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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved






 ちゃぷん、と器の中で水が弾けた。水面が躍り、雫が溢れて縁から垂れ、木の床に染みを作る。
 次いで何かを絞る音。何処か懐かしさと優しさを思い出させるその音色が耳に届き、その音の正体を知りたく、トモキは眼を開こうとした。
 だが、重い。全てに億劫で、開こうにも開かない瞼が気持ちを挫く。このままで良いか、とぼんやりした思考のまま息を吐けば喉を焼く痛み。一瞬無意識に息を止めてしまうが、不足した酸素を補うべく体は正直に息を吸い込み、トモキは痛みに顔を顰めた。
 体が、熱い。まるで火にべられているかのようだ。痛みが全身を襲い、一呼吸の度に鈍痛と針に刺された様な鋭い痛みがトモキを苛む。心臓は早打ち、微かな身動ぎさえしたくないのに荒い呼吸が否応にも体を揺らして苦痛をトモキに与える。

(なん、で……)

 こんなにも辛いのだろうか。こんなにも痛いのだろうか。こんなにも……心が軋んでいるのだろうか。
 分からない、分からない、分からない。何か大切なものを忘れてしまっている。
 眼を背けてはいけない、そんな気がするのに。キチンと考えなければいけないのに。思い出さなければいけないのに。そうだと分かっているのに考えたくない。何も考えられない。
 眼を閉じたトモキの眦から一筋、涙が零れた。ただ只管に胸を劈く悲しみの声に、溢れる雫が止まらない。
 だがその流れた涙の通り道を、不意に何かが掬い取った。柔らかな温かみを持った何かが、触れたトモキの蟀谷に静かな熱が伝わり、トモキの思い詰めた様な寝顔が幾分緩む。そして水を含んだ布がトモキの額に置かれた。

(冷たい……)

 だが、気持ち良い。熱で真赤になったトモキの顔に微かに笑みが浮かぶ。喉の痛みも忘れて、思わず安心した様に安堵の溜息が漏れた。
 トモキはその優しさの元を見たくてもう一度眼を開こうとした。変わらずに瞼はひどく重く、閉じていたい欲求に駆られるがそれを乗り切って、僅かにだが開く事に成功する。
 眩しい。予想していなかった光の衝撃にトモキは思わず開いた眼を閉じてしまい、眼の奥に感じる鈍い痛みに、眉間に皺を寄せる。それでももう一度、と自分を鼓舞してソロソロと少しずつ開いていく。
 やはり強い眩しさを感じるが、次第に光にも慣れていき、やがて視界全体を覆う光の中に一つの影の存在を認める。
 輪郭はぼやけ、大きさも形もはっきりしない。影、とは言ってもあくまで真っ白な光に対比して陰影があるだけで、薄らと見えるその影自体も全体として白く見える。少しずつだが視界が晴れてきて、どうやらその影は人の様で、ぼやけた存在のまま身動ぎを繰り返していた。

(誰、だろう……?)

 それでも靄が掛かった様な視界は完全には晴れず、薄ぼんやりとしたままだ。姿を見定めようと眼を凝らすが霧は晴れてはくれない。
 やがて自分を凝視する眼差しに気づいたのか、影が振り向く。はっきり見えないが、トモキはその人物が微笑んだのが分かった。

「おや、眼を覚ましたか。一時はどうなる事かと心配したが、そうか、良かった、良かった」

 声色からどうやら女性らしい。彼女は安心した様に溜息を吐き、トモキの顔を覗きこんでくる。そして額に乗せていた布を手に取ると、トモキの額や顔、首筋の汗を拭い取り、傍らに置いてあった桶の中に浸した。水をタップリと含んだそれを引き上げると両手でしっかりと絞り、丁寧に折り畳み直すとまたトモキの額に静かに乗せてやった。

(ああ……)

 頭から熱が布の水で吸い取られていく。その感覚にトモキは息を吐いた。さっきの心地よさはこれか。そこでようやくトモキは、自分が誰かに看病されていることに思い至った。どうやら自分は風邪を引いてしまったらしい。
 どうして風邪を引いているのか、その点については思い至る原因が無いが、ともかくもひどい高熱を出してしまっているようだ。ならばこの喉を焼く痛みも仕方ないだろう。心が軋むのは、きっと滅多にしない風邪を引いて、心が弱ってしまっているのだ。

