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(c)新藤悟 2005 - All Rights Reserved








「先輩に気をつけろ、か……」

 休日の昼間を潰したバイトも終わり、雅の作ってくれた晩飯も食って腹も膨れてまったりした時間が流れる中、俺はリビングのソファに一人寝そべっていた。
 ぼんやりと何処というわけでもなく見慣れた天井を眺めつつ、こないだゴンザレスことフローラに言われた言葉をもはや何度目かも分からない程に反芻してみるも、未だに意味を掴みかねていた。


 コンピ研のごっちんこと後藤さんの協力を得てからすでに三日が経とうとしていた。もう三日というべきかまだ三日と言うべきかは俺には判断できないが、まだごっちんから何らかの連絡は無い。
 こう言うと全く進捗が無いようにも聞こえてくるが、作業の管理はあの深音である。普段は適当ではあるが、引き受けた事に対しては責任をもって取り組む性質であると俺は踏んでいる。なので心配はしていないが、その期待通り日々進捗を教えてくれている。
 教室で状況を教えてくれる限りどうやらごっちんは徹夜で少女の成長モンタージュ作りに励んでいるようで、そこの進捗は深音が保証してくれている。
 少女には興味を示さないごっちんだが、成長した少女の姿には興味津々らしい。大人になった少女の姿を想像しては気持ち悪い笑い声を上げていて、その声をヘッドホン越しに毎晩聞かされているらしく、毎朝いつもにもましてげっそりした様子で深音は登校していた。どうやら作業は順調のようである。
 それとは平行して俺とレイレイもビラを配ったりしては居るのだが、当然芳しい成果は得られていない。今後もまともな情報が集まるとも思えないので、ごっちんと深音の活躍頼りというのが現状ではあるが、已むを得まい。一刻も早いモンタージュの完成が望まれる。
 そんな状況ではあるが、今の俺の頭の中を占めているのは冒頭の通り、少女のことでは無くゴンザレスと先輩の事であった。

「急にンな事言ってきて、一体何のつもりなんだか……」

 あの夕方のゴンザレスの様子が強く印象に残ってしまっている。先輩に気をつける様に一方的に告げてきたゴンザレスだったが、あれ以来、再びその姿を見かけなくなってしまった。
 休み時間とかに意識して上級生の階を通って自分のクラスに戻ってみたりもするのだが、あの特徴的な容姿は影形も無かった。教室の中を覗いてみても、廊下を歩いても何処にも居ない。二日間そうしてなんとはなしに探してみたのだが、一通り探し終えた時に不意に俺は気づいた。
 アイツは、何年生のどのクラスの生徒なのか。
 先輩と仲良さそうだから二年生なのだろうとは思っていたが、それ以上の情報を俺は知らない。改めて思い起こせばアイツが二年生だと自分で言った事はなく、本当にそうなのかも分からない。
 知っていることといえば名がフローラという事ぐらいしか把握しておらず、何処の誰なのかさっぱりだ。ならば先生にでも聞けば分かるかと思って職員室でたまたま近くに居た数学教師に聞いてみるが、そこでもっと衝撃的な事実が俺を打ちのめした。

「見たこと無いなぁ、そんな生徒は」

 あの特徴的な容姿を事細かに伝えてみても、先生の反応は知らないの一言だ。あの容姿で知らないと言うことはないと信じたいが、それでもたまたま聞いた数学教師が知らなかった可能性もある。そう思って他の先生に聞いてみたのだが、果たして結果は変わらず。アイツの事を知る者は誰ひとりとして居なかったのだ。
 俺が見てきたあの姿が幻だったというのだろうか。いや、そんなはずはない。

「それとあの声……」

 すれ違い様の警告。振り向いた一瞬にはすでに誰も居なかったのだが、本当に一瞬だけ、俺はその後姿を捉えていた。
 金色の長い髪に細身の体。俺の知るゴンザレスとは真逆とも言っていい容姿。それが今の俺の脳裏にはっきりと、だが何処か朧気に焼き付いてしまっていた。その曖昧さがまるでアイツが実在しない、まるで夢幻の世界の人間みたいに彩っていて、それが尚更あの警句に重要な意味があるように俺に思い込ませていた。

