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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved






 暗い森に曙光が射し込んだ。木陰で雨宿りしていた小鳥たちが夜明けを知って一斉に飛び立つ。囀りが静寂を破り、新たな一日の始まりを告げていく。森の中で体を休めていた獣たちもまた光と共に動き出し、一方で夜を活動の場としていた者達は安息を求めて銘々の塒へと帰っていく。
 飛び立つ鳥達によって新緑の葉が揺れた。十分な瑞々しさを持ったそれから雫が次々と落ちていき、前夜に降った雨によって出来た溜りに溶け込む。小さな衝撃は水面に波紋を広げ、反射する朝日を奇妙に震わせた。
 落ちていく雫達。その一つがトモキの顔に落ち、刺激を伝える。鋭い冷たさにトモキは泥で汚れた顔を顰め、そして瞳を焼く眩さに固く瞼を閉じる。だが意識は覚醒に向かい、トモキの思考も胡乱なものから整流されていく。

「あっ!」

 声を上げてトモキは跳ね起きた。支えを失ったバネの様に弾け、濡れた前髪からは汚れた滴がトモキの顔を流れ落ちる。定まらない焦点が点で交わり視界が明瞭へと化していく。
 日常とは異なる森の中。局所的に木漏れ日が差し込んできてはいるものの全体として辺りは暗い。どうして、と呟きが青ざめた唇から零れ落ちたと同時。

「ひっ!」

 ふと傍らを見遣れば、巨大な猪獅子が横たわっていた。それを見たトモキは小さく悲鳴を上げ、尻を引きずって後退る。そして昨日の出来事が鮮烈な記憶の残滓となって蘇ってくる。

「そうだった……」

 固く握られたままの剣を見ながらトモキは呟いた。意識して柄を握る手の力を緩めると、するりと剣が抜け落ちていく。微かに乾いた泥の残る右腕を顔に近づけ、鼻を動かす。臭いはもう殆ど残っていなかった。だが自分が動物の命を奪ったという事実は、猪獅子がそうであるのと同じく動かない。
 顔を滑り落ちていく鮮血。あの感触ははっきりと覚えている。ヌルリとした粘着質と熱の感触だ。小さな羽虫などに対してはこれまでも命をたくさん奪ってきたが、命というものをあそこまで鮮烈に感じた事は今まで無かった。血が、あそこまで重いという事に気づけなかった。
 次々に記憶が蘇っていく。恐怖と渇望。感情を伴ったその奔流の中でトモキは貫く様な頭痛を感じ、頭を振った。

「これ以上、考えるのは止めよう……」

 思い出せば出すほど気分はひどく陰鬱になる。前に進めなくなる。猪獅子から眼を逸して立ち上がる。地面に寝ていたからか節々が痛む。疲れが残っているのか、それとも体調を崩してしまったか体がフラつき、木に手を突いた。
 雨に打たれ、全身ずぶ濡れのまま寝たのだ。体調を崩すのも当たり前か、と熱っぽさを感じる頭でそう自嘲し、目元に掛かる前髪を掻き上げた。水溜りの中に転がる剣を拾い上げ、肺腑の中の濁りきった空気を大きく吐き出す。

「どうしようか……」

 一晩が経過してもトモキが独りである状況は変わらなかった。ユウヤの姿は結局は無く、聞いた足音にしてもこの猪獅子のものでしかなかった。右腕をつかむ左手に力が篭もる。不安だがトモキはこれからの方針を自らで決めなければならなかった。
 ユウヤを探してこの森の中を彷徨うか、それとも森を抜ける事を第一目的とするべきか。心の叫ぶ声に耳を傾ければ、ユウヤを探し出したい。独りで考え、独りで決めるよりも誰かと相談しながら決めたい。物理的に独りと言う状況はトモキにとって慣れておらず、それ故に心が落ち着かない。もし自分の判断が間違っていたら、と考えると、その先は想像しただけで身震いがする。自分とは異なる考えを持つ誰かが傍に居て欲しいと切に思う。
 しかし、その為に宛ても無く広い森を探しまわるのも馬鹿げた話だ、と冷静な部分が囁く。森の中にユウヤが居る、という確証があるのならばそれも選べるかもしれないが、居る「かもしれない」という不確定でかつ可能性の低い願望に縋るにはトモキの状態は十分ではない。まずは生きなければ。昨夜、願ったように。
 頭痛に苛まれながらトモキは悩み、たっぷり十分程迷った末にトモキは選んだ。

「……ひとまずは森を出よう。ここは危険だ」

 あの猪獅子みたいな魔獣が他にも居るかもしれない。居ないと考えるのは森の雰囲気が許さず、またトモキもそこまで楽観的ではない。ユウヤも独りで居るかもしれない。もしくは魔物と戦っているかもしれないと思うと心が軋む想いだが、同時にユウヤなら何とかなっているんじゃないかと思った。彼が途方に暮れている姿が想像できない。彼は自分とは違うのだから、と。
 とりあえずは、と薄日が射し込む方へと進む事にした。出口がどれほど遠いかは分からないが、太陽が見える以上、いつかは森にも終わりがあるはずだ。しかし――

