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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved






 程なくして雨が降り始めた。セツが予想した通り日が暮れ始めると同時にシトシトと小雨が木の葉を濡らし始め、本降りへと変わるまでそう時間は掛からなかった。
 瞬く間に土は雨を含んで泥濘み、夕暮れの太陽は分厚い雲に隠されて夜中と変わらぬ程に空は暗い。気温も見る間に下がっていき、山の気候と相まって初夏とは思えないくらいに寒い。
 冷たい雨が降りしきる中、トモキはしばらく彷徨った後に幸運にも雨宿りが出来そうな、防空壕の様な窪みを見つけた。冷えた体を震わせ、トモキの口が真一文字に結ばれた状態から一気に綻ぶ。何とか痛む脚を引きずり、体を滑り込ませたトモキは大きく溜息を吐いた。

「……どうするかな」

 足首を擦り、鋭く走る痛みに顔を顰めながら空を見上げたトモキはもう一度深々と溜息を吐いた。泥に汚れ、重くなった靴下を下ろせば先程よりも腫れは酷くなり、踝の位置も分からない程になっている。動けない程では無いが、そもそも現在地が分からない。少なくとも上の方に登る必要はあるだろうが、夜の山道を登ることが果たしてできるか。
 夜になれば魔獣などの活動も活発になる。そんな危険な場所を満足に動けない体で動き回るのは無謀としかトモキは思えなかった。ましてや――

「剣も落としてきちゃったしな……」

 中身の入っていない鞘を撫で、トモキは頭を抱えた。どうやら坂道を転がり落ちていく際に手放してしまったらしく、完全に無手。どこに落ちているのかも全く見当がつかない。大事にしなきゃな、と思いを新たにしたところであったというのにその矢先に失くすなんて。トモキは自身の不運に項垂れた。


「やっぱりここで夜を明かすしかないかな……」

 陰鬱な気分になりながらポケットを探れば、潰れて汁が出たハジの実が出てきた。ポケットの中に残っているのはこの一個だけだ。後は崖の上に置きっぱなし。トモキはセツの為にもいだそれをどうするか迷ったが、そっと齧り付いた。
 甘い汁が口の中に広がる。芳醇な香りが土の香りに混じって胃の中に落ちていき、一部が鼻に抜ける。たった一口だけだが、少し元気が出た。そんな気がした。

「ともかく、死にはしないだろうから、明日まで待とう。そうすれば――」

 セツも探してくれるはず。浮かんだその言葉をトモキは飲み込み、頭を小さく振った。
「そうすれば少しは明るくなるだろうし、坂を登るくらいは出来るだろう」

 下には落ちたが、位置的には滑り落ちた場所からは余り離れてはいないはず。籠の位置さえ分かれば家には帰れる自信がある。

(それに……)

 こちらに飛ばされた日。王種猪獅子グレートダイナボアに襲われ、不還かえらずの森を彷徨った時に比べれば何倍もマシな状況だ。不安に思うことは無い。
 トモキはそう自分に言い聞かせて膝を抱えた。それは虚勢も含んでいたが、実際に然程悲観もしていなかった。相変わらずの自分の不運を嘆く部分はあるが、これまでの苦難に比べれば雨の森で独り一晩を過ごすことは最早トモキにとって特段に辛苦ではない。
 手にしたハジの実を囓り、じっとして体力を蓄えておく。当分の方針をそう定めると、トモキはハジの実を半分程食べ終えて、膝に顔を押し当てて眼を閉じた。

(セツは心配してくれてるかな……)

 次第に薄れていく意識。その最中でトモキはそんな事を思った。だが、そんな想いはあっという間に睡魔に飲み込まれていき、夜の山の一角に静かな寝息が響き始めるのにそれほど時間は掛からなかった。



 眠っていたトモキの眼が開いたのは、完全に日が落ちて世界が眠りについた頃だった。
 膝を抱えて眠っていた体が突然ピクリと震え、眼が薄く開くとすぐに、何かに弾かれた様に上半身を跳ね起こした。
 眠気はすでに覚めた。緊張が全身を走り、集中して意識を周囲に飛ばす。外は豪雨だ。
 顔は正面を向いているが、トモキの眼は特別何かを捉えている風では無く、ただ眼を開けているだけで何も見ては居ない。
 トモキは喉を鳴らし、意識を自分へと戻した。目に見える範囲で何も変化は無い。静かに雨が降り続き、宵闇はただ昏さをそこに湛えているだけだ。しかしトモキは寝る前とは変わった空気感に戸惑い、そして警戒した。
 腰を上げ、いつでも飛び出せるよう体勢を整える。剣を鞘から抜こうとし、しかし掌は空気だけを掴んだところで目的の物が無い事を思い出した。
 ――こんな時に。
 今更ながらの喪失感にトモキは顔をしかめた。しかし無いものを強請って何か変わるわけでは無い。即座に諦めて――諦めきれないが――全神経を張り詰め、鞘だけを腰から引き抜いて周囲に注意を配る。
 遠吠えが聞こえた。その声にトモキは一瞬体を揺らした。だがそれだけだ。

