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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved








――これが、私の運命なのだろう

 暗い道を歩きながら陽芽は心の中で呟いた。両脇には屈強な男達が自分を取り囲むように並んで歩き、表情の乏しい、まるで人形のような面持ちのまま前を向いている。意思はきちんとあるようなのだが前だけを向き、近くの者同士で会話を交わすことも無い。そのため不気味さがひどく際立つ。
 エルミルズの人間がアズミルズで活動する場合、アズミルズに対する「親和性」が必要になる。親和性が高ければエルミルズ以上の身体能力を発揮し、逆に低ければ動くのもきつくなり、その親和性は人それぞれだ。
 平均的な親和性ではアズミルズにやってきた時に体の重さを感じ、十数キロ程度の鎧をまとったように動作が鈍くなるものなのだが、親和性が平均より高いのか彼らの所作には淀みがない。アズミルズと親和性が非常に高く、異常とも言える身体能力を発揮する陽芽だが、どうやら逃げるのは難しそうだ。
 そもそも――逃げ出してどうするというのか。逃げて逃げて、追いつかれたというのに。

――これは、罰か。兵を、国民を置いて逃げ出した自分に対する。

 その思いはこの世界に逃げ出して以来、痼として強く心の中に残っていたものだった。
 オースフィアの名を捨て、河合・陽芽という新しい人間としての生を始めた幼き頃はただ嘆くばかりであった。
 何故、優しかった母は死ななければならなかったのか。
 何故、厳しくも守ってくれていた父は朽ち果てなければならなかったのか。
 何故――私はユースティールの名を捨てなければならなかったのか。
 両親を失った衝撃と見知らぬ土地での不慣れな生活。
 悲しみと憎しみと寂しさとが綯い交ぜになり、幼いオースフィアの心は壊れそうであった。亡き両親の仇を取ると幼心に憎悪を焚べ、幼き故の無力に嘆く。そして年齢以上に聡明であった為に帝国に対する憎悪を生きる糧として消化し、学び、再び不甲斐なさに嘆くという繰り返し。半ば、心は壊れていたと言っていい。
 だがアズミルズで出来た友人に救われた。
 笑え、と言われるがままに笑い、短い時間ながら共に過ごす中で憎しみは薄れていく。幼い心に怒りと悲しみを持続させるのはそも、無理な話であったのだ。無意識にオースフィアは憎しみを遠ざけ、友との楽しい感情が胸の内の大部分を占めるようになっていった。
 やがて間もなくその友はアメリカという国へと旅立ち、陽芽と離れ離れになったが既に陽芽の心は立ち直りを果たしていた。決して憎しみに引かれる事無く、しかし寂しさはごまかせない。凛が居るとはいえ、友が居なくなった寂しさを紛らわすために、陽芽は楽しみを全力で探すようになっていた。
 笑うために、悲しみに心引かれないように。友と交わした約束を守るために。それもまたオースフィアという少女が河合・陽芽として生きるために無意識に欲した要求なのかもしれない。その時の時間が今の河合・陽芽を形作ったのは間違いない。
 そして成長とともに生まれた心的な余裕は、ユースティールへの感傷の中である思いを彼女に抱かせた。
 つまり――残された人達はどうなったのだろう、と。

(私は……忘れようとしていた)

 為政者としての教育はまだあまり受けては居なかったが、オースフィアに対して国王である父は常々口にしていた。
 曰く、国民とは家族である、と。
 幼きオースフィアにとって家族とは父と母の二人である。自分や両親の身の回りの世話をしていた乳母や凛などの傍付き侍女も家族というカテゴリーに入れてもいいかもしれない。しかし見たことも聞いたこともない人を家族とは思えなかった。
 それでも父が国民の事を気にかけ、大切に思っている事を知っていた。だからオースフィアも大切にしようと思っていた。
 それが、どうだ。自らは国を捨て名を捨て、そしてユースティールとしての自分をも捨てようとしていた。国の民など端から頭に無かった。ただ自分が生き残りたいという浅ましい欲求だけを優先し、父が大切にしていたものを蔑ろにした。
 それは河合・陽芽の心を蝕んだ。頭から遠ざけようとすればするほど心は在りし日のユースティールの情景が浮かんできて、眼を閉じて眠りに落ちれば戦火の中の彼らが恨み言をぶつけて来るようになった。それから逃れる為に陽芽は常に熱中できることを探すことに腐心し、それに全力をぶつけてきた。全力でぶつかって取り組んで疲れ果てて寝る。そうすれば、何も夢を見なくて済んだから。