「重いな……」

 自分の事とは言え、何かを自分独りで決めるというのはとてもエネルギーを使うものなんだな、と空を仰ぎながら息を吐き出した。
 泥濘の中をトモキは進む。濡れた靴と纏わり付く泥のせいで一歩がひどく重いが、進まなければ。一歩、また一歩と踏みしめていく内にいつしか泥道も歩き慣れていく。トモキは森の外へと歩いて行き、気づかぬ内に猪獅子からは遠くなっていた。
 そしてトモキの姿が見えなくなり、森の中の風景に溶け切った頃、どこからともなく新たな魔物の群れが現れる。虎とも豹ともつかない姿の四脚の魔物達は猪獅子の傍に警戒しながら近づき、やがて息絶えている事を確認するとその身に齧り付く。最初の一匹を皮切りにしてその他の個体も次々に喰らいついていき、山にも思えた体を喰らい尽くしていく。身が小さくなり、虎達の胃が満たされる。分厚い肉体が骨へと変貌していく。そしてその虎達の上空では翼を大きく広げた鳥獣達もまた獲物を見定めていた。



 想像以上に深い。
 それが、歩きながらトモキが何度も思い浮かべたフレーズだ。そしてまた同じフレーズが頭を過り、自分の頭がまともに働いていない事を不意に自覚させられ、苛立たせる。額から流れ落ちた汗が眼に入り、トモキは乱暴に目元を拭って指先に乗ったそれを焦りと共に打ち捨てた。
 どれくらい経ったのだろうか。
 トモキは腕時計を見遣った。アナログのそれは、だが秒針が常に同じ場所を指し続けており本来の役目を果たせていない。しかし猪獅子の元を去ってすでに相当な時間が過ぎ去っているだろう事は分かる。朝に目を焼いた光は、すでに南中を越え、新緑の葉の隙間を縫って射し込む光はかなり赤くなってきていた。

「……少し休もう」

 手頃な木を見繕うとトモキは歩き始めて何度目か分からない休息の為に腰を下ろす。そして両手を使って脚を揉み解し、眼を閉じて空を見上げると落胆の篭った溜息を吐いた。
 トモキの疲労は限界に近づいていた。肉体的にも精神的にも辛いものがあり、トモキの青白い顔色にも如実に現れている。それには、この世界に飛ばされてからまともな栄養補給を出来ていない事も要因の一つであった。
 人が生きる上で心身両面の意味から食事は重要であるが、魔術師にとっては通常の人間よりも栄養補給は重要な役割を為す。魔術師は生きるだけで一般的な人よりも数倍の栄養を必要とし、エネルギーを摂取できなければ活動がすぐに困難になってしまう。魔術を使えないトモキも例外では無く、今も座っているだけであるのに目眩が止まらない。周囲は汗ばむくらいに暑いのに、体の芯は冷えきっていて大地から力を根刮ぎ奪い取られているかの様な感覚を覚えていた。明らかな体の不調が、見知らぬ場所で独り彷徨っている心理的不安を更に強めていた。

(今度こそ……死んじゃうのかな……?)

 眼を閉じ、暗闇の中でトモキは呟いた。
 猪獅子に追われた時も本気で死を覚悟したが、あの時とは違う。あの時は目に見える脅威があった。襲い掛かってくる死が目の前にあった。気を一瞬でも抜けば終わってしまう、そんな緊張があり、抗うべき相手が、理不尽が形取ってそこにはあった。
 だが今はどうか。空腹、乾き。それから逃げることはできず、抵抗する実体が無い。何に憤ればいいのか分からず、誰に苛立ちをぶつければいいのか、それが分からない。ジワジワと真綿で首を絞められるかの様にゆっくりと、だが確実に死をもたらしてくる。孤独な死を見せびらかせながら、しかし決して一足飛びにはやってこず恐怖を煽ってくる。

 閉じていた眼を開けた。見上げた樹木には葉が茂るばかりで食料となりそうな実は見当たらない。少し顔を気怠げに動かして他の木も見てみるが、同じ樹木が並ぶばかりで変わり映えがしない。
 トモキは眼を閉じ、クシャリと顔を歪めた。そして膝を抱え込み、膝頭に顔を押し付けると同時に涙が溢れてきた。

「誰か……助けてよっ……」

 一体僕が何をしたというのか。出来る限り真面目に生きて、父と母を愛し、悪い事なんてした事は無い。今の自分が置かれている状況が罰だとすれば、何に対する罰だというのか。

(さっさと消えてくれりゃいいのになぁ)

 憎い声が頭の中を駆け巡る。消えればいい、消えてくれと何度聞いただろうか。幾度存在を否定されただろうか。
 生きるのが罪か。こうしてただ生きているその事が罪だというのか。その罰だと、言うのだろうか。

(ふざけるな……!)

 トモキの中に火が灯った。憤怒の炎だ。力が入らない腕に無理やり力が込められ、固く拳が握りこまれる。涙に濡れた眦が吊り上がり、ヘラヘラと嗤って自分を見下していた級友の姿を目の前に幻視する。

(あいつが、あいつが居なければ……)

 こんな世界に飛ばされなかった。こんなに辛い思いをしなかった。秋山ショウが逃げるのを邪魔しなければ、逃げ切れたのに。

(あの男は、僕を殺そうとした。
 嗤って――僕を殺そうとした)

 だが生き残った。幸か不幸か、こんな場所で生き残ってしまった。独りになった。それでも生きている。

(ならば――)

 ――今度は僕が……
 そこまで考えてトモキは我に返った。そして、自分の思考を振り返り、慄然とした。
 今、自分は何を考えていたのか。自分の手を見下ろす。手は震えていて、しかし固く握りこまれたまま、握り込まれた先から血が滲んで赤く汚れていた。

(切り裂いた、生きた肉の手触りは気持ち良かっただろう?)

