Top

1-1 
2-1 
2-2 
2-3 
3-1 
3-2 
3-3 
3-4 
3-5 
3-6 
4-1 
4-2 
4-3 
4-4 
4-5 
4-6 
4-7 
4-8 
4-9 
4-10 
4-11 









現在の閲覧者数:

(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved







 雨が降り始めた。
 ポツリポツリと落ち始めたそれはあっという間に土砂降りになっていった。つい先日まで振り続けていた雨のせいで元々水分を含んでいた土の地面はすぐに許容量を越えて染み出し、泥濘む。木々の間は烟り、視界は悪くなっていく。
 泥濘みに脚を取られながらもトモキは走ることを止めなかった。顔に叩きつけられた雨粒が顔を流れ、拭っても直ぐに目に入って視界を塞ぐ。

「……ふっ!」

 日が傾き、薄暗くなってきた森の中で魔獣が一体襲いかかってくる。それをトモキは剣を一閃させる事で難なく斬り伏せた。赤い血が舞い上がり、降りしきる雨で地面へと落とされる。斬り裂かれた死体を、トモキは一瞥だにせずにひたすらに前へと進む。

「フェデリコさん……!」

 走りながらフェデリコの不審な態度を思い出し、歯噛みした。奥歯が軋む。
 ヨハンの話を聞いた今なら分かる。フェデリコは教会にセツの事をバラしたのだ。人類至上主義――つまりは亜人殲滅を掲げる、云わば「吸血種」にとって最大最悪の敵に情報を与えたのだ。
 何を思ってフェデリコがそうしたのかは分からない。「聖女様」が来たから舞い上がって漏らしてしまったのかもしれないし、或いは取引を持ちかけられたのかもしれない。病気を治す代わりに知っている事を話せと言われれば、アイリスを初め、村で病に苦しむ人々を守る村長として断ることは出来なかったのかもしれない。でもそれらも単なる想像だ。流石に彼の思想や信条の全てを語れる程に親密だったわけでも無く、友人としての関係を築き始めたばかりのトモキでは、悔しいが彼の決断の理由を推し量る事は出来ない。
 だがしかし、セツとの関係はトモキよりも遥かに長い。普段の二人のやり取りを見ていても互いに信頼し、信用しあっているのはトモキにも見て取れた。軽い嫉妬を覚える程に親密で、だからこそフェデリコが秘密を漏らすことは絶対に無いと思っていたのに。

「くっそがぁっ!!」

 こみ上げてくる怒りをトモキは堪え切れない。頭が沸騰しそうで、剣を握る右掌には力を込めすぎて血が滲む。感情そのままにトモキは近くの木に向かって剣を叩きつけた。

「うわっ!」

 叩きつけたのが剣の腹だったためにこれまでみたいに切り倒すことが出来ず、トモキは叩きつけた反動と泥濘に脚を取られた事でバランスを崩して転んだ。泥水を頭から被り、口に入った泥を咳き込んで吐き出す。それがトモキの感情を逆撫でし、ギリ、と歯が擦れ、左手を地面に叩きつけた。そのせいで水溜りが弾けてトモキの顔に掛かり、汚れた水が滴り落ちる。顔の下には何事もなかったように再び水溜りが出来て、水面に歪んだ無様な男の顔を映しだした。
 水溜りに泣きそうな男の顔が浮かぶ。しかしすぐにトモキは顔を袖で乱暴に拭うとまた走り始めた。

「ほらやって来た、ほらやって来た。また絶望が笑いながらやって来たよ」

 いつかの少年がいつの間にかトモキの隣を走っていた。楽しそうに声を上げながら、トモキの神経を逆撫でする侮蔑の笑いを嫌らしく口元に浮かべている。トモキはそれを無視して走る。

「君はいつだって絶望を寄せ集める。君が望まなくたって絶望の方が君を見つけて集まってくるんだ」

 耳を貸さずに前に進むトモキに、しかし少年は意に介した様子もなく耳障りな声で囁く。

「でもそれは君のせいじゃない。君が悪いんじゃない。だって絶望の方向こうから集まってくるんだもの。残念ながら君はそういう運命なんだ」

 位置を変え、トモキの正面に移動して囁くようにトモキに話しかける。その言葉は聞く耳を持たずとも毒のように内に染みこんでいく。

「世界に嫌われた子。世界に守られない子。元の世界でもこの世界でも。でも君は強い。だから世界は君だけじゃなくて君の周りに牙を向いていくんだ。君の心を折るために」
「黙れよ」
「周囲の人は君ほど強くないからね。だから呆気無く奪われる。ああ! なんて世界は無情なんだ!」
「黙れよっ!!」
「いいや、黙らない」

 少年は嘲る様な口ぶりから一転して真面目な口調で言った。
 これまでの少年は言いたいことだけを言いながらも、トモキの反論を明確に封じる事は無かった。嘲るだけ嘲って、最後に毒にしかならない事を言い残して消えていく。だがここに来て初めて少年はトモキの反論を封じた。その変化にトモキは戸惑い、面食らって脚を止めかけ、しかし今は急ぐべきだとすぐに落とした速度を元に戻す。

「君は普通の人間よりはずっと強い。でも世界に抗うには、君独りじゃ足りない」
「何が言いたいっ……!」
「君を否定するな」

 少年はトモキの顔を下から覗き込む。

「君だけが悪いんじゃない。例え過去の君が過ちを犯してしまったとしても君自身を否定してはならない。君は君であり、久遠トモキという人間を否定したところで過ちが償えるわけでないんだ」
「何を言って……?」
「自らの否定は自己の喪失だ。本性を否定するな。自分を制御しろ。過ちを見失うな。過失を糧に未来を見据えろ。学んだはずだ。過去は消えてなくならない。忘却はその記憶の中の誰かの存在を損なう。記憶とともに世界に抗う力を君は忘れた。だが思いだせ。君は独りじゃない。を受け入れれば君は世界にだって反逆できる」
「何を言ってるのか分からないよ!」

