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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved









再びトモキは夢を見ていた。
 深夜、町の中には人の気配は無くなり、その中を必死に駆け回っていた。額から汗を流し、左手でシオを引きずる様にしながら走る。全ての街灯は消え去り、家々の明かりも無い。人が住んでいる気配さえしない、ゴーストタウンと化した町を逃げ回っていた。
 体は重い。普段と比べてみれば全身が沼の中に埋まったかの様に鈍重。どれだけ全力で走ろうと切れる事の無い呼吸も今は掠れ、何処かから呼気が漏れているかの様に乾いた音が喉から鳴る。
 トモキは振り返った。遠く道の向こうから何かが這い寄って来ている。黒い影の様な、山に立ち込める靄の様な実体の掴めない何か。どれ程の大きさか、どれ程の闇の深さか。そして、あれに飲み込まれた時に自分たちはどうなってしまうのか、何も分からない。だが、影に飲み込まれてしまった時、きっと自分はどうしようもなく終わってしまうだろう。そんな確信を根拠もなくトモキは抱いていた。

「はっ、はっ……頑張れっ! 頑張って……!」

 走りながらトモキはシオを励ます。シオの体もトモキ同様に重た気だ。必死になって腕を振ってトモキに付いて行こうとしているが脚は上がらず、トモキを虚ろに見上げてはくるが呼吸も体の動きも、全て今にも倒れてしまいそうな様相だ。

(くそ……!)

 悔しそうにトモキは顔を歪ませる。万全ならばシオを背負ってももっと早く逃げる事だって出来る。しかし今のトモキにはシオを抱える余裕は無く、かといってシオに合わせて走る以上、これ以上速度を上げる事も難しい。苛立った様にトモキは右手で自らの脚を叩いた。
 そして不意に思い浮かんだ。

(僕一人だったら……)

 シオを置いていけば、そうすればきっと自分だけ・・は助かる。あの、何者かも分からないものから確実に逃げおおせる。
 途端、シオの足元が突如として崩れ落ちた。

「シオッ……!!」

 シオの足元が砕け、木片や石畳などの瓦礫と一緒にシオの体が穴の中へと吸い込まれていき、しかしトモキはシオの腕をしっかりと掴んでいた。
 宙吊りになるシオの体。トモキの体も上半身は半ば以上落ちており、掴んだ上で自分も落ちてしまわなかったのは僥倖と言うべきか。だが息をつく暇も無く少しずつ体が穴の方へとずり落ちていく。
 トモキは何とか踏ん張ろうと穴の縁を掴む。だが引っ張り上げようにもトモキの体には何故か力が入らない。

「おおぉぉぉぉ……!!」

 どうして、と自らに苛立ち大声を発して自身を鼓舞する。が、その時、目の前にまたあの少年が現れた。

「頑張るねぇ、君も」

 何も無い穴の上にふわふわと浮かぶ少年は呆れた様にトモキに言葉を投げ掛けた。トモキは意識して少年から眼を逸し、シオの体を引っ張り上げることに集中しようとする。が、少年はいつの間にかトモキの目の前にまで接近し、そして優しく囁いた。

「もう、離しちゃえよ」その言葉にトモキは眼を見開いた。「もういいだろ? 君だって本心じゃそう思ってるくせに」
「そんなこと……!」
「いい加減限界なんだろ? もう辛い思いするのは嫌なんだろ? 折角助けてやったのに愛想の一つも振りまかない。守られるのが当たり前みたいな態度で君に引っ付いているくせに露骨に距離を取って近寄らせない。お高く止まった女じゃあるまいし、これ以上何処に守ってやる義理がある?」

 それは毒だ。トモキを腐らせる為の猛毒であり、少年はトモキの頬を優しく撫でながら幼子の様な高い声でトモキの奥底に囁きかける。
 そんな事は思っていない。トモキは声高に反論しようとした。だが手の中のシオの体が突然鉛に絡みつかれたかの様に重くなり、トモキの体もまた少し深淵の中に沈んでいく。

