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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved






「それじゃセツに伝えてきます。今から急げば日が変わる前には帰り着けると思いますから」

 アイリスの状態を見たトモキはすぐにセツの元へ戻る事にした。数時間に渡って駆け抜けるつもりのため荷物は邪魔になるから、といつもならば持って帰る野菜などの食料の一切を断る。
 そんなトモキがさらりと口にした到着予想にフェデリコは面食らい、戸惑いながらも不安に顔を曇らせた。

「あ、ああ……頼むよ。だけど、その、大丈夫なのかい? トモキの強さはある程度知ってはいるつもりだけど危険じゃないかい? 道から外れたりしたら……」

 フェデリコとしては一刻も早くセツに助けを求めてもらいたい。だがその道中に何かあって情報が伝えられなければ意味が無い。何より、フェデリコにとってもトモキは年の近い友人の一人だ。自分の婚約者の為に無闇にトモキを危険に晒したくは無かった。
 しかしトモキは涼しい顔をして答えた。

「大丈夫です。どうせ時間を短縮するために一直線に家に向かいますから。それに」トモキは腰の剣を撫でた。「魔獣達に襲われても何とかなりますから」
「そ、そうかい……」

 初めての道中で一瞬でトモキに組み伏せられた経験のあるフェデリコからすれば返す言葉も無い。時間が無いのは事実で、問答している時間も惜しい。心配ではあったがここはトモキを信じる事を選んだ。

「すぐに戻ってきますから、フェデリコさんはアイリスさんの傍に居てあげてください」
「ああ……気をつけて」

 フェデリコに手を振り、トモキはすぐに全力で走り出した。一瞬でフェデリコはトモキの姿を見失い、気づけばトモキは家の屋根の上を飛び跳ねているのを遠目に見つけて唖然とするばかりだ。そのあまりの速度と人並み外れた身体能力に呆気に取られていたが、やがてトモキの姿が見えなくなると眼を閉じ、空を仰いで大きく息を吐き出した。熱のこもった息が肺腑から外に吐き出され、感情の昂ぶりが少し治まる。それと同時に思考に落ち着きを取り戻していく。
 セツなら助けてくれる。先ほどトモキにはそう言ったが、果たして本当にそうなのだろうか。フェデリコは不安だった。
 セツが何もしてくれない、とは微塵も考えていない。これでも彼女とフェデリコの付き合いは長い。村の事を常に気に掛けてくれているし、今回も異変に気づいてトモキをすぐに寄越してくれた。病気の事を伝えれば必ず努力はしてくれるだろう。
 だが、努力ではダメなのだ。フェデリコはアイリスの方に振り向き、戸で遮られた向こうで苦しげに呼吸をする彼女を思い、眉間に力を込めた。アイリスは今、死に瀕している。すでに村の者も何人か死んだ。尚も少しずつだが羅患した村人は増えている。自然治癒した者も居るようだが、最早それは運の領域だろう。気を抜けば絶望に取り憑かれそうになり、彼は両掌で口元を抑えた。
 何か、何かしらの決定的な対策を打たねばならない。そして、セツはその決定打となりうるのか。フェデリコは自信が無かった。何故ならば彼女は薬師ではあっても医者では無い。吸血種である彼女は見た目と違い年齢相応に深い知識を携えているが、フェデリコ達にとって未知の病をも彼女は知っているのか。そしてその対応策を考えつくのか。その保証は何処にも無かった。

「……だけど信じるしか無い」

 フェデリコは祈るしか無い。無力だ。愛する者が苦しんでいるのを間近で見ておきながら、ただ見守るしかできない。その悔しさにフェデリコは拳を握り締めた。
 お願いします、神様。彼女が助かるのであれば、僕の命など惜しくは無い。どうか、どうか。フェデリコは、すでに存在が否定されたはずの神に祈った。当然、祈った所で何か奇跡が起きる訳でもない。ただフェデリコの口から溜息が溢れるばかりだ。

「村長!」

 そうして家の中に戻ろうとしたフェデリコだったが、急ぎ自身に向かって駆け寄ってくる村人の姿を認めて脚を止める。

「ヨハン、どうしたんだい? そんなに慌てて」
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……お客様だ。今西門に居て、ギュンターにここに案内させてる」

 こんな時に。それを聞いてフェデリコは内心で舌打ちをした。何時急変するか分からないアイリスの傍にずっと居てやりたかった。だが村長である自分に客、ということはそれなりの高貴な方か近隣の村長、或いは商人の類か。拒絶できるものであれば拒みたいが、村のその後の事を考えると顔見知りならともかく外からの客を蔑ろにするべきではない。
 内心の苛立ちを押し隠し、ヨハンに向かってフェデリコは頷いた。

