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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved









 トモキとシオが互いに打ち解け合ってからの道のりは、少なくともトモキにとってはそれまでとは百八十度異なるものになった。これまでトモキは、鬱々とした気持ちを奥底に抱えて、どのようにコミュニケーションを取るべきか悩み、またトモキがシオを守ってあげなければと強い強迫観念に囚われていた。全ての思考に重い澱が絡みついていた。
 しかし今、トモキの心は軽やかだった。
 時折どちらからともなく話題が見つかれば話し掛け、笑い合う。山の歩き方はシオの方が優れているから、トモキの方からアドバイスを求め、逆に判断に迷うような時には二人で相談の上で最終的にトモキが方針を決め、どちらが上位となるわけでもなく、対等な立場で接することができていた。
 会話は増えたとはいえ、トモキもシオもそれぞれ話題を豊富に持っているわけでもなく、また口が達者なわけでも無い。自然、道中には互いに無言の時間も多かったが、それでも二人の距離は手を伸ばし合えば届く程度であり、沈黙の時間を苦痛と感じる事は無かった。

「今日はここら辺で休もうか。ちょっと疲れちゃった」
「分かった! さっき川があったからそこでお魚取ってくる!」
「お願いするよ。なら僕は薪に使えそうな木を集めてくるから、シオの方が先に戻ってきたらそのままちょっと待ってて」
「うん! 気をつけて!」

 初めの内は一日に進める距離もそう長くは無かった。矢を受けた後遺症とそれまでの精神的、肉体的過労からトモキの体力が直ぐに尽きてしまい、日が暮れ始めたらそこで野営の準備を行う。以前ならトモキも辛いのを我慢して先へ進むことを優先していただろうが、今は素直に疲れたと口にすることが出来ていた。何でも自分でしなければ、という考えはなくなり、食料の調達もシオに任せ、トモキ自身は自分で出来る範囲の事をする。気負いが無くなり、シオに仕事を任せる事に対する自分への罪悪感も無い。そして、その事にもう特に思う所も無かった。ただ誰かに任せられる安心感があった。

「……ちょっと待って。近くに誰かが居る」
「……本当だ。足音が聞こえる」
「右後ろからだ。何処か隠れられそうな場所は?」
「お兄ちゃん、こっちだよ」

 魔術を使えないトモキだが、魔技高の中でも図抜けた身体能力の他にも空間を把握する能力に長けていた。近くに人が近づいたり、見知った場所で何か変化があれば直ぐに気づくことが出来た。なので人里近くまで近づいた時にシオ以外の人間が近づけば、トモキがいち早くシオに知らせ、そして山の歩き方に慣れているシオが身の隠し場所を探して二人して息を潜める。
 今のトモキは犯罪者であるし、シオは人間に見つかるわけにいかない。山の茂みや自然にあった山肌の凹みに身を隠して何度も人間の兵士をやり過ごした。

「それじゃ今日は僕が何か探してくるよ」
「うん! じゃあ僕は焚き火を作っておくね!」

 体調が回復してからはその日の食料を調達するのはトモキの役目に変わった。川が傍にあればシオと二人して魚を捕まえるが――とは言ってもその場合は殆どシオが捕まえてトモキは一匹捕まえられれば良い方だが――無い場合はトモキが山に潜む魔獣や野生生物を狩っていく。狩りなど殆ど経験の無いトモキが普通の野生生物を捕まえるのは本来ならば至難の業だが、この世界では違った。
 魔獣は血気盛んにトモキを獲物と見定めて、そうではない通常の生物もトモキを餌と思うのか、向こうの方から近寄ってくる。普通は人を見かければ逃げ出すはずの鹿でさえそうだ。いや、それは鹿の様な別の生き物だったのかもしれない。いずれにせよ体調の回復したトモキからしてみれば、それらの獲物を返り討ちにするのは然程難しい話ではなかった。
 魔獣えものの動きを冷静に見定め、ぶつかり合う直前に必要な分だけ体をずらす。すれ違い様に、まるで居合の様に鞘から剣を抜刀してそのまま一閃。それだけで全ての魔獣を物言わぬ骸へと帰する事が出来た。