(……違う)

 今の声は単なる野獣、野犬の類だ。今トモキが感じている張り詰めた空気の主では無い。犬っころよりももっと強く、もっと凶暴で、もっと――理知的な存在だ。ピリピリとした空気からトモキはそう感じ取った。それと同時に、違和感も。

(動いた……?)

 夜の山に響いた遠吠えをきっかけとしてか、トモキの潜む窪みを取り囲んでいた何か達が動き始めた。慎重な足取りで少しずつ距離を詰め、一気に襲い掛からない。間合いを測り、飛び出すタイミングを見計らっているかのようだ。
 しかしトモキが感じ取っていた気配の中で、一匹だけ動かずにいるものが居た。

(何故だ……?)

 それこそがトモキが感じた違和感の正体であった。周囲の魔獣に合わせて動かない事では無い。動かないと「判断」した、その知性に違和感を感じたのだ。
 先ほど感じた理知性。しかしトモキがこれまで対峙してきた魔獣、魔物の類はいずれも凶暴で短絡的であった。戦闘に関しては知性を感じさせるものもあったが、所詮は獣。本能が思考を遥かに勝っていた印象があった。だが今動こうとしない一匹から感じるのは妙な気持ち悪さだ。
 まるで、トモキの事をじっと観察している様な。

「……だからって動かないわけにはいかないよな」

 その個体の狙いは何か。そちらに思考を割くべきかもしれないが、今はまず目の前の危機だ。トモキは鞘を剣の様に構えた。後ろに引いた右足から痛みが駆け巡ってくる。
 前に出るべきか。トモキは一瞬そう考えた。しかしこの脚では満足に移動することが出来そうにない。少なくともいつも通りに立ち回る事は出来ないだろう。魔獣が一体であれば前に出て叩きのめす事は出来るかもしれないが、素早い動きが期待できないならば一体に対峙している間に別の魔獣に食いつかれるのがオチだろう。
 だからトモキはその場に留まる事を選んだ。窪みの中は狭い。ギリギリ鞘を振り回せるくらいだ。そしてそれは同時に多方面からの攻撃も出来ない事を意味している。
 トモキは意識を周りに飛ばした。それは俗にいう剣気、殺気と呼ばれる類のものだ。顰めていた眉根から皺が消え、トモキの表情が失われていく。冷徹さと残酷さがその奥から見え隠れし、怜悧な眼差しで相手に攻撃する意思を示すと左足で地面を踏み鳴らして敵を挑発した。
 果たして、暗闇の中から一匹がトモキに躍りかかった。トモキの挑発に乗せられ、腹を空かした灰色狼グレイウルフは喉を鳴らし、真っ赤な眼を血走らせてトモキに喰らいつこうとした。それを皮切りにしてたむろっていた他の灰色狼も一斉にトモキ目掛けて飛びかかる。
 影の様に濃い体毛を持つ灰色狼の姿は暗闇に溶け込み、通常の人の眼には捉えづらい。しかしトモキの眼にはハッキリとその動きが見えていた。
 先頭の一匹が肉薄すると同時、トモキは鞘を全力で横に振り抜いた。その剣速は閃光だ。灰色狼がトモキの脚に食いつくよりも前に鞘は狼の頭を砕いた。
 雨の湿気に混じって広がる新たな湿り気。脳漿と共に血が撒き散らされ、空気の粘度が更に上る。血はトモキの体にも飛び散り、粘りつく。顔が汚れる。それでもトモキは一瞬眉をひそめただけで次の個体へ素早く視線を飛ばす。

