子が通れない程の木々の隙間を選んで走るが、猪獅子は眼前に立ち塞がるはずの大木を、まるで存在しないかの様に薙ぎ倒しながらトモキを捕食しようと駆ける。今もまたトモキのすぐ後ろで木が倒れて地響きを立てた。

「くぁっ、はあ、はあ、はあ……!」

 肺が悲鳴を上げる。上手く呼吸が出来ずに息は荒く、脚は時間と共に加速度的に重くなっていく。泥塗れの上履きが水を吸って気持ちが悪い。
 それを意識したのと同時にトモキは泥濘に脚を取られた。バランスを崩してたたらを踏み、だが踏み留まれずに勢い良く泥水の中を転がっていき、一際大きい巨木に体を打ちつけた。濁った飛沫がトモキを汚し、そのすぐ脇で猪獅子に弾き倒された広葉樹が雨水を高く舞い上げた。
 トモキは上半身を起こしながら顔に掛かった泥を拭い、巨木を背に手にした剣をデタラメに振り回した。普段授業で習った型など今のトモキの頭の中には出てこず、只管に横に薙ぐだけだ。それでも当たれば相手を怯ませる程度は出来たのかもしれないが、猪獅子は雨に濡れた角をトモキに見せびらかすようにゆっくりと歩み寄ってきていて、到底剣の届く距離ではない。

「来るなっ! こっちに来るなよっ!!」

 腰を抜かしたままトモキは後退る。だがすぐ後ろの木に阻まれ、トモキの手は何度も同じ泥を掬うばかりだ。右手に剣を持ったまま、振り回すのも忘れて大きくなっていく猪獅子の姿を見上げる。

「――、――っ!!」

 咆哮。大気が震え、音と共に激しく風雨がトモキの顔目掛けて叩きつけてくる。絶望が恐怖と共に押し掛かってくる。自身とは違う圧倒的な存在感がトモキから抵抗する気を奪っていった。
 木霊する雄叫びが雨に掻き消される前に、猪獅子は動いた。泥濘をものともせずに一気に加速。雨に濡れた角を全面に押し出し、雨と涙と鼻水で濡れた顔面を砕かんとトモキ目掛けて巨体を叩きつけに掛かった。
 トモキは絶叫した。終わりを、自らの世界の終わりを悟った。自分は全て、目の前の魔物に押し潰されて誰にも看取られずに死ぬのだ。
 悲しかった。何も出来ないまま死んでしまうのが、独りで人生を終えてしまうのがただ、トモキは悲しかった。

「い、やだ……」

 虐められる日々の中で死を想像したこともある。両親を心配させたくないという気持ちと、ままならない現実。その狭間で双方から押し潰されそうになって夜中にカッターナイフを片手に立ち尽くした事もある。だが、それも傍に誰かが居てくれたからこそ選び得た、しかし選ばなかった選択肢だ。訳も分からずに知らない場所に飛ばされて、魔物の餌になる死など、何の意味も無い死だ。望むべくも無い死で、しかし抗いようの無い結末でもあった。そして、抗うべき死に様だった。

「嫌だぁっ!」

 だからトモキは叫んだ。一心の願いが篭った叫びだ。生まれて初めて、本気で生きる事を願った。
 猪獅子の角がトモキを貫く直前、泥濘の中に突いていたトモキの左腕が滑った。泥濘の下が小さく陥没し、バランスを崩したトモキの体が大きく横へと流れた。

「うわっ!」

 為す術なく泥水の中にトモキは倒れこんだ。同時に雷鳴が近くで響く。次いで衝突音がけたたましく鳴り、眼を閉じた瞳をそっと開けると、そこには鼻先を掠める様にして猪獅子の顔がある。
 そして天を突き刺す形になった右手には妙な感触があった。硬い剣の柄を握っているはずなのにどこか柔らかさを感じた。加えて、冷たい雨とは対照的な熱があった。猪の眼からはすでに光が失われていた。
 猪獅子で雨が遮られたトモキの顔の上にポタリと雫が落ちた。一滴、二滴、そして三滴。猪獅子の頭蓋を貫いた剣の刃を、鍔を、柄を、そしてトモキの右腕を伝っていくにつれて温もりが冷雨に奪われてただの紅い液体へと変貌していく。血から命という意味が取り払われていった。
 トモキの右腕から力が抜け落ちた。それに伴って剣が猪獅子から引き抜かれ、傷口から血が溢れ出した。トモキはそれを頭から被り、髪が、呆然とした顔が、制服が全て真赤に染まっていく。雨では洗い流せないものがトモキの体へと固着こびりついていく。
 支えを失った猪獅子の体が倒れた。巨体が地響きと共に泥へ沈む。トモキは四つん這いになってその顔を覗き込んだ。もう、動かない。トモキが殺したのだ。命を一つ奪ったのだ。自身から漂う強烈な薫りがそれを思い知らせた。

