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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved








 ――それは、いつの話だっただろうか。

「直、ちょっとこっちにおいで」

 確か今よりずっと幼い頃、まだアメリカに行く前の話だ。
 今の家を買って住み始めたばかりのある日、俺は親父に呼ばれた。
 妹の雅はまだ立って歩けるようになったばかりで、俺は初めて出来た妹の存在が幼いながらに可愛くてずっと構っていた。一日中触っていても気にならないくらい、可愛い妹。雅もまた俺に懐いてくれて、そんな雅が尚更可愛くてしかたなかった。
 雅から離れたくなくって、何度呼ばれても親父のところには行かず無視していたんだが、いつまで経ってもやってこない俺にしびれをきらしたらしいお袋に抱きかかえられ、無理やりリビングへと連れて行かれた。

「ごめんね、直。雅と一緒に遊んでたかったよね?」
「……いい」

 一体何が「いい」というのか。口とは裏腹に態度で不機嫌を体現する俺に、親父もお袋も苦笑いを浮かべていた。

「■■ちゃんもごめんね。普段はコイツももうちょっとは愛想が良いんだけど、機嫌が悪くなると、ね。……こういうところはアメリアに似なくてもいいのに」
「友仁、聞こえてますわよ」

 俺の顔のすぐ横にお袋の手が伸びてきて、親父のケツを抓りあげる。親父は飛び上がって、だがお客の前で悲鳴を上げるのはさすがに恥ずかしかったのか、何とか声だけは飲み込んでいた。全く隠せていなかったけどな。
 とりあえずその時の親父の様子が面白かったのか、少しだけ不機嫌さが紛れたような気がする。そして俺はこの時になってようやく顔を自分のつま先から正面に向けた。

「いえ……たいそう可愛い妹様が居らっしゃると伺っております。気分を害されるのも致し方無いかと」
「こいつの雅に対する可愛がり方は度を越してると思うけどね……」

 目の前には二人、立っていた。
 親父と話してる方は俺よりもずっと大人で、たぶん高校生くらいだったんだろうか。今だから分かるが、所謂エプロンドレスを着ていて姿勢よく親父と向き合っていた。年齢が一回りは違うだろう親父とも堂々と会話をしてしっかりした印象だ。だけど、何処か気を張っているのが分かって、目にも何かの感情が揺れ動いているのが何となく俺にも分かったが、その時の俺にはその感情が何なのかは判断できなかった。
 もう一人の方に俺は視線を移した。
 白い幼児用のドレスを着た女の子だった。髪色は黒くて、光の加減だろうか、少し紫がかって見えた。長さは肩に掛かるかどうかというくらいで、隣の女の人と手を繋いでいた。
 儚げで、どこか存在感が希薄な少女だった。
 そして、さっきまでの俺と同じようにずっと俯いていた。
 じっとつま先を見て動かない。まるで、壊れた人形の様にその子は立っていた。俺にも反応を示さず、ただ何も無い足元をいつまでも見ていた。
 俺に興味がないのなら俺も興味がない。いつもだったら顔さえ上げないその子に対して何もしようとはせず、早く雅の所に帰せとばかりに親父やお袋を急かしただろう。
 だが、俺はその子の事から眼を離せなくなっていた。
 なぜなら、その子は泣いていたから。
 涙は流れていない。泣き声もない。だけど俺はその子が泣いているって分かったんだ。

「直、こっちのお姉ちゃんが■■■・■さん。そしてこっちが●●ちゃん。
 ……確か直よりひとつ年上だったっけ?」
「ええ、そうです。今年で七歳になります」
「直にとってはお姉さんになるわけだな。今日からしばらく二人共ウチに住むからな。ほら、ご挨拶して」

 年上だって親父が言ってたけど、たぶん俺にはその子が小さく見えて、もう一人妹が出来たような感覚だったんだろう。
 だから俺は、俺が何とかしなくちゃって思ったんだ。こんな可愛い子が泣くなんて、おかしいって思ったから。絶対、この子は笑ってる方が良いと思ったから。

「笑ってよ」

 そして俺がその子に投げかけた最初の言葉はそれだった。

「ぜったい、そっちが楽しいよ」

 女の子は顔を上げて、だがまたすぐに眼を伏せた。少しだけ見えたその眼はひどく沈んでいて、俺はその眼を見て親父を睨みつけた。この子にこんな顔をさせたままの大人たちがひどいと思ったから。

