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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved





「ふぅん……そないな事があったんか」
「なるほどねぇ。それでデコにそんなおっきい絆創膏貼ってんのね」
「ああ……ったく、最悪だよ」

 食堂で深音、淳平の二人と飯を食いながら俺はボヤいた。
 深音が言ったとおり俺の額にはでかでかとした絆創膏が貼られているのだが、何故そうなっているかといえば怪我をしたから――ではなくて、昨晩に雅から描かれた文字が消えなかったからである。
 薄れゆく意識の中で盛大に罵られた記憶はあるものの、いったい何を言われたのかは全く定かでは無いが殴った事を謝るどころか「バカ兄貴!」と書かれるくらいである。雅の怒りは相当なものだとは容易に想像ができるのは、今こうして弁当では無く食堂の飯を食っていることからも確定的に明らか。
 意識を失ったままリビングで朝を迎えて起こしもしてくれなかったし、当然ながら朝飯の準備もなし。幸いなのは油性ペンじゃなかったために明日には消えてくれるだろう事くらいだろうか。

「しっかしそらぴょん吉が悪いわ。幾らなんでもいきなり殴り飛ばすんは感心せんで?」
「なんとなく兄バカだ兄バカだとは思ってたけど兄バカここに極まれりね」
「……そうか?」
「しかも抱きついたのは妹さんの方からやろ? せやのに抱きつかれた方が殴られるんは理不尽やわ。追加でぴょん吉のそないな眼で毎日睨まれるんやろ? そのガイジンさん、もう今日にも出てくんちゃう?」
「おまけに一発で意識を飛ばすくらいに強烈なパンチだったんでしょ? せっかく雅ちゃんがアンタを説得したのに向こうから出て行かれたらメンツ丸つぶれじゃない」
「いや、兄妹でメンツって……」
「兄貴の思いを知ってなお、自分の考えを貫いたんにも関わらず、その相手から拒否られる。自分の兄貴のせいで。そらぁ怒るわ」
「明日には機嫌直してくれるといいわね? ま、当分許してはくれないでしょうけど。怖いわよ〜、女を怒らせたら。明日の朝陽を拝めるのを祈ってなさい?」
「さすがにそれは言いすぎだろ」

 ……言い過ぎですよね?
 半笑いで深音の顔を覗き込んでみるが、深音は意味深に笑うばかりだ。ニコニコとしていて、それが逆に怖い。

「……帰ったら二人に土下座します」
「それがいいわね。せいぜい地べたに這いつくばって、足の指でも舐めながら許しを請いなさい。自分より四つ年下の女に」
「そないなSMな話やったやろうか……?」

 まあ確かに俺もやり過ぎたな。せっかく不良から助けてやったのに俺の手で怪我させてりゃ何やってんのか意味分かんねぇし。

「それで、どうすんの、アンタは?」
「どうするって……何が?」
「決まってんでしょうが。その何とかって外国人の人探しを手伝うのかってこと。
 アンタとしてはさっさとその外国人に出て行って欲しいんでしょ?」
「あー、いやまあ……そうなの、か?」
「なによ、煮え切らないわね?」

 まあ雅の傍にカッコいい外国人の兄ちゃんが居るっていうのは色んな意味で不安だが、アストレイを追い出したいかと言われれば何か違う気がする。
 仕草とかがキザっぽいところはあるが何気ない行動の端々に上流階級っぽい優雅さがある。礼儀は正しいし、昨日交わした会話だと気遣いもできる奴だ。度々殴り飛ばした俺が言うなという話ではあるのだが、友人として良い関係が築けそうだと感じてはいる。なので、別に追い出したいわけではないのだが――

「雅じゃないけど、困ってる事は確かだしな。出来る限り力になってやりたいとは思ってるさ。ま、俺もバイトがあるからあんまり手伝ってはやれないとは思うが」
「あら、意外。話を聞いてる限りだとてっきりその人のことが嫌いなんだと思ってた」
「別に嫌いじゃねーよ。ただ……そうだな、まだそこまで信用できる程時間が経ってないから神経質になってるだけだ」
「ま、相手は知らん人間やしな。こないなご時世やしちっとばかし神経質すぎるくらいがちょうどええやろ」
「まーな。とはいえ……」

 アイツの話を聞いてる限りだとどんだけ探すのに時間かかるか分かったもんじゃねぇけどな。
 一体いつまで時間掛けるつもりなんだか……っていうかそもそも探してる女の子って見つかんのか?