「怖いですかな、オースフィア様」

 左隣からの声に陽芽は頭を上げた。気づけば隣を歩いているのは屈強な男では無く、茶色のくたびれたスーツを身につけた老紳士だ。今も陽芽に対して微笑んでいる。
 目元の丸メガネのせいか抱く印象は優しそうで、レンズの奥では好々爺然とした柔らかい笑顔を浮かべている。シワだらけの帽子を被り、その様は何処にでも居そうな人のいい老人だ。
 陽芽はかつて、孤児院から脱走した少年を探した時に一度この老紳士と対面している。あの少年を保護したのは他でも無いこの老人なのだから。あの時と同じ雰囲気を纏い、気遣うように陽芽の歩調に合わせて歩いている。
 しかし陽芽はこの老人が見た目通りの人間では無い事を知っている。

「……怖くない、と言えば嘘になるな。かつての貴方の事を思い出したから」

 陽芽が連れ去られようとしたまさにその時、助けようとしてくれたのがアストレイだ。偶然か必然かは陽芽には判別しようが無いが、ともかくも現場を通りかかったアストレイは危険を顧みず陽芽の腕を掴んでいた男達に襲いかかった。
 だがそのアストレイを魔法の一撃で撃退したのがこの老紳士だ。邪魔をするなとつぶやくと同時に一瞬で魔法式を構築し、ただ撃退するにしては明らかに過剰な威力の魔法をぶつけた。人がまるでトラックに跳ねられた様に弾き飛ばされるのを目の当たりにした陽芽は悲鳴を上げたが、この老紳士は顔色一つ変えなかった。

「昔から貴方はそうだった。王国魔法師団長、ユースター・ブリュネール。訓練でも厳しく、悪事を見かければ容赦なく魔法で過剰な制裁を加えていた。その様子をたまたま目撃した時は、そんな貴方の姿が怖くて震えていたよ」
「若気の至り、と呼ぶには既に歳は重ねておりましたが、お恥ずかしい限りでございます。いくつになっても腕を磨くことばかりが頭を占めていて、他の者に気を掛ける余裕がありませんでした。
 あの時代、常に近隣からの侵略者共の魔の手から王家の方々を無事に守る事が出来るのか、不安で堪りませんでしたからな」
「ああ、貴方の忠誠もまた覚えているよ。父がよく褒めていた」
「そうですか、陛下が……」

 老紳士――ブリュネールは恥ずかしそうに帽子を取って白髪の目立つ頭を掻いた。そして「しかし――」と口ごもると何処か寂しそうに眼を細め、何処か遠くを眺めるように雨空を見上げた。

「――私は守れませんでした。どれだけ魔法の腕を磨こうとも圧倒的な帝国兵の数には敵わず、国王陛下ご夫妻にご自害を許す事態になり、オースフィア様も行方不明。そして私は国が滅びてもおめおめと生き延び、何年も椅子に座ったままただ生きるだけ屍と化しておりました」
「……」
「守るべき主を失い、胸に去来するのは後悔と空虚ばかり。一時は陛下の後を追おうかとも思いましたが……」ブリュネールは、自身とほぼ同じ背丈になった陽芽の頭を撫でた。「よくぞご無事で……しかもこのようにご立派に成長なされて……」

 シワだらけとなった指で目元に浮かんだ涙を拭い、陽芽に笑いかける。その顔を見て陽芽もまた在りし日のブリュネールの姿を重ねた。
 苛烈な訓練を目撃した陽芽はブリュネールのことが恐ろしくなり、避けるようになっていた。王城内で見かける度に物陰に隠れ、そんな陽芽を見つける度にブリュネールは他の者には見せない優しい笑みを、それでいて寂しそうな顔を見せて頭を撫でていた。
 記憶が甦るにつれて陽芽の中に申し訳無さが募っていく。だから陽芽は「オースフィア」として謝罪を口にした。

「……済まない。私は貴方達の様な忠臣を置いて逃げた。王家の人間として到底許されるものでは無いとは思うが、許して欲しい」
「とんでもございません。王家として血を残すのは当たり前の事でございます。私どもの方こそ……陛下を守りぬく事が出来ず何とお詫びすれば良いか、そればかりを考えておりました」

 だがブリュネールの方からも頭を下げられ、陽芽は困惑した。
 国を捨て、自分たちを見捨てた陽芽を糾弾する。それこそがブリュネールが自分を捉えた目的なのでは無いか。心中に深く抱いて育ててきた恨み。それをぶつけるためにアズミルズへ繋ぐ秘術を用いてまで自分の元にやってきた。陽芽はそう思い込んでいた。
 たかがそのためにアズミルズまで、とは思うが、人の恨みとは如何な事であっても可能にするエネルギーを有している。そしてそれだけの事を自分は犯したのだという負い目からの思考だ。
 しかしそんな陽芽の思い込みは外れ、ブリュネールだけでなく他の男たちも気づけば陽芽に向かって傅いでいた。雨の中、濡れるのも構わず己の不明を恥じるかのように頭を陽芽に垂れていた。それが尚更に陽芽を困惑させた。そして、理由が分からない為に余計に不安ばかりが募った。