「……睨まないでくれよ、直。アメリアと一緒でお前に睨まれると怖いんだよ」
「友仁さん? それはどういう意味かしら?」

 ……やっぱり俺が何とかしなくちゃ。親父とお袋の痴話喧嘩を傍目で見ながら俺は決意した。

「……?」
「直くん?」

 一歩前に出る。
 俺がすぐ目の前に立ったからか、女の子は伏せていた顔を上げて、俺を見下ろした。
 この頃の一歳の年齢差は結構大きい。だから目の前の女の子は俺より頭半分くらい大きくて俺が見上げる形になる。にも関わらず俺は彼女に向かって手を伸ばして――

「ふぇ?」

 ほっぺを捻り上げた。柔らかくてすべすべした(それは俺もだが)頬をこねくり回して、その度に彼女の口から「ほぇほへ」とマヌケな声が漏れて、それがおかしくて俺は笑った。

「ふぁ、ふぁにをふるんへふは!?」
「笑った顔が見たくって。だってソッチのほうがぜったい楽しいし。怒った顔も可愛いけど」
「なっ!?」
「あらあら、直ったらもう女ったらしになっちゃったのね」
「……アメリア様、お嬢様は渡しませんよ」

 ……何か横でお袋たちがくっちゃべってるけど、俺の耳には入らない。だって、その時の俺にとっては彼女を笑わせる事こそが目下最大の関心事だったのだから。

「なあ、笑ってよ」
「……笑えませんわ」
「なんで?」
「っ、それは……」
「■ちゃん」

 彼女は答えない。それどころか、さっきまでの怒った顔すらしなくなって、また泣きそうな眼で顔を伏せてしまった。
 それを見て俺も気づいた。きっと、彼女には笑えないくらい悲しい事があったんだって。
 お気に入りのお人形を無くしてしまったのか、それとも大好きだったテレビアニメが終わってしまったのか、はたまたお父さんとお母さんに怒られてしまったのか。六歳児だった俺の貧困な想像力ではそんな事くらいしか思い浮かばず、ともあれ、彼女が簡単には立ち直れないくらいにとても悲しい想いを胸に抱いているのを幼いなりに俺も感じ取れた。
 それでも何とか彼女に笑って欲しくて。女の子が悲しい顔をしていると俺まで悲しくなってくる。
 悲しい時、俺が悲しい時、父さんと母さんは……何をしてくれたっけ?
 幼かった俺は、記憶の中の父さんと母さんの行動に答えを求め、その通りに行動した。

「ふぇっ!?」
「よしよし、もう何も怖いこと無いからな。安心していいからな」

 自分よりも背の高い女の子を抱きしめ、頭をポンポンと軽く叩いてやる。俺が泣いてしまった時に、悲しい時にいつも父さんと母さんにしてもらったように。雅が泣くといつもそうして泣きやませるように。

「だから、もう泣かなくったって大丈夫だぞ。お前を泣かせる奴がいたら、俺がそいつから守ってやるからな」
「……泣いてなんていませんわ」
「そっか、じゃあもう笑えるな? 笑ってくれよ。こうやってさ」

 口の両端を人差し指で押し広げて「いーっ!」ってしてみる。俺は笑い方を教えるつもりで実践してみせたのだが。

「……ぷっ」

 果たして彼女は笑った。

「はははははっ! 何よ、その顔!」
「お嬢様……」
「あははっ、あはははははははっ!」

 楽しそうに彼女は笑った。それどころか大爆笑である。
 自分で笑わせるつもりだったと言われればそれまでなのだが、そこまで笑われるとさすがに俺も傷つく。俺の顔はそんなにも変だったんだろうか。
 助けを求めて父さんと母さんを見上げたが、二人共笑みを浮かべるだけで助けは差し伸べるつもりはないらしく、そんな二人の態度に俺はヘソを曲げた。

「……ありがと。気持ちが楽になったわ」
「……そうかよ。良かったな」
「あなたが笑わせてくれたんじゃない。怒らないでよ」
「おこってねーよ」

 まったく、ガキだったな、俺も。振り返ってみればこんな時代が俺にもあったんだな。ああ、恥ずかしい。

「ね、今度はあなたが笑ってる顔を見せてよ」

 それは難しい注文だな。今の俺は、さっきまでのお前以上に笑えそうにない。
 そう思っていた俺だったが、「ねぇねぇ」とそっぽ向いた俺の顔を覗き込もうとしてくる彼女の粘りに負けて一度だけ彼女の方に振り向いた。

「……――あ」

 その時見た彼女の表情は柔らかくて優しくて、そして思ってた以上に可愛くて。
 そんな彼女に今の俺の顔を見られるのが恥ずかしくて、また俺は彼女から顔を背けたのだった。
 そしてまた彼女との鬼ごっこが始まったのである。





