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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved








 両親が死んで、俺と雅の二人だけが取り残されてしまったのはもう一ヶ月も前だ。それとも「まだ」一ヶ月しか経っていないと考えた方がもっと適切と言えるだろうか。
 全ての事の始まりは、それから更に数週間前に遡る。
 始まりの日は、妹の雅が熱を出して寝込んでいた以外は何の変哲も無い一日だった。
 いつもの休日どおり朝はいつもより遅い時間に起きて、朝食から不仲の両親の気まずい空気に文句を言って部屋に篭った。ジュニアハイも卒業してハイスクールへの入学を控えて、普通なら新生活への期待に胸を膨らませて居る頃。しかし俺は朝から両親の様子に苛立っていた。
 毎日の様に続く口論。ヒステリックな母親の叫び声に、怒鳴り散らすわけでもなく、だが静かに怒りを口にする父親の声。俺が幼い頃に目撃していた仲睦まじい様子は無い。だが両親の喧嘩自体は特段珍しくはない。
 喧嘩しても一晩寝れば、大概は仲直り出来ていたが今回の不仲はこれまでよりも長く続いていた。雅が体調を崩したのもそれによる精神的な不調が一因だったんだが、それを知っても尚、両親の諍いは治まる様子は無かった。それが俺は腹立たしかった。
 何とかしなければ。
 思い立った俺は、卒業前から両親を仲直りさせる計画を立てた。それは雅の為でもあり、そして俺の為でもあった。
 これまでに貯めていた小遣いと、卒業して出来た時間を使って中坊でも出来る簡単なバイトをして貯金を増やし、家族での旅行を提案した。両親は嬉しさと気まずさが混ざった微妙な表情をしていたが、すでに俺は断られるのを想定してホテルの予約やチケットの手配を済ませていたので、強引だとは思ったが両親に仕事を休ませて家族旅行を実行させた。
 両親が本来優しいのは、これまでの十五年で十分に分かっていた。口論自体も決して俺ら兄妹が居る場所ではせず何とか表面上だけを取り繕っているだけだったが、どんなに不仲でもそういった配慮だけはしてくれるくらいには俺らに気を遣ってくれていた。
 それに、二人共本気で相手を嫌っているとは思ってなくて、ただ些細にすれ違っただけで、俺らを含めた家族で一緒に時間を過ごしてくれればまた元の仲の良い両親に戻ってくれると信じていた。
 そしてその目論見は成功だったと言えるだろう。
 雅の体調だけが気がかりだったが、アイツを家に置いていく、なんて選択肢は始めから存在しない。
 幸いにして旅行初日は妹の体調も良く、アメリカ東海岸の有名な観光地を楽しく巡ることができた。レンタカーの中の両親は、初めこそ微妙なぎこちなさがあったが、言葉を交わす内に次第に笑い合うようになり、楽しい一日となってくれた。
 家族で写真を撮り、ショッピングを楽しみ、美味しい名物料理に舌鼓を打ち。
 父が笑い、母が柔らかく微笑み、妹も久しぶりにはち切れんばかりの笑顔を見せて。
 その様子を見て俺は、「思い切ってやってみて、本当に良かった」と本気で思った。旅行は大成功だと、胸を張って言えると思った。
 だがそれが間違いだと気づくのには、それ程時間は掛からなかった。
 二日目の移動中、また些細な事からケンカになった。正確な原因は今となっては分からない。だが車の中でうたた寝をして俺が眼を覚ました時にはすでに車内は微妙な雰囲気になってしまっていた。
 何を言えば良いのか。誰を責めればいいのか。誰を宥めればいいのか。原因も何も分からない俺は、ただ俺自身が殊更に明るく振る舞うくらいしか出来ず、せっかくの旅行も、気がかりのせいで何処をどう回ったのか殆ど覚えて無かった。
 そしてその晩からまた妹が体調を崩した。
 熱を出して寝込み、翌日になっても体調は回復せず、流石に親父もお袋も心配そうに雅の面倒を見ていたんだが、雅はせっかくの旅行が自分のせいで台無しになるのは申し訳ないと思ったんだろう。

