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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved








「人探し? そんなもの、この僕にかかればあっという間に見つかるに決まってるじゃないか」

 俺らがコンピ研を訪れた経緯を一通り話し終えた直後、話を聞いたコンピ研の部長である後藤さんはキリッとした表情でそう俺らに返答した。ただし、深音が座る椅子の下からの発言である。もう一度言おう。深音の足の下では無い。深音の座る椅子の下からである。
 うつ伏せになって背中の上に椅子が乗せられ、更にその上に深音が平然と座っている。女の子とはいえ、当然それなりの重さはあってどう見ても背中の肉に椅子の脚が深々と食い込んでいる。こっちから見ている分には滅茶苦茶痛そうなのだが、後藤さんは平気どころか、深音が身をよじる度に「むほっ!」と鼻息荒く興奮している様子である。末期である。
 そんな状態のまま真面目に話を進めるというとてもシュールな光景なのだが誰もツッコまない。というか俺もアストレイもツッコめない。
 余談であるが、後藤さんは決して上を向こうとしない。深音のスカートの中とか丸見えのはずなのだが、なんでもスカートの中を覗くような奴は紳士では無いそうだ。もうやだ、この変態。あと、アストレイ。気持ちはわかるがゴミを見るような眼で見るのは止めなさい。
 ちなみに部長命令で今日の活動終了宣言をしたため、さっきまで部屋の中に居たコンピ研の他の部員は帰ってしまっていて、今教室の中に居るのは俺ら三人と後藤さんの合わせて四人だけだ。

「手がかりなんて殆どないんだが、それでも?」
「逆に聞くけど、まさか全く手がかり無しなんて事は無いんだろ? なら大丈夫。やれやれ、僕を頼ってくるのは至極正しい選択だけど、まだまだ甘いね。この僕を誰だと思ってるんだ?」
「調子のんな」
「はうあっ!?」

 イラッとする発言の後で、器用に深音が椅子ごとストンピングする。「ぐにゅ」っと肉が潰れるような音がするが、当の本人は「ああっ! いいっ!!」とご満悦の様子である。
 一緒の空気を吸うだけで精神的にこちらがやられていきそうな感じがするが、仮にも深音がキーパーソンと呼ぶ人物である。単なる自信家兼変態とも思えないが、本当に頼りになるのか甚だ疑問である。

「そう思うのも当然だけど、最初に言った通りコンピュータだとかネットワークだとか、IT関係に関してはアタシが知る限りこの変態は右に出る者が居ないわ。そこはアタシが保証してあげるわよ」
「人探しとITとがどう繋がるのかがイマイチ分からんのだが……」
「今時アナログに紙と自分の脚だけで人探ししようとするぴょん吉達の方がアタシは理解に苦しむんだけど」

 言われて俺とアストレイは互いに顔を見合わせた。そりゃまあこのご時世スマホやらパソコンやらは必須のスキルではあるが、そこまで呆れられる事だろうか?

「まあ、いいや。それで? どうやって探すんだよ?」
「そこは……ってそうねぇ。アンタ達相手だったら口で説明するより直接見てもらった方が早いか」

 そう言うと深音は椅子から後藤さんの背中の上に飛び降りると椅子を下ろした。そしてまた半身になると、全力で右足を後藤さん目掛けて振りぬいた。

「ごほぅっびっ!?」
「ほら、アンタがいっつも自慢してる事を見せてやりなさい」
「……ったくやれやれ。深音ちゃんはいつも人使いが荒いなぁ。そこがまた良いんだけど」
「気持ち悪い発言してないでさっさとやるっ!」
「あはんっ!」

 何事も無かったかのように後藤さんは立ち上がると、もう一度深音に背中を蹴り飛ばされながらパソコンの前に座った。

「……直。私たちは本当にこの……後藤殿に頼って良かったのだろうか? さっきから悪寒が止まらないんだが」
「言うな。俺だってさっさとここから離れたいに決まってるだろ」