「――いってぇ!」
「いつまで寝てるつもりだい?」

 頭を叩かれた軽い衝撃と、頭上から振ってきたそんな声に俺は眼を覚ました。
 痛みで見開いた視界の先には突き抜けるような青。雲ひとつ無くて、どこまでも吸い込まれていってしまいそうな、そんな空だった。
 眼を開けて空が見えるということは俺は地面に仰向けで寝ているわけで、鈍った感覚が戻ってくるにつれて自分が大の字になっていることに気づいた。

「……草?」

 顔の直ぐ側には青々とした芝生。土の香りが鼻をくすぐって体が呼吸を取り戻す。その薫りは何処か懐かしい感じがする。そして。

「なんかすっげー懐かしい夢を見た気が……」

 するんだが、俺はどんな夢を見たんだか。
 「懐かしい」という感覚だけは残ってるんだが、その具体的な中身がさっぱりだ。思い出そうとする端から次々とぼやけて零れ落ちて、すでにまったく思い出せない。まあ、夢なんてもんはそんなモンだろうが。

「それはいいとして……」

 問題はなぜ俺はこんな外に寝てるのかということだ。何処ぞの酔っぱらいじゃあるまいし、酒を飲んだ記憶も無ければ、一応今まで夢遊病の類の傾向も無かったと思うのだが。

「って、そうじゃねぇだろ!」

 思い出した! 確か先輩の家に向かってる途中に変な猫に絡まれて、んで何か変な孔に落ちて――

「やれやれ、騒がしいことだね」

 女の呆れた様な声が聞こえた。猫だ。あの猫の声だ。
 慌てて振り向く。だが広がっているのは手入れされた草ばかりで、どこにも姿はない。

「それじゃ、眼を覚ましたことだし、私は行くよ。後は衛兵達に捕まらないようせいぜい自力で頑張ってくれたまえ」
「はっ!? ちょ、待て……」
「ではさらばだ!」

 真後ろから声がした。だがそこにも猫の姿は無くて、代わりに二本の白くて細い脚がほんの一瞬見えたかと思うと急にバサッと布みたいな黒い物が視界を遮った。

「何しやがるっ……!?」

 額に青筋を浮かべて、両手で布を振り払って怒鳴ってみるが、すでにそこには誰も居なかった。代わりに目の前にあったのは。

「……へ?」

 城であった。
 石造りの巨大な壁がすぐ目の前にあって、その壁の上端を目指して見上げていけば、RPGゲームなんかでよく出てくる中世風の紛うことなき城がそこにあるのである。その周囲には見事と言わんばかりに手入れの行き届いたカラフルな花畑が広がっていて、俺が寝ていたのはまさにその花畑の中心。フカフカの芝生で、そりゃ確かに寝心地は良かっただろうな。
 だが問題はそこではない。

「……」

 俺は夜に日本の住宅街に居たはずである。それが、夜がいつの間にか昼になっていて、何故かヨーロッパと思しき情景漂うお城のど真ん中に寝ていて。
 加えてあの猫はどこ行っただとか、さっきの女の人はなんだったのかとか、そもそもあの孔は何だったのかとか、もう怒涛のように疑問が頭の中で吹き荒んでいるわけである。てか、ここは何処だよ?

「おい」
「あー……やっぱ俺疲れてんだろうな。そうだよな、猫と会話とかあり得ねぇし」
「おい、貴様」
「だいたいどう見てもここ日本じゃねぇし、そんなまさか一瞬で外国に行くとか不可能だしな。まだ夢でも見てんだろ。ん? てことはさっきの夢は、夢の中で見たってことか?」
「返事をしろ、そこのお前」
「いやでもこれが現実ってこたねぇだろ。ファンタジーじゃあるまいし、そんな荒唐無稽な……」
「返事をしろと言っているだろう、貴様っ!!」
「さっきからやかましいわっ!! こっちはあり得ねぇ事態に頭が混乱してんだよっ!! ちったぁ黙って考え……」

 とまあ、訳の分からん事態に頭が痛いところでピーチクパーチクやかましい連中が居たんで俺もヒートアップして怒鳴り散らしたワケだが、非常に遺憾ながら直ぐに黙らせられる事になった。
 だって、なあ?

「怪しい奴め。いったい何処から入り込んだ? まあいい……ひっ捕らえろっ!」

 喉元に槍を突きつけられたら黙らざるを得ないだろ?