「……分かった。僕の家に通してくれ。それと申し訳ないんだが……」
「分かってますって。アイリスさんの様子は自分が見ておきます。何かありましたら家の前から大声で呼びますんで」
「すまない……それで、こんな時間にアポなしで僕に会いたいっていう客は誰なんだ? さぞかし立派な人間なんだろうね?」
「それが……」

 フェデリコが皮肉るが、顔を青くしているヨハンを見て怪訝な顔をした。緊張と走ってきたここまでやってきた事でヨハンの喉じゃ渇き、上手く舌が回らないらしく生唾を飲み込んだ音がフェデリコにも届く。
 これは厄介な客かもしれない。候補として考えられる人物の姿を思い浮かべるフェデリコに、ヨハンはその誰何を伝えた。

「それが……聖女様だって名乗ってます」

 フェデリコは頭を抱えて空を仰いだ。



「申し訳ありません。何分辺鄙な村なもので碌なおもてなしも出来ませんで」
「いえ、急に押しかけたのはわたくし達の方ですから。泊めて頂けただけでも十分です」

 フェデリコは目の前に座る流麗な女性の前に紅茶を差し出した。白い陶磁器のカップで、来客用のとっておきだ。ずっと食器棚の隅で眠っていたがようやく陽の目を見た物だ。自身の前には普段使いの茶渋が少し染み付いたカップを置く。だが中身も滅多に使わない高級な茶葉だ。いつも飲んでいるものとはまるで違う香りが彼の鼻孔を擽る。
 フェデリコが正面に座ったタイミングを見計らって、女性は優雅な仕草でカップにそっと口を付ける。

(聖女、というのはやっぱり普段の所作からこんなに綺麗なんだなぁ……)

 自分も紅茶を飲みながらそっと目の前に座る女性の様子をフェデリコは観察した。長い、腰まであるプラチナブロンドの髪は毛先まで手入れが届いていて、旅をしているというのに枝毛の一つも見当たらない。軽く閉じられた二重の瞼から伸びる睫毛は長く、眦は少し釣り上がり気味ではあるが、話し方のせいか気の強そうな印象は無くとても落ち着いて見える。鼻筋もすっきりと通り、神話の一節さえに出てきそうな程に美しい。

(聖女に選ばれる基準っていうのは見た目の美しさもあるのかもねぇ)

 聖女の名は最新の情報に疎いフェデリコでも聞いた事があった。教会――リストキレル教曰く「神に選ばれた乙女」。人類至上主義を掲げ、表立っては人々に心の安寧を授ける事を教義としているが、それは裏を返せば亜人排斥を主目的としていることと同義だ。名目上どの国にも肩入れせず、日々布教と人々へ説教しているらしいが――

(人間の国の中枢にもたくさん教徒が入り込んでるって噂だし……)

 口さがない者などは、今の人類と亜人の対立を煽っているのは教会である、と主張したりしている。無論、表立って非難する事は無いが。

(さてさて、そんな教会の最重要人物の一人がこんな村の村長に何の用があるっていうんだろうね……?)

 そんな感想を抱きながらフェデリコは部屋の隅に視線を移す。そこでは彼女の護衛と思われる二人の男達が直立していた。手を後ろに組み、真っ直ぐ前を見て身動ぎしない。身に纏う鎧は見るからに高級そうで、ちょっとやそっとの攻撃では傷一つ付かないのでは無いかと思った。

(そしてもう一人……)

 聖女のすぐ後ろに控える男をフェデリコは見上げた。彼も高級そうな鎧を身につけているが、フェデリコの眼を引いたのは男の髪色だ。真っ黒な髪で、顔立ちからして恐らくはこの国の生まれでは無いのだろう。おまけに随分と年若い。トモキと同じくらいだろうか。しかし聖女の後ろで控えるその姿は、そこに居る事が当たり前だとでもいうように堂々としたものだ。他の護衛の男に比べて特別体格が良い訳では無いが、侍女でも無いのにその年で聖女の傍に控えるということはそれ程の腕前なのか、或いは。

(男女の仲、とかね)

 そんな下世話な考えが顔に出たのだろうか。後ろの青年がジロ、とフェデリコを見下ろす。

「自分の顔に何か?」
「い、いえ。何でもございません。随分とお若い様でしたので。不躾でした。申し訳ございません」
「ふふ。確かに若いですから私の護衛としては物足りなく見えてしまいますわね」
「あ、いや、そんなつもりでは……」
「ですが腕は確かですわ。この方がいらっしゃらなければ私達はきっとこの地まで辿りつけておりません」

 聖女は微笑んだ。それは男性ならば誰もが見惚れる程に美しく柔らかい笑みではあったが、その表情はフェデリコに、というよりは別の誰かに向けられている様に思えた。青年を紹介する声色にも喜色が溢れている。

(これは当たり、かな……?)