 とまあ。
 それだけでも十分に重大な事態なのだが、更なる事態が今の俺の頭を悩ませていた。
 先輩も学校に来なくなった。
 こちらはさすがに誰も知らないということもなく、聞いた話によれば風邪だという事だった。
 いつも元気で走り回っている先輩らしくないとは思うが、まあ先輩だって人間だ。それに孤児院事件では無理がたたってぶっ倒れるという事態も引き起こしている。おおかたまた何かに熱中して無茶をしたんだと思うし、先輩にメールしてみても同じく風邪だと返事が来たから、ゴンザレスの事と比べれば大したことない話なんだろう。
 だが、気になることが一つ。
 時を同じくして凛ちゃんも学校を休んでいるのだ。
 代理で来た先生の話によれば先輩と同じく風邪だということだ。
 凛ちゃんの風邪が先輩に伝染ったのか、はたまた先輩の風邪が凛ちゃんに伝染ったのかは定かでは無いが、同じ家に住んでいるのだし、おかしくない話ではある。

「おかしくはないんだが……」

 どうにも何処か引っかかるのである。
 例えばお見舞いに行こうとして先輩に電話を掛けても出ないし、代わりにメールで用件を尋ねてくるのだ。曰く、「喉を痛めて声が出ない(原文ママ)」だとか。ついでに「片付けができていないため直には見せられない」、「風邪をうつしてしまう」との理由で俺の来訪を拒んでいる。
 この間までの俺であれば素直にそれを信じ、先輩の回復を自宅で願った事だろう。しかしここでゴンザレスの言葉だ。

「『陽芽に気をつけなさい』……
 ったく、何かを伝えたいならちゃんと意味まで説明していけってんだ」

 ゴンザレスの言葉をもう一度繰り返して悪態を吐く。
 先輩に気をつけるというのは、果たして「先輩が無茶をするから眼を離すな」という意味なのか。そうであれば何もおかしな事はない。常日頃から何食わぬ顔で唐突に無茶をやらかしかねない人だ。自分がしばらく面倒見切れないから代わりに俺に見ろという一方的な命令か。
 だが見方を変えて、少し悪意を持って考えると「先輩が俺を害するから注意しろ」という意味にも取れる。
 もしアイツの警告と先輩と凛ちゃんの急な欠席が関係あるとすれば、本当に先輩は風邪なのか。
 先輩は何かを企んでいるのか。はたまた何か病気以外の、今の俺には予想も出来ない事態が先輩の身に起きようとしているのか。

「はぁ……」

 溜息を吐きながら寝返りを打つ。想像だけが膨らんでいって、もう頭の中で色んな考えがグルグルと駆け巡ってパンクしそうだ。

「どうしたんだい、直。ため息なんか吐いて」
「レイレイか……」
「……その呼び方は止めてくれないか? どうしてだか恥ずかしいんだよ。せめて『レイ』だけにしてくれないかい?」
「へいへい。んじゃレイでいきますよ。で、お前は風呂上がりか?」

 アストレイ――レイは肩にタオルを掛け、髪を拭きながらキッチンに向かうと、冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注ぐ。そして腰に手を当てて一気に飲み干し、「ぷはぁ」となんとも美味そうなため息を上げた。
 こいつもすっかり馴染んだなぁ……
 我が家の一員と化していっている記憶喪失のガイジンをしみじみと眺めているとレイは不思議そうに首を傾げてきた。

「? どうかしたかい?」
「……なんでもねーよ」

 記憶が無い事なんてすっかり気にしてねーみたいにあっけらかんとしてやがる。こないだの雨に打たれてた時みたいに鬱になってろとは言わないが、まだ探し人の女の子も見つかってねーんだし、もうちっと焦りでも見せたらどうなんだ?

「確かに記憶は無いけれど、直と雅ちゃんが傍に居てくれるからね。君らと暮らすのは楽しいし、記憶を失う前の私が何者であったか気にならないわけではないけれど、深く気に病む必要はないと思ったんだ。たぶん大切なのは今だからね。自分が何者か、なんて事よりも今過ごしている時間を大切にする事の方がよっぽど重要だったんだ。だから嘆く必要なんて何処にも無いって思ってね」
「へぇ……」
「それに、直も深音くんも……一緒に探してくれてるからね。こんな心強いことは無いよ」
「ごっちんが抜けてっぞ、おい」
「それに元々ゆっくり探すつもりだったからね。記憶だってのんびり元に戻るのを待つさ」