「じゃが、まだまだ熱は高そうじゃ。今しばらく寝ているが良いぞ」

 だから怖いんだ。不安なんだ。何故かは分からないけれど、ひどく恐ろしいんだ。トモキは思った。どうか、どうか僕を独りにしないで、と。
 女性はトモキに寝ているように告げると立ち上がろうとする。中腰にまでなり、しかしそうしたところで彼女の細く白い手をトモキの手が力無く握った。行かないで、と不安気なトモキの声の出ない口が象った。
 一瞬、女性は驚いた表情を浮かべるが、すぐに微笑みを浮かべるとまた座り直して、トモキの手を両手で柔らかく包んでやった。

「安心せい。妾はどこにも行かん。お主を独りにはせんからの。じゃから安心して眠るのじゃ」

 左手でトモキの手を握り、右手でゆっくりとトモキの髪を撫でてやる。前から後ろへ。髪を梳くように優しく、優しく撫でてやる。トモキは安心して笑みを浮かべ、眼を閉じた。ずっと昔、まだ自分が幼かった日々に感じたのと同じ感触に、冷えきった心が温まっていくのを感じて懐かしさに微笑んだ。
 意識が遠のいていく。だが、不安は無い。怖さは無い。全て頭を撫でるこの手が取り除いてくれた。
 だから眠りに落ちる直前に、トモキは何とか絞り出した。

「ありがとう……――母さん」




 気がつけばトモキは水の中で藻掻いていた。
 眼を開ければすでに水面からは遠い。辺りは暗く、ただ独り。
 自身の置かれた状況に理解が追いつかず、驚きと共に口の中の気泡が漏れる。当然水の中で呼吸は出来ず、トモキは苦しくなる。上を見れば、遥か遠い水面に光が一点。悲痛な表情を浮かべてトモキはそこを目掛けて泳ぐ。口から漏れた気泡を追って水面へ向かって水を掻く。
 何度も何度も両手を使って上へ上へと向かっていく。だというのに一向に光は近づかない。
 息が続かない。次第にトモキの水を掻く力が弱くなり、それでも必死に酸素を求めてトモキは泳いだ。歯を食いしばり、だが水面は遥か遠いまま。
 やがてトモキの手が止まった。瞼が徐々に狭まり瞳が光を失う。意識を無くし、深い水底へトモキの体が落ちていく。ゆっくり、ゆっくりと光を眺めるよう仰向けのまま沈んでいく。
 その時、光が動いた。
 水面より上に在ったそれが水中へと沈み込む。そして水の抵抗を物ともせずに奥深くに向かって、今尚沈みゆくトモキを光の玉は追いかけていった。光はトモキとの距離を見る間に詰め、トモキの胸の上へと降り立った。
 暗い水中で光が仄かに輝く。点だった光は次第に光を増し、トモキの全身を照らすほどになる。光に包まれ、トモキは眼を開けた。不思議な光に向かってトモキは手を伸ばし、暖かく輝くそれを両手でそっと掬い上げた。
 途端、光が世界に溢れた。
 暗く、黒一色の水中が色鮮やかに彩られていく。景色が一変し、それはトモキにとっても見覚えのある場所だった。

「ここは……っ!」

 そこは家だった。家の中の一室だ。トモキは目を見開いて部屋の全てを見回した。
 見覚えのある机。見覚えのある本棚。見覚えのあるクローゼットに見覚えのあるベッド。風に靡いたカーテンが涼し気な風を招き入れ、朝の香りを満たしていく。
 そこはトモキの部屋だ。トモキがずっと育ってきた、帰りたくても帰れない我が家であり、毎晩寝起きしていた自分の部屋だ。明日が毎晩憂鬱で、泣くのを堪えながら眠りに落ちた毎日。故にあまり好きでは無かった自分の部屋。それなのに、どうしてこんなにも懐かしいのか。郷愁に胸が押し潰されそうになり、トモキは眉尻を下げ、泣きそうになりながら家の中を慈しむように眺めた。

「そうだ……!」

 トモキは部屋を飛び出した。階段を駆け下りる。最後の数段を飛び越し、一階のキッチンへ身を躍らせた。

「母さんっ!」

 息を弾ませながらトモキは母を呼んだ。呼ばれたアカリはトモキの方を振り向き、トモキが知る笑顔を浮かべた。

「おはよう。今日はゆっくりなのね」
「あ、う、うん……」

 トモキは答えに詰まった。何を話していいか、次から次へと溢れてきて胸がいっぱいになって、話したいことだけが頭の中を駆け巡って、だけども言葉になってはくれない。それでもトモキは涙が溜まった目元を拭って微笑んだ。

