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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved







「ふむ……話を聞く限りは恐らく高魔毒障害じゃろうな」

 急ぎ山道を駆け抜け、その日の内にセツの家へ帰り着いたトモキは村で見聞きした事を具にセツに伝えた。トモキが伝える情報を聞き、時折質問を投げ掛けながらセツは自身が知る病のリストを頭の中で探していく。そわそわと落ち着かない様子のトモキを尻目に、薪が鳴き声を上げる囲炉裏の傍で腕を組み眼を閉じていたセツだったが、赤い眼が露わになるや否や開口一番にその病名を口にした。

「高魔毒障害、ですか?」

 医学の知識のないトモキがその名を当然知るわけも無い。首を傾げながら単語を鸚鵡返しに繰り返すだけだが、セツは鷹揚に頷いた。

「うむ……高濃度に濃縮された魔素を摂取し続ける事で体内に異常に魔素が溜まった症状の事じゃ。本来ならば汗とかと共に体外へ排出されるはずじゃが、摂取された魔素は物質化して粘度の高い液状となるからの。濃縮されたせいで排出ラインの何処かで詰まりが起こったんじゃろう」

 元の世界で一般的な知識に照らし合わせてトモキは高血圧を思い浮かべた。ドロドロになった血液によって血管が詰まって様々な合併症を引き起こすが、それと似たような病気だろうか。

「確か村では皆井戸水を飲んでおるんじゃったな? 農作業にもその井戸水を使っておる、と」
「たぶん。何箇所かにポンプ付きの井戸が設置されてるのを見ましたから」
「であればこの間の大雨で山の魔素が地下水に流れ出したか……この山は魔獣や魔族が多く生きておるが、それはその分魔素が濃いという事じゃ。これまでも魔素は地下に染みておったんじゃろうが、雨で土砂崩れが起きたせいで一気に井戸水に混入したのかもしれんの」

 セツは顰めっ面をして小さく舌打ちをした。

「迂闊じゃった……普段からもうちっと真面目に魔素流れパスを確認しておくんじゃった。そうしておれば死なずに済んだ者もおったろうに……」

 組んだ腕の中で小さな手が強く握られる。歪んだ表情の下にあるのは自らへの怒りか、それとも悔しさか。セツは内に渦巻く澱みを溜息と共に吐き出した。

「ともかく、今更悔やんでも仕方ない。時間がありませんし、今からでも薬を持っていきますからセツは準備をお願いします」
「う、む……そうじゃな。お主の言う通り今更後悔しても遅い。ならば急ぎ作る事としよう」

 スクっと立ち上がり、白い着物の裾を翻しながらセツは隣の調合部屋へ歩いて行く。その後にトモキも続くが、セツはトモキに部屋で休むよう告げた。

「残念じゃが、この薬に作り置きは無くての。幸いにして材料は揃っておるから今から一から作り始める。出来上がるまでトモキは寝て体力を温存しておくのじゃ」
「……どれくらい掛かりますか?」
「徹夜で作り続けて……ある程度の人数分が揃うのは早くて夜明けくらいになろう」
「何か僕に手伝える事はありませんか? 雑用でも何でもいいですから……」
「落ち着かんのは理解るがの」セツは脚を止め、部屋の明かりを付ける。手早く箪笥から種々材料を取り出して笊の上に乗せていく。「ハッキリ言えば、作業に慣れぬ人間が傍におると返って邪魔になるんじゃ。お主の役目は出来上がった薬を逸早く村に届ける事じゃ。寝不足の頭で道を間違えでもすればそれだけ余計に時間が掛かる。出来上がれば直ぐに声を掛ける。じゃからお主は体調を万全にして、一秒でも早く村に届けられる様にするのじゃ」

 少し強めの口調で言われ、トモキはたじろいだ。言い募りたい気持ちはあったが、今が一刻を争うのは承知している。口論をして薬の作成が遅れればその分命を落とす人が出るかもしれない。仕方なく囲炉裏部屋へと脚を向け、横になろうと布団の収納された押入れを開けた。少し肩を落としながら。
 それを見たセツは小さく嘆息すると白い髪を掻き毟った。

「そう拗ねるでない。要は適材適所、と言うやつじゃ。妾にはお主の如くあの山道を駆け抜ける事は出来んでの。明朝は期待しとるからの」
「……頼みますよ? アイリスさんの命がセツにかかってるんですから」
「任せい!」セツは自分の胸を叩いてみせた。「アヤツには妾にまで奥方の事を黙っておったんじゃからの。紹介させるまでは絶対に死なせんのじゃ」