 ごっちんの事は華麗にスルー。哀れ、ごっちん。いや、まあレイレイが思い出したくない気持ちも分かるが。
 あのキャラはさすがにキツイわ。女の子が見つかったら一番の功労者だろうが、たぶん一番感謝されない人間だろうな。ま、その分の報酬は深音が文字通り体で払ってくれんだろ。

「ところで直、一つ聞きたいんだが」

 何だよ、急に。

「君の脚に着けているそのアンクレットは初めて見たけどおまじないか何かかい? 雅ちゃんもいつもはめているけれど」
「ああ、コイツか」

 ソファに寝そべったまま右足を上げる。ズボンの裾がめくれて隠れていた、くすんだ黄金色のアクセサリーが姿を見せた。

「親父とお袋がくれた形見みてぇなもんだよ。物心付く前から俺も雅もずっと着けててな。おまけに絶対に外すなって口を酸っぱくして言われてたからな」
「へえ、律儀だね。でも確かにご両親の遺言なら外すわけにはいかないか」
「四六時中付けっぱだからな。もう体の一部みてぇなもんだし、外す気も起きねぇよ」
「ふぅん、そうなんだ。陽芽さんも似たアクセサリーを着けてたから、てっきり君らでプレゼントし合ったものだと思ったよ」
「ば、ばっか、ちげーよ。別に俺と先輩はそんなんじゃねぇ……し……?」

 ん? なんか今、変なこと言わなかったか、コイツ?

「レイレイ」
「だから止めてくれってその呼び方は」
「今、なんつった?」
「何って、呼び方を……」
「違う、その前だ」
「そのアクセサリーの事かい? 直と陽芽さんの間で贈り合ったものかなって」
「もっと前だよ」
「えっと、陽芽さんも似たアクセサリーを着けてたって……」
「それだ」

 ソファから体を起こしてレイを見上げた。

「先輩も同じアクセサリーを着けてたってホントか?」
「ああ、本当だよ」レイは手に持っていたコップを流しに置いてソファに座った。「この間、直の働いてるお店で会った時に見たんだよ。首元に同じようなデザインの首飾りを掛けてたよ? 制服で隠れてハッキリ見えたわけじゃないから断言は出来ないけれど、色と小さな宝石が散りばめられたデザインはそのアンクレットとそっくりだった」

 どういう、事だ?
 このアンクレットは確かお袋の実家に代々伝わってるもんだって聞いた記憶はある。魔除けのお守りみたいなもので、その話が本当ならそうそう売ってるもんじゃないはずだが。
 たまたま似たようなデザインの物がどっかで売られていて、先輩が偶然それを買ったって事か? あり得ない話じゃねえとは思うが……

「……」
「そうそう、確かこんな風に何か文字が書かれてて……どうしたんだい、ぼーっとして?」

 そうだ、そういえばお袋はこうも言ってた。このアンクレットは特殊で、お袋の出身地の限られた職人しか作ることができないってな。そして限られた人向けにしか作ることもしないと言っていた。そんな激レアなアクセサリーがそんじょそこらに出回るはずがねぇ。だとしたら似た作りのパチもんか?

「……」
「直?」

 俺は無言で立ち上がって上着を羽織った。
 確かにアクセサリーの造形が似てること、それ自体は偶然かもしれん。だがゴンザレスの警告に先輩と凛ちゃんの突然の体調不良、三つが同時に重なるなんざ俺にはとても偶然には思えなかった。そして、そんな三つの偶然が重なったという事実に、俺は胸騒ぎを覚えた。

『陽芽に気をつけなさい』

 静かに蝕んでいたアイツの言葉が、ここに来て俺の心を一気に侵食し始めた。

「靴下なんか履いて……どこかに出かけるつもりかい?」
「ああ、ちょっと気になることがあってな」

 テーブルの上に置かれていた、親父が使っていた腕時計を右腕に嵌める。時刻はすでに九時を回っている。こんな時間に押しかけるなんざ迷惑以外の何モンでもないだろうが、今の俺には明日に回すなんて選択肢は取り得ない。