「ふふっ、お見事。もう生き物を殺す事に躊躇いは無くなったようだね。いや流石、流石」
「お前は黙ってろよ」

 獣を一匹消す度にまたあの少年が現れる様になったが、トモキは気にならなかった。彼が何者なのかは分からないが、どうせ相手にするだけ無駄なのだ。
 それに、とトモキは血で汚れた自分の手を見つめた。魔獣や動物を殺すのに戸惑いや恐怖が自分の中から消えたのは、少年の言う通り事実だ。人に限らず生き物を傷つける事を避けていた自分はもう居ない。自分は変わってしまった。だがそんな自分を悪いとは、嫌だとは思えなかった。
 その要因がただ単に命を奪うことに慣れてしまったからなのか、それともシオという守りたい存在のせいなのかは分からない。無闇に命を奪うことはしたくない。けれど――

「一方的に奪われるくらいなら――」

 元の世界の人達。そしてニコラウス達の存在。彼らの顔が浮かんで消えていく。トモキはかぶりを振った。手の中の剣を握り締め、そしてたった今斬り殺した猪獅子型の魔獣の元へ歩いて行く。前足から尻へ掛けて両断されたその遺骸にそっと手を合わせると、右手で猪獅子を引きずりながらシオの所へと戻っていく。

「それでね、それでね、その時は――」

 食料を確保した後は二人で楽しく喋りながら夕食を取る。この時ばかりはシオも一生懸命お喋りをし、これまでで楽しかった事、面白かった事を語り、トモキもまた昔の、トモキがトモキらしく友達と仲良く過ごしていた時期の思い出を出来る限り話してあげる。
 語り合い、笑い合う。焚き火の仄暗い灯りが火を挟んで向き合う二人の顔を平等に照らし、肌寒い夜の山の空気を優しく温める。
 一日が終わりに近づくと更に二人の間の空気は和らぐ。眠気がトモキを襲い、ウトウトしていると、シオがそっと背後に近づいて、水で濡らしてひんやりした手でトモキの首にあてがって悪戯をしたり。
 それでトモキが跳ね起きてシオの体を抱え上げて「悪戯する子にはお仕置きだっ!」と叫びながらクルクルと振り回してみたり。
 その途中で足元の石に躓いて二人して転んでみたり。そして、二人してお尻を擦りながら笑い合って。
 夜には火の傍で二人で並んで横になって、シオが体を丸め、トモキはシオが寒くないように上着を掛け、シオを抱き抱えるような体勢になる。横になり、二人して眼を瞑ればすぐにどちらともなく寝息を立て始める。仲良く寄り添って眠りにつくその姿は、まるで仲の良い兄弟のようだった。



 二人にとって楽しく、そして心地良い日々は瞬く間に過ぎていった。



「何をしてるの、お兄ちゃん?」

 翌日にはとうとうシオの住んでいた獣人の里に辿り着く程に近づいたその前夜。
 小さな切り株の上に腰を下ろして空を見上げていたトモキは、シオから声を掛けられて徐ろに顔を上げた。