「……ありがとう。そこまで思ってくれてきっと父も母も喜んでいるだろう」
 したがって当り障りのない返答に留まった。だがそれだけでブリュネールの目には深い感激が浮かび、雨に負けぬ涙が零れた。

「勿体無いお言葉……このブリュネール、今後共ユースティール家に忠誠を誓い申し上げます。
 さて、もう少しばかりオースフィア様のお言葉を噛みしめておりたいところではありますが、時間がありません。雨の中、誠に申し訳ございませんがオースフィア様には今しばらくご辛抱頂きたく……」
「それは構わない。しかし、これから私を何処に連れて行くのか、せめてそれくらいは教えて貰えないだろうか? それと……」
「何でございましょうか? 遠慮なさらずおっしゃってください」

 直接問うことに抵抗を覚えたが、まずはこうして自分を連れ去っておきながらかつての栄光の時代と変わらない扱いを続ける彼らの目的を知らねばならない。ブリュネールの言葉にも背中を押され、陽芽は尋ねた。

「私を……どうするつもりなのか? それを教えてほしい」
「……そうでしたな。オースフィア様とご対面できた昂ぶりで失念しておりました。誠に失礼致しました」

 ブリュネールは逡巡を見せつつも謝罪を口にする。しかし言葉とは裏腹に解答は出てこない。陽芽は訝しげにブリュネールの顔を見るが、穏やかに笑うブリュネールは前を見て歩き続けた。

「ブリュネール」
「しばしお待ちを」

 もう一度問いかけた陽芽に短くブリュネールは答えた。穏やかさの裏にある強い意思に陽芽は口ごもり、まだ話すつもりはないのだと察して、結果再び口を噤んで歩く。
 やがて、誰も居ない公園へと辿り着いたところで一同は脚を止めた。

「……っ!」

 夜の、誰も居ない公園。公園の半分は滑り台や砂場などの遊具が占めており、もう半分は子どもたちが思い切り走り回るためか、何も無い広場になっていた。人影は無く、公園を取り囲むように設置された街灯の光が寂しく震えている。
 その広場の一角に何気なく視線を走らせた陽芽は背筋を凍らせた。
 誰が見てもそこには何もない。しかし、十分な教育を受ける事無くアズミルズへやってきたものの、魔法使いとしての素質は十分な陽芽には何かが見えた。
 それはひずみだ。世界と世界の繋目が不完全で、ひどく歪んでいる。
 アズミルズとエルミルズを繋ぐ通路を作る時は、まずこういった自然発生する歪を探す。何故ならその方が使用する魔力も少なく、繋いだ時に生じる世界への影響も小さいもので済むからだ。受講した数少ない教育の中でも真っ先に教わるそのことを陽芽は覚えていた。しかし、陽芽が衝撃を受けたのは歪があったからではない。

「私を……エルミルズへと連れ戻すつもりなのかっ……!?」

 信じられないと大きく目を見張り、ブリュネールに向かって叫んだ。ここに連れてきたということは、つまりはそういうことなのだ。ここまでの道中、ブリュネールが示したユースティールへの忠誠とすでに王家たる資格を失った陽芽への丁重な態度。決して愚鈍では無い陽芽には彼らの目的が容易に想像出来た。

「私を……ユースティール家を再び興すつもりなのか、ブリュネールっ!!」
「左様でございます」ブリュネールは陽芽の怒鳴り声に動じる事無く、帽子を取ると慇懃に陽芽に向かって頭を下げた。「オースフィア様には正式に女王として我らの旗頭となって頂き、今一度ユースティール王国を建国致します。我らの手でかつての無念を晴らしたく存じます」
「……問う。今、エルミルズはどのような状況なんだ?」
「お答え致します。帝国はユースティールを併合後、神聖ロンディニア教国、リヒトライン公国へ進行するも戦線は膠着。魔王領からの横槍もありましてしばし一進一退の状況が続きましたが三年前に帝国皇帝が突如死亡しまして、皇太子であったエルヴィンス・ヴァントレイア新皇帝が誕生。以来、国境付近での小競り合いは続いているものの安定状態を保っております」
「それが分かっていてお前は国を興すと言っているのか!? 火種を投じ、再びエルミルズを乱世に導くつもりか!?」

 陽芽は怒りに震えた。ユースティール王国が滅んだとは言え、話を聞く限り世の中は落ち着きを取り戻している。目立った争いは無く、傷ついた国をそれぞれが癒やしている時期だ。それは国としてだけでなく、最も傷ついたはずの民も同じである。
 にも関わらずブリュネールはそこに新たな戦いの種を持ち込もうと言う。正気の沙汰とは思えなかった。