 では、の。最後に笑顔を見せてセツは部屋の中に消え、トモキもまた笑顔で応えてみせる。
 部屋を仕切る戸が閉められ、トモキは小さく鼻から息を吐き出すとポリポリと頭を掻いて囲炉裏端に敷いた布団の上に寝転がる。そして独り眼を閉じ、セツに言われた通り眠りに就こうとした。
 しかしトモキは寝付けなかった。自分の心臓の音が、穏やかなのにやけに耳につく。備え付けの時計が針を刻み、囲炉裏の中の薪が小さく弾ける。
 それでも尚も眠ろうと寝返りを打つが、シャツの微かな擦れが気になってしまう。シーツがざわめく僅かな音さえやけにはっきりと聞こえた。
 諦めてトモキは眼を開けた。胸を一度大きく膨らませて息を吐き出し、目元を強く擦る。どれくらい時間が経ったか、と時計を見てもまだ一時間と少ししか経っていない。
 トモキは調薬部屋を見て耳を澄ませた。奥からは物音が絶えず聞こえてきて、セツが作業しているのが理解る。トモキは寝直して天井を見上げた。

(こんな事なら調薬の仕方とか教えてもらっとけば良かったな……)

 元の世界みたいに時間に追われる訳でもないのだ。幾らでも時間があったのに、畑仕事だとか薪拾いをのんびりやってるんじゃなくて、人の為に使えそうな知識を学ぶべきだった。そうすればもっと早く調薬作業も終わったかもしれないし、こうして落ち着かない時間を過ごさずに済んだ。

(今回の一件が終わったら教えてもらおう)

 反省し、トモキはそう決意した。そして手を真っ直ぐ前に伸ばして見た。
 今まで何も出来やしない。誰も助ける事が出来ない。剣を奮うばかりで、それすらも結果が伴わない。無力だ。そう思っていたが、もしそんな手でも薬を作ることが出来たら誰かの役に立てる。必要とされる。そう考えると心が震えた気がした。だがそれは恐怖では無く、昂った震えだ。

「……そうだ」

 少し落ち着いて再び眼を閉じかけたトモキだったが、不意に体を起こすと壁際に這って行く。箪笥の中の一角をセツからトモキ用に割り当ててもらったが、その抽斗を開け、画用紙と鉛筆を取り出した。それを持って布団の上に戻ると、うつ伏せの状態で眼を閉じた。
 そのまま三分が経ち、五分経つ。やがて十分程その状態のままで居たトモキだが唐突に眼を開くと、画用紙に丁寧なタッチで絵を描き始めた。
 鉛筆が擦れる音が静かな夜に響く。そうして夜は更けていった。




「出来たのじゃ、トモキ!!」
「ふぇ?」

 夜が明け、日が昇り始めた時、調薬部屋の戸が勢い良く開けられて景気の良い音が静かな家に鳴り響いた。その音にトモキは眼を覚ますと、寝ぼけ眼を音を立てた主に向け、それを見たセツは溜息を吐いた。

「その様子じゃと言いつけ通りちゃんと休んだようじゃが……いつまで寝ぼけとるんじゃ! 薬が出来たぞ!」
「……ほ、本当ですかっ!?」

 セツの声に眼は覚ましたものの、シパシパと瞬きを繰り返していたトモキだが、改めて大声で伝えられて一気に眼を覚ました。布団を跳ね除け、口元のヨダレを右手の甲で拭うと覚束ない足取りながら慌ててセツの傍に駆け寄る。

「ほれ、これじゃ。正確な人数が分からんでの、とりあえず重症患者に合わせて十人分程作った。症状が軽いようなら全部飲み干さんでも良いじゃろうから他の患者と融通させれば良い」

 トモキの手に十個ほどの薬包紙を乗せ、セツは大きな欠伸をした。流石に徹夜での集中作業は堪えたのか、目の下にはくっきりと隈が出来ている。眠いのか眼は半分閉じかけて、しかしそれでも必死で開こうとしているせいか随分と険しい表情だ。