 アストレイと二人で声を潜めて話す間に、後藤さんは軽快なタッチでキーボードを叩いていく。幾つかのソフトが立ち上がってそのまましばらく待機。椅子に座ってふんぞり返ってのんびりとモニターの中を後藤さんは眺めていたが、やがて画面が切り替わると「はい、いっちょ上がり」と俺らの方に向き直った。

「何だよ、これ?」

 俺らも後ろからモニターの中を覗きこむと、そこには動画らしきものが再生されていた。画面の右下には日付と時間。画像は少々荒いが、多くの人が歩いていて店の看板が道の両サイドに並んでいる。どうやらどっかの商店街みたいだが……

「近所の商店街の防犯カメラの映像」
「へー、日本だとこういうの誰だって見れるんだな。知らんかった」

 事件を特集したテレビ番組や刑事ドラマとかで見たことはあるが、実際に生でカメラの映像を見るのは初めてでちょっと新鮮だ。こうやって見ていると人の動きが俯瞰できてちょっと面白いな。あ、チャリのおっさんが転けてズラ飛ばしてやがる。

「そんなわけないじゃないか。商店街の人間でも無いのに勝手に見れるわけないだろう? 君、もうちょっと頭を働かせたまえよ」
「じゃあこの映像はどうやってんだよ?」
「だから勝手に覗き見させてもらってるんだよ。こんなところのセキュリティなんてザルもザル、水どころか米粒だってこぼれ落ちるくらい杜撰だからな」
「おいおい、まさかアンタ……」
「そ。ハッキング。ド変態だけど、この手の技術はコイツ凄いわよ? あ、もちろん犯罪だから二人共ぜっっっったいに黙ってなさいよ? バレたら……」

 深音が親指を立てて、そのまま首を切る仕草をしてみせる。
 アストレイはよく分かっていないみたいだが、俺は頭を全力で抱えた。
 誰だよ、変態にこんな技術持たせた奴は。今すぐこの部屋を飛び出して警察に「おまわりさん、こいつです」と駆け込みたい気分だ。この技術を自分の欲望を満たすために使ってるに決まってる。まさか犯罪者がこんな場所に潜んでいるとは思わなかった。
 だがこの変態は俺の様子など目に入ってもいない様で、自慢気に腕を組んで「むふー!」と鼻息を荒くしてやがる。

「ふふん、この程度なんて僕にかかれば居眠りしながらだって出来る。ま、見たって何も面白く無いから普段はアクセスしないけど。本気出せばNSCのパソコンだってハックできる自信はあるね」
「今時防犯カメラの一つも付いてない町なんてないでしょ? ごっちんに任せとけば世界中どこでも撮影した動画を確認できるし、探せる範囲が劇的に広がるわよ」
「報酬は後でもう一蹴りお願いします、深音ちゃん。
で、後は……そこの君」
「? 俺か?」
「そう、君。他に誰が居るんだよ? 君の家の住所は?」
「……横浜市中区元牧町3−7−9ですけど」

 眼で深音に促されて渋々教える。すると、また後藤さんがキーボードを叩く。画面に地図らしきものが出てきて、マウスでデフォルメされた、とある家をクリックする。タタタンッとリズムよく音を鳴らすと、鼻が詰まったような声で鼻歌を歌い始めた。
 そして操作すること数十秒。エクスプローラーが開いて、何やら色々とファイルが出てきた。
 ふむ、写真フォルダか。家族写真やらグランドキャニオンやら、色んな名前で丁寧にフォルダ分けされてるな……って。

「これウチのパソコンの写真じゃねえかっ!!」
「まったく、ネットに繋がってるくせにセキュリティソフトは古いしウィンドウズのアップデートもしてないし簡単に入れたよ。こういうパソコンが一番ツマンナイんだよね。腕の奮い甲斐がないっていうかさぁ。あ、でもこの子、君の妹? むふ、超可愛いなぁ……ああ、深音ちゃんが最高だけどたまにはこういう子供に踏まれるのもいいかも……」
「よし殺す。お前そこを動くなよ? 今からドタマかち割ってやるからな? いいな?」
「まーまー、ぴょん吉。落ち着きなって」
「離せ、深音っ! 雅のためにもコイツは今ココで成敗しておかないといかんのだっ!!」

