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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved








「はぁっ!? 凛ちゃんがここで働いてただぁっ!?」

 城壁の影に隠れながらも俺は素っ頓狂な声を上げた。
 牢屋から脱出した俺らは、兵士の眼を盗みながら城の敷地内を逃げ回っていた。
 まずは牢屋から距離を取り、城の死角となる場所を凛ちゃんは巧みに利用しながら目的の場所、すなわち俺がこの世界に落ちていったところを目指した。本来ならそこにまっすぐ向かいたいところだったが、その道中には兵士が見回りをしていたため迂回せざるを得ず、こんなまどろっこしい事をしているのだ。
 凛ちゃんの動きは素早く、うかうかしているとあっという間に置いていかれない。付いて行くだけで必死で、俺は完全に凛ちゃんの金魚のフン的存在に成り下がっていたが、途中でふと疑問を覚えた。
 凛ちゃんは人目につきにくい場所ばかりを移動し、その動きにためらいが無かった。まるで城の構造を隅々まで理解しているかのようにスムーズに、そして兵士達がどう動くのかを全て把握しているように探しまわる兵士の眼を避けて走っていた。
 何度か兵士と鉢合わせしそうになるも、その度に身を隠す場所を見つけてはそこに隠れる、といった事を繰り返して、今も直ぐ側を兵士が通りすぎて行ったばかりだ。
 完全に兵士を撒いて一息吐いたところでやけに手慣れたその理由を尋ねたところ、「だって私はここで働いていたもの」という衝撃の事実を告げられたわけである。驚くなという方が無理だ。

「しっ、声が大きい。見つかるわよ」
「じゃ、じゃあ凛ちゃんは元々この世界の出身だって事なのか?」

 たしなめられ、声のトーンを落としながら尋ねる。
 俺からしてみれば確認の意味でしか無かったのだが、予想に反して凛ちゃんは首を横に振った。

「いえ、私は元の世界――アズミルズの生まれよ」
「え? でもんじゃあなんでこの城で働いて……」
「武内クンと同じよ」普段のほわほわした先生とは違う、鋭い眼光で兵士達の動きを観察しながら答えてくれた。「私もアナタの様に孔に落ちたのよ。まだ、十二歳の時にね」

 その答えにまたしても俺は眼を剥いた。

「凛ちゃんも……」
「そう。そしてその時に私が落ちたのもこの城だったわ。
 これもアナタと同じだけど、落ちた私はすぐに不法侵入者として捕らえられた。スパイと思われたのね。当時はこの城はユースティール王国の王城で、小さな国だったから建国以来常に隣国との関係は緊張していたし、実際に私くらいの年齢のスパイなんてザラだったから。
 もちろん私にはそんな事身に覚えがないから必死で否定したけれど、私を捕らえた兵士が融通の効かない男だった。捕らえて自分の手柄として出世か褒章でも目論んでいたんでしょうね。何としても秘密を吐かせようとして私を徹底的に痛めつけたわ」
「……ひどい話ですね」
「昔の話よ。当時の情勢を考えれば珍しい話じゃないし、そのまま殺されなかっただけ幸運だったと言えるわ」

 そう語る凛ちゃんの表情に必要以上の昏さは無い。だけど当時小学生だった年齢を考えればとても辛かっただろうし、その傷つけられた事実が消えることもない。
 同情する以外の言葉が吐けずにいた俺だったが、遠くから「そっちを探せ!」という兵士達の叫ぶ声が聞こえてきて、凛ちゃんが俺に向かって手招きした。

「次はあの壁の影に走るわ。あそこに少し窪みがあるはずだから、着いたらすぐにそこに伏せて」

 俺の返事を待たずして凛ちゃんが走る。慌てて俺も付いて行き、メイド服が汚れるのも厭わずに湿った土の上に伏せる凛ちゃんに続いて俺もまた寝そべった。
 目の前には手入れが行き届いていないだろう少し丈の高い草があって、それが俺らの姿を覆い隠す。そしてしばらくしてすぐ目の前を軽鎧を着た兵士達が走り抜けていった。

