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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved







 トモキは一人山道を歩いていた。
 日は暮れ、辺りは暗闇に包まれていた。黒い木々がトモキを取り囲んで高みから見下ろし、昏い影を落としている。加えて濃い霧が立ち込め、暗いはずなのに何処か白く靄が掛かっているかのようだ。
 トモキは一人歩いていた。すでに時間の感覚は無い。何時間もこの一本道を歩いているような気もするし、まだ数分しか進んでいないような気もする。付近には誰も居ない。遠く響く野犬の遠吠えも聞こえてこない。死んだ世界だ。ただトモキを覆い隠す木々と鬱蒼とした藪がトモキの全てだ。
 一体、自分は後どれだけこの道を歩いて行けばいいのだろうか。一体、いつまで一人でいればいいのだろうか。
 トモキがそう考えた時、ふと元の世界の事が頭を過った。
 魔物に襲われた学校はどうなっただろうか。犠牲者も何人か出ていたが、他に怪我人とかは居なかったのだろうか。元の世界から消え去った僕の事はどうなっているのだろうか。皆、心配してくれているのだろうか。それとも、もうすでに死んだものとして扱われているのだろうか。そういえば、ユウヤは無事にこっちの世界で生きているのだろうか。父さんと母さんは、果たして元気にやっているのだろうか。
 帰りたい。重く苦しい感情がトモキの胸の内を責め立てる。いつになったら自分は父と母の下に戻れるのか。そもそも、僕は帰れるのか。

「帰りたいかい?」

 突如として聞こえる声。ハッとして意識を目の前に戻せば、不還の森でトモキを嘲ったあの少年が居た。
 直ぐ様トモキは剣を鞘から引き抜いた。険しく顔を歪めて少年に鋭い切っ先を向ける。しかし少年は尻込みする様子もなく、苛立たせる程に落ち着いて肩を竦めてみせた。

「ああ怖い怖い。ほら、見なよ? 僕は武器も何も持ってないんだぜ? 丸腰の人間にそんな物騒な物を向けるなんて、なんて怖い。一体いつから君はそんな乱暴な人間になったのかな? ああ、そういえばそうだった。君という人間は生まれついた瞬間から暴力と破壊に満ち満ちた愚かな存在だったね。いや、これは失敬失敬」
「……何の用だよ。斬り殺されたくなかったらさっさと消えてしまえ」
「そう邪険にするなよ? 一人じゃ寂しいだろうと思って出てきてやったんじゃないか。喋ることもしないで一人ぼっちで居るといつの間にか話し方まで忘れちゃうんだぞ? あ、そっか。元々君は一人ぼっちだしね。骨の髄まで一人なんだから今更な話か」

 いちいち神経を逆撫でる話し方をする少年にトモキは怒りを覚え、威嚇の意味を込めて剣を鋭く一振りした。

「戯言は聞きたくない。失せろ」
「やれやれ。もう少し心に余裕を持ったらどうだい? ……ああ、分かった分かった。分かったからそんな怖い顔して睨まないでくれよ。怖くておしっこちびっちゃいそうだ。
 何の用かって聞いたね? さっき行った通りさ。たまには君の役に立ってあげようと思ってね」
「……まさか帰れるのか!?」
「はは、やっとらしい反応をしてくれたね。でもざーんねん。僕には君を元の世界に還してあげるような不思議で都合の良い力なんてありません。あ、でも別におちょくってるわけじゃないからね? 還してあげる事はできないけど、君が今知りたい事――つまり、元の世界がどんな感じかってのを教えてあげようと思って」

 少年のその言葉に眼を見開くトモキ。苦笑いを浮かべる少年に向かって急かそうとするが、礑と動きを止めた。本当に、彼の言葉に従っていいのか、元の世界の事を知ってもいいのか、と。
 果たしてトモキを躊躇わせたのは、明確に自覚こそ無いが多大なる不安であった。元の世界を知ることで望郷の念が強くなる。それも一つの懸念ではあるが、それとは異なる、漠然とした不安があった。そしてそれは、トモキに知る事を辞めるよう促す強い衝動の源でもあった。
 そんなトモキの戸惑いを知ってか知らずか、少年は薄っぺらい笑顔を貼り付けて目の前に左手を掲げた。
 すると、二人の間にあった水溜りが目映く光を発し始めた。プリズムで分光された様に虹色に光をばら撒き、彩り鮮やかに毒々しくトモキの顔を染め上げた。
 小さな水面をトモキは不安と歓喜の入り混じった心持ちで覗き込む。そしてその眼に飛び込んできたのは、つい数日前まで通っていた学び舎の姿だ。
 校門から正面の教室棟を見上げた光景かと思えば、高速で視点が移動して今度は屋上から俯瞰する形になる。そこからの景色に、校内に人の気配は無く、また校庭にも誰一人居ない。しかし、校門の外には夥しい数の黒い点があった。皆、手にはマイクやカメラを持っていて、マイクを持った女性はカメラに向かって切羽詰まった様に声を張り上げていた。その中の一角に視点がまた一気に移動していった。

