――二〇一五年五月七日
――午後十時くらい
――つまりは、窓から飛び降りた陽芽の姿を見送ってから約十時間後
今、俺は人生最大の危機に瀕している。
俺は自分の部屋に入るなり立ち竦まざるを得なかった。繰り返す。もしかしたら人生で最も危機的状況に陥っているかもしれないと言っていいかもしれない。いや、それは流石に言い過ぎかもしれないが、少なくともかなりのレベルの危機にあるのは間違いない。
窓の外を呆然と見ているしかできない。或いは、窓の外のある一点にしか目が吸い付けられて離す事が出来ないと言う方が適切だろうか。俺の口はパクパクと、まるで酸素の不足した金魚鉢の金魚みたいに上下して、何かを人間らしく伝えることも出来ずに無駄に酸素を消費するだけだ。それだけ俺は追い詰められていた。
恐らく今、俺の顔は赤鬼もびっくりなほどに真っ赤になっているに違いない。
何を言えば良いか全く分からない程に頭はその役割を放棄し尽くしてしまっているが、不思議なことに全身の血液達が意思を持っているかの如く顔中に集まってきているのだけは自覚できている。自覚していると自覚した途端に、少しだけ思考回路が再接続されたらしく、頭のリソースに僅かながらに余裕ができたらしい。
我が喉サマは活動を完全に放棄していらっしゃるので心の中で俺は叫んだ。
――神様、俺、何か悪い事しましたか?
そんな事をしたところで何ら状況が改善されるはずもなく、脳内じゃ長髪の髭を生やしたどっかの仏様と現世にバカンスしてらっしゃる兄ちゃんがサムズアップしやがる有り様だ。そんな幻想を目撃するくらいには俺は今、混乱している。
全く以て謎だ。どうしてこういう状況になってしまったのか。
何度瞬きしてみても俺の眼は一点だけを凝視していた。
窓の向こう側には――全裸でこっちを見て固まっている女の子の姿しか見えなかった。
――時間はさかのぼり、同日午後九時三十分頃
「ふぁ……」
すっかり暗くなって人通りの無い住宅街の路地を歩いていると、眠気には勝てずに自然と欠伸が出てきた。辺りには判で押したように同じ作りの家が並んでいて、どの家からも窓から一家団欒の明かりが漏れてきている。
静かな通りには物陰も無く、車も思い出した頃に俺の横を通りすぎていくだけだ。等間隔に並んだ街灯から疲労した眼には厳しい光が振ってきて、俺は微かに眼を閉じた。そうしてこころばかりに我が眼を労りながら黙って歩いていると、やはり他の家と同じ様な作りの我が家が俺を出迎えてくれた。
アメリカから帰国して一ヶ月、そしてオーナーに頼み込んで雇って貰った喫茶店でバイトを初めて一週間になるが、中々慣れないというのが正直なところだ。
仕事にはもうすっかり慣れたつもりではいたんだが、生徒会の一件が俺の中で尾を引いてたんか、それとも単に学校帰りのバイトが初めてで自分でも気づかないうちに疲労が溜まってたんかは知らんが、オーダーをミスったりだとかコーヒーを零しちまったりだとか色々やらかしてしまった。なお、決してあの絶望的な自己紹介を思い出してしまったわけでは無い事を注記しておく。
オーナー兼マスターは良い人だから怒ったりせずに慰めてくれるんだが、逆にそれが俺には堪える。学生だから、と最初から諦めてるんだろうが、つまりはまだまともに叱る程の人間と見なされてないんだと思うとかなりヘコむな。
任せられた仕事は全力で。そんな意気込みだけは立派ではあるんだが、気持ちだけあっても上手くいかないのは世の常。まあ精々明日からまた気を取り直すか。
そんな精神状態に引っ張られるからか、体はかなり重い。たいして中身の入ってないスッカスカの鞄でさえズシンと肩に重量感があるしな。疲れが溜まってんだろうか。
とはいえ、妹にそんな顔は見せる訳にはイカン。兄としてのプライドが許さんし、反対する妹を振り切ってバイトを始めたのも自分だしな。肉体疲労はともかく気持ちだけは明るくいかねば。アイツの心配顔なんて見たくないからな。
家のドアの前で景気良く顔を叩いて気合を一発込める。眼に力を込めていつも通りの兄を演出してやらねば。
「うーい、ただいま〜」
