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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved







 ユーリスに言われたままにトモキは走る。背中に荷物を背負い、右腕にはシオを抱えながらも一定の速度を保ちながら木々生い茂る山道を駆けていく。すでに里は何処にも見えず、トモキとしては里から離れたつもりではいるが、しかし逃げるにしてもトモキにはまだ山や森の中を正確に目的の方向へ進む程の感覚は持ち合わせていない。

(ちゃんと里から離れられてればいいけど……)

 少なくともユーリスと出会った場所からは離れているとは思うが、もしかすると里に沿って逃げてしまっているかもしれない。だとしたら無駄足となるが――

「シオ……」

 シオなら道が分かるかもしれないが、シオは今、トモキの腕に抱えられて泣き声を漏らしながら顔を胸に押し付けている。しっかりとしがみついた指はトモキの腕に食い込み、恐らく痣を作っているだろう。そんな精神状態のシオに声を掛けるのは流石に憚られた。

(ともかく一刻も早く森を抜けないと……)

 たぶん、もうしばらく時間が経ってしまえばユーリスは仲間と共に見回りを再開するだろう。こうして逃げるだけの時間を与えてくれたのは、獣人という種とシオの事の狭間で揺れる彼女の最大限の譲歩だ。もし、改めて彼女がトモキとシオを見つければ容赦なく殺し排除に掛かるだろうと予想できる。
 逸る気持ちを何とか落ち着かせ、森の中を駆ける脚に一層力を込めて加速仕掛けた。

「――っ!」

 だが突然トモキの足が止まった。その異変を察したシオも顔を上げて赤くなった瞼をトモキに向ける。

「……お兄ちゃん?」
「静かに……」

 シオを黙らせるとトモキは辺りを見回し、一際藪が生い茂った一角に体を滑らせて息を潜める。

「……人の気配がする。じっとして絶対に動かないで」
「うん……」

 流れる冷や汗を拭わずトモキはある方向を凝視した。シオを安心させるため頭を撫でながらも目線を外さずに早鐘の様に激しく鼓動する心臓の音を聞く。
 まさか、もう獣人達が追ってきたのだろうか? それともユーリスの様に見回りをしていた獣人と遭遇してしまったのか? そうだとして自分はどう振る舞うべきだろうか? 大人しくここでやり過ごすべきか? そうした時、彼らの優れた鼻を誤魔化すことが出来るだろうか?
 不安と共に様々な状況を想定していく。落ち着いて。そう自分に言い聞かせ、鼻頭を撫でる。そうしていく中で程なく草を分け入る足音達が聞こえてきた。数は二つ、いや、三つか。

「本当にこんな所に『怪人』が居たんだろうな?」
「ああ、間違いねーって、ガルディ。村の連中が皆見たことあるっつってんだからよ。そら俺だって一人や二人だと疑ったさ。でもまさか村長までグルで俺らを貶めようって話にゃならねえだろ?」
「どうだかな。お前の情報源も当てにならんからな、エヴァンス。この前も似たような情報を持ち帰ってきたが、結局大型の魔獣だっただろう?」
「ぐ……い、いいじゃねぇか、結局魔獣の肉やら骨やらで懐も潤ったわけだしよ」

 トモキはそっと頭を上げて声のする方を見た。主に会話しているのは二人。ガルディと呼ばれた男はとても大柄だ。恐らくは二メートルを超えているだろう、とトモキは当たりを付けた。薄い白のシャツの下には見て分かる程に鍛えぬかれた肉体をしている。背中には所謂大剣を背負い、その出で立ちから力で戦うタイプか。
 対するもう一方のエヴァンスは、体躯こそガルディが居るため小柄に見える。だが決して小柄では無く、線も細く見えるが腰に刺した二本の剣やこうした生い茂る山の中を軽い足取りで歩いている事からそれなりの実力が窺えた。話し振りから何処か軽そうな印象を受けるが、果たして実際はどうだろうか。

「それに、前回がガセだったにも関わらずまたこうして付き合ってくれるんだ。お前らの方も似たような情報を耳にでもしたんじゃねーの? なあ、アウレリウス?」

 そしてもう一人。

「……そうですね。怪人種かどうかは分かりませんが、少なくともこちらの方向に普段見慣れない姿があった事は確かな様です」
「そうなのか?」

 アウレリウス、と呼ばれた男はエヴァンスから振られた話に頷いて見せる。灰がかった髪色の前髪を掻きあげ、その手を魔術師然とした黒のローブの中へと戻していった。そして銀縁のメガネの奥から何処か呆れた様な視線をエヴァンスへ向けた。

「だろっ! やっぱそうなんだって。大丈夫だいじょーぶ! もし違ったとしてもどうせ人型の魔獣か何かだろ? そいつを狩れば無駄足にゃならねぇって」
「まったく、貴方という人は……いいですか、ここはすでにベネディスク獣皇国内なんです。魔獣の一匹や二匹なら我々だけでも何とかなるでしょうが、獣人達に見つかれば面倒な事になるんですよ? それを分かってるんでしょうね? さっきからお喋りばかりで、少しは周囲を警戒してください」
「アウレリウスは心配症なんだよ。そんなピリピリしてたらすぐにハゲんぞ?」
「は、ハゲっ……ったく、貴方と話をした私が愚かでした。こうなったらガルディリス、貴方だけが頼りです。敵が近づいてきたらすぐに知らせてくださいね?」
「分かっている。本来索敵はこの男の仕事だが、思いの外頼りにならんみたいだからな」
「あ? どういう意味だよ。喧嘩売ってんのか?」
「ならそう思う前に辺りの気配を探ってみろ。
 ――近くに人の気配がする」
「なっ!?」

 反射的にトモキは頭を下げた。息を止めて物音を極限まで無くす。だが、心臓の音は激しく打ち鳴り、規則正しく刻む脈の振動が今は憎らしい。
――大丈夫だ。バレていない、バレていない。
 そう自分に言い聞かせるが、ガルディリスの声は明らかにトモキの方へと投げ掛けられていた。

「……獣人ですか?」
「さて、な。敵意は感じないが、こんな場所で隠れているような輩だ。ただの通行人ということはあるまい。
 あくまで隠れたままで居るのであればこちらから仕掛けるが、それでも良いのか?」

 見つかっていない、という願望をトモキは即座に打ち消した。だが、このまま素直に姿を現していいものか一瞬迷う。しかしそんなトモキの心中を読んでいるかの様にガルディリスの纏う雰囲気が変わる。

「出てこんか……仕方あるまい。誰かは知らんが恨まないで貰おうか」
「……待ってください。今、出ていきます」

 観念し、トモキはその身を叢から起こした。両手を挙げ、抵抗の意思が無いこと示しながらゆっくりと三人の方へ進み出ると、真っ先にエヴァンスが怪訝そうに顔を顰めた。

「あ? ガキかぁ? どうしてお前みてぇなガキが一人でンなトコに居んだよ? それに見慣れねぇ格好してんな。どっから来た?」
「東の方からです。……ずっと旅をしていまして、ここには道に迷って、気づけば居ました」
「……確かに東の方ではこの方の様に皆髪の色が黒いとは聞いた事があります。……一部、赤い髪が混じっている様ですし、極東の方と直接会った事はありませんので本当かは知りませんが……」
「道に迷った、と言ったな? ここはまだ獣人の国の中だ。君の様な少年一人では危ない。どうだ、私達と一緒に来ないか? 近くの村まで送って行こう」
「おいおい、ちょっと待てよ。こんな場所まで来たってぇのにガキの為に蜻蛉返りか? 俺はゴメンだぜ? せめて怪人種の情報くらいは手に入れてからにしようぜ? このままじゃ今回見返りはなしだ。そんなんは俺は御免こうむるね」
「しかしだな……」
「あの」