「遅くなるかもしれんから先に寝ててくれ。戸締まりとか頼むな」
「……私も一緒に行かなくても大丈夫かい?」

 ただならぬ雰囲気を感じ取ったんだろう。レイは神妙な顔をして立ち上がった俺を見上げてきた。
 俺はそんなレイレイの様子に苦笑いを浮かべてみせる。

「大丈夫だって。そんなたいした話じゃねぇ。ちょっとばかし気になる事があってな。ダチの所に押しかけてくるだけさ」
「そうかい? それなら良いんだが……」
「俺ン事は気にしなくていいから、代わりに雅の事を頼む。今の世の中、夜中に変な連中が押し入ってこねぇとも限らねぇからな。何かあったらアイツを守ってやってくれ。もしどうしようも無ぇことが起きたら、道路に向かって左隣の真枝のおっさんを頼れ。おっさんならいざという時に頼りになるからさ」
「承知した。居候させてもらってる身だからね。それくらいの働きはするよ」
「頼む」

 後顧の憂いを絶って玄関に向かう。いや、そこまで気負う程の事でも無いってのは解ってるんだがな。
 ともかくそう伝え、座って靴ヒモを結んでいるとすぐ後ろでドアが開いた。

「あれ、お兄ちゃん出かけるの? こんな時間から?」
「ちょっとな。少し遅くなるかもしれんから先に寝てていいぞ。レイにも頼んどいたから安心して寝とけ」
「何処に行くの? 明日じゃダメ?」
「ダチん家。明日でもいいんかもしれんが、こんままだとちょっち気になり過ぎて夜も眠れなさそうなんでな」
「……ちゃんと帰ってくるよね?」

 不安気な声色に振り返ってみれば、雅は少し青白い顔をしていた。
 ……たぶん、親父とお袋が死んだ日の事を思い出しているんだろう。あの日以来俺が出かけようとすると不安に駆られるようで、時折こうして心配そうに声を掛けてきてくれる。
 不安を押し殺そうとしているのだろう。一々気にしていたら俺が外出できなくなるっていうのが分かっているから、下っ腹に力を込めて不安を乗り越えようとしている。ハーフパンツの裾をギュッと握る手は震えていた。
 だから雅を安心させるように俺は妹の頭をゆっくり撫でた。

「そんな顔すんなって。遅くなるかもしんねーけどちゃんと戻ってくるから。な?」
「うん……そうだよね」
「だから安心して寝てろって。明日の朝飯楽しみにしてっからさ」

 笑ってみせると、雅もまた笑顔を浮かべた。それを見て俺も安心して玄関を開けた。

「んじゃ戸締まり宜しくな」
「うん、お兄ちゃんも気をつけて」

 俺に向かって振られる雅の小さな手に見送られながら俺は家を出て行った。
 目的地はただ一つ――先輩のあのアパートだ。



☆★☆★☆★☆★☆★



 夏といえども夜になればこのところ涼しい。それは結構な頻度で夜半に雨が振ってるからかもしれないし、梅雨も完全に明けきっていないから日中の陽が雲間から顔を出している時間が少ないせいかもしれない。
 夜風が優しく路地を流れていく中、俺は一人先輩のアパートへ向かっていた。
 夜も九時を回っているせいで人気は無い。元々が住宅街で、この辺りの大半の住人はすでに帰宅してまったりと家族団らんの時間を過ごしているはずだ。カーテンの隙間からの光を横目で眺めながら、何となく明るい雰囲気も一緒に漏れてきているような気がして、口元が緩んだ。
 規則正しく並んだ街灯が俺を誘っていく。先輩のアパートまではウチから歩いて三十分ちょい。急いで歩けば三十分を切れるだろう。気は急くが、さすがに走っていくのはしんどい。

「びっくりするだろうな、先輩」

 こんな夜更けに女の家を訪ねるなんて、我ながら迷惑な野郎だよホント。ましてそれが色っぽい話でも何でも無くて、理屈じゃなく胸騒ぎがするからっていうだけなんだからな。
 まあこれで何事も無ければ笑い話で済む話だしな。凛ちゃんの目も恐ろしいが、そこは土下座でもなんでもして許してもらおう。誠心誠意込めて謝れば先輩も凛ちゃんも許してくれる……はずだ。きっと。たぶん。メイビー。