 笑う少年の声が耳の奥で木霊した。昨夜は否定した。だが、今は否定できなかった。あれだけ昨日は命を奪う事に衝撃を受け、忌避したというのに、またこうして誰かの命を奪う事を望んでしまった自分が居る。

(それが君の本性だ)

 もう一度少年の言葉が頭に響いた。そんな事は、無い。否定しながらトモキは、血で汚れるのも構わず顔を両手で覆った。

「……行こう」

 トモキはふらつきながら立ち上がった。動いていなければ恐ろしい思考が自分を支配してしまいそうで怖かった。
 よろよろとした足取りでトモキは出口を探して再び彷徨い始める。全ての思考を自分の外に追いやり、ただ脚を動かす事に脳のリソースを費やす。
 やがて、本格的に夜の帳が近づいてくる。日中でも薄暗かった森の中が更に光を失い、夜目に優れたトモキの眼でも足元が覚束なくなり始める。空を見上げればすでに朱と濃紺が入り混じっていた。

「もう諦めなよ」
「自分を偽るのなんて疲れるだけだろ? 自分に正直になれよ」

 昨日の少年が現れてはそんな甘言を言い放ち、消えていく。トモキはその言葉を無視して歩く。少年の方に向き直る事もせず、前だけを向いて。いつしか、トモキの手には鞘に収めたはずの剣が固く握られていた。
 いつしかトモキの中で休むという選択肢は消えていた。休んでしまえば、また思考が危うくなる。少年の甘言に飲み込まれ、自失してしまう。そんな予感と強迫に押さえつけられ、進み続ける事しか頭には無かった。森を出るまで、夜通しでも歩き続ける。
 トモキが覚悟を決めた時、森の雰囲気が変わっていることに気づいた。木々の密度が薄くなり、一歩進む毎に視界が開け、濡れた土と樹木とは異なる薫りが鼻腔の中で燻り始める。新鮮な風がトモキの額の汗を流し飛ばして行った。吹き込む先のそのまた先に、田畑の緑が見えた。人の営みが、そこに見えた。

「あ……!」

 トモキは走り出した。疲労は忘却の果てに置き去り、薄暗い外の世界がこの上なく輝いたものに見えた。足元はいつからか泥濘が無くなり、しっかり踏み込む事が出来るくらいに固い。左右には杭が立ち並び、人の手で整備された跡がある。
 果たして、トモキは森から飛び出した。大きな夕日が山間へと沈みかけ、鮮やかな夕焼が巨大な影を一面に投げかけていた。
 やっと、出れた。不安から解き放たれた。その実、まだ不安の根源は何一つ解消されていないのだが、人の薫りがする場所へ辿り着けたというだけでトモキの心はかなり晴れやかになっていた。
 トモキが降り立った場所は田舎の街道の様だった。どうやら森の一部が大きく迫り出しているらしく、道が大きく湾曲している。そのせいで左右のどちらを向いても道の先は見えない。遠くには小さく民家らしき建物が見え、夕餉の準備をしているのだろうか。微かに煙の様なものが見えた。
 安心したせいだろうか。ここに来てトモキの腹が空腹を強く訴え始める。全身の怠さも限界を越え、ついにトモキはその場に膝を突いてしまった。

「後、少しだけ……」

 頑張れ、と自分に言い聞かせる。叱咤し、両脚を強く叩いて立ち上がろうとした。
 と、その時だった。ガラガラガラ、と何かを転がすような音が響き始めた。荒れ道を走る車輪の様な音だ。何だろう、とトモキが音のする方向を見遣った時だ。
 街道のカーブを曲がり切った何かが姿を現す。
 トラックだ。トモキは外見を見てそう思った。巨大な車体がトモキの眼の前に迫ってきた。
 怒鳴り声が聞こえるが、気を抜いていたトモキの体は固まってしまい、ギャリギャリと車輪が悲鳴を上げた。そしてまさに先端がトモキの鼻先に触れるか、というところで停止する。

「と、止まった……」
「馬鹿野郎がっ!! 道のど真ん中で座ってる奴があるかっ!!」

 頭上から怒鳴られ、トモキは身を竦めた。上を見れば馬車の御者台の屋根の上に薄いグレーの髪の男が独り立っており、トモキを睨みつけている。薄暗くて見え辛いが、胸と腰の部分には鎧の様な意匠の金属板が取り付けられており、腕や脚にも防具らしきものが装着されている。
 見慣れない格好につい見入ってしまったが、男にもう一度怒鳴り声を貰い、トモキは急いで立ち上がった。男の言う通り、道の上に座っていれば危ないのは自明であり、トモキとしても弁解の余地は無い。道の脇に避け、頭を下げようとするが、男は御者台から飛び降りると腰に携えていた剣をトモキに向けてきた。

「何者だよ、お前」声は冷たい。「って、聞くまでもねえか。剥き出しの剣を手にしてんだからな。お前、最近ここらで好き勝手やってるっていう盗賊団だな。他に仲間が居る気配もねぇし、独りで居るって事は斥候か? 見慣れねぇ格好だが、東の方から流れてきたか、それとも南の大陸からか。ま、どっちでもいいさ。それにしても残念だったな。盗賊を目の前にして見逃す程、俺らは甘くねぇ」
「ち、違っ……」
「そんなギラギラした眼をして、殺気を振りまいといて何が違うっていうんだよ」

 トモキは男が何を言っているのか分からなかった。自分に敵対する意思は無く、殺気などと言うものを出せるはずもない。自分はただ森で迷って、やっと外に出てきただけだ。
 乾きで粘つく喉を微かな唾液で潤して否定しようとするが、それよりも男が先に言葉を続ける。