 ガルディリスとエヴァンスの意見が対立し、二人の間の雲行きが怪しくなり始めた時、黙って聞いていたトモキが声を上げた。

「僕の事は気にしないでください。皆さんはその、怪人種、でしたっけ? それを探す為にここに来たんですよね? だから僕には構わず皆さんの都合を優先してください」
「ですが、ガルディリスの言う通りこの辺りは危険ですよ? それに近くの村、と言ってもかなり距離があります」

 アウレリウスもガルディリスの意見に同調してトモキを説得しようとするが、トモキは「大丈夫です」と言って背中に背負った荷物に眼を遣った。

「食料ならまだ余裕がありますから。それに……」

 一旦言葉を区切って左の腰に挿した剣の柄を軽く撫でた。

「僕もそれなりに腕に覚えはありますから。魔獣程度であれば逃げるくらいはできますし。大体の方向さえ教えて頂ければ自分で何とかしますよ」
「ううむ……」

 にこやかに伝えてくるトモキにガルディリスは唸った。
 トモキとしては早く彼らから離れたかった。いつ獣人達が探しにくるか分からず、加えてトモキはアテナ聖王国内で手配されている身だ。今はまだ三人共気がついていないみたいだが、このまま話し続ければいつバレてしまうか気が気では無い。出来るだけ急いで、しかし彼らに不審がられない様に自然に離れなければならない。
 顔には笑みを仮面の様に貼り付けて。人畜無害な人族の少年として。
 ガルディリスの判断を促すようにトモキは頭を下げる。

「ご心配して頂いてありがとうございました。それじゃ僕もそれなりに急いでますので」
「……分かった。こんな場所に道など無いが方向だけ伝えておこう。今の君から見て七時の方向だ。あっちに真っ直ぐ行って、小さな山を一つ越えれば村に着く」
「分かりました。ありがとうございました。それじゃ失礼します。そちらもお気をつけて」
「ああ、君もな」

 表情を幾分緩めた風に見えるガルディリスにトモキはもう一度頭を下げ、指し示された方向へ向き直った。そしてバレずに済んだ事に人知れず胸を撫で下ろした。
 その時だった。

「――っ!!」

 突然トモキは振り返った。それと同時に直感に従って大きくその場を飛び退く。
 振るわれる凶刃。トモキの居た場所を左肩から袈裟に斬り裂き、だがかわしたはずのトモキの左頬を目に見えない何かが斬り裂いていった。

「エヴァンスっ! 貴方何を……!?」
「よーやく思い出したぜ」

 剣を振り下ろした体勢をゆったりとした動作で崩し、ニヤリと口端を歪めて真っ直ぐ立ち上がる。だがその眼は鋭く、トモキを油断なく見据えていた。

「どっかで見たことある顔だとは思ったんだ。黒髪なんて滅多に見ねーし、一度でも会ったことがありゃ忘れるはずもねぇ」
「なら人違いですよ。僕は貴方と初めて会いましたから」

 一縷の望みを賭け、トモキはシラを切った。だがエヴァンスは小さく鼻で笑い、手にした剣をトモキに向けた。

「ああ、俺もお前に会ったのはこれが初めてさ。だから今まで思い出せなかったのさ。だが俺らは怪人種を追い掛ける以外にも賞金稼ぎみてぇな事もしててな。逐一指名手配犯なんぞもチェックしてるって訳だ」
「待て、エヴァンス。それではこの少年が犯罪者みたいではないか」
「みたい、じゃねーんだよ、ガルディ。正真正銘コイツは賞金首。強盗に殺人未遂までやらかした歴とした凶悪犯なんだよ」
「違います!」

 大声でトモキは否定した。確かに罪状としてはそうかもしれないが、実情はそうではない。恥じることをした覚えもなければ、誰かに後ろ指を差される事はしていない。ならば認めてはならない。エヴァンスはともかく、ガルディリスは誰かを謀る様な人間では無い。見知らぬトモキを心配してくれた事からも、真っ直ぐな人柄なのだろう。であれば、ここで本当の事を主張すれば味方になってくれるかもしれない。

「何が違うっていうんだよ。いいぜ? ここで言いたい事があるなら言ってみな? 大人しく捕まるっていうんなら話を聞いてやってもいいぜ?」

 だがトモキは言葉を続けることが出来なかった。彼らのトモキに対する態度は信頼できるかもしれない。
 しかし、シオに関して・・・・・・は信用できなかった。
 短い時間の中でトモキはこの世界を見てきた。アルフォンスに出会えた。シオに出会えた。良かったと思える事もある。それでも、人間達と獣人達の諍いにトモキは理解を示す事が出来なかった。
 つまりは、トモキはこの世界を信じきれなかった。数少ないながらも人間、獣人共に接してきて、どちらの側にも立つことが出来なかった。この世界に属する立場を見定めるには、まだ時間が短過ぎた。

「どうした? 何も言う事がねぇなら問答無用でふん捕まえるぜ?」
「……僕がした事は確かに犯罪かもしれません。だけど、間違った事をしたとは思っていません」
「何か事情がありそうですが、その辺りを話しては頂けませんか?」
「いきなり斬りかかる様な人を、僕は信用できません」
「なら仕方ねぇな」

 エヴァンスは慣れた手付きで右手の剣を持ち替え、開いていた左手にも小太刀を握り構える。

「力づくで捩じ伏せるまでだ。大して賞金はでかくねぇが、一月二月くらいは遊んで暮らせそうだからな。――死んでも後悔すんじゃねぇぞ?」
「犯罪者を逃すわけにもいかんし、已むを得んか……だが極力傷つけるなよ、エヴァンス」
「さぁてねぇ。そこら辺もこのガキ次第ってところかね?」

 姿勢を低く構え、エヴァンスがジリジリと間を詰めてくる。その横に、背の大剣を握った状態でガルディリスが並び、後方ではアウレリウスがローブから杖を取り出して詠唱のタイミングを計っている。
 トモキもまた剣を抜き、三人の動作に注意を払いながら少しずつ息を潜め続けているシオから距離を取るようにして場所を移動する。
 トモキは迷う。このまま三人と剣を合わせるか、それとも一目散に逃げるか。シオに目配せの一つでもしてやりたいが、今それをすればシオの存在がバレてしまう。出来ればこの戦闘にシオを巻き込むのは避けたい。
 どうする、どうする。頭の中で必死で状況のシミュレートを行うが、それが完了する前にトモキはハッと眼を見開いた。そして三人と対峙しているにも関わらず弾かれた様に明後日の方向を振り向いた。

「グォォォォォォォォッッッッ!!!!」

 地鳴りだ。トモキはそう錯覚した。地面が、体が揺れるような感覚。付近一帯の空気が震え、火山の噴火が起きたような恐怖が一同を襲った。
 何かが、来る。耳を抑えながらトモキは声のした方を注視した。眼を離してはいけない。そんな予感に囚われた。
 不意に幾つもの枝が折れる音がした。バキバキと不気味な音が鳴り、そして巨大な影が一面を覆い隠していく。

「上だっ、エヴァンス!!」
「ちぃっ!!」

 ガルディリスの声と同時にエヴァンスが空を見上げ、襲い来る影を視認すると同時に両手の剣を掲げて受け止めた。

「ォォォォォォォォッ!!」

 だがそれも刹那。コンマ秒にも満たない時間の中で決着した力比べは、まるで羽毛でも扱っているかの様にエヴァンスの体を容易く弾き飛ばし、樹の幹へと叩きつけて潰れる音を奏でる。

「エヴァンスっ!!」
「ふぅぅぅぅぅ……どうにも嫌な匂いがすると思ったらやっぱり居やがったか」

 果たして、着地の轟音を響かせて現れたのは、ガルディリスよりも遥かに巨大な肉体だった。黒い体毛に覆われた巨体は、トモキを何人合わせれば辿り着けるか、と思えるくらいに巨躯。右手にはそんな自身の巨体をも切り裂ける程の巨大なナタとも斧とも取れる武器。着地と共に地面にそれが叩きつけられた箇所は、まるで隕石が墜落したかの様なクレーターが刻まれていた。突き出た鼻から出される息は荒く、興奮している様子が見て取れる。そして、巨躯の上に乗っかった二本の角を持つ牛面にある両目は影となった顔の中にあって爛々と闘志を漲らせていた。