「くっ……僕はアルフォンスさんと約束したんだ。シオを助けるって」
「死んだ人間との約束なんざ守る必要があるのかい?」

 それでも何とか絞り出したトモキの言葉を少年は鼻で嗤う。

「その約束にしたって君とアルフォンスの二人だけしか知らない。そして彼は死んだ。死人にゃ口無しさ。草場の影で佇む亡霊との約束を破ったからって誰が責める? 誰も責めやしないさ。それに、ニコラウスのおっさんから助けてやって追手も来ていない。もう十分義務は果たしただろう?」
「シオは、まだ子供だ。小さい子供だ。途中で見捨てるなんて、出来るわけないじゃないか!」
「そういう君だって子供じゃないか」

 今度は少年はトモキに背中から抱きつく。重さは感じない。だが背後に居ることは分かる。
 首に白くて細い腕を絡ませ、まるで娼婦が男に向かって甘えるかの様に吐息をトモキの耳元へ吹きかけた。

「君だってまだ子供。青年に成り切れていない幼い子供だよ。責任を取ろうとも取れないし、取る能力も無い。子供一人養う事も出来ない。親に守られてきてばかりで、それがまだ当たり前。そんな君がどうしてこの間まで見ず知らずだった、縁も所縁も無い他人の子供の世話を見てあげないといけないんだい?」

 言葉が、胸の内に染みこんでいく。心臓が見えない手に掴まれてしまったかの様に痛む。誘惑が、トモキを蝕む。
――違う、違う。それは、間違っている。
 必死にトモキは否定した。少年の言葉を否定した。アルフォンスとの約束は果たすべきものだ。誰が責めるとか、そういう問題では無い。責めないから破っていいわけでは無い。
 まだ、シオは助かって無い。こんなに人が、獣人を迫害する人族が多い場所で放置すればどうなるかなんて、簡単に想像できてしまう。折角奴隷として売られる前に助け出せたのだから、最後まで助けきってあげなければ。トモキは思いを重くするために何度も繰り返す。滑り落ちそうなシオを掴む腕に力を込め、腕を震わせながらシオを持ち上げる。
――助ける。助けるんだ。

「ほら、早く手を離しちゃいなよ。もう目の前まで君を喰らいに奴らが来てるよ?」

 顔を上げれば、影がすぐそこに居た。黒い靄の様な物を撒き散らしながら生物みたいに不規則に輪郭が蠢いている。トモキを喰らいつくさんと、大きな口を開けて躍り掛ってきていた。
 浮かぶのは恐怖だ。存在が喰われる。根源的な恐怖の中、トモキは思ってしまった。

――僕が……守る必要は、あるのかなぁ……?

 トモキの腕から力が抜けていく。シオの体が漆黒の穴の中へ滑っていく。

「あうっ! ト、モキ、お兄ちゃん……」

 シオの声が聞こえた。トモキは我に返った。穴を見下ろし、潤んだ瞳で自分を見上げるシオと、眼が合った。
 右手から少しずつずり落ちていくシオを、トモキは自分を支えていた左腕で掴もうと伸ばす。しかし、遅かった。

「     」

 シオの口が言葉を紡ぐ。だがその声はトモキには届かない。ただシオの微笑みが閃光の様に鮮やかにトモキの眼に焼きついた。

「シオぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!!!」



 トモキは手を空に向かって伸ばしていた。
 木々の端からは青々とした晴天の空が広がり、緑々とした葉がトモキの顔に影を落としている。直ぐ側の川は瀬々らぎが透明な音を奏でている。風が林立する木々の奥から川縁へと流れ、汗ばんだトモキの体を冷ましていく。
 右腕を天に向かって差し出したままトモキは静止していた。眼を大きく見開き、全力で駆け抜けた後と同じ様に胸が大きく上下している。そのまましばらく呆然としていたが、やがて力無く腕を目元に重ね置いた。

「夢、か……」

 呟いてトモキは自身が昨夜、川を見つけた瞬間に気を失った事を思い出した。
 こちらの世界に来てから毎夜見る悪夢。常に顔の見えない少年がトモキを嘲りそして唆す。夢を見る度にトモキの胸に見えない楔を打ち込まれ、ささくれだっていくのをトモキは感じていた。
 まるで、トモキの本心を暴き起こしていくのが目的であるかの様に。