「ああ、久々に絵を描きたくなってさ。せっかくシオが買ってきてくれたからね」

 そう言ってトモキは、まだ何も描かれていない真っ白なスケッチブックを掲げてみせる。
 トモキが言った様にこの新しいスケッチブックは、先日見つけた町でシオに買ってきてもらった物だ。
 ニコラウスから逃げ出してすで一週間近く経過しており、その間歩き続けた二人はいつの間にか人族の国であるアテナ聖王国を抜けてベネディスク獣皇国へと達していた。山の中を只管に進み続け、食料などは魔獣などを狩って何とか過ごしていたが、やはり一番の懸念は水の確保だった。時折見つけた小川で渇きを凌いではいたものの、近くに川の無い場所を進む時に備えて携帯できる水筒などの必要性をトモキは感じていた。
 そんな折に町を見つけ、水筒の他にも必要な物を買い込むことに決めた。二人で町へ降りて行って買い物をしてもいいが、すでに獣人の国である。先日の人族の町の事もあって、人であるトモキが町に入ればトラブルが起こると予想するのは容易い。なので携帯や時計、日本の紙幣など売れそうなものをシオに手渡して買い出しを頼む事となった。その時に色々と相談して買う物を決め、旅装としてのマントや水筒、荷物を入れる鞄など様々だが、一つだけトモキが「我が儘」としてお願いしたのがこのスケッチブックであった。
 食事も終えて、トモキは独り切り株の上でぼんやりと空を見つめていたが、不意に絵を描くことを思い立ち、夜空に浮かぶ真ん丸の月を眺めていたのだった。しかしどうにもイメージが固まらず、単なる物思いの時間に類しかけていた。

「そうだ、シオ。ちょっとそっち行って」
「こっち?」

 トモキに言われるがままにシオはトモキと月の間へと移動する。ゆっくりと木立を抜け、すぐ傍の、つい数十分前に焚き火をしていた小さな草原の真ん中に達した時、トモキは「ストップ」と声を上げた。

「うん、そこ。そこの石の上に座って。そう、こっちに背を向けて少し月を見上げて」

 トモキの指示通り、岩と言うには小さい石の上に腰掛け、両腕を石に突いて満月をシオは見上げた。「そのまま動かないで」と言われ、これでいいのかな、と小さく呟きながら体勢を維持する。
 やがて十分程経ち、そろそろシオの腕が痺れてき始めた頃、トモキから声が掛かった。

「うん、もう良いよ。ありがとう」

 シオが振り向いた時には、すでにトモキは景色を見ておらず、何かに集中する様に両目を閉じていた。トモキの元に戻り、その手元を覗きこむがスケッチブックはまだ真っ白のままだ。
 どうしたんだろう、描かないのかな、とシオが首を傾げていると俄にトモキが眼を開いた。
 鉛筆を軽く握りしめ、黒鉛を白いキャンバスに擦り付けていく。右へ左へ。上へ下へ。一切の躊躇いも無く鉛筆を動かし続け、瞬く間にスケッチブックに一枚の絵が描き出されていく。

「……!」

 何処か鬼気迫る様子のあるトモキに気圧されてシオは立ち尽くしたままその様子を見ていた。
 瞬きさえ忘れたかの様にトモキは頭の中に見えている景色を、鉛筆を使って叩きつけていく。額から汗が滲み、大きな粒となって蟀谷こめかみを流れ落ちようかという時、不意にトモキの手が止まった。

「ふぅ……どうかな?」

 大きく息を吐き出し、額の汗を拭いながらスケッチブックを後ろに立っていたシオに差し出した。
 そこに描かれていたのは、一枚の風景画の様な絵であった。しかし真ん中には、近くの何処にも無い大きな泉の様な水面が描かれ、その奥によく茂った木々が並んでいる。空からは真ん丸の大きな月が照らし、水面の中心ではシオが楽しそうに笑いながら踊っている様子が描かれていた。

「すごいよ、お兄ちゃん! すっごい絵が上手なんだね! 僕、ゲージュツとか良く分かんないけど、何だかこの絵を見てるとすっごくドキドキしてくる!」

 鉛筆だけで描かれた白黒の絵。だが巧みに濃淡が付けられ、モノクロでありながら彩りが感じられる。
 興奮した様子で賛辞を惜しみなく投げ掛けてくるシオ。褒められて面映いのか、トモキは含羞みはにかみながら頬を指先で描く。

「でも」シオは絵を見ながら小首を傾げた。「この中の僕、独りだけど他の人と一緒に踊ってるみたい」

 シオの指摘した通り、描かれているのはシオ一人だがその体勢や伸ばされた腕の様子はまるでそこに見えない誰かが存在しているかの様だ。もちろんそれもトモキが意図したもので、そこの意味するところをトモキは解説しようとするが、少し考えて止めた。