「私は大丈夫だから、お母さん達は楽しんできてよ」

 熱で上気した顔で、辛いだろうに笑顔を浮かべて俺達を雅は促した。俺は勿論、親父もお袋も雅を一人残していく事を心配して渋ったが、逆に雅に付きっきりになる方が雅にとって負担になる、ということで俺達だけで旅行を続ける事にした。念のためにホテルの従業員に様子を定期的に見るようお願いだけはしたが。
 幸いにしてこの日はホテルを拠点にして、日帰りで近場の観光地を巡るだけの予定だった。なのでここは雅が羨ましくなって早く元気になるくらい楽しんでくるか。そしてお土産を買ってプレゼントでもしてやるか。
 楽しむことを誓って、俺達は雅を置いて旅行に出かけた。
 結果的にそれは、雅にとって正解だったのかもしれない。
 そして――親父とお袋にとっては最悪の旅行となった。

 その日は朝は快晴だった。妹の事が、やはり気がかりではあったが、それでも楽しく各地を巡る事はできた。親父とお袋も、ここに来て諍いを続けるのは愚かだと思ったのか、それとも単純に楽しかったのかは分からないが、仲良く楽しんでくれているようだった。
 だが天気は突如として悪化。一通り目ぼしいところを回ってホテルへと帰る段階になってからだが、帰り道ではすでに大雨どころか豪雨になっていた。
 走る車をけたたましく音を立てながら雨が打ち据え、フロントガラスを拭くワイパーが右へ左へ忙しなく移動する。
 車は山道の急カーブを走りぬけ、その中で揺られながら、どうしてだか胸騒ぎを覚えていた。
 稲光が暗くなり始めた空を白く染めた。何度も雷鳴が響いて、雨脚は更に強くなる。まだ強くなるのか、と俺は初めての経験に驚きを以て窓の外を見ていた。
 その時だった。
 俺の足元が急に光った気がした。顔を外からそっちに向ける。だが足元を振り返った時には、光はすでになく、気のせいかと俺は首を傾げた。
 その直後、衝撃が突然襲ってきた。激しく横から殴られたように揺さぶられ、車の窓ガラスが割れた。濡れた土が大量に俺に覆い被さってきて息が出来ない。
 そして頭が殴られた。かと思った。上下も左右も分からないくらいに揉みくちゃにされて、気づけば車の外に放り出されていた。
 そして崖下の落ちていく車を、朦朧とした意識で眺めていた。体が冷たくなっていく感覚と、広がっていく血の匂い。崩れた土砂で塞がれた道の上に横たわりながら、意識が薄れていく中、俺は朧気に何が起きたのか察した。
 頭の中が真っ白だった。雨か涙か、それとも血か。そいつらが混じって俺の顔を濡らして、心を掻き毟った。
 体から力が抜けていき、だが俺は自分が死ぬのだと悟った。それでも俺はその恐怖よりも、生きてはいないだろう両親を想った。

 ――俺が、奪ってしまった――




「そうか……」

 仏壇の前に置かれたりんを鳴らすと健一おじさんは、写真の中で微笑んでいる親父とお袋に向かって手を合わせて黙祷した。
 美沙子おばさんは悲しそうにおじさんに寄り添いながら遺影を見つめ、咲は親父達の事を聞いた途端にショックを受けて泣き始めたんで、今は雅に頼んで一緒にリビングに居てもらってる。だから今はこの部屋には三人だけで、さっきまでの騒がしさが消えて神妙な雰囲気が漂ってる。静寂が、少し苦しかった。
 しばらく眼を閉じていたが、おじさん達は後ろで黙っていた俺に向き直って何事か話しかけようとしたが、立ち込める雰囲気を打ち破るのに難儀しているみたいに口をモゴモゴさせて言葉を探していた。代わりに僅かに胸を上下させて大きく息を吐いた。

「大変だったでしょう、直くん……」
「いえ、そんな……そうですね、やっぱり大変だったかもしれません」

 最初に口を開いたのはおばさんで、柔らかく、だけども悲しそうな顔をしながら俺に慰めの言葉を投げ掛けてくれた。最初は日本人らしく謙遜が口をついて出てきかけたが、しかしながら俺は、何となく「大変じゃない」と言ったら、親父達の死がその程度でしか無い気がして否定できなかった。

「事故で親父達が死んでから記憶が曖昧で……あんまり実感が無いんですよね」

 記憶が無いわけじゃない。崖から親父達が車ごと転落するのははっきり覚えているし、その後の病院での事情聴取やら帰国の手配やら俺達の学校編入の手配やら、慌ただしく何らかの手続をしていた記憶はある。ただそこら辺は、今思い出すと何かに急かされ、深く考える時間もなく動いててまるで機械みたいだった。
 覚えているのは涙を流しながら感情を失ったようにただ俺を見つめる雅の姿と、俺達を互いに押し付けようって魂胆を静かにぶつけ合う親戚たちの姿だけだ。今思い出しても腹が立って、気づけば俺は膝の上で拳を握りしめていた。

