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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved









「見えた。――あそこだよ」

 間伐されていない木々が所狭しと並ぶ山の中にトモキとシオは立って、眼下に広がる盆地の様な空間を見下ろした。目の前には急勾配の崖があるが、そこを降りて低木が続き、更にその先に行くと四方を低い山に囲まれた小さな森であった。森の中で幾箇所か木々の無い、ぽっかりとした空白地帯がある。シオの眼にはその空白地帯に建てられた家屋が点在し、またまだ米粒のように小さな獣人達が歩き回っている様子が映し出されて、懐かしさに眼を細めていた。

「……何だろ? 一面森にしか見えないのに木と家が重なって見えるんだけど……」

 対してトモキは視界に映る奇妙な映像に眼を擦った。トモキからは一見、ただの森にしか見えない。どこもかしこもとんでもなく背の高い木が空へと突き出している。その一方で瞬きをすると一瞬だけ、幾つかの木が消えてその場所に家が建てられている画が映る。しかしそれは刹那だけで、またすぐに木々しか見えなくなる。最初は見間違いかと思ったが瞬きする度に同じ画が見え、繰り返す内に二つの異なる映像が重なって見えて、違和感だけが強くなっていった。

「え? お兄ちゃん、里が見えるの?」

 トモキが漏らした呟きに、シオが驚いて隣のトモキの顔を見遣る。トモキは何度も瞬きし、眼を擦りながら頷く。

「うん。でも何か……すっごく気持ち悪い。右眼と左眼で別々の絵を見せられてるみたいで頭が混乱しそう」
「人間に見つからない様に里に魔術が掛けられてるって前にお父さんが言ってた。なんかニンシキソガイって魔術を掛けるための道具が里にはあるんだって」
「ああ、なるほど……」

 国境からどれだけ離れているか正確な距離は分からないが、ここもまだアテナ聖王国人の国に程近い場所だ。聖王国がどういった外交政策を取っているのかはトモキには知る由も無いが、数日歩けば聖王国から辿り着ける距離だ。いざ侵攻が始まれば危険な距離に位置しているのは違いない。その為の自衛の手段なのだろう。

「でも凄いね。普通は里に住んでる人しかはっきり見えないんだよ?」

 シオの感嘆にトモキは「そうなんだ」とだけ応じてもう一度里を見下ろす。一度きちんと里の存在を認識してしまったからだろうか。さっきまでの重なった二つの画の一つが消え去り、今ははっきりと里の、獣人達の営みの様子が見えていた。

「それじゃあシオ、行っておいで」

 立ち止まったままのシオの背中をトモキは優しく押した。押されて一歩前に出る形になったシオは振り返って不安そうな顔をトモキに向けた。トモキは苦笑いをした。

「そんな顔しないで。大丈夫だよ、お母さんもお父さんもシオを待ってるよ」
「お兄ちゃんは……一緒に行ってくれないんだよね?」
「まあね。人間の僕が行ったら……たぶんとんでもない事になるだろうから」

 本心を語れば、昨夜の話を聞く限りシオ一人で行かせるのは不安だった。シオにはポジティブな内容を伝えたが、あれが願望も多分に含んでいるのはトモキも分かっている。父と母は斯く在るべき、とは思うが、例え未だシオを愛していたとしても、里の状況次第ではその感情を表に出すことは難しいかもしれない。
 出来れば、シオには里に留まっていて欲しい。言葉には出さなかったがトモキはそう考えていた。両親が今もシオを必要としてくれるのであれば、シオは親と時間を過ごすべきだ。少なくとも、こんな頼りない自分よりは。その方がきっとシオの為にもなるとトモキは信じている。
 だがシオへの風当たりは優しくないだろう。そんな中に人間であるトモキが入って行ったらどうなることか。追い出されるだけならまだマシだろう。下手をすれば、里に足を踏み入れた瞬間、周囲を取り囲まれて捕まってしまうんじゃないだろうか。そんな風にトモキは思っていた。

「そんなに心配しないで。きっと皆、暖かく迎えてくれるよ」

 安心させる様に告げ、少し乱暴にトモキはシオの頭を撫で回した。

「シオがどういう決断をしても僕は構わない。一応僕は明日のお昼くらいまでここら辺にいるから里に戻ったら一晩じっくり考えて、また明日教えて欲しい。もし、ここに来るのが難しいならそれでも構わないから」