「オースフィア様のご懸念はごもっとも。未だどの国も戦乱の疲弊から立ち直れておりませぬ」
「ならば……!」
「なればこその機会なのです」ブリュネールは陽芽の手を引き、広場の方へ歩いて行く。「帝国領となってしまいましたがユースティール王国の土地には我らのように未だ王国に忠誠を誓う者が多くおります。まずはそんな彼らをオースフィア様の元へ導きたいと存じます。そして力を蓄えていくのです」
「先ほど言った通り私を旗頭にするつもりか……しかし、私にはそんな力など無い」
「オースフィア様はご自身を過小に評価されている」自らを否定する陽芽に対して、ブリュネールは諭した。「ユースティール王家の中で生死が明確で無い貴女様は我らの希望であられた。いつか、いつか我らの前に現れて導いてくださると……
 そして今ご存命が明らかになりました。この事を伝えれば各地から皆貴女様の元へ集ってくるでしょう」

 言い終え、ブリュネールは歪に前で立ち止まり、そこに向かって手を翳した。

「――――、――、―――」

 夜の公園に詠唱が響き、世界の空気が変わっていく。小康状態になり始めていた雨が再び強さを増し、歪が明確に形取っていく。孔のように円形に黒が濃くなり、漆黒と呼ぶに相応しい、何もかもを飲み込んでいきそうなまでに一色にその場所が染まった。
 だがそれまでであった。孔は野球のボールほどのサイズとなっただけでそれ以上の広がりを見せず、小さな球形のまま不気味にその場に留まっていた。

「……ここまでで魔力をかなり使いましてな。今の私にはこれが精一杯です」

 残念そうに溜息を吐くブリュネール。それを聞いて陽芽は安心を覚える。だがすぐに懐いたその思いを改めた。
 ブリュネールは陽芽を見ていた。変わらず祖父が成長した孫を見る様な眼差しを向けている。しかしその奥で覗く黒い眼が鈍く輝いていた。

「オースフィア様。貴女様の手でこの孔を広げて頂きたい」

 陽芽は息を飲んだ。

「全盛期の私でも一度に一人か二人通れる程度のものしか開ける事が出来ません。しかし貴女様であればもっと、それこそ、ここに居る全員が一度に通過できるほどの大きさの物を作ることが出来るはずです。
 ここで作った孔は我々の本拠地としている場所に作成され、多くの同胞が居ます。その孔からオースフィア様が真っ先に降り立てばオースフィア様の力に依るものと皆が確信を得るでしょう。同時に貴女様の求心力を高める事が出来ます。我々も必ずしも一枚岩とは言えないですが、そうする事で慎重派も納得し、ますます結束は固くなるでしょう」
「ふざけるなっ!!」

 怒鳴り声が響いた。裂帛の気迫が込められた声がビリビリとブリュネールの頬を切り裂いていく。吹き抜けた風が木の葉を揺らし、驚いた鳥達が一斉に囀りながら夜空に飛び出していった。
 陽芽は肩で息をしながら呼吸を整える。額に浮かんだ汗を乱暴に腕で拭い、柳眉を逆立ててブリュネールを睨みつけた。

「ブリュネール」
「は……」
「私は、行かない」
「オースフィア様」
「お前達の忠誠は嬉しく思う。それに応えられず、不義ばかりの我が身を恥ずかしく思うばかりだ」
「勿体無いお言葉です」
「だが……それでも私は、お前達と共には進めない」

 はっきりと、陽芽は拒絶を口にした。
 眼を閉じると去来するはこの世界での様々な思い出だ。逃げた果てに得た友人と、この世界で知り合った多くの人達。そして今尚、同じ時間を過ごす大切な仲間たち。
 凛、淳平、咲、深音。そして――

(――直)

 エルミルズでの何もかも与えられた生活に比べれば失敗も多かった。何一つ自分一人では出来ず、多かったどころか失敗しか無かった。
 それでも多くを得られた。失敗を重ねて、しかしその分だけ得られたものは強く自分のものになった。自分の血となり肉となり、今の自分を形作った。上手く行かず、辛い時もあったがその上に今の自分があるとすれば、それはきっと無駄では無かった。

「……私は怖かった」

 ユースティールで多くの友が死んだ。兄と思っていた騎士が、姉と思っていた侍女が死んだ。叔父さんだと思っていた大臣が死に、弟や妹だと思っていた国民が焼け死んだ。そして自分は生き残った。生き延びて、そのことが怖かった。罪の意識が蝕み、夢の中で彼らが自分を同じ地獄へと引きずり込もうと呪っていた。