「アンタが手伝えないんなら他の人に頼んでみたら?」
「探偵事務所とかにか? よく知らねーけど、相当金が掛かる印象があるんだが」

 金はある、みたいな事を言ってたけどンなとこに頼む金もあるんだろうか。今朝も眼を覚ました時は居なかったし、もしかしたらもうそういう職業の人らに頼んでるのかもな。帰ったら確認してみっか。

「違う違う。居るじゃない、お金も掛からないで、かつ喜んでこういうの手伝ってくれそうな御人が」

 それはもしかして……

「いつも一緒に飯を食っていて、今日は居ないあの人の事か?」
「そ。我らが会長様。最近また暇そうにしてるみたいだし、生徒であるアンタも困ってるんだから別にお願いしても悪くはないでしょ? それに、同じ生徒会だってのにどうせ毎日バイトで先輩と殆ど顔合わせて無いんでしょうし」
「そりゃまあそうだろうけどさ……」

 言うほど困ってはいないんだが。てか、学校と全く関係ないんじゃないか……って、そういや深音の依頼の時も学校とは関係なかったか。
 しかし先輩を巻き込むとなぁ……

「今度は何が起きるんだろうか……」
「人探しするだけやろ? そないに心配せんでもええんちゃう?」
「だといいんだがな」

 サクッと参加してサクッと見つかってしまえば良いんだが、たぶん……それは無いだろうな。
 何かしようとすれば、想定外の「何か」が必ず起きる。どうにも良くないものを引き込んでしまう素質を持っているようなのだが、果たして疫病神は先輩なのか俺なのか。
 願うことならせめて先輩であって欲しいが、アストレイのこともあるし、やっぱ俺か。俺が悪いものを引き込んでんのか。いや、ヘタしたら先輩と俺、揃ってそういう性質持ちなのかもしれん。

「……まあ、先輩にお願いするかはもう少し考えてみるさ。頼むにしても当人の許可も貰わんとダメだしな」
「ふーん、あ、そ。まあいいわ。
 ……こりゃ動かないわね。それなら……」
「ん? 最後何て言った?」
「ふっふー。別に? 何でも無いわよ。
 さて、それじゃそろそろ戻りましょうかね。ごちそうさま」

 興味無さそうに返事をした深音は、その後に小声でボソボソっと何事かを呟いたのだが上手く聞き取れなかった。そのまま強引に話を切って立ち上がる深音の様子に、俺は淳平を見遣るが淳平もそんな深音の様子が不可思議らしく、箸を口に加えたまま肩を竦めて俺を見返すだけだった。
 結果として、それがどうやらいけなかったみたいだ。その時に視線を深音から外さずにいればアイツの口端が邪悪に歪んでいたのに気づけただろうに。
 深音が何かを企んでいる。そんな事とは露知らず俺らも食器を片付けて教室へと戻っていく。途中、廊下を歩いていると、先輩が設置した目安箱が目に入って横目で見ながら通り過ぎた。

(……いざとなったら本当に先輩を頼るか)

 まずは自分たちだけで探さないとな。関係ない人に頼るのはどうにもならなくなってからっていうのが筋だろう。頼りたくないわけでは無いが、人に頼ってばっかというのは主義じゃない。

(頼る前にみつかってくれりゃあいいんだが――)

 そんな風に俺は思っていたんだが――




☆★☆★☆★☆★☆★




「水臭いではないか、直」

 俺は店に入ってきた人物を見て、眼を点にしながらその声を聞いた。
 その人物は全身から水を滴らせながら店の入口で仁王立ちし、腕を組んで口を尖らせながら俺を非難してきた。生来の吊り上がり気味の目が更に逆だてて不機嫌さを殊更にアピールしているその後ろでは、深音が申し訳無さそうに頭を下げ、しかしながら口端は面白そうに吊り上げながら様子を伺っていた。

(あの野郎っ……!)