 絶叫じみた叫びが木々の間に木霊する。少年の言葉が頭の中で響き渡る。何を言っているのかわからないはずなのに、分かる気がしてしまう。心の中に何かが染みこんでいく感覚にトモキは恐怖を覚えた。
 その時、視界が拓けた。
 木々の姿が消え、空からはよりいっそう強く雨をトモキに叩きつける。ずぶ濡れの体は冷え、しかし激しい運動に因る熱が汗と雨を蒸発させていく。
 森を飛び出したトモキは無心で家へ走る。少年の姿はいつの間にか消えていた。代わりに恐ろしい何かが心に纏わり付いていた。

「セツ、セツ、セツ……!」

 自身が変質する恐怖から逃れる様にトモキは彼女の名を連呼する。無事で居てくれ、と何事も起きていないでくれ、と願う気持ちで恐怖を覆い隠す。無心を塗り潰そうとする恐怖を願望で塗り潰し、ただ彼女の無事を希う。
 ただ、彼女に会いたかった。
 果たして、トモキは家に辿り着いた。感情の昂ぶりが呼吸を乱し、家の裏手側から近づいていく。静かな周囲の中で、トモキは他の誰かの存在を感じ取り、家の前の畑の方へ歩いて行った。
 そしてトモキは立ち止まった。濃厚な匂いが、降り注ぐ雨にも負けずに漂っていた。
 男が居た。もう一人男が居た。着飾った女が居た。その前に、セツが居た。両手を大きく左右に広げ、トモキの帰還を待っていた。
 磔にされた姿で。





 記憶の中のセツが笑う。
 セツが泣く。
 セツが怒る。
 囲炉裏を囲んだセツがトモキを見て笑う。トモキの胸に顔を埋めてセツが泣く。山の中で道を見失ったトモキを見つけてセツが叱る。そしてセツが消えた。
 続いて死んだはずのシオがトモキの前に現れた。川縁で焚き火を囲むシオの笑顔。一生懸命魚を焼くシオの真剣な顔。無言でトモキの前を歩くシオの後ろ姿。馬車の中からトモキを見上げるシオの怯えた表情。多くの表情をトモキに見せ、やがて消える。
 隣で肩を組んで酒を飲むアルフォンスの笑顔。仏頂面で酒を注ぐアルフォンス。依頼主を守るために剣を掲げて対峙するアルフォンスの鋭い表情。
 特異点に飲み込まれる前のクラスメートの見下した笑い。自宅で心配そうにトモキの様子を窺う両親の姿。卒業式でそれぞれの道を歩いて行く中学の同級生の後ろ姿。
 それら様々な記憶が際限なく駆け巡り、やがて砕けた。一枚一枚の画像が欠片となって散らばり、入り混じっていく。何もかもが分からなくなっていく。自分が分からなくなっていく。記憶が――無くなっていく。
 そして最後に残った一枚の画。

(――そうだ。僕は……)

 泣き叫ぶ声。何をしたのか、何を喚いているのか定かでは無い。それでも数多くの記憶が降り積もっていく中で今も鮮明に、色鮮やかに残っている。
 飛び散る血痕。真っ赤に染まった両手。鳴り響くサイレン。そして小さな腕の中で動かなくなったダレカ。

「自分を否定するな。その力があったからこそ君はここまで生き残れた」

 少年の声が響く。

「失った過去自分を取り戻せ」

 声が響く。

「思いだせ」

 響く。

が何者であったかを」

 唐突に景色が戻る。
 磔にされたセツ。打杭された両掌から赤い血が白い肌の上を流れている。その目の前で男が笑っている。嗤っている。女が笑っている。朗らかに嗤っている。恍惚に身を委ねて嗤っている。
 女が何かを喋った。男が剣を振り上げた。トモキの心臓が激しく跳ねた。音がうるさい。やめろ、やめてくれ。

「さあ、世界に反逆を。そして取り戻せ」

 頭の中で声が鳴り響く。やめろ。

僕(君)の世界レゾンデートルを」
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!」

 剣が、セツの胸を貫いた。貫いた。貫いた?
 誰が、誰を? 決まっている。見れば分かるじゃないか。男(女)がセツを、だ。
 その結果、どうなった? ねぇ、どうなった? 答えてよ、ねぇ。トモキは自分に問うた。セツの胸を男の剣が貫いた状態で世界は静止したままだ。胸を貫かれた人がどうなるか。
 ――死んだ、のか?

 ――無言

「うわああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!」




 世界が、広がった。
 悲しみの世界が、広がった。止めどない絶望がトモキを支配した。
 どす黒く染まっていくトモキの心。絶望と悲しみだけに満たされていく。頭を掻きむしり、泥濘に膝を突き、不意に呼吸が止まったかのようにトモキの絶叫が止んだ。
 トモキの叫びに気づいた聖女の護衛達が振り向く。聖女もまた哄笑を止め、優しい笑みを浮かべてトモキの姿を認めた。

「――ああ、この方も吸血種に心を奪われてしまったのですね」

 メアリーは悲しげに表情を歪ませ、そして慈しむような視線をトモキに向ける。

「こうなっては仕方ありません。彼にも――神の御下へ行っていただきましょう」

 さもそれが当然かのように。聖女は聖女らしくトモキへそう言い放った。それを受けて護衛の一人が、剣をセツの体から引き抜いてトモキに向き直る。その際にセツの体がビク、と跳ねて血が噴き出て男の顔に掛かる。それを見た護衛は不快そうに顔を拭い、剣の腹でセツを殴りつけた。
 ユラリ、とトモキが立ち上がった。長く伸びた前髪が濡れて顔に張り付いて、その表情を窺い知ることは出来ない。無言で立ち尽くし、剣を持った右腕はだらしなく下に向けられている。降り注ぐ雨粒でトモキの姿は霞み、不気味さを醸している。雨に打たれるがままの無防備なその様に、しかし何とも言えない奇妙さを護衛達は感じ取っていた。
 二人の腕前は客観的にも確かなものだ。本人達も所属する教会の中で戦う力は上位にあると自負している。それを証明するかのようにシエナ村からここまでの道中、多くの魔獣を容易く屠ってきた。聖女に傷一つ負わせる事無く旅を続けられてきている。自信に後押しされ、怯むこと無く剣を構える。
 たかが、ガキが一人。それも神に仇なす者だ。
 男はそうトモキを断じて嘲り、聖女の前に進み出ていく。強者の雰囲気もトモキからは感じ取れず、感じる奇妙さは神の摂理に反する者が息づいていたその空気に当てられただけだ。例え相手が如何なる者であろうとも、神の御加護を受けている限り敗走は、無い。
 即座にトモキを斬り伏せ、そして引き続きこの吸血種に神の代行者として鉄槌を加えなければならない。男はトモキに向かって走りだそうとした。
 だが、それよりもトモキは疾かった。走る為に男が僅かに屈んだ瞬間、その眼の前にトモキは居た。