「よぉ、人間……誰の断りを得て人様ン庭に入り込んでんだぁ?」

 大きく踏み鳴らしながら牛頭男ミノタウロスは前に出た。遥か高みから見下され、トモキやアウレリウスは勿論、人の範疇において大男に類されるはずのガルディリスでさえも彼の体から放たれる威圧感に圧倒されて冷や汗を流していた。

「それに……」

 ミノタウロスは眼を血走らせたままグルリとトモキを見下ろした。一瞬トモキで視線を止め、しかし更に視線を横に滑らせて脇の叢へと向けた。

「随分と人間クセェ臭いをさせるようになったじゃねぇか。自分から出て行くたぁ半端モンにしちゃあ気が利くとは思っていたが、いよいよ人間共に媚を売って獣人としての埃まで金に変えちまったかぁ?
 なあ――エドヴァンズカシオのガキローネッ!!」
「シオっ!!」

 トモキが叫ぶ。それと同時、シオは叢から飛び出した。ミノタウロスに背を向け、誰も居ない方向へと駆け出す。

「逃しゃしねぇよっ!!」

 しかしシオよりもミノタウロスの方が早い。飛び出したシオの姿を認めると同時に、巨体に似合わぬ敏捷な動きで対峙していたガルディリス達の目の前から消え、シオの方へと跳んだ。

「速いっ!?」
「あの巨体で何て動きだっ!」

 シオが決して遅いわけでは無い。だがその体格には大人と子供以上の差があり、一歩の差は歴然。わずか数歩の跳躍で十数メートルあったシオとの距離をゼロに変えた。

「カシオローネェッ!!」
「う…あ……」

 敵意の腕がシオに向かって伸びる。シオが振り返り、その口から悲鳴が伸びた。筋張った巨大な掌がシオの頭を掴もうとしていた。
 その直前。

「ぬっ!?」

 ミノタウロスは突然シオから視線を外し、右手の大ナタをデタラメに横に振るった。その巨大さ故に振るわれただけで暴風が巻き起こり、あらゆるものを砕かんとばかりの迫力があった。

 ガキィンッ!――果たして、金属同士がぶつかり合い、木々の隙間を甲高い音が駆け巡った。

「テメェ……!」
「シオは、渡さない……!」

 ミノタウロスの大ナタと剣を合わせながらトモキは言葉を絞り出した。力が拮抗し、激しく擦れ合った剣がナタの刃を微かに削りとっていく。ミシミシとナタが悲鳴を上げ、全体の拮抗もトモキの方へと傾きかける。
 巨体を誇る自分とただの人間風情が力比べを出来ている。その事実にミノタウロスは目を剥き、しかしすぐに楽しそうに口を歪めた。

「人間のくせに中々やるじゃねぇか。だがな……!」
「ぐっ……」
「俺と力比べしようなんざ百年早ぇんだよっ!!」

 ミノタウロスはナタを片手から両手に持ち替え、力任せに振り切った。流石にトモキも堪え切れず大きく吹き飛ばされ、しかし空中で体勢を整えると、飛ばされた先にあった木の幹を足場に跳躍した。
 高さを利用してミノタウロスの頭を越え、空を跳ぶ。別の樹の枝を掴んで鉄棒の大車輪の要領で更に遠くへ。そして軽やかな足音を立て、正面から背後に変わったミノタウロスに見向きもせず、逃げ続けているシオの後ろを追いかけていった。

「……糞がぁッッッ!!」

 最初から力比べをするつもりなどトモキには無かった。体躯を比べれば圧倒的に不利なのは明白で、ミノタウロスの横を抜け様にもあの大鉈の範囲は広く、また動きも俊敏だ。
 だが上下方向は違う。人間は左右に比べて上下には通常反応しづらく、故にトモキは剣を上から振り下ろし、ミノタウロスが振り上げる形になるよう攻撃した。ミノタウロスも人間同様に高さ方向の変化に弱いかは賭けであったが、その目論見は成功した。トモキに利用にされたミノタウロスは怒声を辺りに撒き散らし、眼を血走らせてトモキの後を追おうと肩を怒らせる。トモキはその声に恐怖を覚えながらも意識をシオへ集中させた。

「おおっと、そうはさせねぇぜ?」

 ミノタウロスが走りだす直前、背後から声。頭の中で鳴り響く直感に従い、ミノタウロスは再び大鉈を振るう。腕に伝わる抵抗。だが打ち合ったにしては軽い感触。振り返ってみれば、たった今剣を合わせたエヴァンスが軽やかに宙を舞っていた。

「貴様! まだ生きて……」
「お前の相手はこちらだ」

 次いで掛けられる声。いつの間にか背後にガルディリスが迫っていた。
 上段から振り下ろされる剣。ミノタウロスはすぐに鉈を振り上げて弾き返すが、ガルディリスはその勢いを利用して大剣をすぐに振り返す。
 鮮血が舞う。ミノタウロスの体正面を浅く斬り裂き、斜めに傷を作り上げる。

「この程度……!」
「まだ終わんねーよ」

 眼を剥き、呻きながらもミノタウロスは踏み留まる。大鉈を振り被り、ガルディリスに狙いを絞る。だが、すぐに足元から別の声が。
 右肩と頭部を負傷し、血を撒き散らしながらもエヴァンスは左手に剣を握ってミノタウロスの足元を走り抜けた。すれ違い様に大腿を、回りこんで次に脇腹を。傷は小さくともダメージを与えることに成功すると、すぐにミノタウロスから距離を取って安全圏へと逃げる。

「この……ちょこまかと……!」

 荒く鼻息を吐き出し、デタラメに鉈を振り回し、だが鉈が通過する頃にはエヴァンスとガルディリスの二人はミノタウロスから離れた所に居た。

「貴様らぁ……!」

 小馬鹿にされている感覚に、地味に痛む各傷も相まってミノタウロスは一層頭に血を上らせる。すでにミノタウロスの眼には二人しか見えておらず、追い掛けようと地面を蹴りかける。だが、両足に重い抵抗。何だ、と足元を見遣れば、地面が盛り上がり両足をふくらはぎ付近まで固く土に縫いつけていた。

「――我が精霊に命ずる。我が身に宿りし魔力を喰らいて眼前に立ち塞がりし敵を焼き払え」

 詠唱の声が木々の間を駆け抜けた。
 ミノタウロスの立っている場所を中心として地面に魔法陣が描き出され、空に向かって光が伸びる。離れた樹の枝の上に立つアウレリウスは、ミノタウロスに無視されていた不快感を口にし、灰色の髪を苛立った様に掻き上げた。

「全く――この場に居るのは二人だけでは無いんですよ?」
「貴様……!」
「獣風情に忘れ去られるのはこの上なく不愉快なんですよ」
「やめろぉぉぉっ!!」

 眩い光がミノタウロスを包み込んでいく。必死に足元に絡みつく土を振り払い、魔法陣の中から逃れようとするが、それよりも早く魔法陣に魔素が満ちていった。

「――『イノセンス・フレイム』」

 アウレリウスの口から放たれる最後の詠唱。魔素が膨大な熱量に変換され、直後、灼熱の火炎がドーム上にミノタウロスを焼き尽くす。アウレリウスは高温の熱風と耳を劈く爆発音に顔を僅かに顰め、しかし哀悼の意を示すかの様に胸元で光る十字のロザリオを掲げた。

「全ての異端に等しく死を――」

 風が爆煙を流していく。立ち込めた煙が徐々に晴れ、黒く焼け焦げたミノタウロスが横たわった姿が露わになる。蛋白質が焦げた独特の臭いに、アウレリウスは顔を顰めて鼻を摘んだ。