「だから、お前達が私の事を嫌っていないと知ってホッとした。そして尚の事エルミルズに戻って皆に謝りたいと思った」
「でしたら……」
「だが――私はこの世界で生きているのだ」

 苦しむ陽芽を癒やしたのはこの世界だ。近所の老夫婦と交わす朝の何気ない会話。登校途中ですれ違う小学生の元気な声。数は少ないながらも学校での友人達と過ごす時間。
 季節とともに変わる景色。天気とともに変化する土の匂い。何時見ても眩いばかりに輝く都会のビル街。飽きることのないこの世界に癒され、この世界を陽芽は愛していた。
 無論、エルミルズへの情が消えた訳ではない。そこは彼女が生まれた故郷であり、父と母が眠る場所であり、彼女を逃すために命を散らした多くの人達が眠る場所なのだ。
 自分が過ごした場所へいつかもう一度脚を踏み入れたいと思う。形は無くとも彼らに会いたいと願い、深い郷愁の念は陽芽の中でくすぶっている。だが、それは今では無いのだと思う。何故ならば――

「今の私は河合・陽芽なのだ。オースフィア・マーガレット・ヴィ・ユースティールはすでにあの日、死んだのだ。それは、かつての王国の民にとっても同じ。王国は滅びて新たな道を歩んでいる。徒に人心を惑わせるべきではない」

 いずれこの世界で死に、魂が黄泉に還るその時にこそがきっと自分がエルミルズへ赴き、許しを乞う時なのだろう。それまで全力で生きる。でなければ、自分を活かしてくれた皆に申し訳がたたない。

「……私達は今、オースフィア様を必要としております。エルミルズで貴女様のお帰りを心待ちにしている者が多くおります。我らの……その者達の力には成っていただけないのでしょうか?」
「……それに関しては済まないと思う。期待を裏切る事になる私を恨んでくれて構わない」

 それでも譲れないものはある。世情が落ち着いている以上、それはそれであるべき姿なのだ。一部の者達の感情で民を傷つけてはならない。
 陽芽は一度瞑目し、苦悶を眉根に刻みながらも一歩も引かないとばかりにブリュネールの顔を見た。どうか、どうか諦めてほしい。そう強く願いながら。

「……そうですか」

 どれだけの時間が経過したか。やがて、ブリュネールは疲れた様にそれだけを吐き出した。その様子は心底落胆したようで、元々歳の割にかなり老齢に見える容姿だったがそれと比べてもかなり年老いて見えた。

「ブリュネール……」
「ならば仕方ありません」

 唐突にブリュネールが右手を空に掲げた。同時に、男達の内の三人程がブリュネール後ろに現れて懐から短剣を取り出す。自分を始末するつもりか、と陽芽の背に戦慄が走るが、男達はその剣で自分たちの腕を切りつけ始めた。

「何をっ……!」
「お静かに」

 剣先から鍔まで赤い血が流れ落ちてくる。滴らんばかりに剣腹が赤く染まり、だが男達は黙して声を発せず、痛がる素振りも見せない。
 明らかな、異常。陽芽は戦慄を禁じえず、知らず自らの両腕を掻い抱いた。
 そして、男達は剣を勢い良く地面に突き刺した。
 突き刺された箇所から血が踊る。蜥蜴トカゲの如く血が地面を這いまわり、通り過ぎた箇所が赤く怪しげな光を発する。その不気味な動きは瞬く間に辺り一帯へと広がっていった。
 円形を貴重とした複雑にして怪奇な紋様。地面にそれらを描き終えた血液達は魔法陣の中心に集い、そこから遥か上空へと飛び上がっていく。
 そして、弾けた。

「何が……っ!?」

 陽芽の呟きが静まり返った公園に微かに響き、しかしその声が途切れる。
 突如襲う地震の様な振動。それが伝わったと錯覚するかの如く空気がビリビリと電気を帯びた様に痺れていく。肌に軽く痛みが走って陽芽は一瞬眼を閉じ、だがそれも直ぐに消える。
 一体何が起きているのか。ブリュネールに問い質そうと陽芽は眼を開けて。
 そして言葉を失った。何故ならば――

「空が――」

 紅かった。
 陽芽から見た、数瞬前まで黒に近い藍色だった空は血で塗られたフィルターを通しているみたいに薄く紅く、不気味に蠢いていた。

「何を、何をした、ブリュネールっ!?」
「……」
「答えろっ!」
「結界ですよ」ブリュネールは帽子を目深にかぶり直した。「エルミルズへお連れするにも私の魔力はすでに不足しておりますので、この町の方々から魔力を拝借しようかと思いましてな。もちろんオースフィア様がお戻り頂けるのであればご協力頂蹴るかと存じますのでこの様な手段を取る必要はありませんが」