「ちょうど退屈してたところだ。それに、少しは働かなきゃ仕事を任せてくれた親父に合わせる顔がねぇしな」

 目の前の若い男が嬉しそうに笑い、スッと剣を構え、トモキに近づく。接近したおかげで馬車に付けられた明かりに照らされた男の顔が明瞭になる。鋭く細められた眼と眦に残る一本の傷跡。やや面長の顔立ちで、大きな口は、端が左右に引かれて弧を描いている。だが表情とは裏腹に剣から伝わってくるのは紛れもない殺意だった。
 対するトモキは混乱の極みにあった。極限状態から脱したと思えば、間髪入れずして今度はやっと見つけた人間から敵意を向けられ、否定する機会を逸してしまった。
 トモキは反応に窮した。急な状況の変化についていけず、また元々トモキは会話が苦手であり、誤解を解こうにも言葉が出てこない。そうしている内にいつの間にかトモキの周囲は、同じ意匠の軽鎧を着た幾人もの男達に囲まれて剣を向けられていた。

「さあ、構えろよ。斥候役だから期待はできねぇけど、お前の実力を見せるくらいはしてみろよ。楽に叩き潰してやるからさ。皆、手を出すなよ? 後、念の為他の奴らが森に隠れてねぇか警戒しとけ」

 周りの男達を手で制しながら、更に一歩目の前の男がトモキに近づく。トモキは一歩後退る。また一歩進む。今度はトモキも腰の剣に手を伸ばしかけた。
 殺らなければ、殺られる。混乱の中でその考えが体を駆け回り、沸騰するかの様に体全体が熱を発しているような感覚。それと同時に、殺伐とした考えが自然と出てきた事に戦慄を覚えた。

(どうして、こんな……)

 訳が分からない。何故自分は今剣を向けられているのだろうか。何もしていないというのに。剣を握る右手は震え、それを見た男は鼻で笑う。トモキは歯を食い縛った。

(怖いけど……)

 逃げ出したいけど、だが逃げる為にも剣を奮わなければならないのか。誰も、傷つけたくはないのに。状況に愕然としつつも、煩悶としつつも男に剣を向けかけたその時。

「そこまでにしておいてあげてくださいな。彼に敵意は無いようですよ?」

 柔和な声が響き、それと同時に男達が一斉に背後を振り向く。そして左右に囲みが別れて、その奥から恰幅の良い中年の男が一人輪の中に分け入ってくる。

「このような少年一人によってたかって剣を向けているのを見るのも余り気持ちの良いものではありませんね」
「ニコラウスさん、しかしだな……」
「ここまで襲撃も無くて鬱憤が溜まっているのも分かりますが、少し気が逸っているのでは? 私には行き倒れかけている旅の少年にしか見えませんが」
「だがそいつは剣を持っている。商人のアンタには分からねぇかもしれねぇけど、さっきから殺気をばら撒いてやる気満々だ。危険だ」
「このご時世に剣を持っている旅人など珍しくもありませんし、殺気は確かに感じ取ることはできませんが、何か事情がお有りなのでは? 事情も聞かずに斬りかかるばかりでは徒に敵を増やしてしまうだけですよ? そうなれば貴方がたの氏族の悪評も立ってしまうのでは? それに貴方がたは腕が立つと評判の氏族だ。斬り捨てるのはこの方が斬り掛かってきてからでも遅くないのではないですか?」

 丸い縁取りの眼鏡のズレを直しながらニコニコと笑顔を絶やさずに告げられ、軽く舌打ちすると渋々といった様子で剣を鞘に収める。殺気立った空気が弛緩し、その雰囲気に支えられていたトモキは思わずその場に座り込んでしまった。情けないとも思うが、すでにトモキの体力も限界を越えていた。

「申し訳ありませんね。私の連れ達が失礼致しました」
「あ、いえ。こちらこそありがとうございました……」

 謝罪の言葉を口にする壮年の男に、トモキもまた青白い顔で深々と頭を下げた。そこで剣を握ったままであることに気づいた。折角、場が平和に治まり掛けているのだ。このままではまた余計な誤解を生みかねない。トモキは慌てて剣を鞘に収めた。

「ところで、こんな日も暮れようという時にこのような何も無い場所でどうなされました?」
「えっと……」

 尋ねられ、トモキは答えようとするも口籠った。異世界に辿り着いたと考えているが、そもそも本当にそうであるのか確信は無いし、告げたところで信じてもらえるか。何よりトモキ自身が状況を把握しきれていない。だがここで押し黙るのも失礼だと空転する思考から言葉を絞り出そうとした時、空腹に耐えかねたトモキの腹が不満を訴えた。
 途端に朱に染まるトモキの顔。恥ずかしそうに上目でそっと男の顔を見遣ると、男は愉快そうに声を上げて笑った。だがそれは咎めるでも嘲るでも無い、純粋な笑いだった。

「行き倒れとは口から出まかせではありましたが、強ち嘘というわけで内容ですな。
 おっと、自己紹介がまだでしたね。私はニコラウスという、しがない行商人です。もし宜しければ近くの街までお送りしますよ。なに、移動中は暇でしてね。差し支えなければ移動中の慰みに旅のお話でも聞かせて頂けませんかな?」