「私は今、先日、突如特異点が校内で発生した国立魔素技術専門第一高等学校の校門前に来ています! ご覧の通り校門は固く閉ざされていまして、普段はこの時間は生徒が多く登校している時間帯なんですが、今日も休校ということで今は全く生徒達の姿はありません! また、ここからでも分かります様に校舎の一階の窓ガラスは殆どが割れていて、事件の凄まじさを物語っています!」

 カメラの向こう側に居るテレビ番組の出演者に向かって、強く感情を込めるようにして語り掛ける女性レポーター。意図的に表情に悲痛さを湛え、事件が大事である事を具に説明していく。と、女性の意識がカメラから明後日の方へと向いた。

「あ! 今、教師の方でしょうか! 一人の男性が此方に向かって歩いてきています!」
 その声と同時に、付近の同業者の人間達が一斉に移動を開始する。押し合い圧し合い、その中年の男の肉声を拾おうと我先にと詰め掛ける。「押すな、押すな!」と怒号も混じっており、何人かは転倒している。その様子に、トモキは醜い、と思った。

「事件から二日が経ちましたが、夜中しか発生しないはずの特異点が校内の、それも早朝に発生した原因について、何か判明しましたか!?」
「えー、その点はまだ原因を調査中です」

 教師の男はマイクを向けられて邪魔臭そうに顰めっ面を浮かべた。

「数人の生徒達が犠牲になったとの事ですが、他の生徒達の様子は如何でしょうか!? ひどく動揺しているのでは無いかと思いますが!?」
「教師で分担して、特に現場に居合わせた生徒の各家庭を回っているところですが、皆、落ち着いた様子でした」

 嘘だ。トモキは即座にそう思った。この学校の、特に魔術師でもある教師がそんな事をするはずがない。彼らは、そんな事を気にするような人種では無く、それと同時に周囲からの評価を特に気にする気質であると一年以上通ってトモキは知っていた。彼らは嘲られ、侮られ、批判されるのをひどく嫌う。この顔だけは見覚えのある教師の今の言葉も、世間からの非難を避けるための逃げ口上に過ぎないと感じた。
 そしてそんな気質を報道側も分かっているのだろう。加えて、傲慢な魔術師と世間一般の折り合いはひどく悪い。レポーター達は表面上は沈痛な面持ちをして、何処か面白がる様に質問を重ねていく。教師も、詰め掛ける報道陣の間を遅々とした歩みながら表面上だけ取り繕って、その実、面倒そうに顔を顰めながら校門へと進んでいく。

「また、生徒が尚も数人行方不明になっています! その内の一人の生徒の魔術が原因で今回の特異点が発生したとの声もありますが!?」
「……馬鹿馬鹿しい。特異点の発生要因も明確になっていないのに、一生徒の魔術が原因とは到底考えられませんな。これからまた対策会議があるので失礼します」

 校門を潜り、報道陣から解放されると教師は首元のネクタイを緩め、カメラからは映らない様に苦々しく表情を歪めた。

「本当に低俗な奴らだ。もっと有意義な事に時間を使えばいいものを」

 小声で吐き捨てて、職員室の方へと歩みを進めていく。視点も彼を追うように背後から付いて行く。
 教室棟とは別の、教職員室や校長室などが集められた教員棟の玄関を潜って靴裏の泥を落とす。下駄箱に乱暴に靴を放り込んで憂さ晴らしをし、鼻息を荒くして職員室へと向かっていく。

「おはようございます、黒岡先生」

 黒岡、という名前にトモキは聞き覚えはあった。顔は知らなかったが、確か実技の教師で、生徒からの受けは良くは無かったのを噂程度には聞いていた。三年生の学年主任をしていて、ベテラン故に他の教諭達に対しても発言力が強いと誰かが言っていた。
 対する声を掛けてきた、まだ年若い男性教師をトモキはよく知っていた。トモキのクラスの担任だ。腰が低く、一見真面目だが何処か胡散臭い詐欺師の様だ、と口さがない女子生徒が口にしていたのを覚えている。