「全く、相変わらず派手にやったねぇ」
「貴方の方こそ大丈夫なのですか?」

 足を引きずりながらも飄々とした様子でエヴァンスがやってくる。顔の前を仰ぎながら、疲れた様子で溜息を吐いた。

「ンなわけねーよ。腕は痛ーし頭はクラクラするし、もう最悪だ」
「全てはお前が油断したせいだ。むしろあの一撃を食らって生きている事を感謝すべきだな」
「わーってるって」

 そんなエヴァンスにガルディリスは肩を貸しながら、呆れた様に悪態を吐き、エヴァンスは軽く肩を竦めてみせた。そんな二人の様子を見ながらアウレリウスは薄く笑みを浮かべ、「これからどうしますか?」と尋ねた。

「……一度途中の村へ戻った方がいいだろう。流石にこのまま怪人種の探索を続けるのはリスクが大きい。それでいいな、エヴァンス」
「ちっ、まあ仕方ねぇか。賞金首は惜しいし逃したのは悔しいけど、俺の油断が招いた事だしな。ここは大人しく戻ってやるよ」
「そうですか……分かりました。ではそうしましょう。エヴァンスの怪我が癒えてからまた再度捜索ということで」
「ああ。
 よし、ほら行くぞ、エヴァンス。何なら今ならお前の大好きなお姫様抱っこでもしてやろうか?」
「ああ!? ふざけんな……ってこら! 止めやがれっ! ふざけんなガルディ……おい、分かった! 俺が悪かった! だから……」

 真顔でエヴァンスを抱き上げて、その腕の上でエヴァンスが暴れながらやってきた方向へ帰っていく。緊張がほぐれて賑やかになってきた雰囲気を、アウレリウスは穏やかな表情を貼り付けて微笑んだ。しかし立ち止まったまま二人に付いて行く様子は無い。

「アウレリウス?」
「すいません、魔術の火が木に燃え移っていないか確認しますので先に戻っていて貰えますか? すぐに追いつきますので」
「……危険だぞ。一人で大丈夫か?」
「心配症ですね、ガルディリスは。大丈夫ですよ、少し見て回るだけですから」

 眼鏡のレンズの奥で切れ長の眼が細まり、口元が軽く弧を描く。アウレリウスが笑ったのを確認して安心したのか、「なら先に行っている」とだけ残してガルディリスは暴れるエヴァンスを抱えたまま去っていった。
 立ち止まったまま見送り、完全に二人の姿が消えたのを確認するとアウレリウスは一度眼鏡を外してレンズを磨く。レンズの曇りが完全に取れたのを確認して掛け直すと、トモキが去っていった方向を鋭く見据えた。

「……我は裁きを下す者なり。代行者にして全ての異端に死の鉄槌を――神の名の下に」



 エヴァンス達が戦っていた隙にトモキはシオを追い掛けた。先ほどのミノタウロスみたいな大男もすぐに追い掛けてくるはずだ。あの咆哮できっと里の人達も異変に気がついたに近いない。人が集まってくる前に一刻も早くシオと合流してここを去らなければ。
(どこだ――、どこに居る――)

 幼いシオの足だ。まだ、遠くへは行っていないはず。だが、居ない。何処までも似た景色が続く木々の間を走りぬけ、焦りを覚え始めた頃、トモキはシオを見つけた。

「シオっ!!」

 木々の拓けた場所にシオは立ち止まっていた。トモキに呼ばれてシオは振り返る。見慣れた姿を認め、シオの表情に見るからに安堵が広がった。
 互いに駆け寄り、抱きつく二人。トモキはシオの顔や手足を触り、怪我が無い事を確かめてトモキもまた安心して溜息を吐いた。

「良かった……怪我が無くて」

 シオはトモキに抱きついたまま離れない。そんなに心細かったのか、とトモキはシオを抱き抱えて髪を撫でてやるが、ふと思う。
 どうして、シオは立ち止まっていた?
 ある程度距離が離れたからトモキを待っていたのかとも思った。こうして抱きついてくるのも落ち着いて不安がこみ上げてきたからだろうか。しかし、それにしては――

「あらあら……一人で突っ込んで行ったから自信があるのかと思ったけれど、グウェインも大したことないわねぇ」

 女性の声が聞こえ、トモキはシオを背後に隠して剣を構えた。
 トモキの正面。生い茂る樹木の枝葉から降りてくる影の中をゆっくりした動作で歩いてくる二つの人影が、木漏れ日に照らされて姿を露わにする。
 一人はたった今、声を発した女性だ。スラリとした、黄色い毛並みに覆われたふくらはぎが最初に現れ、紫色の七分丈のパンツと薄いピンクのTシャツを着た姿が見えてくる。金色の髪の上には狐の耳が乗っているが、その顔はこれまでの他の獣人達と違って人に近い。手にはパイプを手にしていて、歩きながら吸っては美味しそうに煙を吐き出していた。
 もう一人は虎の獣人だ。黄色をベースとした毛色の上に幾本もの黒い線が走っている。背はトモキよりも頭半分ほど高い。女性のやや後方に黙したまま付き従う形で、いつでも引き抜けるよう腰の剣に手を付けており、油断なくトモキの動きに注視していた。

「ナーシェ…お姉ちゃん……」
「それにしても一人で戻ってきちゃったのかと思って感心してたけれど、ふぅん、そういう事ね」下から上へ、トモキの全身を舐め回す様に見上げていく。「でも折角追い出してあげたのに、人間を連れて帰ってくるなんてイケナイ子。悪い子にはお仕置きをしてあげなくちゃ」
「貴女は……」
「あらぁ? 人の名前を尋ねる時はまずは自分からじゃなくて?」
「……トモキです」
「ふふ、素直な子ね。いいわ。貴方みたいな男の子は嫌いじゃないわ」

 言い寄る男を軽くあしらう様な物言いに、トモキは苦虫を噛み潰したかの様に顔を顰めた。剣を向けられても平然としているのはトモキを取るに足らない存在だと思っているからなのか、それとも何があっても隣の虎人が守ってくれると信じているからか。いずれにせよ、こうして攻撃してくるでも無く堂々と姿を現してきた以上一筋縄では行かないだろう。

「さっきもそこのクソガキ・・・・が私の名前を呼んでたけど改めて自己紹介するわ。私はナーシェ。そしてコッチで今にも貴方達を斬り殺したそうにしてるのが虎人族のログワースよ。ま、もう明日以降会うことは無いでしょうけれど宜しくね」
「それじゃナーシェさん。……僕達に何か用ですか?」
「そんなの決まってるじゃない。人間の臭いがしたからどんな奴らが来たのか、見に来ただけよ」
「ならもうここから出ていきますから見逃して貰えませんか?」
「ん〜、そうねぇ……」

 ナーシェはパイプを一度吹かし、立ち上る煙を見ながら考えこむ素振りを見せ、妖艶な笑みをトモキに向けた。

「別にいいわよ。私は別に人とか獣人だとかどうでもいいし」
「えっ……」
「何なら私の家に来る? 人間でも貴方みたいな可愛い子は歓迎するわよ。大丈夫よ。私の家は里から外れた所にあるから、人間の一人くらい囲うのは簡単よ」

 ナーシェは誘惑する様にウィンクしながら吐息混じりにそう答えた。
 対するトモキは、想定外の答えに戸惑った。これまでに出会った誰もが判を押したかのように人は獣人を、獣人は人を憎悪の対象としていた。当然ナーシェ達もトモキ達を捕まえに来たものと思っていたが、ナーシェはどちらかと言えば人に対して好意的な印象さえある。
 トモキはナーシェの顔を見た。色気が漂う笑顔を向けられ、トモキは少し顔を赤らめつつ背けた。獣人の中でも必ずしも一枚岩では無いということか。或いは、彼女も人に近い容姿をしていることから、あまり獣人の間で好意的に見られていないのかもしれない。いずれにせよ、見逃して貰えるというのであれば好機だ。トモキは赤らんだ顔を誤魔化す様に咳払いをして口元を隠した。