「……行ったわ」

 凛ちゃんが安全を確認して体を起こし、それを見た俺もまた起き上がって安堵の息を漏らした。だが依然として連中は近くを探しまわっていて、方々から叫び声が聞こえてきた。

「しばらくここで待ちましょう」
「その方が良さそうっすね」

 とりあえずは一段落、か。湿った土が冷たいが気にせず俺はケツを付けて空を仰いだ。空は青いが、ここが影のせいか風は冷たい。だが走って汗ばんだ体にはちょうどいい。
 少々疲れた体を束の間の休息で癒やしながら先ほどの続きを凛ちゃんに尋ねた。

「それで、捕まってた凛ちゃんがなんで城で働くことに?」

 誤解とはいえ、拷問まがいの事をされるような疑わしい人間が王城でなんて働く事が出来るはずがないと思うのだが……まさか!? 奴隷として働かされたとか!? もしくは、その、男のゴニョゴニョを処理する役割を……

「……何を考えてるのか何となく分かるけど、いかがわしい仕事をさせられたわけじゃないからね?」
「そんなに分かり易いですか?」
「怖い目元がだらしなく緩んで目も当てられないくらい気持ち悪くなってるから」

 ひどい言い草である。

「……これも運が良かったのよ。たまたま王家の方が私の事を聞きつけたらしくてね。市井の人間はともかくとして王族はアズミルズの事をご存知だったから、すぐにアズミルズの人間だと気づいて牢から出してくださったわ。それどころか治療までして頂いて、こちらが申し訳なくなるくらいに何度も謝罪をして下さったの。
 『我が国の教育が行き届いていなかったためにお詫びできない程の苦痛を与えてしまい、何とお詫びすればよいか分からない』って。そして私の境遇にひどく同情してくださって、傷が癒えた後は城で王家付きの侍女としての仕事を任せてくださったの」
「めっちゃいい人じゃないですか」
「ええ、とても。こちらが不安を覚えるくらい王家として情に篤い方だったわ」凛ちゃんはその時の事を思い出しているのか、少し眼を細めて口元を緩めた。「いくら同情やお詫びの気持ちがあったにしても、まさかいきなり幼い姫様を任せて下さるとは思わなかったわ」
「マジっすか」
「マジもマジよ。小学生だったから自分のことさえ満足に出来ないのに、まさか私みたいな小娘に大切な子供の世話を任せるんだもの。信じられなかったわ。冗談が好きな方だったからいつネタばらしされるのかって思ってた。
 でも本当に姫様のお部屋に呼ばれて『今日からここが貴女の仕事場所よ』って言われてやっと実感が湧いてきて……だから毎日必死で勉強したわ。恩を返したかったのよね。侍女の仕事に王家付きとして恥ずかしくないよう細かい作法まで全部一生懸命覚えた。王様と王妃様のご信頼に応えたいというのもあったし、もしかしたら役立たずだったらまた牢屋に戻されるかもしれない、という恐怖もあったのかもしれないわね。今思えば、だけど」
「その……凛ちゃんはアズミルズに戻ろうと思わなかったんです?」

 当時、ここはユースティール王国だったって凛ちゃんは言った。さっきの牢屋の爺さんも言っていたが、ユースティール王国はエルミルズからアズミルズへ送り返す魔法を持ってたはずだ。だから凛ちゃんが王様達に助けられた後に「帰りたい」って言えば戻れたはずである。もちろん、王様達がそういう選択肢を示さなかった可能性もあるが。
 そう思っての質問だったが、凛ちゃんは薄く笑うとまた表情を乏しくした。

「もちろん王様は私に帰る方法を示してくださったわ。王族以外には国家機密であるはずの次元接続魔法を使ってでも送還して下さる、と」

 そりゃよっぽどなお人好しな王様だな。為政者としての実際は分からんが、あんまり権力者には向かなさそうだなぁ。

「それじゃその時に凛ちゃんはアズミルズに戻ったんですね」
「いいえ。断ったわ」
「は!? な、なんで!?」
「帰りたくなかったから、なんでしょうね」ぽつり、と凛ちゃんは漏らした。「私はアズミルズで死んだはずの人間だったから」
「し、死んだ!? でも今……」