☆★☆★☆★☆★☆★



 生まれ持っての目つきのせいで、口さがない人間には「睨んだら心が砕ける魔法を使える」だとか「生まれ持っての視線スナイパー」だとか散々な言われっぷりの俺だが、当然ながら睨んだだけで人を殺せるはずもなく、ケンカなんかで物理的な威力を持つわけもない。俺は至極まっとうな人間であり、そんな人外な特殊能力など持ちえていない。

「いってぇ!!」

 なので槍を持った大勢の兵隊さんらしき人たちに取り囲まれていた俺は、これまた当然の事ながら一切の抵抗すること無く捕らえられた。文字通り、完全にお手上げである。無抵抗を示すために両手をホールドアップしたのだが、どうやら殺気立った兵隊さんには通用しなかったらしい。
 乱暴な手つきに苛つきながらお縄についた俺だが、状況が全く理解できないながらも一握りの冷静さは残しておいたらしい。抵抗して身を危険に晒すよりは大人しく縛られておいた方が得策と判断して、そのまま牢屋へと連行された。
 石造りの建物だからか、外はあんだけカラッとして暖かかったというのに地下牢への通路はお約束の如くジメジメとして肌寒く、まさに罪人の住処としてはふさわしい様に思えた。
 そんな通路を、俺は半ば引きずられるように進んでいく。脚やら頭やらを打ち付けながら下への階段を降りて行き、それ故に冒頭の俺の叫びとなるわけである。
 こうして引きずられるのは、かつて昼休みに先輩に目安箱見学に連れて行かれた時以来だが兵隊さんよ、もう少し引きずり方に愛情があってもいいとは思わんかね?

「ふん、どこの賊かは知らんがこのヴォルスティニアの皇城に忍び込むような連中に情けを掛ける必要など無い。あの場で斬り殺されなかっただけありがたいと思え」

 ああ、やっぱりここは王城だったんか。ヴォルなんちゃらとかいう国の名前は一切合切聞いた事が無いが、そりゃ王様の城に突然怪しい奴が現れたらあんな殺気立つわな。この国の事情はさっぱり分からんが、もし絶対君主制の国ならば俺を引きずるこの血気盛んな兵士のクソ野郎が言うとおりその場で斬り殺されてもおかしくなかったのかもしれん。運が良かった。いや、この状況に陥ってる時点で運が恐ろしく悪いのか。

「っ、どわぁっ!」
「貴様の刑は追って決まる。それまでこの場所で、自らが犯した過ちを悔いておくのだな!」

 とかなんとか考えている間に牢屋に到着し、この兵士は俺を縛っていた縄を解くとケツを蹴り飛ばして俺を牢屋の中へと押し込んだ。

「クソッ! さっきから俺だって好きでこんな場所に来たわけじゃねーって言ってんだろうがっ! さっさと出して俺を帰しやがれっ!」

 鍵が掛けられていくのを見ながら、掴んだ鉄格子をガシガシと揺らしながら怒鳴って身の潔白を主張する。

「黙れっ! 罪人の戯れ言なぞ聞く耳持たんわ!」
「戯れ言じゃなくて本当のことだっつうの! 気がついたらあの花畑の中で寝てたんだよっ! むしろ俺の方がなんでこんな城に居たのか教えてほしいわっ!」
「ハッ! ならば貴様は酔っ払いか? 酔いどれ風情が入り込める程この城の警備は甘くはない!」
「だったらその甘くねー警備をどうやってかいくぐって侵入したかお前が説明してみろよ! あぁんっ?」
「口の減らない奴だ! いいだろう、ならば話を聞くだけ聞いてやる。真実を話したら、警備の不十分さを指摘したということで減刑を上に申し出てやろう」
「まじかっ!?」

 であれば全てを赤裸々に話してやろう。こちとらやましい事は一切ないのだ。誤解だと分かれば直ぐに解放してくれることを祈るしか無いが、まずは家に帰れるだけでも良しとしよう。いったい孔に落ちてからどれだけ時間が経ってるのか知らんが、雅は滅茶苦茶心配してることだろう。しばらく離してくれんかもしれんが、そこは受け入れねばなるまい。
 ともあれ、まずは解放されなければ話にならん。

「えっとだな。俺はただ夜に道を歩いてただけなんだ。学校の先輩のところに向かう途中で……」
「ほう、そのナリで貴様は学徒だったか。最近の学生は随分と剣呑な目つきをしているのだな」
「やかましいわ! で、その途中で猫に出会ってだな」

 話す内容を思い浮かべて気づいた。あれ、もしかして、これ。

「続けろ」
「……えっとだな、猫が居て、そいつが俺をどっかに連れて行こうとしたんだな。とは言っても俺もヒマじゃない。なんで、俺は無視して進もうとしたんだが、終いにはそいつが突然喋り出して」
「……ほう」

