「すいません、ありがとうございました」
深音の叔父さんである和郎さんのワゴン車から降りると、倒れた先輩を背負って俺は頭を下げた。
頭を下げた時に先輩の体がずれて背負い直すと、長い黒髪が流れて鼻先がくすぐったいのだが果たしてこれは物理的にくすぐられているのかそれとも良い香りで鼻がくすぐられているのかどっちなんだろうな、などというどうでもいい疑問が頭を過った。
「いや、こっちこそ無理をさせてしまったみたいで申し訳ないね。無茶なお願いをしたのはこちらだけど、舞台の上でも元気に動きまわってたから、体調が悪いのに全然気づけなかったよ」
「先輩は無茶だろうがなんだろうがやると言ったら何がなんでもやり遂げる人ですからね」
まだ出会って数日でそこまで先輩の事を見抜けているわけじゃないから何となくではあるんだが、少なくとも途中で放り出すような性格の人じゃないってのは分かる。
てか、考えてみりゃ当たり前だよな。木曜に徹夜で工作して、そして日曜日に舞台本番ってなればセリフを覚えるだけで寝る暇も無かったはずだ。まして、完璧に舞台で演じてたからな。相当な努力をしたと想像するのは容易だ。
出会いの印象が強烈だったから漠然と先輩の事をスーパーマンか何かみたいに考えちまっていたが、何日も徹夜すればさすがに体も壊すのは当然か。
それに加えて――
「そういう努力を人に見せようとしない人でもありますし、体調が悪かろうと限界までそれを伝えない人だっていうのが今日分かりました」
「とはいってもまだ皆高校生だしね。そこはやっぱり僕達大人がキチンと気遣ってあげないといけなかったと思うよ」
そう言って和郎さんはハンドルを握ったまま片手で頭を掻いた。
「ま、終わった事なんだし、叔父さんもぴょん吉ももうそこら辺でいいんじゃない? 急に無茶な話を持ちかけた私も悪かったんだし、体調が悪いことを周りに伝えなかった河合先輩も悪かった。みんな悪かったってことでさ」
「深音」
「ここで互いに自分の非を晒し合う時間があるならさっさと先輩を連れて帰って寝かしてあげなよ」
「……それもそうだな」
自己満足の反省会をやってたって仕方あるまい。んなことよりも、一刻も早く俺の背中で死にかけている先輩を家に届けなければ。
「だけど、本当にいいのかい? 家の前まで送って行かなくて」
「私もそれが心配。やっぱり車で家の目の前まで送ってもらった方が……」
「い、や……それには及ばない……」
和郎さんと咲の提案に、背中からゾンビのような動きで先輩が顔を上げた。呼吸は荒くて、声だけ聞いてると今にも死にそうな気がしてならんのだが、本当に大丈夫だよな?
「申し訳、ないが……人様に見せられるような…家ではないのでな……」
「でも直くん一人で女の人の家に行くなんて……」
そこで咲は俺の顔をチラチラと見てくる。言わんとすることはわかる。俺だって一人で女の人の家にお邪魔なんぞ、精神衛生を考えただけでしたくない。先輩の指名がなけりゃお前らを間違いなく連れて行くさ。
「直は……我が生徒会の…副会長だからな……」
「ぴょん吉。河合先輩を送り届けたらすぐ帰ってきなさいよ。間違っても押し入って"ピー"なことや"ピー"なことするんじゃないわよ」
「病人相手にンな展開にはならねえよ」
「ってことは病人じゃなかったらするってことね。やだこのケダモノ!」
「言葉の綾だ! 濡れ衣だ! 咲も劇画チックなタッチで悲壮な顔してんじゃねぇ!!」
人を何だと思ってやがる。俺と先輩はそんな関係じゃねぇしそうなる予定もねぇっつうの。
「スマン、直……大声出されると頭が……」
「あ、す、スイマセン!」
イカンイカン、さっき早く先輩を送らないとって話をしたばっかりなのについコイツらにツッコミを入れる癖が。
「それじゃあ俺らは行きますから。咲、ワリィんだけど雅に事情の説明と……俺が帰るまでアイツの面倒見るのを頼んでいいか?」
「うん、喜んで。でも早く帰ってきてあげてね?」
「分かってるよ」
可愛い我が妹だからな。アイツの作るメシが今の俺の活力と言っても過言ではないし。
今度こそ深音や咲たちと別れ、俺は先輩を背負って暗くなり始めた住宅街を歩き始めた。