「次」

 窪みの入り口で互いに邪魔しあっていた二体に狙いを定め、鞘を振り下ろした。だが灰色狼も一体目の有り様を見て警戒していたのか、トモキの振り下ろしの直前に後ろに退いた。それでもトモキの鞘は鼻先を掠め、甲高い悲鳴の様な鳴き声を上げて地面を転がる。
 それを見てトモキはいつもの調子で追撃を加えようと前進した。だが鋭い痛みが右足から走り、つい脚を止める。自らの状態を刹那の間に忘れていたことに対して僅かに顔を顰め、不機嫌に舌打ちをした。
 トモキが追ってこない、と察したか再び灰色狼が地を這う様にして再度飛び掛かった。トモキは振り下ろした鞘を振り上げ、迫り来る個体を弾き飛ばそうとする。
 しかし、前に一歩踏み出した左足が泥濘に取られ、空振る。重心が右足に掛かった事でトモキは小さく呻いた。
 そしてその隙を灰色狼達は見逃さなかった。
 この山は「魔の山」だ。種々の魑魅魍魎が跋扈し、毎日多くの魔獣同士が互いを喰らいあい激しい生存競争を生き抜いている。強いモノは生き、弱いモノは死ぬ。単純だからこそ純度の高い「生きる力」が生死を分ける。同じ種であっても、他所で生きる個体に比べて能力はずっと高い。
 灰色狼が狭い入り口を交互に抜けてトモキに襲いかかる。一匹目をトモキは空いた左腕で殴り、いなした。続いて二匹目に鞘で殴ろうとし、しかし二匹目は地面を蹴る仕草だけを見せて立ち止まった。
 空を斬るトモキの鞘。しまった、とトモキが歯噛みした時には先行した二匹の後ろに隠れていた三匹目が飛び出し、トモキの左脚に噛み付いていた。

「ぐぁ……っ!」

 苦悶の声が口から零れた。鋭い牙が肉に食い込み、噛み千切ろうと灰色狼が顎を捻る。肉が抉れて血が溢れた。
 しかしトモキの足を食いちぎる事が出来なかった。普通の・・・人間より遥かに強靭なトモキの肉体は、通常ならば食い千切られるところを、牙を肉が挟み込む形になって狼の動きを封じてしまった。

「くぉぉぉぉぉっ……!!」

 激しい痛みに脂汗を流しながらトモキは足元の灰色狼に向かって鞘を振り下ろした。腰を入れる事が出来なかったため、純粋な腕力だけに頼った一撃だったが、トモキの膂力であれば十分だった。
 骨が砕ける音と何かが潰れる音。命を奪う感触を覚えながら、トモキは動かなくなった灰色狼を脚から引き剥がし、他の二匹目掛けて遺体を投げつけた。
 灰色狼達は無慈悲にその遺体を避ける。土の壁にべチャリと遺体は張り付き、濡れた地面に落ちる。避けた狼達は何事も無かったかのように、自らの欲に忠実にトモキに再度襲い掛かる。同族意識はあれども、多く食事にありつけるのは強者であり生き残ったモノだ。弱者に、敗者に意識を割くことなど、生きることに貪欲な魔獣達には不要な意識にすぎない。
 動きを止めたトモキの腕に絡みつく。制服の上から左右両腕に牙を突き立て、トモキの動きを更に封じていく。
 魔技高の制服は戦闘を考慮して作成されている。防刃性、抗魔力に優れ、打撃によるダメージもある程度吸収する優秀な防具だ。故に灰色狼の牙を半ばで食い止め、しかしトモキの腕にまで先端は到達した。

「くっ!」

 鋭い痛み。トモキは思わず鞘を手放してしまい、地面に突き刺さって倒れた。
 トモキは力任せに腕を振り回した。狼はトモキの腕に噛み付いたまま振り回され、だが食らいついて離さない。
 先ほどと同じようにトモキは壁に叩きつけようとした。だが、灰色狼も学習していたか、叩きつけられる直前に口を開く。
 トモキは、しかし灰色狼の頭を抑えつける。そのまま自分の体ごと壁に叩きつけた。ゴキリ、と狼の首が折れる音と、勢い良く叩きつけた事で土で出来た窪みの壁が抉れた。抉れた箇所からジワリ、と染み込んだ雨水が滲み出る。
 そして未だに噛み付いたままの狼ごとかいなを振った。狼の体は宙を舞って土壁に叩きつけられ、悲鳴を上げる。地面に仰向けに落ちた狼。その頭目掛けて、トモキは拾った鞘を振り下ろした。頭は呆気無く弾けた。

「……はっ、はっ、はっ!」

 息を荒げながらトモキは狼の死体を見下ろした。流れ出た血が土に染みこんで、むせ返る様な濃い生の匂いが死の臭いに入れ替わっていく。

「……っつぅ……」

 今更ながらにトモキは手足の痛みを覚えた。腕に触れればぬるりとした感触。暗闇の中で掌を見てみれば黒く染まってみえた。

「……はぁ」

 トモキの体が緊張から解かれる。痛む両足から力が抜けて、表から流れ込んできた雨水の溜まりの中に尻もちを吐く。防水性の制服のおかげで染みこんでくる様子は無いが、冷たさは伝わる。だがそれよりも疲労感の方が勝り、溜息と共に背中を壁に預けた。
 だが安心したのも束の間だった。トモキの頭に雫が一滴落ちてきた。気づいたトモキが上を向くと、今度は鼻頭が濡れる。そしてそれは頬、口元へと次々に落ちていく。
 トモキは怪訝な顔をし、だが雨が振っているのだから当たり前か、と納得した。気にし過ぎか、と頭を小さく振って脇に手を突いた。そこは濡れていた。最初は狼の血か、自分の血かと思ったが、粘り気は無く臭いもしない。壁に触れてみれば、壁全体がじっとりと濡れていた。