 絶対ワザと先輩にバラしたな。
 頭痛を覚えながら睨みつけてみるが、そんな俺の様子を見ても柳に風とばかりに楽しそうに笑うばかりで全然堪えている様子はない。こりゃダメだ、と天を仰ぐと、俺は不機嫌さの影で寂しそうな表情を見え隠れさせている御方――河合先輩に向き直って引きつった笑顔を浮かべ、唯一このタイミングで言えるだろうセリフで応えてみせた。

「……いらっしゃいませ、お二人で宜しいでしょうか、お客様」



 授業が終わって放課後、いつも通りに俺は喫茶店「ランデスフリーデン」でバイトに励んでいた。
 ランデスフリーデンは元々オーナー一人で経営している小さな喫茶店だ。駅前通りからは少し離れた場所にあって店内にはテーブル席が三つと、後はカウンター席が七つあるだけ。十人も客が入れば満員感が出るそこは、ドイツ語で「田舎のやすらぎ」を意味するらしい店の名前の通りシックで何処か古ぼけた内装で田舎っぽさを演出している。都会のガヤガヤした外の空気からは完全に切り離されて、静かで穏やかな時間がいつも流れている。
 店内に広がる香ばしいコーヒーの香りと織りなす不思議な雰囲気はどうしてだかとても落ち着ける。初めは特に意識してなかったが、今では俺もすっかり気に入っているのだが、きっとそれはここの常連さんもそこが一番気に入っているのだと思う。
 一日の客数から考えて決して流行っているとは言い難く、また流行りのカフェとも違って甘さの強い商品も出してはいないからファッションに敏い若い女性客とかはあまりいない。
 だがバイトを始めて一ヶ月以上が経って気づいたのは、常に席を埋めているのは殆どが常連さんでしかも決して騒がしくなく静かに店の時の流れに身を委ねている人ばかりだということだ。それでいて一見さんお断りな雰囲気は無く、来る者を決して拒まず、それでいて初めて来た客を瞬く間に虜にしていくという、なんとも摩訶不思議な店である。
 そんなわけであるから、例えば今日の様に急な大雨であっても常連さんは気にせずやってくるため、基本的に客足が極端に落ちるような事は無い。

「ああ、今日も来ちゃったね」

 オーナー兼マスターであるミケさんの声を聞いて俺は窓の外を見た。
 ウェイターをしながら目撃したのは突然激しく窓を殴りつける大粒の雨で、学校から店に移動中に遭遇しなくて運がよかったという安堵と同時に連日の雨に「また雨か」と呟いてしまうくらいにはうんざりした気分になりもしたのだが、ミケさんも常連さんも落ち着いているのか、それともそもそも興味がないのか、窓の外を揃って一瞥しただけでみんな銘々に自分の作業に戻ってしまった。
 オーダーを届けた時にある常連さんに少し話を振ってみたが曰く、「長居する口実ができた」とのこと。どうやら常連さんは出来る限りこの店から帰りたくないらしい。本当に不思議な店だ。

 そんなランデスフリーデンなのだが、この雰囲気はあの二人も虜にしてしまったらしい。
 先輩と深音の二人――特に先輩の方は俺がアストレイのことを黙っていたことと土砂降りの雨の急襲とでたいそうご立腹の様子だったが、俺がオーダーされたコーヒーをテーブルに並べる頃にはすっかり気持ちも落ち着いたようで、店内に流れるミケさん選曲のジャズと雨音をBGMに静かにお喋りを楽しんでいた。
 ちなみに今は先輩はミケさんの高校時代のジャージを着ている。ずぶ濡れになったワイシャツは店の奥にある乾燥機で乾燥中であるため、幸いにして先輩を見る時に眼の遣り場に困るということはないのであしからず。