「そ、それじゃあ僕らはこれで失礼します」
「あらぁ、女の誘いを断るなんて意外と無情いつれないのね。お姉さん、残念だわ。でもいいわ。諦めてあげる」
「そ、そうですか。では……」
「ただし――」

 ナーシェは手に持っていたパイプをシオへと向けた。

「――その子を置いていきなさい」

 告げると同時、パイプから何かが飛び出した。
 シオに真っ直ぐに向かうそれに、トモキは反射的に左手をシオの顔の前に差し出す。チクリ、と微かな痛みが掌に走り、顔を顰めながら自分の手を見れば、小さく細い針が一本突き刺さっていた。

「トモキお兄ちゃん!」
「……見逃してくれるんじゃなかったんですか?」
「ええ、貴方は別に構わないわよ。でもその子はダメ。色々と用があるもの」

 シオを見るナーシェの眼はひどく冷たい。トモキは緩みかけていた彼女に対する警戒度を上げ、シオの前に立ち塞がってナーシェを睨みつける。

「シオを……どうするつもりですか?」
「そうね……まずはその子のお父さんに会わせてあげようかしら」
「は……?」

 一瞬、トモキは耳を疑った。もしかして、自分はナーシェの事を誤解しているのだろうか、と本気で考えた。

「きっと……あの人はさぞや嘆き苦しんでくれるでしょうね。せっかく遠ざかったはずの、人間そっくりの自分の息子がまた目の前に現れるんですもの。この子ならたくさん、たーくさん心を掻き乱してくれるわ……」

 だがすぐに考えを改めた。何を想像しているのか、表情を恍惚に歪め、唇を怪しく舌で舐めている彼女に対し、トモキは背筋が凍えるような錯覚を覚えた。

「どうしてそんな事を……」
「そんなの決まってるじゃなぁい。あの人に振り向いてもらうためよ」

 手に刺さった針を抜きながら尋ねるトモキに、ナーシェは横目で見下ろしながらパイプを一度吹かした。

「今、あの人の家庭はさぁんざん。そこの坊やのお陰でね。今は少し持ち直してるみたいだけど、ちょうど良かったわ。もう一度心を乱して乱して乱して……そこで私が優しく慰めてあげるの。そうすればきっと、今度こそエドヴァンズさんは私に振り向いてくれる。そこの邪魔な坊やは、エドヴァンズさんに会わせた後で里の真ん中に突き出せば勝手に里の連中が始末してくれるでしょうし」
「貴女って人はっ……!」

 狂っている。トモキはナーシェをそう断じた。先程は優しそうに見えたその顔が、今は醜悪に歪んで見える。色香を振りまいていたその眼差しも、単なる情欲に溺れた売女だ。他人の弱り目につけ込んで不幸をばら撒き、その事に何の呵責も見えない。見上げるトモキの眼差しを濁った眼で受け止め、その上で逆に真っ直ぐに覗きこんでくるその眼差しに、トモキは怖気を覚えた。
 シオを見るその眼はまるで汚物を見るようだった。その視線をシオに見せるわけにはいかない。トモキは両足に力を込めて逃げるタイミングを見計らっていたが、不意に膝から力が抜け落ちた。

「お兄ちゃん!?」
「な、んだ……?」
「ようやく効いてきたみたいね。さっき貴方が受け止めた針。実はあれには神経毒が塗ってあったのよ」ナーシェの後ろで黙って控えていたログワースが剣を引き抜き、一歩前に進み出る。「本当はその子に使って、動けなくなったところで連れて帰るつもりだったんだけど、いいわ」

 その時、トモキがやってきた方向から爆発音が轟いてきた。振り返れば、木々の隙間から煙が上がっているのが見えた。それを見て、ナーシェは僅かに顔を顰めて小さく舌打ちをした。

「時間も無いみたいだし、貴方も素直にその子を渡してくれるつもりは無いみたいだし、ね」
「……シオは物じゃない。貴女の欲望の道具にされるのをシオが良しとしないなら、貴女の傍に居るべきじゃない」

 シオはトモキの服の裾をしっかりと握った。怯える眼でトモキを見上げ、トモキもまた大丈夫、とシオに笑いかける。それが、二人の答えだった。

「そ。なら結構。ログワース――トモキを殺しなさい」

 言うが早いか、ログワースが脇構えから一気に加速する。全身のバネを生かして瞬く間に最高速へ。トモキの脇目掛け、唸り声と共に斬り掛かった。
 対するトモキも直ぐに抜剣し、ログワースの一撃を受け止めた。
 打ち鳴る金属音。虎人族らしく、重く鋭い一撃。だが普段のトモキであれば受け止めるのは容易いはずだった。

「くぅ……っ!」

 だがトモキの腕はログワースに押し込まれた。ナーシェから受けた毒のせいか左腕は痺れ、踏ん張る足にも力が入らない。

「シオっ! 早く逃げろっ!!」
「う、うんっ!」

 互いに鍔競りながら、トモキはすぐ後ろで心配そうに見上げるシオに叫ぶ。シオはトモキから離れる事に逡巡を見せるが、自分がトモキの邪魔になっていると悟ってすぐにトモキに背を向けた。

「余所見をするな」

 ログワースが膂力を活かしてトモキを押し返す。意識がシオへと逸れていたためそれにトモキは対応できずやや体勢を崩すものの、次いで振り下ろされた剣戟も辛うじて受け流す事に成功する。
 一戟、二戟……両者とも鋭く剣を合わせる。その一戟毎にトモキの体は重くなり、腕を上げるのも辛くなっていく。
 その中でもトモキは冷静に相手を見据える。息を切らし、気力で何とか体を動かしながら、自分の体をシオとナーシェの間に移動させ、自分がログワースと戦っている間にナーシェがシオを追い掛けられないよう目線で牽制するのを忘れない。

「さっきの毒は王種猪獅子グレードダイナボアさえ昏倒させる強さのはずなのに、どうして……
 何をやっているの、ログワース!! そんな人間なんてさっさと片付けてしまいなさいっ!!」

 ナーシェの激が飛び、ログワースの動きがより重く、疾くなる。ジリジリとトモキは後ろに引き下がる形になり、一度距離を取ろうと後退するが、すぐにログワースは距離を詰めてトモキの思い通りにさせない。

「貴女もそんなにシオが憎いんですかっ!?」
「別に……俺はあの子供に興味は無い」
「ならどうしてっ!?」
「ナーシェが望んだからだ」

 トモキの腕ごと剣を大きく上へ弾き飛ばし、開いた胸元に向かって剣を突き立てる。トモキの心臓から寸分狂いなく狙い、だがトモキは片足を引いて半身となることで、剣先が掠めるだけで何とか避けた。

「あの人が望めば何だってするんですかっ! どうしてっ!?」
「さあな。……惚れた弱みという奴、かなっ!!」

 再度鍔競り合いになり、トモキが身構えたところでログワースは一瞬力を抜く。力の拮抗が崩れ、トモキの体が前のめりになった。

「しまっ……!」

 ダグラスとの戦いの時と同じミスを犯し、トモキは思わず声を上げる。かつてのダグラスがそうしたようにログワースもまた回し蹴りをトモキに見舞った。
 だがトモキは咄嗟に剣を横にし、剣の腹でその蹴りを受け止める事で直撃を免れた。それでもダグラスと違い、馬力に勝るログワースのそれはトモキを蹴り上げ、大きく吹き飛ばした。

「今だわっ!」

 トモキの注意が完全に離れたのを確認し、ナーシェが動く。
 シオは離れた所からトモキ達の戦いをハラハラとした面持ちで見入っており、ナーシェに対する注意を払っていなかった。
 ナーシェの体が風となる。狐人であるナーシェはミノタウロスであるグウェインは勿論ログワースにも、それどころか一般的な人間の冒険者達にも戦闘力では劣る。だが鍛えられたしなやかな脚から生み出される走力に関してだけは引けをとらない。一歩毎に加速を続け、通り過ぎた枝葉が風に踊った。