「はーい。おかえりなさーい」
玄関に入って声を掛けると、キッチンの方から明るい声が返ってくる。靴を脱ぎ散らかして台所に行けば、アメリカに居る時に染めた茶色の髪をツインテールにまとめた、今年から小学六年生になる愛しの妹である
「おかえり、お兄ちゃん。玄関の鍵は閉めた?」
「あ、ワリィ。閉めてねーや」
「もう! いつも帰ったらすぐ鍵掛けてチェーンしてって言ってるでしょ! 最近物騒なんだから!」
「へいへい。後で掛けとくよ」
最早いつもの事となった雅の小言を聞き流しながらリビングの二人掛けソファに鞄を放り投げ、疲れた体を投げ出すようにして座る。テレビを付ければ、代わり映えしないバラエティ番組の中で馬鹿みたいな笑い声が耳に入ってきて、けれどもそれを俺は面白いと思えなくてすぐに消した。
「雅、メシは?」
「夕飯? 先に食べちゃったよ。お兄ちゃんは?」
「俺はバイト先の余りモンを摘んできただけだかんな。出来れば軽く何か作ってくれよ」
「なにそれ、サラリーマンのおじさんみたい」
「うっせ。ちったぁ労働者を労りやがれ」
「はいはーい、ちょっと待ってて……ってお兄ちゃん! 家に上がる時は靴下脱いで上がってって昨日も言ったじゃない!」
「あー……そうだっけ?」
「『そうだっけ?』じゃないでしょ! お掃除するの結構大変なんだからね! それから帰ったら弁当箱をすぐに出す! 後は制服も皺になるからすぐに脱いでハンガーに掛けてよね!」
「分かった分かった。分かったからそんなに怒鳴んなよ」
「怒鳴られるような事をするお兄ちゃんが悪いんでしょ!」
雅に叱られて耳を塞ぎながら言い返すも、更なる小言が連鎖反応を起こして次から次へと俺に投げつけられてきた。こうなるともう何を言っても藪蛇だな。言い返せばきっと赤い彗星宜しく俺の三倍の速度で小言を捲し立てられるに違いない。まあ雅の言う事を聞いてない俺が悪いんだが。
「ほら! ご飯の準備しておくからお兄ちゃんはダラダラしてないで先にお風呂に入ってきて。着替えは籠の中に入れてあるから」
だが何のかんの言いながらコイツはキチンと家事をこなしてくれてるし、ズボラな俺の世話まで焼いてくれるんだから頭が上がらない。我ながら出来の良い妹を持ったもんだと思うんだが。
「これでもう少し気が強くなければなぁ……」
「お・に・い・ちゃ・ん!!」
「分かった分かったって。風呂入ってきまーす!」
まだ後ろでブーブー言ってる声が聞こえるが流石にそれは無視して風呂場へ向かう。昔は人見知りで俺の後ろにすぐ隠れてしまうような控えめな子だったはずなんだが、いつからあんなに気の強い子に育ってしまったのやら。服を脱ぎながらそんな事を思った。
だが、まあ。
「塞ぎ込んでるよりはマシ、か」
一月前は本当にひどい状態だったからな。メシも食わずに呆けて、時々思い出したかのように号泣する。頬も痩けて、まるで死人みたいな有り様だった事を思えば多少口うるさいくらいは余裕で許容範囲内だ。
「……っと」
脱衣所の籠の中を覗き込んでみれば、雅の言う通り俺の着替えが用意してくれていたんだが、よく見ればシャツは長袖が置かれていた。有り難いんだがもう五月だ。風呂上がりに長袖シャツだと少々暑いかもしれん。
「自分で取りに行くか」
さすがに準備してもらっといて文句を付けるわけにはいかんしな。文句言おうもんならそれこそしばらくメシを作ってくれんかもしれん。バイト帰りでそれは拷問だ。
下着の上にジャージだけを履いて二階の自分の部屋に俺は向かった。階段を昇り切ってすぐ右側が昔の、そして今の俺の部屋だ。欠伸をし、眼を擦りながら俺はいつもと同じようにドアを開け、着替えを取り出すために部屋の中心の照明の紐を下に引っ張った。
そう、俺はいつも通りに自分の部屋に入っただけだ。繰り返す。ここまでの俺の行為に何らやましいところは無いと強く主張する。ついでに言えば、バチを与えられる様な生き方は誓ってしていない……はず。
「あ」
だが――すぐ数メートル先には全裸の女の子が立っていた。
――そして時刻は冒頭に戻る
(どどどどどどうすりゃいいんだよっ……!)