「そういえば、ウチの親父達とおじさん達って昔から仲良かったんですよね?」
「ん? ああ、そうだな。俺が友仁……お前の親父に初めて会ったのは高校の時だから、それ以来の仲だな。大学も一緒だったし、どっちかっていうと腐れ縁って言う方が近いか。就職先も、流石に同じ会社じゃあ無かったが、近場は近場だったし、何の因果か建てる家まで隣同士になったからなぁ。それを知った時は流石に驚いたぜ」
「そんなに長かったんですか?」
「そうよね。ウチの方が後から家を建てたけど、引っ越しの挨拶をしに行ってお互いにびっくりしたのを覚えてるわ。すごい偶然ってあるのねって思って、これは縁を大事にしなきゃって思って。家族ぐるみの付き合いが始まったのもそこからだったかしら?」

 凄い縁もあるもんだ。どっちも別に意識したわけじゃないんだもんな。

「親父とお袋って、昔はどんな感じだったんですか?」

 そう聞くと、おじさんもおばさんも懐しそうに眼を細めた。

「そうだなぁ……友仁は」

 おじさんは考えこむように一瞬難しい顔をしたが、すぐにポンっと手を打つと美沙子おばさんと眼を合わせて、ほぼ同時に応えてくれた。

「お人好しだったな」
「お人好しだったわね。それもとびっきりの」

 笑いながら二人は言った。どんだけお人好しなんだよ、親父。

「そこの写真みたいにいつもニコニコ笑っててなぁ。困った奴がいれば誰だって手伝ってやってたよ」
「募金を見かければ迷わずいつもしてたし、アルバイトでも急に欠員が出て代わりをお願いされたら嫌な顔は……しながらも断らなかったかしら?」
「ああ、俺が偶には断れって言っても『でもそれで店長が困るしなぁ……』なんて頭を掻いてたな。他にも自分の勉強そっちのけで他の大学仲間の一夜漬けに付き合ってやったり、突然俺が『旅行に行こうぜ!』なんて言い出しても『ん。いいよ』なんて感じでかるーくオッケー出したりな」
「ホント、よく貴方に付き合ってくれてたわよねぇ」
「へぇ……そうだったんですね」
「だがな、一度こうと決めたら譲らない頑固な奴でもあったな」
「例えば、どんな時ですか?」
「そうねぇ……アメリアさんとの結婚を決めた時とかかしら?」
「お袋と?」
「そう。二人が結婚したのは大学卒業前だったの。学生結婚って事になるんだけど、当然ながら家族親戚一同から猛反対されたらしいわ」
「そもそもアメリアさんと付き合ってるのすら俺らも知らなかったからな。突然結婚するって言われてそりゃ驚いたよ。だが流石に早過ぎるんじゃないかって俺も反対したんだが、アイツは『僕が決めたんだ。健一がいくら反対しても僕は結婚する』っつって頑として聞かなかったもんな」

 なんか、意外だな。死ぬ前は結構ケンカしてたけど、それ以外の記憶の中の親父はお袋にべた惚れで、お袋の言う事にはノーを言ってた覚えは無い。ただイエスマンかというとそうじゃなくて、意見はキチンと言ってたみたいだけど。

「じゃあお袋はどんな人だったんですか?」
「アメリアさんはなんつーか……凄い美人だったが、それ以上にしっかりした人だったなぁ」
「私も初めて会った時はびっくりしたわ……お人形さんみたいに顔が整ってるのもそうだけど、何て言うのかしら? 思わず頭を下げたくなる雰囲気を持ってたわ」
「いやぁもうなぁ。初めてアイツから紹介された時は何処のお嬢様どころか、どっかの国のお姫様でもさらってきたのかと思ったな。別に偉そうだとか言う訳じゃないんだが、お淑やかな雰囲気の中にも凛とした、なんだろうな、芯の強さが見えるっていうか、そんな女性ひとだった」
「友仁君を押し退けて前に出るタイプじゃあ無かったけど、ただ黙って意見を受け入れるってタイプじゃなかったかな? ダメな物はダメ、嫌なものは嫌ってはっきりいうことが出来る人だったの。だからそういう意味で私は『ああ、友仁君とお似合いだな』って思ったわ。実際結婚しても私達の心配を他所に上手く行ってたし」
「目付きはキツかったけどな」
「目付きはキツかったわね」
「……なんでそこで二人して俺を見るんスか?」