「お待たせ致しました。本日のオススメとブレンドコーヒーになります」

 顔見知りとは言え、二人は客である。バイト初日にミケさんから注意された様に、声を掛けながらも決して二人のコミュニケーションを妨げないようにさり気なくコーヒーを二人の前に並べていく。

「うん、美味しい……この上品な香りとコクのある苦味。マンデリンの良い豆だね」
「へぇ、良く分かったな」

 だが深音は会話を止めてカチャカチャと騒がしくソーサーを鳴らしながらカップを手に取り、ジュースを飲むかの様にコーヒーをあおると、特に告げてもいない産地を見事に当ててみせる。
 邪魔しないようにという俺の気遣いを彼方へ蹴り飛ばした所業ではあるのだが、深音の味覚には感嘆を禁じ得ない。
 初対面で俺が剣道をしていた事を見抜いた洞察力といい、時々このチンチクリンは見た目の印象と噛み合わない謎の能力を発揮する時がある。転校初日には先輩を謎の人物だと思っていたが、今では俺の中では深音の方がさっぱり正体が掴めない謎の女になりかけている。
 一方で先輩はそっと、優雅な手つきでカップを手に取り、目を閉じて一昔前の上質を知る人みたく口に含んだコーヒーを味わうと口元を綻ばせた。その姿は深音とは正反対で惚れ惚れする程に気品に溢れていた。

「ふむ、なるほど……これはブルーマウンテンとキリマンジャロのブレンドか」
「いえ、コロンビアとサントス、モカのブレンドになります」

 すまし顔で堂々と適当な事を仰る先輩。
 全く以て優雅でお嬢様な見た目だが、相変わらずこの人の味覚は壊滅的だ。普段の昼飯も毎度毎度良く分からん謎メニューを食ってるし。一度一口だけ貰った事があるのだが、あの時の味は一生忘れないだろう冒涜的な不味さであった。この人の他に一体誰が頼むのか不明だ。
 俺が指摘すると先輩は頬を赤らめてソッポ向いてしまった。恥ずかしいなら無理に深音に乗っからないでいいのに。
 はぁ、と先輩にバレないようにそっとため息をして別の話を振ってやった。

「それで、どうして先輩と深音がここに?」
「む。それは私と深音がここに来ては困るということか?」
「そうは言いませんけど……」

 困りはしないが、ぶっちゃけ恥ずかしい。ただでさえ自分が働いている姿を知り合いに見られるのは恥ずかしいというのに、まだまだコーヒーの淹れ方も接客も勉強中なのだ。そんな様子を見られたくはない。

「まあいい。それよりもだ、直。深音から聞いたぞ? 悩んでいるならどうして私に相談してくれなかったのだ?」

 先輩に言われてジト、と深音の野郎を見遣る。先輩にチクったこの野郎はわざとらしく俺から眼を逸して吹けもしない口笛を吹く真似をするという、なんとも古典的なごまかし方をしやがった。
 かすれた口笛の成り損ないが虚しく響き、俺はこれみよがしに舌打ちをして頭を掻いた。

「それとも私は頼りにならないか?」
「いえ、そんな事はないですが……もしかしなくてもそんなことを問い詰めるためだけにわざわざ店に来たんですか?」
「そんなこととは随分だな、直。生徒会長たる者、生徒が悩んでいるのであれば解決に力を貸すのは当然だろう? ましてや君は副会長なのだ。円滑に生徒会の活動を進めるためにも一刻も早く相談に乗って解決策を探るのは至極当たり前では無いか。
 まあ君が毎日放課後にバイトに励んでいるのは知ってはいたがそのバイト先を訪問した事は無かったからな。いかがわしい店で働いていないか、確認する意味もあったが」
「おやおや、言ってくれるねぇ。ウチの店がいかがわしい店だって?」