風呂に入る前だというのにすっかり茹で上がった頭で考えるも、まあ当たり前だがまともなアイデアなんぞ思い浮かぶはずも無い。
熱でクラクラしながら口をパクパクとさせていたが、悲しいかな、俺の眼は、隣の家で俺と同じく顔を真赤にして某レトロゲームの頭だけのキャラクターよろしく口を開けたり閉じたりしている女の子の胸に釘付けになっていた。
(でかいな……!)
昼間の先輩の胸には及ばないだろうが、それでも中々のサイズだ。大事な所は肩に掛けられたタオルで隠れているが、その盛り上がり方でその豊かさが分かろうともいうものだ。うむ、やはりおっぱいはいいものだ。
(……ってちゃうわ!!)
ダメだ。明らかに混乱している。いいか、落ち着け、俺。冷静沈着に生きるんだ。紳士だ、紳士になれ。女性の胸を見て興奮するのはただの高校生だ。興奮を余裕という仮面を被って表に出さない奴こそ真なる紳士だ。
息を吸ってぇ、吐いてぇ。吸ってぇ、吸ってぇ、吐いてぇ。ひっひっふー。よし、落ち着いた。今の俺は最高にCOOLだ。
紳士らしく穏やかに笑顔を浮かべてみせる。恐らくは彼女もちょっと前の俺と同じく状況が理解出来ず頭の中は過去最大級にワニワニパニックのはずだ。
怯えさせないよう、にこやかにしながら彼女に向かって努めて明るく声を掛けた。
「やあ! 今日は……」
「きゃああああああああああああああああっっっっ!! チカァァァァンっっっ!!」
「濡れ衣を着せられたっっ!?」
これは事故である。全身全霊をもってしてそう否定したい。が、彼女はすでに部屋から飛び出している。俺の背中に戦慄が走った。
もしかしなくてもこのままでは俺は痴漢として連行されてしまうだろう。例え俺が全力で否定しようとも世間は男に冷たい。
せっかくなんやかんやあったが気のいい奴らと知り合えたんだ。いきなり退学なんぞにされてたまるか。
「くそっ!」
俺も慌てて部屋を飛び出す。
転げ落ちそうになりながら階段を一段飛ばしで飛び降りていく。
(なんとか誤解を解かねぇと……!)