 話を聞いてくれていた兵士の相槌の声が少しばかり低くなった気がする。

「しかたねぇからその猫に付いて行ったんだよ。で、袋小路に連れ込まれて、そしたら突然変な孔が何もない所に開いてさ」
「……」
「……俺は嫌な予感がして逃げようとしたんだよ。だけど吸い込む力がすごくてさ。吸引力の変わらないなんちゃらみたいな凄い勢いで引き込むんだよ? で、止めに俺を連れてきた猫に頭押されて孔に落ちてな?」
「……」
「……意識を失って、気がついたら花畑の上に寝っ転がってたってわけだ」
「なるほどな」

 兵士が俺を見る目がさっきとは違う意味で冷たい。

「それで、そんな話を俺が信じると思うか?」
「……思いません」

 自分で話しながら気づいたが、荒唐無稽すぎる。そんなファンタジックな――俺から見ればすでに今の状況がファンタジーだが――事が起きたと言われてたらまず間違いなくそいつのオツムを疑う。まあ、まさに俺が今、可哀想なものを見る目で見られてるわけだが。
 そんでそんな事をこんな状況で言えば、人の神経を逆撫ですること間違いなく。
 兵士は顔を真赤にして俺を怒鳴りつけた。

「まったく、たわ言ばかり言いよって! 貴様には反省するつもりは無いようだな!」
「ち、ちがっ……! 俺は本当に……」
「生きて牢から出られると思うな! 覚悟しておけっ!」
「待て! 待ってくれっ! 頼む、ここから……」

 俺が言い終わる前に牢屋の入り口が思い切り閉められてけたたましい音が静かな地下に響き渡った。
 反響が少しずつ無くなって、また元の静けさが支配するまでは間も無かった。そのあまりの静けさが、俺が一人であると如実に語っていて体から力が抜けていく。
 冷たくて湿った床に尻をつく。兵士と言い合っていた時の熱情があっという間に奪われていって、俺は何をするでもなくただその場で項垂れた。

「なんでこんな事に……」

 頭を抱え、うずくまる。苔の生えた床が物言わず佇んでいる。
 なんとか虚勢を張っていたが、事一人になると急速に体から、心から力が失われていって、何をすればいいのか分からなくなる。これからどうなるのか、俺は何が出来るのか。それを考える気力さえ無くなっていっていた。
 結局のところ、あの猫に俺は謀れたのだ、と今更になってようやく気づく。何をやったのかはさっぱりだが、俺を何かの薬なりを嗅がせて幻覚を見せ、俺を運んで何処かの城の庭に寝かせる。そして俺が注目を集めている間に、あの猫は何処かに忍び込んだに違いない。さながら何処ぞの大泥棒だな。
 「あの猫」というところがイマイチ締まらんが、「猫」のところを、目覚めた時にいた「女の人」という風に置き換えればすっきりと筋が通る。猫の体は生身でスピーカーなどは見当たらなかったが、俺だって知らないことは多い。何らかの手段であの女が猫を通して俺に話しかけていたんだろう。そんな事が分かったって何の解決にもならないが。

「雅……、先輩……」

 分からんことは多いが、どうせ分からんことは分からんのだ。とりあえず自分を納得させて、自分を慰めて気力を取り戻さねば。雅と先輩の名前をつぶやくと、少し力が戻ってきた気がした。こんな所に居て、二人を泣かせるわけにはいかねぇ。
 ……雅はともかく、なんで先輩が泣くんだ?

「……まあいい」

 それよりも何としてもここから出ねぇと。
 パシン、と自分の頬を叩いて気合を入れる。状況は絶望的で、事情もさっぱりだが俺はこんな所に居るわけにはいかない。早く戻って、一刻も早く雅を安心させなければ。

「ふぉっふぉ。話をちっと耳にしたが、中々どうして、大変な目に遭っとるようじゃのう」

 叩いたおかげで頬がヒリヒリする中、少しは血の巡りがマシになった頭で脱出手段を考え始めたんだが、その思考を牢屋の奥の方から老人の楽しげな声が妨げてきた。

「アンタは……?」
「儂か? 儂はただの爺じゃよ。一応この牢屋の管理を任されておるがの。とは言っても、今、この牢に入っておるのはお主だけじゃからどうにも暇での。どうじゃ? どうせ暇じゃろうし、爺のお喋りに付き合わんか?」
「……ワリィけど、今は俺もそれどころじゃないんだ」
「ここから脱出する方法かの?」
「まぁ、そんなところだ。可愛い妹が居るんでな。何も悪い事してねぇのにこんな所に閉じ込められてる暇は無いんだ」
「ふむ、そうかの……お主の疑問にもちっとは答えられるかと思ったんじゃが……そりゃ残念じゃ。大人しく爺は引っ込んでおるとするかの」
「ちょっと待った!」

 宣言通り腰を叩きながら牢屋の奥の方に戻りかけたこのご老人を呼び止める。何やら聞き捨てならないセリフがあったぞ?