 そう言ってニコラウスは笑顔でトモキに向かって手を差し伸べた。




 パキリ。火に焼べられた薪が音を立てた。割れた木から火の粉が舞い上がり、一瞬だけ焚き火の炎が大きく空へ伸びる。しかしそれも刹那の事。すぐに元の大きさへと還っていく。焼き折れた薪はそのままゆっくりと身を炎の中へ深く沈めていき、やがて他の薪と同じ様に炭と化した。
 暗い夜空が薄く照らされている。街灯など無い夜空には無数の星々が煌き、上弦の月が笑顔を浮かべて見下ろしている。月の下では数人の男達が車座になって火を囲んでいる。食事を終えて酒を飲んでいるせいか、男が一人立ち上がってフラフラと覚束ない足取りで何かしらの仕草を行うと、それを見た残りの数人がゲラゲラと笑って、あるいは罵るような大声が聞こえてくるがそこに悪意は無く、陽気な雰囲気が尚更男達を楽しく酔わせていた。
 また一本、焼べられた枝が音を立てた。その音の元をトモキは一瞥し、すぐに視線を元に戻す。そして眼を薄く細めて楽しそうに歓声を上げる武装したままの男達の宴席を眺めた。
 陽気な場所から離れ、トモキは一人で絵を描いていた。笑い転げる男達の姿を、楽し気な空気と共に白い画用紙に浮かび上がらせる。握るのは一本の鉛筆。色は黒のみだが力加減と鉛筆の角度を巧みに操る。もう一箇所焚き火を囲んだ集団があり、そちらからも笑い声が上がっているが、集中しているトモキの耳には入らない。熱気は十分、だが光源としては心許ない焚き火の傍でトモキは薄暗さを気にせず、一心に目に映る景色を紙の上に描き続けた。

「ほほう、中々の腕ですな。もしかするとそれなりに名のある絵描きでしたか?」

 背後から声を掛けられてトモキは手を止めた。振り返ればニコラウスが人の良さそうな笑みを浮かべ、両手に持ったカップからは湯気が暖か気に立ち昇っていた。

「そんな……とんでもないです。単なる趣味で描いてるだけですから」
「いやいや、そんな謙遜される必要はありませんよ? こう見えても絵はそれなりに造詣が深い自信がありましてな。今の腕前でも十分買い手が付く程だと思いますが、このまま描き続けていればいずれは歴史に名を残す程の画家になれますぞ、きっと」
「はは、ありがとうございます。あ、そうだ。この紙と鉛筆も頂いちゃって、それにご飯まで御馳走してもらって何から何まで本当にありがとうございます。本当に何て御礼を言っていいか……」
「なんのなんの。紙の一枚や二枚大したことはありませんよ。むしろ立派な絵を描かれている様を見させて頂いてこちらの方が申し訳ないくらいです。ああ、そうそう。我がルドルフ家が代々行商のお供にしている香草茶です。お口に合うかは分かりませんが、宜しければどうぞ。旅の疲れが取れますぞ?」

 トモキを煽てながらニコラウスはトモキにカップの一方を差し出した。トモキは傍らに置いた制服の上着の上に紙と鉛筆を置くと、未だ冷えが残る両手でカップを抱えてそっと中身を啜る。最初、その熱さに思わず顔を顰めたが、改めて口に含むと口内に広がる芳醇な香りに感嘆の声を上げた。

「おいしい……!」
「ほっほ、気に入って頂けた様ですな」

 熱さ故に一気に、とはいかないまでもトモキは茶をどんどん飲み干していく。見知らぬ人間の間に佇む、森の中に居た時とはまた異なる緊張が体を支配していたのだが、喉をうっすらと焼く熱と優しい香りが、トモキの強張りを解していった。そんな様子のトモキを見て、ニコラウスもまた嬉しそうに眦の皺を深くして顔を綻ばせていた。

「――さて、落ち着かれたところで、差し支えなければ事情を聞かせて頂いても宜しいですかな? もちろんトモキさんが何処かで街から追われる様な事をしたとも思えませんが、明日には街に入る以上、私としても人員の素性くらいは知っておかなければ門兵に説明できませんので」

 移動しながら素性を聞く、という話でトモキを馬車――とはいっても馬は居らず、荷車を引いているのは魔素を利用した小型の低空飛行機であったが――に乗せたニコラウスだったが、トモキが満足に歩けない程疲弊しているのを見て取ると、すぐに野営をすることを決めた。自分のせいで旅程を変更させるのは申し訳ない、自分は大丈夫だ、と強弁するトモキだったが、そんなトモキをニコラウスは穏やかに宥め、早々に野営できる拓けた場所を確保すると、旅慣れた行商人らしく護衛に雇った兵たちに指示して火起しや食事といった準備を進め、トモキの事情はまた後ほど、となっていた。

「分かりました。勿論構いませんが……」

 そこまで言ってトモキは口籠った。
 トモキとてニコラウスから求められれば話すのは吝かでは無い。短い時間の中で数えきれない程の恩を受けた相手であるし、行商人であれば元の世界へと戻る為の情報を何かしら持っているかもしれない。だが、果たして上手く話が伝わるだろうか、と礑と疑問が浮かんだ。
 特異点、と言うのはトモキの世界での通称だ。原理も何も分かっていないブラックボックスだが、この世界にも――まだ異世界だと決まった訳ではないが――それは認識されているのだろうか。ここの認識が無く、異なる世界という概念が無いならば説明の仕方を変えなければならない。

「あくまで差し支えなければ、ですから。もし話したく無い事であるなら無理強いはしませんよ」
「あ、いえ、そういう訳じゃ無いんです。ただ、どう説明していいのか、と思いまして」
 果たして、トモキは有りの侭を話す事にした。どうやら自分はこことは異なる世界に居て、黒い孔に落ちた。気がついたら森の奥に居て、魔獣に襲われながらも人里を探して何とか街道に出ることができた。会話が得意では無いトモキは、こういった事を時折言葉に詰まりながらも、一つ一つ丁寧に説明していった。それをニコラウスは口を挟むでも無く黙って、時に相槌を打ちながら最後までトモキの話を神妙な様子で聞いていた。