 ブリュネールの返答を聞き、陽芽は呆然と立ち尽くした。
 町の人々から魔力を徴収する結界。この魔法そのものの構成式はそう困難なものでは無い。
 魔力が枯渇して意識を失った者を救うため、魔力を譲渡する魔法は広くエルミルズでは使われており、多くの人から魔力を集める魔法もその構成式の一部を変更する事で可能となる。使える者は多くは無いが、極端に難易度が高いものでは無い。
 だが今、陽芽の目の前に広がっている結界は広大で、ブリュネールの言葉を信じるならば町全体を覆うほどだ。それほどの広範囲に展開するためには繊細な魔力制御と詳細な構成式が必要となり、男達の血を媒体としたとは言え、さすがは元魔法師団長と平時ならば感心するだけで終わっていただろう。
 しかし――

「お前は……この町の人々を――」

 ここはエルミルズでは無く、魔法の存在しないアズミルズだ。
 エルミルズに比べて大気中の魔素濃度は遥かに低く、ましてエルミルズの人間と違いアズミルズの人には体内で魔力を生成することは出来ず、自然に存在する魔素を取り込む器官も無い。
 唯一魔力の代わりに成り得る物は、唯一つ。
 人の魂、のみ。

「殺し尽くすつもりなのか……!?」
「私としても不本意なのです。本来ならばオースフィア様ご自身の意思で我らを導いて頂きたかったのですが、ご意思が固いようですので申し訳ありませんが強行手段を取らさせて頂きました。もちろん、今からでもオースフィア様が我らにご協力頂けるのであれば結界を発動するつもりはありません。無闇矢鱈にアズミルズの方々を傷つけるのは本意ではありませんからの」
「私を脅すつもりか」
「脅しではありませんぞ。オースフィア様が拒まれたら結界で魔力を集める他ありませんからな。オースフィア様を連れて帰れるのであれば多くを犠牲にしてでもその価値はありますのでな」

 震える手で陽芽は拳を握りしめた。強く噛みすぎた下唇が避け、青ざめた皮膚から真っ赤な血が玉の様になって溢れた。
 陽芽はそのまま立ち尽くした。思考を巡らせ、どうすべきなのか必死に考える。そんな陽芽の様子をブリュネールは黙って見るだけだ。口元は緩やかな弧を描き、陽芽が如何なる決断をするかをすでに判じている様にも思えた。

「――分かった」

 眉根に深く苦悶の跡を残して陽芽は頷いた。
 それ以上は口を開かず、黙ってブリュネールが作り出した「孔の卵」とも言える黒い球体に近づく。針先ほどの小ささのそれを見下ろすと、胸元からジャラリと音を立ててシャツの下に隠れていたネックレスを取り出した。
 幅一センチにも満たない紐部分には細い線で複雑な呪文が恐ろしいほどにびっちりと刻まれていた。地金は黄金色だが黒い線で描かれているため遠目には黒いネックレスとも見紛いかねない。紐の部分からは装飾として小さな宝石がいくつも垂れ下がっている。
 陽芽はその宝石の一つをつまみ上げて愛しそうに、それでいて悲しそうに眼を細めた。しかし直ぐに鋭く眉尻を上げるとつまんだ宝石を引きちぎる。
 首飾りを首から外し、地面に落とす。濡れた地面にぶつかってジャランとナいた。
 そして陽芽は取り外した宝石を、躊躇いなく飲み込んだ。

「オースフィア様っ!?」

 明らかな異物が喉を転がり、陽芽は一瞬苦しげに表情を歪める。
 乱心したか、とブリュネールは陽芽に近づこうとする。だが陽芽は喉元を抑えながらも腕をブリュネールに向かって突き出して制止した。
 そして宝石が喉を通り過ぎた途端、陽芽の体は淡い光に包まれた。同時、陽芽の体から発せられる不可視の圧力。その正体に思い至ったブリュネールは歓喜に眼を見開いた。それと同じくして今しがた陽芽が取り外した首飾りの正体にも思い至る。

「吸魔の、呪い」

 アズミルズでは魔法は存在しない。どれだけ魔力があろうと不要であり、しかし強い魔力を消費もせずに体内に溜め続ければ身体にも悪影響を及ぼすし、不可視の圧力と成って人との不和を惹起させる。
 陽芽の魔力は成長とともに膨大になっていく。それを防ぐために、与えられたのが吸魔の効果を持つこの首飾りだった。