「そうだね。きっと、いつかシオがこんな風に誰かと踊る日が来るのかもね」

 そう言うに留め、トモキは微笑んだ。そんなトモキをシオは不思議そうに眺めていたが、これまで見せていた笑顔が消え、不意に表情を曇らせる。

「どうしたの? 気に入らなかった?」
「ううん。そうじゃないんだけど……」

 様子が急変したシオに、トモキは絵が好きになれなかったのか、と尋ねるがシオは首を横に振った。

「ねぇ、お兄ちゃん」
「ん? 何かな?」
「明日には、里に着いちゃうんだよね?」
「たぶんね。シオがさっき言ってたじゃない? どうしたの? 何か気になる事でもあるの? 言ってごらん?」

 切り株から降りてシオの前に屈み込み、下からシオの顔を覗きこんで優しく話し掛ける。小さく笑みを浮かべるトモキの顔をシオは一瞥するが、どこか躊躇うかのようにトモキから視線を逸らした。それでもトモキは辛抱強く黙って待ち、それ以上促すことはしない。シオの視線がトモキとスケッチブックを何度か行き来した後、ギュッとスケッチブックをシオは抱き締めて、下唇を噛んだ。

「里に着いた後、お兄ちゃんはどうするの?」
「どう……しようかなぁ?」

 そういえば、何も考えて居なかった、とここに来て初めてトモキは気づいた。

(そうか……もう、明日にはシオともお別れなんだ……)

 この世界に来たばかりの頃は生きる事に必死で、耐える事に必死で他に何も考えられなかった。シオと二人で逃げ、こうして山の中で過ごしている間は、その居心地の良さに安住し、シオを無事に里へ送り届ける事だけを考え、そこで思考を停止させていた。
 その先にある「前」を考えれば、否応なしにやがて来る別れの事を意識せざるを得ない。それをトモキは無意識に恐れていた。

「まだ、特に何も考えていないけど……そうだね、何処か暖かい場所でも探してみようかな」

 空を見上げてトモキは呟いた。ゆっくりと歩き出し、木立を抜ける。ポケットに手を突っ込み、叢に立ち尽くす。
 少し前は、帰りたいと思っていた。世界地図を見て、この世界がトモキが過ごした世界と異なる場所であると知って落胆した。失望した。
 だけども、今はどうだろうか。今、自分は元の世界に戻ることを望んでいるのだろうか。あの、下を向いてただ過ごすだけの日々を甘受したいのか。

「この世界で生きていくのも……悪くないのかなぁ」

 そんな言の葉が口から滑り落ちた。

(ここらだってそんなワリィもんじゃねぇさ!)

 夜の風がトモキの頬を撫で、頭の中でアルフォンスの言葉が反響して消えていった。

「……お兄ちゃん」

 トモキが雲が近づいてきた月を見上げている中、シオは意を決した様に尋ねた。

「僕も、お兄ちゃんに付いて行ったらダメかなぁ?」



「僕はね、お兄ちゃん。『呪い子』なんだって」

 焚き火を前に二人が並んで座る中、シオは俯いてそう切り出した。

「呪い子?」
「うん。里の皆も……お父さんとお母さんも僕をそう呼ぶんだ」

 炎に薄く顔が照らされ、シオはお湯の入った水筒を抱えながら右手を顔の前に掲げた。そして見る見るうちに右腕が手首の辺りから太くなり、赤みがかった灰色と金色の入り混じった毛が覆い隠していく。と、そこまででシオは落胆したように溜息を吐いた。