 凛ちゃんの足元を見てみる。脚はきちっとあるし、とても幽霊とは思えないが。
 俺の視線に気づいた凛ちゃんはこれみよがしに小さく溜息を吐いてみせると、少しだけ自嘲っぽい笑みを浮かべてみせた。

「家族とは折り合いが悪かったの。色々あって生きる気力を無くして、発作的に車の前に飛び出して跳ねられて、そこで孔に落ちた。
 ……だけど当たりどころが良かったみたい。この世界に落ちた時はかすり傷だけで済んでたから。だからといって元の世界に戻るつもりも無かった。戻っても私の居場所なんて無かっただろうし、私の事を悲しむような人たちでも無かったから。
 だから私は感謝しているの。この世界で新しい生きがいを与えてくださり、まるでご家族の一員のように、アズミルズで得られなかった温もりを与えてくださった陛下ご夫妻に。
 恩に報いたい。以来、その思いで私は陛下ご夫妻、そして姫様への忠誠を誓い、お仕えしたの」
「そうだったんですか……」

 何と言うか、壮絶だな……人に歴史あり、とはよく言うが、まさか日頃ホワホワした凛ちゃんにそんな背景があったとはね。さすがに予想だにしなかったよ。というか、どっちかといえば普段の笑顔は作り物で、今のまるで人形みたいな凛ちゃんの方が本質に近いのかもしれないな。
 横でじっとしながらも警戒を怠らない凛ちゃんをマジマジと見てみる。てことは、今凛ちゃんが来てるメイド服はその時の服か。現代ならそっち系のお店でしかお目にかかれないが、この世界だと極当たり前なんだろうな。なんで今も着てるのかは全く以て不明だが。

「だけど今はアズミルズで俺らの先生やってるわけですよね? そんなに忠誠を誓ってて、しかもアズミルズには戻りたくなかったのにどうして戻ったんですか?
 ……っとすいません、言いたくなかったら聞かなかった事にしてください」

 生きがいとまで言いきったメイドさん生活を止めて今は学校の先生なんてやってるんだ。よっぽどの理由があったんだろうが。しまった、ついつい話に聞き入ってしまって人の事情に首突っ込みすぎた。
 一人頭を掻いて反省していた俺だが、凛ちゃんは小さく首を横に振って理由を教えてくれた。

「……さっき言ったけど、この城は私が働いていた時はユースティール王国の王城だった。だけど今はヴァントレイア帝国の皇城になっている」
「……ってことは」

 凛ちゃんは無言で頷いた。ただ、固まった表情の向こう側で奥歯が鳴った。そんな気がした。

「ユースティール王国は火炎の中に消えた。今、この城を我が物顔で使っているヴォルスティニア帝国によって。
 帝国軍によって城を包囲され、陛下ご夫妻は私に姫様を託して城に残られた。兵士達を自分達がお引き受けになり、燃え盛り灼熱が空気を焦がす中を私と姫様は逃げ惑った。姫様を探す兵士達の眼を何とか誤魔化しながら隠し通路を通って城外へと出た私たちは……」

 そこまで話して凛ちゃんは不自然に口を噤んだ。

「凛ちゃん?」
「しっ」

 人差し指を唇に押し当て、俺に黙る様に鋭く視線を投げかけた。そしてスカートのポケットに手を突っ込み、何かを空に向かって投げつけた。
 次の瞬間、空が爆発した。

「――っ!?」

 熱風が俺らに襲いかかり、圧縮された空気が猛烈な勢いで叩きつけられる。
 とっさに顔の前に突き出した掌を一瞬だけ灼熱が焼き、だが痛みを感じる前にそれは止んだ。

「ちぃっ……!」

 代わりに凛ちゃんの忌々しそうな舌打ちが聞こえた。一体何が――

「何だ今の音はっ!?」
「向こうの方からだ!! 行くぞ!」

 俺が問いかける間もなく兵士達の声が届いてくる。アレだけでけぇ音がすりゃそうだよな!