「おかしい……」

 最初にトモキが辿り着いた時にはここは乾いていた。記憶違いでなければそのはずだ。雨水は垂れてこず、雨宿りをするには最適だった。しかし今は、触れればびっしょりと濡れるほどに雨水が染み込んでいる。
 そして地鳴りがした。メキメキ、と四方から不吉な音がし、頭上からは雨漏りに混ざって土が落ちて来始めた。

(地盤が弱っているところもあるようじゃからの)
「マジかよっ……!」

 セツの話を思い出し、トモキは脚を引きずって窪みから飛び出した。土砂降りの雨が瞬く間に全身を洗い流す。
 雨に打たれながらトモキは窪みの方向の、更に上の方を振り返った。
 樹が、不自然に傾いでいた。山中が悲鳴を上げているようだった。表土の上を雨が川の様に流れ、地面のあちこちが水源であるかのように水を吐き出している。
 痛む左脚にトモキは力を込めた。骨が折れた右足に比べれば、狼の牙が突き刺さっただけの左脚はまだ動く。蟀谷を流れる雨に脂汗を紛れ込ませながら窪みから右へとトモキは跳んだ。
 直後。
 地面が叫んだ。
 地震を想起させる程に足元が揺れ、立ち並ぶ広葉樹が整列したまま坂を上から下へと下っていく。大量の土砂が濁流と成り、莫大な質量を伴って下流の樹木を破壊していった。そして、その下流にはトモキが雨宿りしていた窪みもあった。

「届けぇっ!」

 跳躍したトモキは一本の木にしがみついた。必死に伸ばした手を幹に絡みつかせ、両手両足を使って太い幹を掴む。
 直後にトモキが居た場所を土砂が流れていった。窪みを破壊し、中の灰色狼達の死体もろとも下流へと押し流していく。その勢いは暴風となって吹き荒び、間近にいたトモキの体を吹き飛ばさんとする。それをトモキは眼を閉じ、ひたすらに木にしがみついて耐えた。
 やがて辺りが静まり返り、地滑りの残響だけが小さく響いていた。トモキがそっと眼を開けると、目の前には巨大なクレバスの様に一部がごっそりと抜け落ち、また一部には全て同じ方向に傾いだ、恐らくは上方から滑ってきたであろう樹木の一団が当たり前の様に植わっていた。

「は、はは……」

 それを見て、トモキの口から乾いた笑いが漏れた。しがみついていた手足から力が抜けるとバタリと脱力して仰向けに倒れこむ。

「はぁ……」

 今尚止まない雨に打たれながら、トモキは顔を覆った。

「全く……なんて日だよ」

 山に山菜を拾いに行ったら滑落して脚を痛め、雨宿りしていたら魔獣に襲われる。何とか撃退したかと思えば直後に地滑り。

「どう考えても世界に嫌われてるとしか思えねぇ……」

 この世界でも元の世界でも。
 頭の中でそう付け足し、こみ上げてくるどうしようもない感情に突き動かされて叫びたくなった。しかしトモキは「だけど」と雨に打たれて冷たくなった頭でこれまでに考えを巡らす。
 運は悪い。それは疑いようも無い。客観的に見てもそれは事実だろう。だが、その運の悪さを乗り越えるだけの努力を、果たして自分はしてきたのか。
 元の世界で自分の力を持て余した。人を傷つけ、更に人を傷つけるのを恐れて人と関わる事を恐れた。自らの世界に閉じ篭った。それで平気なふりをして過ごしてきた。
 訳も分からずに魔技高に入学させられ、「魔術が使えないから」と馬鹿にされ、馴染めずに虐められた。努力はしてきたつもりだけど、本当にやれることを全てやってきたのか。この世界にきて感じたことだが、その気になれば自分は戦える。あれだけ誰かと対峙することに、対立することに怯えていたのに、一度命の危機に晒され、剣を奮うことに躊躇いはなくなった。その事を思えば、元の世界でも自分は、きっと弱者に甘んじている必要は無かったのだ。