「シオッ! 逃げてっ!!」
「遅いわっ!!」

 気づいたトモキが叫び、シオがナーシェの方を向く。眼前に迫ったナーシェが嬉しそうに歪んだ表情でシオに手を伸ばし、掴みかけた。
 その時――

「『フリーズ・バンカー』」

 飛来する氷の杭。木々の枝葉を貫き、風切り音を残しながら幾つものそれらがナーシェ達目掛けて進んでいく。
 それに気づいたログワースはトモキに向かいかけた足を止めて剣を横薙ぎに一閃。自身に向かってきていた氷塊を砕く。ナーシェもまたシオへ伸ばした手を引き戻し、舌打ちしながら大きく跳躍して避け、彼女の居た場所を通り過ぎた氷杭がシオのすぐ足元に突き刺さり、霧散していった。

「外しましたか……」

 木漏れ日の中でアウレリウスは立っていた。レンズの奥の眺めの睫毛を伏せ、溜息を吐きながら伸ばした手を下ろした。だがすぐに新たに詠唱を始め、励起した魔素が木々をざわつかせる。

「ちっ……グウェインの奴、いよいよ本当にしくじったみたいね。
 ログワース!」

 ナーシェが名を呼び、すぐにログワースが反応した。ターゲットをトモキからアウレリウスに変え、剣を片手に土の上を駆ける。トモキに迫った時と同じく鋭い出足でアウレリウスに迫ろうとした。

「『アイシクル・アロー』」

 だがそれよりもアウレリウスが早い。ローブから露出した右掌に刻まれた魔法陣が光を放ち、同時にアウレリウスの頭上に無数の氷の粒が現れる。氷の粒は瞬時に形を変え、細長い矢となると直ぐ様高速で射出されていく。

「ちっ、無詠唱だと……!」

 最初の数本をログワースは剣で叩き落とした。剣で叩かれた氷は容易く砕け、魔素による保護が失われて大気へと還っていく。しかし次から次へと高速で訪れる矢を捌き切れずにその足を止めた。そして前進から横へステップを踏み、回りこむようにしてアウレリウスの周りで旋回を始める。

「逃がしませんよ」

 だがアウレリウスの矢撃は止まらない。絶え間なく降り注ぐそれは逃げ続けるログワースの跡に突き刺さり、徐々にその距離を詰めていく。

「ならばっ……!」

 追い詰められたログワースは前に出た。氷の矢そのものの攻撃力は低いと見て、致命傷になりそうなものだけを叩き落とし、手足の抹消へのダメージも辞さない覚悟でアウレリウスへ肉薄しようとする。だが――

「私を――代行者を舐めないで頂きたい」

 ログワースの行動に怒りを僅かに口調に滲ませると、アウレリウスは左腕を空に翳した。ローブの袖が細くも引き締まった腕の上を滑り落ち、幾つもの魔法陣が刻まれた肌が露わになった。その中の一つが怪しく光を放ち、同時にアウレリウスを取り囲む様に地面に光の線が走る。そして、アウレリウス自身を隠すほどの高さの炎の壁が立ち上り、剣を振り下ろしかけたログワースへと向かって爆発的に広がった。

「ぐぉ……」

 直前に脳裏に走った予感に従い、ログワースは前進から一気に後ろへ飛び退く。だがそれよりも炎の壁の速度は疾く、広がった炎の壁はログワースの体を一瞬で通過し、焼いていく。

「ログワース!!」

 体毛が焼け焦げ、黒く焼け野原となった地面に膝をつくログワース。剣を支えにして倒れる事はかろうじて免れるものの、全身を焼く痛みに歯を食いしばってアウレリウスを睨みつけるのが精一杯の状態だった。
 全員の意識がログワースへと向かう中、トモキは動いた。

「シオっ!」
「トモキお兄ちゃん……」
「今がチャンスだ。急いでここから逃げるよ!」

 突き刺さった氷杭に、腰を抜かした状態で呆然としていたシオの元へトモキは駆け寄り、手を引っ張って無理やり立たせると半ば強引に急かしながら走り始める。トモキが先を走り、シオがやや遅れて後ろを追い掛ける。キチンと付いて来ているか、その姿を確認するためにトモキは振り返る。
 その瞬間、トモキは進路を変えた。駆け寄ってくるシオに向かって走り、突然の行動に驚きに表情を変えるシオをそのまま突き飛ばした。
 もんどり打ちながらシオは土を巻き上げながら転がる。強かに打ち付けた背中に息が詰まり、しかしその最中、シオは目の前に居たトモキが大きく跳ね飛ばされるのを目撃した。

「があああっ……!」
「お兄ちゃんっ!!」

 トモキの左腕の付け根に突き刺さっていく氷の杭。脳を焼かれる様な激痛にトモキは叫び声を上げた。衝撃によってシオの元から大きく吹き飛び、滑り転げていき、背中から木にぶつかったところでようやく止まる。

「う、あ……」
「邪魔が入りましたか……ですが異端を庇う以上、貴方も異端と認定致します」

 うめき声を上げるトモキに対してアウレリウスは溜息を吐いた。そして、心底嘆かわしいといった様子でかぶりを振ると冷たくトモキを遠くから見下ろした。

「どう、してシオを……」
「決まっています。神は、亜人の存在を認めていない。どのようにして生み出されたのかは知る由もありませんが、理由はどうあれ滅せられるべきなのですよ」
「シオは、まだ子供なん、ですよっ……!」
「だからどうしたというのです? 子供だから罪は無いと? そんな馬鹿な。彼が罪を犯したのではありません。が罪なのです」

 再びアウレリウスの頭上に氷の武器が形作られる。切っ先を鋭く尖らせていき、まるでナイフの様な形となったそれらは、尚もトモキに降り注ぐ。
 トモキは立ち上がると体を丸めて頭を守る体勢を取った。氷のナイフに魔技高の制服を貫くほどの貫通力は無いようで体に新たに傷が付くことは無い。しかし露出した手の甲や頬を掠めて幾つもの細かな傷を作っていく。
 更に厄介なものがその無数に襲い来る打撃力だった。トモキの体にぶつかって砕ける度に鈍い痛みが防御した腕の骨に響き、左肩口の痛みも相まって苦痛にトモキは悶絶し、それでも歯を食いしばって耐える。
 氷の圧力に耐え切れず、トモキの体が少しずつ押し下げられていく。滑る靴に砂利が当たり、後ろへ転がっていき、そして消えた。
 トモキは肩越しに背後を見た。そして息を飲む。
 どこまでも広がっていると盲信していた森は途絶え、地面も消えていた。氷が砕ける音に混じって聞こえてくるのは、荒々しく流れる渓流の水が弾ける音だ。
 何とかしなければ、と思うが、思いは空回りする。左肩から流れる血はトモキの体力を奪っていき、ナーシェの針を受け止めた際の毒のせいで最早頭を庇うのも辛い状況だ。額からは脂汗が止めどなく流れ落ちていき、膝から今にも崩れ落ちてしまいそう。頭痛と酩酊感が足元をぐらつかせ、視界を歪めていく。

「おや?」

 不意にトモキに降り注いでいた氷の雨が止む。圧力から解放され、荒い息を吐き出してトモキは膝を突き、そして崩れ落ちる。眼下の地面がグルグルと回転し、焦点が定まらない。

「逃がしませんよ」

 そう呟いて新たに魔術の矛先を向けたのはシオに接近していたナーシェだった。
 彼女はログワースがアウレリウスに一方的にやられた事に唖然としていたが、トモキがシオから離れた事を見るや我に返りシオを捕まえに走った。
――早く、あの子を捕まえて里に。
 ナーシェは自らに課した強迫に押されてシオに手を伸ばす。
 だがそれよりも早くアウレリウスの魔術が発動した。
 ナーシェの目の前で地面に魔法陣が描かれ、ナーシェの足が急停止した直後に炎の柱が空に立ち上る。一瞬で直上にあった木を焦がし、一本の枝に火が灯り、同時にナーシェのズボンと腕の毛にも引火して燃え上がっていった。