「お、おは……」
「ああ、おはよう」

 背中の方から低い声。台所のドアを開けて現れたのは、皺のよったワイシャツに身を包んだ父のケンジだった。眠た気に眼を擦り欠伸しながらケンジはトモキの脇を抜けて椅子に腰掛け、テーブルに置いてあった新聞を広げた。その父の様子もまたトモキのよく見知ったものだった。
 変わっていない。何も変わっていない。その事にトモキは安堵した。そうだ、全てが夢だったんだ。いつもと同じ様にケンジとアカリと共に朝ご飯を食べ、ケンジは新聞を読みながらご飯を食べるため、アカリがプリプリと怒り出す。そんな朝は変わらずそこにあるはずだ。

「おはよう、父さん」

 トモキは父を、母を感じたかった。これまでの日々が夢であった事を確かめようと、その体の温もりを実感として確認しようと、料理を作るアカリの首筋に手を伸ばした。

 しかしその手はアカリの体をすり抜けた。

「あ……れ……?」

 もしかしてまだ寝ぼけているのだろうか。トモキは自分の手をマジマジと見て、もう一度アカリに手を伸ばした。だが手はまたしてもアカリに触れる事無く通り抜けて行ってしまった。

「はい、ご飯。梅干しは冷蔵庫にあるから自分で出してね」

 茶碗に装った、炊立ての白飯を手にアカリは振り返った。そしてトモキの体ごとトモキを通り過ぎていった。
 トモキは呆然と立ち尽くした。朝食を取り始めた二人をただ眺める事しか出来なかった。そしてトモキに見つめられている二人の姿は、何処までもいつも通りであった。トモキという息子など初めから居なかったかの様に、ずっと夫婦二人だけで暮らしていたかの様に、トモキが居ないのが当たり前である様に過ごしていた。
 トモキは愕然とした。父と母が居ると思っていた。ケンジとアカリを両親だとずっと思っていた。しかし、もしかしてその記憶そのものが作り物、或いは自分の想像が作り出した幻想なのではないか、そんな考えが内から首を擡げてきた。
 だが。

「トモキ……」

 無意識なのだろうか、不意にアカリの口からトモキの名が零れた。
 そしてトモキは気づいた。いつも通りに見えた二人の様子が、よくよく見れば何処か違うことを。
 記憶の中のケンジと比べ、頬は痩けてしまった様にも見える。ご飯を食べながら眼が覚めて段々と鋭くなる目付きも今日は力が無い。何処かぼんやりしているみたいで、らしくない、とトモキは思った。
 アカリもそうだ。柔和な笑みは変わりないが、目元には化粧で隠しきれていない濃い隈が主張していた。食卓を見ればいつもより並べられている料理の数は少なく、二人の食事を取るペースもかなり遅かった。そして時折視線を送る先。
 そこは、いつもトモキが座っていた席だ。

「父さん、母さん……」

 ひどく疲れて見えた。二人の姿が、急に小さくなった様に見えた。
 そう思ったと同時に、トモキの体が何かに引っ張られた様に宙に浮いた。

「え、あっ……!」

 ゆっくりとトモキの体は上へと昇っていく。必死にトモキは何もない空気を掻き、藻掻き、抗う。しかしトモキは不可視の何かに手繰り寄せられ天井へと吸い込まれていく。

「父さんっ、母さんっ!!」

 トモキは両親を呼んだ。だが声は聞こえるはずもなく、二人は黙ったまま食事を続けるばかりだ。背中を丸め、その様はまるで、死を間近に控えた老夫婦の様。悲しくなった。
 そうしている内にもトモキの視界は急速に闇が幅を効かせてきて、体は顔以外が完全に天井の中に消えていく。
 トモキは手を伸ばした。しかし当然ながら届かない。近く、だが遥か遠くにトモキは居た。
 こんなに近くに居るのに、声さえ届かない。触れることも出来ない。
 だから。

「父さんっ、母さんっ! 僕はここだ! ここに居るんだ! 気づいてよっ! 父さんっ、母さんっ! ねぇ!」

 叫んだ。喉よ、張り裂けよと祈った。この声が、この声が二人に届くのならば、喉など裂けて潰れてしまっても構わない。血反吐を吐こうと、舌がもげようと、それで想いが届くのであれば、代償としては安い。
 だから、トモキは叫んだ。