 先輩が話している途中で割って入る声が。
 振り向けば、カウンターに肘を突いてニヤニヤと俺らの様子を伺っているミケさんが居た。

「オーナー」
「ミケでいいっていつも言ってるだろ」
「すみません、つい」

 この店のオーナーであるミケさん――西尾・美華ミハナは、三十半ばだというのにまだ二十代と言っても通じるくらいに若い。背も高くてスラっとした体型に加えて、歌舞伎役者の様に切れ長の眼をした美人で、何とも男装が似合いそうな人だ。
 性格もこざっぱりした人で男っぽい口調であり、実際に昔から女性から人気があった、というのは常連の一人である彼女の高校時代の友人の言葉だ。今でこそ長い黒髪を適当に後ろで縛っているが学生時代は髪も短く、女性からの人気はさながら宝塚みたいだったとか。
 そのせいか、「宝塚っぽい」との事で本名のミハナ、と呼ばれるのがあまり好きじゃない。俺や客にはミケと呼ばせているのだが本人曰く、「ネコの名前みたいで可愛いだろう?」とのことだ。俺には良く分からん感覚だが、どうにも俺の本能が逆らうなと叫んでいるので素直にミケさんと呼んでいる。だいたいは今みたいに「オーナー」と呼んで注意されているが。

「それで、うちの店がなんだって?」
「む、すまない。別にこの店を貶める意図は無かったのだが、不快であったのなら謝罪しよう」
「おや、素直な子だね。いいさ、会長さんともなれば生徒の心配をするのは当然だろうしね。私も大人気なかった。素直に謝罪を受け取っておくよ。それで、ウチの店はどうだい?」
「すっごく素敵だと思います! コーヒーも美味しいですし、居心地も良いし。私もここの常連になろうかな?」
「私も深音に同意する。加えて言うならば……そうだな、どこか懐かしい雰囲気がある」
「ふふっ、そう言ってくれると嬉しいね。特にそっちの会長さん。直と同じ様なことを言ったのには少し驚いたよ」
「ほう、直も同じ事を思ったのか」
「へぇ〜……おんなじ感想をねぇ……」

 先輩と深音が揃って俺の顔を見上げた。

「たまたまですよ。別にいいじゃないですか、田舎っぽくて懐かしい雰囲気ですねって言っただけじゃないですか。それと深音。そのニヤニヤ笑いを止めろ」
「え〜、べっつに気にしないでいいじゃん。偶然なんでしょ〜? それとも河合先輩と同じ感想なのが恥ずかしいのかな〜」
「むぅ、直は私と同じ感想を抱くのが恥ずかしいというのか?」
「いや、そうじゃ無いですけど……」

 口を尖らせて先輩は俺を見上げてくる。
 ああ、もう! 深音が妙に食いついてくるから!

「そ、それよりも! どうしてミケさんはこういうコンセプトの店にしようって思ったんですか?」
「あ、逃げた」

 やかましいぞ、そこ。
 ミケさんは楽しそうに俺らの様子を眺めていたが、俺が話の水を向けると「そうだね……」と軽く眼を閉じた。

「この店のイメージはね、昔行った田舎の別荘をモチーフにしてるのさ」
「へぇ、その別荘がここみたいな感じだったんですか」
「まぁ内装は全然違うんだけどね。
 見渡すかぎりの大草原を風が駆け抜けていって、草が緑の波を起こしていくその先にある一軒の木造の小さな別荘。別に作り自体が凝ってたりはしてなかったんだけど、何て言えばいいかな、作った人と使っている人の両方の愛が込められてるのがはっきりと感じ取れる建物でね。そこで飲んだ紅茶の味は今でも忘れられないなぁ……」