「さっきの爆発は何だったんだ!?」
「魔法生物よ! ずっと空から監視してたんだわ! 攻撃されたら自爆するおまけ付きでね!」
「マジかよっ!? どうするんスかっ!?」
「挟まれたら面倒だわっ! 一気に突破するから付いてきなさいっ!」
「ちょっと……ああ、もう! クソッタレ!」

 俺を置いて一早く飛び出した凛ちゃんの後ろを、悪態を吐きながら追いかける。あたかも一迅の風の様に凛ちゃんは身を低くしたまま疾走する。俺も全速力で走るが付いて行くのがやっとだ。メイド服とローファーの癖になんて速さだよ!? 前に先輩ん家で襲われた時も思ったけど、凛ちゃんの身体能力ハンパねぇなおい!
 凛ちゃんの能力に俺は舌を巻きながら、俺が落ちた城の花畑を目掛けて走る。だが予想していた通り俺らの行く手に何人もの槍を携えた兵士達が飛び出して待ち受けていた。

「くっ……!」
「止まるなっ!!」

 走る速度を緩めると、前の凛ちゃんから怒声が飛んできた。

「でもっ!」
「貴方が落ちた所まで迷わず駆け抜けなさいっ!」

 ええいっ! こうなりゃヤケだ!
 凛ちゃんの言葉を信じてもう一度加速する。見る見る間に兵士達の姿が大きくなって、手にした槍先の刃がハッキリと見える様になる。
 だがそれ以上に凛ちゃんは加速した。
 俺を置き去りにし、細くしなやかな脚で一番前の兵士に肉薄すると跳躍。兵士達の頭を飛び越して背後に着地すると、一番後ろの兵士が振り向く前に脚を蹴り払った。
 足元をすくわれた兵士が仰向けに倒れると同時に凛ちゃんは踵を振り下ろした。スカートが大きくめくれて、ローファーが喉に突き刺さる。そしてその兵士は動かなくなった。意識を失う間際にスカートの中身が見えてさぞや幸福……かどうかは分からんが、俺としては幸せな夢を見ていることを願うばかりである……死んでないよな?
 メイド服の女性の凶行に、俺を含めてざわつく一同。だが凛ちゃんは一人目を潰すとそのまま速やかに次へと疾走する。

「このっ! 女だからって手加減は……」

 槍が振るわれて、凛ちゃんに襲いかかる。が、凛ちゃんは跳躍して避けると空中で体を反転。そのまま回し蹴りを食らわせ、今度は一撃で昏倒させた。
 蹴りの反動を利用してバク転しながら着地。同時に一瞬で最高速へ加速すると、流れる様な動きで他の兵士達に次々に接近し、鎧を着ていない生身の場所目掛けて打撃を加えて倒していく。
 俺は凛ちゃんが目を引いて居る間に少し迂回しながら指示通りに通り過ぎていったが、凛ちゃんが接敵して俺が過ぎるまでの時間はホンの五秒程度。にも拘らず兵士達は全員が意識を細い手足によって刈り取られて、立っているのは眼鏡のズレを直すメイド服の凛ちゃんだけであった。

「女だからって舐めてるからこうなるのよ」

 ……怖えーよ。げに恐ろしきは女かな。今度から学校でも凛ちゃんを怒らせないようにしよう。
 そう心に堅く近いながら走っているとすぐに凛ちゃんが追いついて俺の隣に並ぶ。なんだろう、メイド服の女の人と一緒なのに全然嬉しくない。

「……何?」
「いえ、何でも無いっス!」

 ただ見ただけで何もやましいところはないのだが、つい反射的に謝ってしまう。今度から学校でも凛ちゃんと今までどおり接せられるか自信がないな。
 そんな事を考えていると、すぐに凛ちゃんが呟いた。

「――見えた」

 角を走り抜け、色とりどりの草花が風に揺れている花畑が現れた。
 無闇に立ち入らないよう柵で囲まれたそこにはさすがに兵士達の姿はないのだが、俺が落ちたであろう孔もない。まさか無いだろうと思って見上げてみるが、やはり空にも俺を飲み込んで吐き出したであろう黒い孔は無い。いや、空から落とされて無事だとは思えないから無いってのは分かってたんだがな。