「――というところでニコラウスさんに助けてもらったんです」
「なるほどなるほど。いやはや、大変な出来事に巻き込まれてしまったようですな」

 そう言ってニコラウスはトモキに同情するかの様に眉根を寄せて俯き、話している間に冷めてしまった茶を一気に飲み干した。つられてトモキもカップを見遣り、話し続けたせいで乾きを覚えた喉を潤すべく、ゆっくりと喉の奥へ流し込んでいった。

「そうですか、トモキさんは『迷人』でしたか。なるほど、道理で服装に見覚えが無いわけですな」
「メイジン?」
「左様です。極稀にですが、トモキさんの様に何処から来られたのか分からない不思議な方が現れるそうです。私も直接お会いした事は無いのですが、此方のものとは似て非なる言葉を使い、常識的な事も慣習も全く知らないとの事で、その、皆さん随分と苦労なさったとか。発見された時にどなたもひどく戸惑った様子で、まるで迷子の様に狼狽えていたことから『迷人』と呼ばれる様になったと聞いています。私も聞き齧っただけですので正確な由来は存じませんがね」

 メイジン、とトモキはもう一度口に出して反芻した。言葉の響きはいまいちしっくりとは来ないが、なるほど、確かに迷子だと得心した。空腹も満たされ、落ち着いた気持ちでこの世界に放り出された直後を思い返してみれば、ニコラウスの言う通り戸惑い、狼狽えてばかりだった。判断に迷い、常に不安な心持ちでいてとても辛い時間だった。振り返っての出来事を思えば、こうして早々にニコラウスに出会えたのはひどく幸運だった、とトモキは思わずには居られなかった。

「それにしても送り出されたのが不還かえらずの森とは……良くぞ無事にお戻りになれましたね」
「不還の森?」
「お前が出て来たっていうあの森の俗称だよ」

 ニコラウスとは逆側からぶっきらぼうな声が聞こえた。そちらを振り返れば、最初にトモキに向かって剣を向けてきた男が不機嫌そうに立っていた。

「おや、アルフォンス君。見回りは交代ですかな?」

 ニコラウスが男――アルフォンスに声を掛けるが、アルフォンスは返事もせずに手に持っていたコップに酒を注ぎ、一気に呷る。そして深く息を吐き出したかと思えば、づかづかとトモキの横にやってきてドカ、という擬音が聞こえてきそうな勢いで座る。その剣幕にトモキは何を言われるのか、と体を震わせて座ったまま少し後退るが、アルフォンスは腰に引っ掛けていた別のコップに酒を注ぐとズイ、とトモキに向かって差し出した。

「え、あ、あの、僕はお酒は……」
「ああ?」

 生まれてこの方、まともに酒を飲んだことの無いトモキは手をワタワタと振って断ろうとするが、次の瞬間には剣を向けられた時と同じく剣呑な視線で睨みつけられて体を小さくする。勢いに圧されるがままにおずおずと手を伸ばしてコップを受け取ってみるも、どうしたものかと左右に視線を彷徨わせる。だが、ニコラウスはニコニコと笑顔を向けるだけで、アルフォンスはと言えば、先ほど飲み干したばかりだと言うのに再びコップに波々注いで不機嫌そうな面持ちで飲み干していた。
 トモキは困った様にコップの中の酒とアルフォンスの姿を見比べていたが、意を決して一気に杯を傾けた。口の中に広がるアルコールの匂い。強烈な熱が舌を、喉を焼いていく。噎せ返る様な濃厚な味にトモキは頭がクラクラと揺れるのを感じた。しかし酒が喉を通り過ぎていった瞬間、それまでが嘘であったかの様に芳醇な香りが鼻を抜けていった。

「凄い……美味しいです、これ」
「当ったり前だろ。俺が持ってる中で一番良い酒なんだからな。
 ……ともかく、同じ酒を飲んだんだ。これで俺とお前は知らない中じゃなくなったわけだ」
「はあ」

 仏頂面のままそう告げて杯を重ねるアルフォンス。だが何処か表情が柔らかくなった様にも感じる。アルフォンスは自分が飲みながらもトモキに向かっても飲むよう促し、コップの中が減ればすぐに酒を注いでやる。トモキはチビチビと飲みながらもアルフォンスが何を言いたいのか、いまいち要領を得ずに困惑して生返事をするだけだったが、隣のニコラウスが耳打ちする。

「ふふふ、アルフォンス君は、どうやらトモキさんと仲直りしたいようですよ」
「えっ?」
「おっさん!!」

 アルフォンスが怒鳴り声を上げるが時既に遅し。トモキはポカンと口を開けてアルフォンスの方を振り向き、その表情を見たアルフォンスはトモキから視線を外してポリポリと頭を掻いた。

「あー、なんだ、その……昔っから親父には『もし出会ったならば迷人には親切にしてやれ』って耳にタコが出来るほど言われててな。それで……お前が迷人だって知らなかったとは言え、仕事上しょうがねぇっつったらしょうがねぇけど、剣を向けちまったし、まあ、そのだな、申し訳ないっつうか……」
「職業精神以上のものも混じってたようにも見えましたが」
「おっさんは黙ってろよ。
 それで、だ。俺も親父に一人前と認めてもらいたいだとか、盗賊の襲撃も無くて実力を皆に示す機会が無かったりだとかで焦ってたりしててだな……あー、まあそれで済むような問題じゃねぇっていうのは分かってんだが、その酒は俺の秘蔵の逸品でな。だからアレだ、その、これで今日の一件は水に流しちゃくれねぇだろうか……?」