「――は?」

 止まる時間。息を飲む男の前でトモキは、悲しげに微笑んでみせた。その顔を見た男の背に戦慄が走った。
 駆け抜ける怖気。得体の知れないナニカが目の前に居る。男は未知なる恐怖に急かされ、本能で剣を振るった。それは、不要な物が全て削ぎ落とされた、人生の中でも最高の剣筋であった。

 だが、無意味。

「――許さない」

 トモキの意思は全てを斬り裂く。何に遮られる事無くその剣は意思に従って糸を張るように真っ直ぐに進む。
 振り抜かれた剣は、護衛の男の持つ業物の剣を紙を割くかの如く斬り落とした。金属がぶつかり合う音が一瞬だけ、軽薄に嘲笑った。そして、その先にあった男の体から血が迸った。
 背後に居たメアリーの笑顔に血の線が走る。ペチャリ、と粘り気のある音を残して顔に張り付いた。男の体にも右脇腹から真っ直ぐに線が伸び、剣を振りぬいた体勢のまま上半身が二つに別れ、地面に落ちて水飛沫を上げた。

「ザンガーぁぁぁぁっ!!」

 トモキの背後からもう一人の男がトモキに躍りかかった。だがトモキは、男の声が聞こえていないのか、笑顔のまま固まったメアリーから眼を離さない。
 剣がトモキの背に落ちる。如何にトモキの動きが早かろうと避けることは不可。同僚を殺された男はその仇を取るため、渾身の力で剣を振り下ろした。
 しかし、剣はトモキの背の上で止まった。

「なっ……!?」

 何かに当たった感触は無かった。だが、止まった。不可思議な現象に慄き、それでも直ぐに気を取り直して体勢を立て直そうとする。
 男の体は、しかし動かない。トモキの背に振り下ろした姿勢のまま剣を振り抜くことも振り上げることも、何よりその場から動くどころか指一本動かすことが出来なかった。
 剣の下からトモキがゆっくりと動き、初めて振り返った。

「許さない」

 静かな声でその一言だけを男に投げつける。剣を構えるでも無く、気怠そうな立ち振舞でトモキは男を見下ろした。
 男は恐怖した。自分よりもずっと年下で、背丈も小さいトモキが遥かに大きく見えた。
 全身に力を込め、不可視の拘束から逃れようとする。だがどれだけ力を入れ、抜け出そうとしても蟻の体躯程にも動かない。その様子を赤い前髪の奥から覗く、冷たい視線でトモキは眺めてくる。男は動かない体が恐怖で震えた様な気がした。
 トモキは呟くように宣告した。

捻れろ・・・

 瞬間、男の体が言葉通りに捻れた。まず最初に左腕が、次に剣を持った右腕が不可解な方向へ捻れていく。

「ひ……あ……」

 男は眼を疑った。不可解な現象。ブチブチと皮膚が、肉が裂け血が溢れ出す。
 そして両腕が千切れ飛んだ。

「ぎゃああああああああああああああああっっっ!!」

 男は悲鳴を上げた。例えようのない激痛とあり得ない光景。何が自分の身に起きているのか分からない。だが眼の前の少年が何かをしたのは確かで、自分は彼に殺されようとしている。

「ご、ごめ、んなさい……! 助け……」

 涙を流しながら命乞いを口にし、だが言い終わる前に男の首が勝手に百八十度後ろに回転し、首が捩じ切られた。
 頭を失った男の体は血飛沫を上げ、雨に混ざってトモキの頭を更に赤く染めながら倒れた。それを冷徹な眼差しで見届けたトモキは、転がった頭の所に歩いて行く。
 恐怖を宿したままの、顔。トモキの眼に強い感情が灯り、歯が食いしばられる。
 トモキは頭を踏み潰した。脳漿が散らばり、飛び出した眼球がただの球体と化した。いつしかトモキは荒く息をしており、原型を留めていない、ただの物となったそれを憤怒の眼で見下ろすと踵を返した。
 仮面の様に口元は笑みを浮かべ、しかし眼は恐怖で見開いて地面に座り込んだメアリーの横を抜け、トモキは磔にされたセツの所へ歩いて行った。
 白い、小さな掌に突き刺された聖鋲を引き抜く。
 セツの冷たい体がトモキの腕に抱かれた。手足や頭からは血を流し、剣を突き刺された胸は致命傷だ。眼は閉じられ、可愛らしい顔にも幾つかの痣が出来ている事から嬲られた事が分かる。頭から流れる雨に紛れて、トモキは泣いた。地面に膝を突き、血が溢れる彼女の胸に顔を押し当てて泣いた。
 その中でトモキは雨音に混じるセツの鼓動を聞き取った。だがそれは非常に心もとなく、今にも、後数秒、或いは数分で生の躍動を止めてしまうように思えた。刻一刻と失われていく温もりが、トモキには耐え難い苦痛であり頭がおかしくなりそうだった。

「セツ……」
「ト…モキ……」

 トモキの声にセツが反応して眼を開ける。薄っすらとしか開かず、焦点がぼやけているのかその瞳は揺れ動いているが、それでも何とかトモキの顔をとらえた様でセツは薄く笑みを浮かべた。

「セツ……!」
「なん、ちゅう……顔を……しとるんじゃ……男前が……台無し、じゃぞ……」
「……ごめん。間に合わなくて……!」
「何を……謝る、ことがある……最期、に……こう、して帰ってきて、くれたんじゃ……。妾は……嬉しいぞ……」