「それじゃあ後は任せたぞい。妾の役割はここまでじゃ。流石に徹夜は眠いわ。歳じゃのう……」
「セツが言っても説得力無いですよ、それ」

 見た目がどう見ても幼女にしか見えないのに、そんな彼女が婆臭く腰をトントンと叩く様子に違和感しか無く、苦笑を禁じ得ない。

「とりあえず妾は一旦休むでの。もし薬の数が足りなかったらすぐに戻ってくるのじゃ。お主が戻ってくるまでにはもう少し数を整えておくからの」
「分かりました」

 トモキは急いで制服を着こみ、剣を携える。薬をポケットに突っ込んで村へ向かって駆け出そうとしたその時、セツが呼び止めた。

「トモキ、ほれ」
「……ハジの実?」

 セツから投げ渡された赤く熟した果物。それはセツの大好物で、先日トモキが持ち帰った内の最後の一個だった。

「道中で食べるが良い。大して腹の足しにはならんじゃろうが、無いよりマシじゃろう?」
「……ありがとうございます」

 普段なら決して譲ってくれないそれを渡してくれた事に感謝し、トモキは頭を下げた。そして今度こそ走りだし、あっという間にセツの視界からトモキの姿が消えていく。

「やれやれ……これで一安心じゃと良いがのう」

 トモキを見送ったセツは朝ぼらけの空を見上げ、遠くに雲を見つける。黒い雲の姿に、また一雨来るかもしれんの、とボヤいた。
 湿った空気を感じながら家の中に入り、土間の沓脱ぎ石に履物を脱いでセツは囲炉裏部屋に上がる。囲炉裏の火はすでに消えているが、湿気が高いためかあまり寒さは感じない。

「折角じゃし、このままトモキの布団で横になるとするかの」

 眠い目を擦り、めくられたままの布団の中に脚を突っ込んだセツだが、ふと枕元に画用紙が置かれているのに気づいた。手に取ると、そこには鉛筆で画が細かく描き込まれていた。

「トモキ、が描いたんじゃろうか。何じゃ、立派な腕を持っておるではないか」

 画は二枚。一枚は囲炉裏部屋でトモキと思われる男がセツと二人して調薬をしているもので、もう一枚は同じく囲炉裏を四人で囲んで食事を取る団欒の光景を描いたものだ。
 一枚目では作業は男性の方が行い、隣のセツが何やら指示を飛ばしているのか薬草を片手に持ってトモキに向かって話し掛けると共に指で何かを指し示していた。トモキの表情は描かれていないが、セツの方は真面目な表情を浮かべ、しかし何処か口元は嬉しそうに綻んでいる。

「ふむ……薬について学びたい、という主張なのかのぅ……」セツは絵を眺めながら口元を撫でた。「そうじゃな……であればこの件が落ち着いたらトモキにも少し手伝いを頼んでみるかの」

 セツはそう言いながら、描かれている光景を想像した。囲炉裏の暖かい橙色が二人を照らし、不器用なトモキが調合する様を隣で苛々しながら指図している。だがその苛立ちも何処か心地よさを伴っている。セツは眼を細め、優しい眼差しで絵を見つめた。

「二枚目は……妾とトモキ、フェデリコの奴は分かるんじゃが……」

 残りの女性は誰だろうか、と思案したところで礑と思い至った。

「此奴がアイリス、とかいうフェデリコの婚約者か」

 恐らくはフェデリコに紹介させる、というセツの昨夜の言葉を受けて描いたのだろう。四人とも仲良さげに談笑しながら食事を楽しんでいるのが分かる。

「しかし……妾の表情が何処か不満気なのはどういうつもりかのぅ」

 これではまるで息子の嫁に対して一物を持つ姑の様では無いか。帰ってきたらトモキに問い質さねば、とセツは不服そうに口を尖らせた。

「じゃが……」

 こうしていつか、四人で暮らすのも悪くないかもしれない。そんな考えが浮かび、しかし実現は難しいであろう未来を夢想してセツは微笑み、布団の中で横になって眼を閉じた。

(シオ君、じゃったか。あの子には悪いが、トモキ達が川を流れてきてくれたお陰で随分と妾の生活も変わったもんじゃ……)

 嬉しげに口元を綻ばせたまま、セツは寝息を静かに立て始めた。
 トモキが思い描き、決して叶うはずのない光景を夢で見ながら。



 焦る気持ちを押さえつけながらトモキは一気に山道を駆け抜けた。村との間は何度か往復している。方向はすでに掴んだ。道など関係ないとばかりにセツの家とシエナ村を結ぶ直線状を走る。
 立ち並ぶ樹木の幹を細やかなステップで避け、襲い掛かってくる野獣や魔獣の類は一刀のもとに切り刻んでいく。恐ろしいばかりの剣速と切れ味で行く手を遮る全てを切り伏せ、すれ違う木々の枝葉を靡かせながら凄まじい速度で走り抜ける。