「きゃあああああっ!!」
「木に引火してしまいましたか。注意していたつもりでしたが、失敗しましたね……まあいいでしょう。森が焼ければその分亜人共を殲滅するのが容易くなるでしょうから」

 地面に火の着いた体を押し付けて転がるナーシェには目もくれず、燃え上がっていく木を見ながら平然とアウレリウスは嘯いた。そして一度前髪を掻きあげて右腕を空に翳す。

「本来なら神の摂理に逆らって生まれてしまったことを後悔させながら撃滅する所ですが、女性に対して余り手荒にするのも趣味ではありません。―― 一思いに殺して差し上げましょう」

 自身の腕ほどの太さの氷の杭を作り出していく。先端を鋭く加工し、ようやく体についた火を消化し終えて荒い息を吐いていたナーシェに向かって手を振り下ろした。

「ナーシェお姉ちゃん、避けてっ!!」
「え?」

 シオの叫び声にナーシェはようやく自身に迫っていた危機に気づいた。顔を上げれば、直ぐ目の前に敵意の杭があった。
 ナーシェは動けなかった。時間が引き伸ばされ、ゆっくりと近づいてくる杭ははっきりと見えるのに、こんなにもゆっくりと動いているのに、眼は杭に縫い付けられ、体は地面に囚われてしまった様に固まってしまっていた。
 せっかく、欲しかったものが直ぐ手の届く所にあるというのに。
 ナーシェの脳裏にこれまでの人生がけたたましく駆け抜けていった。



 ナーシェは物心着いた時から一人だった。両親はすでに死亡し、貧しい里の中でも厄介者扱いされながら育っていった。齢が十になって里の仕事をするようになってからは誰からも粗雑に扱われ、暴力を受けながら一人、里の外れにある今にも崩れてしまいそうな荒屋で暮らす毎日であった。冬の日には凍えそうな夜を薄い毛布一枚で過ごし、骨と皮だけの体で生きていた。
 常に一人。誰にも振り向かれず、誰からも求められない。だが彼女は寂しくは無かった。
 彼女はすでに悟ってしまっていた。世界は、こんなものなのだと。希望が最初から無ければ絶望は無く、世界は自らに厳しいのだと気づいてしまえば何も望むことはない。故に彼女は何も欲せず、ただ与えられた環境を黙って享受するだけであった。
 だから、里が人族によって滅ぼされても悲しくは無かった。
 偶然彼女は里の外れに住んでいたため逃げる事ができた。人の兵士が去った後の里で、自分を虐げていた里の獣人達の無残な死骸を眼にしても、何も感じる事は無かった。ただ死体がそこにある。それくらいしか感想は浮かばなかった。
 そして、他の生き残った獣人達と共に他の里へ移り住み、やがて彼女は成長した。
 それも美しく。
 彼女達を受け入れてくれた里は裕福で、誰もを平等に扱い、外からやってきた彼女もまた元から里に居た獣人と同じ様に接してくれた。家を準備し、働けば働いただけ適正な報酬を与える。十分な栄養を得て育った体は魅力に溢れ、里の男達に言い寄られる事が増えていく。
 だがそれでも彼女は何も感じなかった。すでに、彼女の心は凝り固まってしまっていた。どれだけ愛の言葉を囁かれても、どれだけ体を許しても心は揺り動かなかった。そんな彼女の態度は、傍から見れば無情いつれないものに映り、また女性から見ればお高く止まっている様に見られ、妬みと嫉みの眼を向けられる様になる。里での立場は次第に悪いものへと変わっていった。
 彼女はそんな視線が煩わしくて独りで里を出た。身の回りの物だけを手に、夜中に誰にも声を掛けること無く独り夜の道を彷徨った。そして辿り着いたのが今の里だ。
 自ら望んで里の外れに住み、里の人とは積極的に関わろうとしない。与えられた仕事を淡々とこなす日々。ログワースが里長の代理として仕事内容を毎日伝えに来る以外、誰とも関りを持つことは無かった。
 そんな毎日が続いたある日、彼女は独りで里山で山菜採りをしていた。いつも通り黙々と作業をこなす中、声を掛けてきた人物が居た。

「あっと、確か……ナーシェって言ったかな?」

 それがエドヴァンズ――シオの父親であった。
 少し垂れた眦のせいで弱気そうな印象だった。その顔立ちに引っ張られているかの様な穏やかな口調で話し掛ける彼は、里では炭作り役を担っていてたまたまナーシェと同じ様に里山へやってきて木を探していたのだと言った。
 エドヴァンズが話す中、ナーシェは変わらず愛想に乏しく終始俯きがちであったがエドヴァンズは気にした様子も無く里であったちょっとした出来事や家族の話をナーシェに話していく。そして一頻り世間話が終わるとエドヴァンズは微笑みを浮かべて去っていった。
 それは偶然出会った二人が他愛の無い世間話を数分間交わす。ただそれだけの事だ。特別優しい言葉を掛けられた訳でも無く、危機的な状況を救われた訳でもない。日常の一コマにしか過ぎない。
 だが、ナーシェは恋に落ちた。一目惚れだ。生まれて初めての恋に、彼女自身は戸惑い、自らの感情の正体を測りかねて悩んだ。しかし寝ても覚めても最初に思い浮かぶのは彼の事であり、すぐに彼女はその感情が恋であると知った。
 戸惑いながら彼女は歓喜した。それは感じたことのない感覚であった。激しく心が揺さぶられ、ちょっとした事で不安になり、ふと眼にした他愛の無い彼の仕草で胸が躍る。
 世界が俄に色づいていく様であった。いつもと変わらない日常がまるで全く異なるものの様であった。無愛想にも近かった彼女の表情にも喜怒哀楽が現れるようになり、一層彼女の魅力を増していく。彼を一目見るためエドヴァンズの家に積極的に顔を出すようになり、多くの里の獣人達の目に触れ、彼女に好意を寄せる者が増えていくが、彼女はその彼らにはまるで興味を示さなかった。ナーシェは、エドヴァンズただ一人だけを欲していた。
 彼女は欲したのだ。物にしろ人にしろ、生まれて初めて彼女は何かを欲しいと思った。それは彼女が心から望んだ、初めての欲求であった。
 そして、初めて故に極めて強烈な希求でもあった。独占欲が芽生えた。これまで何一つ欲しいと思わなかった、本来皆が欲する物も欲しなかった分も合わせたかの様に激しく彼女に手に入れるよう要求してきた。彼に、恋い焦がれた。
 何としても、何としても彼を手に入れたかった。彼に自分を見て欲しかった。だが、彼にはすでに妻が居た。子が居た。彼女が見る限り夫婦仲も良好で幸せそうだった。ナーシェがそこに割って入る余地は無かった。それでも、諦められはしない。
 そんな折に起きたシオの事件。それをきっかけにして壊れていくエドヴァンズの家庭。子に対する愛情と人への憎悪。その狭間で苦しむ彼を見て、ナーシェの中で愛おしさが増していく。
 早く私を見て。
 早く私を見て。
 早く――私だけを愛して。
 その為にはもっと、もっと彼を壊さなければ・・・・・・。その為には一度は逃がしてしまったシオを手に入れる必要があった。
 それが、この結果だ。加速する意識と生まれては消えていく記憶達の奔流の中でナーシェは唾棄した。
 所詮、自分の人生はこんなもの。ただ一つ欲しかった物ですら手にすること無く消えていく。だが、それでいい。期待した自分が愚かだったのだ。たった一つでも何かを欲しいと願ってしまったから死んでしまうのだ。
 死の間際にて彼女は再び心を凍らせた。迫り来る恐怖を受け入れる為に、無様に、心が欲するがままに泣き喚いてしまわないように眼を閉じた。
 しかし自身を貫く衝撃はやって来なかった。代わりに何かに優しく包まれ、抱き寄せられる感触があった。