 お昼を過ぎてもシオがここに来なかったら、その時は僕一人で何処かに行ってるから。最後にそう伝え、トモキはシオに買ってきて貰った旅道具一式を背負い直した。そして、中々離れようとしないシオに変わって、トモキはグッと腹に力を込めて、シオの顔をそれ以上見ないように心掛けて背を向けた。
 その時だった。

「……っ!」

 何かの気配を感じ取ったトモキは咄嗟にその場を飛び退いた。直後、トモキの頭のあった位置を何かが猛スピードで通り過ぎていった。その何かはあっという間に消え去り、続いて破裂音。音の方を見れば、一本の木の幹が三分の一程度抉り取られていて、今にも倒れそうな程に揺らいでいた。

「シオ、伏せてっ!!」

 トモキが叫び、シオは言われるがままに伏せた。その様子を横目で収めながら、トモキはまたやってきた飛翔物を飛び避ける。今度は爆発することは無く、三本続けざまに地面に突き刺さる。矢だ。鋭い切先を土の中に埋めて斜めに刺さっている。トモキは飛来した方向を見遣った。だが、その先には誰も居ない。

「っ! 上かっ!!」
「はああああああああああっっ!!」

 頭上。トモキは見上げた。
 それと同時に木の上から影が雄叫びと共に降り注ぐ。
 トモキは地面を蹴って後退し、取り残された黒いマントが影の持っていた短剣で斬り裂かれて大きな傷を付ける。
 四つん這いで着地した影は攻勢を緩めない。すぐにトモキを追い掛け短剣を横薙ぎに振るった。
 一閃、二閃、三閃。風を斬り、空間を裂き、トモキを害さんと剣を薙いだ。だが、最後にトモキの心臓を目掛けて突き出した腕をトモキが掴み、もう一方も相手の手首を握って膠着へと持ち込んだ。

「くそっ! 離せ、人間っ!!」
「落ち着いてくださいっ! 僕は……」
「人間が口を開くなぁっ!!」

 初めて開かれた口からは、男にしては高い声。白と茶、灰が入り混じった毛並みの猫の獣人は掴まれた状態のまま跳躍。柔らかい関節を活かしてトモキの胸元を蹴り飛ばした。
 トモキは衝撃にバランスを崩すも、直ぐに後転して体勢を立て直す。獣人の女性もまたトモキに襲い掛かるため、四肢を折り、力を溜め込んだ。

「待って、ユーリスお姉ちゃん! 僕だよ!」

 シオの叫び声にユーリスと呼ばれた女性は動きを止めた。

「シオ!? おのれ、人間っ! 貴様っ……」
「待ってって! お願いだからユーリスお姉ちゃん……」
「シオ……」

 二人の間に割って入り、トモキを守る様にシオは矮躯を目一杯に広げて立ちはだかった。獣人であるシオが人間のトモキを守る。その様にユーリスはショックを受けた様で、呆然としてトモキとシオの二人を見つめるだけだ。
 トモキは「ありがとう」とシオの頭を撫で、シオの前に出て両手を挙げて攻撃の意思が無い事を示す。

「この通りです。僕は貴女を傷つける気はありません。もちろん里の人も。僕はただ、シオを貴女達の元へ送り届けに来ただけです。話を聞いてくれませんか?」

 意識して眼を逸らさず、トモキはユーリスにそう告げた。疚しいところは何も無い、と堂々と態度で示してみせる。トモキの声にユーリスはハッと我に返り、忌々しそうにトモキを見遣るが、トモキの眼に敵意が無いこと、そしてシオがトモキに懐いている様子から小さく息を吐き出すと、手に持っていた短剣を鞘に収めた。

「……分かった。ひとまずここは収めよう」
「ありがとうございます」

 礼を述べ、トモキは逡巡してユーリスに手を差し出した。

「トモキです。久遠トモキ。宜しくお願いします、ユーリスさん」
「人間がその名前で呼ぶな」
「あ、す、すいません……」

 咎められ、トモキは思わずいつもの癖で頭を下げた。そこに、先ほどユーリスと対等に対峙した強者の面影は無く、堂々とした雰囲気もすっかり鳴りを潜めてしまっていた。強くあろうという心意気から胸を張って相対してみたが、やはり付け焼き刃では化けの皮は容易くはがれてしまうな。トモキは頬を掻き、ユーリスはそんなトモキに眉を潜めながらも毒気を抜かれ、先ほどとは違った意味で溜息を吐いた。