 アイリスの笑顔がフェデリコの脳裏に過った。彼女の様子に異変は生じていないだろうか。不安がぶり返し、その心中を誤魔化すためにフェデリコはカップの紅茶を一気に呷った。

「それで、失礼ですが聖女様御一行がこのような辺鄙な村へ如何なる御用でしょうか? ご覧の通り静かな土地ですし、教会の御意向に反するような事も致していないつもりですが?」
「そうですね。本題に入る前に改めて名乗らさせて頂きます。
 私の名はメアリー・ベネディクト。リストキレル教南東部教区で司教の任されております。教徒の方には聖女、などと持ち上げて頂いておりますがまだ若輩の身でありますし、幸運にも大司教様に眼をかけて頂いて頂戴した地位に過ぎません。ですので聖女、などと大層な名で呼ばれるのはむず痒いのです。できればフェデリコ村長には気安くメアリー、と呼んで頂ければ嬉しいですわ」
「いや、しかし……」
「ダメですか?」

 落ち着いた口調から一転して拗ねた様な眼差しをメアリーは向けてくる。判断に困ったフェデリコは後ろの青年、そして壁際の護衛に助けを視線で求めるが何の反応も返してはくれない。仕方ない、とフェデリコは腹をくくった。助け舟も咎める様な視線も送って来ないという事は別に構わない、という事だろうから。

「分かりました……メアリー様。これで宜しいでしょうか?」
「ええ。お心遣い恐れいりますわ。これまでの旅路で幾つかの町に滞在しましたけれど皆様恐縮してくださるばかりで決して聞き入れて下さいませんで……村長がお話が分かるお方で安心致しました」
「聖女、と言えば今やどの国に於かれましても最上層部の方々が諸手を挙げて歓迎されますから。ましてメアリー様は見目大層麗しいお方ですしね。そんな方が突然ご来訪されたら誰でも緊張して頑なにもなりますよ」
「お上手ですのね。私共の様な者と接するのに慣れていらっしゃるの?」
「まさか。今も緊張して口の中が乾いて、舌が顎に張り付いてしまいそうですよ」
「あらあら。ごめんなさいね。護衛をしてくれている三人共腕は確かではあるのですけれど皆さん真面目で職務に忠実な方ばかりでしたのでこうしてお喋りが弾む事は無かったので少し舞い上がってしまったようです。
 それでは本題に……とは言っても特別この村に用事があったわけではありませんの」
「と言いますと……?」
「人と亜人が争って久しいこのご時世です。人心は乱れ、王都や西方の方々はいざ知らず、東方の亜人共と国境を接している地域にお住まいの方々は日々不安と恐怖に苛まれながら生きていらっしゃる事と存じます。
 我々リストキレル教会が願うのは人々の心の安寧。現在の争い続けている状況と皆様方の置かれています環境には教皇聖下以下、大変心を痛めております」
「ありがたいお言葉です。聖下のその様なお話を聞けば村の者も大変喜ぶと思います」
「そう仰って頂けますと我々も日々祈りを捧げている甲斐がありますわ。
 ……しかし悲しい事に、今こうしてお話を交わしている瞬間にも何処かで戦いは起きているでしょう。それは同時に力を持たない町や村の方々が犠牲になっていることを意味します。そういった方々をお救い申し上げたいのですが、いざ戦いになりますと我らは武力を本分とする者共ではありませんのであまりに無力」メアリーは悲しげに眼を伏せた。「ですが、我らには我らの戦いがあり、ともすれば荒廃しそうな民の心を慰めるくらいはできるのでは無いか、と教皇聖下はお考えになりまして我々に国境を近にする地域を巡って人々の御心をお鎮めになるよう指示を下さいました」
「はあ、それでこの村にいらっしゃった、と?」
「ええ。ミュンヘン教区の北方から順に南へと下って行きまして、本日シエナ村へ辿り着いた次第ですの。まだ南へと向かう必要がありますのであまりのんびりとは出来ない旅路ですが、数日の間村に滞在させて頂けないかというお願いに参ったのです」