「――、――■、■き―■―よ―」

 立ち止まると同時に、凛ちゃんが朗々と詠い始める。澄んだ声が辺りに響き渡って、だけど何と言っているのか殆ど聞き取れない。初めから脳内にその言葉を聞き取る器官が無いみたいで、単なる音の羅列にしか俺には聞こえなかった。
 だがそれはあの時、猫が発していたものと同質のものだと分かった。そう気づいた時、少し、ホンの少しだけだが、何と言っているのかが分かった。意味はさっぱりだがな。
 詠唱が終わると同時に、先ほどと同じように凛ちゃんがポケットから何かを取り出した。

「宝石?」

 それは指先くらいの小さな宝石だ。凛ちゃんはそいつを二、三個取り出すと走りながら花畑に向かって投げつける。
 そしてそれは現れた。
 水面に小石を投げ入れた時に生じる波紋みたいに何も無い空間が宝石を中心として揺れ動いて、まるで棒に布を巻きつけていく時みたいにねじ曲がっていく。
 青空に似つかわしくない、冒涜的とすら思える漆黒の孔が俺を睨みつける。人一人がかろうじて通れるくらいの大きさであるそいつは、ブラックホールみたいに一気に俺を飲み込もうと吸い込み始めた。
 本能的な恐怖が俺を襲った。思わず脚が竦んで退いてしまう。だが――

「そのまま飛び込んでっ! 一度閉じると帰れなくなるっ!」

 凛ちゃんの切羽詰まった声が飛んで来る。その声に押されて一歩下がった脚に力が戻ってくる。
 ええいっ! 女も男も度胸だ!
 孔が吸い込む力が弱まってくる。孔が小さくなっていく。ためらっているような猶予なんて無い。
 覚悟を決めてプールに飛び込む時の様に頭からダイブする。途端に闇がまとわりついてくる。体が、心が食われていくようなおぞましさが駆け巡っていく。
 再び俺の意識が闇の中に包まれていった。



☆★☆★☆★☆★☆★



 ――意識を失っていたのはどれくらいだっただろうか。

「う……」

 バシャバシャと冷たいものが顔を濡らしていって、耳元ではザアザアとうるさいくらいにノイズが走っていく。全身を蝕む気怠さと微かな痛みに俺は眼を覚ました。

「ここ、は……」

 顔をしかめながら体を起こして辺りを見回す。チカチカと明滅を繰り返す街灯とそれに照らされる見慣れた家々。塀の奥からは茂みが所々で顔を覗かせていた。それですぐに分かった。
 アズミルズに、戻ってきた。

「はは……」

 土砂降りの雨に打たれて全身ずぶ濡れだが、そんな事は関係ない。もう戻ってこれないかもという絶望感が完全に取り除かれてホッとしたせいか、勝手に笑いが溢れ出てくる。
「良かった……」

 本当に良かった。いやもう、二度と雅やら咲、先輩に会えないかと思うとどうしようもなく不安だったが帰ってこれた。なんだか熱いものがこみ上げてきて、目頭がどうしようもなくって、溢れ出てくるものを洗い流せとばかりに俺は空を仰いだ。
 時間は夜。そんな時間でも分かるくらいに分厚い雲が空を覆っていて、だけども今はそんな空さえ愛おしく思えた。

「……どうやら…戻れたみたいね」

 隣で俺と同じく倒れていた凛ちゃんも起き上がる。二人して服はびっしょりで、凛ちゃんもメイド服がぴっちりと体に貼り付いてラインが顕になっているが、そんな事はどうでもいい。とにかく今は帰還を喜ぼう。
 なのだが。

「ここは何処らへんだ?」

 並び立つ判で押したように似た作りの日本家屋はどう穿って見てもエルミルズでは無くてアズミルズなのだが、俺が最初に落ちた孔があった場所とは違う。
 あの時はマンションとマンションの間の路地で、今俺らが居る場所も路地なのだがもっと広くて明るい。明らかに場所が違う。