「っ……!」

 そんな考えが脳裏に浮かび、トモキは奥歯を強く噛み締めた。歯が軋み、目元を隠す左腕の先が強く握り込まれた。
 僕は、シオをあんな風に思ってなんか無い。自分に言い聞かせるため、トモキは口の中だけで言葉を発した。けれど――
――シオは、僕の事をどう思っているのだろうか。
 トモキはシオを守りたいと、彼の住む里へと送り届けてあげたいと思っている。それが義務だと無意識の内に考えていて、シオもまたトモキの護衛を必要としていると思い込んでいた。
 だが、果たしてシオはトモキの庇護を期待しているのだろうか。トモキを、本当に必要としているのだろうか。守ってやらなければ・・・・・・と勝手に思い込んでいるだけで、実はトモキの事を邪魔だと思っているのではないか。そんな疑念がトモキの内に湧き起こる。
 思い返せばそうだ。最初にニコラウスから逃げ出す時こそトモキが助けはしたが、その後はどうか。起き抜けに木を殴り倒して怖がらせ、山歩きでは慣れていないせいで足手まとい。まともに興味を引く話題も出せずに気まずい空気を作り、挙句八つ当たり。町に入れば自分は指名手配されており、ロクに滞在できない。
 トモキは溜息を吐いた。こんな自分をどうして必要としてくれるだろうか。
 シオがトモキと距離を取っているのは、ただ単純に自分を誘拐したニコラウスと同じ「人」だからだと思っていた。獣人と人との確執に加え、為人も知らない相手と行動を共にするのはリスクだ。だからトモキはそんなシオの行動を当然だと思っていた。そしてそれは時間が経てば自然と解消されるものだと、トモキ自身が彼に対して害意が無いと理解してくれれば解決できる問題だと、深く考えもせずにそう思っていた。

(思い上がりも……甚だしいよな……)

 もしかしなくても、シオに自分は必要ではない。必要とされていない。それでも一緒に居るのは、自分がシオの傍に纏わり付いているからだ。優しいシオが、トモキに対して「不要だ」とはっきりと口にしないからだ。
 そう。
 シオがトモキを必要としているのではなかった。トモキが、シオを、傍に居てくれる誰かを必要としていたのだ。だからこそ、自分に振り向いてくれない、儘ならないシオに対して苛立ち、そして離れていってしまうことを恐れた。
 夢の中を振り返る。トモキはシオを手放した。だがあれはトモキが放したのではなく、シオがトモキを見放したことの象徴だったのでは――

「……そうだっ! シオ、シオは!? シオは何処に……」

 そんな考えに囚われ、トモキは体を跳ね起こしてシオの姿を探す。もしかしてすでにシオは自分を見捨てて独りで里へと帰ったのではないか。恐怖と焦燥でトモキは体が冷え込んでいくのを感じた。
 だが体を起こした時、トモキの体に掛けられていた何かがハラリと、傍らに置かれていた剥き出しの剣の上に落ちた。それを手にして広げてみると、それは服だった。そして見覚えのある意匠だった。

「トモキお兄ちゃん?」

 トモキに掛けられていた服は、シオの来ていたパーカーだった。それを確認すると同時にトモキは声を掛けられてそちらを振り向くと、白いランニングシャツだけを着たシオが立って、パーカーを抱きしめているトモキを不思議そうな眼で見ていた。その眼には不思議と共に安堵の色が灯っていた。
 トモキもまたシオがまだ居てくれた事に胸を撫で下ろし、そこでシオの腕に眼を遣った。

「大丈夫? どこも具合悪く無い?」
「え? う、うん。もう大丈夫だよ。それよりシオ、その腕は……」

 シオの細い腕には幾つもの真新しい切り傷があった。一瞬ニコラウスにつけられたものか、と考えたがそれにしては傷は新し過ぎる。まだ少し血が滲んでいる箇所もあり、傷を負って然程時間が経ってない事は明らかだ。
 昨日までと打って変わって積極的に話し掛けてくるシオにやや戸惑いながらも腕の傷について尋ねる。だがトモキの質問にシオは応えず、さっと腕を背中に隠した。不信に思って辺りを見回せば、少し離れた河原の上には黒い毛並みの犬が数匹横たわっていた。いずれも体のあちこちから血を流し、事切れている。