 言葉に詰まりながらもそう言い切り、最後には意を決した様にトモキに向かって「スマン」と勢い良く頭を下げた。
 その姿を見て、尚もトモキは戸惑い続けた。魔技高に入学して以来、悪意を向けられるのが日常だった。虐められ、誰もが侮り、謝罪の言葉など一年以上学校に所属して終ぞ聞いた事など無かった。そも、あの特殊な環境下では誰も悪いなどと思っても居なかっただろう。トモキが魔術を使えないと判明して以来、誰もトモキに歩み寄ろうなどとした事は無かった。
 だがこの世界に飛ばされ、最初に出会った人物に頭を下げられた。出会いが悪かったとは言え、自らの非を認め、目の前のアルフォンスの姿からは心のこもった謝罪であること十二分に伝わってくる。

(そうだ、ここは僕が居た場所とは違うんだ)

 理不尽に貶められる事も、無意味に辱められる事も無い。「一人の人間」として尊重される、そんな当たり前の扱いを感じ取り、暖かい想いが胸に込み上げてくる。自然とトモキの表情も綻んだ。

「頭を上げてください、アルフォンスさん。もう過ぎた事ですし、馬車の前に飛び出して、キチンと説明できなかった僕も悪かったんですから。だから僕の方からも謝ります。御免なさい。そして謝罪してくださって、ありがとうございます」

 アルフォンスに向き直り、トモキは深々と頭を下げた。そして今度はニコラウスにも向き直り、「ご迷惑をお掛けして御免なさい」ともう一度頭を下げた。
 謝ったはずが逆に謝られる。そんな事態は想定範囲外だったアルフォンスは、自分に向かって頭を下げたトモキの姿を唖然とした様子で見ていた。だが、トモキを挟んで反対側から愉快そうな笑い声が聞こえ、そこでようやくアルフォンスも我に返った。

「ハッハッハッハ! これはこれは。いやはや、どうも私が助けた相手は思った以上に大物みたいですな。いや、これは愉快愉快。
 トモキさんもどうぞ頭を上げてください。トモキさんの謝罪、しっかりと受け取りましたよ。アルフォンス君も、ねぇ?」

 心底楽しい。そんな様子のニコラウスに改めてアルフォンスも呆気に取られたが、何とか気持ちを持ち直し、そして頭を下げるトモキの頭頂部をマジマジと見つめた。

「なんつーか……お前、馬鹿だな」
「えっ!? あ、す、すいません! また変な事してしまいました?」
「いや、いいんだ。こっちこそ変な事言ったな。すまん。
 それよりも、だ」ガシガシと音が出そうな強さで自分の髪を掻き、アルフォンスは話題を転換した。「不還の森に居たんだって? 迷人として迷い込んだ先がンな場所なんてつくづく運がねー奴だな」
「あっと、すみません、その不還の森ってなんですか?」
「さっきも言った通りお前が出てきたあの森の事だよ。森の浅い所だと滅多に危険はねぇんだけど、何しろ半端無く広い森でな。おまけにちょっと深くまで行くと陽が射さねぇのと生い茂った木々のせいで森に慣れた人間でもすぐに方向感覚を失っちまうんだ。運が良ければまた戻って来れるんだが、何せアテナ聖王国とベネディスク獣皇国の国境を広く跨ぐ形で森が分布してるからな。間違って南北方向に進んでしまったら徒歩だと何ヶ月掛かるか分かったもんじゃねぇ」
「おまけに、森深くは王種猪獅子グレートダイナボア古代大鷲エンシャントイーグルなどの凶悪な魔獣が住み着いていて、地上も空もまともに通行なんて出来ません。なので昔から開発もされずに、万が一そんな場所に一度脚を踏み入れてしまえば二度と外には出られない。そう言った事情から通称『不還の森』と呼ばれているのですよ。ですのでトモキさんが王種猪獅子を倒したと聞いて本当に驚きましたよ」
「はぁ!? お前アイツを倒したの!? 独りでか!?」

 突如アルフォンスが大声を上げてトモキに迫る。トモキの目の前にニュウと顔が現れ、肩を掴んでトモキを揺さぶった。

「え、ええ……偶然みたいなものですけど」
「ンな偶然なんかで王種猪獅子を倒せっかよ。アイツの皮は滅茶苦茶分厚くて、並の剣なら全く歯が立たねぇんだぞ!」
「ふむ……でしたらトモキさんの剣は相当な業物かもしれませんね。少し拝見させて頂いても?」
「はい、別に構いませんよ」

 他ならぬニコラウスの頼みだ。トモキは特に躊躇うことなく傍らに置いた鞘から剣を抜き出し、ニコラウスに手渡した。ニコラウスは軽く礼を述べて、両刃剣を舐める様に見回していく。ポケットから小さな照明を取り出して光を当てたり、剣の腹を指先で軽く叩いてみたりと一通り鑑定の様な仕草を繰り返し、満足したニコラウスはトモキに返した。

「中々の物の様ですが、私がこれまで扱ってきた名剣と比べると特に素晴らしい、という程でも無さそうですね。あ、いえ、十分のそこらの数打ちと比べれば素晴らしいのですが」
「それはそうですよ。あくまで学生向けの剣ですから」
「なるほど。でしたらトモキさんの居らっしゃった場所は、ここらと比べても随分と技術が発展しているのですね。もし輸入できれば商売のチャンスが増えます。自由に行き来できるのであれば是非とも行ってみたいものですが」
「あの、一つ聞いてみてもいいですか?」