「少し場所がずれたみたいね。だけど家からはそう遠く無いわ」

 言われてよく見てみればウチの近所だ。先輩ん家に向かう途中で通り過ぎた記憶がある。たぶんウチまで歩いて五分も掛からないはずだ。

「でもエルミルズで作った孔の場所は同じじゃないんですか?」
「アズミルズとエルミルズの時空は必ずしも一致しないわ。同じ時間、同じ場所で孔を繋げても多少のズレは生じるの。さすがに市や国を跨ぐ程にズレないはずだけど、もし何かの手段で無理やりこじ開けたりした場合は孔の途中で時空がねじれて全然違う場所に出ることもあり得るし、最悪の場合は世界の狭間に閉じ込められる可能性もあるけれど」
「……サラッと恐ろしい事言わないでくださいよ」
「ユースティール王国の魔法で開けた場合は大丈夫よ。今みたいに多少ズレるかもしれないけど、少なくともどちらの世界にも脱出できなくなるような事態は起こらないわ」

 なら良かった。あんな黒だけの世界で一生を終えるなんて想像するだけでゾッとしねぇ。

「武内クンがこんな時間に何故外出していたのか、理由は詮索しないけど今日は帰りなさい」
「そっスね……」

 夏とは言ってもこんだけ濡れりゃ随分と体も冷える。異世界に飛ばされるは、囚人になるは、そしてまた戻ってくるわはで俺も疲れた。これまでの人生で培ってきた常識が遥か彼方に蹴飛ばされた後にストンピングされてジャーマンスープレックスかまされたようなもんだ。アズミルズやらエルミルズやら、凛ちゃんがまさかの人生を送っていたとか、何となく受け入れては来たものの完全に消化不良である。ただ状況に流されてきただけに過ぎない。

(たぶん落ち着いたら色々疑問が出てくるんだろうなぁ……)

 風呂入って体温めてあったか〜い布団に包まれれば逆に興奮して眠れなくなること間違いなしである。それどころか俺の方が雅を抱きしめて離さんかもしれん。ウザがられないように注意しなければ。
 だがその前に。

「それじゃあ帰ります……ありがとうございました」

 きちっと礼は言わなきゃな。

「凛ちゃんが来てくれなかったら俺、もしかしなくても二度と皆に会えなかったかもしれません。
 本当ならもっとしっかりとお礼したいんですけど……」
「……いいのよ。私は貴方の担任だし」
「だけど……」
「それに……」眼鏡を外して目元の雫を拭って、いつものホワホワとした笑顔を浮かべながら言った。「私が私と同じ目に合わせたくなかっただけ。だから、気にしないで」

 ……ズリぃよ、凛ちゃん。そんな顔で言われたらもう何も言えねぇじゃん……
 だから俺は凛ちゃんに向かって深々と頭を下げた。それを見ると、担任としての顔をまた奥に隠して凛ちゃんは俺に背を向けた。先輩も風邪で寝てることだし、いつまでも俺のわがままで引き止めてる場合じゃねぇしな。
 あ、そういやぁ……

「凛ちゃん!」

 せめて最後にこれくらいは確認しとかなきゃな。

「先輩は……先輩の様子はどうですか? 快復しそうですか?」
「……そうね。良くはなってるけど、もう少し時間が掛かると思うわ」
「風邪、なんですよね? その、入院が必要だったり命に関わったりするようなのじゃないんですよね?」
「心配しすぎよ」優しく凛ちゃんは俺に向かって笑いかけた。「ちょっとひどいけどね。間違ってもあの子の命がどうこうなる程の重病じゃ無いから。安心して」

 そっか。ならいいんだ。
 あからさまにホッとした表情を浮かべてたんだろう。凛ちゃんは嬉しそうに微笑んでくれた。うん、凛ちゃんもやっぱりそうやって笑ってる方が良いよな。エルミルズだと頭が上がんねぇ程世話になったけど、あんな冷たい顔よりもこっちの方が似合ってる。クラスのマスコットだしな。

「あっと、それとちょっと待って下さい。ウチが近いんで傘とタオル持ってきます。そのまんまじゃ凛ちゃんも風邪引いちゃいますよ」
「大丈夫よ。私はそんな柔な鍛え方してないから」
「まあまあ。それは何となく分かりますけど、ずぶ濡れですし先輩も心配しますから。病人を心配させるのは凛ちゃんも嫌でしょ?」