「……もしかしてシオがあの犬から守ってくれたの?」

 パーカーにも昨日には無かった切り傷があり、幾箇所も血の痕がついている。まさか、と思いつつも尋ねると、シオは小さく頷いてみせた。

「トモキお兄ちゃんを、守らないといけないと思ったんだ……」

 怒られるのを恐れているかの様にシオは体を縮こまらせ、トモキの機嫌を損ねないよう眼を逸らしながらも横目でトモキの様子を伺う。

「そう……そっか、ありがとう。頑張ってくれたんだね」

 トモキは眼を細めて微笑み、シオの頭を撫でようとする。が、少し動いた所で手は止まった。
――やっぱり、シオには僕は必要じゃない。
 死んでいる野犬達を見てトモキはそう思った。トモキは守る立場ではなくて、守られる立場。立派にシオは戦う力を持っていて、独りでもやっていける。その事を痛感し、情けなく、そして自分の思いあがりに恥ずかしくなる。
 表情が曇るトモキだが、シオはそんなトモキを見てまだ本調子じゃないと感じたのか、顔を心配そうに覗きこんでくる。

「やっぱり、まだ具合悪いの?」
「あ、いやいや! 全快……とは流石にいかないけど、動けるくらいには元気になったよ。それと、左腕もシオが手当してくれたの?」

 トモキの左腕には布が巻かれていた。刺さっていた矢は引き抜かれ、シオのズボンと同じ色の布には紅い血が滲んでいるが、すでに出血は止まっているようだった。

「うん、どうしていいか分からなかったから、前に里の人がしていたみたいに縛ってみたの。どう? 痛くない?」
「大丈夫だよ。まだ少し痺れて感覚が鈍いけど何とか動かせそう……いや、大丈夫だからさ、そんな顔しないでよ。シオのお陰で出血は止まってるみたいだから感謝してるよ。ありがとう」

 傷の後遺症をトモキが口にした途端にシオは泣きそうに顔を顰めたため、トモキは慌てて慰める。そしてシオと向き合って感謝を口にして左腕をグルグルと回して問題ないことをアピール。そうしてやっとシオも安心したのか、顔を綻ばせた。

「あ、そうだ」

 何かを思い出したか、シオは声を上げるとトモキの傍から離れる。トモキもまたその後ろに付いて行くと、そこには焚き火の跡があり、黒く焦げ落ちた枝の上に新たに新しい枝が積み重ねられていた。その前にシオは立ち、掌を積み枝に向けて翳す。

「――フレイム」

 小声でそう呟いた。すると、シオの掌の中に小さな火球が生まれた。

「うそ……」

 トモキは呆気に取られた。小さな火球をマジマジと凝視して固まる。そんなトモキの様子に気づく事無くシオはそれを枝の中に落とし、次第にパチパチと音を立てて枝が炎を上げ始めた。

「……シオは、魔術が使えたんだ」
「うん……僕は半端者だから、これくらいの大きさしか使えないけど」

 何か思う所があるのか、シオは綻ばせていた顔に影を纏わせて俯いた。しかしすぐにまた破顔させると川の方へ走って行く。
 残されたトモキは石の上に腰を下ろし、橙色に光を放つ炎の中で次第に黒く炭化していく枝を見ながら俯いた。
 やっぱり、僕なんか居なくてもシオは大丈夫じゃないか。こうして一人で枝を集め、火を起こし、魔獣に襲われても返り討ちにできるだけの実力を備えている。魔術だって僕は使えないのにシオは使うことが出来る。
 昏い思考がトモキの中で渦巻く。それが嫉妬だとトモキは自覚し、幼い子供に何を考えているんだ、と髪を掻きむしった。根本が赤くなった髪の毛が数本抜け落ちた。だが心は晴れない。
 結局、自分は何処に行ったって必要とされていないのだ。元の世界でも、まるで存在している事が悪のように扱われ、こんな幼い子にさえ劣るのだ。そんな人間を必要としてくれる人なんて、居るはずが無い。
 ――体力が回復したら、別れよう。トモキはそう決意しようとした。頭が、心がおかしくなりそうだった。傷つけるべきでないのに、傷つけたくないのにシオを傷つけてしまいそうだった。淀んだ感情の赴くまま、何もかもをかなぐり捨てて心に巣食う絶望を一方的にシオに叩きつけてしまいそうな、そんな気がする。