 セツは激しく咳き込んだ。血の塊が大量に吐き出されて抱きかかえたトモキの手を赤く染め、しかし激しく降りしきる雨が瞬く間に洗い流してしまう。

「喋らないで……! お願いだから……」
「よい……。どう、せ……いつかは、こうな、るのが……分かっておった……。そ、れに……お主とは……まだ、まだ話し、たい事が……いっぱい、あ、る、のじゃ……」

 大儀そうにセツは息を吸った。喉から、掠れた音がした。

「のう、トモ、キ……お主……にはずいぶん、と世話になった……」
「そんな……僕の方こそお世話になりっぱなしで……まだ、何も返せていません……」
「そんな事は、ない、ぞ……」嬉しそうにセツは笑う。「お主と過ご、す時間は……何物に……も代え難い、もの、じゃった……。妾、の好物……のハジの実、を採って……くれた時は、ほん、とうに嬉し……かった……ぞ」
「だって……セツがあんなに美味しそうに食べるから……だから……セツに喜んで貰いたくて……」
「ああ……あの時、は……特に美味かった……。まさに極上、の味じゃったぞ……。何せ、お主……の気持ちがこもって、おったからの」ふぅ、と大きく息を、血とともに吐き出す。「のう、トモキ……覚えて、おるか……? 崖から……落ちた時に妾が……伝え、た言葉を……」

 トモキは涙で濡れた顔で小さく頷いた。それを見てセツは満足そうに頷いた。

「自分の命を……粗末にするな……」
「そう、じゃ……お主はまだ、若い……。多くの苦、難が降りかかって……くるやも、しれん……。じゃが……同じ、くらい……幸せも、舞い……降りてくるん、じゃ……。妾の様、にの……。」セツは微笑んだ。「じゃから……何が、あろうと、生き……るんじゃ。お主……は決して、独りで、は、ない……から」
「うん……うん、分かったよ……!」
「しかし……妾が先に……約束を破って、しまった、の……。お主を……独りにさせ、て、しまう……」
「そんな事、ない……! 僕は独りじゃ、ない……だって、セツが一緒に居てくれるから……いつだって、これからもずっと一緒に居てくれるから……だからセツも独りじゃないよ……」
「そうか……そう、じゃ、の……」

 セツの腕が動いた。何かを探すように宙を彷徨い、トモキの頬に触れると嬉しそうに笑った。

「おお、そこに……居ったか……。すまぬ、良く見え、んでの……もう、少し……妾に寄って……くれんか……?」

 吐息が掛かる程にトモキは顔をセツの傍に寄せた。セツは両腕を必死でトモキに向かって伸ばし、頬にそっと触れ、優しく撫でた。

「トモキは……暖かい、の……」

 掌が、離れた。
 セツの腕は力無く地面に落ち、それきり動かなくなった。だが、その顔には満足そうな笑顔が浮かんでいた。
 トモキはセツの体を思い切り抱きしめた。優しく、しかし力強く。何処にも行かないと、常に一緒だと眼を閉じたままのセツに伝える様にその体を抱きしめた。
 堪え切れない嗚咽がトモキの口から溢れる。止めどない涙が零れ落ちて止まらない。冷たくなったセツの体が堪らなく暖かくて、それが悲しくて震えが止まらない。
 トモキは濡れた双眸を笑顔を浮かべたセツに向けた。優しく微笑み、トモキはセツの小さな唇にそっと口付けた。初めてのキスは、とても悲しい記憶となった。

「ありがとう、ございました、セツ……」

 軽い体を持ち上げ、これ以上冷たい雨に打たれないように、大きく枝葉を広げた近くの大樹の幹の下に座らせた。丁寧な仕草で座っていて、そうしているとまるで生きているようだ。

「ちょっと待っててね」

 しゃがみこむと優しく笑ってそう告げ、トモキはセツに背を向け、一変して表情のごっそりと抜け落ちた顔を座り込んだままのメアリーに向けた。

「ねえ」
「ひっ!」

 トモキが声を掛けると、呆然と座り込んでいたメアリーは悲鳴を上げて振り返った。
 一歩、トモキが踏み出すとメアリーは張り付いた笑顔のままひどく怯え、尻もちを突いた状態のまま泥の上を後退る。

「教えてくれないかな?」
「ひ、あ……」
「どうして……セツは死なないといけなかったのかな?」

 口調は優しく、声色は冷たく。童子がささやかな疑問を口にするように、だが既知の回答を待ち望んでいる様にトモキは尋ねる。

「か、神がわ、わたく、しにお告げにな、なったのです。世、世が乱れているのは、あ、亜人達のせ、せいだと。元の、元のお、穏やかな世界を取り戻す為には世を乱している亜人達を、せ、殲滅せよ、と主は、わたくしにつ、伝えてくださいま、した」
「つまり、セツを殺したのは神様がそうしろって言ったから?」
「そ、そうです。だか、だから神に仕えるわた、わたくしは主のみ、御心のままに尽くすのです。慈悲と慈愛を苦しむひ、人々に与えなければならないのです。皆様がえ、笑顔です、過ごすためには、ひ、必要なこ、事なのですよ」
「ふぅん……そうなんだ」
「そ、その証拠に、主は、ただの娘であったわたくし、にち、力をあ、与えてくださ、いました。わたくしは、主に守、られているのです。だ、だかだからあ、貴方が幾らわたく、しに仇なそうと、こ、殺す事は出来ません」

 ならば、どうしてそこまで怯えているのか。滑稽な聖女の姿にトモキは嘲笑を浮かべると共に憐憫さえ覚えた。

「なら僕を殺せよ」
「――え?」
「神様とやらに力を貰ったんだろ? ならその力で僕を殺してみろよ。アンタの言う通りなら神様だってそれを望んでるよ。ここから一歩も動かないで待ってやるからさ」