 そしてこのパソコンを直ぐ様破壊せねば。そして帰ったら速攻でウチの半分死蔵しているPCのLANを抜く。でなければ親父とお袋との思い出もまとめて消去せねばならん事態になりかねん。

「ごっちんもシスコンの前で妹の話題出すの禁止。そして直ぐにそのパソコンとの接続を切ること。じゃないともう二度とここには来ないわよ?」
「あふんっ! それは困るぅっ!」

 暴れる俺を宥めながら深音が忠告すると、ドスケベ野郎は泣き叫びながらエクスプローラーを閉じた。
 ったく、とんだ野郎だ。今度ウチのPC覗き見たら絶対警察に突き出してやる。

「その……ちょっと良いだろうか?」
「ん? 何?」
「私はこういったものに疎くて、その、よく話が見えないのだが……」

 アストレイならそうか。確かにこういうことにはさっぱりそうだもんな。

「簡単に言うと、この気持ち悪い変態が町を撮影してるアチコチのカメラとか人様の写真とかを好き勝手漁って、レイレイの探してる女の子を探してくれるってことよ。分かる?」
「れ、レイレイ……」

 深音の呼び名にアストレイが顔を引き攣らせた。随分と可愛い呼び名だな。今度から俺もそう呼んでやろう。

「コホン……何となく分かった。しかしそんな事をして問題ないのかい? とても真っ当な手段には思えないんだが……」
「ま、少なくとも胸張って威張れることじゃないわね。警察に見つかれば間違いなくタイーホでしょうし」
「むむ、探して貰えるのはありがたいのだがそれは……」
「だいじょぶだいじょぶ。こんなんだけど一応目的以外の理由でパソコンの中身を持ち出さないくらいの分別はあるはずだし」
「しかし……」
「それにほら、バレても捕まるのはコイツだけでアタシ達には被害ないから」
「ふむ、なら大丈夫か」
「同意すんなよ」

 確かに一度捕まった方が世のため人のためだとは思うが。

「まあ僕に任せとけば大丈夫さ! 今時ネットワークとの関わりを絶った生活してる人間なんてまず居ないし、一週間もあれば見つけ出してみせるよ。
 さあさあ! そうと決まったら手がかりとか一切合切見せてくれよ」
「……仕方ないか」

 レイレイは後藤さんという存在にまだ引っかかってるご様子である。どこか嫌そうに眉根を寄せてため息を吐くとポケットから女の子の絵を取り出して後藤さんに差し出した。その段になっても少し踏ん切りがつかないらしく、絵を渡す手が小刻みに震えていたのだが、そこは見なかった事にしよう。

「ふーん、この子か。可愛いとは思うけど、あんまりそそられないなぁ。やっぱり女の子はもっと勝ち気で……」
「アンタの好みなんてどうでもいいの。ほら、さっさと作業に取りかかりなさい」
「深音ちゃんが一度引っ叩いてくれたらへぶんっ!?」

 当人の望み通り、深音が後藤さんの頬を引っ叩くと、後藤さんは鼻血を垂らしながら嬉しそうに机の端においていたスキャナーに絵を取り込み始めた。どうでもいいが、アンタはいちいち深音に攻撃されないと動けんのか?

「で、この子の名前とか年齢は? 分かってる事をさっさと教えてよ」
「……名前は分からないな。さっきも言った通り私は記憶を無くしてしまったみたいだからね」
「ただその絵から今は何年か経ってるんじゃないかって事は推測してる。たぶん中学生から大学生くらいになってると思うけどな」
「あっそ。じゃあええっと……成長した姿のモンタージュ作りから始めないといけないのかぁ。しかも中学から大学ってなると女の子なんて結構化けるしなぁ……面倒臭いなぁもう。何枚か成長パターンを作らないとダメじゃん。ま、いっか。そこら辺はいつもの連中にお願いして……」

 ブツブツと文句を言いながら後藤さんはお絵かきソフトを立ち上げると、取り込んだ女の子の絵を貼り付けて作業を始めた。
 もうすでに俺らに対する興味は無くなったようで、あれだけ執心だった深音の方も振り向くこと無く忙しなくペンタブだとかマウスだとかを動かしていく。