「俺の娘の裸を覗いたのは誰だぁぁぁっ!!??」
「ってもっと怖い人がきたぁぁぁっ!?」
階段を降りるや否や、角刈りのオッサンが手にナタを持って叫んでいた。
オッサンは俺を見つけるとその強面の顔を怒り狂わせながら俺の顔を覗きこんできた。息がちょっと臭いです。そして暑苦しい。
「おぉぉまぁぁえぇぇかぁ……?」
地獄の閻魔もかくやと言わんばかりの形相で睨みつけるオッサン。近くで見ると尚一層迫力満点で正直生きた心地がしない。
……やばい。俺は今日ここで死ぬかもしれん。達者で暮らせな、雅。
「え、ええとですね……」
「あぁん?」
「み、見てないです……」
「……そうか、ならいい」
お、えらい剣幕でやって来たと思ったらあっさり引いたな。何にせよ俺の人生最大の危機は回避され――
「ちなみに娘の胸はどうだった?」
「すごく大きかったです」
「やっぱり見てんじゃねぇかぁぁぁぁぁっ!!!」
「ひぃぃぃぃぃぃっっ!?」
は、謀ったな、○ャアァァッ!!
「許さんっ! 隣にどんな輩が引っ越してきたかと思えばこのクソエロガキがあっ!」
「あだだだだだだだっ! 痛ぇっ! 痛ぇってオッサン!」
「そこになおれぇっ! この肉切り包丁の錆にしてくれるわっ!」
「オッサンが吊り上げてんだからなおれねぇっつうの! だいたいだな、俺だって見たくて見たわけじゃねぇっつうんだよ! てかオッサンも親なら風呂上がりに裸でうろちょろしてる娘を注意しろよ!」
「きさまぁ! 開き直るか!」
「事実を述べたまでだ! てかいつまで掴んでやがる!」
オッサンの気が逸れた一瞬の隙をついてオッサンの腕から逃げ出す。這う様にしながらオッサンの足元を通りすぎてリビングへ逃走を図るが――
「逃すかぁっ!」
「ぎゅえっ!」
俺の背中に馬乗りになって口からカエルが踏み潰された様な声が出る。何とか逃げ出そうともがきつつ体勢を入れ替えてみるが、俺より遥かに巨漢のオッサンの体はびくともしやがらねぇ。
と、ここでオッサンの顔を改めて間近で見て気づいた。
「あ、あれ?」
何だろうか。よくよく見てみればこのオッサン、どっかで会ったことがあるような……?
「ち、ようやく大人しくなったか。手こずらせやがって」 「お、オッサンさ」
「何だ、エロガキ。申開きは受け付けねえぞ」
「誰がエロガキだ。濡れ衣だっつってんだろうが」
いや、見たことは見たんだがな。
「オッサン、俺とどっかで会ったことないか?」
口に出して聞いてみて、改めて思う。この四角い強面に角刈りの頭。ラグビー選手の様なしっかりしたガタイ。頑固な職人気質を思わせる特徴的な容姿が俺の記憶の引き出しを開け放とうとしてくるんだが、どうにもハッキリ思い出せん。絶対に会ったことがある気がするんだが。それもかなり昔に。
俺にそう尋ねられたオッサンは胸ぐらを掴んでいた手を緩めてマジマジと俺の顔を覗き込む。オッサンの顔を吐息が掛かる程に近くで見るなんざどう考えても精神衛生に良くないどころか精神汚染まっしぐらなのだが、ここは耐えねばなるまい。
と、不意にオッサンの顔がハッと驚きに染まって、俺から離れた。
「お、お前まさか……」
「やっぱりオッサンも俺に見覚えがあんのか!?」
「娘じゃなくて俺のストーカーだったのか……?」
…………は?