 そう言われ、メアリーは恐怖の中に芽生えた戸惑いを覚えた。しかしこれは好機である。頭の中で囁かれる声に導かれるがままに彼女は立ち上がり、詠唱を口にした。

「わ、私が命じます。この地にす、住まう光の聖霊よ……」

 トモキから離れ、恐怖のせいで平時に比べて遥かに辿々しい様子でメアリーが詠唱を口ずさむ。とても戦闘では使えない様な有り様だが、宣言通りトモキは黙って彼女が呪文を唱えるのを眺めるだけだ。一歩たりとも動かず、剣を構える様子も無い。
 やがてメアリーを中心として魔素が高まっていく。暗くなっている辺りを照らす様に魔法陣が展開され、集った魔素が高度に濃縮されていく。

「……へ、『神々の怒りヘヴンズ・ジャッジっっ!!』」

 震える声で魔術名を叫び、メアリーは腕を縦に振り下ろした。同時に空から黄金の雷がトモキ目掛けて降り注いだ。
 激しい閃光が眼を焼く。付近の色合いを黒から一気に白へと変える程の強烈な光が立ち込め、雷が衝突した際の莫大なエネルギーは雨で濡れた周囲の水気を一瞬で蒸発させる。
 解き放たれたエネルギーは暴風となって吹き荒び、術者であるメアリーにも容赦無く襲いかかった。体勢を崩し、再び尻もちを突く。眼を閉じて暴風に耐え、彼女がそっと眼を開いた時には白煙が立ち込めていた。残るは静寂ばかりだった。

「ほ、ほら御覧なさい! 主を、神を侮るからこの様な事になるのです!」

 放たれた魔術の威力は、到底人の身で耐えられるものではない。故に彼女はトモキを、神を侮る不届き者を焼いてやったと確信し、恍惚とした笑みを浮かべて高らかに嘯いた。

「この程度、か……」

 だが聞こえてきた声で一瞬にして凍りつく。
 風が吹き荒び、立ち込めていた白煙が瞬く間に流される。そこには全くの無傷でトモキが立っていた。

「あ……う、そ……」
「神が、亜人達を殺せと言った。さっきそう言ったよね?」

 恐慌している彼女は答えない。だが構わずトモキは彼女に近づいた。

「なら、僕も宣言するよ」

 剣を空に掲げた。
 メアリーは変わらぬ笑みで、しかし両目から涙を流しながらその姿を見つめた。

「もし本当に教会がセツを殺せと言ったのなら――」

 その先をトモキは睨みつけた。

「――僕は魔王になってやる神を殺す

 剣を、振り下ろした。
 直前、彼女は泣き笑いしながら何事かを呟いた。

「     」



 剣先から血が滴り落ちている。その色は真っ赤だ。笑顔のまま倒れる聖女から流れる血も、首を捩じ切った男から流れる血も、胴を真っ二つに割いた男から流れる血も、セツから流れる血も、そしてトモキの中を流れる血も、全てが同じ赤だ。そこに違いは無い。
 苦しそうにトモキは空を仰いだ。虚ろな瞳で見つめる視線の先に居るのは、果たして何色の血が流れているのだろうか。
 身を苛む空虚さに怠さを感じ、トモキはただ聖女だった亡骸を見下ろした。
 その時だった。

「メアリーっ!!」

 一人の青年が聖女の名を叫んだ。白銀の鎧に身を包み、臙脂のマントを纏った彼は呼吸に肩を上下させながら彼女の姿を探す。そして、トモキの足元に横たわるメアリーの姿を認めた。

「……うおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉっ!!」

 雄叫びを上げながら勇者はトモキに襲い掛かった。その身に宿る膂力を怒りで増幅させ、恐ろしい速度でトモキに肉薄。鮮やかに輝く剣でトモキを斬り裂かんと振りぬいた。
 しかしトモキは慌てる事無く落ち着いて跳躍。後ろに退いて距離を取った。鋭い斬撃が空を斬る。
 追撃にトモキは備える。だが勇者からの攻撃は止み、彼は亡骸となった聖女の体を抱き起こしていた。

「メアリィっ……!」

 悲痛な声で名前を呼ぶ。だが当然彼女からの返事は無い。周囲を見渡せば護衛として付いていたザンガー、エドモンドの二人も無残に損壊した遺体となっている。
 勇者は物言わぬ骸となった彼女に縋りつく様に顔を押し付け、泣き声が漏れていく。それを聞いてトモキは、彼と彼女の関係を察した。

「――神代君」
「久遠……っ!!」

 赤く腫れ、泣き濡れた双眸を憎しみに変え、勇者――神代ユウヤは、メアリー最愛の人を殺害したであろうトモキを射抜いた。

「……久し振りだね。やっぱり神代君もこっちに飛ばされていたんだ。無事だったみたいで何より」
「お前がメアリーを……っ?」
「……うん、そうだよ。彼女も、それからそこに転がっている二人もね」

 問われ、トモキは誤魔化す事無く正直に答えた。
 途端、メアリーの傍らからユウヤの姿が消え、次の瞬間には彼の拳がトモキの頬にめり込んでいた。
 殴り飛ばされたトモキは、森の中へ吹き飛ばされていく。茂みの小さな枝をへし折りながら十数メートルに渡って転がっていく。だがトモキは頬を擦りながら起き上がると何事も無かったかのように歩いて元の場所に戻ってくる。

「やっぱり、痛いなぁ……」
「お前はっ……お前だけは絶対に許さないっ……!!」

 ユウヤの身を焦がしているのは憎しみだ。召喚されてから常に共に行動してきたメアリーとの記憶が憎しみの炎にべられ、耐え難い衝動としてユウヤを駆り立てる。
 憎悪の視線を向けられ、しかしトモキは薄く、泣き笑いを浮かべた。

「うん、いいよ。僕も――許すつもりなんてないからさ」

 一歩目はどちらからだったか。互いに地面が砕ける程の強い踏み込みで互いに駆け寄り、剣をぶつけ合う。
 剣同士がぶつかり合う金属音が夜の帳が落ち始めた山に響く。黒い線と赤い線が何度もぶつかり、その度に地面が砕け、森の木々が切り落とされていく。
 相手が振り下ろせば一方は下から振り上げる。横薙ぎにすれば逆から横薙ぎに。鋭い突きが射抜こうとすれば受け流し、返す刀で相手の首を切り落さんとする。
 幾合切合わせただろうか。雨は降り止まず、益々その勢いを増していく。
 やがて鍔迫り合いとなって二人の動きが静止した。