「ハァッ!!」

 トモキは跳躍し、樹の枝を軽業師の様に駆け上った。両腕を顔の前で交差させ、生い茂った枝葉を勢いそのままにへし折って宙へ舞った。
 空中で一度前転。膝を上手に折り曲げて衝撃を逃し、森の外へ着地。即座に地面が捲れる程に力強く地面を蹴り、瞬く間に最高速へ到達する。
 空を見上げた。薄い雲が陽光を遮り、太陽の位置を正確に教えてくれる。まだ陽は南の空に昇り切ってはいない。予定よりも早いペースだが、トモキは尚も速度を上げた。一秒早く辿り着けば助かる人が一人増えるかもしれない。逆に一秒遅れることで一人死んでしまうかもしれない。

「ジャスパーさん!!」

 急速に大きくなってくるシエナ村。その入り口で今日も疲れた表情で門番をしているジャスパーに対してトモキは叫んだ。

「と、トモキ? あれ、君は昨日の夕方に帰ったはずじゃあ……」
「そんな事より早く開けて下さい! セツの薬を持ってきました!!」
「はぁ!?」

 ジャスパーは耳を疑った。数時間の滞在でとんぼ返りするトモキを見送ってから一日も経っていない。フェデリコの話からは帰るだけでも丸一日掛かるはずなのに、挙句には薬を持ってきたという。何か自分が勘違いしているのかもしれない。やはり疲れているのだろうか、と呑気に眼を擦り始めたジャスパー。トモキは苛立ちから、普段には出すことの無い怒鳴り声で叱りつけた。

「早くしてくださいっ!! 村の人が死んでもいいんですかっ!?」
「わ、分かった! ちょっと待ってくれ!」

 トモキの剣幕に驚き、戸惑いながらもジャスパーは門に取り付けられたロープを引張り、門が開き始める。しかし待ちきれないトモキは半ば開いたところで強引に押し入り、あっという間にジャスパーを置き去りにしていった。
 門から続く目抜き通りは昨日と同じく人通りは少ない。それどころか、昨日にはまばらにも村人の姿があったのだが今は人影さえ見当たらない。

「まさか……」

 病気が更に広まってしまったのだろうか。セツの推測通り水が原因だとすれば、村人全員に発症の可能性がある。一刻も早くフェデリコに会って、水の使用を止めてもらわなければ。
 そうして走っていたトモキだったが、通りの一角に人集りが出来ているのを見つけた。

(何だ……?)

 十数人が集まってある家の中を押し合いながら覗きこんでいる。脚を止めて確認しようかという考えが一瞬頭を過るが、すぐに今はフェデリコに薬を届けるべきだと誘惑を振り切ろうとした。

「トモキ!」

 だが人集りを通り過ぎた所で、トモキは呼び止められた。舌打ちをして無視すべきか、とも思ったが、声を掛けてきた人物を確認して脚を止めた。

「ジョセフさん!?」

 ジョセフもまた人集りの方へ脚を向けていた様だが、その背には膨よかな女性が背負われ、日々の生活で鍛えられたであろう太い腕がぐったりとした様子の女性を支えていた。そしてトモキはその女性が恐らくはジョセフの妻であろうと気付き声を上げる。

「何処に行くんですか!? そんな状態の奥さんを連れて……」
「おう! なんでも教会の勇者様って名乗る野郎が昨日の夜来たらしくてな。治癒魔術が使えるっていうんでコイツを診てもらおうと思って連れて行くところなんだよ!」

 焦っているのかそれだけ告げて足早に去ろうとするジョセフだが、トモキはポケットから薬包紙を取り出すとジョセフの肩を掴んで止めた。

「なんだよ!? ワリィが今は急いで……」
「これを奥さんに飲ませてあげて下さい! セツが……セツ様が昨夜作ってくれた薬です!」
「っ! マジかっ!? そいつぁありがてぇ!」