「どうもさっきから俺を見る目が怪しいし、娘の裸にも興味を示さねえと思ったらそういう事だったのか……」
「いやいやいやちょっと待てオッサン」
「だがダメだ! 俺には妻子もいるしそもそもがノーマルなんだ! 辛いだろうが……俺はお前の気持ちには応えてやれねぇ」
「何でオッサンに俺が惚れなきゃならねぇんだよっ! ただオッサンに見覚えがあるか聞いただけじゃねぇか! つーかその顔で自惚れんな! いっぺん鏡見てこい!」
「ンだとこのエロガキが! てめぇこそなんだその面は! ンな殺人鬼みてぇな目付きしやがって! ウチの娘どころかろくな女が寄ってこねぇぞ!」
「この眼は生まれつきだ! よけーな世話こいてんじゃねぇ!」
「健一さん? なにやって……あら? その子……」
どう考えても低レベルな口論をオッサンとしていたその時、開いた玄関の方から女性の声が聞こえてきた。
そこには髪を後ろに束ねて白いエプロンを着けた女の人が立っていた。柔らかそうな雰囲気をした、優しそうな熟年の女の人で、左手を頬に軽く当てて笑顔を浮かべながらもその眼は驚きに染まって俺の方を見ていた。
そして俺もまたその女の人を知っていた。
「み、美沙子……これはだな、別に……」
「っ! やっぱりっ! 美沙子おばさん!」
「もしかして……直くん?」
その呼び方に俺は懐かしさがこみ上げてくるのを感じた。と、同時に昔の思い出が、これまでの抵抗が何だったのかと思うほどにすっと浮かび上がってきた。
ずっと前、まだ俺が小学校に入る前にこの家に住んでた頃、よく遊びに行ってた友達のお母さん。「美沙子おばさん」って呼ぶと困ったように笑いながら「直くんから見ればおばさんよねぇ……」なんて溜息混じりに呟いてたのを覚えている。そんなおばさんの様子が何故か面白くて、わざと「おばさん」って呼んで、終いには怒らせちゃったのもいい思い出だ。
少々歳は取ってしまったが、目の前の美沙子おばさんと記憶の中のおばさんの姿は殆ど変わっていない。同じ柔らかい笑顔を浮かべて俺を見ている。そして――
「この場合、『健一さん×直くん』かしら?」
「「ちがうっ!!」」
相変わらずこういう思考をする人だった。
「あらあら、冗談よ冗談。さすがに私も旦那と娘の友達をカップリングさせるなんて事はしないわ」
(嘘だ……!)
(絶対本気だったろ、美沙子……!)
当時から度々そういうことを口にする人だったよ、そういえば。
勿論当時はまったく意味が分からんかったが、後々で意味を知って本気で戦いた。優しい大人の女の人の闇の部分を知った気分だったよ。
それはともかく。
「直って……もしかしてお前、武内の息子の……!」
「はい! ご無沙汰してます、健一おじさん」
昔懐かしの知り合いと分かれば、目の前の強面も自然と何とも思わなくなってくるから不思議だ。頭から俺の頭を噛み砕かんばかりだったおじさんの勢いも、俺が「昔、よく遊びにきてた子供」だと気づいて削がれて、「はぁぁ……」なんて感嘆とも呆れとも取れそうな溜息を吐きながら俺を眺めている。
「そうか、武内ン所の直くんだったか。いやぁ、立派な男に成長したなぁ!」
そうしてそれまでとは雰囲気が一転。「ガハハ!」などと豪快に笑いながらおじさんは背中をバンバンと叩いてくる。アンタ、さっき散々俺の事を「エロガキ」呼ばわりしてただろ、とは突っ込まない。俺ももう良い大人なんでな。
と、そこでリビングのドアが開いた。
「もう、さっきから何騒いでるのよお兄ちゃん……ってあれ? お客さん?」
「こっちが直くんって事は……もしかして雅ちゃん? 昔お隣さんだった