夕暮れでポツポツと人とすれ違う。家の中は灯りがつき始めて、下を通り過ぎた街灯にも光が灯った。
さて、先輩の家は歩いて五分も掛からないって話だったが。
(結構近所に住んでんだな)
車で揺られて景色を見ながら気づいたが、どうやら先輩のうちは我が家の近くのようだ。近くと言っても歩けば三十分近くかかるから近所というのは少々語弊がありそうだが、ここからなら先輩を送った後も帰る足を気にせずに済みそうだ。
それはそれとして、だ。
(やばい、先輩の胸が……)
予め気づいて然るべきだったが、先輩の胸は――ハッキリ言ってメチャでかい。それはもう、見てるだけでもデカさが想像できるくらいだったが、そんな先輩が俺の背中に乗っているということは当然胸が俺の背中に当たりまくってるワケで。
オマケに先輩がグッタリしてるから歩く度に振動でその胸が強く押し潰され、耳元じゃ先輩の熱のこもった吐息をひっきりなしに感じるワケでありますよ。
(イカンイカン……)
色即是空空即是色、心頭滅却すれば火もまた涼し。余計な事は考えるな、俺。俺はただ病人を家に運んであげてるだけだ。何もイヤラシイ事は考えていない。だろう、俺?
「直」
「は、ハイ!? 何ですか先輩っ!?」
「何をそんなに慌てているのだ……」
いえ、何も考えてもないですし慌ててもイナイデスヨ? だからそんなに呆れないでください。吐息が耳に当って俺の体にとって毒ですので。
「……すまなかったな」
「え?」
吐息に続いて聞こえてきたのは謝罪の言葉。それが何に対してなのかを量りきれず返事をしあぐねてしまう。
謝られるような事は……まあ色々とある気がするが。
「それは何に対しての謝罪ですか?」
「……こうして君に背負われている事に対してと、色々と私に付き合ってもらっている事に対してだ」
そう言って先輩は俺の背中に額を押し付けた。
「まだ君が転校してきて間もないというのに、私は世話になってばかりだ」
「そんな事無いっスよ」
「そんな事は、ある。今も自分の体調管理ができてなかったばかりにこうして背負われて、生徒会自体も君が入ってくれたお陰で今日みたいな活動が出来るようにもなった。目安箱の件だって私一人では思いつきもしなかっただろう」
「買い被り過ぎですよ。目安箱はたまたま思いついただけですし、生徒会は、まあ、どのみち何かの部活に入らないといけなかったですしね。今日は……たまたま先輩は調子が悪かっただけですって」
「だが君の世話になっていることは疑いようのない事実だ。それに比べて私は……情けなくて仕方がない。一人では何も出来ず……誰かに助けてもらってばっかりで……直にもまだ何も返せていないし……」
「……」
先輩らしからぬ随分と弱気な発言だな。熱があるからだろうか、それとも――
(――こっちが本来の先輩なのかもな)
普段は活発で明るくて向こう見ずで。
だけども本当は内罰的で弱気で。
どっちが本当の先輩なのか、それとも両方共が先輩で今見えてるのが普段とは違う一面なだけなのか、そんなものは俺には分からない。
だけど――
「――そんなのどうだっていいじゃないですか」
「直……」
「誰だって誰かに助けられながら生活してるんです。それが当たり前なんです。先輩は誰かを助けたいのかもしれないですけど、だからって先輩自身が助けられちゃダメなんて誰が決めたんですか? 誰も先輩にそんなこと押し付けちゃないですし、先輩は気にしすぎですよ。よく言うじゃないですか、『困った時はお互い様』『持ちつ持たれつ』って」
親父とお袋が死んで、すごく実感した。別に俺一人で生きていける、なんて思い上がってたつもりはなくて、頭では二人に感謝してたんだが、急に雅と二人っきりになると、如何に生活していくのが大変かっていうのが身に沁みて分かった。
なんて言うか……俺らってすっげぇ親父達に守られてたんだなって思う。二人が死ぬ前にもっと感謝を伝えとけば良かったって後悔するくらいに。
そんなもんだから、俺が雅を守んなきゃって気を張ってたけど、俺一人じゃ家事全部をこなしながらなんて絶対できなくてすぐにダウンしてたと思う。雅が居てくれて逆に俺の方が精神的にも肉体的にも守られてるのかもしれん。