「よくぞここまで成長なされた……」

 感涙を流しそうなブリュネールだったが、陽芽はそのつぶやきに反応することは無い。溢れんばかりの魔力を纏いながら、ブリュネールの開けた孔に手を翳した。

「――、――――、―――、――――、―――」

 長い髪をなびかせ陽芽は詠唱を口にした。その速度は異常にして非常。単なる音としても捉えることが困難なほどに超高速に詠唱を完了した。
 孔が拡大する。孔の縁が鼓動の様に脈動し、一気に一メートル程にまで広がる。
 風が暴風に変わる。竜巻の中の如く塵の類が舞い上がって孔の中に吸い込まれていき、陽芽たちも意識しなければその体を容易く飲み込まれてしまいそうな程に強く風が押し込んでいく。
 やがて孔の広がりは止まり、おぞましい黒が陽芽たちを観察し始めた。

「ありがとうございます、オースフィア様」
「これでいいだろう? 早く結界を解け」
「まだでございます。オースフィア様が孔に入られたのを確認してからです。もちろん、約束はお守りします」
「……」

 陽芽は漆黒の孔を見つめ、次いで目を閉じてこちらでの日々を思い返す。辛くも有り、だがそれ以上に刺激に満ち溢れ、楽しい毎日だった。良い友に恵まれ、幸せな時間だったと思う。できれば、一生をこちらで過ごしたかった。それほどにアズミルズを陽芽は、オースフィアは愛していた。
 だからこそ、この世界が自らのせいで傷つくことを許容できなかった。
 どこまでこの結界が広がっているか、正確には陽芽には判別できないがきっと昭和荘や淳平、そして咲や直の家も範囲に含まれている。陽芽の知る、陽芽を支えてくれた多くの人達が死ぬかもしれない。そんな事は絶対に、何があろうとも認められない。
 だから陽芽は征く。自分が居なくなった後も彼らが生きていくために。

(凛、すまない……)

 自分を助け、ここまで導いてくれた姉の姿が瞼の裏に浮かぶ。きっと悲しむだろう。胸が張り裂けそうなほどに苦しむだろう。もしかすると、惜しんで泣き叫んでくれるかもしれない。それでも彼女は自分なんかよりずっと強い人だ。悲しみを乗り越え、生まれ育ったこのアズミルズで力強く生きていってくれる。
 そして――

(直……叶うならば最後に一目――)

 会いたかったな。そう心の中でだけ呟き、陽芽は孔に向かって一歩踏み出して――

「先輩っ!!」

 止まった。振り向かずともその声だけで分かった。ただの呼びかけだというのに、決意を鈍らせ、脚を即座に止めてしまう、そんな不思議な力があった。胸が震え、涙が溢れてしまいそうだった。

(ああ、どうして君はいつも――)

 喝采を叫ぶ胸の高鳴りが止まらない。たまらず陽芽は声の方へと振り向く。
 来てくれた歓喜と、この事態に巻き込んでしまった申し訳無さ。それらが綯い交ぜになって涙に濡れた眼差しを、陽芽は直へと向けた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 ――時は少し遡る。

 ――直達が光の道を走り始めた、同時刻。

 とあるビルの屋上。この地域でも一際高いそのビルの手摺上に彼女は立っていた。
 荒天による暴風雨に晒されて羽織ったマントが大きく靡く。後もう数センチも脚を動かせば真っ逆さまにコンクリートへと墜落する、目も眩みそうな位置にも関わらず臆した様子もバランスを崩す様子も無い。ツインテールに結んだ長い金色の髪が風に乗ってはためかせ、だが体の芯は真っ直ぐとブレる事は無い。そうして彼女はじっと眼下に広がる光の道を見つめている。
 その道を直と凛、そしてアストレイの三人が走っている。光の道は今も伸びており、このまま三人を導き続けるだろう。その様子を彼女は身動ぎ一つせずに見る。その表情から感情を読み取るのは容易ではない。
 そんな彼女の横に、何処からとも無く一人が軽やかに着地する。

「おやおや、こんな所で何をしているのかい? ああ、何だ彼らを見ているのか。どうやら無事に帰ってこれたみたいだね。エルミルズでカメラを破壊されて見失った時はどうなることかと思ったけど、いや、無事で何より何よりだ」

 女性の隣に並び立つと執事服の襟元を緩める。頭を軽く振って口元に張り付いた紫の髪を振り払い、右手で耳元の髪を掻き上げた。
 女性はその人を一瞥するとすぐにまた視線を眼下に戻した。

「……戻っていらしたのですね」
「あの子たちがこっちに戻っちゃったからエルミルズに居ても面白く無いからね。まあブランドルの禿頭をイジるのとエルヴィンスと久々に交友を深めるという目的を達成したし、やることもなくなったからさ。ああ、それとエルヴィンスに少年を紹介することも出来たしね。モニター越しだけど」
「本来の目的を序みたいに言わないでください、師匠」
「何度だって聞くけど、その師匠って呼び方は変える気は無いんだね?」
「お望みならばユスティニアーノ師匠でもクーゲル師匠でも良いですが」
「何も変わってないよね?」