 ああ知ってたよ、俺の目付きの悪さはお袋譲りだってことは!
 分かってはいたが改めて思い知らされたお袋からの欠点にいささかとは言えないくらいに深くやさぐれた気分になりながらソッポを向いた俺だったが、不意に頭を引っ張られた。

「な、な、な!?」
「ふふ、昔もよくこんな風にしてあげたわねぇ」

 半ば強引に俺の頭を膝の上に乗せると、頭を撫でながらおばさんは小さく笑った。

「や、止めてくださいよ!」
「あら、恥ずかしいのかしら?」
「そりゃそうですよ!」

 こう見えてももう高校生だからな。子供じゃないんだし、そりゃ、いくら昔から知ってる人だっていっても女の人の膝枕なんて恥ずかしいに決まってる。ましてや、昔から遊んでた幼馴染のお母さんだからな。これを羞恥プレイと呼ばずしてなんと呼ぶよ。誰か助けてくれ!
 そうだ、おっさん!
 咲を見た俺に対してあれだけ荒ぶったおっさんならきっと今頃嫉妬の炎を燃やして俺を睨みつけてるに違いない。そして俺を美沙子おばさんから引き剥がしてくれるはずだ!
 期待の篭った眼差しをおっさんに向けた俺だったが、しかしおっさんは神妙な表情をして俺とおばさんの二人を見ているだけで何も言わなかった。
 何でだよ、と肝心な所で期待外れの行動をやらかしたおっさんに全力で突っ込もうとしたが、それよりも早くおばさんが優しく頭を撫でてきた。

「恥ずかしがらなくてもいいのよ。まだ直くんは子供なんだから」
「……俺はもう子供じゃないですよ」

 おばさんが掛けてくれた言葉を、だが俺は否定した。
 もう親父もお袋も居ない。そしてまだ小学生の雅と二人になってしまった。俺が単なる子供で居る時間が終わってしまった事くらい、頭の悪い俺でも分かる。そりゃ口では子供じゃないなんて言っても、本当の大人みたいには出来ない。世間的には背伸びくらいしか出来ないガキだろうし、出来ないことばっかりな事はこの一、二ヶ月で何度も痛感した。
 それでも――俺はもう子供じゃ居られないんだ。
 否定した俺の言葉を、だけどもおばさんは首を振って更に否定する。

「ううん、直くんはまだまだ子供。いえ、そうじゃないわね。直くんはまだ子供じゃないといけないの」
「そんな事は――」
「ええ、友仁君もアメリアさんも亡くなってしまった今、子供のままであろうとするのは難しいのかもしれないわ。
 二人が亡くなってから今まで、言葉にすると伝わりにくいでしょうけれど、きっと直くんは大変だったと思うの。本来なら直くんくらいの歳の子ならしなくてもいい苦労をしてしまって、だから尚更子供のままじゃ居られないって思ってるのかもしれないわね。それは立派な志だわ。ホント、咲に聞かせてあげたいくらい。
 でも――だからこそ直くんは意識してでも子供のままで居て欲しいと私は思うわ」
「……」
「子供はどうせいつかは大人になるんだからな。人生八十年として、子供のままで居て許されるのは精々二十年。どうあがいたって子供である事を捨てて生きていかなきゃなんねぇんだ。直、お前だって後たった五年しか無いんだぞ?
 お前は早く一端の大人になりたいって思ってるかもしんねぇけどな、俺も含めて大人になっちまった連中は皆思ってる。『子供の頃に戻りたい』ってな。だが、当たり前だがそりゃ無理な話だ。分かっちゃいるけど、思わずにはいられないくらいには大人も大変で、子供の時ゃ気付かなかったが、それくらい子供の時代っていうのは貴重でかけがえの無いものなんだ。
 今日、話を聞いてお前は立派だと思う。両親の急な死にも負けずに頑張って雅ちゃんをキチンと守りぬいた。こうして屋根のある家の下で兄妹で過ごせる生活を掴みとった。俺がお前の時分の時に比べりゃ十分立派な大人だ。誇っていい。
 けどな、せっかくの貴重な子供の時間をわざわざ手放して、このまま無理を続ける必要は何処にも無いんだよ」
「……おじさんとおばさんの言ってる事は分かります。だけど――」