 余計な事を、とフェデリコは内心で吐き捨てた。大都市圏では教会の力は強くなっているが辺境ではその威光もあまり届いてはこない。地方の村では宗教に熱心な者は少なく、むしろ自らの手ではなく存在するかも分からない「何か」に縋る宗教から距離を置くものも多い。まして歴史を紐解けば宗教が絡んだせいで事態が大事になった事も珍しくない。辺境の村でも学校はあるし、その程度の教養を持つものは多くは無いが、決して少ない訳でもない。フェデリコもその例に漏れず、出来ることならば宗教とは関わりあいになりたくはなかった。
 だから柔和な笑みを顔面に貼り付け、本心を覆い隠して言葉を紡ぐ。

「それはそれは……ご足労頂きまして大変恐縮でございます。ですがこの村は辺境も辺境故に亜人達との争いの一切は幸いにしてございません」
「あら、そうだったのですね?」
「はい。どうやら教皇聖下を始め皆様方が日々祈りを捧げて頂いているおかげで幸運にも皆平穏に暮らしております。すでに本日は陽も暮れようとしておりますので一晩狭苦しい場所ではありますがお休み頂きまして、一刻も早く人々が苦しんでいるであろう場所へ向かわれるのが聖下のご意向に沿われるかと存じます」
「……貴様」

 その時、壁際で控えていた護衛の一人が声を発した。

「先程から聞いていれば聖女様の御慈悲が迷惑であるかの様な物言いだな」
「い、いえ! 決してそういうわけではっ!」
「黙れっ! ……聖女様。辺境の礼儀知らずに我らが教義が何たるかを示す必要が……」
「控えなさい」

 腰に携えた剣を握り、抜剣しようとした時、メアリーが静かに遮った。

「しかし……」
「聞こえませんでしたか? 私は控えろ、と言ったのですよ?」
「……申し訳ございません。でしゃばり過ぎました」

 恭しく一礼し、再び護衛は壁に張り付くように待機する。それを見てフェデリコは思わず大きく息を吐き出した。それを見てメアリーはクスクスと口元を隠して笑った。

「失礼しました。何分彼も私の事を案じる気持ちが強くて……無礼をお許し下さいな」
「い、いえ……こちらこそ言葉に配慮が足りず失礼を申しました」
「それでは話に戻りましょう……私共は亜人との争いと関係なく、日々の暮らしの中での苦しみについても耳を傾けたいと考えております」
「……非常に有り難いお言葉です」
「そして聞くところによれば、現在、村を疫病が襲っているとか?」

 フェデリコは、ハッと項垂れていた頭を上げた。目の前の聖女は柔和に微笑んでいる。

「どうでしょうか? 私はまだ修行中の身ではありますが医学の心得がありますし治癒魔術も使えます。もしフェデリコ村長が宜しければ診察し、要すれば治癒魔術を掛けて差し上げたいと考えているのですけれど」

 その言葉にフェデリコは勢い立ち上がった。食い入る様にメアリーの顔を見つめる。

「それは……本当でしょうか?」
「ええ。勿論、私共は神に仕える身。報酬などもお断りさせて頂きます。ああ、でも出来れば教会の方にお布施でもして頂けましたら有難いですわ。当然常識的な額で」

 テーブルに手を突いたまま、フェデリコは息を飲んだ。希望が、そこにあった。
 まさか治癒魔術による治療を受けられるとは。突然舞い降りた幸運にフェデリコは取り繕うのも忘れて破顔した。特別な金銭を要求するわけでも無く、無茶な申し出を要求された訳でも無い。今だけは神に感謝してもいい。謝辞を天に向かって述べるとフェデリコは深々とメアリーに向かって頭を下げた。

「お願い……します……!」

 その言葉にメアリーは湛えていた微笑みを深くし、椅子から立ち上がった。そして部屋の扉の所へ向かい、優しい笑みをフェデリコに向けた。

「それでは早速行きましょう。貴女の大切な方が苦しんでいるのでしょう?」
「どうしてそれを……っ!?」
「ふふ。貴方の様子を見ていれば分かりますわ。さあ、案内してください。苦しみから一刻も早く解放させてあげましょう」