 せめてこれくらいはさせてくれよ。そう思いながらお願いすると少し困った顔をしながら凛ちゃんは頷いた。

「じゃあちょっち付いてきてください。走れば一分も掛かりませんから」

 そう言って走りだそうとしたその時、ポケットの中でスマホが震えた。
 はて、こんな時間に誰だろうか。雅か? 凛ちゃんの話だとアズミルズとエルミルズで時間が一致してないってことだからアズミルズでどんだけ時間が経過してんのか分からんが、それなりに遅くなってるだろうから心配してんのかもしれん。
 家に向かって歩きながらスマホを取り出すと、そこに表示されてたのは雅では無く深音だった。
 珍しいな。なんだ? もしかして何か分かったのか?

「もしもし、深音か? どうした」
『ああ! やっと通じた! どうしたじゃないわよっ! どんだけアタシが電話かけたと思ってんのよ! 居るんなら一発で出なさいよっ、このバカたれっ!!』

 受話器ボタンを押して耳に押し当てた途端、出迎えてくれたのはこの罵声である。すまない、俺にはごっちんみたく罵られて喜ぶ趣味は無いんだ。

「ワリィ、ちょっと手が離せなくてな。それよりどうした? 何か分かったのか?」

 まさかここで「違う世界に小旅行してました」とか言っても信じまい。あの兵士みたく頭のおかしい人扱いされてオシマイである。
 緊張から解放されたせいか、深く事情をツッコまれたら適当にお茶を濁してしまおうなどとのんびり考えていた俺だったが、そんな俺に返ってきたのは呆れた様な、それでいてひどく切迫した様に落ち着きのない深音の声だった。

『確かに凄いことが分かったんだけど、ああもう、なんでそんなに落ち着いて……いや、ぴょん吉は知らないんだから当たり前か。落ち着け、落ち着きなさいアタシ』
「……おい、何かヤベェ事でも分かったのか?」
「……ええ、そうよ。いや、まだホントか分かんないかも。嘘かもしんないし……」

 声が上ずっていて話す内容にもとりとめがない。電話の向こうで髪をかきむしってるのが容易に想像できるくらい明らかに取り乱してる感があるんだが、珍しい。つまり、そんだけヤベェ事があったって事か。

「いいからとりあえず話してみろ、深音。内容が嘘かホントか分かんなくてもいいから教えろ」
「……そう、そうよね。あのさ、落ち着いて聞きなさいよ?」
「分かったから早くしろよ。こっちだって暇じゃねぇんだよ」
「えっと、単なる悪戯かもしれないんだけど……」

 電話越しに深音が息を飲んだ音が聞こえた。

「河合先輩が……誘拐されたかもしんない……」




☆★☆★☆★☆★☆★



 雨はよりいっそうひどくなっていく。遠くからは耳をつんざく雷鳴がひっきりなしに響いて、ほら、今も何処かのビルの避雷針目掛けて落ちた。
 前が見えないくらいの豪雨の中、スマホを握りしめて俺と凛ちゃんは先輩の家へと全力で走っていく。雲の中を切り裂く様に白い光が駆け巡っていく。そして夜を昼間だと錯覚させんばかりの閃光。世界中をあっという間に光は突き抜けていくが、ああクソっ、俺もアレくらい速く走れたらなあっ! 牢屋の鉄格子は蹴破れたっていうのに何だってこんな時に人の枠を越えられねぇんだよ!

「はあっ、はあっ! それで、その相手は何て言ってたんだ!?」
「別にそれだけ――」
「ああっ!? もっとデカイ声で頼む! 雨がひどくて全然聞こえねぇんだよ!!」
 耳が痛くなるくらいにスマホを押し当て、走りながら深音に怒鳴った。自分の足音と叩きつけてくる雨音、それと激しく鼓動する心音。そのどれもがうるさくて深音の声が聞き取れない。

「だからっ! そんだけ、そんだけよっ! 誰かが突然チャットに割り込んできてただ『陽芽が誘拐されるわ』ってだけ書き残して居なくなったのよ!」
「単なる悪戯とか嫌がらせの可能性はっ!?」
「私だってそれは思ったわよ! だけど河合先輩に電話してみても繋がんないし、凛ちゃんも繋がんない! 嫌な予感するから家が近いアンタに確かめてもらおうと思ってもアンタはアンタで繋がんないし……」
「……ワリィ」