「お兄ちゃん」

 戻ってきたシオが声を掛け、トモキは暗い思考を胸の内に無理やり収めて、笑顔を浮かべてみせた。

「どうしたの……ってそれは?」

 シオが持ってきたものを見てトモキは思わず声を上げた。シオの腕の中には何匹もの魚が居た。山女魚か岩魚か、それらに似た魚がどれも元気そうに腕の中で跳ね、シオの腕から逃げ出そうと足掻いている。

「お兄ちゃんと食べようと思って、朝から捕ってた。魔術は上手く使えないし、他の皆みたいに運動も得意じゃないけど魚取りや山菜を探すのは得意なんだ。トモキお兄ちゃんもお腹減ったって言ってたし、きっと美味しいよ」

 そう言いながらシオは手際よく食事の準備をしていく。右手に意識を集中させると、人の物と変わらなかった手が毛に覆われていき、柔らかそうだった掌がゴツゴツとしたものに変化する。丸みを帯びていた爪が見る見るうちに鋭く伸び、それを確認するとシオはその爪を器用に使って魚の腹を捌いていった。

「それって……」

 シオの腕を見てトモキは眼を丸くし、その力について尋ねようとして口を噤んだ。料理をするシオが楽しそうだったからだ。
 そういえば、とトモキは獣人に関する特徴を思い出していた。獣人は、本来は獣に近い容姿をしており、しかし中には人に近い容姿へ変身することができるものも居る、と何かの本に記載されていた。元の世界では人と獣人の垣根はかなり低いが、それでも数として獣人は圧倒的に少ないため町中で数度見かけたことがある程度であり、またその誰もが人に溶け込んでいたため今の今まで失念していた。
 人に変身できる条件が何なのかはトモキは知らないが、きっとシオもそうなんだろう、と納得してシオを見守る。
 瞬く間に魚の内臓を全て取り出すと、薪とは別にしていたらしい木の枝に挿し、燃え上がる火の傍らに突き刺した。その手際は傍から見ていたトモキも見事と思うくらい手馴れていた。

「よくこうして魚を取って料理してたの?」
「うん。家だと余りお腹いっぱいに食べられなかったから……」

 魚の火の通り具合を一生懸命見つめながらシオはそう答えた。魚から油が滲み出て火の中に落ち、一瞬だけ勢い良く炎が大きくなる。その一瞬に阻まれてトモキはシオの表情の変化を窺い知る事は出来なかった。

「……ごめんなさい」

 魚を見つめていたシオの口から不意に謝罪の言葉が零れた。

「え? ど、どうしたの、急に?」
「ずっと、お兄ちゃんに酷い事をしてたから……」

 酷い事、と言われてもトモキには心当たりは無い。むしろ酷い状況を齎したのは自分では無いか、という思いがあるトモキとしては困惑するばかりだ。だがシオは視線を落として話し続けた。

「怖かったんだ……」
「怖かったって……僕と一緒に居るのが?」

 応じながらトモキはその言葉に納得していた。人と獣人との確執もあり、見知らぬ他人と行動を共にするというのは、幼い子供でなくても相当なストレスだ。だからトモキも理解してシオには必要以上に近づかないようにしていた。
 シオは、躊躇いがちに首を縦に振った。

「攫われて馬車に乗せられた時はとっても怖かった。人が僕達をどう思ってるのかは大人達が話してたから知ってたから、とっても酷い事をされるんだって思って怖かった。トモキお兄ちゃんが助けてくれたのは分かってたけど、でもトモキお兄ちゃんも『人』だから。人はとっても怖い生き物だから何をされるのか分からなくて怖かった」
「うん……それは分かるよ」