 歩いて行くに連れて、いつか見た景色に変わっていく。
 建物が一軒家からマンションが主になっていって、その高さも少しずつ高くなっていく。一軒家もウチの様な建売じゃなくて、おしゃれで見るからに高級そうな門を携えた、到底俺には一生縁がなさそうな立派なものばかりだ。
 離れたところから見るマンションの、各階に灯った通路灯もありふれた白色灯じゃなくて温かみのある橙色灯や、さながらネオンサインの様に色鮮やかに彩られたマンションの姿もある。そのせいか、代わり映えしない街灯さえもおしゃれに計画された並びの一部のように思えてきてしまう。

「……ホント先輩のイメージはこっち側なんだけどな」

 先輩がぶっ倒れた時も先輩を背負ってこうしてこの道を歩いたが、それももう一ヶ月以上前の話か。だというのに未だにあのボロっちい昭和荘に先輩が住んでいるという事実が馴染まない。

「にゃぁ」

 いや全く、時の流れとは随分早いもんだ。もっとちっさい頃は一日が長くて、早く大人になりたいと思っていた俺は時間の流れの遅さに時々やきもきしたが、高校生にもなるとこんなにも早いもんなのかね?

「にゃあ」

 そうそう、そういえばあの時もこうして猫が鳴いてたっけな。綺麗な白猫で、どこぞのセレブの家で飼われてるんだろうそいつが塀の上を歩きながらトコトコとついて来たっけ。随分と可愛いもんだったな、アイツ。
 って。

「……」
「にゃあ」

 またお前か。
 いつの間にか足元にやってきたいつぞやの白猫は俺の行く先に鎮座すると、鋭い歯を微かに見せながら鳴き声をあげて顔を洗った。その姿は真っ白な毛並みも相まってとても愛らしい。

「……やれやれ」

 構ってほしいのかねぇ。
 しゃがみ込んで「ほれほれ」と手を差し出してみるが、そいつは眠そうにアクビをするとトコトコと歩き始めた。

「……なんだよ」

 冷やかされただけか。ため息を吐いて立ち上がって先輩の家へ再度歩き出す。
 すると白猫は俺の方を振り返ってまた座った。金持ちの家の猫は育ちもいいのか、俺が近づいてくるのを行儀よく座って待っている。
 一足の距離まで近づくと猫はまた立ち上がった。そしてマンションとマンションの間の細い路地の方へと歩き始めて俺の方を振り返る。なんだ? 付いて来いって事か?

「にゃあ……」

 「来ないの?」とでも言いた気なその愛くるしい仕草に、ついつい俺も脚をそちらへ向けたくなる衝動に襲われる。だが可愛いネコさんよ、そっちは俺の目的地とは違うのだよ。
 ゴメンな、と心の中だけで謝って俺は道をまっすぐに進もうとする。猫の前を横切っていくが、その時、足元に微かな抵抗感が。
 見下ろしてみれば白猫が足元までまたやって来て、爪を俺のズボンの裾に引っ掛けていた。そんなにも俺を連れて来たいのかね、チミは。
 だがよ、君が俺を連れて行きたいように俺も行きたい場所があるのだよ。だから今回は諦めておくれ。そしてまた別の人にお願いしてみな。時間に余裕がある人なら、君のその愛くるしい仕草で誘惑すればイチコロだろう。逆に誘拐お持ち帰りされる危険はあるがな。
 しゃがみ込むと、この白猫を傷つけないように前足を出来る限り優しく持ち上げて爪をズボンの生地から剥がす。脇(猫の場合は股と言うべきなのだろうか)の下に手を入れて持ち上げ、向きを俺の方から逆に向けて地面に降ろす。

「ワリィけど俺も急いでんだ。また今度な」

 また出会う機会があればだが。
 内心でそうつぶやくと、今度こそ俺は既に目と鼻の先になっている先輩の家に向かって進み始めた。
 ……のだが。

「やれやれ……こんなにも熱心なレディの誘いを断るなんて、女性の扱いがなってないな。まあ、良質な扱いを童貞君に求めるこちらが愚かなのかもしれないがね」

 そんなため息混じりのハスキー声に脚を止めざるを得なかった。え? 何、今の声? てかなんで俺罵られてんの?
 そこはかとなく精神的ダメージを与えてくる声の主(推定女性)を探して俺は振り向いた。だがそこには今俺が歩いてきた道と、それを照らす街灯が明々として突っ立っているだけだ。人っ子は一人としていないし、ましてやこんな時間である。女性の姿など余計に居るわけもない。