「というわけで、後はコイツに任せとけば大丈夫よ。作業の進捗だとかはアタシの方で管理しとくから、アンタ達二人は今まで通りに探しときなさいよ」
「重ね重ね世話になる。感謝します、深音」
「いいのいいの。今回のお代はぴょん吉から巻き上げとくから。二週間学食のオゴリ、宜しくねー」
「はぁっ!? 聞いてねーぞ、ンな事!」
「そりゃそうでしょうよ、今初めて言ったんだもの。まさかこれだけアタシの精神ゴリゴリと削っといてタダで済むと思ってた?」
「ぐぬぬ……」

 二週間か……実際十日としてだいたい四千円くらいか。バイト代から生活費とかを差っ引くとギリギリ払えねぇ金額じゃねぇってところがイヤラシイな、おい。
 と、その時だった。

「ん?」
「どうしたの、ぴょん吉」
「いや、今何か音がした気が……」

 とは言え今は入り口のドアはピクリともしていないし、ドアの前に誰かが居る気配も無い。
 はて、俺の気のせいだったのか、と思いつつもドアを開けて確認してみる。開けた隙間から頭だけを廊下に出して左右を見てみるが、やはり誰もそこには居ない。夕焼けが差し込み、窓の外から夜の空気を運ぶ風が吹き抜けているだけだ。

「ん? 風?」

 今も俺の前髪を風が梳いていくが、窓なんて開いてただろうか? 意識していたわけじゃないからハッキリ分かんねぇが、閉まっていた気がする。誰かが開けていったのか? いや、しかし基本的にみんなもう帰ってるだろうし、そんな時間にわざわざ風を通すために窓を開けていくだろうか?

「ぴょん吉ー?」
「え? ああ、俺の気のせいだったみたいだ」

 深音に呼ばれて室内に戻る。だがその直前、俺はもう一度振り返った。
 やや強い風が吹いて窓がカタカタと笑った。その音を聞いた瞬間、とある考えが俺の頭を過った。

「……いや、まさかな」

 だが俺はその考えを胸に仕舞いこみ、何事も無かったかの様にまた深音たちの元に戻っていった。



 ――それから間もなく



「やっべやっべぇっ!」

 コンピ研でド変態との邂逅を果たしたわけだが、そのあまりのインパクトにすっかり時間を忘れてしまっていた。
 時間はとっくに四時半を回り、完全にバイトに遅刻である。今からランデスフリーデンに辿り着けばきっとミケさんからさぞや涼し気な眼差しを頂くことだろう。すっかり夏だし、走って火照った体にはちょうどいいに違いない。

「って言ってる場合じゃねぇよ!!」

 廊下を駆け抜けながらセルフツッコミを入れる。いかん、また今月も減給だ。そしてまた雅に……怒られはしないが、がっかりされる。あれは怒られるよりも地味に心を抉られるから勘弁したいものだ。必死で謝れば時給ダウンは避けられるだろうか。

「……っと」

 階段を駆け下りて一階に辿り着き、角を曲がったところで俺は立ち止まった。
 斜陽が窓を通して白いタイル張りの廊下を少しオレンジ色に染めていた。部活動の声も何処か遠く、まるでこの場所だけ何処か違う世界に切り離されたみたいに綺麗で、思わず眼を奪われた。
 だがバイトへと急いでいるこのタイミングでわざわざ興味の薄い芸術性に心を奪われる俺では無い。脚を止めたのは廊下の向こうに知った人物が立っていたからである。

「よう、ゴンザ……おっと」

 その人とはゴンザレスことフローラであった。ついうっかりと本人に向かってゴンザレスと言ってしまい、危うく頭を握りつぶされそうになったのはいつだったか。そういえばしばらくコイツとも顔を合わせていなかったな。こんだけインパクトがある容姿だというのにここのところ全く姿を見てなかった気がする。学校には来てたと思うんだが、はて、どうしてだろうな?