 執事服の女性――ユスティニアーノは肩を竦めてみせた。

「やれやれ、つれないなぁ――フローラ。私は君の事を実の娘だと思ってるというのに」
「親子と言うには歳が離れすぎています。年寄りの若作りは見苦しいだけです」
「相変わらず辛辣な事だ。君と話してるとどうにも調子が狂うね。それと訂正させてもらうけれど、若作りじゃなくて私くらいに魔法を極めると肉体の加齢が遅くなるだけだから。魔王の娘だなんて言えば世界中の魔法師がなりたいって押しかけてくるくらいなんだけど、こんな暴言を私に吐けるのなんて君くらいさ。
 まったく、何処で教育を間違えたんだか」
「最初っからです」

 フローラは物憂げに息を吐き出し、道を走る直たちを視線だけで追った。

「そもそも私は師匠が面白半分で拾っただけの存在おもちゃでしょう? 理由はどうあれ無力な子供に力を与えてくださったのは感謝していますが、私と師匠は契約だけで結ばれた関係です。そもそも、魔法以外の教育なんてされた覚えはありません」
「『一人でも生きていける術を与える代わりに大切な人の前で姿を現すのを禁ずる』だったかな。律儀なことだ。別に契約を破棄してもいいんだよ? 執着が無いように見えるかもしれないけど、これでも私は一度気に入った物は手放さない主義なんだ。君を拾ったのは戯れだったけれど、思いのほか君との時間は楽しくて新鮮だった。結婚など狂気の極みだと思っていたけど君のような楽しい子が生まれるのなら誰かとつがいになるのも悪く無いと思えるくらいにはね。
 だから例え君と契約関係が無くなろうとも娘という関係を手放すつもりはないよ?」
「やめてください。迷惑な話です」

 冷たく言い放つとフローラは疲れた様にもう一度溜息を吐いた。

「……私には貴女が理解できません。何をしたいのか、何を目的にいつも動いているのか、全く分かりません」
「私のモチベーションはいつだってシンプル極まりないんだけどね。
 ――如何に私が楽しめるか。それだけだ。長く生きていると金にも地位にも名誉にも興味がなくなるんだ。だから私はいつだって楽しいことを探し、面白おかしく引っ掻き回すのを信条としているんだよ」
「それが……周りにとって迷惑なんですよ」
「そうかな? 最終的には皆がハッピーになれる様に動いているつもりだけど?」
「……」
「まあそう思われようがどうでもいいことだよ。他人の評価ほど当てにならなくて下らない事はないもんだ。大事なのは私が私をどう思うか、それだけだ。これからも私は私がやりたいようにやっていくよ。無理に君が付き合ってくれなくても構わないし、離れたかったら離れても構わない。惜しくはあるが、去るものは拒まずだ」

 楽しげに笑うとユスティニアーノの体が淡く光に包まれ、一瞬真っ白に染まると次の瞬間には白い毛並みの猫姿となった。

「さて、それじゃあ最後に後始末でもしてくるかな。フローラも色々と動いていたみたいだし。ああ、別に責めてるわけじゃないよ? むしろ私は喜んでいるんだよ。私の言いなりじゃなくて君が君自身の考えで動き出してくれているんだからね。それに」白猫は口角を吊り上げ、鋭い歯を見せながら笑った。「君が大切に思ってる子は私にとっても大切な子なんだよ? なんたって娘の友だちだからね。なら、娘を悲しませようなんていう野郎が痛い目を見たって仕方ない話だろう?」

 ま、直接は手を出さないけどね。
 そう言い残してユスティニアーノはビルの屋上から飛び降りた。
 手摺上に一人取り残されたフローラはしばらく呆けていたが、突風に煽られてバランスを崩し、危うく落ちそうになった所で我に返って体勢を立て直した。

「はぁ……礼は言わないつもりだったけど」

 もうすでに聞こえないと分かりつつもフローラは小さく微笑んだ。

「今回だけ言ったげる……ありがと、ママ」

 誰も聞いていないというのに頬を赤らめて恥ずかしそうにそっぽを向く。そして赤面した顔を隠すかのようにマントを大きく翻して自身を覆い隠した。

「この姿を晒す勇気は無いけれどまた学校で会いましょうね、オースフィア……いいえ、陽芽」

 風が吹き、マントがビルの屋上から飛んで行く。だがマントがあった位置には既にフローラの姿は無く、気づけば飛ばされたマントも何処にも無かった。
 ただ公園へと続く光の道が優しく、一帯を覆う結界の赤い光が怪しく夜の町を照らしていた。












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