 そうして子供に戻って、俺達は今の生活を続けていけるのだろうか。せっかく取り戻した日常を維持できるのか。そして――
 そして、そんな大それた願いを、抱いてもいいのだろうか?
 どう反論すべきか逡巡する俺を見て、おじさんは小さく嘆息すると頭を掻いた。

「まったく……親父に似てお前も相当に頑固だな」
「そう、ですか?」
「ああ、本当に――友仁にもアメリアさんにもそっくりだよ、お前は」

 そう言っておじさんは俺を見て笑って、隣でおばさんも微笑んでいるのを見て、少し嬉しくなった。

「ふふ、そうやって直くんは笑えばいいのよ。難しいことを考えないで、感じるがままに、自分の気持ちに正直に笑って、泣いて、怒っていればいいの。それが子供の仕事だもの」
「……そんなもんですか?」
「そんなもんだよ。お前、自分じゃ気づいてないかもしれんが、さっきまで相当ひどい顔してたぞ?」

 ひどい顔って、人斬りヤクザみたいなおっさんに言われたか無いわ。
 まあ冗談は置いといて、だ。

「そんなひどい顔してました?」
「今はマシだけどな。俺らに事情を話してる最中なんか、口調は淡々としてて表情は顔からゴッソリ抜け落ちてな。見てるこっちが居た堪れなくなるくらいだったぞ」

 自分じゃ気づかんかったが、おっさんの口調から察するに相当なもんだったんだろう。人の良い二人だ。そりゃこうして強引にでも膝枕してくれるくらいにも心配するわな。
 本当ならキチンと口にすべきなんだが、俺は何となく気恥ずかしくて、心の中でそっと二人に感謝の気持ちを伝えた。

「ま、そういうわけだ。せっかく直ぐ側に俺ら夫婦が居るんだ。無理して大人になろうとせずに、遠慮無く頼ってくれて良い。俺も美沙子も友仁やアメリアさんにいっぱい助けられたんだ。だからむしろ頼ってくれた方が嬉しいんだ。それに咲も居る。俺らに直接相談しづらかったらまずはアイツにだけでも相談してやってくれ。
 これはお前の為でもあるかもしれんが、俺らの為でもある。手伝ってあげたい、助けてやりたいって思ってる相手に袖にされるのも、それはそれで辛いものがあるからな。
 久々に会った人間にいきなりこんな説教されて不愉快かもしれんが、出来れば心に留めておいて欲しい。ああ、雅ちゃんにもおじさんとおばさんを頼ってくれって伝えてくれ。小学生のあの子には尚更頼れる大人が必要だろうしな」
「……分かりました」

 もう遅いから、とおっさんは立ち上がり、おばさんも最後にもう一度優しく俺の頭を撫でてくれた。昔を思い出すその感触が懐かしくて、少し涙が出そうだった。出来れば雅の頭も、今度でいいから撫でてやってほしいな。
 リビングでいい加減気持ちが落ち着いていた咲に声を掛け、玄関で三人を見送るとともに、俺は頭を下げた。

「今日は本当にありがとうございました。少し気持ちが楽になった気がします。
 咲も、親父達の為に泣いてくれてありがとな」
「……うん。直くん達の気持ちを考えるとあんまり良くないんだろうけど、やっぱり私もおばさん達にはお世話になったから、もう会えないんだって思ったら悲しくて……」
「相変わらず咲は泣き虫だな」
「だって……」
「咲もお前の親には懐いていたからな。こいつにも今度友仁達の話を聞かせてやってくれ。メシでも食いながらゆっくり話そう」
「あら! それはいいわね! 二人共ぜひ家に食べに来てちょうだい」
「え、でも……」

 つい渋る言葉が口をついて出かけたが、先ほどの二人が掛けてくれた言葉が頭を過って、断りの言葉を留めてくれた。
 雅が「どうするの?」とも言いたげな眼で見上げてくるが、確認しなくてもその本心は分かっている。

「いいんですか?」
「ええ、もちろん。そうだ! 雅ちゃん、みんなの晩ゴハンをウチで一緒に作らない? 私の知ってるお料理を教えてあげられると思うの」
「え!? いいんですか!?」
「ふふ、当たり前じゃない。その代わり、偶には雅ちゃんもアメリカのお料理を教えてくれると助かるわ」
「やったーっ! 美沙子おばさん大好き!」