「その呼び方は親しい者にしか許されん。本来なら斬り殺してやる……と言いたいが今は見逃そう。ユーリス・エストランドだ。……シオの前だ。特別にこの場だけユーリスと呼ぶ事を許そう」

 礼には礼を。ユーリスは自身のポリシーに従い、何処か所在なさ気だったトモキの手を握り、雰囲気を和らげた。

「さて、それでは事情とやらを聞かせて貰おうか。トモキ、どうして君がシオと一緒に居るのかを」

 嘘は許さない。如実に語る視線を受けながら、トモキは大きく頷いてみせた。



 それからトモキはユーリスへこれまでの事を説明した。
 人と獣人の間の確執は旅の最中に十分理解した。故に慎重に言葉を選びながら、誤解を招かないよう丁寧にシオに出会ってからの事を述べていく。
 ニコラウスという行商人と出会った事。その行商人が実は奴隷売買を行っていて、ちょうど獣人達を誘拐してきていた事。偶然その事を知ったトモキが、アルフォンスと協力して獣人の子供達を逃した事。その時の流れでシオと一緒にこの里へと向かった事。シオが自分と一緒に旅をしたい、と考えている事。
 そして、トモキ自身が「迷人」である事も。その事はシオの事とは関係は無いが、下手に隠さずに正直に話した方が良い、とトモキは直感していた。
 見たところ、ユーリスと言う女性は礼や義理を重んじる種類の獣人だ。いきなり襲われはしたものの、こうして話を聞く時間を割いてくれており、駆け引きなどを好まず、正直さを尊ぶような印象を受ける。だがそれ故に謀ろうとしたり、隠し事が発覚した場合に即座に信用を失いかねない。
 トモキはまだこの世界にやってきて一月も経っていない。それ故こちらの常識に乏しく、意図せず失礼をしてしまう恐れもあった。それでシオの話が拗れてしまうのも本意では無く、なので迷人であると伝えた時に合わせて、礼を失する所もあるかも知れないと伝えておいた。

「――そういう訳でして、シオ君を連れてこの場所へ参りました。シオ君の心が決まるまでこの付近で待ちたいとは考えていますが、里へ踏み入るつもりはありません。ここに一晩滞在する事を許してもらえないでしょうか?」

 最後にそう告げて、トモキはユーリスに向かって頭を下げる。深々と頭を垂れ、ユーリスの判断を待つ。

「ユーリスお姉ちゃん……」
「――話は分かった」

 やがて、ユーリスの閉ざされていた口が開いた。

「君のお願いに対する返答の前に、私から君に伝えなければならない事がある。
 まず、人間だと言うだけで突然攻撃して申し訳なかった。矢が当たっていたら。この剣が君の喉を斬り裂いていたら。その事を考えると単なる謝罪では済まされないが、私の気持ちとして受け取って欲しい」
「い、いえ、そんな……誤解も解けましたし、怪我もありませんでしたから。もう気にしないでください」

 先ほどのトモキと同じ様にユーリスは深く頭をトモキに向かって下げた。それにトモキは戸惑いつつも、こうして頭を下げられたのは何時ぶりだろうか、と益対もない事を考えた。

「そうか、そう言ってくれると私も少しは気持ちが晴れる思いだ。それともう一つ。
 ――シオを、カシオローネを助けてくれて本当に……本当にありがとう」

 紡がれる感謝の言葉。それはトモキに対する謝罪よりも万感の思いが込められている様に感じられた。それを示すかのように、頭を下げたままのユーリスの体は震えていた。

「本当に、本当にありがとう……どれだけ感謝しても君には感謝しきれない」
「ユーリスさん……」
「シオは、血こそ繋がっていないが私にとっては大切な弟みたいな存在なんだ。私の家とシオの家は隣同士でね。シオが生まれた時から常に私の時間はシオと共にあった」在りし日の事を思い出しているのか、ユーリスは口元を綻ばせて眼を細めた。「シオは生まれた時からとても可愛くてね。よく親は自分の子供の事を眼に入れても痛くない、と言うが、親では無い私にとってもそうだった。シオの家にも頻繁にお邪魔させてもらってな、母親の真似事をしてよくシオを寝かしつけていたんだよ」
「お姉ちゃん、トモキお兄ちゃんの前で……」
「ん? 恥ずかしいのか? シオの襁褓おしめだってずっと私が変えていたんだぞ?」
「お姉ちゃん!!」
「はは、スマンスマン。そんなに怒らないでくれ。
 っと、話が逸れたな。ともかく、だ。私にとってシオはそれくらいに大切な存在だったんだ」
「――ええ、それは分かります」