 トモキが尋ね、ニコラウスは「何でしょう?」と応じた。トモキは疑問を口にするのを一瞬迷ったが、一縷の望みを託してニコラウスに問いかけた。

「さっきアテナ聖王国とベネディスク獣皇国って名前が出てきましたけど、それって国の名前ですよね? この世界に『日本』って国は無いんでしょうか? もしかしたら『ジャパン』や『ヤパン』だとかそういう呼ばれ方をしてるかもしれないですけど。アルフォンスさんも何か知りませんか?」
「んー……わりぃけど俺は聞いた事はねぇな。おっさんはどうだ?」
「そうですねぇ……」ニコラウスは顎を撫でると、懐から手帳を取り出して捲り、最後の方のページを開くとトモキに向かって差し出した。「これは世界地図ですけれど、どうでしょう? トモキさんの居た国はありますか?」

 緊張の面持ちでトモキは地図を覗きこむ。地図の中心にあるのは巨大な大陸の端で、そこから東に向かって広大な陸地が広がっていた。対して西側はあまり大きくなく、一方で南側にはまた別の巨大な大陸があった。西には海が広がっていて、海を渡れば南北に細長い大陸が海を二分するかのように描かれている。

「ここがアテナでこちら側がベネディスク。今私達が居るこの場所はちょうどその国境付近になります」

 ニコラウスが指で地図をなぞりながらトモキに説明をしていく。

(東はアジアで、西の大陸はアメリカ大陸。だとすればここはヨーロッパに相当する位置なんだけれど……)

 世界の構成は全体的にはトモキの知るものと似通っていた。だが陸地と海の比率や海岸線の形は全く異なっており、地球にはあった幾つかの島国は無い。そして、日本の位置にはただ太平洋に相当するような広大な海が広がっているだけだった。
 トモキは一度眼を閉じて天を仰ぐと、無言で首を横に振った。
 辛い現実だった。これまで微かではあるが希望を持っていた。同じ世界に居て、ただ遠くの場所に飛ばされただけだったのではないか。願望に近い想いではあったが、ニコラウスが小型の魔素低空飛行機で荷馬車を引いていた事から期待は高まっていた。もしかしたら、という疼きは燻りから種火へと変わっていた。だがそれが裏切られた気分をトモキは痛感していた。

「そうでしたか……」

 消沈するトモキに引きずられる様に空気が重苦しいものへと変化する。
 傭兵でもあり冒険者であるアルフォンスにとって故郷や家族、仲間というものは特別だ。仕事柄、故郷を離れる事は多く、数ヶ月に渡って護衛などの仕事をしていると、ある夜にふと仲間の顔が懐かしく思い出す時がある。郷愁の念に駆られ、声を聞きたくなる事だってある。そして同時に、そんな風に思えるほどに思い入れの強い故郷だからこそ危機に陥った時などのここ一番で踏ん張れる事もある。
 そんな故郷を突如失ったトモキの心情は如何ばかりか。アルフォンスは沈痛な面持ちを浮かべてトモキを慮った。だが、トモキの世界がどういった場所かは想像が出来ないが、ここは迷人がそんな心痛を抱えたまま過ごせる様な優しい場所では無い。そして、辛いままの眼差しでこの、トモキにとっては新しい世界を見てほしくない。
 アルフォンスは、突として顔を上げると思いっきりトモキの背中を叩いた。

「まあ……何だ! 酒でも飲んで元気だせよ! ほら、グイッといけ! グイッと!」

 強引にトモキの肩を抱き寄せると、自分のコップの中に入っていた酒をトモキの口元へ持っていき、半ば強引に飲み干させる。当然トモキは慣れない一気飲みに噎せ返り、一頻り喉を焼く熱に咳き込みながら恨みがましくアルフォンスに向かって口を尖らせた。
 だがアルフォンスはトモキの頭を力強く掻き毟るように撫でた。

「お前が居た場所ってぇのがどんだけいい場所だったかは知らねぇけど、ここらだってそんなワリィもんじゃねぇさ。それに、迷人だからって元の場所に戻れねぇって決まったわけじゃねぇんだ。きっと何とかなる。だからよ、そんな湿気た顔すんな」

 そう言って、尚も反論しようとするトモキを黙らせる様にもう一杯強引に流し込んでいく。そして何とか飲み終えるとまたすぐに波々に注ぎ、また強引に飲み干させる。
 トモキは飲酒の経験が殆ど無い。故に杯を重ねるに連れて顔が徐々に赤くなっていく。その様を見てアルフォンスは腹を抱えて笑い声を上げた。
 アルコールが頭に回っていき、トモキの視界も少しずつ揺々と揺れ始める。ついさっきまで落胆し、重かった心と頭を擡げてみれば眼の前で笑い転げるアルフォンス。ふわふわとした感覚と、馬鹿みたいに酒を飲みながら楽しそうにしているアルフォンスを見ていると、何だかトモキも全ての悩みがどうでもいいものであるかの様に思えてきた。

「明日は明日の風が吹く。お前の明日も何とかなるさ。だからお前も笑え」

 トモキと同じく酒が回ってきたのか、アルフォンスも顔を赤くして何度もトモキの肩を強く叩く。叩く回数が三度を数えた時、悪戯心が芽生えたトモキが体の位置を少しずらすと、思い切り振り抜いたアルフォンスが空振り、そのままバランスを崩してトモキ諸共押し倒した。

「ぷ……くく、はははははははははははははっ!!」

 くだらない。普段ならトモキはそう内心で吐き捨てていただろう。なのに、トモキは楽しかった。理由など理解らない。ただ楽しかった。何故だか嬉しかった。これまで酒に酔った大人の姿を横目で冷たく流していたが、なるほど、悪くないものだと得心した。
 空では弧を描いて月が笑っていた。その空は、トモキの居た場所で見たものと同じだった。
 夜空に、どこまでも二人の底抜けの笑い声が響いていった。












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