「父さぁんっっっ!! 母さぁぁぁぁんっっっ!!!」

 その声を残し、トモキの姿は掻き消えていった。
 そしてケンジとアカリは同時に目の前の皿から顔を上げ、天井を見つめた。そして互いに顔を見合わせ、椅子を立ち、階段を駆け上ってトモキの部屋の扉を乱暴に押し開けた。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 だがトモキの部屋には誰も居なかった。毎日アカリが掃除しているおかげで埃一つ無く、そして、昨日アカリが整えた時のまま、何も変わりは無かった。
 誰も居るはずが、無い。だが――

「……アカリも聞こえたのか?」
「ええ……何となくだけど……そういうケンジさんも?」

 問い返してきたアカリを振り返り、ケンジは頷いた。そして眉根を寄せて、堪える様に僅かに顔を顰めているアカリを抱き寄せた。

「――大丈夫だ。あの子は、まだ生きている。何処に居るかは分からないが、生きている。絶対にだ。トモキが、そう簡単にくたばるはずがない。あの子のことはお前が一番知っているだろう?」
「そう……ね。あの子は強い子だもの。優しいから辛い事も多いでしょうけれど、きっと乗り越えて、私達の所に帰ってきてくれる。だって……貴方と私の自慢の息子だもの」
「ああ。俺達の息子なんだ。いつか、絶対に帰ってくる」
「ただ――」

 アカリはケンジの肩に顔を押し付けた。

「あの子の、声を聞けて良かった……」

 アカリの吐息の温もりと涙の熱をワイシャツ越しに感じ取り、ケンジは何も言わずにアカリを強く抱き締めてやった。
 その仕草は、トモキがシオにしてやったものと瓜二つのものだった。





 蟀谷を流れる熱を感じてトモキは眼を覚ました。薄く眼を開ければぼやけた天井の木目が見え、眼を擦ると視界に掛かっていたフィルターは外れてクリアになった。目を擦った指に濡れた感触。指先に眼を遣ると光が反射していて、蟀谷に手を遣ったところでトモキは自身が涙を流していた事を知った。

「夢の、せいか……?」

 上半身を起こすと掠れた声でトモキは呟いた。泣く程悲しい夢を見たのだろうか。思い出そうとすると胸を叩く鈍痛。心臓が締め付けられた様に息苦しくなる。同時に、仄かな温もり。だがそれも一瞬で消え、微かに残っていた夢の残滓の記憶も瞬く間に霧散していった。
 その事をトモキは惜しいとは思わなかった。悲しい夢なら忘れてしまった方が良い。辛い事なら思い出さない方が利口だ。冷たくなった胸の内から感じる疼痛を無視して、内心でトモキは嘯いた。

「それにしてもここは……?」

 何処かの家なのだろう。トモキは部屋を見回し、自分に掛けられていた布団を軽く摘んだ。床は黒い木の板で出来ており、家の作り自体が木造で壁は土壁だろうか。白に比べて僅かに苔緑に近い色合いで、所々に黒い染み汚れが付着している。建てられてかなりの年月が経っている様だった。
 部屋の中には箪笥など家財道具らしきものが少ないながらも置かれていて、壁には家主の物なのか衣類が掛けられている。その意匠は和服の様に一枚で構成されていて、その下には幾本かの帯が無造作に置かれてあった。和服の様な衣装の隣にはトモキの魔技高の制服がハンガーに掛けられていた。
 布団の傍らには囲炉裏があって、その中では火が燃えていた。火の上には四本の脚が付いた金網があり、更にその網の部分の上には鍋が置かれて何かが煮こまれているらしく、良い香りが漂ってトモキの鼻を擽っていた。
 トモキは表情を変えずに冷静に観察していた。顔から表情が抜け落ちてしまっていた。動くのは呼吸のための口と家具の配置を確認するための眼だけ。それはトモキが意識してのことでは無く、トモキ自身も気づいていない。そして、何故ここまで落ち着いて観察をしているのかも分かっていない。心は何処までも平坦であった。
 ふと布団の中で動かした手に当たる感触。布団を捲ってみれば、トモキの剣が鞘に収まった状態で置かれていた。それを手に取り、鞘から引き抜く。そこには傷一つなく、磨き上げられたかの様に輝く剣身があった。その剣身に、幾分赤い部分が増えた髪色の自身の姿が映し出された。
 そうしていると、不意に引き戸が開いた。