 悪戯に笑う聖女の姿にフェデリコは抗えなかった。



「どう……でしょうか?」

 アイリスの前に座り、その胸元に手を当てて眼を閉じているメアリーに向かってフェデリコは恐る恐る尋ねた。青色の瞳が不安に揺れ、しかしそれ以上の問いが口をついて出てくるのを堪えて返答を待つ。代わりに喉が鳴り、口の中が乾いていくのが分かる。
 ――もし、彼女が首を横に振ったら。
 そんな想像が頭を過り、恐怖が心臓を鷲掴みにする。聖女の治癒魔術が意味を成さなければ益々セツの薬が効果を発する見込みは小さくなる。フェデリコはセツの薬の効果には信頼を寄せているが、果たして治癒魔術以上の効果を出せるとは信じては居なかった。
 治癒魔術を使える魔術師は少ない。アテナ王国全土を探しても千人に達するかどうかという程度しか居らず、その殆どが国が直轄する医療機関に属しているか或いは高額な布施を要求する教会が抱え込んでいる。その為、一般的な国民は民間の医師や薬師が処方する薬を利用するのが常だ。薬は手に入りやすい一方で効果は基本的に期待できず、また薬師によってバラバラだ。対して治癒魔術は手の届かない場所にあるが、術師の技量にもよるが怪我を瞬く間に治し、病気であっても大抵は回復させることができる。故にフェデリコが治癒魔術に薬以上の期待を持つことも仕方がなかった。

「メアリー様……」

 フェデリコが名を呼んだところでメアリーは目を開けてアイリスから手を離した。臍まで上げた布団を丁寧に掛け直し、フェデリコの顔を見上げた。

「……体内に魔素が異常に蓄積しています。本来であれば一定以上の魔素は汗などの排泄物と一緒に体外に排出されますが、何らかの原因で魔素が排出できていないものと思います」
「魔素が、ですか?」
「魔素は我々の生活に必要なものではありますが、薬も度を越せば毒になります。それと同じように魔素も過剰に体内に溜まれば体に害を及ぼしてしまいます。今、まさにこの女性を苦しめている様に。まだ診断はしていませんが恐らく村の他の方々も同じ原因だと思います」
「ですが……治癒魔術で治ったんですよね……?」

 震える声でフェデリコが尋ね、しかしメアリーは申し訳無さそうに目を伏せ、ゆっくりと首を横に振った。
 それを見た途端、フェデリコの膝から力が抜けた。絶望に支配され、膝を突いたフェデリコは呆として床を見た。項垂れた視界がグルグルと回った。世界が崩れていくようだった。視界に映る全てがグニャグニャに歪み、何も考えられなくなっていく。

「――ですが、治す方法が無いわけではありません」

 だが続いたメアリーの言葉にフェデリコはハッと顔を上げた。虚ろな瞳に、希望が灯った。

「数は少ないですが……過去の症例集で似た症状の記述を見たことがあります。そして治療方法も」
「そ、それは!? どうすればいいんですか!? どうすれば彼女を、アイリスを助けられるんですか!?」

 フェデリコは這いつくばったままメアリーに縋り付いた。傍に控えていた護衛と、黒髪の青年が剣を引き抜きかけるが、メアリーは無言で手を上げて制す。

「落ち着いてください。主は必ず苦しみ悩める人に手を差し伸べて下さいます。さあ、お立ちください。椅子に腰掛けてからお話しましょう」
「は、はい……申し訳ありません」

 メアリーはフェデリコを落ち着かせる様に話しかけながら手を取り立ち上がらせる。そして傍の食台へ移動すると、フェデリコを向かいに座らせ、「フェデリコさん」と優しく声を掛けてやる。

「体に溜まった魔素の排出を促してやれば、後は患者の方の体力次第です。その為の薬を作るに当って、困難な事が二つあります。
 一つは薬の元となる材料に治癒魔術の効果を持たせる事。こちらは未熟ではありますが私でも何とかなるかと思います」
「それで、もう一つは……!?」
「はい。もう一つは非常に薬の材料を手に入れるのが難しいのです。ある動物の血肉から特殊な成分を抽出し、治癒魔術を掛けた材料を乾燥させる前に練り込む必要があります。しかしその動物は数が少なく、滅多に人前に現れる事が無いためこれまで薬を作成することが出来ませんでした。なので治療法が古い文献の中に埋もれてしまったのでしょう」
「なるほど……話は分かりました」フェデリコは厳しい表情を浮かべ、テーブルに肘を突いて重ねた自分の手の上に額を押し当てる。「ですが、どんな動物であっても私がすぐに探し出します」

 顔を上げ、決意した面持ちでフェデリコは言った。

「村の全員を総動員してでも探し出して見せます。絶対に……絶対に探し、捕らえて連れてきます。メアリー様、どうか……お願い致します。アイリスを、村の皆を助けてください。お布施でも教会の建立でも何でも致しますから……お願いします……」