「俺の疑問に答えられるって……爺さんは何か知ってんのか?」
「お主はここが何処か知りたいんじゃろう? ならば答えられるじゃろうて」

 そう言って監視用だろうと思われる、予め牢の前に用意されていた椅子に座る。そしてぼうぼうに伸びた白いあごひげを撫でながら、爺さんは思い出すように首を傾げながら話し始めた。

「まずこうして儂らが居るここについて話そうかの。この国はヴォルスティニア帝国。今や大陸一の大国となって名を馳せる大帝国じゃ。だいたいは帝国とだけ呼ばれておるがの。そしてこの城は皇帝が住んでおられる皇城じゃの」
「国の名前は捕まる時にチラッと聞いたけど……俺はそんな国、今まで聞いた事がねぇよ」

 何をもって大陸一って言ってんのかしらんが、領土だけで言えばロシアだし人口で言えば中国だ。大陸一っていうのが自称じゃなけりゃ幾らなんでも俺が知らねぇはずは無いし、まさか、俺もレイレイみたく記憶喪失にでもなったか?

「どれだけ田舎に住もうともこの世界では知らぬ者はおらんじゃろうが、お主なら知らんのも無理はなかろうて。そもそも『住む世界』が違うのじゃからな」
「どういう意味だよ? 俺が世間知らずだって言いてぇのか?」
「ほっほ。そうではない。お主、先ほどの兵士との会話の中で『孔』に落ちたと言っておったろう?」
「ああ。……突然何も無いところに孔が出来るとか意味分かんねーけどな」
「それがお主の疑問に対する鍵じゃよ。恐らくじゃが、お主はアズミルズからやってきたんじゃろう」
「アズミルズ?」

 何だそりゃ? 新作お菓子の名前か?

「世界の呼び名じゃよ」爺さんは手に持っていた茶らしきものを口元に運んだ。「儂らが知る限り、この世は表裏一体の二つの世界で出来ておる。一つはお主が住んでおった世界『アズミルズ』、そしてもう一つがこの世界である『エルミルズ』じゃ」
「……爺さん、説明してもらってるところ悪いんだが、その、……頭大丈夫か?」
「ほっほ。少なくともお主よりはまともなつもりじゃ。信じられんじゃろうが、現実じゃよ。まずは受け入れい」
「信じろって言われてもな」

 地球は丸いし、地底人は居ない。世界はひとつであることを、まあ創作上は別として、常識としては誰も疑っていない。常識だから当たり前だが、世界が二つあるとか言われておいそれと信じられるかよ。

「お主の反応は正しいとは思うがの。これは儂の妄想でもなければ純然たる事実じゃよ。市井の人間は知らんじゃろうが、知識人やこの世界の為政者どもは二つ世界がある事を当たり前の事実として知っておる」
「……マジかよ」
「本当も本当じゃよ。もし機会があれば他の学者連中にでも聞いてみるがいい。儂と同じ説明が返ってくることじゃろうからな」

  むぅ……誰だったか、昔の物理学者が多世界解釈なるものを提唱したらしいが、現実に世界が二つあるとか言われてもイマイチ実感がわかねぇな。
 まあいい。理解できんものを理解しようとしても無駄だ。とりあえずそういうものとして受け入れるとして、だ。

「本当に二つ世界があるんなら、その、アズミルズだったか? 俺らの世界でももう少し知られてても良さそうなもんだが」
「アズミルズの事は儂もよく分からんがの、恐らくじゃがアズミルズからエルミルズへは一方通行と言ってもよい関係なんじゃなかろうかと儂は思っとる」
「……つまり、エルミルズからアズミルズへは戻れないってことか?」

 それを聞いて俺は青ざめた。もし、その話が本当だとすれば――俺はもう、帰れない。先輩にも会えないし、深音や淳平とも会えない。何より――雅を一人ぼっちにさせちまう。
 親父とお袋が死んだ時、雅は半分壊れかけた。なんとか今は立ち直っているが、これで俺が居なくなった、アイツはどうなる?