それに、こないだの咲の親父さんたちが掛けてくれた言葉も嬉しかった。日本に戻ってきて「誰にも頼れない」なんて思ってたが、実際には助けてくれる人だっていっぱい居て、その人達を頼ってもいいんだって思えた。
「だが私は……」
「それに先輩は色んな人の助けになってますよ」
例えば今日の孤児院の子供達。正くんという例外は居たものの、どの子もヒーローショーを精一杯楽しんでいた。
深音や和郎さんもそうだ。急なキャスティングに頭を悩ませてたんだろうけど、それも先輩が目安箱を作ったから深音が投書できて、和郎さんは配役の問題を解決できた。流石に俺が転校する前の事は分からんが、でもきっと先輩のことだ。色んな事に自分から首を突っ込んでいってはかき回して、でも問題を解決してきたと思う。
「俺も……」
「ん?」
「いえ、なんでもないッス」
先輩の勢いに引っ張られてるだけだけど、高校生活を迎えるに当って覚えていた不安だとかが消えて、なんだかんだと楽しみ始めてるところもある。とは言ってもまだ編入して二回しか登校してないが。それでも不安よりは期待の方がすでに上回ってきてる。
ま、ここらへんは深音だとか淳平のお陰もあるだろうがな。どっちにしろ、恥ずかしいから口にはしないが。
「それよりもそろそろ先輩の家の辺りじゃないですか? どの家ですか?」
気づけば辺りは見るからに高級そうなマンションが、そらもう天高く貫かんばかりに高くそびえ立っていた。マンション以外の一軒家も築百年は経ってそうな由緒正しき日本家屋だったり、長ーい白壁がどこまで行っても続いてたりだとか、ドーベルマンでも飼ってそうな家で塀の奥から唸り声が聞こえてきたりだとか、どう考えても俺、場違い。
塀の上ではうっすらと金色掛かった綺麗な毛並みをした白猫が優雅そうに欠伸をして、トコトコと俺らの後を付いてくる。
「む……何を言おうとしたのか気になるがまあいい。ああ、そこの角を右に曲がってくれ」
先輩が指さしたのはグレーがかった壁色の、高さ五、六十メートルはありそうな高層マンションだ。橙のおしゃれなロビー灯がガラス張りのエントランスを照らしてて、他のマンションの例に漏れず高級そうだ。こういうのって賃貸なんかね?
(こないだは普通のアパートに住んでるって言ってたけど……)
やっぱりそうだよな。美人でスタイルも良いし、見るからにイイトコのお嬢様っぽいし。突飛な行動もむしろ俺の中の暇を持て余したお嬢様イメージにピッタシだしな。たぶん先輩の中のアパートと俺の中のアパートじゃ指してるもんが違うんだろう。
と思ってたんだが。
「そのまま真っすぐ行ってくれ」
あっさりとそのマンションの前を通りすぎていく。そしてそのマンションの隣にある――
「ここ、だ。申し訳ないが……部屋のドアまで開けてくれないだろうか?」
二階建ての木造アパートの前で先輩の指示は止まった。
色褪せて薄汚くなった壁に、乗れば踏み抜いてしまいそうな二階への階段。オートロックなんて洒落たもんは探すまでも無く、それどころか共同のエントランスもない。いつでも誰でもウェルカム感満載だ。
そして半分傾いてしまってる表札に書かれた建物名は「昭和荘」。名は体を表すとは言うが、それにしたってぴったりすぎやしないか? むしろ大正生まれか?
あまりに時代錯誤なオンボロっぷりとイメージとの違いに俺は唖然としていたが、先輩は俺の様子を気にすること無く鍵を差し出してくる。
鍵を手にすると、間違いなく本物の鍵だ。ということは本当にここに先輩は住んでるって事か?
しかし俺の脳が勝手にそんな結論を否定してくる。
……だって先輩だよ? どう見たって先輩お嬢様じゃんか。雰囲気とこのボロアパートがまったく結びつかねぇよ。
だけども鍵穴に差し込んだ鍵は、錆びついてんのかちょっと動きが固いがキチンと回転して「カチッ」と音がした。んでノブを回せば「ギィ……」って音がして開いていく。
「……すまない、ここまでで大丈夫だ」
未だ現実を脳が受け入れきれずに戸惑いながらも先輩に言われて背中から降ろす。先輩が床に脚を着くと、今にも踏み破りそうな悲鳴じみた音を床板が鳴らした。本当にここ建物として成り立ってんだよな?