 血を吐くかの如く苦しそうに懇願するフェデリコに、しかしメアリーは優しく微笑みながらも首を振った。

「お気持ちは痛い程分かります。しかしながら村の方々には情報収集に専念して頂きたいのです」
「何故です!?」
「危険だからです」メアリーはハッキリ伝えた。「魔獣との戦闘に慣れた冒険者や傭兵の方々ならいざ知らず、失礼ですが村の方々は戦いには慣れてはいないかと存じます。ましてやこの動物は通常の魔獣とは違い狡猾で非常に危険な存在なのです。なので、私達にお任せ頂けませんか?」
「メアリー様に、ですか?」
「はい。とは言っても危険に晒してしまうのは私自身ではなく、ここまでお守り頂いたこちらの方々になってしまうのが心苦しいのですが」
「我らの命はメアリー様のもの。案じて頂けるだけで望外の喜びでございます」

 護衛の一人が恭しく一礼し、メアリーはその様をチラリと横目で確認するとフェデリコに向き直った。

「彼らは我が教会の中でも選りすぐりの腕を持ちます。例え古代大鷲でさえも打ち破る力があります。なので戦いは私達にお任せ下さい。場所さえ分かれば必ず手に入れて差し上げます。
 村の皆様を助けてあげたいのでしょう? その為に村の別の方が傷ついてしまっては本末転倒というもの。この様な事態の為に主の僕たる私達が居るのですから」

 メアリーはそう言ってフェデリコの手を包み込んだ。
 フェデリコは感動に震えていた。アイリスを治療する希望を示してくれただけではなく、自ら進んで危険な役割を引き受けてくれると言う。
 若いとは言ってもフェデリコは村長を任されている。聖女然としている目の前の少女とも言える淑女が百パーセントの善意で動いてくれるとは思っていない。教会の威光を示したり、度量の広さを示すためという打算も含んでいるだろう。だが、それを差し引いたとしてもアイリスを救えるのであれば――フェデリコは悪魔にだって魂を売り渡す覚悟だった。

「……本当にありがとうございます。なんと御礼を申し上げてよいか……村を代表して感謝を申し上げます。
 ではすぐに動ける村人を集めて情報を集めてさせて参ります。それで、その材料となる動物は何なのでしょうか?」

 逸る気持ちを抑えきれない。フェデリコは立ち上がりながらメアリーに尋ねた。メアリーは眼に慈愛を浮かべて答えた。

「――吸血種ですわ」

 呼吸が止まった。

「――え?」
「吸血種です。それらの血肉は魔術的な親和性が高い上に強い薬効を持ちます。それを薬として使うことで魔素自体の排出を促す事が出来ますし、弱った体であっても体力増強効果もありますから死に瀕していたとしても持ちこたえる事ができますわ。薬に練り込むのが少々難しく、私の技術では少々効果が落ちるでしょうが薬の効果としては――」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」

 不敬であることも忘れてフェデリコは慌ててメアリーの話を遮った。心臓が激しく鼓動を打ち、血が激しく巡る頭がひどく熱を持って思考が儘ならない。黒髪の青年が眉を潜めるのにも気づかず、フェデリコはただ自分を落ち着かせる事に集中した。

「……吸血種の体が薬としての効能がある、というのは出鱈目だったのでは?」
「一般にはそのように考えられていますね」メアリーはフェデリコの言葉を肯定し、「しかし」と前置きをして話を続けた。

「そこに魔術的要素が加わると薬として確かな効能が現れます。治癒魔術を加えない限り何の効果も持ちませんし、ある種の「毒」としか作用しません。だからその様な話が常識として広まったのでしょう。或いは、種としての絶滅を避けるために時の為政者が敢えて間違った情報を広めたのかもしれません。私としては嘆かわしい事ですが。
 ……話が逸れました。毒でしか無い吸血種の血肉ですが、強力な治癒魔術によって効果が反転し、ある種の万能薬と生まれ変わるのです。反転させる程に強力な治癒魔術が使える者が少ないのも正しい情報が広まらなかった一因なのかもしれませんね」
「は、はあ……しかし吸血種と言えば今や絶滅したに近い怪人種です。魔獣と違って人を害する訳でもありませんし、知性もあると聞きます。そんな人を……」
「フェデリコ村長」