 その時、人集りから歓声のような声が一斉に上がる。トモキは一瞬そちらに気を取られたものの、すぐに気を取り直してフェデリコの家の方へ脚を向けた。

「それじゃあ僕も急いでフェデリコさんのところに向かいますから! 奥さんと同じ病気の人を知ってたらフェデリコさんの家に来るように伝えてください! あの人に薬を預けて置きます!」
「あいよ! セツ様にも伝えといてくれや! 今度肉屋のジョセフが飛び切りの肉を送ってやるってよ!」

 見た目にそぐった豪快な笑みを浮かべ、ジョセフはグッと親指を立ててトモキに向かって突き出した。走りだしながらトモキもまたサムズアップをした。
 ジョセフはトモキの後ろ姿を見送ると、人集りの方から引き返し、薬包紙をしっかりと握りしめて肉屋の方へ引き返していった。
 そしてその直後、人集りの中心から掻き分けながら黒髪の青年が慌てて出てくる。青年が見遣った先にはすでに誰も居らず、臙脂色のマントをはためかせながらトモキが去っていった方向を見つめた。

「久遠……?」

 名を呟き、しかしすぐに頭を振った。

「そんな訳ないか……」
「勇者様! 次は娘を頼みますっ!」
「……分かった! すぐに行く!」

 切羽詰まった声で呼ばれ、ユウヤは再び人集りの方へと戻っていく。人集りに飲み込まれるその間際、もう一度ユウヤは振り返った。当然、そこには誰も居らず、ただ風だけが通り過ぎていった。





「フェデリコさんっ!」

 家に辿り着くや否や、トモキはフェデリコの家の戸を思い切り押し開けた。扉に付いた蝶番が悲鳴を上げ、壁にぶつかった戸が軋み音を立てる。フェデリコの断りも無く勝手に家の中に立ち入り必死の形相でトモキはもう一度フェデリコの名を呼んだ。

「何処ですか、フェデリコさんっ!! 薬を持ってきましたっ!」

 だが返事は無い。ならば隣のアイリスの家か。チッと舌打ちをしてアイリス家へと飛び出していこうとしたトモキだったが、外に向き直った時、家の奥の方で扉が開く音が耳に届いた。
 振り返るトモキ。そこに人の姿は無く、しかし奥の部屋からは人の気配がした。足早に奥へと進み、エントランスと部屋を繋ぐ戸を押し開けて入っていく。

「フェデリ……コ、さん?」

 部屋の中にフェデリコは居た。彼に呼びかけようとし、しかしトモキはその姿を見て言葉を失った。
 常に身の回りを小奇麗にしていたフェデリコだったが、今の彼の髪はボサボサに乱れ、目が窪んだ様に深い隈が出来ている。顔色も悪く頬に影が出来て、まるで一晩で別人の様になっていた。

「……ああ、何だ、トモキか」
「……どうしたんですか? 一体何が……」

 明らかに様子がおかしい。トモキは怪訝な顔をし、しかしフェデリコはヨタヨタと覚束ない足取りでトモキの横を通りすぎていく。流しで顔を洗い、疲れたように溜息を吐く。そして台所の椅子に座ると、テーブルの上に置かれていた酒瓶を掴むと勢い良く中身を呷るが、寝起きの喉に障ったか、すぐに咳き込んだ。

「ああ、ほら! そんな飲み方するから」
「うるさいな!……放っておいてくれよ……」

 一度声を荒らげ、しかしすぐに勢いを失って酒瓶を傾ける。その酒に溺れる姿にトモキは衝撃を受け、アイリスの身に最悪が起きた事を想起させた。
 確認するのが怖い。だが、確かめないわけにはいかない。トモキは右手の中に握った薬の包みがクシャリと音を立てるのを聞いた。

「あの、フェデリコさん。これを……」
「あ? 何だよ、一体……」

 フェデリコは差し出されたトモキの掌の上から乱暴に包みを取り上げると、怪訝に見つめた。トモキは半ば呆れを浮かべて言った。

「何って……薬ですよ」
「おいおいからかうなよ」フェデリコは鼻で笑った。「治癒魔術でもダメだったんだ。薬が効くはずが無いじゃないか」

 その言い草にトモキは顔を顰め、苛立ちを浮かべる。

「……セツの事を信用してないんですか?」

 話を聞いたセツが徹夜で作った薬だ。試す前から否定されて腹立たしい想いが胸を占め、言い放つトモキの声は冷たい。それを感じ取ったか、フェデリコは口ごもった。

「いや、そういうわけじゃないけどさ……」
「なら早くアイリスさんに飲ませてあげて下さい。セツが作ったんだ。きっと効くはずです。何があったか知らないですけど、アイリスさんはまだ苦しんでるんでしょ? こんな所で飲んだくれてる場合じゃない」トモキはフェデリコの手から薬を取り上げると、フェデリコに背を向けた。「フェデリコさんが信じないなら結構です。僕が飲ませてきます」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ!」