「ああ、咲坂先生。おはようございます」
「外は大変だったでしょう?」
「まったく、朝っぱらからご苦労な事だ。もっと他に報道する事はあるだろうに毎日毎日校門前に張り付いて」
「彼らは面白ければ何でも良いんですよ。僕らが彼らを嫌ってるように彼らも僕らをいけ好かない連中だと思ってるでしょうから、粗探しが楽しくてしょうがないんです」
「低能だからな。事実などどうでも良いと思ってるらしい。先程も生徒の魔術が特異点を作り出したのでは無いか、などと言ってくる。妄想もあそこまで来るとジョークだな」

 黒岡は憤慨しながら言い捨てる。校長の指示で昨日からするようになったネクタイを乱暴に取り去り、適当に丸めるとジャケットのポケットに押し込んだ。

「ですが……強ち冗談でも無いかもしれませんよ?」

 咲坂教諭は警戒するように周囲に人影が無い事を確認すると、擦り寄るようにして黒岡主任に耳打ちする。

「行方不明となった生徒の名前についてご存じですか?」
「いや……三人が不明と聞いていて、神代ユウヤだけは知っているが他の二人について校長からは聞いていない」
「実は、三人とも私のクラスの生徒でして……その内の一人が久遠、という生徒なんです」
「久遠……ああ、あの『問題児』か」

 瞬間、トモキの表情が固まった。
 同情を含んだ視線を黒岡は咲坂に送り、咲坂もまた黒岡の言葉を否定するでも無く満更でも無い様子で頬を掻いた。

「その久遠トモキがやってきた方から魔物が現れたという話がありましてね」
「つまり、君は久遠という生徒が特異点を発生させたのでは無いかと、そう思ってるわけか。あのマスコミの女と同じ様に」
「まさか! いくら何でもそこまでは思いません。何せ彼は魔術を一切使えない生徒でしたから。だけれど、そんな魔術の素養が無いのに入学が許可されたなんて可笑しな話だと思いませんか?」
「むう……確か入学前の職員会議でも話題になっていたな。確かあの時は校長が有無を言わさず入学をゴリ押ししたはずだが。当時は校長の隠し子だからだとか色々と噂となったな」
「結局、あの時は更にからゴリ押しされたんだとか言ってましたね。話が逸れましたね。僕が言いたいのはつまり、彼は魔術以外・・の何か特別な事が出来たんじゃないかって事です」
「特別な事とは?」
「そこまでは。ですが例えば、特異点の発生に繋がりかねない事が出来たんじゃないかって思いません? それを知ったお偉いさん達が監視する目的でウチに放り込んできたとか」
「君も陰謀論が好きだな」
「これは失礼しました。何にせよ、まともにコミュニケーションも取れないし、やる気も無いし、座学は落第ギリギリで実技は完全に落第の成績でした。正直私も持て余していたんです」
「私の方も臨時で何度か実技の抗議を受け持った事があったが、確かに周りの脚を引っ張っていたな。君も問題児が消えてくれて清々していると言うわけか」
「ははは、大きな声で言えませんが、そんな所です」
「神代も黙って我々の言う事を聞いておけば可愛がってやれたというのに、何かとあればすぐに口答えする面倒な奴だったな。全く、これで少しは楽になるというところか」
「ははは、黒岡先生もそう思ってましたか。おっと、今の話は内し――」

 バシャリ、と水溜りに拳が叩きつけられるた。穏やかだった水面が弾け、それと同時に映像が途絶えて元の暗い森の中に戻る。トモキは水溜りを殴りつけたまま、項垂れ動くことが出来なかった。

「これが君が帰りたい、といった世界の現実さ」少年は楽しそうにトモキに向かって追い打ちを掛ける。「皆、君が居なくなったお陰で厄介払いが出来たって喜んでるよ。そんな中に無事に何食わぬ顔で戻っていった時には皆どんな表情になるだろうね? 驚きかな? 失望かな? きっときっとそれは面白い顔を向けてくるだろうね」