 メアリーの後ろに立っていた黒髪の青年が口を開いた。

「話を遮って申し訳ない。しかし、俺の勘違いなら良いんだがどうも話を聞いていると――まるで吸血種と接したことがあるように聞こえるんだが?」

 フェデリコは口の中が急速に乾いていくのを自覚した。背中から一気に冷汗が吹き出し、反論を口にするのに「間」が空いてしまった。

「そういえばフェデリコ村長」

 それでも何とか反論を口にしようとしたフェデリコだったが、それよりも早くメアリーが名を呼んだ。

「な、何でしょうか?」
「村長の家をお訪ねする道中でこんな話を聞きました。『この病は吸血種の仕業に違いない』、と」

 その瞬間、フェデリコは思わず叫んでしまっていた。

「そんなのは出鱈目です!」
「ええ、私もそう思いますわ。吸血種が病を引き起こすなどという話は聞いた事がありませんし、古い文献を読んでもその様な話は出てきません。その話をしてくれたご老人の話は支離滅裂で話の矛盾点が幾つもありました。
 ですが村長、東の方のこんな言葉をご存知ですか? 『火の無い所に煙は立たない』」
「……」
「私は老婆の話を一笑に付すべきでは無いと思います。言葉通りの意味では無いでしょうが、何かを示唆してくれているのだと考えています。さて、真実というのは何処に紛れ込んでいるのでしょうか。ねえ?」
「……私には分かりません。ただの戯言にしか聞こえませんが」
「あらあら」メアリーは鈴を鳴らすような声で笑った。「いけませんよ、村長。僭越ですが、もう少し表情を取り繕う事を学ばれた方が宜しいかと思います。悲しいことに今の人の世は乱れております。悪意を以て人が人を騙す。そんな輩が至るところで跋扈していますから。
 あぁ、そうそう。そういえばもう一つ興味深いお話を聞かせて頂きまして。これは先程のご老人のお話でありませんよ」
「……拝聴致します」

 フェデリコは震える声でそう応えるのがやっとだった。何が面白いのか、目の前のメアリーは一層笑みを深くしてフェデリコを見つめている。つい数瞬前までは希望を齎す天使の様にも見えたが、今は悪魔にしか見えない。であるならば悪魔は何とも美しい姿をしているものだ。出来るものならこれみよがしに舌打ちの一つでもしてやりたかった。

「この村では数十年間もの間、薬には困った事が無いそうですね?」
「……ええ、幸運にも薬師様にこの村を終の棲家として見初めて頂きまして」
「それはそれは、良縁に恵まれたのですね。これもきっと主のお導きがあったのでしょう。この村の方々の毎日の勤勉な暮らしぶりに褒美を賜ったのです。感謝しなければなりませんね。
 しかし、私はこうも耳にしました。驚く程に・・・・良く直ぐに効果が現れるのだと。風邪の一つでも引いて朝に薬を飲めば、その夜にはほぼ完治しているのだとか。他にも怪我をした時にもすぐに傷口が塞がる塗り薬だとか、即座に痛みを取り去る痛み止めとかも。さぞかし腕の立つ薬師なのでしょう。私も未だ未熟の身。是非一度お会いしてご教授頂きたいですわ」

 メアリーが手を上げる。それを合図として壁際の護衛二人が腰の剣を鞘から引き抜いた。
 ガタリ、と音を立ててフェデリコは立ち上がって後ずさった。脚は震え、体は冷えきっているのに汗が止まらない。

「どうしたのですか? 私はただその薬師様を紹介して欲しいと申し上げただけですが、どうしてその様に怯えているのですか?」
「ぼ、僕は……」
「ああ、そういえばその薬師様は随分と険しい道を経た山の中にお済みになられているとか。なるほど、案内するとなればこの村を離れなければならない。ここでお休みになられているアイリス様の事がご心配なのですね? ふふ、お優しくてアイリス様が羨ましいですわ。しかしご安心下さい。道さえ教えて頂ければ私達だけ・・が直接赴いてご挨拶致しますから」

 メアリーは立ち上がりベッドの上のアイリスの傍に歩み寄った。

「か、彼女に何をするつもりだ……!?」
「嫌ですわ、フェデリコ村長。私はアイリス様の容態に変化が無いかを確認しているだけですわ」

 彼女の仮面の様に張り付いた笑顔はズレる事は無い。

「ですが――もし、もしもですわ。万が一フェデリコ村長がおぞましい怪人種の居場所を知っていて、その場所を私達に黙っているのだとすればさぞかし主は大層お怒りになられるでしょうね」
「貴方はっ……!」
「そして同時に主は寛大でも在られます。村長が自らの過ちを悔い改め、懺悔をすればきっと御慈悲を与えてくれますわ」

 ――さあ、どうします?