「こらこら、何処を探してるんだね。ここに居るだろう、ここに」

 と、再び声が。視界を真正面から少しずつ下ろしていく。
 そこには先程の白猫が。

「……!?」
「ふむ、そうして驚いてくれるというのは存外に嬉しいものだな。こちらでは色んな人を驚かせる『どっきり』なる番組が流行っているというが、今度私も見てみようかね?」

 猫が……しゃべってる?
 それだけでも十分に驚きなんだが、地面に座る仕草はさっきまでの猫然としたもんじゃなくって、あぐらを掻いて太ももの上に前足の肘(この場合は膝か?)を突いて頬杖してやがる。ため息混じりにしゃべるその様子はさながら何処ぞのおっさんだ。右前足にタバコでも装備すれば完璧だろう。

「……」

 とりあえず無言で猫を持ち上げる。前後をひっくり返したり首元の首輪の辺りを調べたりしてみる。が、何処にもスピーカーらしきものは見つからない。再び正面で向き合って体を障ってみるが、やはりそれらしきものは何処にもなさそうだ。
 となると、本当にこの猫が喋ってることになるんだが。

「……疲れてんのかな、俺」
「至って君は健康だよ。 私が保証しよう。それと、裸でいる私が言うのも何だがその様に女の裸をジロジロと見るもんじゃないよ」
「そりゃすまんな」
「それともアレかな? やはり童貞だから女の体には興味津々なのかな? だとしたら少年の性教育の教材となるのもやぶさかではない。さあどうぞどうぞ、存分に観察するがいい」
「そんな言い方されたら逆に見づらいわ!」

 たとえ猫であってもな!
 ったく、何なんだ、この露出狂の猫は。

「服を着てる猫の方がまだまだ珍しいと思うがね」
「揚げ足取んじゃねえよ。何なんだよお前は」
「ふむ、私が何者か、と問われれば見ての通りの猫であるが」
「猫はしゃべんねーよ。かと言ってスピーカーとかも見たところ着いてねぇし、触った感触でもロボットじゃねーみてぇだし……」
「ほう。案外、君は冷静なのだな。ついさっきのリアクションは面白かったのだが、中々どうして、現実を受け入れるのが早い。それに、物怖じしない性格も素晴らしい。気に入ったよ」
「猫に褒められてもなぁ……」

 しかしまあ、この猫の言う通り「しゃべる猫」の存在をあっさりと受け入れている自分がいる。いや、正確には頭の中はパニック直前ではあったんだが、突っ込みどころが多過ぎて逆に冷静になったというかなんというか。それに、ここんところ、二階から飛び降りる会長だとか化物みたいな女だとか記憶喪失の外国人だとか、おかしな連中と付き合いすぎたからだろうか、受け入れのハードルが随分と低くなってるような気がする。
 いきなり消えたゴンザレスと比べれば、しゃべる猫くらい居てもいいかもしれないと思えてしまう今日この頃です。

「……やっぱり精神的に疲れてんのかな、俺」
「肉体的にはともかくさすがの私でも君の精神性までは診断できないが、君のコロコロ変わる百面相から察するに君の精神が少々擦り減ってるのは否めないな」
「今まさに俺の精神を現在進行形でカンナで削っているお前に言われたきゃねぇよ」
「そんなどうでもいい話はさておいて、そろそろ本題に入りたいんだが」

 ……俺にとっては割りと深刻な問題だと思うんだが。

「君には少々付き合ってみてもらいたい場所があってね」
「あ? ああ、何かどっかに連れて行きたそうに猫の振りしてたな」
「生物学的には今の私は正真正銘可愛い可愛いネコなんだがね。その話は脇においておこう。どうだろうか、少し私の後についてきて貰えないだろうか?」
「あー……今じゃねぇとダメか? ちょっち急いでんだが」

 ただでさえ遅い時間だっていうのに、急がねえと寝ちまってますます先輩とコンタクト取れなくなっちまう。まあ、別に会えなくても先輩が平穏無事に寝てるって確認できれば構わねぇけど。

「愛しい恋人に夜這いをかけに行きたいという欲求を満たしたいのは理解できるがね」
「イヤラシイ言い方してんじゃねぇよ。別にそんなんじゃねぇ」
「思春期故に棒を穴に出し入れするのを我慢するのは難しいとは思うが、あんまりがっつく男は嫌われるぞ?」
「話聞けよ」
「ちょっと焦らすくらいが男女の中はちょうどいいからね。そういう訳だからちょっとばかし私の手伝いをしてくれ。なに、手伝いとは言ってもホンの少しで終わる。時間は取らせないよ」