 映像の中と同様、投げ掛けられるのは悪意だ。労りや慰めは無く、ただ踏み躙る事のみを主眼においた昏さ。それを受け、トモキの眼には何も映らない。単に、惨めな己の姿が水面に浮かび上がっていて、その様にまた唾棄すべき感情が沸き上がってくる。トモキはゆっくりと水溜りに突いた両腕の幅を狭めていく。水面に映る自らの肩の位置から鎖骨へ、そして首へと。両腕の間に隙間なく自分の細い首が入り込んでいく。

「ああ、それともう一つ言っておかないといけないことがあってね」そんなトモキの様子に気づかず少年は嬉々とした語り口調で高らかに嘯く。「君の両親はね、何事も無かったかの様にいつもと変わらない生活をしてるよ」

 トモキの動きが止まる。

「良かったじゃないか。君の不安は解消されたんだ。誰一人として・・・・・・君の心配なんてしていない。誰からも、ついに親からも見放された――」

 少年はそれ以上言葉を紡ぐ事が出来なかった。少年の首にめり込むトモキの両掌。ミシミシという軋む音が森に響く。
 トモキは顔を伏せたまま少年の首を吊り上げていく。柳眉を逆立て、釣り上がった眼と見開かれた瞳が首を凝視する。恐ろしい形相で少年の首を締め上げていく。
 それは完全なる憎悪だ。表情全てが筋張り、締め付ける両手にはまざまざと血管が浮かび上がる。少年が苦しそうに唾液を口端から零してもトモキの腕は更に力が込められていく。
 ひゅう、と息が漏れる。それはトモキのものか、それとも少年のものか。少年の手足は力無く地面に伸び、虚ろな瞳は暗い夜空を見上げた。その少年の首がギチギチと音を立てて動き出す。機械的に不気味な動きをして、視線が空からゆっくりとトモキへと移動していく。
 そうして少年は嗤った。

「うわああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!」

 絶叫し、トモキは少年の顔に拳を突き立てた――



 ドスン、と朝の森に鈍い音が轟く。人一人では抱え込めない程の太さを持つ巨木が体を震わせ、そしてメキメキと音を立てて体を傾けていく。夜の闇の間を梢にて羽休めしていた小鳥たちは、囀りを響かせる間もなく一目散に逃げ出していった。
 地震の様な地鳴りがして巨木は倒れた。近くにあった細い若木を巻き込みながら、さながらドミノ倒しの様に次々に倒れて、新たに出来た隙間からは朝日が差し込んだ。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 トモキは焦点の合わない瞳で目の前を呆然と見た。腕は正面に真っ直ぐに伸び、その先には、切り株というには断面が歪な株が残っている。
 木を殴りつけた体勢のままで数十秒。荒かった呼吸も落ち着き、トモキはようやく自身が何をしたかを悟った。それと同時に、トモキは自分を見つめる姿に気づいた。

「あ……」

 それは昨日トモキが助けだした少年だ。朝日に晒されて初めてはっきりと彼の姿を眼にする。上半身にはグレーのパーカーの様な服を着て、下半身には裾の擦り切れた濃紺の長ズボンを履いている。朝日のせいかとても色白に見える。垂れ目だが幼くも整った容姿だ。その少年は、何かに驚いたかの様に腰を抜かし、頭上の耳は逆立っていた。
 見下ろす形になったトモキと少年の眼が合う。呆然として心ここにあらず、といった様子ではあるが、同時にひどく怯えているのをトモキは感じ取った。そしてその原因にすぐに思い当たる。倒れた巨木と自分の姿勢を見れば、自分が何をやってしまったかは明白だ。

「ご、ゴメン! 寝ぼけてて……脅かしてゴメンよ」

 謝罪しながら頭を下げるも少年からの反応は無い。ただ怯えがあるだけだ。寝ていた得体の知れない男が突然起き上がったかと思うと、そのまま大木を殴り倒したのだ。トモキを知る者ならばともかく、昨日会ったばかりの名前もまだ知らない少年だ。加えて、昨日まで人族に誘拐されて馬車に押し込まれていたのだ。トモキは頭を抱え、数分前の自分を巨木みたいに殴り倒したい衝動に駆られた。

「……ゴメン。たぶん昨夜のせいで気が昂ってたんだと思う。もうさっきみたいな事はしないからさ」

 尻餅を突いたままの少年に向かってトモキは手を差し出すが、瞬間、少年はビクッと体を震わせて身を縮こまらせた。そして、トモキが何もしてこないと分かると、トモキの手を無視して起き上がって座り直し、トモキの一挙手一投足を具に観察するようにジッと見つめてきた。その様を見てトモキは深く溜息を吐いた。