「おや、起きたかの。どうじゃ調子は? 峠は越した様じゃから心配は無いと思うがの、まだ無理をせん事じゃが」

 声の主は、トモキが起きていたとは思わなかったのか、やや驚いた様に声を上げた。次いで、トモキの体を労る言葉を掛ける。トモキはその声の主を見上げた。
 声を掛けてきたのは女性だった。それも少女だ。身長は一三〇センチをやや上回るくらいだろうか。話し方の調子から年配の女性を想像していたトモキは僅かに目を見張った。
 更にトモキの眼を引いたのはその容姿だった。腰ほどまである長いストレートの髪は根本から先端まで見事なまでに真っ白だ。肌も雪の様に白く、着ている和装の服も全て白い。帯の色だけが臙脂色で印象強く、また全身が白い中でやや赤黒いまなこが特別印象的だった。整った顔立ちは幼さを残しているはずで、事実幼い。なのにトモキは彼女から年長の様な印象を受けた。

「君は……?」
「おお、そういえばまだ名も伝えておらんかったか。この数日お主と顔を突き合わせておったから失念しておったわ。失礼したの。妾の事はセツ、と呼んでくれれば良い」
「セツ、さん……」
「良い良い。『さん』などと敬称付けで呼ばれる程の大層な存在じゃありゃせんからな」

 そう言ってセツはトモキの隣に腰を下ろしながらカラカラと笑った。だがトモキにしてみれば「セツ」と呼び捨てにするには気後れした。見た目は明らかに少女なのだが、話し方と言い笑い方と言い、見た目とはかけ離れて老成した様な印象を抱く。見た目通りの年齢ではないのだろうか。特別長命な種の存在をトモキは知らなかったが、ここは自分の知る世界では無い。なればそんな種が居ても不思議ではない。トモキはそう考えて敬称を付けて呼ぼうかと思ったが、そんなトモキの内心を見透かしたかのように口を尖らせたのでトモキは諦めた。その仕草は歳相応に幼い印象を受けた。

「それじゃあ、その……セツ」
「なんじゃ?」
「ここは、何処ですか? 多分セツの家だと思うんですけど、どうして僕はここで寝てたんでしょうか?」
「敬語も別に使わんでいいんじゃが……まあ、そんな問答をこれ以上しても仕方なかろう。
 その質問の答えは単純じゃ。妾が近くの川岸に打ち上げられておったお主を拾ったからじゃの」
「川岸……?」
「恐らくは脚を滑らせたかして川に落ちて流されたんじゃと思うんじゃが、なんじゃ、覚えとらんのか?」

 ズキリ、とトモキの頭に痛みが走った。胸が軋み、悲鳴を上げ、だが直ぐにその溢れそうになる感情に蓋をした。だけども、何かがひび割れた様な気がした。

「いえ……朧気ですけれど覚えています」
「まったく、何があったかは知らんがヒヤヒヤしたんじゃぞ。拾い上げて連れて帰ったはいいが眼は覚まさんし高熱は出すしで、まあ良く生きとったというべきかの。頑丈な体に産んでくれた両親には感謝せんといかんぞ?」
「そうですね……
 ありがとうございました」
「礼など良い。困った時、というのはちと違うかもしれんがお互い様じゃからな。『情けは人の為ならず』じゃったかの? お主がもし誰かが困った時に手を貸してやれば良いからの」

 言い回しの使い方を間違っているが、トモキは指摘しなかった。一度嘆息し、顎を掻くと気を取り直してトモキは尋ねた。

「それで……あの、セツが僕をここまで運んでくれたんですか?」
「ぬ? まあそうじゃな。とは言っても妾一人じゃ到底お主を運ぶことなど出来んから他の者に手伝ってはもらったが。その内にその者もお主に紹介するから奴にも礼を述べてやってくれ」
「はい。それで……」

 トモキは一度口籠った。口を開く、その事自体を逡巡し、一度瞑目。だが意を決してセツに尋ねた。

「僕……独りでしたか?」

 セツの口が止まった。だが一度眼を閉じて考える素振りをした後、すぐにトモキの問いに答えた。

「いや……もう一人、獣人の子が居った」
「シオは……その子は今何処に居ますか?」
「……そうじゃのう」

 セツは立ち上がった。そしてトモキに「立てるか?」と尋ね、トモキは頷く。だが立ち上がったところでずっと寝ていた為に足元がふらつき、それを予想していたのかセツが傍らで支えた。