「どうして彼女を、メアリーを殺したっ……!? 以前のお前は誰かを傷つける様な奴じゃなかったのに……!」
「へえ、殆ど話した事なかったのに良く見てるね」

 互いに隙を伺いながらもユウヤは言葉を絞りだす。歯を食い縛り、呈される疑問に対し、トモキは感嘆してみせる。

「確かに僕は恐れてた。誰かを傷つける事を怖がってたよ。
 僕はね、小さい頃から異常に力が強かった」当時を懐かしむ様にトモキは眼を細めた。「幼稚園児なのに簡単に意思を指先で押し潰したり、魔術も使えないのに小学生の時には簡単に家を飛び越したりできたんだ。異常だよね? 今なら僕でもそう思うけど、当時はそんな事考えもしなかった。上手く制御できてたつもりだったし、自慢でもあったんだ。僕はこんな事が出来るんだって。
 だけどある日、親友と呼べる友達を僕は――殺しかけてしまった。ちょっとした喧嘩だったんだけど、つい本気で掴みかかってしまったんだ。それでも僕としては少し力を込めたぐらいだったんだけどね。そんなわけでずっと忘れてたけれど、それ以来僕は僕を恐れて力を手放して、誰かと争う事を止めた。誰かの言いなりになって、いつの間にか全てを忘れてそんな生活が当たり前になってしまった」
「そんなお前が何故っ……」
「今の神代君と同じだよ」

 少しトモキは力を込めてユウヤを押し返した。ユウヤがバランスを崩し、出来たその隙を突いて左拳をユウヤの胸元に叩きつける。それだけでユウヤの体は地面と平行に吹き飛び、押し潰された肺は呼吸を妨げる。
 しかしユウヤは脚を押し付けて勢いを殺し、意志の力で持って強引に地面を蹴る。そして再びトモキに斬りかかった。

「俺と同じだと!?」
「そう。神代君はあの女の人を殺されて僕が憎い。そして僕は、彼女達にセツを殺されて憎かったから、だから殺した」
「セツ――あの女の子か!?」

 樹の下でトモキ達を見守るかのように座らされている、血に濡れた幼女の姿をユウヤは見た。

「あの子は吸血種だぞ!」
「そんなの、関係ないよ」

 ユウヤの目の前からトモキの姿が消えた。そして背中に衝撃。頭上からのトモキの蹴りが突き刺さり、ユウヤの体は激しく地面に叩きつけられた。

「がはっ!」
「僕は――彼女を愛していた」

 立派なマントが泥に汚れ、臙脂色高貴の証が茶色に染まった。

「彼女はこの世界でやっと見つけた僕の『家』だったのに、君らが奪った。独り善がりのくだらない理由で」
「彼女を……侮辱するなぁっ!!」

 ユウヤは泥を握りしめ、トモキの顔目掛けて投げつけた。左頬から目元に掛けて泥が覆い、一瞬トモキの視界を半分だけ奪った。
 ユウヤは体勢を立て直すために一度トモキから離れた。その間際にトモキの足目掛けて足払いをし、トモキの体が宙に浮く。トモキは直ぐ様反応し、片手を突いて後転して体勢を整えた。その間にユウヤは飛び上がり、頭上からトモキを見据えた。

「彼女は……与えられた役目を忠実にこなそうとした! 実際、多くの人が彼女に勇気づけられ、生きる気力を取り戻してきた! 戦いで挫けてしまった人達を、再び立ち上がらせてきたんだ!!」

 魔素が励起し、ユウヤとトモキの間に魔法陣が展開される。

「だけどその中には人間以外は入ってない」
「多くの人が亜人に苦しめられている現状を見ていないからお前はそんな事を言えるんだよっ!! ……『アイシクル・ブリザード』!」

 詠唱を破棄した熱・空間複合魔術がトモキを襲う。弾丸の様な氷の刃が無数に出現し、降りしきる雨を凍りつかせながら渦を巻いて吹き荒ぶ。
 トモキは一旦後ろに跳躍し、魔術の範囲外へ避難した。そして範囲ギリギリ外側を巻くようにしてユウヤに接近していく。

「じゃあ神代君はどれだけ獣人達が人間を憎んでいるかを見てきたのかよ!」
「彼女が俺を救ってくれた! こんな世界の戦いに、善も悪も無い! なれば俺は、俺が力を貸したい思った方に付く!!」

 ユウヤは詠唱を破棄した『浮遊魔術ウィンディア』にてトモキを引き離しに掛かる。

「俺達は神じゃない! 誰も彼も助けるなんて出来やしない! 現に俺はメアリーを救えなかった……。教会の思想に侵されていた彼女を……助ける事が出来なかった……! それでも俺は助けたかったっ! だけど、選ばなければならないのならば、俺は助けたい側に付く!! 彼女が救いたかった人間側に! これまでも、これからも、だっ!!」
「……僕には分からない!」

 トモキはユウヤを追いかけ跳んだ。その最中、トモキの胸中に去来する想い。
 虐げられた元の世界。この世界に来て初めて騙された人は人間だった。そして助けてくれたのも人間だった。
 人としての優しさを思い出させてくれたのは獣人だった。その獣人を殺したのもまた獣人だった。
 愛してくれたのは亜人だった。大切な、大切な亜人だった。彼女はもう、この世には居ない。
 果たして、何が違うのか。人間と亜人で何が違うのか。

「僕には分からない……」
「エゴ・スペラ・エオ・ヴュッセル・ウム・ゲル……」

 詠唱がユウヤの口から紡がれる。これまでで最大量の魔素が集まっていき、励起されて熱を帯びていく。描かれていく魔法陣の発光が強くなり、幾本もの巨大な氷杭が形作られていく。鋭い刃が刻まれ、それでもトモキは臆する事無くその光目掛けて突っ込んでいく。