 慌ててフェデリコは立ち上がり、トモキを呼び止めた。テーブルに両手を突き、俯いて何もないテーブルの上を見つめながらフェデリコは尋ねた。

「……本当に、効くのかい?」
「当たり前じゃないですか。セツを誰だと思ってるんですか? 僕よりもフェデリコさんの方がセツの薬の効果は知ってるはずです。長い付き合いなんでしょう?」

 何を今更、とばかりに溜息がトモキの口から漏れる。フェデリコは俯いたまま静止していたが、不意に顔を上げると慌てた様子でトモキから薬を取り返す。そして椅子にぶつかりながらも部屋から飛び出していった。
 その様子を見ていたトモキはもう一度嘆息し、自分もアイリスの所へ行こうとしてふと流しに使われたままのカップが二個置かれているのに気づいた。一個は何の変哲も無いものだが、一方は見た目からして随分高級そうだ。恐らくは客が来たのだろうと推測し、そこで何かを言われたのだろうか、とトモキは先程のフェデリコの様子を思い出した。

「……アイリスさんは助からない、と言われたとかかな?」

 近隣の村や町の医者に相談していてもおかしくない。もしかしたら遠方にも依頼していたのかもしれない。そこまで考えてトモキは先ほどフェデリコが治癒魔術、と口にしたのを思い出した。そしてジョセフも。ということは昨日やって来たという「勇者様」がアイリスにも治癒魔術を掛けて、しかし結果が出なかったと言う事か。

「治癒魔術はそこまで万能じゃないはずだけど……」

 トモキの知るそれは、怪我には有効性が高いが病気には大して効かなかったはずだ。だが異なる世界の魔術だ。トモキの世界の魔術とは効果も微妙に異なるのかもしれない。
 トモキは手にとったカップを流しに戻すとフェデリコの家を出た。そして隣のアイリスの家へ入る。入り口のドアは、恐らくフェデリコがそのままにしてしまったのだろう、開けっ放しでトモキは苦笑した。

「フェデリコさん、どうでした……か……」

 ドアをキチンと閉め、中に居るであろうフェデリコに声を掛ける。だが、振り返ると同時にトモキの声は尻すぼみに小さくなっていった。
 部屋の中ではフェデリコがアイリスの体を抱き上げてキスをしていた。唇を重ね合わせ、その場だけ時間が止まったかのように静止していた。その光景を見て、トモキは見る見る間に顔を赤らめて、アワアワと口をパクパクさせながら慌ててソッポを向いた。

(こ、婚約者なんだからおかしくないし……)

 そう嘯いてみるも自分の顔が熱を持ったままなのが自覚できる。戸のガラスに薄っすらと映る男の頬が赤く染まっていた。眼を逸らしてみても二人が口づけしていた景色が頭の中から離れてはくれない。そして、何故だかその景色の中の男女の姿がトモキとセツの姿に入れ替わっていく。トモキは猛烈な勢いで頭をブンブンと振った。

(何を考えてるんだよ、僕は!)

 実年齢ではお婆ちゃんと孫。そして見た目では犯罪の匂いしかしない。

(って、そうじゃない!)

 そもそもセツと自分はそんな関係では無い。セツはトモキを家族と思ってくれていて、トモキもまたセツをこの世界での新しい家族だと考えている。だがそこに家族以上の感情は無い……はずだ。

「……何やってるんだよ、トモキ。そんな所で」

 煩悶として一人百面相をしていたトモキだったが、トモキの存在に気づいたフェデリコが不思議そうに声を掛けてきてやっと我に返った。慌てる必要も無いのに何故か慌てながらもトモキが振り返ると、フェデリコはアイリスをベッドに再び寝かせていた。
 何でもない、と手を振って咳払いをし、トモキはフェデリコの隣に立ってアイリスを見下ろした。