(その才能を磨かずに居て、虐められるのが嫌だというのはお前の怠慢以外何者でも無い)

 かつてのユウヤの言葉が身に沁みて思い出される。彼の言葉通りだ。向き合う事に自分は怠慢だったのだ。傷つけるのが怖い、と逃げて問題に立ち向かうことを避けていたのだ。目指すべきとは違う方向に努力を重ね、努力をしたのだという言い訳を自らにして前に進むことを拒絶していたに過ぎない。

「……弱かったら、何も守れない」

 自分も、友も。弱くて立ち向かえなかったから今自分はこの世界に居る。誰かに頼る事しか考えなかったからアルフォンスを失った。敵を圧倒する力が無かったからシオを失った。
 トモキは周りを見回した。雨が振っている。山の中は暗い。静かだ。とても静かで、独りだ。そして、これは自らが招いた現実だ。
 これまでトモキは怖くなかった。独りで居ることに不安はあったが、いつしかその不安も感じなくなっていた。すでに独りが怖くなくなっていた。独りで居ること、それこそを望んだ。
 しかし今、トモキは恐怖を覚えた。ただ一人こうして山の中で横たわり、死の危機に瀕して、解放されてしばらく忘れていた恐怖が体の中を走り回っていた。
 じわり、と涙が滲んだ。

「……泣くな」

 トモキは目頭に力を込めた。独りは自分で望んだこと。誰かを守るために、決めたんじゃないか。
 開いた眼に雨が降り注ぐ。滲んだ涙は、雨に洗い流された。

「……っ!!」

 その時、トモキは近寄ってくる何かの気配を感じ取った。ゆっくりと、慎重に近づいてくる。痛む体を叱咤してトモキは体を起こした。
 闇の中から現れたのは、一匹の犬だった。だが更に近づいて姿がはっきりと見える様になって、その印象を改めた。
 その犬は真っ黒だった。そして無骨だった。全身が艶のある黒に覆われ、姿形は犬だが、鎧に覆われている印象をトモキは受けた。初めて見る姿。しかし、その正体が何であるかすぐに分かった。

「魔族……っ!」

 トモキが声を発すると同時に犬型の魔族はトモキに向かって跳びかかった。地を這うように低い体勢で一目散に襲い来る。

「この……っ!」

 腕を振るい、灰色狼の時と同じようにトモキは頭を殴りつけた。動きの速さは灰色狼と同程度。両足に怪我をしているトモキが動き回れないため基本的に「待ち」の戦い方になるが、一体であれば攻撃を捌く事は難しくなく、痛みを我慢すればカウンターを取るくらいはできる。
 だが果たして、トモキは殴りつけた右拳に痛みを覚えた。ゴツ、と硬いものにぶつかる音が聞こえた。
 拳の皮膚が破れ、血が弾ける。痛みに顔を顰め、予想外の魔族の重量にトモキの体が後退った。
 殴られた犬型の魔族は無骨な見た目にそぐわない軽やかな動きで着地する。そして様子見を、トモキの力を推し量るかのようにトモキを中心とした円を描くが如くゆっくりと歩き始めた。
 トモキは戦慄を覚えた。

(一つだけ違う気配があったのはコイツか……っ!!)

 決して闇雲に突っ込んでくるのでは無く、相手の力を見極める様な動き。先ほどの灰色狼と共に襲ってこなかったのは先にトモキにけしかけさせて、消耗させるためか。

(まずいかも……)

 この敵は強い。まだ一撃殴りつけただけだが、トモキはそう感じた。高い知性と防御力を備えた難敵。トモキは焦りを覚えた。

「幸いなのは……」

 あまり疾くは無いことだろうか。飛び込んでくるだけなら何とか対処は出来るかもしれないが、あの硬い装甲では単なる打撃では決定打を与えられまい。殴ればそれだけトモキのダメージが蓄積し、動きが鈍くなる。
 獣、とこの敵を考えるのは間違いだろう。強固な鎧を纏った人間を相手にしていると考えた方が適切だろうか。注意深く様子を伺いながらトモキは勝機を探る。
 犬魔族がトモキに再び攻撃を仕掛けた。牽制の様に一瞬だけ攻撃を加えると再び後退して様子を窺う。トモキも今度は殴りはせずに、魔族の体を押し出すようにして攻撃をやり過ごす。そうするとまた様子を窺うようにしてトモキの周りを回り、単発の攻撃を仕掛けては直ぐに退く。
 何度かそうした攻防を繰り返していたが、急に魔族の様子に変化が見え始めた。