 シオとの思い出を語るユーリスの表情は、それまでの凛とした印象と違いとても穏やかなものだった。本当にシオの事を話すのが楽しくて楽しくて仕方が無い。そんな様子が生き生きと感じられ、トモキのユーリスに対する印象を一変させるには十分なものだった。
 来て、良かった。シオを未だ愛してくれている人が居る。それを知ることが出来て、心からトモキは自分の選択が正解だったと思えた。だからだろうか、トモキは自分の頬もユーリスと同じ様に緩むのを自覚した。

「シオ君は本当にいい子です。先程は僕がシオを連れてきた、とまるで僕が彼を助けた様な物言いをしてしまいましたが、実際は僕の方がたくさんシオ君に助けられたんです」

 これがシオの「徳」みたいなものなのだろう。トモキはそう思った。
 出会った当初こそ自身への不甲斐なさと互いの感情の行き違いから心乱したが、それ以降シオと過ごした日々はとても心穏やかだった。
 彼には人の心を癒やす才能がある。少しだけ、優しくなれるそんな才能。決して目立って誰かの役に立ったり何かを成し遂げる事ができるものではないが、こんな世の中だからこそシオの様な能力が必要なのかもしれない。

「シオ君が居なければ……きっと僕は今頃こうして貴女の前に立って、こうして話は出来ませんでした。自暴自棄になって誰も見向きもしない路地裏で転がっているか、全ての絶望して生きているか死んでいるか分からない人間になっていたかもしれません。大げさかもしれませんけれど、僕はそう思っています。だから、僕の方こそ感謝させてください。本当はシオ君のご両親に伝えるべきなんでしょうけれど」

 そこでトモキは一度息を吸い込んだ。

「シオを、優しい子に育ててくれて本当に――ありがとうございました」
「君は――」

 今度はトモキが頭を下げ、ユーリスは何かを口に仕掛けたが小さくかぶり振って言葉を発することは無かった。ただ、その口元には小さな笑みが溢れていた。そして、トモキとユーリスの間でむず痒そうな、それでいて嬉しそうにしているシオの頭を撫でた。

「さて、ではこの件はここまでにして、だ。君のお願いについての答えだが……」

 本来ならば私が判断すべき事では無いのだが、と前置きしてユーリスはトモキを見つめた。

「――申し訳ないが許可できない」

 それまでの穏やかな表情から一点、ユーリスは表情を引き締めてそう告げた。

「そう、ですか……」

 今までの会話からトモキは心の何処かで色好い返事を期待していた。共にシオを大切にしている者同士、態度を軟化してくれるのでは、と考えていたが現実は甘くなかったということか。
 だがそれも予想していた事。許可が貰えれば御の字程度に考えていたトモキは肩を落としながらも表情を取り繕って「分かりました」とだけ答えた。
 しかし、話はそれで終わらない。

「そしてシオ――君の帰郷も認められない」
「え……?」
「ど、どうしてですか!? どうしてシオまで……もしかして、僕のせいですか!? 僕と一緒に居た事で何か里のルールにでも……」
「そうじゃない……私だって出来るならばシオを暖かく里に迎え入れてやりたい」
「なら……ならどうして!?」

 トモキは激昂してユーリスに詰め寄った。ユーリスの胸ぐらに掴みかかり、縋るような視線を向けた。対するユーリスはトモキとシオを視界から外し、グッと下唇を噛み締めた。

「迷人である君でも知っているだろう。我々獣人と人の間にある憎しみの事は」
「は、はい。でも……」
「――昨日、また一人子供が行方不明になった」

 知らず、トモキは一人息を飲んだ。

「そのせいで里全体が殺気立っている。それと同時に里中が疑心暗鬼になっている。
 誰か、この里の事を人間に漏らした者がいるんじゃないか、とね」
「お姉ちゃんは……トモキお兄ちゃんの事を疑ってるの? そんなはずないよ! だってお兄ちゃんはずっと――」
「分かっている」