 メアリーは無垢な童女の様にフェデリコに笑いかけた。



「ああいったやり方は感心しないな」

 与えられた部屋に通され、二人きりになると黒髪の青年は眉間に皺を寄せた。他の護衛二人は別の客室が割り当てられ、今はメアリーと青年の二人きりだ。青年は彼女の後ろについていきながら不服そうに口を開く。

「あら、先ほどの方法はお嫌いですか?」
「ああ。誰かの弱みに付け込んで脅すような事は一番嫌いだ」

 身につけていた防具などを取り外し、旅装を解きながらメアリーが尋ねると青年ははっきりと言い放った。普通ならば聖女の言動に異を唱えるなど不敬に過ぎて口にすることは出来ないが、青年は臆することは無い。そして言われたメアリーもそれを咎めるでも無く微笑むばかりだった。

「ふふ。相変わらず真っ直ぐなお方ですわ」
「……メアリー様」
「嫌ですわ、勇者様。ここでは私達二人きりなのです。どうか『様』などと付けないで下さい」

 そう言いながらメアリーはネグリジェの様なワンピース姿となり、青年に擦り寄ると、胸に頭をそっと押し付けた。

「他人行儀で呼ばれるのは私は嫌いです。精神的な距離を感じて、まるで私から離れていってしまうようでとても寂しくなりますから」
「……メアリー」
「ええ、その方が好ましいです。勇者様」

 青年は仏頂面ながらも何処か表情を和らげてメアリーの銀色の髪を手で梳いた。手入れの行き届いた柔らかで滑らかなそれは、青年の指に絡まる事無く毛先まで擦り抜けていく。

「貴方様が正直で真っ直ぐな方である事は召喚致しました時から存じております。大司教様や他の司祭達は気に触っているようですが、私は貴方様のその在り方を好ましいと思います。どうかその在り方をずっと貫いて下さいませ」
「ありがとう、メアリー。他人に何と言われようと自分の在り方を曲げるつもりは無いけど、そう言ってくれると少し気が楽になる」
「気休めではありませんよ? 本当にそう思っているのです。しかし、人の世は綺麗事ばかりではありません。悪と分かっていてもそれに手を染めねばならない時もあるのです」

 その言葉に青年は眉間に皺を寄せた。

「先ほどがそうしなければならない時だったと?」
「フェデリコ村長は私達を煩わしく思っていました。吸血種が傍に居るのは確かでしょうが、素直には教えてくれなかったでしょう」
「吸血種は人を巧みに操る、と聞いた。村長も吸血種に支配されていた、と言う事なのか?」
「そこまでは私にも分かりません。ですが、いずれにせよ私達は目的を果たさなければなりません。可及的速やかに亜人達神が望まぬ者共の殲滅が望まれているのです。それが神の子たる人を、絶望から救い出す唯一の手段なのですから。その為には如何な悪評だろうと天使の囁きにしか私には聞こえませんわ」

 メアリーは青年の胸から体を離すとふわりと微笑み、ベッドの中へと潜り込んだ。

「明日は日の出と共に出かけなければなりません。さあ、勇者様も一緒にお休みましょう」

 促され、青年は身につけた高価な装備を外していく。そしてシャツとズボンという出で立ちになるとメアリーと同じベッドへと入っていった。
 二人が並んで横になり、メアリーは先ほどと同じように青年の体に抱きつくと青年もまた寝返りを打ってメアリーを抱き締めた。

「本当に明日はメアリーが行くのか? 俺が付いて行かなくても平気か?」
「ええ。大丈夫ですわ。あの二人の実力は勇者様もご存知でしょう?」
「それはそうだが……」
「心配してくださっているのは非常に嬉しいですわ。しかし、治癒魔術が使えるのは私と勇者様だけ。村の方の中には一刻を争う病状の方もいらっしゃるでしょう。私達が薬を持ち帰るまで、勇者様は治癒魔術で村の方々を癒して差し上げて下さい。
 大丈夫です。私は主に祝福を受けております。こんなにも勤勉にこの身を捧げてきたのです。主が守ってくださいますわ」

 曇りなき眼でメアリーは青年に伝えた。それを見た青年は一瞬痛ましい表情を浮かべたが、それ以上彼女にそんな顔を見せないために腕の中のメアリーの頭を自分の胸に押し付けた。

「暖かいですわ……神殿で祈りを捧げてきた時とはまるで違う。――人と触れ合うというのはこんなにも心地良いものだったのですね」
「君は俺が守る。何としても守ってみせる。だから……もし危険を感じた時は迷わず俺を呼んでくれ。何処に居たって……絶対に駆けつけてみせるから……」
「……ありがとうございます。私もお慕い申し上げますわ……」

 メアリーは眼を閉じた。少しずつ意識が薄れ、抗い難い眠りの誘惑に飲み込まれていく。その微睡みの中、作り物では無い、彼女本来の自然な笑顔を浮かべて愛しい人の名を呼んだ。

「愛しています――ユウヤ様」











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