「何だ……?」

 動きは先程までと変りないが何処か低い唸り声の様なものが聞こえ始めた。だがそれは生物的なものというよりは、機械的。まるでモーターが回転しているようにトモキは思えた。

「えっ……!」

 そしてトモキは眼を疑った。魔族の体が薄い光に包まれ始める。今度こそその口から唸り声が響き始め、大きく吼えた。
 甲高い鳴き声。それをきっかけとして作り上げられていく光の魔法陣。

「うそっ!?」

 光が迸る。雷鳴が響く。しかしそれは雨雲では無く、目の前に展開された魔法陣から放たれた。
 直前、自身の直感に従ってトモキは頭を横に振った。直後、靡いた髪の毛を焼き落としながら紫電がトモキの脇を通り過ぎた。
 立ち込める閃光。けたたましく鳴り響く爆音。魔法陣から放たれた一筋の光線は後方の樹木にぶち当たり、半ばからへし折ると同時に眩い火炎を上げて燃え盛っていく。
 熱が背中に降り注ぐ。それを冷たい雨が冷ましていく。
 再度、魔法陣が光り輝いた。トモキはハッと我に返った。そして見えない何かに急かされてトモキは体を横に投げ出した。通りすぎていく紫電。樹を貫き、倒し、燃やしていく。
 トモキはその景色を見ること無く走った。足の痛みなど考えられなかった。逃げねばならない。それだけを強く思った。
 あれに素手で立ち向かうのは無理だ。せめて何か、何か武器になるものがなければ。
 だがあの体の強度はどうしたものだろうか。殴った感触だけで考えるならば生半可どころか、相当の業物でも切り裂くのは難しいかもしれない。
 そしてあの魔術。トモキは高校で習った知識を探る。恐らくは電気魔術の一種。魔素を媒介にして付近からの電子を取り出して高密度に収束させた光線を射出するものだ、と当たりを付けた。
 射出されてからの速度は、視認して避けるのは不可能に近いが、欠点として電子を集めて収束するのに少し時間がかかる。その間は無防備になり、先ほどの犬魔族も魔法陣の展開から射出まで動きは殆どなかった。そこが決定的な隙ではあるが――

「あの装甲を何とかしないとどうしようもないじゃないか……!」

 だからこそあの魔術を使ってもやられる心配が無いのだろう。鉄壁の装甲と強力な大砲。まるで昔の大艦巨砲主義みたいな考え方だ。元の世界ではとっくの昔に時代遅れとなった思想を思い出しながらトモキは歯噛みした。
 後ろを振り返る。犬型の魔族はトモキを追ってきていた。だが一気には距離を詰めてこない。脚を痛めているトモキの速度は遅い。先ほどまでの魔族の動きならすぐに追いつける程度の走力だ。それでも近づいて来ようとしないのは、トモキの力を警戒しているからか、それとも――

「――嬲り殺そうって魂胆なのかっ……!」

 腹立たしいが今のトモキには為す術が無い。土砂崩れで起伏の激しくなった土の上を這う様にしてトモキは上へと登る。必死に対抗策を考えながら泥に塗れながら行き汚く今ある生にしがみついた。
 剣が、あの剣さえあれば。脳裏を過るのは、絶大な信頼を置く自らの愛剣。あの剣であれば、あの装甲はきっと斬り裂ける。トモキは何故かそう確信していた。
 山肌を必死でよじ登っていたトモキだったが、不意に背中に戦慄が走った。直感と衝動に赴くままに振り向けば、崩れた土砂と無事な地面との境目で再び魔法陣を展開している犬型魔族の姿が眼に入った。

「くっそぉぉぉっっ!!」

 トモキは横に転がり、すぐ脇を雷光が貫いていく。トモキの左腕を掠め、魔技高の制服を焼き切って頭上の木の根本に当たる。爆音が響き、真っ赤な炎がトモキを照らす。巻き上げられた土砂がトモキに向かって降り落ちて、トモキは顔を伏せた。

「あ……」

 土砂が収まってトモキが顔を着弾点に向けると、その近くには燃える木の明かりを反射するものがあった。
 トモキは眼を疑った。夢かと思った。だが何度瞬きしてもそれは視界から消えず確固としてそこにあった。
 それは失ったトモキの剣だった。暗い上に遠目でははっきりと確認できないが、それが自分の剣だとトモキは思った。絶望の中にある希望を象徴するかのように明るく輝き、だからトモキは必死で泥を掻いて近寄った。そして剣を手にした。
 ずっと使い込んだ自分の愛剣。それを示すかのように握った瞬間にトモキの手に馴染んだ。同時に、折れかけた心に熱が灯った。剣を手に、トモキは勇んで魔族の方を振り返った。
 魔族はトモキのすぐ眼の前に居た。その剣を手にさせてはいけない。そう考えたのか、魔族はそれまでの動きを一変させてトモキに勢い良く飛び掛かってきた。