「僕は、頑張ってもここまでしか獣人になれないんだ」
「他の人は違うの?」

 シオの言葉に何処か違和感を感じ、しかしそれが何なのか分からないままトモキは尋ね、シオは再び俯いて首を横に振った。

「うん、違うんだよ。だって、皆は元々・・獣人なんだもん。里の人は犬や猫や熊とか、色んな人が居るけど皆は元々犬だったり猫だったり熊だったりするんだ。普段はそっちの姿で過ごしてるんだけど、必要な時は人間に近い姿になれたりもできるんだよ。でも、皆人間が嫌いだから滅多に変身しないけどね。
 だけど、僕は皆と違って今の姿が普通なんだ。お兄ちゃんは、僕達獣人が生まれた時どんな姿か知ってる?」

 問われてトモキはいつかのテレビ番組を思い出した。それはある獣人一家の生活を追ったもので、その中には獣人女性の出産の様子がカメラに映されていた。

「確か、人間とそんなに変わらない姿だったと思うけど……」
「うん。僕達は生まれた時は人とそんなに変わらないんだ。だけど、大きくなるとそれぞれの種族の姿に変わっていくんだよ。僕は灼熱狼族だから、普通はこの右手みたいに体中に紅い毛が生えていくんだ。周りの友達は皆、お父さんやお母さんと同じ姿になっていった。けれど、僕だけはいつまで経っても人と同じ姿のままだった……」

 毛に覆われた右手を見つめながらシオは言葉を吐き出す。その表情には感情が抜け落ち、様々な想いが幼い心に渦巻いているのをトモキは感じたが、如何なる言葉を掛けるべきか、トモキには分からない。

「僕が狼になれないって分かってから、皆変わってしまった。里の大人達は僕を『呪い子』って呼んでくるし、仲の良かった友達はみんな僕をいじめるんだ。優しかったお父さんとお母さんは毎日喧嘩ばかりするし、僕が近寄るとお父さんは『汚らわしい人間の子』だって叫んでブツんだ。お母さんは大声で叫びながら泣き始めるんだ……」

 シオは膝を抱え込み、膝小僧に顔を押し付けた。そしてそのまま押し黙り、声を押し殺したまま肩を時折震わせた。
 トモキはシオのその肩を抱き寄せ、優しくシオの柔らかい髪の毛を撫でた。嗚咽が少しだけ漏れた。

「だから……家には帰りたくないんだね?」

 腕の中でシオが小さく頷いたのが分かった。

「そう……」

 トモキは掛ける言葉を躊躇った。頭の中で言葉を探しまわり、しかしどんな言葉を掛けても安っぽい同情の様な気がして、どうすべきか分からなかった。シオの辛さはシオにしか分からず、トモキがどれだけ親身にしようとトモキはシオでは無くどこまで行ってもトモキだ。それでも何か言葉を掛けてあげたい。その想いにだけ押し動かされて口を開き、ただ一言だけ言葉を紡いだ。

「辛かったね……」

 腕の中の嗚咽が少しだけ大きくなった。けれど泣き声は押し殺したままで、体の震えだけが大きくなる。漏れるのは泣き声では無く、何かに堪えるだけの嗚咽だ。だがそれだけにトモキはひどく胸が、心臓が掴まれる想いがした。
――どうして、どうして……
 トモキの胸の奥で渦巻く感情をうまく言葉で表現できない。どうしてシオが声を押し殺して泣かなければならないのか。どうして人に近しい容姿であるだけで迫害されなければならないのか。言葉も通じ、考える頭があるのにどうして人と獣人はこうまで憎しみ合うのか。どうして自分は慰めの言葉一つ満足に投げかけてやれないのか。どうして、どうして――
 トモキは歯噛みした。不甲斐ない自分に下唇を噛んだ。プツリ、と避けた唇から血が小さく溢れて、しかしそれがどうしたとばかりにトモキは尚も強く、溢れる激情を抑えるかの様に噛みしめる。
 溢れる感情に、堪らずトモキはシオを正面に抱き締めた。両腕をいっぱいに使い、シオの背中と頭を強く自分の体に押し付け、自分の熱で悲しみよ溶けろと念じた。温もりで凍えた心よ消え去れ、と願った。
 只管にトモキは願い、只管にトモキはシオへと人の温もりを与え続けた。それが、シオを少しでも暖めてくれると信じて。