(帰ってくるよね?)
――ああ、帰ってやるさ。
 家を出る間際のアイツの言葉が蘇る。心臓を直接掴まれたみたいに痛み、震える腕を握りしめて感情の昂ぶりを抑える。俺は帰る。絶対に帰る。何としても、どんな手を使っても、絶対にあの家に戻ってやる。

「そんな悲壮な顔をするでない。エルミルズからアズミルズへ行く手段はあるからの」
「本当かっ!?」
「本当じゃとも。儂の言い方が悪かったの。儂が言いたかったのはあくまでアズミルズからエルミルズへと向かうのが自然じゃということじゃ。アズミルズで孔ができ、落ちたものがエルミルズで放り出されるのが一般的で、その逆の事象が滅多に起きぬからアズミルズではエルミルズが認識されていないんじゃろうと推測したに過ぎん。アズミルズからエルミルズへ通じる孔も極稀にしか発生せんからの。エルミルズからアズミルズへ通じる孔が自然に生じるのは、それこそ数十年に一度という頻度じゃろうて」
「数十年に一度って……それって俺が戻れねぇって言ってるのと同じじゃねぇか……」
「せっかちな奴じゃの。話は最後まで聞くべきじゃよ?」

 爺さんの呆れたような声に俺は、いつの間にか伏せていた顔を上げた。

「自然にエルミルズからアズミルズへ向かう孔は滅多に発生せん。じゃが、その孔を人為的に穿ける手段はある、というのが通説じゃ。そしてその方法を隣国のユースティール王国が持っておったと言われておる」
「それじゃそのユースティール王国ってトコに行けば……!」

 と喜びかけたところでふと気づいた。ユースティール王国が持って「おった」と言うことは……

「うむ、気づいたようじゃな。すでにユースティール王国は無い。このヴォルスティニアによって数年前に滅ぼされてしまった。ユースティールの王族のみがアズミルズへと向かう孔を開ける魔法を有しておったと言われとるが、攻めこまれた際に当時の王と王妃は自害。娘が居ったという話じゃが、戦時の混乱でその子も今は何処に居るのかは誰も知らん。数年前に帝国も代替わりしたが、先の皇帝は王国のその秘術を欲して侵攻したと言う話じゃったが、結局その魔法式は手に入れる事が出来ないまま先代も逝去したしの」

 それを聞いて俺は崩れ落ちた。前のめりだった体が後ろに倒れて、冷たい石の壁にぶち当たる。微かに痛みが走るが、それよりもこみ上げてくる絶望感の方が苦しかった。

「そう肩を落とすでない。アズミルズに戻る手段はきっとある。王の娘もきっと生きておるじゃろうし、諦めねばお主が戻ることも叶おうて」
「……そうだな」

 ずっしりと重く感じる体をなんとか起こして爺さんの言葉に頷く。
 こんな事で諦めてたまるか。雅の泣き顔を思い出せ。先輩の笑顔を思い浮かべろ。深音のいたずらな顔を刻め、淳平の頑張ってる姿を思い起こせ、咲の無垢な笑いを焼き付けろ。
 活力が少しだが湧いてくる。諦めるな、諦めるな。絶対に俺はあいつらの元に戻るんだ。そう言い聞かせると気持ちが楽になってきた。
 最後に、腹ン中の重い気持ちを吐き出すように息を吐くと、意識して少し声を張る。

「それにしても……魔法なんて本当にファンタジーだな」
「その言い方じゃとやはりアズミルズには無いんじゃの」
「空想の産物に過ぎねぇよ。嘘かほんとかペテン師みたいなのは居たけどな。
 それよりも、だ。爺さん。ユースティール王国の人間以外にその魔法を使える奴は居ねぇのか? それとか、知られていない王族の人間が居るとかさ」
「さて、のぅ……そんな人間が居るなら帝国も王国に攻めこむことは無かったじゃろうて」
「まあ、そりゃそうだな」
「じゃが賢者殿なら、もしかしたら使えてもよさそうなもんじゃが」
「賢者?」
「うむ。大陸一と名高い魔法使いであり、『魔王』とも『魔導師』とも呼ばれておる。正確な名前は儂は知らんが、その方なら王国の秘術といえども何か存じておるかもしれん。何処に住んで居るのかは誰も知らんという話じゃがな」
「そうか……だけどそれならそいつを見つけ出せば俺は帰れるかもしれねぇんだな」

 見つけ出すのにどれだけ時間が掛かるのか、そもそも見つけ出せるのかも分からん。見つけ出したところで助けてくれる保証も無いしな。だからってこのまま座して待ってるわけにゃいかねぇ。