 きっとミケさんの瞼の裏にはその時の情景がハッキリと映っているんだろう。目を閉じて小さく微笑んでる彼女の表情は懐かしさと寂しさが同居している様に思えた。

「そんな事があったんだぁ……それって外国の田舎ですよね? 何処の国なんですか?」
「さて、何処だったかな?」ミケさんは嘯いた。「随分前の話だし、忘れてしまったよ。それに、もう二度と行くことは無いだろうしね」
「どうしてですか?」

 深音が尋ねるとミケさんは小さく笑った。

「その別荘の持ち主はもう亡くなってしまったからね。家主が居ないのに勝手に行くわけにはいかないだろう?」
「あ……すみません……」
「気にすることはないさ。もうあの場所に行くことは無いだろうけど、私の眼にはその時の光景がしっかりと焼き付いているからね」

 ミケさんはカウンターから体を起こすと奥の方へ戻っていきながらヒラヒラと手を振った。

「それじゃ私は仕事に戻るよ。せっかく友達が来てくれたんだ。直はしばらくそこでおしゃべりしてていいよ」
「いいんですか? でも仕事は……?」
「君なんか居なくても店は回るよ」
「え? 俺って要らない子?」
「いやならオーダーが入った時だけ働いてくれればいいよ。ああ、会長さんの制服は乾いた頃に持って行くから、もしそれより早く帰るようなら声を掛けてくれ」

 そう言うと、ミケさんはコーヒーをカップに注いで椅子に座り、それをすすりながらカウンターに置いてあった新聞を読みふけり始めた。
 仕事はいいのか、そこの大人。

「不思議な人だね」
「うむ、さっぱりとしてて気持ちの良い人だった」

 まったく、同意だ。いい人なのは分かるんだが、イマイチ捉え所がないというか何と言うか。
 ま、せっかく貰った時間だし、休憩だと思ってコイツらに付き合うとしますかね。

「仕事中に邪魔するのもどうかと思っていたが、あの方が気を利かせてくれたのだから早速本題に入るとしよう」

 邪魔だと思ったなら店に押しかけてこないで欲しかったが。そう言ってしまうとまた先輩の機嫌が悪くなるのが分かっているので口にはしないがな。
 そんな事を考えていたらブルっと背筋が震えてきた。空調が効きすぎているのか? と思ったがそうでは無かったらしい。
 視線を感じて視線を天井から下ろしていけば、そこには口元を隠すように両手を組んだ先輩の姿が。

「それで、どういうつもりだったのか、じっくり話してもらおうか。なに、時間はたっぷりあるのだからな。背景から言い訳までしっかり聞かせてもらうぞ?」

 口端を上げてニヤリと笑う先輩の笑顔に、俺にはぎこちない笑顔で頷くしか選択肢が残されていないこと悟った。



☆★☆★☆★☆★☆★




「たぁだいまぁ〜……」

 夜九時を過ぎて俺はようやく安らぎを手に入れられそうだ。玄関灯の灯った家の中を見て心底そう思った。
 あれから数時間にわたって俺は先輩に対して、昼休みに深音たちにしたのと同じ説明を繰り返した。
 俺としてはちゃちゃっと話して先輩に納得してもらうつもりだったのだが、先輩が根掘り葉掘り、微に入り細に入り次から次へと質問してくるものだからまあ話が終わらない終わらない。一から十まで、途中仕事で中座しながらも詳細に話し、挙句の果てに家での俺の暴挙について長々とお説教を食らうハメになった。加えて真っ先に相談してもらえなくて寂しかった、どうして自分に話してくれなかったのかと理不尽な非難を轟々と甘受する時間はとんでもなく長かった。
 俺の言い訳など聞く耳ももたずに拗ねた子供の様に訥々と叱られていくのはゴリゴリと俺の精神を削っていき、最後にはプライドも何もかにもをかなぐり捨てて土下座して何とか解放してもらった。
 とりあえずはアストレイの許可を得てからという結論になったのだが、許可が得られた場合はアストレイと先輩をランデスフリーデンで会わせるという約束付きで解放してもらった。だが解放された後の常連さんたちの生暖かい視線が忘れられない。ミケさんも最後まで助けてくれなかったし、明日のバイト休もうかな。