「……今日は本当にありがとう。この礼はまた今度するよ」
まだ変わらず熱を持って赤らんだ顔で頭を下げてきた。だがその表紙に先輩の脚がふらついて倒れそうになって、俺は慌てて先輩の体を掴み止めた。
「すまない……」
「いいですって。それよりも、ごかぞ……」
言いかけて俺は口を噤んだ。先輩も親は居ないんだった。
「……一人暮らしですか?」
「いや、同居人が居るが……外出してるみたいだ」
「なら奥まで肩を貸しますよ。ほら、つかまって」
「……ありがとう」
先輩の腕を首に回して靴を脱いで家に上がると、中はそれなりに広かった。廊下なんて高尚なもんは無く、玄関と台所が直結していてその奥がリビング――畳部屋だから茶の間と言った方がイメージに合うか――になっていて、ふすまが開けっ放しになっている。
「……今朝も寝坊してしまってな。散らかっていて、見られるのは正直恥ずかしいんだが」
熱のせいか本当に恥ずかしいのか分からんが赤い顔で先輩がそう告げてくる。
なるほど、部屋の中は物が多くて一見雑多な印象だが、それでも所狭しと並べられた棚とかを上手く使って整理されてるみたいだ。目安箱の作成に使ったと思しきノコギリやら刷毛とかが壁に吊るされていて、雅の部屋から想像する女の子の部屋には不釣り合いな気がするが、建物のイメージを考えると何の違和感もなくなってくるから不思議だ。さすがに脱ぎ散らかされたシャツや下着からは眼を逸らさせてもらった。俺は何も見てはいない。
部屋の隅には布団が折り畳まれていて、俺はそれを見つけると先輩を柱に捕まらせて布団を敷いていく。シーツは洗濯されているみたいでカーテンの奥で揺れていた。それを取り込むために窓を開けてシーツを取り込む。傍に女性下着が干さていたが極力見ないように努力した。結局は目が行ってしまって離れなかったのでさっきの努力は水疱と帰したが。
「直も顔が赤いぞ?」
「……日に焼けたんですよ」
「?」
武士の情けだ。そういうことにしておいてくれ。
しかしこんなアパートで堂々と干しておいて不用心だな。一階だし、変態どもに取られたりしないんだろうか。
そんな事を考えながらササッとシーツを敷いていく。
「どうぞ。横になって下さい」
「……随分と手際がいいんだな」
「妹がうるさいもので」
雅の調子が戻ってからというもの、ある程度の家事を色々と叩きこまれたからな。
しかし、こうやって世話をしていると雅の世話をしてた頃を思い出す。先輩の方が年上ではあるんだが。
壁につかまっていた先輩の手を引いて布団に寝かせる。手は火照っていて熱を俺に伝えてくる。
それに気を取られたわけじゃないんだが――
「うわっ!?」
散らかっていた靴下を踏んでしまい、脚が滑った。
突然の事に俺はバランスを崩して、とっさに手を突いたんだが右腕だけで体を支えることが出来ず、そのまま倒れてしまった。
強かに顔面を床に打ち付ける。そう思ってとっさに眼を閉じてしまったが、衝撃も痛みも顔には感じず、代わりに感じたのはふわふわ感。なんじゃこれは?
「な、直……」
聞こえてくる先輩の声が震えていた。やべっ、今の拍子にどっか先輩の体を叩いちまったか?
「す、すいませ……!」
急いで跳ね起きる。するとそこには眼下に広がるは夢と希望をたっぷりと詰め込んだ理想郷たる大山脈サマが。
「んなぁっ!?」
おまけに汗を掻いてるせいで先輩の白いシャツが肌に貼り付いて、若干透けてしまっている。まさか、今俺はこの先輩のグランドキャニオンに……!?
否定して欲しくて先輩の顔に向かって全力で振り向けば、先輩は先輩で明らかに熱とは違う意味で顔を真赤にして、
「わ、私は直に何もお礼できていないからな……そ、その、な、直が望むなら……」
と宣りました。
「いやいやいや! スイマセンスイマセン今のは事故でして!」
「い、良いんだ。その……お、男は我慢できない生き物なのだろう……?」
誰だよ! ンなこと教えた奴は! いや、まったく否定できませんけどね!