「これは……先が思いやられるなぁ……」

 自業自得。そんな言葉がトモキの頭を過る。
 トモキとしては、少年とは言え独りで居るよりは幾分心情的には楽だが、こうして深く警戒されると心に来るものがある。
 もう一度、溜息。頭を掻き毟ると、トモキは気を取り直し、体勢を変えて少年と同じ目線になって、出来るだけ優しく話し掛けた。

「とりあえず……お家へ変えろっか?」

 ニコラウス達から逃げ出したとは言え、こうして山の中にいつまでも居るわけにもいかない。助けだしたから後は自分で、と投げ出せるはずもなく、トモキは昨夜山の中を歩きながら少年を家まで送ろうと決めていた。

(アルフォンスさんも、きっとそう言ってくれると思う)

 昨夜のアルフォンスの様子を思い出し、トモキは胸が締め付けられる想いだが、ギュッと硬く眼を閉じてその感情を追い出した。ただ、無事だけを祈って。

「どうする? その、僕の事は知らない人だし、怖いかもしれないけれど、君をお家まで送らせてくれないかな? 勿論君に何もしないし、ただ付き添う……だけになるとは思うんだけどね」

 トモキの問い掛けに少年は迷っているようであった。無言のままトモキの顔を見つめたかと思うと、そっと顔を伏せて物憂げに唇を噛み締めていた。少年の年齢は明確ではないが、トモキの見たところ十にも満たないだろう。獣人は精神の発達が早い、というのは元の世界でも定説ではあったが、それにしても幼い少年が浮かべていい表情ではなかった。視線を顔からずらせば、膝の上で握り込まれた少年の拳は小さく震えていた。だから、トモキも急かしもせずに、少年の決断を待つことにした。
 しばらくは時間が掛かるかな、と気長に待つつもりではあったが、少年は不意に立ち上がると独りでトモキに背を向けて藪の中へと歩き始めた。それを見てトモキは肩を落とした。
 ――やっぱり、駄目か。
 トモキはニコラウスとは違う人間だ。同一視されるには並々ならぬ抵抗はあるし、彼の価値観は到底受け入れられるものでは無かった。しかし、少年達獣人側からしてみればトモキもまた人間なのだ。昨晩のやり取りから、人間と獣人の溝はとても深いものに感じられたが、それは年端もいかない少年であってもその感覚は身に染み付いているのだろう。
 溜息一つ。トモキも立ち上がり、少年とは別の方に歩き出そうと顔を上げた。その時、距離を置いて少年が立ち止まっているのが見えた。
 木の影に隠れる様にしてトモキの様子を伺い、だがトモキがその場で立ち尽くしている間にも離れていく気配はない。トモキが試しに一歩後退ると、少年の顔が僅かに陰った。

「もしかして、付いて行ってもいいの?」

 トモキが尋ねる。すると、少年は少し躊躇いながらも小さく頷いた。
 トモキの顔が綻んだ。
 喜び勇んで駆け寄ろうとするが、そうすると少年は怯えた素振りを見せて身を強ばらせた。だからトモキは、ゆっくりと近づいて適切な距離感を測っていく。襲ってこないということが分かったからか、少年はトモキに背を向けると藪の中を分け入っていく。トモキも距離を近づけ過ぎない様に注意を払いながら後ろを追った。

「そうだ。名前を良かったら教えてくれないかな? 僕はトモキ。久遠トモキ。君の名前は?」

 少年の背後五メートルくらいからトモキは声を張り上げた。少年の耳がピクリと震えた事から声は届いたはずだが、少年から返事は無い。

(さすがにいきなりそこまで警戒は解いてくれないか)

 仕方がない。これから少し時間もあるし、その間にゆっくり僕に慣れてくれればいい。そう思って僅かに肩を竦めるだけに留めたトモキだったが、微かな声を耳は捉えた。

「……カシオローネ」
「カシオローネ? それが君の名前?」

 問い返せば、カシオローネは頷き返した。それを受けてトモキは「カシオローネ、カシオローネ」と口の中で繰り返す。

「……呼びにくいから皆、シオって呼ぶ」
「僕も、そう呼んでいいの?」

 再び頷くシオ。トモキは破顔した。

「分かった。シオ! これからしばらく宜しく!」





 それから二人は山道を歩き続けた。高い木々が林立しているが不還の森ほどでは無く、背の高い草が生い茂っているが、晴天の空からは陽が差し込んでやや汗ばむ程度の陽気だ。
 歩き始めてすでに数時間が経っていた。最初は登道だったがいつしか尾根を越えて道は下り坂。歩くのも幾分楽になっているが、慣れないトモキにとって歩き難い事は変わりない。
 数時間、二人の間に会話が皆無だった。シオは名前を教えた後には一切口を開かず、黙々と歩き続ける。時折トモキが話しかけるが返事は無く、振り返りはしてくれるものの、反応はそれだけであった。