 咄嗟にトモキはシオに謝ろうと考えた。トモキ自身が獣人達に対して何かをしたわけではないが、自分と同じ「人」が為した許されざる行為に対して謝罪したい衝動に襲われた。だがこの世界に属していない自分が謝るのも何かが違う、と感じてその言葉は喉元で留まった。

「でも、その後は怖くなかったよ。トモキお兄ちゃんは優しかったし、殴ったりしなかった。意地悪をしたりもしなかったし、お兄ちゃんが良い人だっていうのは分かったから。だけど、里の大人達は皆、いつだって『人には近づくな』ってしか言わなかったから、どうしていいか分からなくて……」

 つまりはシオも戸惑っていただけだった。シオの感性ではトモキを「良い人」と判断していたが、一方で大人達の言いつけでは、人は皆誰でも「悪い人」だ。子供であるシオにとって大人達の言葉は強制力があり絶対的であり、それに反する自分の感情をどう扱って良いかが、経験の乏しいシオでは分からなかった。近づきたいけど近づいては駄目。相反する二つがバランスを取った結果が、シオとトモキの間に広がる「距離」であった。

「お兄ちゃんも僕と話したかったんだよね? 途中でいっぱい話し掛けてくれたよね? 本当は僕も嬉しかったんだ。話したかったけど、言いつけを破る勇気が無くて……お兄ちゃんもさ、寂しかったよね? 話し掛けても無視されたら僕も寂しいもん。里で、皆から要らない子供みたいに、居ない子供みたいにされた時、とっても寂しかった。一人ぼっちになった時、寒かったんだ。だから、お兄ちゃんも寂しかったよね?」

 伏し目からチラリと様子を伺う様にしてシオは焚き火を挟んで反対側に座るトモキの顔を仰ぎ見た。その顔は叱られるのを恐れる子供そのもので、しかし素直な少年の真摯な後悔の気持ちがありありと現れていた。

「昨夜分かったんだ。お兄ちゃんが倒れて、独りぼっちで暗い中に居て怖かった。馬車の中に居た時よりもずっと怖かったんだ。魔獣モンスターに囲まれて、一人でどうにかしなきゃって思って。とても怖かったよ。そして思ったんだ。お兄ちゃんが居てくれたからこれまで怖くなかったんだって。お兄ちゃんが僕の不安を何処かに持って行ってくれてたんだって。お兄ちゃんが頑張ってくれてたから、僕は寂しくなかったんだって思ったの。なのに、僕はお兄ちゃんにお礼も言わなくて、逆に酷い事をしてしまった。悪いことをしたから謝らないといけないって思ったんだ」

 シオの気持ちは単純なものだ。同じことをされた時、嫌な気持ちになった。そして今度は自分が同じことをしてしまったから、トモキも同じ気持ちだろう。寂しかっただろう、辛かっただろう。嫌な思いをさせてしまったから、だから謝る。それだけだ。
 人の心はそんなに単純なものではない、とトモキは考えている。同じ事をされても同じ感情を抱くとは限らない。そんな想定をしても時には全然見当違いの場合もある。
 けれども。
 シオはトモキの気持ちを慮ってくれた。トモキの心情に思いを巡らせてくれて、そして子供ながらの純粋な気持ちで素直に謝ってくれた。それは、人が人として生きる上で必要な考えであり、だけどもいつしか忘れてしまいかねないもので、トモキの周りにはその考えを置き去りにしてしまった人ばかりであった。だからこそ、トモキはシオの考えをがとてつもなく眩しいものに思えた。

「だから謝ります。ごめんなさい。それと、助けてくれて、傍に居てくれてありがとう」
「…………」
「あの、だから……これからも一緒に付いて行っても、いい?」

 トモキから反応が返ってこないため、シオは不安そうにトモキを上目で見つめた。

「……ああ、勿論だよ。当たり前じゃ、ないか。一緒に……一緒に、帰ろう」
「ホントっ!?」

 少し間を置いてトモキが頷いてみせると、シオはそれまでの不安で今にも泣き出しそうだった表情から一転して一気に破顔した。萎れていた耳が驚いた時と同じ様に真っ直ぐに伸び、クリっとした眼が更に大きくなって喜びを如実に表している。心底嬉しそうに笑い、そして安心して大きく胸を撫で下ろした。