 俺の話なんぞ全く聞く価値が無いかの様に勝手に話を進める猫。どうあがいても素直に俺を行かせてくれるつもりはないらしい。
 仕方ねぇ。こんなくだらん問答で時間を潰すのも惜しい。さっさとご要望にお応えして解放してもらうか。

「はぁ、面倒くせぇなぁ……
 で、俺は何をすりゃいいんだ?」
「うん、やはり若人は素直が一番だ。それじゃ行こうか」

 うんうんとオッサンっぽく頷くと白猫は細い路地へと入っていった。俺もまたその後ろを溜息を吐いて頭を掻きながら付いて行く。
 路地の中は街灯の光も届きづらいようで、足元は真っ暗だった。所々に空き缶や、カラスが運んできたりでもしたのか弁当のトレーが転がっていて、高級住宅街に似つかわしくない。なんだか、恵まれた生活の影の部分を見た気分だ。
 それを見ていると何となくこっちまで陰鬱な気分に引きこまれてしまいそうで、それを紛らわせるように前を歩く白猫に声を掛けた。

「なあ、まだか?」
「せっかちだね、君は。そんな事じゃ……っと、ほら着いた。すぐだったろ?」
「待て。今、何を言いかけた?」

 俺の声を無視して猫は二足歩行へと移行すると、自慢気に胸を張った。そこはそんな威張るとこじゃねえから。それに――

「何も無ぇじゃねぇか」

 立ち止まった先は行き止まり。塀らしきものがあるだけで、その上からは植え込みのような黒い影が覗いているからたぶん誰かの敷地なんだろう。
 下の方に眼を向けてみても、暗いからよく見えないが特に何かがあるわけでもなさそうだ。こんなとこで一体何をしろって……

「そうかな? よく見てご覧よ。何か見えないかい?」
「あ? よく見ろって言われても何処をだよ?」
「ほらほら、もっと近づいて。地面と塀の境目の辺りに目を凝らしてみなよ」
「んー?」

 言われた通りもっと近づいて、しゃがみ込んで眼を皿のようにして見てみる。何度言われてもやっぱり何も無いじゃねえか。

「――、――、――■■―■―、■―■■―……」

 猫に文句を言おうと思ったその時、不思議な言葉が聞こえてきた。
 聞いたことのない言葉。俺が知る限り発音も単語も何処の国のものでもない。歌の様にも聞こえ、言葉の羅列には違いないのだがそれが意味有る音の繋がりとして理解できなかった。
 そしてその音の主は、俺の後ろで眼を閉じた猫だった。

「何を――」

 俺が言葉を発した直後、右足首に鋭い痛みが走った。極太の針を突き刺されたかというくらいに痛烈に脚が痛み、思わず悲鳴を上げた。
 同時、猛烈な風が吹き荒れた。突風が俺を後ろに押し倒そうとしてくる。左足で何とか踏ん張って、だが片足じゃ踏ん張りきれずに右足も使うハメになって、その痛みに喉の奥から声にならない悲鳴が零れ落ちそうになる。
 振り返る。そこに何があるのか。この突風を引き起こす何かがそこにはあり、しかし確かめるのが怖い。だがそれを検めなければならない。相反する感情がせめぎ合い、後者が果たして勝った。
 そして俺は息を飲んだ。
 塀が、壁があったはずの路地の袋小路はどこにも無くて、そこには、ただそこには――

 ――真っ黒な孔が世界を侵食していた。


「思った通りだったよ。それじゃ、行こうか」
「ど、こへ……」
「決まってるじゃないか」

 彼女は口端をあげて笑った。猫だというのに、その笑顔は悪い意味でひどく人間じみていて――

「君の知らない世界にだよ」

 そう言うと猫は俺を押し倒すように、だというのに軽やかに俺の額に飛び乗って、孔の中へと消えていく。
 そして俺もまた、頭を下にして真っ逆さまに孔の中へ消えていった。

「雅……咲……センパイ……っ!!」

 手を伸ばせど世界は遠く、声は届かない。
 孔は閉じ、俺の体と意識は暗闇の中に溶け込んでいった。













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