「久しぶりだな。元気してたか?」

 一応相手は先輩なのだが、気安い感じで手をあげて声を掛ける。思い返してみれば、こうして二人で言葉を交わすのも転校初日にコイツにふっ飛ばされて窓から落ちそうになった時以来だな。アレを「言葉を交わした」と表現していいのかは不明だが。

「……ええそうねぇん。元気といえば元気だったかしらぁん?」
「そうか、そりゃ何よりだ」
「そういうアナタの方こそ元気だったのかしらぁ?」
「まあな」

 髪をかき上げながら話しかけてくるのだが、ごつい体格と日焼けしたような肌の、まるで何処ぞの助っ人外国人の様な容姿にその仕草は似合わないな。分厚い化粧に覆われた唇から吐き出される言葉遣いも見た目と全くマッチしておらず違和感がバリバリだ。しかしそんなゴンザレスを見てどうしてだか幾ばくかの安心感と、微かな違和を俺は感じた。

「ずっと見なかったが、学校には来てたのか? 先輩も寂しがってたぞ?」
「学校には居たわよぉん。ちょっと時々休んだりもしたけれどぉ」
「なんだ、体調でも崩したか?」
「ま、そんなとこよぉ。大したことないわ」
「なら良いけどな。無理すんなよ」

 見た目のそれとは異なる違和感を覚えつつも言葉を交わす。その中で違和感の正体に不意に気づいた。彼女のまとう雰囲気が何となく堅いのだ。
 迫力満点の容姿ではあるが、それにさえ慣れてしまえばゴンザレスの雰囲気はいつも柔らかく――怒らせさえしなければ、だが――さながら毎日を楽しむ乙女そのものである。
 しかしながら今こうして話しているコイツは、口調とか仕草はいつも通りながらも、雰囲気が何処か棘々しい。
 何か怒らせるような事をしてしまっただろうか、と記憶をたどっていた俺だが、ゴンザレスの方から俺の方にゆっくりと近づいてきた。

「っ……」

 見上げる様な巨人が近づいて来る様はさながら壁だ。何もしないでも威圧感たっぷりなのだが、物々しい雰囲気を撒き散らしながらやって来るのでその圧迫感は半端ない。ついつい俺も身構えてしまって、ゴンザレスを睨みつけてしまったのだが、コイツはそんな俺に気づいているのか気にしていないのか、特に何らかしらの反応を示すこと無く歩き続けた。
 何をする気だ、と気を張った俺。しかしゴンザレスは俺に対して何かするわけでも無く、ただ黙って俺の横を通り過ぎていくだけだった。
 背中で向き合い、互いの視界から互いの姿が消える。
 考え過ぎか、と俺は一人胸を撫で下ろした。だが――

「――陽芽に気をつけておきなさい」
「っ!」

 すぐ後ろで声を掛けられ、俺は振り返った。
 その声はあの、野太い声では無かった。女性らしい細く高い声で、だが凛とした強さを感じさせる声だった。

「今のって――」

 まさかゴンザレスか、と問い質そうとした俺だったが、振り返った廊下には誰も居なかった。ただ一人、俺だけが立っていた。
 窓の直ぐ側を部活生が掛け声を上げながらランニングしていく。他にも元気な騒ぐ声が外からは聞こえてきて、そんな辺りの様子が、まるで俺が夢でも見ていたかのような錯覚を覚えさせてくる。

「……」

 奇妙で不思議な感覚だけが俺の中に残り、思わず俺は頬をつねった。
 痛い。どうやら今が現実であるらしく、つねる前後で世界は何も変化していないようだ。

「あ、やべ」

 呆然として立ち尽くしていたが、ふと我に返る。そういえばバイトに急いでいるんだったと今更ながらに思い出した。
 慌てて靴を履き替え、グラウンドに飛び出す。砂を蹴り、校門を抜けて走っていく。
 その最中、先ほどゴンザレスであろう人物に言われた言葉を思いかえしてみる。

「先輩に気をつけろって、それだけ言われてもな……」

 全くその意図を掴めないまま、その言葉は目先のバイトの事であっさりと塗りつぶされていった。





 







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