「美沙子……美沙子……美沙子さん!?」
我が妹も思い出したらしい。おじさんとおばさんの二人を見て怪訝な顔を浮かべていたんだが、俺共々よく遊んでもらった隣人だと気づくと一気に破顔して美沙子おばさんにツインテールを靡かせて抱きついた。
「うわぁ……ホントに美沙子おばさんだぁ……!」
「ふふ、お久しぶりね。そんなに私変わってないかしら?」
「全然変わってないですよ! 会ってすぐ美沙子おばさんだって分かりましたもん!」
「ありがとね。そういう雅ちゃんは随分大きくなって。もう何年生になるのかしら?」
数年ぶりというブランクを感じさせずに雅のやつはおばさんとの話に花を咲かせ始めた。最後に会ったのはまだ雅が四歳くらいの時だったはずだが、相変わらず妹の社交性は高いな、などと、何の屈託もなく旧交を暖める妹の姿が少し羨ましく思った。
しかし、隣が昔馴染みの人が住んでいる家、ということはもしかして俺がさっき裸を見たのは――
「あ、そうだ! 私達だけ直くん雅ちゃんと再会を楽しんじゃダメよね? ちょっと待ってて、今すぐに娘を呼んでくるから!」
おばさんは一方的に俺達にそう言うと、小走りで外に出て行った。そして程なくして戻ってきたのだが。
「ちょっと、お母さん!? そっちはさっきの痴漢が住んでる家じゃない!?」
「いいから、いいから」
どうやら連れてきた誰か――まあおばさんの娘だが――が、いざウチの玄関に入ろうというところで抵抗しているらしい。あと俺は痴漢じゃない。
が、そんな抵抗も虚しく、玄関ドアが大きく開け放たれ、その向こうで先ほど俺が窓越しに見た女の子が明らかに困惑していた様子で立っていた。
「さっきの痴漢男……!」
「違うっ! さっきのは不可抗力だ!」
忌々し気に俺を見つつの第一声に凹みつつも全力で否定する。ここだけははっきりさせとかないとな。
と言いつつも俺の顔はきっとまた赤くなっているだろう。さっきは裸を見てしまった焦りだったが、今はどちらかと言えば気恥ずかしさか、はたまた気まずさか。どうやら向こうは俺の事に気づいていないみたいだが、俺は目の前の少女が誰であるのか、ハッキリと思い出していたのだから。
そんな俺達の間に流れる、決して(一方的に)友好的でない空気を察したか、美沙子おばさんが少女の背中を押してくれた。
「覚えてる? 昔一緒に遊んでた武内・直くんと雅ちゃんよ」
「え――?」
おばさんから俺達兄妹を紹介され、思い出したんだろう。彼女の顔が最初驚きに染まって、次いで少しずつ敵意が薄れて代わりにコイツの顔にも気恥ずかしさが沸き上がってくるのが見ていて俺にも分かった。
「な、直くん……?」
「よ、よう、――
挨拶を交わす俺と
そうした中、咲は俺の姿をじっと見て不意に眼を逸らした。
あー、これはアレだな。さすがに裸を見ちまったのを気にしてんのかな。見ず知らずの男に見られるのと幼馴染に見られるののどっちが恥ずかしいのかは俺には分からんが、昔よく遊んだ仲ではあるし、ここは謝っておくべきだろう。
「あー……その、さっきは悪かったな」
「え!? あ、ああ、いいよ別に。その、わ、私も悪かったと思うし……」
「そ、そうか……」
それでまたお互い沈黙。何でか知らないが言葉が続かない。昔はもっと他愛なく話せてた気がするが、やっぱり俺も咲も久しぶりで緊張しちまってるんだろうか。
そんな事を考えながら咲の様子を伺うと、何だか落ち着きが無い風で、モジモジしながら俺を見下ろしている。
咲は、そして口を開いて俺に尋ねる。
「あ、あのね、直くん」
「お、おう。どうした?」
まさか、愛の告白とか?