「何も違わない……!」

 誰もが優しくて、誰もが冷たい。誰もが悪になり、誰もが善になる。人間と亜人で、そこに区別は無い。
 そこに区別があるというのなら。

「そんなものを神が作ったというのなら――」
「『フリィィズ・ブラァストォォォ』っっっ!!!」

 氷の杭が一斉にトモキに向かって高速で射出された。放たれるや否や、直ぐ様内部から爆発したように杭が弾け、夥しい数の小さな氷の刃がトモキの行く手に立ち塞がった。ホーミングミサイルの様に高速で四方へ展開し、上下前後左右全てからトモキ目掛けていく。
 だがトモキの「眼」は全てを捉えていた。演算が無意識下で高速で行われ、トモキにだけ・・見える魔法陣が展開。周囲の空気を超高密度で圧縮し、解放。空気は暴力的な不可視の刃となって全ての氷の弾丸を砕いていく。

「僕が――」
「なっ……! 魔術だと……!?」

 更に突風はトモキの背を押し、驚愕に染まるユウヤの眼前に一瞬で肉薄する。
 トモキは剣を振り上げた。

壊してやる反逆するっ!!!」
「ぐああああぁぁぁっ!!」

 振り下ろした刃はユウヤを斬り裂く。左目から右脇に掛けて鎧をもろともせずに鋭く傷つけ、血が噴き出る。
 しかし、浅い。

「くっ……『マジカル・クラウド』!」

 ユウヤはとっさの判断で自分とトモキの間で雲を発生させた。トモキの視界を奪い、ユウヤ自身も上手く着地できずに背中を強かに打ち付けた。呼吸が一瞬止まり、しかしそれでもユウヤは痛みを堪えてすぐに起き上がるとメアリーの所へ駆け寄り、その亡骸を抱え上げると村の方へと逃走を始めた。

「久遠っ!!」

 ユウヤは雲の向こうにいるであろうトモキに向かって声を張り上げた。

「お前は絶対に俺が殺す! 何処へ逃げようとも、何年、何十年掛かろうと絶対に殺してやる!」

 負け惜しみに聞こえる事は承知の上だった。事実、ユウヤはトモキに敗北したのだ。腕の中で動かないままのメアリーの重みに、仇を取ってやれなかった悔しさにユウヤは歯噛みする。腸が煮えくり返る思いだ。それでもユウヤはこの場は敗走を選んだ。体勢を立て直し、もう一度自らを鍛えあげてトモキをこの剣が貫くために。

「だから死ぬな! 絶対に俺以外に殺される事は許さんからなっ!!」

 「死ぬな」。奇しくもそれはセツがトモキに残したものと同じ言葉。トモキは雲の向こうからユウヤのセリフをただ黙って聞いていた。
 やがてユウヤの姿がトモキが知覚出来る範囲から外れる。纏わり付いていた雲をトモキは剣を横に一振りすることで吹き飛ばし、また見慣れた景色が戻ってきた。しかし全く同じ景色は、セツが居ない以上もう二度と戻らない。

「絶対……死ぬもんか……」

 そう呟くと同時にトモキは膝から崩れ落ちた。剣を地面に突き刺し、それを支えとして何とか堪える。
 項垂れた視線の先に赤い雫が二、三滴落ちた。トモキが鼻に手を遣ると、その指先に真っ赤な血が付いた。酷い頭痛が襲い、トモキは顔を顰めた。
 トモキは仰向けになる。大の字になって黒い空を見上げ、その顔を雨は容赦無く打ち据える。だが風の流れを感じ取る限り、もう数時間もすれば雨は止むだろうと思った。
 眼を閉じて大きく息を吸い、吐き出す。胸が大きく上下し、トモキは瞼を半分だけ開いた。

「……疲れたな」







 夜が二つ明け、トモキは山奥の家を出た。背嚢に食料を詰め込み、余ったスペースにはセツが普段着ていた真っ白な着物を丁寧に畳んで入れた。布団の枕元にあった、一昨晩に描いた絵を一枚だけ折ってポケットに押し込み、もう一枚は家の壁に貼り付けてきた。
 セツの遺体はシオの隣に埋めた。二人は直接会った事は無いが、セツの事だ。きっと大切に可愛がってくれるに違いない。彼女の傍に入ればシオも安心して眠れるだろう。夜中に穴を掘りながらトモキはそう願った。
 すっかり草臥れた魔技高の黒い制服と頑丈なブーツに身を包んで山道を降りる。
 トモキはシエナ村へ向かった。門には誰も居らず、しかし目抜き通りは先日と比べると幾分活気が戻っていたようだった。少なくとも、道を歩く人達の顔に暗さは無い。

「ジョセフさん」

 トモキは肉屋へと脚を運ぶと大将の名前を呼んだ。奥で解体作業をしていたらしいジョセフは、大きないつもの肉切り包丁を手に現れ、トモキの姿を認めて破顔した。

「おう、トモキ! 聞いてくれよ! こないだオメェに貰った薬を飲んだらよ、ウチのカカァが見る見る内に元気になったぜ!」
「それは良かったです。今はどちらへ?」
「ああ、寝込みっぱなしだったからな。念のためまだ奥の部屋で休ませてるがよ、まあもう心配はいらなさそうだ」
「アンタっ!! 客とお喋りもいいけど、しっかり商売もするんだよっ!?」

 ジョセフの妻だろう女性のビリビリとした怒鳴り声が響き、思わず二人して身を竦めた。そして互いに顔を見合って小さく笑う。

「……な?」
「……みたいですね」

 二人して苦笑いをしながら頷き合い、そこでトモキは「そうだ」と背中の荷物を下ろすと、大きな袋を取り出してジョセフに差し出した。

「なんだ、こりゃ?」
「薬です。セツが最期に作ってたのも合わせて保管されてたのを集めて持ってきましたから、村の人に配ってあげて下さい」
「おいおい最期って……まさか、セツ様は……!」

 ジョセフは言葉を失い、トモキは曖昧に、だが悲しそうに笑った。
 沈痛な面持ちで空を仰ぎ、大きな手で顔を覆うジョセフ。しばらく言葉も無く目元を隠していたが、不意に大きく息を吐き出すとトモキの手から袋を受け取った。