「おおおおおおおおおぉぉぉっっ!!」

 奮う。雄叫びを上げ、力を、剣をトモキは横薙ぎに振るった。剣の腹で殴られる形になった魔族は泥の上を転がり、しかしすぐに起き上がって再度トモキに襲いかかろうとする。だが踏ん張った脚から力が抜けた様に折れた。そこは今しがたトモキが剣を当てた場所だ。脚に傷が付き、血のようなものが流れ落ち始めていた。
 ――今が、チャンスだ。
 トモキは泥から這い出し、鉛の様に重い体を叱咤した。今を逃せば、もうチャンスは無い。トモキの体力は底を尽きかけていた。
 泥濘の地面を全力で蹴った。骨が軋み、鋭い痛みが警告を発する。それをトモキは無視した。頭の中で鳴り響く警報音を聞かないふりをし、魔族に向かってトモキが躍り掛った。

「喰らええええぇぇェェェッッ!!!」

 型も何も無く、ただ上段から力の限り振り下ろす。無我夢中で、他に何も考えられない。願うは一つ。全力で目の前の敵を叩き潰すのみ――!

「――、――――――っ……!!」

 振り下ろされた剣は全てを斬り裂く。それは魔族の体も例外では無かった。
 固い装甲をチーズの様に裂き、その奥にある肉体を壊す。全力で振り下ろした剣圧で地面が弾け、魔族もろとも吹き飛ばす。言葉にならない悲鳴を上げながら魔族は大木へと叩きつけられ、粘り気のある液体をまき散らしながら泥の上へと落ちて、そして動かなくなった。

「はぁっ! はぁっ! はぁっ! ……やっ、た……?」

 肩で呼吸をしながらトモキは魔族を見た。腹の部分が大きく斬り裂かれ、そこから流れる液体が泥へ染みこんでいく。動かない。だがトモキは剣を構え、慎重に魔族に近づいていく。
 一足の距離になっても魔族は動く気配が無い。身動ぎさえしない。
 トモキは剣先でそっと突っついた。剣先の動きに合わせて体が揺れるが、自発的な動きの兆しは無い。

「……はあぁぁぁ……」

 大きな溜息がトモキの口から零れた。脚から力が抜けて腰が落ちる。倒れてしまいそうな体を、咄嗟に地面に突き刺した剣で支え、それでも重い頭が垂れる。虚脱感が全身を襲い、もう一歩どころか腕を上げることすら出来そうに無かった。

「……痛いなぁ」

 折れているであろう脚に灰色狼に噛み付かれた手足。気が抜けたからか、昼間に山肌を滑り落ちた時に打ち付けた全身が悲鳴を上げている。早く、早く家に帰りたい。項垂れたままトモキはそう思った。
 だから気が付くのが遅れた。倒れたままの魔族の体が小さく動いた事に。

「――――、――!!」
「え?」

 トモキが異変に気づいた時、すでに魔族は大きな口を開いて跳んでいた。トモキの頭を目掛けて、噛み砕かんと鋭い牙をむき出しにしていた。トモキは呆然とするだけだった。気を緩めていたため何一つ反応できなかった。終わった。感慨の無いそんな言葉だけがゆっくり頭を流れた。

「トモキィィィィィィィッッッ!!」

 だが終わらなかった。
 横から白い影が突然現れた。赤い目がトモキを、そして魔族を捉えた。
 トモキの名を呼びながら駆け込んできた小さな影は、トモキの目前に迫っていた犬型魔族の体の、トモキによって傷つけられた体内にその腕を叩き込み、呪文だけを口にした。

消える自我は夢の如しオーバー・ライティングッ!!!」

 鋭く尖った装甲の切っ先で無数に傷つき、だがセツは溢れる血を物ともせずに腕を更に奥に押し込む。セツの表情が痛みに歪み、険しくなる。白い肌が赤く染まった。しかしそれに臆すること無く彼女は犬型魔族の体の奥底目掛けて腕を更に押し込んだ。
 呪文が終わると共に赤い傷の入った腕を中心に眩い閃光を放ちながら魔法陣が魔族の体表面を走り抜けた。漆黒の装甲が一瞬真白に変わり、だがまたすぐに元の色に戻る。
 魔族は着地すると急に大人しくなり、寝そべる様な姿勢となった。セツはぬちゃ、と音をさせて腕を体から引き抜く。犬型の魔族はそんなセツを見上げ、可愛らし気に首を傾げると頭をセツに向かって擦り付けて甘え始めた。
 セツは赤黒く染まった掌で犬の頭を優しく一無でし、この場を去るのを促すように尻を軽く叩いてやる。そうすると犬魔族はヨタヨタとバランスを崩しながら立ち上がり、寂しそうにセツの方を向いて、しかし脚を引きずりながら夜の山の中へ消えていった。