「……なあ、爺さん」
「なんじゃ?」
「俺はこれからどうなるんだ?」
「そうじゃのう……お主を連れてきた兵士は知らんかったようじゃが、皇帝陛下の耳にお主の事が届けば悪いようにはせんじゃろう。アズミルズの文化や技術はこちらに比べて大層進んでおるという話じゃからな。まだ今上陛下はお若いとはいえ頭の切れる御方じゃ。帝国に新たな風を取り込む意味でもアズミルズからやってきたお主をみすみす処断する事はなかろう。とはいえ、少なくとも十数年は飼い殺しじゃろうが」
「やっぱそうなるか……」

 ならいつまでものんびりとこんな所に居る場合じゃねぇな。一刻も、一秒でも早く雅たちの元に帰るためにも処断されるわけにも、皇帝なる野郎の良いように使われるわけにもいかん。

「何をしておるんじゃ?」
「何って見ての通りだよ。どっか脱出できそうな場所がねぇか探してんだよ」

 見たところこの牢もだいぶボロくなってるみたいだしな。もしかしたら脆くなってる場所の一つや二つあるかもしれん。そう思ってあちこち触ったり蹴飛ばしてみたりして感触を確かめてみる。
 しかしまさかプリズン・ブレイクなんざやってみる立場になるとはな。人生分かんねぇもんだ。

「無駄じゃよ。お主の気持ちは分からんではないが、表面上は古びて見えとっても帝国の魔法士たちが劣化防止の魔法を掛けておる。とても生身の人間の力で壊せるもんじゃなかろうて」
「そんなんやってみなきゃわかんねーだろ」

 軽く叩いてみるが爺さんの言うとおりぐらついてるような、そんな柔な場所はなさそうだ。となると……

「鉄格子の方か」
「やめておけ。閉じ込められた者は皆そっちから出ることを考えるからの。特に厳重に保護の魔法が掛けられておる。ヘタすればお主の方が怪我をするぞ」

 爺さんが忠告してくれるが、俺はそれを無視して鉄格子から距離を取った。いつぞやに深音が取ったのと同じ姿勢をしてみる。心配してくれるのはありがてーけど、でも黙って待っとくっていうのも性に合わねーからな。

「やるだけ……」

 体を捻って力を溜める。狙うは鍵の掛かった部分だ。たぶん、あそこが一番弱い。

「やれやれ……言っても聞かんか」

 そう言って爺さんは椅子に座って茶を傾けた。そうそう、爺さんはそこで座ってればいいんだ。そうすりゃ爺さんに迷惑は――多少掛けるだけで済むからよ。
 力を両足に込めていく。熱が集まっていって、抑えきれなくなった左足が震え始める。これはアストレイを助けたあの時と同じだ。今なら、鉄格子を蹴破るくらい容易い。そんな風にだって思える。

「やってみなけりゃ――」

 溜めきった力を一気に解放。体を回転して左足を鉄格子に叩きつける!

「分かんねーだろっ!!」

 左脚と鉄格子がぶつかって体全体に反動が襲ってくる。轟音が地下中に響き渡り、足の裏から伝わった衝撃が内臓を、頭蓋を揺さぶって俺を後ろへと弾き飛ばした。
 飛ばされた俺は後頭部をしこたま石畳で摩り下ろすハメになり、悶絶。にも関わらず、鉄格子は変わらぬ姿で立って――

「……へ?」

 立ったまま、後ろの石壁に減り込んでいた。あ、爺さんが驚いて湯のみを落とした。

「な、な、な……何者じゃお主……?」
「いや、何者と問われても……」

 俺だって困る。確かに牢の扉を蹴り飛ばそうとはしたが、まさか本当に蹴り開けれるとは思わんかった。例え蹴り開けられたとしてもそこはせめて「ズズ……ガシャーン!」みたいな感じで倒れるだけとか、扉の部分だけ「バシーン!」と勢いよく開くとかさ? 鉄格子ごと吹き飛ばすとか予想できねぇよ。いつから俺はこんな怪力になったんだ? 俺が聞きたいわ。

「……その様子だと、私は別に来なくても大丈夫だったみたいね」

 ともかくは逃げねば、と気を取り直して鉄格子のあった場所を通り抜けた時、階段の方から声が聞こえた。
 殺した足音に遅れて影が差し込む。通路に灯された燭台の灯りの作られた影が揺れながら近づいてくる。
 誰だ、と警戒も顕に声の人物の登場を待つ。女の声だったが、もしかして俺を置いてさっさと消えた女の人か? いや、だけど声が何となく違う気がするな。となると、誰だ?
 一切心当たりは無い。怪訝に思いながら、いつでも振り切って逃げられる様に身構える。
 だが、出てきた人物を見て俺は言葉を失った。

「へ? な、なんで……?」

 なぜならそこには、顔を引き攣らせている凛ちゃんがメイド服姿で立っていたのだから。







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