「……悲しいが仕方ねぇ。俺の親父とお袋が若ぇ時から世話になってたって言うもんな。いつか人は死んじまうもんだ。
 分かった。この薬は俺が責任を持って村の連中に配ってやるよ。
 ところでトモキ、おめぇはどうすんだ? 荷物を見りゃ……村を離れるんだろうが、何処に行くんだ?」
「そうですね……」店先で吹く暖かい風を感じとり、トモキは言った。「暑い季節が近いみたいですし、北の方に行ってみようかと思います」
「当てはねぇのか?」
「元々根無し草なので。あ、でもセツの家を故郷だと思ってますから、いつかこの村にも戻ってきますよ」

 笑いながらそう告げると、トモキはジョセフに「薬、お願いしますね」ともう一度頭を下げてその場を辞した。それにジョセフも「おう、任せとけ!」と気前よく応じてやる。
 トモキの姿がジョセフから見えなくなり、小さく息を吐き出すとジョセフは自分の顔ほどもあるサイズの袋を掲げてみた。

「当分は何とかなるだろうけどなぁ……こりゃあこれからは今まで以上に体にゃ気を遣ってやんなきゃなぁ」
「た、大変だぁ!!」

 村の奥の方から一人の青年が騒ぎながら大通りの方へ向かって走ってくる。ヨハンだ。血相を変えて、ひどく狼狽えた様子に胸騒ぎを覚えながらもジョセフは彼を呼び止めた。

「よう、ヨハン。んなに慌ててどうしたよ?」
「たたた大変なんだよ、ジョセフのおっさん!! 大変なんだ!」
「はいはい。大変なんは分かったからよ。一体何が大変なんだ?」
「ふぇ、フェデリコさんが……フェデリコさんが……!!」





 村を出たトモキは、ジョセフに告げたように北へ独り向かった。
 何処へ行くにもアテの無い旅。セツの家に住み続けることも頭を過ったが、今のトモキにはあの家に居続けることは辛すぎた。
 人目を避け、街道を外れて木々生い茂る森や山の中を歩き続ける。食料を節約するため一度の食事の量を減らし、空腹に苛まれる毎日だったが、おいそれと町に入れないトモキではやがて食料は底を着く。
 落ちていく体力。時折朦朧とする意識。途中で見つけた山菜や木の実を食べて飢えを凌ぎながら旅を続ける。頬は痩け、まるで光を求めて彷徨う屍人グールの様になりながらもトモキは脚を止めない。いつか、自分にとっての希望に出会うことを信じて。

「……お前が久遠トモキで間違いないな?」

 途中で指名手配されているトモキを見つけ、冒険者や傭兵、賞金稼ぎがトモキに襲いかかるが、ふらふらながらもその全てを撃破し、進んでいく。しかし、その戦いの度にトモキの体力は消費され、満足に動かない体は傷を少しずつ増やしていく。


 そして――


「あ――」

 雨が降り続く中、トモキは道に倒れ伏した。必死に剣を地面に差して起き上がろうとするが、最早限界を等に超えていた。真っ直ぐに剣を立てることすら敵わず、前に進もうと藻掻く指先は虚しく泥をその場で掻くだけだ。
 すでに夜の帳が落ちようとしている頃合い。何処をどう歩いたのか記憶に無いが、どうやら町に近いだろうことは分かった。僅かに上がった顔の先には、煌々とした人家の明かりが幾つも灯っているのが見えた。しかし、距離はまだそれなりにあり、またトモキが自力でこれ以上先に進むことは出来そうも無かった。

「死ぬな、か――」

 頭の中で反響するセツの声。それを受けてトモキはもう一度立ち上がろうとする。せめて、あの町までは辿り着きたい、と。
 だがその意志に反して体は動かない。半ばまで立ち上がったが、すぐに為す術なく水溜りの中に身を沈めてしまう。

「……ごめん、もう無理かもしれない」

 水溜りに、真っ赤な髪をした男の姿が微かに映った。泥に塗れ、ガリガリに痩せ細った酷い顔だ。トモキの口から思わず自嘲する笑いが零れた。それを最後に瞼が閉じていく。
 暗くなっていく視界。叩かれる雨に混じって涙が滲んだ。
 瞼が完全に閉じきろうとした、その瞬間、声が聞こえた。

「……ンだよ、行き倒れかぁ?」

 やや喉が枯れた様な低い、女性の声が聞こえた。最後の力を振り絞ってトモキは瞼を開くと、長袖の白っぽいシャツを捲り上げた女性がしゃがみこんでトモキの顔を覗きこんでいた。

「ちょっと! いきなり走りださないでって……あら、どうしたの、そんなとこでしゃがみこんで? ……大変! 酷い怪我してるじゃない!」

 そして別の女性の声。

「もしもーし、お前、生きてっか?」
「ちょっと! 怪我人をペシペシ叩くの止めなさいっての!」
「へいへい」

 薄暗い中でもはっきりと分かるくらいに真っ赤な髪。それを見て、トモキは不思議と安心感を感じていた。

(僕と……同じ髪……)

 胸を満たしていく安らぎ。嬉しさが心に灯り、穏やかな表情を浮かべるとそのままトモキは眠りに就いた。

「あーらら、死んじまったか?」
「んなわけ無いでしょうが! ほら、さっさと家に運ぶわよ!!」
「って! 分かった、分かったから人の頭をさっきからパカパカ叩くなよ、ミーナ!」
「アンタがバカな事ばっかり言うからでしょ!」

 頭を擦りながら赤髪の女性は、ぶつぶつと不平を漏らしながらも細い腕でトモキの体を掴むと容易く持ち上げて肩へと担ぎあげた。

「しゃーねぇ。んじゃちょっくら家まで運んでくっから、ミーナはドクターを呼んできてくれ」
「オッケー! じゃあ頼んだわよ――ミサト!」

 息の合ったやり取りを交わすと二人の女性は町に向かって走りだした。
 その肩の上で、トモキは寝息を立てる。まるで、セツの胸に抱かれて泣いた時の様な暖かさに涙しながら。






To be Continued...












前へ戻る

目次







カテゴリ別オンライン小説ランキング

面白ければクリックお願いします







SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送