「もう、いいの?」

 しばらく泣き続けた後、シオはトモキから顔を話した。目元をゴシゴシと強く擦ったせいで赤くなり、シオは気恥ずかしそうにトモキから顔を逸らして頷いた。

「うん……その、ごめんなさい」
「どうしてシオが謝るのさ」トモキは苦笑を浮かべた。「悲しかったら泣けばいいし、楽しかったら笑えばいい。それが自然だし、そこに人間も獣人も無いさ。特にシオは今まで我慢してきたんだ。少なくとも僕と居る時は我慢する必要はないよ。それに……」

 トモキもまた少し恥ずかしそうに笑った。

「僕もこの前シオの前で大泣きしちゃったからね」
「……なら、これでおあいこだね」
「そうだね」

 そして二人してクスリ、と小さく笑った。だがトモキはすぐに表情を引き締めてシオの眼を見つめる。

「さっきの話だけど……僕はシオが望むならシオと一緒に旅をしたい」
「ホント!?」

 トモキの言葉にシオは一層破顔してみせた。だがトモキは「だけど」と喜びを露わにするシオを一度制した。

「それも一度シオは里に戻らないといけないと思う。お父さんとお母さんと会って、話をして、それからもう一度決めて欲しいんだ」
「…………」
「気持ちは分かるけどね」

 そう言うとシオは途端に表情を曇らせて黙り込んだ。トモキは薄く苦笑いを浮かべ、「聞いて」とシオの顔を優しく包んで逸らした眼をトモキに向けさせる。

「僕が思うに……たぶん、シオのお父さんとお母さんはすごくびっくりしたんだと思う」

 シオは首を傾げ、だがジッとトモキの眼を見つめ返す。

「他の友達がそうだったみたいに、お母さん達もシオがお母さん達に似てくるって思ってたに違いないんだ。獣人らしく成長するって思ってたはず。だってそれが当たり前だからね。けれど、シオはそうはならなかった。当たり前が当たり前じゃなかったんだ。だから凄く驚いたはずだよ。びっくりしてびっくりして……シオに対してどう接していいか分からなかったんだと思う。シオも経験は無いかな? 思ってもみなかった事が起こった時にどうしていいか分からなくなった事は無い?」
「ある……かも」
「うん。だからそういうことだと思うんだ。お父さんとお母さんはそれまで優しい人だったんでしょ?」

 シオは頷いた。

「それだけシオの事を大切に思っていたはずなんだ。大切な自分の子供が考えていたのと違ってたから驚いてしまって、それでシオに対して冷たくしちゃったんじゃないかな?」
「そう、かなぁ……?」
「そうだよ。
 ――シオは、お母さんとお父さんの事、好き?」
「……うん」
「なら同じ様にお母さんもお父さんもシオの事が好きなはずだよ。自分の子供なんだ。本気で嫌いになんてなれるはずが無い。きっとシオが突然居なくなって、物凄く心配してるさ。きっと、冷たくしてしまったことを後悔してるよ。
 だからさ、一度家に戻って、自分は元気だって言う事をキチンと伝えて、僕はお母さんとお父さんの事大好きだよって伝えるんだ。その上でシオが僕と一緒に行きたいって思ったなら、僕は何も言わないよ」

 心掛けて出来るだけ優しくトモキはシオに向かって語り掛ける。穏やかに薄く笑みを浮かべ、シオを落ち着かせる様に柔らかな髪を撫でながら。
 対するシオは、撫でられる感触に、トモキの言葉に戸惑いながら黙って聞いていた。
 シオは迷っていた。トモキの言葉を、本当だろうか、と信じられなかった。
 シオの眼には、半狂乱で泣き叫ぶ母親の姿が眼に焼き付いている。憎しみの篭った視線で自分を睨みつける父親の眼光が脳裏に刻み込まれている。初めて人から獣人に・・・・・・変身できて、その成果を両親に見せた時、シオの世界は終わりを告げた。あの時の両親の姿は、シオに絶望し、シオへの愛を切り捨てた。初めて、絶望と憎しみという感情を理解した。言葉として、また感覚として明確に理解したわけでは無いけれども、シオはそう感じていた。だからトモキの言葉を信じきることが出来なかった。