「すみません」
「仕方なかろう。妾が支えれば何とか歩くくらいはできるな?」
「はい。……お願いします」

 セツに支えられながら寝ていた部屋を出ると、そこはすぐに土間であった。用意されていた履物を履き、二人は並んで外に出た。
 外は雨だった。決して激しくは無いが、何処か物悲しい気持ちにさせる冷たい雨だった。セツは傘を取り出してトモキに手渡した。

「持っておれ」

 トモキは傘を広げると一度空を見上げた。何処までも曇天は広がっていて、川に流されて行き着いた先のここもまだ山の中なのか、周りに木々が多く並び立っていた。
 傘を下げる。そして前を遮る程に斜めにしてセツと共に歩き出す。傘の縁から更に視線を落とし、足元を見ながらトモキは歩いた。
 雨が足元で跳ね、素足を濡らす。歩く度に覚束ない脚に泥が跳ねて履物を汚す。セツに支えられている為歩みは遅く、それでも着実に目的地に近づいていた。

「ここじゃ」

 セツの声にトモキは顔を上げた。
 そこには何も無かった。雑草が生えた一面の土地。だがその一角に雑草が綺麗に抜かれて整地された跡があり、そこは少しだけ地面が盛り上がっていた。土盛の奥側には長方形に整えられた石が突き刺さっていた。
 墓標だった。

「シ…オ……」
「……妾が見つけた時にはすでに事切れとった。お主にとって大事な子だったんじゃろう? 意識を失っとっても強く抱き締めておって中々引き剥がせんかった。じゃが流石にそのままではお主も死に魅入られかねんからの。申し訳ないが無理やり引き剥がせてもらった」

 トモキは傘を落とし、覚束ない足取りで土盛りへ近づく。セツはその傘を拾い上げるが、差す事無く畳んでトモキと同じ様に雨に打たれる。

「それと……すまんのう。出来るならばお主が眼を覚ましてから埋葬してやりたかったが、亡骸をそのままにしておくと色々と問題でな。先に此方で葬らせてもろうた」

 すまぬ。セツは背を向けたままのトモキに向かってこうべを垂れた。
 雨が、強くなる。トモキは雨に打たれながら何も刻まれていない墓標を見下ろし、立ち尽くした。その姿を後ろから悲しそうに白髮の少女は黙ったまま見つめた。

「何ででしょうね……」
「……何がじゃ?」

 トモキは虚ろな眼で空を見上げた。雲は黒く、雨脚は激しさを増していく。顔に冷たい雨が次々と降り立って濡らし、目元に溜まりを作っては蟀谷へと流れを作って地面に落ちていく。

「悲しく、ないんですよ」
「……」
「大事な、友達だったんです。僕の、たった一人の友達だったんです。かけがえのない、本当にかけがえのない子だったんです。だから、悲しいはずなんです。
 実は、前に想像したことがあるんです。シオが居なくなったらって。その時は悲しくて悲しくて、胸が張り裂けてしまいそうで堪らなかったんです。だっていうのに、今は全然悲しくないんです。それどころか、何も感じないんです。辛くも、悲しくも……」

 トモキは雨で潤んだ瞳をセツに向けた。そして首を傾げた。

「何ででしょうね?」
「……雨が強うなってきた。まだ完全に体も癒えておるまい。これ以上濡れると体に障る。ほれ、家に戻るぞ」

 セツは息を呑んだ。そしてトモキの問いに答えずに平静を装ってトモキを家へと促す。だがトモキは動かず、セツは強引にトモキに傘を持たせると腰を押して無理やり家へと送っていく。

「後で体が温まる物を作ってやろう。じゃから濡れた服を脱いで布団の中で横になっておるが良い……いや、先に湯かの。風呂にでも入って温めるが良かろう」

 無言のままトモキは力無く頷いた。セツはトモキの手を引き、家の中に押し込む。
 雨脚は更にひどくなる。荒屋の屋根に打ち付け、太鼓の様にリズム良く音がする。遠くから雷鳴が聞こえてくる。この辺りは天候が不安定で、こういった風に雷雨を伴った荒天も珍しくない。雷鳴もいつも聞いている時は特に何の感慨も抱かない。
 だが。

「こやつのせいかのぅ……」

 今日の雷鳴は、まるで誰かが泣いている声に聞こえた。













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