「ずっと迷い無く歩いてるけど、お家が何処にあるかは分かるの?」

 トモキが尋ねる。移動を開始してからというもの、シオの足取りは迷いが無い。今居る場所が何処かはトモキには見当も付かないが、シオは現在地をはっきりと理解し、また目指すべき場所が何処にあるかを明確に知っているように見える。そしてそれは正しいらしく、シオは即座に頷いてみせた。

「そうなんだ。凄いね。僕にはさっぱりだよ。シオくんが居なかったら山の中で飢え死んでたかもしれないな」

 犬には帰巣本能があるとは言われていたけれど、獣人にも似たようなものがあるのだろうか。トモキは素直に感嘆を口にして褒め、そしてクツクツと笑って戯けてみせるがシオから反応は無い。無言のまま歩き続けるだけで、トモキは独り肩を落として項垂れた。

「シオくんって兄弟居るの? 何人家族?」
「シオくんの住んでる場所ってどんな場所? やっぱり獣人ばっかりなの?」
「あ、あの木の実美味しそう。食べられるかな?」

 口下手なトモキだが、その後も歩きながら何か話題になりそうな事を見つけてはシオに向かって話し掛ける。何とかコミュニケーションを取りたい、距離を詰めたい、と願いながら言葉を投げかけるも、シオが言葉を発することは無く、無視されるか或いは頷いたり首を横に振ったりという仕草だけだ。その度に明確な壁を感じ取ってトモキは落胆し、俯いて下唇を噛みしめるばかり。

(すぐに心を開いてくれるとは思わないけれど……)

 溝が深ければ深いほど慣れ合うには時間が掛かる。そう頭では理解していても余裕の無い今は感情が思うように制御できない。それでも深く息を吐き出して頭を掻き毟り、ざわつく心を落ち着かせようとする。だが――

「あっ!」

 慣れない山道で足元を疎かにしたのがいけなかったか、トモキは濡れた草に足を滑らせた。咄嗟にもう片足でバランスを取ろうとするも、そちらも同じ様に靴裏が滑り、一瞬で視界がグルリと回転。尻餅を突いたかと思えばあっという間に下り坂を滑り落ちてシオを追い抜き、腕や背中を地面に打ちつけながら木にぶつかって止まった。

「……クソッ!!」

 ままならない現状と痛み。憤懣が募り、堪え切れなくなったトモキは顔を醜悪に歪ませ、悪態を吐きながら思い切り地面を殴りつけた。轟音が木立の隙間を駆け抜け、湿った土が周囲に撒き散らされる。感情の赴くままに剣を抜刀し、ぶつかった木を切り裂く。真一文字に斬り裂かれたそれが容易く横に滑り、破壊音を立てて周囲の木々をなぎ倒していった。

「あ……」

 荒く息を吐き出しながらトモキは自分を見つめる視線を感じ取り、そこでようやく我に返った。そして血の気の引いた様な、そんな気がした。
 シオが坂の上から無表情でトモキを見下ろしていた。眼の奥には先程よりも恐怖の色が濃い。だがそれ以外の感情があるようにトモキには思えた。

「その、ごめ……」

 気まずさから謝罪を口にしようとする。だが言い切る前にシオはトモキが開けた穴を避けて、これまで以上に距離を取りながら早足でトモキを追い抜いていった。そして元の通りシオの後ろをトモキが歩く、そんな位置関係を取り戻したところで立ち止まってトモキが立ち上がるのを待つ。しかし、その距離は当初からは遠くなった気がした。
 トモキは情けない気分で、顔を上げることができなかった。自分が恥ずかしかった。
 何が「送っていく」だ。数時間前の自分の発言を唾棄し、顔を覆って項垂れた。
 トモキには驕りがあった。少年は庇護者で自分は保護者。何でも出来る、と言い張れる程ではないが、少なくともシオよりは自分の方が年長であり、手を差し伸べる存在なんだと無意識に思い込んでいた。
 だが実際はどうだ。山歩きでは足を引っ張り、コミュニケーションも満足に取れない。碌な道標を示してみせることも出来ず、挙句、ままならないからといって八つ当たりをして怯えさせる始末。加えて、シオが最後に見せたあの視線。あれは、同情だとトモキは気づいてしまった。
 顔を上げれば、シオはまだそこに立っていて、感情の読みとりにくい視線をトモキに向けていた。