「……どうですか、様子は?」
「そんな直ぐに変化が現れるわけな……い……?」

 尋ねるとフェデリコは呆れた風にトモキを見遣る。アイリスから一度目を離し、だが再度横たわるアイリスを見下ろして言葉を失った。
 苦しげなアイリスの様子は変わらない。顔は発熱で赤らんで、意識はまだ戻ってはいない様だ。だが、乾いていた額に汗が滲み始めていた。薄っすらと汗ばみ、それは見る見る間に玉のように大粒へと変わっていく。急いで布を取り出したフェデリコが拭きとるが、どんどん滲み出て止まるところを知らない。

「フェデリコさん!」
「あ、ああ!」

 明らかな変化。苦しげなのは変わらないが、浅かった呼吸に生気が戻り、そしてそれを象徴する様にアイリスの瞼が動き始めた。

「アイリス!」

 強く呼びかける、声。フェデリコの呼びかけに、アイリスの瞼がゆっくりと開いていった。

「フェデ、リコさ……ん……」

 途切れ途切れの声。それを聞いた途端にフェデリコは泣き崩れた。アイリスの体に抱きつき、顔を首元に埋めて嗚咽を漏らし始めた。

「う……あ……アイ、リス……!」
「フェデリコ……さん……」

 もう一度名を呼び合い、涙を流すフェデリコの背に、アイリスは手を震わせながら伸ばして抱き締め返す。トモキはその姿を見ながら微笑み、そっと目元を拭う。

「フェデリコさん。嬉しいのは分かりますけど、もう少し休ませてあげましょう」
「あ、ああ……そうだね」

 トモキが肩を叩いてフェデリコを起こす。フェデリコは涙で潤んだ瞳でアイリスを見つめ、優しく頭を撫でてやる。アイリスは虚ろな瞳ながらもフェデリコを安心させる様に笑い、また眼を閉じると、程なく穏やかな寝息を立て始めた。
 その姿をフェデリコはじっと見つめていた。慈しむ眼差しで、飽きること無く永遠に見つめていそうだ。しかし不意にフェデリコはアイリスから眼を離すと空を仰ぐようにして眼を瞑り、苦悶とも言える表情を浮かべた。

「フェデリコさん? どうしました?」
「……ごめん、少し僕も疲れが出たみたいだ。来てもらって申し訳ないけど、しばらく独りにしてくれないか?」

 椅子に座り、呆けたように背もたれに体を預けると両手で顔を覆い、溜息を大きく吐き出した。その視線は何処か遠くを見ているようだった。
 急変したフェデリコの様子にトモキは異変を感じた。何故だか危うさを感じさせた。アイリスの体調が持ち直したというのに、一体どうしたのだろうか。堪らずトモキは声を掛けた。

「フェデリコさん……」
「悪い。本当にごめん。独りにしてくれ……」

 項垂れ、頭を抱え込むフェデリコ。どうすべきかトモキは悩んだが、やがて持ってきた他の薬をテーブルの上に置いた。

「……分かりました。これ、他の人の薬です。手遅れになると大変ですから、この後すぐに村の人に配って下さい」
「ああ……」

 一体何に悩んでいるのか。トモキはフェデリコに寄り添いたかったが、彼から発せられる雰囲気を強く感じ、止む無く部屋の外に出た。

「すまない……」

 その間際にフェデリコの掠れた小声が聞こえた。
 トモキが振り返ると、ドアが締まり金具が悲しげに鳴いた。



「本当にどうしたんだろ……?」

 トモキは家を出て道を歩きながら先ほどのフェデリコの様子を思い返していた。
 婚約者という愛する人が危機から脱し、感極まって泣き始めたところまでは当然の反応であった。だがその後の態度の急変。アイリスに関すること以外にも何らかの悩みの種があることは窺い知れる。しかし常に村に居るわけでは無いトモキにその原因が分かるはずも無かった。
 後で村の人にでも聞いてみるかと、とりあえず棚上げしたトモキだったが、ちょうどそこに見知った人が近づいてくるのが見えた。