「良かったぁ、お兄ちゃんに嫌われたかと思って怖かったんだ。けど、勇気を出して良かった。
 あ、もうそろそろお魚焼けたかな?」

 意識をトモキから火元の魚に移し、シオは「あちちっ」と声を上げながら魚が刺さった枝を手に取るとふぅふぅと息を吹きかけて冷ましながら魚に齧り付く。

「うん、もう焼けてる! はい、トモキお兄ちゃん。とってもおいしいよ!」

 魚の味に一層顔を綻ばせるとトモキに向かって他の一匹を差し出す。トモキはそれを受け取って、シオと同じ様に魚の腹を齧った。
 口の中に広がる濃厚な味。皮ぎしの良く乗った油が焼かれたことで程よく落ち、野性味溢れる旨味が口の中に広がっていく。温もりのある身が噛み解されて喉の奥を通って腹へと落ちていく。トモキはもう一度魚に噛み付いた。

「……お兄ちゃん?」

 だが二口目は噛み千切られる事は無かった。噛み付いたままの姿勢でトモキは動きを止め、不思議に思ったシオがトモキを見つめた。
 トモキは泣いていた。魚を噛み千切ろうとしても口が動いてくれなかった。小さく震え、細められた両目からは止め処なく涙が頬を流れ、一滴ひとしずく、また一滴と足元の小石を濡らしていく。

「どうしたの、お兄ちゃん!? もしかして、まだ火が通ってなかった? あ、それとも怪我した所が痛いの!?」

 突然泣きだしたトモキにシオは狼狽し、急いでトモキの隣に駆け寄る。手当をした左腕をそっと擦ったり、おろおろとトモキの泣き顔を見上げたりして、だがトモキは奥歯を噛み締めてかぶりを振った。

「ううん、そんな、事ないよ……怪我も痛く、ないし、シオが、焼いてくれた魚も、とっても美味し、いよ……」

 訥々と言葉を発しながらトモキはもう一度魚を囓り、震える喉で無理やり咀嚼した。

「美味しい、とっても美味しいよ……シオ、ありがとう……」

 だがそこまでが限界だった。震える手で枝を石の上に置くと、しゃくりあげながら両手で目元を強く押さえつける。それでも涙は止まってはくれない。
 不安だった。寂しかった。シオの言う通り、トモキは寒かった。心が寒かった。独りで居る事が怖かった。何より、シオに嫌われているかと思うことが、怖かった。この世界で、誰にも理解されないと思っていた。それだけにシオの気持ちが嬉しかった。嬉しくて堪らなかった。

「う、うぅ、あ、あ……」

 これまで貯めこんできた物が堰を切ったかの様にこみ上げて、涙となって流れる。止まらない。誰かに望まれる。居ることを望まれる、ただその事がこの上なく嬉しくて心のつかえが一気に取れたようだった。

「えっと……」

 シオが困った様子で頬を掻く。泣いている大人に対してどのような態度を取れば良いのか、シオにはまだ分からなかった。だから彼は、自分が泣いている時に一番されて嬉しかった事をした。

「泣かないで、トモキお兄ちゃん」

 戸惑いがちにシオはトモキの頭に手を遣った。そしてゆっくりと、優しい手付きでトモキの髪を撫でた。トモキよりもずっと体温の高いその温もりが髪の毛越しにトモキに伝わっていく。トモキの心に伝わっていく。
 ――誰かの温もりが、こんなに心地いいなんて。
 ついにトモキは声を上げて号泣した。これまでギリギリの所で耐えていた心の緊張が一気に解け、溢れかえる心地良い感情そのままに涙を流し続けた。

「あり、がとう、ありがとう……」

 僕と一緒に居てくれてありがとう。僕を必要としてくれて、ありがとう。
 いつまでもトモキは泣き続けた。だが激しいはずのその感情は、枯れていく喉とは裏腹に、傍を流れる川の流れの様にこの上なく穏やかなものだった。













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