 話がまとまるとはち切れんばかりの笑顔を浮かべて雅がおばさんに抱きつく。うむ、我が妹ながら笑顔が似合うな。やはり笑ってるのが一番だ。





――二〇一五年五月七日
――午後十一時半くらい


「ふぅ……」

 真枝家が去って、ようやく俺は湯船でゆっくりと体を休める事が出来た。温めなおした湯からじんわりとしびれる様な熱が伝わってきて、思わず声が漏れてしまう。

「やっと一日が終わったな……」

 いやしかし、本当に今日という日は長かった。転校して早々にやらかして、窓から落ちかけてダチが出来て何が何やら分からんがなし崩し的に生徒会に入会させられてバイトして帰ってきてみれば少年漫画のお色気シーンみたいな嬉し恥ずかしイベントが起きておっさんに殺されそうになったかと思えば実は昔世話になったおじさんで励ましてもらった。
 うん、訳が分からん。
 だがまあ、なんだ。

「とりあえずは……上手くやっていけそうだな」

 正直、不安で不安で堪らなかった。俺みたいな何の力もない矮小なガキが、小学生の妹と二人で生きていけるのか、不安で怖かった。雅に不自由な生活を強いてしまったり、辛い思いをさせてしまったりするんじゃないかって怖かった。だから、今日おじさんとおばさんから頼っていいんだよって言ってもらって、実はかなり嬉しかったのと同時に安心した。肩の荷がかなり軽くなった気がして、少し気が抜けた。
 湯船の湯を掬って顔に掛ける。濡れた顔から雫が落ちて水面に波紋が広がる。そこに映った自分の顔を見ると、なるほど、目付きの悪さは相変わらずだがどこと無く余裕を取り戻した感はある。こうやってみると俺も中々イケメンだな。

「ンなわけあるか」

 自分の冗談に一人で突っ込んでみる。自分で自分を恥ずかしげもなくカッコいいと言える程自分が見えてない人にはなりたくないからな。
 そうやって一人、水面に浮かぶ顔を見て、その奥にある自分の脚につけたアンクレットが目についた。右足だけを水面から上に出してそれを眺めてみた。

「これもいつまで着けとくべきかねぇ……」

 黄金色、というにはくすんだ色のそれを見ながら溜息混じりにそんな言葉が出てきた。
 物心ついた時から右足首にはめているそれは、常に俺の生活と共にある。寝る時も飯食う時もこうして風呂に入っている時も片時も外さずに着けっぱなしだ。親父とお袋が言うには、何でもお袋の故郷のお守りみたいなものらしい。常に身につけておくことでいざという時に力を貸してくれるんだとか何とか。金属製のアンクレットの腹には三六〇度グルリと良く理解らない呪文のような装飾が施されてて、小さいながらも色とりどりの鮮やかな宝石が散りばめられている。

「何があっても絶対に外すなって二人共言ってたけど」

 小さい時に悪戯心から試しに外してみたことがあったが、その時は烈火の如く怒られた。主にお袋の方から。それ以来外した事はないし、雅もその時の様子がどうもトラウマになったらしく、外そうとする素振りすら見せなくなったな、そういえば。
 そっと右腕でアンクレットを撫でてみた。当たり前だが、金属質で少し表面がくすんでいる以外は何の変哲もない普通のアンクレット――だった。

「今となっちゃ形見になっちゃったなぁ……」

 別に外したからって誰に咎められるでもなくなってしまったが、なんだろうな、今でも外そうとするとお袋に殴られそうな気がしてくる。

「これも未練、なんかなぁ……」

 死んでしまってもう二ヶ月近い。とっくの昔に死を、もう二度と会えない事を受け入れたつもりではあったんだが。
 パシャリ、と湯を俺は顔に掛けた。天井のオレンジ色の明かりが少しだけ滲んで見えた。きっと、おじさんとおばさんが、あんな言葉を掛けてくるからだ。だから少し、本当に少しだけ気が緩んだだけなんだ。
 濡れた手で顔を何度も擦ってみる。だが、何度擦ってみても電灯は滲んだままだった。
 仕方なく俺は湯船の中に頭の先まで体を沈めた。
 揺らめく水面で世界が歪み、俺は安心して眼を閉じた。その直前に口の端から気泡がこぼれて、弾けて湯の中に溶けていった。
 それを見て俺は祈った。
――夢が、覚めませんように






















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