「い、いいんですか……?」
いいんですかじゃねえだろ、俺!
しかし俺の理性を振りきって俺の手は先輩の胸に伸びていく。ゴクリ、と喉が鳴って、先輩もまた羞恥に顔を歪めながらも何も言わない。
あと、五センチ。頼む、早く誰か止めてくれ。
あと、三センチ。お願いだ、先輩も嫌がってくれ。じゃないと……
あと、一センチ。――もう、ゴールしてもいいよね?
理性がぶっちぎれていよいよ俺の頭の中がピンク色の展開に染まり始めたその時――
「キェェェェェェェェェェッシャアラアアァァァァァァァァイッ!!」
「いいいいいっ!」
耳をつんざくような雄叫びがアパート中に轟いた。
な、なんだなんだっ!? この奇声はいったい!?
「ああ、隣の御仁だ。気にする事はない。よくあることだ」
「そ、そうなんですか?」
「なんでも発明家らしくてな。何かヒラメキがあるとああして叫び出す悪癖があってね。だが話してみれば中々ユニークな御方で楽しい人だぞ」
赤い顔で、しかしながら丁寧に説明をしてくれる先輩。どうやら日常茶飯事みたいだが、建物もだが住人も大丈夫なのか、ここは?
しかしまあ、助かった。
「……すいません、やっぱり俺そろそろ帰ります」
危うく過ちを犯すところだった。冷静になって考えるととんでもなかったな。散々深音に釘を刺されてたってのに。顔も知らぬ隣の発明家よ、ありがとう。アナタのおかげで俺は一線を越えずにすみました。
「そうだな……すまない、私もどうかしていたようだ」
先輩も冷静になってくれたみたいだな。うん、アレは一時の気の迷いだったんだ。
「じゃあ、俺はこれで。今日はゆっくり休んで、また明日元気な姿で会いましょう」
「ああ……今日の恩はいつか必ず返させてもらおう」
……まったく、こっちは恩を売ったつもりなんてないってのに頑固なんだから。
苦笑を浮かべ、だが先輩のその気持ちが嬉しくて頭を掻きながら俺は立ち上がった。
その時、窓ガラスが弾け飛んだ。
「危ないっ!」
細かい破片となったガラス片が降り注ぐ。カーテンがあったお陰でこっちまで飛んでくる事は無かったが、とっさに俺は先輩に覆い被さる。
だがすぐに腹に衝撃。飛び込んできた何かに蹴り飛ばされて、壁に叩きつけられた。
建物全体が小さく揺れて天井から埃が舞い落ちる。呼吸が止まり胃から酸っぱいものがこみ上げてきて勝手に涙が滲んでくる。
チカチカと星が飛ぶ視界。だが痛みを噛みしめる暇もない。追撃として喉元を掴まれ――
――目の前にナイフが迫ってきていた。
刃が夕陽を反射して、間違いなく俺の命を奪いにきている。迷いなく、まっすぐと俺へと向かう軌道。壁に叩きつけられてからの引き伸ばされた刹那の時間で、それに気づき、思考は停止した。
死を覚悟する間も無い。ただありのままの現実を理解する事を脳が拒んでいた。
――死んだ。
そんな思考だけ、最後に過った。
だが――
「やめろっ!!」
先輩の声が部屋に響く。声と同時にナイフが止まり、俺の眼球に触れる直前で止まる。
「……どうして止めるのですか?」
今度は目の前の影から声が聞こえた。女の声だ。ナイフと同じように怜悧な鋭さを持って俺の耳を穿った。
「……今自分が襲った相手を見てみろ」
先輩の声も低く冷たい。たぶん、先輩は俺に今ナイフを突きつけてる奴に向かって言ってんだろうが、混乱した俺の頭は先輩の声に素直に反応して目の焦点をナイフから正面にいるはずの影に合わせた。
「……え?」
「あ、れ……?」
声が重なった。俺の声は驚きに、そして正面から聞こえてきた声は戸惑いにひどく染まりきっていた。
彼女の手からナイフが滑り落ちて、床に突き刺さった。すぐ俺の足の傍に落ちたんだが俺も彼女もそんな事は気にする余裕は無かった。
なぜなら――
「凛……ちゃん……?」
「た、武内クン……?」
俺を弾き飛ばしたのは凛ちゃんこと小野塚先生だったのだから。
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