「……ん?」

 黄昏気分で玄関ドアをくぐった俺だったが、そこには三指揃えて俺を出迎えてくれた雅……ではなく、見事なまでに綺麗なジャパニーズ土下座をかますアストレイが居た。

「……おいおい、何の真似だよ」
「この度は誠に申し訳ございません」

 理由を答えず謝罪を口にするアストレイ。何があった、と問い質そうとしたが、ふとコイツの頭を見ればグッショリとご自慢の金髪が濡れていた。
 何故だかアストレイの着ている、俺の貸したTシャツは右肩の所で裂けていて所々が黒く汚れていた。更によくよく見れば、元々白いもんだと思っていた掛けているエプロンは、俺の記憶の中では黒だったはず。
 視線を上げてアストレイが歩いてきた廊下を見れば、真っ白な足あとが転々と残っているわけで。
 この時点で俺はもう悪い予感しかしなかった。

「まさかっ……!」

 靴を脱ぎ捨ててリビングへと走った。
 ドアを開けた瞬間に廊下へと焦げ臭い匂いが一気に流れ出ていく。キッチンとリビングには真っ白な煙が充満して、眼を開けていられないくらいだった。
 それを我慢して部屋の中へ飛び込んでいって、そこで俺が眼にしたものは――

「…………」

 散らばったボールやひっくり返った皿の数々。飛び散った何か料理らしきものの黒い残骸。床や壁にはべっちょりとソースみたいなものが貼り付いて、フライパンと鍋の中では真っ黒いグロテスクなものがモクモクと黒い噴煙をあげていた。
 リビングを見れば絨毯の上に広がる飲み物の黒いシミ。壁のカレンダーは傾いて壁掛け時計も文字盤のガラスは割れていて、針は午後六時を指したまま時を刻むのに疲れしまったらしい。
 部屋は全体的に白く染まり、粉塵の様な何かが部屋の空間中に舞っていた。
 足元に固い何かがぶつかって見下ろせば、そこには赤いホース付きの筒が転がっていて――

「おにいちゃ〜ん……」

 中身を被ったのだろう、椅子に座ってテーブルに突っ伏していた雅が真っ白い頭で起き上がり涙目で見上げてくる。いったい……

「何がどうなってこうなった……」
「その、だね? 怒らないで聞いて欲しいんだけど……」

 振り返れば気まずそうに頬を掻くクソッタレイケメン外国人が立っていた。

「……いいぜ、今の俺は最高にいい気分なんだ。頭が沸騰してスチームポッドみたくなっちまいそうだよ……」
「え、えっとだね、その、この家にお世話になるのはとても嬉しいんだけど、やっぱり世話になるだけなのは自分の流儀に反するというか、ね? 今朝方雅ちゃんから聞いた話だと直はバイトで遅くなるし、雅ちゃん一人に家の事に加えて私の世話をさせるのは申し訳なかったから……」
「テメェが手伝おうとした、と?」
「いや、その……」
「あ?」
「……君と雅ちゃんが驚く顔が見たくてね? 一人で掃除や料理をやってみたんだ」

 そうかそうか。その心掛けは立派だな。そこは認めてやろう。
 しかしだ。

「家事をやった経験は?」
「たぶん……無かったんじゃないかな? なんとなく出来そうな気がしたんだけど、料理って難しいんだね」

 タハハ、と俺の目の前で頭を掻いて笑ってみせるアストレイ。
 その表情を見て、俺もまたニッコリとアストレイに笑いかけて――

「出ぇていけェェェェェェェェェェッ!!!!!」

 静かな住宅街に俺の怒声が響き渡ったのは言うまでもない話である。














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