「セツ……」

 どうしてここに、とトモキは尋ねようと口を開きかける。だがしかしそれよりも早くセツの平手がトモキの頬を張った。

「お主は……お主という奴はっ……!」

 暗い闇でも映える白い頬を怒りで紅潮させ、しかしすぐに奥歯を噛み締めてトモキの体に抱きつく。
 頬に痛みは無い。だが熱はある。ジンジンとしびれる頬に自分の手を当ててトモキは呆と鼻を擽るセツの白い髪の感触を享受する。耳元のしゃくりあげる泣き声に、トモキは何と対応すべきか困惑し、その白い髪を撫でた。髪の横ではめくり上がった袖の下の傷だらけの腕が眼に入った。

「離れてよ、セツ……綺麗な着物が汚れちゃうよ」
「構うものかっ……! どれだけ、どれだけ妾が心配したか……!!」

 そう言ってセツはより強くトモキの体を抱きしめる。雨と彼女の汗の匂いが入り混じってトモキの意識を刺激する。ツン、と鼻の奥が痛んだ。
 そういえば、とトモキはポケットの中を弄った。すでに半分程になり、実が潰れてしまったハジの実が出てきた。

「すみません……これを見つけて……」
「ハジの実……手で千切れる様な場所には生っておらんはずじゃが……まさかお主」
「セツに採って帰ろうと思って木に登ったら枝が折れて、そのまま崖下まで落ちてしまいました。心配かけて……ごめんなさい」
「お主は……真にバカじゃ……!」

 トモキを罵倒しながら、しかしセツはトモキの手からハジの実を一欠拾い上げると口に運ぶ。実が潰れ、泥が付いたそれは苦く舌触りも悪い。なのにどうしようもなく甘かった。
 セツはトモキの頭を胸に抱え込み、撫でた。優しく何度も撫でた。小さな、暖かい手で。

「妾の事を想ってくれたんじゃな、トモキ。感謝するのじゃ。
 じゃがの、トモキ……頼むから危ないことはせんでおくれ……」
「……」
「命を粗末にするでない。まず自分の身を優先するのじゃ。お主はすでに一人では無い。妾がおるのじゃ。お主は妾をただのお節介じゃと思うとるじゃろうが、妾にとってお主は家族なのじゃ。大切な、かけがえのない家族なんじゃ。お主が傷つけば妾は悲しむ。お主にもしものことがあれば妾はまた独りになって……どうしたらいいんじゃ……」
「セツ……」
「頼む。後生じゃから、後生じゃから……妾をまた独りにせんでくれ……」

 すがりつく様にしてセツは声を絞り出した。声は小さく、しかしそれは叫びだった。少なくともトモキにはそのように感じ取れた。セツの双眸から零れ落ちた暖かい涙が、トモキの開けた襟元から伝っていき、胸の辺りに温もりが灯った。同時に、トモキの中で何かが塞がった。そんな気がした。

「……トモキ、どうしてお主が泣くんじゃ」
「えっ?」

 体を離したセツに指摘され、トモキは自分の頬を指でなぞった。指先が濡れた。だが、それは冷たい雨では無く、とても暖かかった。

「何で……だろう……?」

 止まらない。悲しくないのに、止めどなくトモキの眼から涙が溢れ落ちる。熱を携えた雫がトモキを暖めていく。次から次へと溢れ出てくる。
 セツは不思議そうにトモキを眺め、だが何かに納得したように涙で濡れた顔で小さく微笑んだ。

「トモキ」

 セツが小さな両手を広げ、トモキに向かって頷いた。トモキはおずおずとして戸惑いながら、だがセツの胸の中に顔を埋めた。
 心臓の音がした。生きている音がした。

「今は、泣け。それが何よりの供養になる」

 その言葉をきっかけに、トモキの口から嗚咽が漏れ始めた。押し殺した嘆きは次第に大きくなり、号泣へ、そして慟哭へと変わっていく。それは、シオを亡くしてから初めての涙だった。
 友を悼む。友の死を嘆き、悲しみ、閉じ込めていた想いを吐き出す。空へと届けとばかりにトモキは泣き声を張り上げた。
 ごめんなさい、そして――ありがとう。
 いつしか雨は止んでいた。
 遠くから、朝陽が昇り始めていた。












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