 ユーリスはシオを遮った。少しだけ表情を和らげ、だが直ぐに厳しい視線をトモキに送ってくる。

「トモキ。君がそういう人間じゃない事は分かっている。他でも無いシオが言う事だし、私自身君と話していて、君が里の事を外にバラすような人間では無いと理解した。だが、私がそう感じたとしても里の者がどう思うか、君なら理解してくれるとも思っている」
「もし僕を見れば……真っ先に犯人だと思うでしょうね」
「そうなると思う。もちろん、子供の事だからただ単に勝手に遠くまで遊びに行ってしまっただけの可能性もあるし、或いは誘拐とは関係なく事故に巻き込まれてしまったのかもしれない。
 しかし最早真実などどうでも良くなっているんだろう。長らく虐げられてきた我々獣人だ。今でこそこうして獣人の国や、その他の亜人の国が出来てはいるが戦争は続いている。シオがそうであったように、人間の中にはまだ私達を単なる愛玩道具としかみなしていない者達も居るし、神の摂理に反した滅ぼすべき存在だと声高に主張する者も居る。実際に今尚我々は各地で人間に貶められ、辱められ、蹂躙されている。この里だけじゃなくて獣人達の不満は最早限界に達していると言えるかもしれない。
 そんな中に君という『人間』が入り込めば、君に全く関係がなくても格好の的になってしまうだろう。だから君は一刻も早くここを立ち去るべきだ」
「……」
「……お話は分かりました。ですけど、どうしてシオまで……」

 話がシオに及び、シオは両拳を強く握り締めた。その事にユーリスを見たままのトモキは気がつかないが、ユーリスは敢えて無視をした。そして小さく息を吸い込んだ。

「シオが人に近いからだ」ユーリスは言い放った。「シオの両親は紛れも無く灼熱狼の獣人だ。そしてその更に両親も同じ。だから間違いなくシオが獣人であることは言い切れる。だが、そんな・・・事は問題じゃないんだ。
 君は……その、シオの里での事は……」
「ええ……聞いています」
「そうか、なら話は早い。
……まだ、比較的里が落ち着いていた時でさえ、シオは見た目が人に近いというだけで疎外されてきた。シオが獣化出来ないと知った時、誰もが掌を返し、彼を孤独に追いやった。暴力を振るい、心ない言葉を浴びせ、里の誰もがどれだけシオの優しい心を傷つけてしまったのか……こうして話している私でさえもそうだ」

 ユーリスの眼に悔恨の念がはっきりと浮かんだ。

「里の者は皆、シオが自分の足で里を出て行ったと思っている。それどころか人間になりすまして、何時か里の場所をバラすんじゃないかと思っている節さえある」
「そんなっ!?」
「言っただろう? 今、里は疑心暗鬼になっていると。そういった悪い空気はいつの間にか病原菌の様に里に充満し、質の悪い事に誰も気づかない。いや、自分達の都合に良い様に、眼を背けているというべきかな……」

 シオが潤んだ眼でユーリスを見上げた。小さく鼻を啜り、泣き出しそうなところを必死に堪えている。ユーリスはそんなシオの頭に手を遣ろうとし、しかし迷った様に何もない宙を彷徨い、結局シオに触れること無く元の場所へと戻っていった。

「獣人は嗅覚が人より鋭い。犬狼族の者は尚更だ。今のシオにはトモキ、君という人間の匂いが色濃く付いてしまっている。あまり嗅覚の良くない私でも分かるくらいに。そんなシオが里へ立ち入れば、皆何を想像するかは明らかだ」
「……」

 悔しそうに両拳を握りこみ、トモキは奥歯を噛み締めた。言葉も無く、自分は浅はかだったと認めざるを得ない。まさか、シオさえ里へ立ち入れないとは思わなかった。悪くても一時だけ、シオにとっては辛い時を過ごさざるを得ないとは考えていたが、事態は更に想像の上を行ってしまった。
 連れてこなければ良かったのか。先ほどとは真逆の思考が頭を占めていく。連れて来なければ、シオには希望を残してやれたのか。自分と関わらなければ、シオは里へ立ち入るくらいは出来たのか。湧き上がる悔恨に胸が掻き毟られていく。

「そして、最後にもう一つだけ告げなければならない」

 項垂れたこうべにユーリスの影が入り込んだ。

「君と私は――」

 突如として襲った怖気。背筋を貫くような感覚に、トモキは弾かれた様に頭を後ろに逸らした。
 目の前を煌きが一瞬で通過し、トモキの前髪がハラハラと舞った。

「今、この瞬間から――敵だ」



「ユーリスお姉ちゃん!?」
「な、何をするんですか突然!?」

 突然の凶行にトモキは声を荒らげて額に手を遣った。幸いにして掌に付くのは冷や汗のみで、実際に斬り裂かれてはいない。だが今の一撃は間違いなく本気だった。そして、同時に敢えて当てなかったのだと察した。