「う……ん……」

 だが一方で、シオの本心として両親を愛しているのも確かだ。冷たい眼差しの記憶と並んで、今よりも更に幼い時期に貰った優しい日々の記憶は今も尚、今だからこそ鮮やかな羨望の記憶としてシオの中にこびり付いていた。
 シオは信じたかった。父が、母がまだ自分を愛してくれていると信じたかったのだ。誰よりも身近な他人が、また再び自分の頭を優しく撫でて抱きしめてくれるのだと思っていたかったのだ。また、「カシオローネ」と呼び掛けてくれる暖かな声を、シオは欲していた。

「――分かったよ。お兄ちゃん」

 だからシオは頷いた。

「明日、お母さんとお父さんに会ってくる。そして、お話してくる。今までありがとうって、これまでも、これからも大好きだよって言ってくるよ」

 揺れる瞳で、やや潤んだ眼差しをトモキに向けて、けれどもはっきりとした口調でシオはそう告げてきた。怖いのだろう、シオの手はよく見なければ分からない程度に震えていたが、恐怖を胃の奥へ飲み込んで両親と向き合うことを決意した。

「シオは偉いね。凄いよ」
「……そうなの?」
「そうだよ。お母さんとお父さんと向き合うのは怖いよね? でも、それを自分の意思で決めたんだ。普通、シオくらいの――ううん、僕とかもっと大人の人でも怖いことなんだ。だからその怖さに打ち勝ったシオはとっても偉いんだ」

 トモキが褒めるとシオはむず痒そうに体を捩った。その様に微笑ましさを感じながら、トモキは「さあ、そろそろ寝よう」と促して自分も町で購入したマントを広げて横になった。シオはトモキの隣で丸くなり眼を閉じる。
 シオの様子を確認するとトモキはその体を左手で包み込み、自分も眼を閉じようと思ったその時、シオが眼を閉じたまま口を開いた。

「もし、明日が終わっても……お兄ちゃんにまた会えるよね?」
「……当たり前だろ? 僕らは――友達じゃないか」

 髪を撫で微笑んでトモキがそう言ってやると、シオは満足したように笑った。

「だよね。それじゃおやすみなさい」
「ああ――おやすみなさい」

 シオの言葉はそれっきり途絶え、程なく穏やかな寝息が聞こえてくる。それを認めるとトモキもまた眼を閉じ、微睡んでくる。
 そんな中、トモキは先ほどシオに言い聞かせた自分の言葉を振り返る。

(――母さん、父さん……)

 自分を育ててくれた両親の事を思い出す。物心着いた時から彼らはトモキと共にあり、共にたくさんの思い出を育んできた。たくさんの愛を注いできてくれた。

誰一人として・・・・・・君の心配なんてしていない)

 瞼の奥で少年が嘲笑う。トモキは体をギュッと丸めた。
 僕は信じない。二人は僕の事を大切に思ってくれている。あの時の夢も、きっと瞞しまやかしだ。二人は、絶対に僕の事を心配してくれているはずだ。トモキは自分に言い聞かせた。
 子供の事を本心から心配しない親なんて、絶対に居ない。世の中、色んな親子が居て、捨てられた子供だって、虐待された子供だって居る。だけど心から子供を憎む親なんて居ないはずだ。
 信じるんだ。僕は、独りじゃない。誰が見捨てても、あの人達だけは僕の味方であることを。
 微睡みが深くなり、トモキの思考が胡乱になっていく。トモキはそれ以上考えるのを止めて、眠りゆく流れに身を任せた。
 思考が消え失せる最中、最後にトモキは思った。
――僕の、本当の両親は僕を愛してくれていたんだろうか。













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