「ログ、ワース……?」

 眼を開けて呆然とその名を呼んだ。
 全身の体毛が焼け焦げて黒く変色し、彼の背には大きな杭が突き刺さっていた。
 それでも名を呼ばれたログワースは微かに眼を細めて微笑んだ。そして何か口を開き掛け、しかし代わりに紅い血が吐き出された。それがピシャリ、と音を立ててナーシェの頬に紅い線を作った。

「お怪我は……無いですか?」

 全身を襲う苦痛を微塵も表情に出さずログワースは尋ね、ナーシェが泣きそうな眼差しを浮かべて無言で頷くと、ログワースは安心した様に強面の顔を綻ばせた。

「そうです、か……貴女を最後に守れて……良かっ……」

 最後まで言い切る事無く、だが満足そうに笑って眼を閉じる。そして、ナーシェの体を抱きしめたまま、それきりログワースは動かなくなった。

「ログワース……ねぇ、ログワース、ちょっと重いからどきなさいよ。ねぇ、どいて、よ……ねぇってばぁ……」
「死にぞこないのおかげで失敗してしまいましたが、まあいいです。どうせ所詮、死ぬのが遅くなるだけ……」
「グオオオオオォォォォォォッ!!!!」

 邪魔をされたアウレリウスは忌々しげに呟くが、その声を何処かから聞こえてきた雄叫びが掻き消した。その声は地の底から体の芯を震わすほどの威圧を放ち、アウレリウスだけでなくトモキとシオも身を強ばらせた。

「どこから……!」

 アウレリウスは視線鋭く辺りを見渡し、声の主を探す。だが生い茂る木々と、燃え盛っていく枝葉から放たれる煙が視界を塞ぎ、見つけ出すことが出来ない。
 声が止み、続いて地響きにも似た足音が轟く。煙の奥に一際大きな影が現れ、それを認めるとアウレリウスは素早く魔術を発動させた。

「そこですかっ!!」

 ログワースを貫いた巨大な氷杭が数本一瞬で現れ、影に向かって打ち出された。
 真っ直ぐに向かっていったそれらは全て煙の奥の影に突き刺さり、悲鳴の様な雄叫びが響いた。
 ほくそ笑むアウレリウス。だが、影から何かが煙の壁を斬り裂いた。

「なっ!?」

 それは巨大な鉈のような剣であった。人の身よりも遥かに巨大なそれが煙を裂き、空気を砕く。そしてその剣に込められた怒りと嘆きは、行く先の全てを砕いた。
 気づけば、アウレリウスという人間は消失していた。
 貫かれた剣の衝撃によってアウレリウスの上半身は肉がぶつかり合う生々しい音を立てながら微塵にまで砕かれ、撒き散らされた肉片の一部が燃え盛る火炎に飲み込まれて灰へと帰していく。残った下半身が、止まった時間がようやく動き出したかのように血を垂れ流し、バランスを失って倒れた。

「ハッ……何とかやって、やったぜ……!」

 全身を焼き焦がしたミノタウロス――グウェインが煙の奥から現れ、高らかに空に向かって吠えると地響きを立てて倒れた。仰向けに伏せ、大の字になったままもう動かない。体に突き刺さった氷杭が墓標の様に空を穿っていた。

「おわ……った……?」

 誰一人動く者は居ない。トモキは肩口を抑えたまま動けず、シオは腰を抜かした姿勢のまま呆然としている。アウレリウスは上半身を吹き飛ばされ、ログワースはナーシェを抱きしめたまま息を引き取っていた。

「どうして、どうして貴方が死ぬのよ……何で私なんかを……」

 その中で独り、ナーシェだけがログワースの頬を何度も撫でていた。その様を、トモキは沈痛の面持ちで眺めていた。
 剣を合わせた時、ログワースは「惚れた弱み」と言っていた。その言葉の通り、彼は彼女に対して恋心を抱いていた。彼女の為に、彼女が望んだことであればどんな事でもしていたのだろう。例え、彼女の眼が自分に向くことは無くても。
 ナーシェに抱かれるログワースの表情は嬉しそうだ。だがその表情のまま、変わることは無い。満たされたまま、幸せそう。だが、死した今、果たして本当にそれが幸せだったのか。トモキは分からない。
 トモキはこれ以上、二人の姿を見ている事が出来なかった。眉根を険しく寄せ、空を仰ぐ。そんなトモキの心情を慮った様に立ち込める煙がそれぞれ姿を覆い隠していった。

「お兄ちゃん、大丈夫……?」

 シオが立ち上がって近寄りながらトモキに声を掛け、トモキはシオの姿を捉えた。酩酊感は未だ残り、視界も揺れてはいるが、そんな中でシオの全身を見る限り特に大きな怪我はしていなさそうだ。むしろ、トモキ自身の方が重症だ。

「なん、とかね」

 トモキも立ち上がってみるが、足元の感覚は無い。左肩から出血で大分血を失ってしまったらしく、辺りは火に囲まれ始めているというのに熱を感じられなかった。ふらつくトモキをシオが支え、まだ動く右手でシオの頭を撫でてやる。

「……とにかく、ここから逃げよう。早くしないと火に巻かれてしまう」

 自分達もだが、ナーシェもまだ生きている。ログワースに縋っている彼女も何とかして連れ出さなければ、とナーシェとログワースの方を見た。

「……あれ?」

 しかし先ほどの場所にはログワースしか居なかった。ログワースは丁寧に地面に寝かされ、だがナーシェの姿が無い。何処へ、と首だけを振って彼女を探せば、トモキのすぐ傍に立っていた。

「良かった……ナーシェさんも早く逃げましょう! そして里に行って人を集めてください。じゃないと山が……」

 トモキが話し掛けるが、ナーシェから反応は無い。立つ姿はゆらり、という形容が当てはまり、前髪で顔が隠れたその立ち姿はまるで幽鬼の様で、気を抜けば何処かへと消えてしまいそうだった。
 ひどくショックを受けた様子の彼女を見て、トモキは実は彼女はログワースの事を本当は好きだったのではないか。そんな考えが頭を過るが、今はそれどころではないと頭を振った。

「急いでください! じゃないと山どころか里にも火が行ってしまいます!」

 トモキの叫び声に、ナーシェは顔を上げた。眼は虚ろで涙で赤く腫れた瞼が痛々しい。

「里が……燃える……?」
「そうです! 早く消火しないと……!?」

 トモキが話している途中、ナーシェは走りだした。身を低くし、だが進む方向は里では無くトモキの方へ。
 その手には、ログワースの剣が握られていた。

「が……っ!」

 ズブリ、とトモキの腹へ剣先が消えていく。感じなかった熱が、トモキの内側を痛みで焼く。突き刺さった剣の勢いに押され、トモキの体が後ろへ下がり、しかし踏み出した先は――

「おに、いちゃ……」

 後ろ足の足場が崩れる。グラリと体が傾き、後ろへと投げ出されていく。その最中でトモキが眼にしたのは、トモキを庇って胸元を貫かれたシオの姿だった。

「シ、オ……!」
「里も、私も……何もかも皆消えてしまえ……!」

 胸から溢れたシオの血がトモキの体を濡らす。離れてしまいそうなシオの体をトモキは薄れゆく意識の中、最後の力を振り絞って手を伸ばし抱き止める。それが分かったのか、シオは力無く微笑んだ。そして小さく口を動かした。

――ありがとう

「あはははははははははははははははははははっ!!!」

 崖から落ちていくトモキが見たのは、狂った様に笑い声を上げるナーシェが、燃え盛る炎の中で自分の喉にログワースの剣を突き刺す姿だった。

「うあああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!」

 トモキの絶叫が崖へ木霊する。

『この世界も悪くねぇ』

 頭の中で響くアルフォンスの言葉。一度はそれに頷き、しかし今、トモキは首を横に振る。

(なんて…くだらない世界……!)

 何もかもが、狂っている。
 自分の心が砕けていくのを感じながら、トモキの意識は渓流の水泡と共に何処かへと流されていった。












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