「……ゴメン、先に行ってて。すぐに追いつくから……」

 トモキはそう絞り出し、シオはしばし立ち尽くしていたが、やがて待つことを諦めたのか、トモキに背を向けて再び山を下り始め、すぐに姿は藪の中に隠れて見えなくなった。
 ただ煩悶する十代の少年の嘆く姿だけが山の景色に溶け込めずに残っていた。



 自己嫌悪。自らに対する、度し難い程の感情に折り合いをつけるとトモキはすぐにシオの後を追い掛けた。全てを諦めてしまいたい。そんな考えも頭を過ったが、隅でちらつくのはアルフォンスの姿だ。彼が命を賭してまで逃してくれた自分と、そしてシオの命。それを無碍にし、容易く放り捨てる様な真似をトモキは出来なかった。
 シオがゆっくり歩いてくれていたのか、トモキが追い付くのにそれ程時間は要しなかった。息を切らしてシオを見れば、その眼には憐憫。トモキは歯噛みするも、顔に出すことは無く、無理やり笑顔を見せてやる。そうしなければ、また何か八つ当たりをしてしまいそうだった。
 二人はこれまでと同じ様に山を歩いた。だが今は足音以外は無い。トモキが口を開く事は無く、そしてシオもまた黙ったまま足だけを動かした。二人の距離は前よりも遠かった。
 そのまま再び数時間。トモキの呼吸は乱れ、歩くだけのそれさえ億劫になっていた。息は熱く、しかし汗はすでに出ておらず逆に青白い。陽は暮れ始め、空が茜色に染まり始めた頃、不意に前を歩くシオの足が止まった。
 無言のまま、トモキはシオが見つめる先に視線を這わせた。木々の隙間から覗く景色。目の前には大きな町があった。

「……ここがシオが住んでたところ?」

 掠れた声でシオに尋ね、しかし彼は首をすぐに横に振った。重ねて「まだ遠い?」と聞けば眼を伏せて頷いた。

「そっか……ねえ、シオくん」一度舌で唇を舐めて濡らした。「どうかな? このまま山の中で休んでも十分に疲れも取れないし、町に行ってみない?」
「……」

 トモキのその申し出にシオは振り向いた。感情の変化を読み取るのは難しいが、トモキにはシオが面食らっている様に思えた。そんなに変な提案だっただろうか、と首を傾げ、もしかして、とトモキは一つの理由に思い至る。

「もしかして、あの町も『人』の町?」

 シオは頷いた。
 トモキは口元を撫でてしばらく考えこむ。シオもまた難しい顔をしていた。

「……シオくんが嫌がる気持ちも分かるけど、やっぱり町に行こう? このままだと食事も満足に取れないし、たぶん遠からず僕は動けなくなってしまう。シオくんもお腹空いたでしょ?」
「……」
「あ、でもそっか。僕だけが町に入って食料を買ってくればいいのか……」

 どうも自分の思考能力は大分低下してしまっているらしい。頭を掻きながらトモキは恥ずかしそうにシオから眼を逸らした。恥ずかしさを誤魔化すように咳払いをし、上ずった声を張り上げた。

「さ、さてと! そういうわけだから僕は町に行ってくるからシオくんはここら辺で待ってて! 美味しいものたくさん買ってくるからさ!」

 急々とトモキはシオを置いて町に向かって急坂を降りようとした。シオは言葉を発しないまま。その隣をトモキは通り過ぎて行く。しかし――

「え?」

 服を引っ張られ、トモキは立ち止まって驚きを口にする。振り返ればシオがしっかりとトモキの学生服の裾を握りしめている。

「どうしたの? 行っちゃ駄目って事かな? だけど行かないとさっき言ったみたいに――」

 だがその言葉を遮るようにしてシオは首を大きく横に振った。そして固く閉ざしていたその口を開く。

「僕も……一緒に行く」

 そう言ってフードを目深に被った。











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