「ヨハンさん」
「お、トモキじゃん」

 赤毛の短髪の青年はトモキの姿を認めると、快活な性格を伺わせる笑顔を浮かべて近寄ってきた。

「今日もこっちに来てたのか」
「ん。セツ様が作った薬を持って、ついさっき大急ぎで来たところです」
「薬って、今村で流行ってる病気の薬の事か?」

 トモキが頷いてみせると、ヨハンは「マジかっ!!」と叫んで諸手を挙げて喜んだ。

「さっすがセツ様だ! 近所の爺さんや婆さんも苦しんでたんだ! こうしちゃいられねぇ! すぐに教えてやんなきゃ!」

 勇んで駆け出そうとするヨハンに、慌ててトモキは声を掛けた。

「薬は今フェデリコさんの家にありますから。……どうもフェデリコさんの様子がおかしいみたいなんで、代わりに皆に配ってくれませんか?」
「配るのは別に構わないけど、フェデリコさんが?」
「ええ、何だか思い詰めてるみたいで……ヨハンさんに何か心当たりはありませんか?」

 問われてヨハンは首を捻り、考える仕草をするがすぐに首を横に振った。

「いや、俺には特には。アイリスにも薬飲ませたんだろ? それで安心して気が抜けちゃったんじゃねぇの?」
「本人もそう言うんですけどね……僕にはそれだけに思えないんです」
「そっかぁ……」唸りながらヨハンは赤髪を掻いた。「何だろうなぁ……昨日来た聖女様に何か言われたんかなぁ?」
「聖女様? 勇者様じゃなくて、ですか?」
「ああ、聖女様だ。何つったけなぁ、教会が言うには『神に選ばれた』だとか何とか言ってたか」

 朧気な記憶を辿りながらのヨハンの説明だが、トモキは僅かに顔を顰めた。
 この世界の宗教観が如何なるものかは知らないが、トモキは神の存在を信じてはいない。信教の自由を謳う日本で育った為に殊更に否定をするつもりはないが、魔術師の端くれでもあるトモキはリアリストでもあり、理論や観察に依らない証明されていないことを信じるのに抵抗があった。また、元の世界でも度々新興宗教が生まれ(特異点が確認された直後は更にひどかったらしいが)、神の言葉を聞いたとテレビカメラに向かって狂気じみた様子で叫ぶ胡散臭い宗教者の姿を何度も眺めてきた。そしてそんな彼らは何時でも論理的に論破されて表舞台から消えていくのが常であった。そのため、ヨハンの説明を聞く限りトモキがその聖女の事を疑わしく思うのは仕方ない事でもあった。

「すみません、僕は東の方の出身なんでよく分からないんですが、その『教会』って何なんですか?」
「おいおい、それマジで言ってんのか?」

 ヨハンは眉を顰めた。そして周囲を見渡して近くに誰も居ないことを確認すると、トモキの肩を抱き寄せて耳打ちする。

「……あんま大きな声では言えねぇけどよ、正直言って俺は教会を好きじゃねぇ。俺だけじゃねぇ。村の連中だって表面上は下手に出てるけど、皆迷惑だって思ってるに違いねぇよ」
「どうしてですか?」
「だってよ、あいつら何もしてくれやしねぇくせにデケェ面して偉そうだしよ、『神に捧げるため』だとか『日々貴方がたの平穏を祈ってます』だなんつって金を要求してくんだぜ? 誰も頼んでねぇっつうの。安全な都市に住んでる人間はともかく、辺境の俺らはやってらんねぇよ。おまけに――」
「おまけに?」
「――人類至上主義って言うんか? あれがどうにも馴染めねぇんだ。そりゃ亜人と直接戦ってる連中からすりゃ奴らを殺してぇっていうのも分からねぇでもねぇけどさ、奴らだって見た目は違っても俺らと同じ暮らしをしてるわけじゃん? 兵士ならともかくさ、誰でも彼でも亜人は殺すべきだ、なんつって女子供まで探して殺そうとするのなんてとても――っておい、トモキ!」

 ヨハンの話の途中でトモキは村の出口へと走った。後ろからのヨハンの声を無視し、何を置いてでも帰宅を優先せねばと思った。
 最悪の連中が嗅ぎつけてしまった。湧き上がる焦燥がトモキを急かし、それを燃料にしてトモキは加速する。
 教会がこの村を訪れた理由。それは――信じたくないけれど――セツだ。セツの事を何処かから聞きつけてしまったのだ。彼女を、殺すために。

「お願いだ……! 間に合ってくれ……!」

 トモキは風になって村の外へ消えていく。村の中を一瞬で走り去ったその人物の正体を誰も認めることが出来ずに突然吹き抜けた一陣の風に眼を丸くするだけであった。
 ただ一人を除いて。
 そしてその人物も風の様に加速していくのはその直後であった。

 空には分厚い雲が広がり始めていた。











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