「やっぱり……」
そんな訳ないと思いつつも期待してしまう俺、十六歳。思春期だから仕方ないのよ。
勝手に生唾を飲み込み、期待と不安に心をかき混ぜられる俺を前に咲が放った言葉は――
「私は直くん攻めでお父さん受けの方が良いと思うの!」
「違うんだよ、咲ーっ!」
「ちげーよ! しかもおばさんだけじゃなくてお前もかよ!? オッサンもいつまで俺の上に乗ったまんまなんだよ!」
「ぐほぉ!?」
とりあえずオッサンを殴って俺の上から下ろす。
「なら普段は『お父さん×直くん』?」
「否定したのそこじゃないから!?」
「あ、それも私、嫌いじゃないから!」
ダメだ、完全に腐ってやがる。しかも親子揃って。
「さっきから咲お姉ちゃんが言ってる『健一おじさん×お兄ちゃん』とかってどういう意味?」
「ああ、雅ちゃん。それはねー」
「うちの妹をそっちに引きこむの止めてくれませんかね!?」
普段から雅にそういう眼で見られるかと思うと家に帰っても落ち着かないからやめて欲しいです。
何故か熱心に聴講姿勢を見せ始めた雅を咲から引き剥がす。可愛い妹にいらん知識を埋め込もうとするんじゃないよ、まったく。
「しかし、繰り返しになるが直くんも本当に立派な男になったな! あんまりにも立派になってるから俺も分かんなかったよ!」
「はあ、ありがとうございます」
「直くんが引っ越した時は咲もずいぶんと落ち込んでなぁ。慰めるのに苦労したんだよ」
「誰もいない家のチャイムを毎日鳴らしに行って、その度に泣きながら帰ってきてたわよね」
「もう、二人とも止めてよ! 昔の話じゃない!」
「何を勘違いしたか、近くの神社で『直くんが早く戻ってきますようにー!』って直くんの写真を張った藁人形に五寸釘を打ち込んだりもしてたわよね?」
「さすがにあの時はご近所さんの目が恥ずかしかったなぁ……」
そんな事をしてたのか、コイツは。
「だがちゃんと帰ってきてくれたし、良かったじゃないか、咲」
「恥ずかしい姿も見られちゃったしね」
「これはもう嫁にもらってもらうしかないな!」
「いやいや! アレは事故なんですって!」
「ああ? 娘の裸を見といて責任は取れねぇってか?」
「いや、それはその……」
だからその顔で凄んでくるのは止めろって。あと咲の裸を見たのは事故だから。それに大事な所はタオルに隠されて見えてません。雅も人を変態みたいな顔で見るのは止めなさい。
妹の中での兄に対する評価がダダ下がりとなっているのを感じつつ、どうやったら雅の評価を元に戻せるかを思考していた俺だが、オッサンが顔を離してキョロキョロとウチの中を見回し始めた。
「だが武内ン奴も水臭え奴だな。こっちに戻ってきたんなら戻ってきたって言ってくれりゃいいのに。そうすりゃ盛大に歓迎してやったのによぉ」
「戻ってきたばかりできっと色々忙しかったんですよ。それにもう八年も経つんだもの。まだ私達が隣に住んでるとは思ってなかったんじゃないかしら?」
「まあいいさ。あの時はこーんなに小さかった直と雅ちゃんが帰ってきてくれたんだ。改めて歓迎してやるさ。
しかしこんだけ俺らが話してんのに出てこねぇな。親父さんとお母さんはどっか旅行でも出かけてんのか?」
オッサンが話の水を向けてくる。
俺は顔を曇らせた。雅の方を見てみれば、アイツも思い出したんだろう、俺と同じく顔を曇らせて伏せ、眉間に皺を寄せていた。それは、アイツが泣くのを必死に堪えてる時の顔だ。
「……どうしたんだ?」
俺達の空気を察したんだろう。それまでの明るい声色から一変して、俺と雅の様子を心配してくれている口調で尋ねてきた。
……そうだな。健一おじさんと美沙子おばさんには昔から世話になってるし、親父とお袋とも結婚前からの付き合いだって聞いた事がある。二人にも、そして俺が二人に良くしてもらったのと同じようにウチの両親にも懐いていた咲には話しておくべきだろう。
「親父とお袋は」
居住まいを正して座り、俺は伝えなくてはならない事を正直に伝えた。
「死にました」
胸が軋んだ音がした。
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