「――――っ!!」

 トモキは声にならない悲鳴を上げた。込み上げる嘔吐感を堪え切れず、その場に胃の中身をぶち撒けた。空っぽの胃からは黄味がかった胃液以外何も吐き出せず、にもかかわらず胃はトモキの意思に反して捻り上げられ、何度も何度も嘔吐した。そして噎せ返る血の臭いを取り除くため、大事な剣を投げ出し、泥水の中に頭を突っ込んでいった。
 血を洗い流そうと、汚泥に塗れるのも気にせず顔を洗っていく。泥水が赤く染まり、色を激しい雨が薄めていく。髪を掻き毟る様に擦り上げ、染めた髪色が落ちていく。髪も顔も汚れ、頬に付いた砂利が雨に洗い流された。しかし手に固着いた血の色は落ちてはいかない。

「落ちろ、落ちろよ……何で落ちないんだよ……!」

 手を水溜りに付けて激しく擦る。擦っては手を掲げて、しかし真赤に染まったままの手を見て再び乱暴に泥水に両腕を叩きつけ擦り上げる。頭から被った血は流れ落ちたと言うのに、目の前の水溜りはいつまで経っても赤く染まらなかった。いつまでも手に纏わり付いていた。それが幻覚であると、トモキは気づけなかった。

「ムダだよ。どれだけ洗ったって落ちるもんか」

 すぐ後ろで声がした。突然の呼び掛けにトモキは一瞬洗う手を止め、怯えながらも急いで振り返った。だが、そこには誰も居ない。

「どうだい? 自分の手で生き物の命を奪った感触は?」
「誰だっ!? 何処に居るんだっ!?」

 今度は耳元で囁く。少年の様にやや高い声。向けられる悪意と侮蔑に耐え切れずトモキは怒鳴りながら声の方に振り向いたが、やはり誰も居なかった。

「切り裂いた、生きた肉の手触りは気持ち良かっただろう?」
「っっ!!??」

 何処に。体を震わせながらトモキは正面に向き直ると、すぐ目の前に少年の顔があった。息が吹きかかる程に近い距離。目玉が零れ落ちそうな程にその眼は見開かれ、トモキの眼を覗きこむ。その視線から逃がれようとトモキは咄嗟に大きく後ろへと飛び退いた。

「それが君の本性だよ」

 だが少年は逃さない。尻餅を突いたままのトモキの頭上から声が降り落ちる。トモキが見上げた先にはまた、トモキを覗き込み、裂ける様に口元を歪めた少年が居た。そして軽く飛び跳ねて楽し気な笑い声を上げてトモキから離れる。
 そこでトモキは少年の全身を初めて眼にした。全身に白い貫頭衣の様な物を纏い、宵闇が近く暗さが目立つ森の中に居ても尚その存在が際立つ。なのに、その顔が如何なるものかが、顔を殊更に隠している訳でも無いのに良く理解らない。

「人と違う肉体を持ち、それが故に人の脆さを儚み、しかしながら傷つける事に快感を覚える。君は欠陥品だ。だから君は親に捨てられたんだよ」
「違うっ!」トモキは悲痛に叫び、少年の言葉を否定する。「僕は、僕は誰も傷つけたくないんだ! もう、誰も……
 それに……僕は捨てられてなんか無いっ! 本当の父さんも母さんも事故で死んだんだっ! 父さんだって、母さんだってそう言ってた!」
「それが本当の事だって、本気で信じてるのか? つくづく君は御目出度い奴だね」

 トモキの目の前で少年の姿は消え、今度は頭上の樹の枝に座り、脚をブラブラと前後に動かしながら肩を竦めて嘲った。

「いや、本気で信じてるはずは無いか。流石にそこまで愚かでは無いと信じたいね」
「君は……君は何を知っているんだ!?」
「さあ? 僕は君が知ってる以上の事は何も知らないよ。ただ単に久遠トモキが知ってるのに見ないふりをしてる事を指摘してあげてるだけさ。感謝して欲しいよね」

 楽しそうにクスクスと笑う。それは齢十に達するかどうかという見た目にそぐわない笑い方だ。癇に障る嗤い声だ。体の芯にまで響く声だ。そして、内にある不安を殊更に掻き立てる不浄の声だ。堪らずトモキは両耳を塞ぎ、しかし少年の笑い声はその手を突き破ってトモキに届く。

「そうやってすぐに耳を塞ぐ。耳を塞いだって、眼を閉じたって何にも良いことなんて無いのにね」
「うるさい……」
「まあいいさ。それで君の本質が変わることなんてないんだから。せいぜい辛い現実から体を丸めて逃げてればいいよ」
「うるさい……!」
「でも覚えておくがいいさ。どうせ君はどこまで行っても独りになる運命なんだ。誰も君の味方になんかなっちゃくれない」
「うるさぁいっっ!!」

 足元に転がっていた剣を拾い上げ、トモキは怒鳴り声を上げながら少年目掛けて投げつけた。
 空気を斬り裂き、雨を切断して翔んだそれは少年の顔へと突き刺さり、それと同時に少年の姿も掻き消える。後には、巨大な猪獅子と樹に突き刺さった剣、そして力無く項垂れるトモキの姿だけが残った。

「畜生……っ!」

 トモキは地面に力無く拳を叩きつけた。パシャリと飛沫が跳ねてトモキを汚し、雨が洗い流していく。ずぶ濡れのままトモキは虚ろな瞳で雨雲を見つめた。そして手を翳した。血は何処にも付いていなかった。遠くなる意識の中、そのまま手を自分の口元へ持っていく。

「臭いは、取れないや……」













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