「――言葉通りだ。世界中で対立している二つの種族が出会ったのならば、互いに為すべき事は一つに決まっている」
「だからって……僕とユーリスさんが争う理由なんて無いですよ!」
「理由なら、ある」

 鋭く、ユーリスはトモキを見据えた。

「君は、迷人とは言え人族であり、私は獣人であるからだ。例え君に理由が無いと信じていても私達にはある。せっかく発見した人間なんだ。ここでみすみす見逃してしまえば、これまでに人との戦いで命を散らしていった多くの同胞に顔向けが出来なくなる。なれば、そんな選択の余地など無い」
「そんな――」
「だから……早く逃げろ」
「――っ!」
「見逃すなど出来ない。だが、相手が見つかる前に・・・・・・遥か遠くへと行ってしまえば追い掛ける必要も探す必要も無い。そんな人間など初めから・・・・居なかったのだから」

 ようやくトモキはユーリスの真意を悟った。彼女は言っている。このまま、この場に留まり続けるのは危険である、と。
 ユーリスは厳しい表情を崩さない。あたかもトモキに、そしてシオに親の敵の様な眼差しを向けてくるが、あくまでもそれはポーズだ。だからこそ、追撃を加えてこない。

「ボヤボヤしている暇は無いぞ? こうして見回りをしているのは私だけでは無い。じきに他の者達が来る。そうなった時、君は一人でシオを守りながら私達三人と戦うのか?」

 選択の時だ。トモキは一瞬だけ悩み、しかしユーリスの眼を見てすぐに決断した。

「――分かりました」
「お兄ちゃん!?」

 シオはまだ理解できていないのだろう。非難めいた視線でトモキを見上げ、そして「どうして」と言わんばかりにトモキとユーリスの間で視線が彷徨う。

「ありがとうございます」
「気にするな。それよりも早く行けっ」

 礼を告げたトモキに、ユーリスは僅かに、よくよく注視しなければ分からない程に微かな笑みを向けてくれた。

「シオ」
「嫌だよっ! どうしてっ!? どうしてなのっ!? どうしてお兄ちゃんもお姉ちゃんもそんな事言うの!?」
「シオ……」
「どうして皆仲良く出来ないのっ!? どうして敵だなんて言うの!? どうして……どうしてお父さんとお母さんに会えないの!? 皆で一緒に仲良く暮らせないの!? そんなの嫌だよっ!」

 森の中にシオの悲痛な叫びが響き渡る。それにトモキも、ユーリスも答える術を持たない。無言のまま互いに俯き、トモキは眼を逸し、ユーリスはただ押し黙る。

「……行け」
「お姉ちゃん!」
「行けっ! 早くっ!!」
「……くっ!!」

 トモキはシオを抱え上げると、ユーリスに背を向けた。一気に加速し、剣を構えたまま動かずにいるユーリスの姿があっという間に小さくなっていく。

「お姉ちゃん、お姉ちゃんっ!! 離してよ、お兄ちゃん!!」

 トモキの肩の上で暴れるシオを押さえつけ、しかし途切れること無く呼び続ける声がトモキの胸を抉る。

「ユーリスお姉ちゃん! お父さんっ!!」

 そして一際大きく泣き叫んだ。

「お母さぁんっっっ!!!!」

 トモキの体が揺らいだ。動かす足が縺れ、倒れそうになる。トモキはシオの体を固く抱きしめ、顔を自分の胸に押し当てた。
――ごめんなさい、ごめんなさい
 そう心中で幾度も繰り返しながら、歯を食いしばって足を動かし続けた。
 たくさんの木や草が生い茂る中、ユーリスの前から二人の姿が小さくなり、やがて見えなくなっていく。
 完全に一人ユーリスは取り残された。俯き、短剣を手にしたままただ立ち尽くす。
 不意に、手から剣が滑り落ちた。刃が土へと突き刺さり、ユーリスは崩れるようにして膝を突いた。

「う…うぅ……」

 両手で顔を覆い、堪え切れない涙が頬を伝う。耐え切れない胸の痛みが押し殺した叫びとなって嗚咽に変わる。

「シオ……幸せに……君だけは幸せになって……」

 涙はどこまでも流れていき、彼女の願いは風の中に消えていった。












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