 相当不安だったんだろう。電話の向こう側で叫ぶ深音の声は少し涙ぐんでるように聞こえた。
 気休めでしかない謝罪を口にし、深音に伝えられたチャットが単なる悪戯である事を切に願いながら真偽を確かめるために走る。だが、きっとその情報は真実だ。
 何故なら、その情報を伝えた途端に凛ちゃんが血相を変えたからだ。
 俺の制止などに一切聞く耳を持たず、真っ青な顔で走り出す。先生としての凛ちゃんでは無く、俺を助けだした時みたいに冷静な凛ちゃんでも無く、泣きそうな顔で先輩のウチに向かっていく。
 これまで俺の中で培われてきた凛ちゃんであれば、まず確認を取るはずだ。慌てず急がず、もちろん走って家には戻るだろうが出来る限り落ち着いて事の真偽を確かめようとするだろう。
 だけど今の凛ちゃんの耳には何も入っていかない。俺が追いかけているのも気づいているかどうか。そんな凛ちゃんを見れば俺だって分かる。
 先輩が誘拐されたと信じるに足る背景があったのだ。

「だから先輩と凛ちゃんは休んでたのか……!」

 危険を何らかの経路で察知した先輩達は外出を避けた。もしくは危険を逃れるための方策を練っていたのか、そこまでは想像は及ばない。だが実際に危機はそこにあり、そしてそれは実行に移された。だとしたらそのきっかけは恐らく――

「俺が原因かよっ……!」

 凛ちゃんが先輩の傍を離れたからだ。俺を助けるために。俺をエルミルズから助けるために先輩が一人になったんだ。何てクソッタレなんだ、俺は!
 だとしたらあの猫野郎、いや猫女か? どっちでもいいがアイツもグルか。アイツが俺をエルミルズに連れて行き、凛ちゃんが俺を助けるように仕向けた。凛ちゃんの戦闘力はパネェからな。だからできれば凛ちゃんと先輩を引き剥がしたかったんだろう。
 で、先輩が一人になった瞬間を見計らってまんまと先輩を連れてったってわけか。全く腹立たしくて自分を殴りつけたくなっちまう。

「ともかく、凛ちゃんと今、先輩ん家に向かってる。だからそんな心配すんな」
「う、うん……って、え? なんでアンタと凛ちゃんが一緒に居んのよ?」
「偶然外で会っただけだ。それよりスゲェ事が分かったんだって? 一体何をごっちんは探り当てたんだ?」

 これ以上突っ込まれたくはないので話を逸らす。それに、もしかしたらこの誘拐、先輩と探してる女の子が関係してるんじゃないかと俺は直感した。
 誘拐した人物の目的は先輩じゃなくって実は女の子の方で、その女の子の行方を知るために事情を知っている先輩を連れ去ったんじゃないだろうか。そう考えた。話しっぷりから先輩は女の子とは親しいし、頑なに俺に説明しようとしなかった事からも事情も理解してそうだ。女の子を探してる連中はやばそうな奴らだっていうのが俺らの中の結論だったし、そいつらの魔の手が先輩に及んだに違いない。

『陽芽に気をつけなさい』

 フローラは知ってたんだ。そいつらが先輩に接触しようとしてたって事に。だから俺に警告した。俺に、先輩を守らせるために。どうしてもっと早くそれに俺は思い至らなかったんだよ! 自分に苛々する。
 だが、深音が伝えてきた内容はそんな俺の想像を凌駕した。

「似てるのよ……」
「はぁ? 何だって?」
「似てるのよ! ごっちんが女の子の成長した姿のモンタージュをアタシに送ってきたのよ!」
「女の子が誰に似てるって!?」
「先輩よ!! 何枚か送りつけてきたんだけど、その内の一枚が……河合先輩にそっくりなのよ!!」

 それを聞いた途端、俺の頭の中は真っ白に塗りつぶされていった。












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